masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

2010年09月

福祉系基礎資格者の奮起を期待する

現在国の審議会では福祉系の介護支援専門員(ケアマネジャー)に対する風当たりが強い。

医療依存度の高い利用者に対して、専門知識がないから適切なプランを立てられないというのである。特に基礎資格が介護福祉士の介護支援専門員に対しては「くそみそ」に批判する「有識者」がいたりする。老健協の会長に至っては、自施設(老健)のケアプランを立てる介護支援専門員は医療の分かる看護師でなければケアプランナーとして支持できないと言っている。

なるほど川合会長が介護支援専門員に求めているのは、単にケアプランナーとしての役割であって、ソーシャルワーカーとしての役割を求めているわけではないんだ。看護計画の癖が抜けないんだな。

そういえば小規模多機能居宅介護の管理者も「医療が分かる看護師でなきゃならない」と言っている人がいたっけ。それじゃあ文京区でソーシャルアクションを実践しながら素敵な地域を作っているあの「ひげ男」もダメ出しされるということか?怒って炭酸ぶっかけられるぞ。

しかし介護サービスの管理者や介護支援専門員が単に医療の分かるケアプランナーでよいのか?そうじゃないだろう。文京区の「ひげ男」の近くにいるお年寄りは皆豊かな表情で暮らしているぞ。それに介護保険制度を利用している在宅や施設の高齢者の大部分に占める問題が「医療依存問題」なのか?どうもそれは違うように思う。

むしろ地域の隅々を見回すと、一番問題となりつつあるのは、在宅独居や高齢者世帯や、インフォーマル支援が足りない家庭における「認知症高齢者」の問題で、軽度の認知症が出現してきたのに、本人や周囲がそのことに気づかなかったり、理解しようとしないで、生活維持が困難になってきているケースである。

身体面では持病があっても服薬管理だけで問題ないが、認知機能の低下が様々な生活障害に結びついているケースが多いのである。

それに対して看護師などの医療系有資格者が、福祉系有資格者より優れた支援をしているという根拠でもあるのか?むしろ地域でそうしたケースを頑張って支援して、利用者と良い関係を築いて、暮らしを支えている介護支援専門員とは、基礎資格が社会福祉士であったり、相談員であったりする場合が多いぞ。介護福祉士にも優れた人がいる。逆に看護師にも逸材はいるけど、価値観を押し付けてトラブルになって担当を放棄してしまう例をたくさん見てきたぞ。そう考えると医療系基礎資格のケアマネだけが優れたプランを立てられるという根拠は怪しくなる。

しかし職種による得手、不得手が存在することは事実だし、それによって高齢者のタイプによっては必要な支援に結びつかないなんていうことがあってはならないから、福祉系有資格者に対し、求められているスキルをきちんと獲得するような意識づけは当然必要である。

例えば、こういう指摘がある。

糖尿病を持病として持っている高齢者で、現在は安定して在宅で生活している人がいるとする。その際、現在の病状が安定している場合、介護福祉士などの基礎資格者は、「食事管理」という面からプランを立てがちで、毎日の食事摂取内容という視点から、家事援助的なサービスを組み込んでしまい、訪問看護等が抜け落ちている計画になる場合があるという。そして場合によっては訪問看護導入可否の検討さえサービス担当者会議で行われていないという指摘がある。

ところが基礎資格が看護師ならば、ほぼ9割方糖尿病の持病がある方のプランの「最重要課題」として挙げることは「血糖値管理」であり、病状の維持継続、悪化防止のための訪問看護は不可欠なサービスとして計画される場合が多いという指摘である。

病状の安定度はともかく、糖尿病という持病を持ち、血糖値管理が必要な人のプランに訪問介護導入を検討することは不可欠と思え、これが抜けているとしたらアセスメント自体が不十分と言われても仕方なく、この部分は介護福祉士等の福祉系基礎資格者は指摘を真摯に受け止め、スキルアップに努めねばならない。

また、とある人から指摘されたことであるが、看護師は教育の中で、調査項目はきちんと埋めるのが基本と教えられているため、アセスメントにしても、各種アンケートにしても、問われた項目はきちんと埋めようとするが、介護福祉士の場合、調査項目に無記入が目立つ傾向にあるというのだ。特にケアプラン作成に伴うアセスメントで病名や処方内容を埋めていないアセスメント表がたくさんある、といわれる。

さらに、とあるアンケート調査の分析において、家事援助が必要ではないケースについて、では誰が家事を行っているのかをケアマネ対象に問うたとき、「誰かわからないけど家事援助は必要ではない」と答えた割合は、介護福祉士が一番多く、看護師の多くは「家事を誰それが行っているので家事援助が必要ではない」と答えることができた、という指摘もある。

つまり問われた内容だけに答えて、その原因や根拠を探す癖がないのが介護福祉士の基礎資格者の傾向だというのである。

このことが一般的な傾向なのかどうか、正しいかどうかはわからないが、こうした指摘がある以上、そうではないことを証明するためには、そうした不十分なアセスメントで終わらせないという意識とスキルが絶対に必要である。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

ブログ書籍化のお知らせとお願い。

このブログの書籍化がいよいよ現実になった。

発刊予定を立ててくれたのは、現在僕が「現場発、施設長の声」という連載記事を書いている「シニア・コミュニティ」の発刊元である(株)ヒューマン・ヘルスケア・システムという出版社である。企画担当してくれたK編集者さん、ありがとうございます。

同社は医療や福祉の専門誌を扱っているので、数多く出している発刊書もいわゆる「専門書」ばかりだから、このブログ記事を書籍化するということ自体が異例である。この書籍化を機会に、もっと多くの人々に僕の思いが伝わってほしいと思う。

今回の書籍化に関して、同社の企画内容の一部を紹介する。

約76万人のブロガーが参加する日本最大級の「人気ブログランキング」で、福祉・介護の常に第1位を占める人気No.1ブログを新たに加筆・修正して単行本化。業界関係者のみならず、介護福祉を利用している人、介護福祉に関心のある人すべてにその現実と理想を真正面から問い直す―。
〔書名〕 masaの介護福祉情報 裏板(仮)
〔判型〕 四六判(約188×128mm)・並製本ソフトカバー
〔頁数〕 約280頁
〔発行〕 2011年1月下旬
〔定価〕 1890円(税込)
以上が企画案である。細部の変更はあり得るだろうし、やむを得ない事情があれば企画が潰れるということもないとは言えない。(9割方大丈夫とは思う。)

書籍化されるに当たって過去のブログを漫然と並べていくだけでは単行本は成立しない。そのため単行本化に際しては、できるだけ古くならない話題を扱うことを基本とするが、特に次期制度改正に関する問題など時事的な話題も重要と思えるテーマは載せられる予定である。今年11月末頃までの政治的な動向などを踏まえて原稿を整理するが、新たな書き下ろしも当然必要となるだろう。

それらを含めて、福祉に対する思いが伝わるものや、介護に対する現場の熱意、問題として指摘しなければならないことなどを4章建てで構成することにしている。

しかし福祉や介護とは、ちょっと離れた「いい話」がエッセンスとして加わることも想定されている。過去の記事も加筆・訂正した上で掲載されることになろう。

このブログの読者の皆様には是非ご購入を検討していただきたいが、同時に保健・医療・福祉・介護関係者に広く周知していただければ幸いである。福祉や介護に携わる親しい友人などにも「贈り物」としてふさわしい内容にしたいとも思うので、是非皆さんのご協力をお願いしたい。

さて問題は初版の販売数である。共著本を除けば処女作であるし、この手の単行本は他にないので、一体どの程度売れるものか分からない。そこで皆さんに、是非実際に購入する気持ちがあるかどうかをお尋ねした上で、出版社が発行部数を決定してくれる。そのためのリサーチの意味でアンケートを作成しているので、ブログ読者の皆さんで購入してみようかなと考える人は是非投票をお願いしたい。

あまりに買う予定の人が少ない場合は、出版自体が無くなるかもしれないが、是非「買うよ」という人はどうか清き1票をお願いします。

ん・・。選挙じゃないってか・・。失礼しました。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

施設サービス「必要悪」論に反論する。

世間にはいまだに「施設必要悪論」が存在する。

本来地域住民は地域の中で暮らすべきで、施設は「暮らしの場」ではなく、やむを得ず入所する特殊な場所であるという考え方が背景にある。特に一旦施設に入所したが最後、そこで死ぬまで入所し続けなければならないことが人の暮らしとしては「異様だ」という指摘もある。

果たしてそうだろうか?なるほど、施設と一言で表現しても、色々な施設があるし、サービス提供側の論理で劣悪な生活環境の施設が存在することを否定しない。しかしだからと言って施設サービスをすべて「必要悪」と決めつけることが、この国の超高齢社会における福祉・介護サービスを考える上で建設的な議論になっていくのだろうか?そもそもサービスの質のでこぼこは、居宅サービスにおいても同様だし、介護保険制度創設以後、一番数が増えたグループホームにもそのことは言えることだし、経営者の考え一つで営業方針が決まってしまう小規模多機能居宅介護もしかりである。

