今年の北海道はこの時期になってもまだ寒い。朝晩などは未だにストーブが必要な日もある。
6月にこんなに気温が上がらない年も珍しいように思う。

昨週は雨の日が多く、すっかり北海道の夏のイベントとして根付いた「よさこいソーラン祭り」も雨にたたられる日が多かった。最終日は何とか雨が降らず良かった。大変すばらしいイベントであるが、各テレビ局どこも「よさこいソーラン」一色の週末で、うんざりしたのは僕だけであろうか。

さて、気のめいるニュースが多い昨今であるが、最近また、介護問題に絡んだ事件が目に付いている。

昨日も、大阪で81歳の夫が、77歳の妻を「看病に疲れ後で自分も死のうと思った」として絞殺する事件が起こっている。

肺気腫などの持病で酸素ボンベが離せない81歳の夫が、10年以上、人工透析を続ける寝たきりの妻の介護に疲れ果てての結果である。

いかなる理由であっても人を殺めることは認められないが、犯罪者となったこの夫一人の問題とするのはあまりに酷な状況であろう。

老老介護の問題、介護の長期化の問題、核家族化による介護問題、思えば介護保険創設時に、介護を個人でなく社会全体で担う、という仕組みの構築の為の理由として指摘された問題がすべて含まれている。

介護保険制度が創出されても、介護の現場にその制度の光が届いていないという現実がまだ数多くあるのだ。

いや介護保険制度ですべての介護問題を解決できるということ自体が幻想だ。制度は、高齢者一般とか、障害者一般とか、不特定多数の最大公約数に対して手当しているもので、社会の隅々に横たわる個々の問題については制度だけでは手当できない。

すべての人に光を当てる制度など、この世に存在しないのだ。

しかしそれらをできるだけ多くの対象者の支援につなげたり、影の部分を減らし、光が届く範囲を広げるためには、ソーシャルケースワークをはじめとした、援助者の活動が不可欠だ。何も社会福祉の専門家の活動だけでなく、地域の人間関係がこの役割を担う場合も多く、過去の日本はこの機能を各地域でたくさん持っていた。

ところが地域社会が変容し人間関係が希薄となりつつある社会が、影の部分に光を当てることができず放置する社会を作っている。

読売新聞社が実施した全国世論調査(面接方式)では、社会の人付き合いや人間関係が希薄になっていると思う人は、2000年7月の前回調査よりも7ポイント増え、80%に達しているそうである。それも希薄になっていると思う人は、大都市よりも、中小都市や町村で急激に増えており、人とのつながりの喪失感が大都市部だけでなく、全国的に広がっていることが浮き彫りとなったとされている。

この結果が地域社会の実情を表している。

また厚生労働省の調査では、高齢者などの介護をしている家族の4人に1人が軽度以上のうつ状態にあることがわかっている。介護者が65歳以上の「老老介護」では、介護者の3割以上が「死にたいと思うことがある」と回答、体の不調を感じている人も5−6割に上り、介護負担の心身への影響の大きさがあらためて裏付けられている。

つまり介護問題から生ずる事件は、人事ではなく、自分がその立場に置かれたとき「どうするのか」という深刻な問題なのである。

そのとき、身近な地域社会に相談できる人や資源があることが重要だ。

しかし在宅介護支援センターがなくなって、地域包括支援センターが、地域での介護問題を「発見できる」システムを持っているのかを考えたとき、現状の地域支援事業と予防プランで手一杯の現状では、そのことは期待薄である。

地域社会が変容し、地域での人間関係が希薄になっている今こそ、地域で支援する行政システムの役割はより重要である。それは行政が何かをする、という意味のみにとどまらず、行政が中心になって支えあう地域社会を再構築するためにも重要な役割があるのだと思う。

しかし現実には、その機能はますます軽視されていく。人を思いやることを大事にしない政策が地域社会を崩壊させていくことを座視していてはいけない。

介護・福祉情報掲示板(表板)