今日の新聞の1面はライブドアへの強制捜査と、耐震偽装建築問題でのヒューザー小嶋社長への国会証人喚問のニュースで埋まってしまった。

ただ1月17日という日は、6、434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災が起こった日であることを、11年経った今、震災地とは、遠く離れた北海道に住んでいる僕にとっても忘れることはできない。

耐震偽装に係った人々は、あの時失われた貴重な「命」の叫びを何も聞いていないのだろうか。

自然災害は避けることができなくても、人間の英知で被害を減らすことができる意味を考えることはないのだろうか。被害で亡くなられた方々の魂の叫びに耳を傾けない社会であってはならない。

当施設にも震災被害にあわれて神戸の小学校の体育館に避難していた方で、そこで風邪から肺炎を併発して、北海道の親類宅に引き取られた方が入所された経緯がある。その方は、幸い今は元気で当施設で過ごされているが、震災の話題に触れることは決してない。さぞかし恐怖の体験であったであろうと容易に想像がつく。

思えば11年前の震災時は介護保険制度は誕生していなかった。

あの時、震災の中で、介護が必要な高齢者の把握に努めたのは、行政とボランティアがほとんどであったろう。

ところで1昨年の新潟の震災の折には、こうした高齢者の避難場所や状況把握に活躍したのが地域のケアマネジャーであったと聞く。介護保険制度の功罪は様々に挙げられるが、地域の中で個人の高齢者の「頼れる人」という部分に、ケアマネジャーという存在ができたことは、重要な点だろう。

そして我々ケアマネは、地域で必要な存在として、ますますスキルを上げていくのが責務でもある。その視点なくしてケアマネの存在意義はないだろうと思う。

ところで阪神地区では震災後も復興支援住宅で生活する方が、まだ多く残っているとのことであるが、昨年1年間だけでも復興支援住宅で孤独死した高齢者が69人もいるという。震災はまだ終わっていないのだ。

そして、その原因や状況は様々であろうが、震災で家族を失い、老いの時期を復興支援住宅で一人過ごし、誰に看取られることもなく旅立っていった多くの命を考えたとき、心が震えずにはおれない。せめて安らかであれと、ただ、ただ祈るのみである。

今日1月17日が「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」が制定した「おむすびの日」であることは余り知られていないが、これも阪神・淡路大震災でのボランティアの方々による「炊き出し」に由来した日であることを我々は決して忘れてはならない。

今日はやはり「祈り」の日である。