昨日のブログを読んでいただいた方がコメントをつけてくれている。その中に

「利用者の喜びと企画する職員の考え(喜び?)の差に少々悩んでおります。」という言葉がある。

これは非常に重要な視点だ。我々も時として、利用者の為の行事なのか、職員の自己満足の為なのか、深く考えずに習慣や惰性で行っている行事がある。今日はこのことを考えてみたい。

そもそも施設に行事が必要なのか。

その規模は別にして、僕はそれはあっても良いと思う。個別ケアが大事だから集団的なイベントがまったく必要でない、ということにはならない。人の生活には「日常」から少し離れたところにある「非日常」的なシーンが時には必要で、それが生活に潤いを与えるということにもなるのだ。

人はパンのみで生きているにあらず。 楽しみごとが過去の生活習慣や、その国や地域の風習と絡んで考えられていくことは決して無駄なことではない。

ただそういう行事を行っておれば、何か良いサービスをしていると勘違いしたり、生活ケアと関連しない部分で行事が考えられてしまうことが問題なのだし、行事にする必要がないサービスを、特別なこととして行事化してしまうことが、生活者としての利用者の視点から離れたものになってしまう。

一人ひとりの利用者にどのような意味があるのかという視点が必要だ。

例えば誕生会などは、つい数年前まで施設が行うべき絶対なければならない行事であった。それも1月の誕生者をある特定の日にまとめて祝うもので、アトラクションを見ながら、ご馳走を食べる、ということが何の疑問もなく繰り返し行われていた。

しかしこれで本当に利用者は喜んでいるのだろうかという疑問。誕生祝は誕生日に行うのが普通だろうという考え。アトラクションを見ることが好きではない人もいるだろうという考え。

こうしたものから誕生日に個別の方法でお祝いする、という形に変わっていった。

今では全体的に祝う誕生会なるものの方が奇異に感ずる職員が多いだろう。

まつり、も然り。行事が大掛かりになればなるほど、企画した職員や手伝っているボランティアは充実感を感ずるが、そこで主役であるはずの利用者がどう感じているか、ということが大事なのだ。

我々の施設でも年に一度「緑風園まつり」を行って、家族やボランティアが毎年100人を超える人数訪れ、大きなイベントとなっていた。しかしそこである時期、おかしな現象が起こった。主役であるはずの利用者が会場に数人しか残っておらず、アトラクションが続けられているような現象だ。

これでは何の為のイベントか疑問になってしまう。すぐにプログラムや実施方法を変える検討がされるのが筋だし、そういうイベント自体の必要性も問われるだろう。

また行事はあくまで生活援助の延長線上にあるもので、50人とか100人とかを対象にしたものには、必ず、そこにマッチしない対象がでる。そのとき、それらの方々に必要な支援が行われているか、生活の継続性が保障されているのか、ということが基本になければ意味がない。

時として行事に積極的に参加しない対象者を問題視するような傾向もある。こんなことは問題ではない、むしろ問題視する考え方が問題処遇だ。あう、合わないは誰にでもあるし、個人の好みやニーズは多様なので、いかにその方にあったサービス、生活作りを援助できるかが大事なので、イベントの成功、不成功なんて二の次、三の次でよい。

職員の満足感でそれらを判断してはならない。すべての事柄が、生活援助の延長線上にあることを忘れてはならないし、その方にとって生活の中でいかに「生きている喜び、充実感」が感じられる生活であるのかが問題で、行事なんていうのは、以下に大掛かりに行おうが、行うまいが、それは単なるツールに過ぎない。

ツールのために肝心の生活が振り回されてはならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)