看取り介護の方法や考え方については、このブログで何度か書いてきた。

4月からの加算が算定されたことに係わらず、それ以前から施設ではターミナルケアに数多く取り組んできた。

それが4月以降、報酬上の評価もされることとなって、算定のルールにあわせた「看取り介護の実践」という形に変わったに過ぎない。

ここで問題となるのは、看取り介護の計画に対する同意である。4月以降、当施設では、この対象ケースが3例あったが、いずれも同意者は本人ではなく、家族である。

おそらく全国の多くの施設で行われている看取り介護の、ほとんどの同意者が僕の施設と同様に家族であろう。

そうすると、いずれこのことに異議を唱える声が挙がってくる。異議というより、非難としての声を挙げてくる関係者も出てくるだろう。

つまり、看取りの対象者は意思表示や自己決定が困難な認知の悪化した方だけでなく、意思をしっかり表明できる高齢者も対象に数多く含まれているはずで、本人が終末期にどこで過ごすのか、ということに対して、本人の意向が反映されないで、家族だけが決めているのは不適切だ。本来、死に行く場所や、死に行くときに受ける介護や看護の方法は本人だけが選択できるものだ、という非難である。

予言しておく。必ず、そういう声が出る。

それに対し、現場の我々はどう答えるのか?

意思の表明ができなくなった状態でも、その方が日頃から希望していた終末の希望は充分理解できており、その希望に最大限沿った形で家族と話し合って選択していただいている、認知症の方も、その方の代弁者として、自己決定は困難でも日頃から希望を把握してその意向に沿う形で実践している、ということになるだろうか。

しかし僕は、それ以前に、本人から看取り介護の同意をとる、ということ自体、疑問視している。いやむしろ、否定的だ。

この場所で、馴染みの職員に最後まで介護を受けて、最期を看取ってもらいたいという希望を確認しておくことは大事だし、我々は、常日頃、そういう意識への配慮を行っていなければならない。

しかし、この施設で看取ってもらいたい、という方に対し、「いよいよ貴方の命は医学的見地から判断して、終末に近づいています。ですから、これこれの方法で看取りの介護を実践します。心をこめて安らかな死を迎えられるよう援助します。」と説明したとき、その方は自分の死期が近いということが、ショックなく受け入れられるであろうか?

これは、死の告知、そのものではないか?

将来的に施設で終末期を過ごしたい、ということと、今まさに終末期であることを告げて受け入れることは、まったく異なるのだ。実際はそういう告知を経ずに終末に臨んだほうが幸せであるというケースが多いと思う。

ある癌専門医の方とお話したとき、心に残っている言葉がある。「告知をすることが良いか悪いか、僕には結論が出せない。告知することで問題になることもあるし、告知しないことで問題となることもある。患者さん、本人が希望している方法で、希望するとおり告知を行っても、それは同じだよ」

またある医師は「現実的にがん患者さんに末期のがんですなどと決して言うことはできない。患者さんが可哀想だ」という。

思い出したのは、吉村 昭氏が、自分の最愛の弟を末期がんで看取る際に、最期まで告知を希望する弟に「治る」と嘘を貫き通した読売文学賞受賞の名作ノンフィクション「冷たい夏、熱い夏」である。

欧米では癌の告知により残された時間を有効に使うという考えがあり、それに賛同する意見もわが国においても多くなっている。しかし、自ら告知を希望する本人が実際に癌に侵されたとき、告知されたことで精神的ショックを受けないとは限らない。

吉村氏は、このことを「日本人と欧米人では死と生に対する観念が異なる」として様々な例を挙げている。そして死病であることを伝えれば「患者は激しい精神的衝撃を受ける」「それよりあくまでも隠し通して死を迎えさせるほうが好ましいのではないか」「それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ」「弟もやがてはそれが死に繋がる病だとわかるときが来るはずだが、嘘をつき通すことで、心のどこかで、まだ助かるという気持ちをもてる」としている。

癌の告知などは、どちらが良いか答を出せるものではないが、少なくとも看取り介護に、本人への死の宣告が必要だとは思えない。僕は家族同意という方法で行うこと以外、現時点では考えられない。

(参考)

看取り指針を作りながら考えたこと

看取り介護計画作成と同意。」

看取り介護計画作成の視点

介護・福祉情報掲示板(表板)