しかしそれらは基本的に居宅サービスというカテゴリーの中の地域密着型サービスに分類されているから存在意義がある、というのは理屈として成り立たない。

施設サービスと居宅サービスの両者の役割分担をしっかり見据えた上での議論でないと、この国の将来の地域福祉の行く末を正しく見つめることはできないだろう。

北海道では、地域の人口が少なくなる過疎化の進行と同時に、高齢者人口が50%を超える「限界集落」がすごい速度で増えつつある。その時、地域は維持できるのか?理想としては先祖代々のお墓のある住み慣れた土地で生活を続けることが一番だが、現実の問題としてそれは不可能になるだろう。(参照:小さな福祉ニーズは守ることができるのか。

その時、どこかの時点で、住み慣れた故郷に近い場所での「住み替え」ということが必要になる。これが現在社会における超高齢社会のニーズである。

僕は施設サービスというものは、暮らしの場の選択肢の一つとしては、居宅サービスと同様の視点で考えられてよい時期に来ていると思う。高齢者専用住宅にたくさんの高齢者を集めて、外部の居宅サービスを使うことと、介護保険施設に入所することのどこに差があるのか?それを突き詰めて考えれば、自宅で暮らす高齢者が月の大半を居宅サービスの宿泊サービスやショートステイを使って暮らすこととどこに違いが出てくるのか。

こう考えた時、施設サービスが、きちんと地域の住民と密着した形でサービス展開していけば、それはもうカテゴリーが違うだけで、その人自身の「暮らしの場」としては十分機能していくと考える。そうであれば「暮らしの場」からの在宅復帰などという概念はおかしいし、本当にその方が「暮らして幸せ」な場所であれば、死ぬまでそこで暮らし続けたいから、他に行く必要なない、ということになるだろう。だから僕は施設サービスが目指すものは、もはやQOLではなくQODであると主張し続けている。我々施設職員が、施設で暮らす人々の最期の瞬間まで「傍らにいることが許される者」になり得る限り、そこは利用者にとって終の棲家になり得るもので、そうであれば「在宅復帰ができないから悪である」という理屈は成り立たない。

そもそも施設サービスと居宅サービスは対立軸にあるものではなく、地域福祉の中では車の両輪であるはずだ。住み慣れた自宅で暮らし続けるために居宅サービスは必要であるが、インフォーマル支援者が過去のどの時期よりも少ない現代社会においては、それにも限界があり、その時に最終的セーフティネットとして施設サービスが存在するから、住民は地域で安心して住み続けられるのである。当然、その前提には、施設が「暮らしの場」として利用者の生活や権利や希望を守るサービス提供を行っていることは当然必要とされるだろうから、そのことに関する質の担保に我々は日々努めていかねばならないことはいうまでもない。

だから居宅サービス関係者が、施設サービスをひとくくりにして「必要悪」と断ずる態度は、この国の将来の施策を誤らすものであると考える。施設サービスの個々の状況をみて、不適切なサービス施設を糾弾するのは必要なことだろうが、施設サービスそのものを否定してしまうような考え方があってよいわけがない。

居宅介護支援に当たるケアマネジャーも、居宅サービス関係者も、社会福祉士も、介護福祉士も、医師や看護師も、両者を対立軸に置いたり、施設を塀の向こう側の存在として批判するばかりではなく、もっと建設的に両者の役割や機能を適切に利用者と結び付けるように考えるべきである。

理想は高く掲げるべきであるが、特にこの国の将来を作り上げていくべき、20代、30代の関係者は、新しい国のあり方を見据えて既存サービスをどのように生かしていくのかという視点を持たないと、すべてが机上の空論に終わってしまう。そんなものは理想とは言えないのである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

思いを繋ぐことが大事

施設では毎年10名〜15名程度の方々が旅立っていかれる。多い年は20名ということもある。

それらの方々のお通夜か葬儀には出来るだけ参列しているが、仏教式の葬儀では多くの場合、僧侶の「法話」を聞くことになる。おおよそ10分から15分の話であるが、話し手によって話の内容も様々で、人によってはいつも同じ話をしている方もおられる。また仏教の真理という方向で話をする方と、亡くなられた方に関する話題が中心である方など、僧侶によってその内容も様々だ。

不遜だとは思うが正直な話、この手の話で感動したり、勉強になると感じることはほとんどなく、セレモニーとして耳を傾ける場合がほとんどである。逆に中には介護サービスに対する偏見と思える話があったりして憤りに似た感情を抱くことさえある。

先日参列したある葬儀では、法話の内容が、ご家族に対し、施設に入所した後も毎日のように面会して、いつも亡くなられた方の傍らに寄り添っておられる姿を称賛するものであった。それはよい。しかし同時に「施設の関係者に聞くと、1/3の家族はまったく面会に来ず、1/3はめったに面会に来ず、残りの1/3はよく面会に来る、と言っておられたが、2/3の人が両親の面会にもあまり来ない中〜」というような言われ方をされた。

そもそもこの話の「施設関係者」なるものが、我が施設の職員ではないことは言うまでもないが、どこから聞いてきた話なのだろうかと大いに疑問である。施設に入所された方の属性は時期により様々で、単純に平均値が出せるようなものではないし、面会頻度もこれが一般的数値であるなんて言うことはあり得ない。それに面会に来る頻度で、家族の利用者に寄せる思いを推し量れるものではないのである。

現在の60代、70代の方々の子供の数は、2人や3人という人が多くて、それ以前の世代のように5人以上が普通という世代ではなくなっており、核家族化が進行した世代でもあるんだから、家族単位が縮小して、子供が親と同居していないばかりではなく、親の生活圏と、子の生活圏が全く違う場所に離れているという例は多い。特に当地域は、大きな企業のベッドタウンという側面もあるんだから、転勤により親と遠く離れた地域で暮らしている子供がキーパーソンである場合も多く、施設入所したからといって、それらの人々が頻回に面会に訪れることができない事情も様々にある。

勿論、近くに居住している家族が頻繁に訪ねてくれる状況は利用者本人にとって望ましい状況であることは間違いないが、同時に、思いは色々あっても、数年に1回とか、あるいは盆暮れにしか訪ねて来れない家族の思いもそれぞれ深いものがあることを忘れてはならない。

大事なことは、面会頻度で家族の思いを推し量ることではなく、様々な繋がり方を我々が支援することであり、それはお互いにどのような形で、今現在の親子の暮らしぶりを知ることができるかということであって、そのために施設利用者の暮らしぶりを遠く離れた家族ができるだけ知ることができ、伝わる方法を我々が考えることだ。

当施設で看取り介護を行った家族の方で、施設に泊まられた日数が40日間を超えた方がおられる。もちろんこれが現在までの最長日数である。この方は、お嫁に行き、ご主人の転勤で北海道を離れて以来、年に数度はお母さんの自宅に帰省し、数日を過ごす習慣を何十年も続けていたが、お母様の体がご不自由になり施設入所した後は、施設に任せきりで(実際はそんなことはないのであるが)一度も自分が母親と過ごす機会をもたなかったことを後悔されていた。ただそのことは施設に任せても安心であるという思いの裏返しでもあったという。そしていつも送られてくる写真や手紙を読んで、自分が傍らにいるように安心していたという。

その方が、とうとう母親が看取り介護の対象になる時期が来たときに、せめて最期の時は自分がずっと傍らにいようと決めて、このような長い期間、施設の中で(不自由なこともいろいろおありだったと思うが)お母さんと過ごされ、最期の瞬間をしっかり看取ることができた。しかしその前提には、この施設で、こうしたことができる体制にあるということと、今まで母親が施設職員とどのような関係を築いて、どのように暮らしていたかということが、遠く離れた家族にも伝わっていたということが大きいと思う。

幸い現在は、インターネットを通じたコミュニケーションなど、様々な方法で、距離を感じさせない意思疎通できるのだから、そうした方法による支援も必要な場合がある。そのことで、親子や家族間の繋がりが深まるのであれば、これは立派なソーシャルケースワークである。

広報誌などもその方法の一つであろうが、いつの間にか、そのことが定期的なセレモニー、ルーティン化して、本当の目的を忘れて形式的なものになってしまえば意味がないということである。

コミュニケーションとは形を伝えるのではなく、それぞれの「思い」を伝えることであるということを忘れてはならない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

お泊りデイサービス保険給付化の問題点

制度改正というものは、全体の制度の構造が国民の福祉の向上という目的に合致しているかという部分を見極めながら、そうではない部分を修正して、より国民の福祉の向上に資する目的で調整していくために必要とされているのではないのか。

財源論とか、持続可能性という政策的視点とは別に構造改革を語るとしたら、それは上記の視点で制度の全体を見渡した上での調整という視点が基本となるはずだ。

しかしである。通所介護における「お泊りサービス」への保険給付問題は、この基本を全く無視して、ある特定地域の特定事業所の意見を、厚生労働政務官という立場にある一国会議員が鵜呑みにして、大臣の手をひっぱり、全体構造は無視して決めてしまったという所に問題点がある。

