やっと桜が咲いて、しかも良い天気だ。今日は昼から桜を見るためドライブに出かける人も多い。楽しんできてもらいたい。

それから今日は、4名の方が居酒屋に出かけるそうである。もちろん夜である。

つい最近まで、居酒屋に行きたいという希望があれば、どうせなら皆に居酒屋気分を味わっていただこうと、焼き鳥などを施設で作って、園内を居酒屋風に飾りつけた行事を行ったものだ。

しかしやはりそれは居酒屋に行きたいという希望に応えたこととは違って、単に、施設側が利用者の希望に最大限応えたという自己満足を味わうものでしかなかったかもしれない。

居酒屋風行事を行っていても、たまには昔のように外出して居酒屋で焼き鳥を食べたい、という希望に応えることにはなっていないのである。しかもそれは場合によっては、外に出て、ということを内部のイベントに置き換えることによって「施設に居れば、居酒屋に行くなんていうことはことは無理だ」というあきらめ感を利用者に与えてしまっていたことなのかもしれない。

ただ夕食時の外出だから、付き添う職員の問題がある。施設の中も人手が余っているわけではないので、なかなかいつも希望には応えられないのが現実だ。

今回、この問題は、ケアワーカーがボランティアで対応したい(勤務外の職員)との提案があった。

僕はこの考えに関しては、すこし疑念をもって、発案の段階では否定的な意見を出した。ボランティアといっても、それはどこかで強制的要素が生じかねないし、結局、義務的なものになってしまわないか?そういう状況では、今後、同じ希望がでてきても続けられないだろうし、業務の範疇でできないことは、無理ではないかと思った。

しかし他の行事で学生や婦人団体にボランティア依頼をすることも多く、その際に、たくさんの地域住民が施設の手伝いを無償でしてくれる。自分たちもそれらの方々と同様に業務以外で施設の手伝いをするのは何が悪いのか、と言われた。

ギャフン!!返す言葉がない。

つまり、これは、誰から命じられたわけではない職員の意識や思いから生まれたサービスの方法であるということが背景にあるのだ。

普段、利用者と職員の日常会話の中で、「今度一緒に飲みに行きましょう」という社交辞令的会話の中で、本当に行きたい場所に自由に行くことができる職員等に対し「うらやましいね。」という利用者の気持ちが察せられ、何とかその気持ちに応えられないかという現場の職員の思いが「何をどうすればできるか」 という考えに繋がって、その方法が思いつかれた、という結果である。

当施設はユニットケアの施設ではないが、その体制にできるだけ近づけるように施設内を4つのグループに分け、固定的に職員を配置させケアサービスを展開している。勤務時間も各グループで違うし、サービスの方法にも、ケアワーカーの主体性をある程度も持たせ、日課活動なども、それぞれのグループで決定している。

そういう現場の介護職員の自主性から、様々なアイディアが生まれてくる。

それがすべて適切なものとは限らないし、施設長やその他の管理職、ソーシャルワーカーなどがある程度コントロールすることも大事だ。

しかし、それらのアイディアに含まれる職員の思いを感じ取って現場のモチベーションを維持することも、高品質なケアサービスの展開には必要な要素だ思い、できるだけ現場職員と話し合いながら様々な可能性を模索している。

思えば僕が当初考えた「今後、同じ希望がでてきても続けられないだろうし」 というのはネガティブな考えをまず前面に出し、できることより、できないことから考えてしまう、という最も悪い考え方であったと思う。

まずできることはやってみる。次できなければ、別な方法を考える。できることを少しずつ増やす。これが大事で、こういう場合はできないから、今回もしない、というのは平等の思想ではなく悪平等の思想であった。反省している。

このように現場の職員から学ばされるものも多い。

介護・福祉情報掲示板(表板)