このブログを立ち上げたのは11/9である。
今日まで2日(だと思う)休んだだけで、毎日書き続けている。
それを毎日100人、200人、多い日には500人を超える皆さんに読んでいただいている。掲示板と違って、Blogの来訪は1日1回というパターンが多いだろうから、これは少なくない数字だと思っている。
さして面白くもないであろう僕の一方的意見を毎日のように読んでいただいてありがとうございます。
いつまで続けられるか、何を書いていくかも考えていません。
書くことが苦痛になったらやめようと思う。誰かが読んでいるという意識も特になく、自分自身や、できれば自分の子供が、数年後に今の僕を読んでくれることを少しは意識しているかもしれないが、別に飾るつもりも、背伸びするつもりもない。
思いを、独り言を、こういう形で綴って、ネットを通じて多くの方に読んでもらえる社会は本当に便利になった。しかし、同時に、紙に書く情緒や、その苦労を楽しむことを失ってしまっているのが現在なのかもしれない。
不幸とか幸福とか、形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。
だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、誰も答えは出せない。
ただ世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。
同時に、少しだけ、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったり、そういう状況や人が増えているような気がする。少しずつ「優しさ」が失われているように感ずる。
この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、優しさが失われていくことに対して「それは違う」という声を出し続けよう。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではない。
ヒルズ族が注目され、瞬時に数億単位でお金をもうける人がいる社会であると同時に、年数万円の健康保険料が払えないために医療機関の受診が遅れて命を落とす方々がいるこの社会を、この国の為政者たちは世界に向けて「先進国」であると言えるのだろうか。
せめて時の為政者は、社会のひずみや影の部分に目を向けるものであってほしい。
光り輝く部分は、誰にでも見ることができるのだ。
そうでないところを見て、暖めてくれる存在がないと、人の生きる路には、険しさしかなくなる。
介護・福祉情報掲示板(表板)
今日まで2日(だと思う)休んだだけで、毎日書き続けている。
それを毎日100人、200人、多い日には500人を超える皆さんに読んでいただいている。掲示板と違って、Blogの来訪は1日1回というパターンが多いだろうから、これは少なくない数字だと思っている。
さして面白くもないであろう僕の一方的意見を毎日のように読んでいただいてありがとうございます。
いつまで続けられるか、何を書いていくかも考えていません。
書くことが苦痛になったらやめようと思う。誰かが読んでいるという意識も特になく、自分自身や、できれば自分の子供が、数年後に今の僕を読んでくれることを少しは意識しているかもしれないが、別に飾るつもりも、背伸びするつもりもない。
思いを、独り言を、こういう形で綴って、ネットを通じて多くの方に読んでもらえる社会は本当に便利になった。しかし、同時に、紙に書く情緒や、その苦労を楽しむことを失ってしまっているのが現在なのかもしれない。
不幸とか幸福とか、形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。
だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、誰も答えは出せない。
ただ世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。
同時に、少しだけ、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったり、そういう状況や人が増えているような気がする。少しずつ「優しさ」が失われているように感ずる。
この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、優しさが失われていくことに対して「それは違う」という声を出し続けよう。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではない。
ヒルズ族が注目され、瞬時に数億単位でお金をもうける人がいる社会であると同時に、年数万円の健康保険料が払えないために医療機関の受診が遅れて命を落とす方々がいるこの社会を、この国の為政者たちは世界に向けて「先進国」であると言えるのだろうか。
せめて時の為政者は、社会のひずみや影の部分に目を向けるものであってほしい。
光り輝く部分は、誰にでも見ることができるのだ。
そうでないところを見て、暖めてくれる存在がないと、人の生きる路には、険しさしかなくなる。
介護・福祉情報掲示板(表板)