今日は朝からホーム内がにぎやかだ。

人の出入りが多いのだ。その理由は真新しいランドセルを背負った新1年生を同伴しての家族の訪れが多いからだ。そうか今日は入学式なんだ。

正直、自分が小学校に入学した当時のことは、まったく記憶がないが、小学校自体の思い出は数多くある。年を重ねるごとに、大学の頃でも、高校の頃でもなく、小学校や中学校の頃のことが懐かしく思い出すことが多くなったようだ。

お年寄りの方々も同じだろう。時には、そういう懐かしい話を和気藹々と語り合うことも楽しい。

ということで、今日は、入学とか小学校とかのことを思い出してもらうような話題を中心に、午後から回想法を行おうと思っている。

回想法とは言っても、私が行う回想法は、医療現場で行うライフレビューを中心とした療法としての回想法ではなく、あくまで「お茶のみの話題」「レクリエーションの一環」としての回想法である。

懐かしい風習や道具のビデオを見ることを中心に話題を盛り上げる、という方法に過ぎない。

ここには認知症の方々も数多く参加する。

それらの方々に何か「効果」があるかどうかは定かでないし、それを検証しようとも思わない。ただしそれらの方々が、そこで何を感じているのかは常に意識している。

普段表情の乏しい方が、ビデオ画面を食い入るように見つめて、大きな声で画面の出演者に話しかけたり、声を上げて笑ったり、僕の問いかけに、あちらこちらから説明する声が上がったり、それだけで充分目的が達せられていると思っている。

何の目的?楽しく生きるってことで、それに係っていろいろな選択肢があるっていうことだ。

数年前、表の掲示板でも回想法の話題を取り上げたが、そのとき、越後のOさん(理学療法士で、某特養の施設長)からいただいた言葉や考え方が、今でも僕にとってのナビゲーターの役割を果たしている。

その一部は

『○○療法の実施時間や実施時期が終れば、またベッドやテーブルにぽつねんと過ごす時間が待っているのでしょうか?
 それならば○○療法なんてしなくても、日頃の当たり前の生活援助場面で、豊かな会話や交流のあった方がずっと良いですよね?「○○療法を実施する時間を確保するために、生活援助がおろそかになる」そんなことだけはさけたいものです。』

という言葉である。ズシリと重たい言葉だ。忘れてはいけない。

回想法だって、何かを良くする以前に「心が動けば体も動く」と同じ視点が重要で、心が動かない強制的なものであったり、何かを思い出すのに「知恵を絞って考え込む」ことであってもいけない「心が動けば頭もまわる」なのである。

療法あって生活なし。そんな状況を作らないのが我々の責任だ。

介護・福祉情報掲示板(表板)