これは通所介護の延長加算の対象時間をさらに延ばし、宿泊についても保険給付対象とするものだ。そのための宿泊整備補助金については来年度予算の概算要求を通ってしまった。

この早急過ぎるような保険給付化に向けた動きは「ショートステイの利用ができない地域で、通所介護のお泊りサービスが実質的に介護する家族の負担軽減をし、居宅生活を支えている」という理由によるものである。

しかしショートの緊急ベッドが十分に確保されている地域も全国にはたくさんあるのに、都市部の論理だけでこのサービスに保険給付することが今緊急に必要だという理屈はとても納得できるものではない。

全体の制度サービスのあり方を検証する中で「お泊りデイ」の保険給付化が必要であるというならともかく、このサービスだけを突出させ優遇するのはどうかしている。

むしろ既存サービスの中でショート対応ベッドが何故常に空いていないのかを考えた時、介護保険制度創設時の介護報酬より現行報酬が下がっている実態が、ベッドの稼働率を上げないと収益が出ない構造にしていることで、緊急対応のためのベッド確保ができない状況を生んでいるという根本的問題を考えながら、既存ショートのあり方を変える方向から問題解決を図っていかないと、根本問題が解決しないまま安易な泊まりサービスが増大し、通所介護への長期滞在という変な状況が生まれてしまうだろう。

特に通所サービスの宿泊は宿泊日前後の通所サービス利用を条件にしている事業所が多いことから、必要性を伴わない泊まるための不必要な通所利用が増える可能性を否定できない。

しかも同じ制度内の小規模多機能居宅介護の宿泊サービスや、実質そのモデルとなった宅老所での宿泊サービスとの整合性はどう取るのか?

さらにいえば、18年改正に先駆けて、17年10月に、入所サービス及び滞在サービスにおいては光熱水費などを含むホテルコストが保険外とさて、1泊2日のショートステイ利用においては利用者は2日分の滞在費を1割自己負担とは別に支払っている。「滞在コストは保険給付しない」という原則と照らせば、お泊りデイだけこの部分を保険給付するのは極めておかしな理屈で、制度の根幹にかかわる問題である。このことにより場合によっては、ショートの充足地域でも、費用負担が少ないという理由での「お泊りデイ」利用が増える可能性がある。

お泊りデイサービスの必要性と、保険給付の必要性は実は全く別の論議であって、もしショートステイ以外のお泊りサービスが保険サービスとして必要であるとすれば、全体の中でショートの利用ルールを見直した上で、通所介護以外の宿泊サービスとの差別化あるいは整合性をとった上で、何のサービスに保険給付するかという根拠が必要だ。

少なくとも、今一番求められている制度改革が「お泊りデイの保険給付化」ではないことは間違いない。

しかも政治主導でこのことが決まったデメリットと言えると思うが、財政の厳しいなかで先行して新たなサービスに対する保険給付がまずありきでは、その分だけ他の保険給付サービスから削減しなければならないと厚生労働省・老健局担当者が語っていることを関係者はどう考えるのか?まさに「お泊りデイの保険給付化」は他のサービスにおいては給付抑制の理由にされているのである。

もともと厚生労働省老健局の中には、都内を中心にフランチャイズ展開している通所介護事業所が行っている保険外の宿泊サービスについて、800円という安価で行われているが、その実態が「雑魚寝 雑居」であるとして「環境として劣悪」であると考える向きがあって、しかしそれが保険外であるがゆえに設備や人員配置基準を適用できないということに対するジレンマが存在していた。そこに別ルートで「お泊りデイ」があたかも制度改正のメインサービスとして有効と吹き込まれた政務官が、この保険給付を持ち出し、局内でもこのことに積極的姿勢をとっている有力者が存在したことから「仕方ないけど、まあ取り締まりもできるからいいっか」的な乗りで決まってしまったというふうにも見える。

しかしどうしてこんなに短時間で、このような問題に結論を出すんだろうか?長妻前大臣と山井前政務官とが手をつないでお泊りデイを見学したのはたった1回ではないか。それで何が分かるんだい!!

どうもこの大臣と政務官のコンビは、国民の期待が高かったわりに何の実績も挙げていない。ミスター年金は所詮はそれだけか!という人もいるが、それはまだ優しい意見で、年金処理さえきちんとできなかった無能大臣と決めつける人もいるし、山井氏に対してはツイッターで意味もなくつぶやき続ける無能政務官と断じている人も多い。関係者の失望感はかなり大きなものがある。

そんな中、党首選後の内閣改造で、大臣と政務官として現ポストに残れないことがはっきりしていたから、何かの形で実績を残したくて焦って決めたことではないのか?歴史に名を残したいがために関係者が「これなら支持してくれるだろう」と考えたのが、お泊りデイへの保険給付化ではないのか?

どちらにしても、期待された手腕を発揮できなかった政治家の「置き土産」で制度がおかしな方向に向かうのは何とも迷惑な話である。

勘違いしてほしくないのは、この記事で主張している問題は「お泊りデイサービスの是非」ではない。お泊りデイサービス自体の役割は十分理解できるし、それは既に制度の中で動いているサービスなのである。

そうではなくいま議論すべきは、他のサービスをまったく考慮せず、通所介護の宿泊サービスを介護給付対象とする「お泊りデイサービスの保険給付化の是非」なのである。

この違いをしっかり理解してもらわねば問題の所在が見えてこない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

天までとどけ。

登別市市のホームページで確認できる統計資料では、近直データが平成20年9月1日における数字であるが、その中で100歳以上の高齢者数は10名(男性1名、女性9名)であった。

これは既に変動しているだろうし、全員を確認できているかどうかはよくわからない。

しかし当施設について言えば、確実な数字として、今日現在100歳以上の方は、104歳の女性を筆頭に3名(いずれも女性)おられる。

100歳の晴れ姿ところで昨日、登別市長が来園して今年100歳になられる方に対する内閣総理大臣からの長寿祝いの表彰状と記念品授与が行われた。

これは敬老の日を記念して全国の100歳の方(数え年が対象)全員を対象にしたもので、各市町村には国から賞状と記念品が贈られてくる。

ここで問題が一つ生じることになる。敬老の日に合わせてこれらの賞状等が贈られるためには、その前に対象者の把握が行われることになり、それは8月の時点らしい。(正確には把握していない)

実は当施設で表彰対象になったのは2名であったが、このうちのお一人が8/19の日に急にお亡くなりになった。そこで市から照会が来た時点で、対象は一人ですので、お亡くなりになった方の分は国に返還願いますと申し出たところ、国に返すことはできないので、ご遺族に替って受け取ってもらえないかと言われた。お亡くなりになって、わずか一月で「長寿のお祝い品」を受け取っていただくのも、なにか変であるが、そういわれたので、一応ご遺族の方に連絡させていただいた。すると「せっかくのお祝いごとですし、亡くなった母も天国で喜ぶでしょう」と快く理解していただき、わざわざ当園まで足を運んでいただいて、当日表彰される方と共に、授賞式に参列していただいた。

登別市長より表彰状を受け取る内閣総理大臣よりの表彰お礼のあいさつお亡くなりの母に替ってご遺族の挨拶





100歳の方もしっかり市長から賞状を受け取り、お礼のご挨拶をしてくれた。ご遺族として参列した方からもご丁寧なご挨拶をいただき恐縮である。

ところで、この話が持ち上がったとき、今回受賞対象となったお亡くなりになった方の担当ユニットから、たくさん思い出をいただいた、その方に、職員からの感謝状を送りたいと提案があった。そもそも当施設では満100歳のお誕生日には、職員からの感謝の賞状を手渡す慣習があるので、それをこの機会に、亡くなられた方ではあるがご遺族に替って受け取っていただきたいというものである。

それは「今までありがとう」という感謝状である。

今までありがとう

説明するまでもなく、文面を読んでいただければよいと思う。内閣総理大臣からの賞状と比べると、とても小さな表彰状ではあるが、その価値は決して総理大臣のものに劣るものではないと思う。

こんなことはグリーフケアでもなんでもないが、このような形で我々の思いと、ご遺族の思いが、亡くなられた方を中心にして繋がっていることも人として大事なことである。

我々の感謝の思いが天まで届くことを信じている。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

無資格でインスリン注射の報道記事を読んで

産経新聞9月18日(土)1時33分配信記事より転載
大阪府箕面市の社会福祉法人「あかつき福祉会」が運営するケアホーム(共同生活介護施設)で、介護職員が糖尿病の入所者に対するインスリン注射などの医療行為を7年間にわたり無資格で行ってことが17日、分かった。大阪府は、無資格の医療行為を禁じた医師法や保健師助産師看護師法などに違反する可能性があるとして、近く施設を立ち入り調査する方針を固めた。

