毎日ブログを書くのは大変でしょう、と言われることがある。
それは一面ではあたっているが、一面ではそうでもない。
つまり毎日でも書くことは数限りなくあるし、それをブログに綴る作業もそう大変とは感じない。それに何も毎日書くことが強制されているわけではないので、書かないという選択も出来るのだ。
そういう意味では、ブログを書き続けること自体は、そう難しいものではない。
ただ昨年11月から開始した、このブログに限っては、少々難しい問題があるな、と最近感じることがある。
それは、このブログのタイトルとキャッチフレーズに由来しての問題だ。
「masaの介護・福祉情報裏板」と称して、表の掲示板とは違った切り口で、福祉や介護への思いを綴る、というコンセプトを掲げてしまったため、自ずとその話題は福祉とか介護とかに関連性のあるものにせざるを得ないというふうに限定的に考えてしまうからである。
それは誰からも強制されたものではないが 、最近のように毎日500を超えるアクセスがあり、貴重なコメントも寄せられると、きっと読者の皆さんの期待も、単に僕の身の回りの出来事だとか、趣味の範囲だとか、漠然とした日々の思いにというものに興味が向けられているんではなく、裏板として、何らかの形で、福祉介護の話題につながっていることを期待されているんだろうな、と思うからである。
時には通勤途中で鹿を轢きそうになって雄鹿に睨まれたと思ったら、その背後の林に、数頭の鹿が群れをなして僕を睨んでいた、という当地のいかにも自然あふれた田舎の話題を書こうかな、とも思うが、そんなものに興味を持つ人もいないんだろうな、とも考えてしまうわけである。
だから何とか福祉や介護の話題に結びつく内容を書くことに心がけている。
しかし今日までほとんど休みなく、3月以上書き続けていると、ネタもそう簡単にはあるわけでなく、福祉介護に結びつく話題を搾り出そうと苦労することもある。
そういう日のブログの出来は悪い。
文章の流れもお粗末だし、内容も自分で読んでも、面白くも、おかしくもない。
このブログは下書きして書いているわけではなく、原稿も何もないままに思いつくままに書いている。つまりキーボードに打ち付けた文字がそのままネット上に反映されるので、そのときの心境がそのまま文章になって現れてしまうのだ。
逆に、搾り出した話題でなく、書きたいと思っているときの文章は自然で我ながら軽妙と感ずることもある。
密かに自分自身の文章を見て「さすが文学部出身だけのことはある」と自画自賛することもあるのだ。エヘン・えへん!!
今日はどちらの日かというと、こういう話題を書いているのだから、ちょっと苦しい日である。というより福祉や介護の話題に触れるような心境にもならない憂鬱な日なのである。
昨日のブログでも触れたが、道民の期待の駒大苫小牧高校の春の選抜高校野球への出場辞退が心に重くのしかかっているからだ。
僕の長男も高校球児で、おまけに地区予選まで同高と同じブロックなので、彼らの試合は良く見ているし親しみもある。
それが卒業式を終え引退した3年生部員の飲酒と喫煙で、彼らとは今現在は何も関係ない日夜練習に打ち込んでいた1、2年生部員も責任を取らされた形だ。
人間教育に問題があったというのであれば、それは生徒ではなく教育者の問題だろう。
校長が辞め、部長も辞め、不世出の名監督といわれた同校監督も責任を取って辞めた。
責任の取り方としては、それで十分ではないか。なぜ下級生部員にも連帯責任を負わせなければならないのか。まったく納得できない。道民や我々の期待なんてどうでも良いが、泣き崩れる選手たちを静視できない。
これが高校教育のあり方か!!
