「いまどき、集団の活動プログラムを行なっているんですか?」

当施設を見学していた、ある老健の某職員が、療育音楽を行なっている場面を見ての感想である。

某職員曰く、「施設も個別ケアが重視されてきていて、集団で何かを行なうというのは古いのではないですか。もっと個別ケアをとりいれなきゃあ」
当施設A「個別ケアの取り組みって具体的にどういうことでしょう」
某職員「日課のない生活ですよ。いまどき何曜日の何時にレクリーエーションでもないでしょう」
当施設A「某さんの施設の利用者は、それぞれ日中どんなことをして過ごしてるんですか」
某職員「いろいろですよ。それぞれお部屋で好きなことをしています」
当施設A「中には、することがわからなくて、何もしないでごろごろしてしまう方はいませんか」
某職員「うーん。まあそういう人もいますが、それぞれの生活ですから」

現実の会話である。
日課のない暮らしってあり得るのか?
個別ケアを、施設が何もしない、施設が選択できるプログラムも提供しない、と捉えてしまうから、こんなおかしな考えが生まれる。

求められている個別ケアとは、まさに個人の生活の課題や希望に沿ったケアサービスの提供を意味し、施設の日課や決め事、プログラムに、利用者を無理に合わせようとすることは間違っている。

しかし日課がない、というのは少し違って、施設の日課を利用者に強要しない、利用者の生活は施設の日課により規定されない、というのが正しい。なぜなら、生活を送る上で個人の日課が全くないという人はいないからだ。

朝何時に起、夜何時に寝る。というのは、ほとんどの人は生活習慣上ある程度決まっているはずだ。人によって、入浴は夕食後が良いという人もいれば、食前が良い人もいるし、朝風呂を習慣にしている人もいる。毎日気分で変わるというのは少数派で、人にはある程度、自分なりの生活習慣やスタイルがあるのだ。

個別処遇とはそういう過去や現在の生活習慣を、できるだけ実現してサービス提供ができることだ。

グループワークもそういう個人の生活の一部になれば、これは必要な生活習慣だし、それを行なうことのメリットも大きいと考えられる対象者もいる。そういう方法を選べないのは不幸だ。選択性のある活動を、それぞれの体調や好みで選べるのであれば集団活動=集団処遇にはならない。

今、我々のケアの現場は、ある活動に全員が参加するのではなく、ある人は入浴をし、ある人は外出をし、ある人は療育音楽で手足を動かし、声を出して楽しみながら機能活用をしている、という生活作りを目指している。

むしろ選べるメニューがたくさんあって、その中に自分の居場所を確保できることが、個別ケアの展開過程には重要だ。

何も日課がないから部屋で日がな1日TVを見て過ごすことが個別ケアではない。