あかつき福祉会によると、少なくとも平成15年1月以降、同法人が運営する箕面市内の授産施設に勤務する介護職員が、I型糖尿病の男性入所者に対し、1日2回、インスリン注射を投与。男性には重度の行動障害があり、入所前は自宅で男性の家族がインスリン注射を行っていたという。

医師法などによると、医療行為を業務として行えるのは、厚生労働省の通知などで示された行為を除いて、原則として医師または医師の指示を受けた看護師などに限定。糖尿病患者本人や家族は、医師や看護師からインスリンの取り扱い方や注射器の使い方などの詳細な指導を受けてインスリン注射を行っている。

同法人は産経新聞の取材に対し「男性が自分で注射を打てるよう施設で練習したがうまくいかなかった。行動障害もあり、自分で注射するのは危険と判断し、やむを得ず職員が注射を打った」と説明。「ペン型注射器が普及し始めた時期で、職員でも安全に打てるだろうと考えていた」としている。

あかつき福祉会は昭和53年、重度の障害者のケアを担うため、箕面市などが出資して設立。障害者福祉センターや知的障害者の通所施設など、同市の3施設の指定管理者になっている。

(転載以上)

この記事を読んで最初に何を感じたろうか?勿論、多くの方が介護職員に医療行為を日常的にさせていたのは「やばい」よな、ということであろう。

僕はかねてから家族ができる行為は「医療行為」から除外して、介護職員でも誰でも行為として可能にするべきであると主張し、その代表的行為として「インスリン注射」を挙げている。

しかしだからと言って、自らの施設の介護職員に「インスリン注射」を行わせていることはない。現に今は、これらの行為は「医療行為」とされ、同居の家族が行えても、施設の介護職員等は同様の行為を行えないというルールが厳然として存在している以上、そのルールに反対だからと言って、それを守らない、ということにはならず、そんなことが許されれば社会秩序は崩壊する。

ルールを変えてほしいと声を挙げ、何らかの形でそのことを国に伝え、ルールを変えるようにアクションを起こしていくことは大事だが、それが正論として認められる唯一の条件は、法律を守った上でその理不尽さや、矛盾点を論理的かつ冷静に訴えていくことである。

よっていかなる理由があろうと、本ケースのように現在禁止行為であることが明らかな行為を、違法性を承知の上で社会福祉法人が、介護職員に命じて業務の中で日常的に行っていたことに言い訳はできないと思う。

しかし同時に、このような問題を批判だけで終わらせて良いのか、という気持ちもある。

例えば、この男性は居宅生活においては、家族が本人に替ってインスリン注射を行いながら暮らしを支えていた。その同じ男性がケアホームという(共同生活介護施設)場に、生活の本拠を移さざるを得なかったことには、相応の理由があるだろう。この時

>男性が自分で注射を打てるよう施設で練習したがうまくいかなかった。行動障害もあり、自分で注射するのは危険

という状況で、この法人が実質とり得る対応策が、違法性を承知で介護職員にそれを行わせるか、インスリンを自己注射できないことで対応困難という理由で退所を勧めるか、という2者択一しか方法がないことについて、そのことについてはもっと社会的な問題として考えられなければならない。
(※注釈として付記するが、このようなケースでインスリンだけを理由に受け入れてくれる医療機関はないだろうし、看護師が常駐する施設に入所するにしても時間がかるし、そのことも現在の居住場所から退所することに変わりはないという意味で2者択一と表現している。)

インスリン注射は、居宅ではどこの家庭でも家族が安全に行うことができている行為なのである。

これからはインスリン注射で血糖値管理すれば、入院せずとも様々な居住場所で暮らせる高齢者がますます増えるのである。その時に、家族ではないという理由だけで、家庭で専門家ではない人々が日常的に施設等で行えないことによる行き場のない高齢者が増える問題にいつまでも顔をそむけ続けてよいのだろうか。

はやく「インスリン注射」は医療行為ではないとすることが必要だ。政治判断でも何でも良いから、一刻も早く決断すべきである。

これは医療行為の介護職員への解禁ではない。医療行為自体を時代のニーズ、医療器具の発達の状況変化の中で見直すという問題である。

未来永劫、医療行為は医師や看護師などの有資格者しか出来なくてよいから、医療法ができた当時では想定できなかった超高齢社会の中の状況変化を考えて、医療行為の解釈を変えていく必要があるのだ。

このケースの問題や報道を、相違側面からマスコミも取り上げてほしいと節に願うものである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

ほっとする記事、させない記事

先週の日曜、夜9時過ぎに静岡から自宅に戻った時、今週の土日も普通の時間に仕事に出ると妻に話していた。亭主元気で留守が良いということで、妻はそのことに不満も文句もないようだが、近くでそれを聞いていた長男(現場実習のため帰省している)が「いつ休むの?」と尋ねてきた。

息子に言わせれば「あんまり働き過ぎると死ぬよ」ということらしい。

考えてみれば今月に入って本業の休みの日も、ほとんど各地の研修会講師などで自宅におらず、平日も会議や講演で夜遅くに帰ることが多かった。

カレンダーの予定表をあらためて見てみると、5日の日曜日の休みをとっているだけで、ほかの土日は何かしらの予定が入っている。しかも8月の最終週の土日も、札幌と苫小牧で講演や会議参加をしているので5日の休みも久しぶりだったということになる。

また週末に道内外で研修講師を行うことで、OFF会での「飲み会」も多くなっているし、外で食事を摂る機会がかなり増えている。自然と、かなり不規則で不健康な生活になっているようである。

全国の様々な場所に出向いて、様々な仲間に会えることは僕にとってはストレス解消であって、それも休むことと大差はないと感じてはいるのだが、年と共に多少は移動に疲れを感じるようになってきたのも事実である。

そこで今日、月曜の「敬老の日」は、特養の施設長としてはあるまじき行為かもしれないが、1日出勤せず休みをとることにしている。昨日、お祭りで利用者の皆さんには楽しんでもらったので許されるだろう。本でも読んでゆっくり過ごそうと思う。緊急呼び出しが来ないことを願っている。・・・でもな、原稿書きはやらなきゃあ、あとがつかえて大変である。いろいろうやらねばならないこと、処理せねばならない書類が多いからだ。

ということで3.000字程度の連載記事のひとつは今日中に書き挙げてしまおうと考えPCに向かったついでに、この記事を書いているというわけだ。

つまり僕にとっては今日のように珍しい休日の記事更新は、原稿書きのウォーミングアップという意味もある。さて頑張ろう。

今こんなに休む間がないほど忙しいのは、講演の回数が多少は増えていることもあるが、それよりも一番の原因は、介護福祉士養成校の講義が入ってきているからである。よい人材を育てて地域のマンパワーを育成するという目的があるんだから、授業の内容も充実させねばならず、そのための下準備はかなり大変だ。プライベートの時間のかなり多くを授業プランと資料作成に費やしている。しかしそれもストレスではなく、心地よい忙しさではある。

ただし今週は23日の木曜も秋分の日で休みが取れそうだな・・・と思っていたら「休め」といった長男が「金曜日から授業なので、その日は大麻まで送って行ってもらう日だよ」と勝手に決められている。・・・ったく。家族とは時に優しく、時に厳しい存在である。

ところで、僕のブログの読者の方々から、たまに施設のイベント等の記事と写真が載せられているとき「ほっとするのよね!」といわれることがある。・・・ということは普段の僕の記事は、読者の皆さんあまり「ほっとした思い」を抱かせない内容らしい。まあこれも緊張感がある迫力のある記事が多いとポジティブに捉えよう。

しかし今日はせっかくの祝日だから、皆さんに少しだけ「ほっとして」もらいたいので、昨日施設で行った「緑風園祭り」の様子を画像で紹介しておきたい。一昨日と今日は秋晴れだが、昨日はあいにくの小雨交じりの寒い日で、数年ぶりに屋内開催となって、利用者や沢山訪れてくださったご家族や地域の皆さんにも、狭い場所でご不便をおかけしたが、イベントは多いに盛り上がった。

なお行事の写真には僕の女装写真が混じっているという噂が立って、真剣に探してしまう人がいるらしいが、僕は女装趣味もなく写真にも映っていないことを一言断っておきたい。

画像の表情からも、その感情や思いは伝わるだろう。※画像はクリックすると拡大表示されます。


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介護・福祉情報掲示板(表板)

気づく人でいてください

介護サービスの現場では、居宅にしろ、施設にしろ、様々な職種と様々な立場の人々が関わって利用者支援に携わっている。

それらの人々には所属の事業者や専門職としてのそれぞれの役割があるだろう。そしてそれは事業種類や、目的によっても変わっていくものだろうと思う。

しかし僕は、相談援助者や介護支援者に一番大事な役割は、利用者の傍らに寄り添って、その代弁者としての役割を果たすことだろうと考え、各地で行う講演などで介護サービスに関連する話題では、そのことを講演内容の中に組み入れてお話ししている。