日本高野連よ、連帯責任で何を教育しようとしているのだ。こんなことが人間教育になるのか。高野連よ答えてくれ。
介護・福祉情報掲示板(表板)
それは一面ではあたっているが、一面ではそうでもない。
つまり毎日でも書くことは数限りなくあるし、それをブログに綴る作業もそう大変とは感じない。それに何も毎日書くことが強制されているわけではないので、書かないという選択も出来るのだ。
そういう意味では、ブログを書き続けること自体は、そう難しいものではない。
ただ昨年11月から開始した、このブログに限っては、少々難しい問題があるな、と最近感じることがある。
それは、このブログのタイトルとキャッチフレーズに由来しての問題だ。
「masaの介護・福祉情報裏板」と称して、表の掲示板とは違った切り口で、福祉や介護への思いを綴る、というコンセプトを掲げてしまったため、自ずとその話題は福祉とか介護とかに関連性のあるものにせざるを得ないというふうに限定的に考えてしまうからである。
それは誰からも強制されたものではないが 、最近のように毎日500を超えるアクセスがあり、貴重なコメントも寄せられると、きっと読者の皆さんの期待も、単に僕の身の回りの出来事だとか、趣味の範囲だとか、漠然とした日々の思いにというものに興味が向けられているんではなく、裏板として、何らかの形で、福祉介護の話題につながっていることを期待されているんだろうな、と思うからである。
時には通勤途中で鹿を轢きそうになって雄鹿に睨まれたと思ったら、その背後の林に、数頭の鹿が群れをなして僕を睨んでいた、という当地のいかにも自然あふれた田舎の話題を書こうかな、とも思うが、そんなものに興味を持つ人もいないんだろうな、とも考えてしまうわけである。
だから何とか福祉や介護の話題に結びつく内容を書くことに心がけている。
しかし今日までほとんど休みなく、3月以上書き続けていると、ネタもそう簡単にはあるわけでなく、福祉介護に結びつく話題を搾り出そうと苦労することもある。
そういう日のブログの出来は悪い。
文章の流れもお粗末だし、内容も自分で読んでも、面白くも、おかしくもない。
このブログは下書きして書いているわけではなく、原稿も何もないままに思いつくままに書いている。つまりキーボードに打ち付けた文字がそのままネット上に反映されるので、そのときの心境がそのまま文章になって現れてしまうのだ。
逆に、搾り出した話題でなく、書きたいと思っているときの文章は自然で我ながら軽妙と感ずることもある。
密かに自分自身の文章を見て「さすが文学部出身だけのことはある」と自画自賛することもあるのだ。エヘン・えへん!!
今日はどちらの日かというと、こういう話題を書いているのだから、ちょっと苦しい日である。というより福祉や介護の話題に触れるような心境にもならない憂鬱な日なのである。
昨日のブログでも触れたが、道民の期待の駒大苫小牧高校の春の選抜高校野球への出場辞退が心に重くのしかかっているからだ。
僕の長男も高校球児で、おまけに地区予選まで同高と同じブロックなので、彼らの試合は良く見ているし親しみもある。
それが卒業式を終え引退した3年生部員の飲酒と喫煙で、彼らとは今現在は何も関係ない日夜練習に打ち込んでいた1、2年生部員も責任を取らされた形だ。
人間教育に問題があったというのであれば、それは生徒ではなく教育者の問題だろう。
校長が辞め、部長も辞め、不世出の名監督といわれた同校監督も責任を取って辞めた。
責任の取り方としては、それで十分ではないか。なぜ下級生部員にも連帯責任を負わせなければならないのか。まったく納得できない。道民や我々の期待なんてどうでも良いが、泣き崩れる選手たちを静視できない。
これが高校教育のあり方か!!
日本高野連よ、連帯責任で何を教育しようとしているのだ。こんなことが人間教育になるのか。高野連よ答えてくれ。
介護・福祉情報掲示板(表板)
masaさんのブログは「福祉介護の話題」以外の話題も楽しくて読んでますよ。たまに出てくる北海道の風景や祭り、スポーツや映画の話題等々..。
制度改正で頭いっぱいのなか良い気分転換になってます(^^ゞ