先日「介護サービスの「割れ窓理論」再び」と「家族の面会を断る施設

という二つのブログでふれた札幌市手稲区のグループホームの指定が今月いっぱいで取り消される。

グループホームの指定取り消しは、道内では初めてだろうから大きなニュースとして取り上げられている。

新聞では、グループホームの密室性に触れて「氷山の一角」というコメントを載せているものもある。

まじめにグループホームの運営にあたっている多くの心ある関係者の方々には、まったく心外なことであろう。

我々の施設も決して人事として考えず、言葉も含めて虐待と疑われるような対応はないか、常に心して介護に取り組んでいかねばならない。

さて、指定を取り消されるホームの虐待の具体的状況の中で、廊下に座らせて動くことをできないようにするなど「利用者の意思に反した行動制限」が問題として取り上げられている。

このホームの行っている状態はコメントもする気にもならないひどいものだと思うが、「利用者の意思に反した行動制限」という部分では、我々はもっと深く考えなければならないことがあるように思う。

我々の施設でもケアのユニット化に取り組んでいるが、既存施設のネックはハード面といわれ、どうしてもケアの導線が長いし、目の届かない範囲が広く存在するため、なかなか個人に職員が適切に「寄り添う」ということが難しい面がある。

グループホームや新型特養は、この点はハード面が「十分仕事をする」つくりとなっている。

しかし「寄り添わないケアの大事さ」の中でも書いたが、人間関係はあまりに濃密になりすぎると息が詰まることがあり、一人になる時間や場所が絶対に必要だ。寄り添い方も、寄り添っていることを気付かないように見守ることも大事なのだ。

ところが導線を極端に短くしたスペースでケアサービスを完結させてしまうと、その導線からはずれる利用者の行動を「問題行動」あるいは「落ち着きがない」と捉えてしまう向きがある。

それは違うだろう。それはケアサービスの提供側の都合にしかすぎないことを忘れてはならない。

座ったきり老人を作り出すケアではないのだ。共用スペースに静かに座っている高齢者に対しても、それが「利用者の意思に反した行動制限」ではないか、という意識を常に持って介護サービスの提供に当たる責任が我々にはある。

ユニットケアの中で、共用スペースに常時いないと「ひきこもり」と判断されたのではかなわないのだ。ひとりひとりの生活の個別化ができてこそのユニットケアではないか。

それと導線を短くすることで、職員の動きの流れが止まる、という現象もしばしば起こる。認知症の方の行動はパターン化できるものではないので、自然な流れと動きというのは必要なことが多いのだ。

導線の短さが職員の動きを止めるとは、気の配り方も滞るという意味だ。これが一番危険なケアスタイルを生み出す。我々はそのことにもきちんと配慮して、日頃のセルフチェックに努めなければならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)