逆にいえば、相談援助者として、介護支援者として、最も考えねばならないことは、最期の瞬間まで「傍らに寄り添うことが許される者」となり得るかということであり、その実現を図るために「QOLからQOD」という考え方が必要なのである。

哀しいことではあるが、人は最後の最後まで自らの意思を正しく表明し続けることは難しい。その時、誰かが替って、その人の真の思いに寄り添って、その人が望むであろう様々な思いを代弁して、その実現を図ることが「傍らに寄り添う」という意味である。

だから傍らに寄り添うとは、単にそこにいるだけを意味しない。大事なことは思いをくみ取るために「気づく人」になることだ。そして「気づくことができる人」とは、しっかりと目の前の人をみつめ、その人生を見つめ、その暮らしを見つめ、一人の人間として尊重することだ。

僕の施設の「看取り介護」では、口腔清拭の際に、綿花で綺麗に口の中を拭きとる前に、パイナップルジュースなどの柑橘系のジュースで、口の中を湿らせてから口腔清拭を行っている。これは、唾液の分泌を促進するという意味もあるが、それ以前に、食物や水分を口から摂取できなくなった人にも、味覚が残っており「味あう」ということを続けられるようにするためである。

これは、ある看取り介護対象者で嚥下不能な方の支援経験から生まれた方法論だ。その方に対して歯磨きを容易に行うために「フルーツ味」の歯磨き粉を使って歯を磨いているときに、その人が唇についたイチゴ味の歯磨き粉をなめた様子をみた介護職員が、嚥下困難で、物や水分を飲み込めなくなった人でも、味わうということは続けたいんだと「気づいた」ことがきっかけである。

その方は90歳代後半で看取り対象になったが、それまでは朝食後に、必ずデザートとしてリンゴを一つ食べられていた青森県出身の人であった。飲み込めなくとも、好きな味を味わうことの大切さを、利用者自身から教えてもらった結果だが、単に口腔ケアを作業的にこなしている人に、こういう「気づき」は生まれないだろう。心をこめたケアなどと抽象的に表現することがあるが、心をこめるとは、意識しなくともいつも目の前の人々の喜怒哀楽の感情に気を配ることである。

昨日の記事「心に響く手紙」では、当施設利用者のお母さんの誕生日に、ご自宅を訪問した息子さんの話を紹介したが、このことも利用者を単に「緑風園に入所している〇〇さん」という目でしか見ていない状況では生まれない発想で、担当の介護職員が、〇〇さんにはお母さんがご健在で、ひとり暮らしを続けられていて、誕生日がいつなのか、ということを知っていたから出来たことである。〇〇さんの人間関係を含めた人生そのものを、その尊厳と共に見つめていることからしかこのような支援行為の発想は生まれない。いやそれはもしかしたら支援行為ということ自体が間違いで、暮らしの中の人間関係として日常ケアのごく自然な一部分という意味であり、いかに利用者を暮らしを営む人としてみるか、というごく自然の関係の中でしか生まれない発想なのかもしれない

彼女たちは、そのことを自然と行っており、特別なことをしていると感じてはいないだろうが、僕は彼女たちがごく自然にそういう寄り添い方を、利用者だけではなく、その家族を含めて行っていることを、彼女たちの上司として誇りに思っている。彼女たちの「気づき」を大いに評価している。

どうぞいつまでも「気づく人」でいてください。緑風園は、特別に第3者に自慢するような設備もないし、特別なサービスも行っていない。ケアもまだまだ未熟な部分があるし、もっともっと改善していかねばならない課題も多い。しかし介護の現場で「気づく人」がたくさんいてくれて、その「気づき」を具体的な行動やサービスに結びつけることができる現場であることは誇って良いと思う。

そのことは今後もしっかり守っていきたいし、そういう「気づき」をもっともっと増やしていきたい。

どうぞ皆さん、いつまでも、たくさん「気づく人」でいてください。私は、小さな「気づき」を重ねてくれるあなた方を、とても素敵に思えます。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

心に響く手紙

「お早うございます。お心にかけて下さいまして有難う御座います。
身に余るお褒めの言葉を頂き嬉しゅう御座います。頑張る力が湧いてきます。
〇〇日は全く問題はありません。私の九十三歳の誕生日です。楽しみにお待ちしています。
〇〇個人の為に、こんな我儘許されてよいのでしょうか。ご無理なさらないでくださいませ。
九十歳を過ぎてから誕生日を祝うことにしたのです。〇〇日に三男がケーキを持って来るそうです。そんな程度なのです。心が明るくなり生きていけます。大事に生きます。
どうぞ〇〇様も頼りにいたしております。御大事に。」

先日、朝方に当施設の事務所のFAXに流れてきた手紙である。(ちなみに内容の紹介許諾は頂いている)

手紙に書かれているようにFAX(じゃ手紙じゃないだろう!という突っ込みはなしね。内容はまさに手紙そのものなんだから)の送り主は93歳の女性である。

この方の息子さんが当施設に入所されている。93歳の方の息子さんだから、介護保険の1号被保険者、老人福祉法の対象者である65歳以上の方である。

その方のお母さんの誕生日が近いことを知った担当介護職員が、せっかくの親の誕生日だから、息子さんに「お母さんの家にお祝いに行ってきませんか」と提案したところ、「是非」ということになって、誕生日当日の都合を確認した翌日に送られてきたFAXである。

昔の教育を受けた方だから実にしっかりした丁寧な文面である。

それにしても「九十歳を過ぎてから誕生日を祝うことにしたのです。」とは何て素敵なことなんだろう。こういう形での自分への「ご褒美」はとても素敵だ。質素であってもそれは人の心に深く響くものだ。

同時にいくつになっても息子を思う親の気持ちは変わらないことが伝わってくる。親子とは死ぬまで、いや死んでもずっと親子なのである。心の繋がりはずっと繋がっているのである。本当に素敵な手紙である。

認知症の方にも、重い身体障害があって自力で離床出来ない人にも、何らかの理由で意思疎通ができない人にも、誰にも親や兄弟や妻や夫や子供や孫や友人や知人や、何らかのつながりがある人々がいるはずだ。

現在我々が相対している人々が、意味もなく大きな声を出したり、暴力的であったり、介護を拒否したり、自発動作がなかったりしても、過去にそれらの人々と繋がっていた人々にとって、現在の状況に関係なく自分と親しい大切な人であるはずで、人間の価値は決して変わることはない。そのことを忘れずに人としての尊厳を決して損なわないように、周囲のあらゆる人々によって人は配慮されなければならない存在である。

自分に置き換えて考えてみてほしい。

自分の親や、兄弟や、友人や知人や、妻や夫や、子や孫が、どのような状態に置かれていようと、誰かによって人としての扱いを受けられない状況があるとしたら、それほど哀しくて、つらくて、悔しいことはない。

介護支援の現場では常にこのことに人一倍デリケートでなければならない。

おっと、そこで年上の高齢者で「ため口」で話していたり、ニックネームや「ちゃん付け」で呼びかけているのはどこのどいつだ。その汚らしい言葉は、君の心をそのまま現わすものなんだぞ。

本当に醜いものなんだぞ。

ところで後日談として、この方から2通目の手紙が同じくFAXで送られてきた。前より長文である。

「昨日は各別なおはからいにより楽しい2時間を過ごさせていただき有難く厚くお礼申しあげます。付き添って来てくださいました〇〇様の何と細かい心配り深く心にきざまれました。〇〇は幸せで御座います。若く美しい方々に介護して頂き安らかな老後を送れる事と思います。
そちら様が終の棲家となることをこの頃ようやく認識してきたようでございます。やつれました。驚きました。皆様方の手厚い介護を戴きながらも病気の進行は致し方ございません。我儘を申して皆様にご迷惑をおかけしていることとは存じます。お許しくださいませ。〇〇様と楽しいお喋りもあっという間に過ぎました。何と行き届いたお心遣い深くお礼申しあげます。お土産を用意しておりましたのに忘れて昨夜気が付いたのです。もう私もそろそろお迎えが近くなったのです。でも私を大事に思って下さる方々がいらっしゃる限り元気を出して生きようと思っています。
長く生きるって事は中々大変なことです。一人暮らしは寂しゅうございます。
今朝は寒いくらいでしたが日中はまだ残暑きびしい事と存じます。皆様こんな立派なお仕事誇りです。お身体大事になさってよろしくお願い申し上げます。
〇〇に付き添って来てくださいました、美しい方〇〇様でよろしいでしょうか?メモしてなかったので間違っておりましたらお許しくださいませ。」

93歳の素敵な女性の手紙から若い人たちが学ぶべきことは、心の謙虚さと、美しい日本語ではないのだろうか。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

