昨日は地区の社会福祉士会・ソーシャルワーカー協会合同の研修に参加してきた。

講演が、北星大学名誉教授の忍先生であったので楽しみにして出かけた。

というのも忍先生は僕が現役の大学生時代の母校の教授で、障害者福祉論初めいくつかの講義を受けていたからだ。

しかし当時、あまりまじめでない学生であった僕は、その講義内容はあまり覚えていない。むしろ社会人になってから同教授の著書を読んだ記録のほうが鮮明だ。だから、学生時代の反省を含めて一生懸命耳を傾けようと思った。

しかしそんな努力をしなくとも、2時間じっくり聞ける良い講演であった。

テーマは「社会福祉改革をどう理解するか」とおうもので介護保険法、診療報酬改定や障害者自立支援法の成立等に関わる一連の改革の考え方について総合的に検証する内容であった。

いくつか印象に残った内容はあるが、特にこの場所で皆さんに伝えておきたいことは「自立支援」の考え方である。自立する、という言葉をどのように捉えるかという問題だ。
(これは同教授の講演内容を僕がこのように理解したというもので、講演の中の言葉そのものでないことを、まず申し添えておく)

自立するという名のものに、しばしば利用者はサービス事業者の決定を含めてケアマネから丸投げされて自己決定をしなければならないが、それは簡単なことではない。情報や知識は圧倒的に専門家より少ないのだから「頼りたい」利用者はたくさんいるのだ。自立とはそう簡単なことではない、ということが一つ。

それからもう一つ重要な点は、自立とは何か、ということである。

忍先生が講演の中で紹介された、ある障害者の方の言葉の中に「私は一人では着替えも出来ないし、排泄も食事も出来ない、すべて人の手を借りないと生活できないが、それでも自立している。なぜなら、10分間人の手を借りれば着替えが出来、20分人の手を借りれば食事が出来る。人の手を借りなくて良い時間は自分でパソコンを使って執筆活動が出来る。だから自立している」というような意味の言葉だ。

これは重要なことだと思う。

自立とは生活作りなのだ。機能維持や機能改善だけではないのである。

機能改善や筋力アップを重視する「自立」の考え方では生活の質は良くならない。むしろ体力測定で成果がない対象者を「問題あり」としてしまう恐れさえある。

これは間違っている。どういう生活が出来るか、そのためには何が必要かということが自立の視点ではないか。

しかし今、国が示しているグランドデザインは、新予防給付の考え方に顕著に現れているように、医療の方法論としてのリハビリテーションが全面で出されたものだ。

これでは暮らしは良くならないだろう。

筋トレの効果など一時的なもので、いずれ加齢に伴う体力低下や身体機能の衰えという諸問題と人は向き合わねばならないのだ。

そのとき、今の自立支援の考え方では、高齢者や障害者のモチベーションには繋がらないし、むしろ効果が期待できないというカテゴリーを分別することは「内なる差別」を社会全体に生み出す負の遺産を作ってしまうことになるだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)