介護保険制度以後と以前では、特養の記録、書式の数と量は大幅に違っている。

もちろん、介護保険以後に大幅に増えている。

特に、何につけても同意書が必要になって、一人の利用者に対し同意書だけで多種類の数が必要になっている。契約ということもあるし、時代の流れに応じて必要になってきたものもある。

こんなものまで必要なの?と思える書式もあるが、ないと「監査」で指摘されるという恐怖?が「とりあえず」書類は作っておきましょう、という考えを生む。必要な書式の精査と、でき得る書式統一は大きな課題だ。

いらない書式もたくさんあるが、ひとつだけケアプラン作成とそれを導き出す各種ツールの活用が介護施設にごく当たり前に行われるようになったことは良いことだと思っている。

我々がこの世界に入った当時は、人間の生活にプランなんか立てられるか、という意見も多く、個別処遇計画(当時はそういう言い方をしていた)に対する否定的意見も多かったし、計画なんてない実践が正しいと思われていた。

いわば職人技の世界である。

また、実地指導で個別計画を見られていたが、それを導き出す手法が確立されていなかったので、計画は担当者の主観で左右され、内容も具体性に欠けるものが多かった。

しかしアセスメントの手法の確立が、個人の抱える生活課題を導き出し、そこに対応する方法が論理的に導き出される過程で、各職種が何を共有課題とし、それに対してどのような観点から具体的方法を導き出すかという道筋を理解できるようになった。

つまりアセスメントツールを通じて立てられるケアプランが多職種の共通言語という役割を果たしているのである。

ただそれはケアプランがないから良いサービスが出来ないというものではなく、逆にまず実践が先にあって、その方法を文章化するということもありうるわけだが、その文章化の過程で、自分がなんとなくわかっていたつもりのものがそうでなかったり、ぼんやりと課題として見えていたものを、はっきり意識したり、人に説明する過程で明らかになるものがあるわけである。

そうすることで、今行っているケアサービスが本当に利用者にマッチしているのか、という検証を自然に行うことになっているのが、ケアカンファレンスの役割だろう。

つまり人の暮らしを計画の中ですべて完結させることは出来ないし、プランで生活は作れない。それは不適切だが、人の暮らしを援助する我々のサービス内容や、人としての関わる視点を文章化して表すことで、多職種の共通理解が生まれ、サービスが検証でき、高品質なサービスを提供する視点の形成ができる、というのがケアプランの意味である。

つまりケアプランに載らないサービスが出来ないという意味ではまったくないものであり、今行っているサービスの意味を、ケアプランというものの中で考えるというものである。

ケアプランがあるから人の生活がそれに左右されるという意味ではなく、人の暮らしの質を高めるためにツールのひとつにケアプランがある、ということだろう。

だからこれは本来、プラン(計画)ではなく、ツール(道具)に過ぎない。もちろん我々ケアサービスに関わる職員側のツールである。

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