そしてヘルパーはいなくなった。

24年の介護保険制度改正の骨格は、本年11月中に社会保障審議会介護保険部会で結論が出されることになっている。

その中心となる考え方が「地域包括ケア」であり、それは日常生活圏域で、急性期入院を除く医療・介護・福祉・生活支援などが一体的かつ適切に利用できる提供体制を全国につくろうという提案であり、具体的には24時間短時間巡回型の訪問介護や訪問看護、小規模多機能型居宅介護などを普及させ、要介護度を悪化させないための通所と訪問のリハビリにも重点を置くサービス体系とするものだ。

その一方で、この新体系の前提条件として、生活支援や家事援助はこうしたサービスとは別体系に属すると定義し、それぞれのサービスによって、保険給付と公費援助に加え、自費で利用したり、コミュニティーの互助が機能するようにさせるというものだ。

後者の意味が良くわからないと思うが、これは基本的に軽介護者の家事援助を保険給付から外して、必要なら自費で利用するか、地域の相互扶助で支えなさいという考え方である。地域包括ケアの前提はこうした給付抑制が伴っていることを関係者は理解せねばならない。

さらにこの包括ケアは定額報酬として、事業者と利用者間の契約でパッケージ契約内容を決め、定額報酬の中ですべてのサービスを提供するというものである。支給限度額を超えて現在サービス利用しているケースもこの定額報酬の中に納めてしまえ、という乱暴な理屈も隠されている。なによりサービス量や頻度決定は事業者と利用者の契約によるものなので、将来はケアマネジメントなど必要ないとされる可能性が高い。

こんな大きな改正を、現場議論がほとんどないまま本年11月までに結論を出して、1月の通常国会で法案を通し、24年4月から実施しようとしているのに、現場のケアマネ始めとして関係者の危機感は極めて薄い。今このことを地域で議論して、必要な意見なりデータなりを国に挙げないと、制度はひどい改悪で終わってしまうぞ。何を呑気に構えてるんだい?

滑稽なことに、この時期、当市を含めた3市1町(登別市・室蘭市・伊達市・白老町)の地域ケアマネ会は合同研修会を9/18に予定しているが、そのテーマはなんと「認知症のケアマネジメント」である。それも大事だろうが、時期を考えろ!今のんきに、認知症ケアを論じている場合か!そんなもの1年に何回も勉強しているではないか。そんなテーマでこの時期に4地域の会員を集めている場合じゃないって。この研修企画者はいったい何を考えているんだろうと声を大にして言いたい。定例会を無難にこなすだけしか頭になく、今なにが求められているかを考えていない研修会になり下がった3市1町合同研修会は今年限りで一旦、リセットのために終了すべきだろう。

ところで新しい「地域包括ケア」の中心的サービスに「24時間短時間巡回型の訪問介護」がある。これは既にモデル事業が実施され、成功事例として国の報告書に載せられている。しかしこのモデル事業を行っている全国展開の大手訪問介護事業所2社の関係者から漏れ伝わってくる実態は決して「成功事例」とはいえない。

モデル事業を実施した事業者は、結果的に予定件数を実施できず、モデル事業規模を縮小して終えている。つまり利用者が想定通り集まらなかったという意味だろう。モデル事業でさえそうなのに、実際に制度化された以後、このサービスを望んで、ヘルパーに鍵を預けて、深夜を含む夜間に短時間・複数回の訪問を望む利用者がどれだけいるんだろう?大いに疑問である。

介護保険部会では、この短時間巡回訪問介護について「認知症の人には適応しないのではないか?」という疑問が示されたが、日本看護協会の黒衣の天使は、わずかな成功事例を取り上げ「認知症の方にあわないとは言えない」と反論して議論を尻切れトンボで終わらせている。報告書に掲載するのは数例の成功例を「なんとか探して」いるのが通例だから、この看護協会の能天気委員の発言ほどふざけたものはない。おそらく認知症の方々にとって、その状態が軽度であっても、夜間複数回の短時間の「見知らぬヘルパー訪問」は混乱要素になるだろう。

だが問題はもっと根深いところにある。

実はこのモデル事業で「24時間短時間巡回型の訪問介護」の携わったヘルパーさんの多くの方が「夜間の短時間巡回型訪問介護」の過酷さを訴えているのだ。なかにはモデル事業で「懲りた」から、制度でこのサービスが位置づけられ、自分がその担当にさせられるならば現在の事業所を退職する、と明言している人もいる。それもかなり多い数としての複数人数が同じ訴えをしている。

「24時間短時間巡回型の訪問介護」が制度に位置づけられたら、今以上に夜間に働いてくれるヘルパーの数は必要になるだろう。しかし今以上に、この業務からヘルパーの腰は引けていくだろう。

その時、各地の訪問介護事業所は、夜間巡回ヘルパーを必要な数だけ確保できるのだろうか?確保するとしたら今より当然高い報酬で雇用せねばならなくなるだろうが、軽介護者の家事援助制限で、その分の収益が減った場合、ここにそれだけの人件費をかけられるのだろうか?非常に心配である。

そもそも、この形態の訪問介護業務なら「施設の夜勤の方がましよ。」と3年前に居宅サービスに転身したHさんは言っている。いくら時給を高くしても、給与の夜間手当をアップしても、夜間短時間巡回型訪問介護は「したくない」とリタイヤするヘルパーが増えるだろう。地域包括ケアは、案外こういう部分から崩壊してしまうのではないだろうか。

この点は介護保険部会で全く論議していないのはなぜか?委員が皆サービスの現場を知らない「ぼんくら」ばかりだからだろう。人選が間違っている。

とにもかくにも、夜間巡回訪問介護のヘルパー雇用は簡単ではないし、頑張って夜間訪問に携わるヘルパーさんがいたとしても、認知症独居高齢者などの世帯に、関係づくりが難しい短時間訪問をしながら夜間に地域を移動して訪問の数をこなさねばならないのはかなり過酷な労働である。女性なら夜中の移動の際に事件や事故にあわないかという心配もある。

そうなると、認知症の方々の混乱によるトラブルが増えるリスクが高いという僕の前段の指摘が現実になったとき、そのことと夜間巡回の労務負担がセットでヘルパーの身にのしかかり、ヘルパーさんの「介護うつ」を増やすのではないかと懸念している。訪問介護事業所の関係者はこのことを真剣に考える必要があるぞ。

そのことによりヘルパーさんの多くが退職して、「そして誰もいなくなった」という状況にならなければ良いのだがと心配の種は尽きない。

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要介護認定をなくせない理由

先日書いた「区分支給限度額利用率から考えること」で明示しているように、居宅の介護サービスは実際には区分支給限度額の半分ほどしか使われていない。

このことについて、あの評判の悪い新認定ソフトを作った筒井孝子女史は「区分支給限度額をきちんと使わないプランは不適切でケアマネジメントがきちんとできていない証明である」と言っているそうだが、全くこの人が分かっていないことがこの発言でもわかる。区分支給限度額とは、その状態像の人に対する最大限の支援を行ったときに必要になるサービス利用上限の目安で、平均値がこれを下回ることはある意味当然で、全員がこの上限まで使っているとしたら、それは必要なサービス上限としては「足りない」という意味になるものである。まあこの人が、この程度の理解力しかないことは既に分かり切ったことだからしょうがないか。

ところで、それにしても5割程度の利用率しかない実態を考えると、このことは同時に区分支給限度額が、サービス利用の上限目安としてはあまり機能していないという意味で、サービス利用は別の尺度によって決められていることを証明している。

そのことはケアマネジメントの良否の問題ではなく、人間の生活がいかに複雑な要素で組み立てられているかという問題としてみるべきである。

つまり、その尺度とは本来は「ケアマネジメント」そのものであるべきなのだが、実際には利用者の経済事情とか、本人や家族の希望とか、家族関係とか、住環境などといったものが含まれていると言える。

だからサービスを使わない理由は調査しても「これだ」というものは出てきにくいだろう。あえて言うとしたら、それは様々な個別事情であり、その根本原因は介護サービスを使っている多くの人が、公的介護保険だけではないインフォーマルサービスに支えられている部分が大きく、むしろ公的介護保険はインフォーマルサービスを補完する形で使われるケースが多いということだろうと思う。

しかしどちらにしても、このサービス利用実態を考察した時分かることは「区分支給限度額がないと必要のないサービスがとめどなく使われてしまう。」ということにはならないということである。

そうであれば、このように平均すると5割程度しかサービス利用実態がないにも関わらず、この区分支給限度額を超えて10割自己負担でサービスを使っている人がいるという状況は、それらの人はやはり区分支給限度額内のサービスだけでは足りず、それ以上の支援がないと居宅における生活が支えられないという意味になり、ということは区分支給限度額の現在の機能は、必要な人のサービスを制限してしまうマイナス面しかないということになる。

よってこの区分支給限度額は撤廃すべきであるという意見が出てくるのは当然であると言える。

しかしその延長線上、あるいは同じ視点から要介護認定をなくしてしまえ、という意見が出てくるのは少し首を傾げてしまう。

なぜなら要介護認定がなくしてしまったとき、保険給付対象者が現在の非該当者も含めたすべての人となることが良いのか、という問題があることがまず1点。ここまでケアマネジメントによって判断せよということになって本当によいのだろうか?

