昨日、「老いることは不幸か」ということを少し考えてみたので書こうと思う。と予告したが、今朝の北海道新聞の『年取る意味を科学する』という特集記事の中で「ジェロントロジー(加齢にかかわる諸問題を研究する学問領域。生物学・医学などの自然科学と社会科学を統合して研究する。老年学。老人学。加齢学。)」が紹介されていた。

老いを積極的側面から捉えて意味あるものにしようという学問は大事だ。

ただ私の今日のブログでは、すこし別な視点から「老い」を考えてみたい。

それは、どうしても人は「死」というものが避けられず、「老い」はその入り口に確実に近づいている、という意味をも持つもので、死や身体の衰えを無視して考えることは現実逃避してしまう恐れが多分にあると考えるからである。

老いることが不幸か否か、その答えは単純ではない。幸か不幸かは、その人が持つ人生観や、置かれた状況(経済的、環境的)にも左右されるし、生育歴や学歴によっても左右されるであろう。

また客観的に、幸せそうに見える一人の人間が、本当に幸福感に満ちて老いの時期を過ごしているかは決して他者から窺いあ知れないであろうし、何より「老いるということは実際に老いてみないとわからない(堀 秀彦「銀の座席」より)」のである。

しかし現実の社会において「老い」がどのように捉えられ、その状況がどうであるかを考察することは可能である。

まず現実の社会には「エイジズム」と呼ばれる高齢者差別が存在している。

現在、我々の価値判断基準の根幹を成すものが労働生産性の有無、ということであり、高齢者はこれに欠く者と評価され、「老い」そのものを価値の低いものと判断するような性格を現代社会は本質的に内包している。

こうした「エイジズム」に対する権利主張として、過去に盛りあがった例としてグレーパンサー運動などがあるが、これらの運動が自分たちの権利を主張し「老人扱いするな」というように自分たちが老年に達したという事実を拒否する傾向に終始してしまったという評価があり、裏返せば、それは「老い」を不幸なこととして否定する発想であったとも言え、本当の意味で「老い」を人生という時間軸の中で限りない持続としてあると肯定的に捉えるものではなかった。

ジェロントロジーはそう言う意味で、その反省から生まれた学問であるとも言える。

さて、本当の意味で、「老い」をも合わせて人生というものを全体として受容する人生観を考えるとき、避けて通れない道がある。

それは「死の影を見つめる」ということである。

昔は幼い命も数多く失われたが、現在では死ぬ人の7割以上が高齢者なのである。

どんなに医学が発達しても死は避けられない。そして「老い」の一面は死へ向って歩いて行く過程でもあり、確実に死に近づきつつあることなのである。

果たしてそれは不幸なことなのであろうか。否、としたい。

人が他の動物と区別される本質的な差は、時間を認識するということであり、その有限性を「死」として理解できるということである。

ひとたび青年期に思いを馳せながらも、その後久しく忘れかけていた「死」の問題を考えるときが人生の何十年か後に与えられている、というのが「老い」の時期の一つの意味ではないのか。

若い時にしかできないこともあるが、年をとらないとわからないこともあるのだ。一つ一つ物事を知ることが増えてくる「老い」という時期も人の生命にとって、人生にとってなくてはならない時なのだ。

「老い」を拒否する社会は死を拒否する社会である。しかし老いも死も必ずやってくる。

我々は時間の中で生きている。

すがすがしい朝、燦燦とふりそそぐ太陽は素晴らしい。しかし同時に、茜色に映える夕陽もやがて沈むことを知るのは大切なことである。老いとは、人生とは、それぞれに意味深い時間の流れなのである。

20歳の頃、40半ばを向える自分を想像できなかったし、その頃より良いものではないだろうと漠然と感じていた。

しかし今、その時期を迎えてみると、40代は40代で、また面白い人生があるのだ。時間の流れの中で「老い」に時期をも楽しんで迎えられる人生でありたい。