さらに問題となるのは、要介護度別に重度区分に厚く支払われている介護報酬の問題がある。

例えば施設サービスにおける報酬は要介護1が一番低く、段階的に要介護5が一番高く設定されている。そうなると要介護認定が無くなってしまえば、施設入所者は一律同額の介護報酬とせざるを得ないであろう。

そうであれば、同じ報酬なら、ただでさえ人手不足で重労働とされている施設サービスにおいては、手のかからない自立度の高い人の方を優先的に入所させるということが行われるのは目に見えている。いやいや施設入所判定基準を厳しくすれば大丈夫だという人がいるだろうが、入所判定など、判定する側のさじ加減でどうにでもあるものだろうし、今現在、重要な判定要素となっている要介護状態区分をなくしてしまうんだから、より一層不透明でファジーな判定にならざるを得ず、住民ニーズに合致する形での厳密な入所判定は期待薄だろう。

そうなったとき、実際には施設入所の必要性が高い、重介護が必要な状態の人が施設入所できなくなり介護難民となってしまう可能性が高い。

そういう意味では、そうした状況を生まない唯一の方法は、要介護認定により状態区分を分けて、介護度別報酬区分を残すことだと考える。

ただし、予防と介護の給付を区分して、7段階もの細かい状態区分は必要ないと思え、例えば軽度・中度・重度などの3段階への簡素化認定区分に変えていく検討はあってよいだろう。

しかし要介護認定についての一番の問題は、この判定ソフトがころころ変わり、そのたびに数十億円の国費(認定ソフト2009への変更時はモデル事業も含めて20億円の国費がかけられたが、その後の再々見直し等にいくらかあったのかは明らかにされていない)が支払われ儲けている奴らがいるということだ。

そういう意味では基本となる認定は見直して残しても、数年単位で変えてはならず、最低でも10年単位でそれを基本とするものでなければ信頼できる尺度とはならないだろう。

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人生が二度あれば。

子供のころから自分が将来目指そうとした職業というものは色々とあるだろう。

僕もたくさん、なりたかった職業があるが、高校時代に憧れていた職業は新聞記者である。文章を書くのが好きだったこともあるが、事件や事故を追って取材する記者の姿が何やら格好よく思えた。よく考えると小学生の頃も壁新聞を作るのが好きだったから、その時からの憧れかもしれない。

当時、早稲田大学の文学部に新聞学科というところがあり、本気でそこを目指そうと考えていた時期がある。その頃、国立大学をあきらめて私大を目指した経緯と、早稲田を目指す思いについては「masaのフォーク道6〜ああ早稲田」をご覧いただきたい。

しかし結局のところ僕は、その夢をあきらめ、現役で北星学園大学に入学し、福祉の道を選んだわけである。その理由は「社会福祉」に情熱を傾けたわけでもなく、確固たる理念を持っていたわけでもなく、早い話が家の経済的事情である。

父親が長年働いていた三菱金属が経営する下川鉱山(銅の鉱山である)が閉山し、父が四国の三菱の研究所に単身赴任して、母親が祖父と祖母と二人の子を実家で守っている状態で、かまどをさらに増やして私大に通うということには無理があった。だから当時の僕の選択肢は、国立大学に合格するか、私大なら家から通える範囲か、というものであった。

もちろん僕に根性があれば、東京の私大に通いながらバイトで学費や生活費の一部を稼ぎ出すという別な道もあったのだろうが、学業のためにプライベートな時間を削って頑張るほどの根性もなく、苦手な理数系を克服して国立を目指そうという気概もなく、結局のところ、家からJR(当時の国鉄)で通える札幌の私大を選択したわけである。

では札幌の私大の中でも、なぜ北星で、それも福祉学科(当時は文学部福祉学科であった)を選択したかといえば、まず当時の北星学園大学は(今では考えられないことだが)入学金と学費が道内一安かったという事情がある。おそらく国立の学費に近かったと思う。

当時の学内には文学部と経済学部があり、文学部は英文学科と社会福祉学科に分かれていた。しかし経済学部は野郎しかいないし、女の子の多い文学部を選ぶのは僕にとっては「当然」のことであった。女の子がいないキャンパスライフなどまっぴらである。だがいかんせん英語アレルギーで、英語があふれる中に3時間以上いると命の保障がないと医師に止められた・・・。(もちろん嘘である)

よってここにめでたく、社会福祉を目指す18歳の若者masaが誕生したのである。

しかし当時、この学科を卒業しても福祉に道に進むとは限らず、僕自身も入学した当時は、何を将来しょうかまったく決めておらずに「どうにでもなるさ」という思いが強かったが、それが変わっていって、やがて福祉の世界に身を置きたいと考えるようになった経緯については

「Think about my Daughter 〜もうひとつの少年期との出会い」
「Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ」
「Think about my Daughter 3 〜 彷徨(さすらい)」
「Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影」

をあらためてご覧いただきたい。僕の青春の1ページのなかでも、意味のある濃い時間がこの4つの記事の中に存在している。

今、福祉の職場に身を置いて、自分自身はこの仕事に誇りを持っているし、この業界で働かせてもらっていることに感謝しているし、振り返ってあの時、福祉の道を教えてくれた大学に進めたことも幸運であったと思っており、自分の今までの人生に何も後悔することはない。

しかし今でも僕の中では新聞記者は「あこがれ」の職業で、北海道I新聞社のK新聞のK記者も憧れだし、元福祉新聞の記者だったE荘のS施設長は、なぜそんなかっこいい職業から、苦労が多い社会福祉の道を選択したんだろうと大いに首を傾げたりしているのである。(笑)

人生が2度あるとしたら、今度は記者をもっと本気で目指すだろうか・・・。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護サービスにおける法令遵守について

今日の記事は僕の共著本の紹介が主になる予定であった。

しかしその前に昨夕、表の掲示板で情報提供した、厚生労働省老健局内の「次期制度改正と報酬改定」に関する裏情報を、表の掲示板をみていない人のためにここにも書き込んでおく。

(ここから昨夕表の掲示板に書き込んだ内容)
ニュースソースは明かせません。厚生労働省老健局担当者とコンタクトを取った方からの最新情報です。

次期介護報酬は省内の計算上では報酬はすべて減です。アップはありません。前回改定で3%アップしたことと交付金で事業収益はあがっているので上げる理由はないそうです。さらに収益が挙がっているのに職員に報酬として手当てしていないことからこれ以上上げる理由はないとのこと。報酬アップは職員待遇改善が主な理由だったからだし、改訂による経営安定でこれ以上上げる必要もないからとのこと。(儲けてるのは大手企業だけじゃんという理屈は通用しないようです。そもそも国は毎年の定期昇給は見る気がないんでしょうか?

特にケアマネ報酬についてはせっかく勝ち取った医療連携加算や認知症加算、独居加算などは算定率が低いのでなくなるとのこと。全然使ってないのが廃止理由で「もったいないよね」とのこと。(まったく人ごとですね。)もう時間はないけど関係者のアクションがなく社会貢献しているなどのアピールをしていかないと既定方針で行きます、とのこと。

お泊りデイの報酬算定は介護報酬全体では足かせ、これは省内でも皆賛成しているわけではない。これができると全国の宅老所はつぶれるし、小規模多機能居居宅介護は経営危機になるのは分かっているけど、この発案者は山井政務官。

元々は茶〇本舗というデイサービスが1日800円で雑魚寝のお泊りサービスをしている実態について「ひどい状態」なのに、保険外だから国の基準を適用できないことから、保険給付して規定を及ぼそうと考えたことに、一部の成功事例をアピールする人がいて乗ってしまったとのこと。

これはつぶさないといけないけど、つぶすには山井政務官が間違いに気付かないとだめ。

ということで全国の関係者の皆さん、とりあえずは山井さんにメールを送って、お泊りデイの保険給付化は間違っていると意見具申しましょう。

山井政務官のメールアドレスは次の通りである。
tokyo@yamanoi.net

↑ここ宛てにメールを皆で送りましょう。皆の声がたくさん届けば考え直す余地があるのでは、とのことです。

なお介護支援専門員の数は既に充足しているというのが国側の認識。今後は相談援助の専門家しかこの職種につけないようにする方向。現在の有資格者をどうこうする、ということにはならないかもしれないけど、受験資格となる基礎資格について特定の職種を排除するのではなく、相談援助ができない資質の者に資格を与えないようにするのが基本線だそうです。

2年前から報酬請求の際にケアマネ個人の番号が記載されるようになった以後は、国として誰がどんなプランを立て、どのように収益が挙がっているのか個人レベルで把握するデータを持っているので、これに反論できるような数値が示されない限り方針転換はないだろう。とのことです。
(以上、介護報酬改定裏情報終わり)

さて、今日の本題に戻る。僕の共著本がこのたび出版された。その紹介と購入検討のお願いであるが、このお願いを聞きいれて本を購入したからといって、決して損にはならないと思う。それだけ思いを込めて執筆し、出来上がりにも自信を持っているからだ。

介護施設と法令遵守・表紙
その本とは「株式会社ぎょうせい」から出版されている「シリーズ介護施設 安全・安心ハンドブック全6巻」の中の、第3巻「介護施設と法令遵守」である。

僕はこの中の第3章「特別養護老人ホームにおける法令遵守」という箇所を執筆しているが、特養だけではなく、他の介護施設や居宅介護サービスにおいても参考になるように心がけて書いているので、特養以外の方も読んでいただけるものとなっていると思う。僕の担当箇所は、約18.000字で、400字詰め原稿用紙でいえば約50枚弱である。(画像はすべてクリックすると拡大表示されます。)

僕の執筆内容について目次を紹介すると

1.利用者属性から考える法令順守の意味
2.法令遵守と職業倫理
(1)法令遵守と倫理の関係
(2)法律に対する倫理の位置づけ
(3)倫理観を生みだす職場環境
(4)情報公開の必要性
3.法令遵守とコンプライアンス
(1)コンプライアンスとは何か
(2)運営基準減算の考え方
(3)コンプライアンスの実務
4.業務体制整備から考える法令遵守
(1)法律改正の内容と目的
(2)法令遵守責任者の責務
(3)問われる組織内の伝達能力
(4)コンプライアンスルールの必要性
5.法令遵守とソーシャルアクション
(1)法令遵守のもう一つの意味
(2)特養の医療を巡る法整備の必要性
6.今後の展望と課題

以上の内容となっている。この原稿は昨年のゴールデンウイークから7月頃までかけて執筆し、本年6月に最終校正を行い、手を加えて完成させたものである。
巻末・講師紹介特別養護老人ホームにおける法令遵守
本のタイトルは「介護施設と法令遵守」となっているが、実際には介護保険施設以外にも、グループホームや有料老人ホーム(特定施設)、居宅介護支援、訪問介護、通所サービス、短期入所サービスなどの各分野に渡っている。僕の担当を含めた各章のタイトルを紹介すると

第1章「介護保険制度と法令遵守」
第2章「法令遵守の経緯」
第3章「特別養護老人ホームにおける法令遵守」
第4章「老人保健施設」
第5章「通所系サービス・短期入所系サービス」
第6章「介護付き有料老人ホームの契約と顧客満足の介護サービス」
第7章「訪問介護」
第8章「グループホーム」
第9章「ケアマネジャーと法令遵守」
第10章「介護事故訴訟から学ぶ利用者との関係」
第11章「指導監査からみた法令遵守」
終 章「法令遵守と介護現場−措置制度と介護保険」

以上の内容である。第3巻はこれだけの内容をすべて網羅して現在特別割引価格で販売中。1冊2.250円(送料サービス)である。これ1冊あれば、各介護サービス事業における法令遵守の参考書として活用できると思うので、是非ご購入を検討していただきたい。

お申し込みは「FAX申込書」からお願いします。

何か宣伝に終始した手前味噌のような記事になって恐縮だが、それだけ自信を持って勧められるという意味にとっていただきたい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

静岡に奴らがやってくる!(もんじゅについて)

今日の北海道には涼やかな風が吹いている。秋の訪れだろうか?今週末にお邪魔する静岡県の暑さはどうだろう。台風一過、秋に向かっているんだろうか?

ところで各地の研修会で講師役を務めるために移動する機会が多く、今週末はこの半月間で3回目の講演移動となる。道内は広いから移動に車で5時間や6時間かかることも珍しくはないし、講演を行うために自身の運転で8時間かけて移動することだってある。でも船や飛行機を使わないで移動できる道内は、どこへいくのも道外移動より気軽な感覚である。そしてそれが道産子のフツーの感覚である。

ところが田舎ものゆえの問題か、地理感覚の欠如が原因か、どちらかはわからないが、一歩道外に出ると他県〜他県への移動というのは、すべて道外に出向く感覚と同じで、例えば東京から別の県に移動するのは、移動時間がどんなに短くても、北海道から道外に移動するような感覚を持ってしまう。だからそうしたルート移動を大変なことだと考えてしまうのである。

しかし道外の人々にとって、それはまったく違う感覚らしく、他県への移動であっても、道内の移動と同じように気安く考えることが多いようだ。

例えば今週お邪魔する静岡県。東京都とはかなり離れているから、静岡に僕が行っているからといって東京の人が「近くにいるじゃん」と感じるなんてことは僕にはまったくもって理解出来ないのである。

僕は11日(土)が一日中研修会で基調講演やシンポジストとして壇上に立っているため、夜以外に自由時間はないが、一転、帰道する12日(日)は、全く予定がなく、予約フライトの17:30まで時間が自由に取れることを以前のブログ記事で書いた。

するとこのことを「奴」が嗅ぎつけた。そしてこんなメールを送ってきた。
さて、風のうわさで東京からごくごく近い!?静岡に上陸。ステキです。東京から1時間半あれば十分に到着しますな。もし、お時間が空いているようなら、ビデオレター!!撮りに行きます!もちろん、講義でお疲れでしょうから、お手間は取らせません。なんなら、ファンデーションも持っていきます!」

奴がファンデーション片手に静岡に飛んできたら静岡中の人間がファンデーション塗りたくっても奴のキラキラに負けるぜ!それも僕がアナログ人間だからファイル化して送ることができないビデオレターを撮るだけを目的に、根津から静岡にエネルギー全開でやってくるとしたら、静岡中が奴に圧倒され街中もキラキラ輝いちゃうぜ!

仕方ないから僕もファンデーション塗りたくってビデオで吠えようか!でも年相応にしないとな。

・・・イカン、奴の話題になるとどうしても文章表現が奴っぽくなってしまう。僕はもっと上品な文章を書かなけりゃあ・・・。

奴とは、この日本の介護現場を変えようと、いつもキラキラ輝きながら「もんじゅネットワーク」を作るために日本中を駆け回っている奴だ。その名を飯塚裕久、またの名を「炭酸野郎」とも言う。

9/23に「もんじゅ説明会」が行われるのであるが、ここで僕もビデオレターで応援メッセージを送ることにしていて、奴の鬼嫁・・イカンそうではない。モトイ、お姫様のような麗しき奥様よりメールでレクチャーを受けたのだが、僕のアナログ頭はデジタルレクチャーについていけず、ビデオレターではなく、文章を送りましょうかとメールしたところ、奴が「それはいかん」というわけで、駆けつけてくるわけだ。

しかもである。奴だけではなく、もう一人のアイツも一緒だという。

それは、あのビートルズをこよなく愛しちゃってるケアマネである。現在はデイサービスの管理者で、世間ではあいつのことをgitanistと呼んでいるらしい。呼び名もかっこいいが実際の容姿もグラサンがトレードマークのなかなかのイケメンで、芯が一本スーっと通った考え方をする、こいつもキラキラ感がある奴だ。

ふたりともまだ30代だな。ウン、こういう若い連中が自分の利益を度外視して、日本の介護の現状を変えようと損得抜きにプライベートな時間も惜しみなく使って頑張っている限り、この日本の福祉や介護の現場の明日は決して暗くない。

奴らがつくる「もんじゅ」のネットワークが絶対にこの国の介護現場を変えていくだろう。

もんじゅのミッションとは「NPOもんじょ」として会員を募り、
1.現場発の現場に巣食う問題を柔軟に解決するためのアクションプランを提示すること
2.現場の問題解決能力を向上させ、健やかな現場運営に寄与すること
3.10年後の業界イノベーションを興すこと

としており、具体的には「もんじゅミーティング」を通じて現場スタッフの職員の疑問や悩みを会員が一緒に考え問題解決を図り、具体的なアクションプランを構築した上で「もんじゅ報告書」を作成し現場に提案→実施→評価方向という流れの中で、現場スタッフ自身の問題解決能力の向上と事業所のサービス向上につなげる活動である。

そしてもんじゅ報告書は逐次、一般化された上でサイト上に公表され、施設内で起こり得る様々な問題についてナレッジシュアすることで新しい価値の創造を促すとしている。

ううん、文字にするとなかなか伝わりにくい。これを伝えるのは「起承転結」のない文章が得意な飯塚氏本人が直接言葉で伝える方が良い。
※僕は読んだことはないが(里樹ちゃんごめんね、って馴れ馴れしく書いておく)、漫画「ヘルプマン」を書いている「くさか里樹さん」も取材するなどして応援しているらしい。

ということで、このブログの読者のみなさんも「もんじゅ」に興味を持った人は是非、飯塚氏にメールでも出してほしい。必ず何らかのリアクションがあるはずである。「もんじゅ」の輪が広がれば、間違いなく10年後の福祉・介護現場は今より良い方向に変わっていくはずだ。

福祉・介護イノベーションは「もんじゅ」によって実現されるかもしれない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

昨日の介護保険部会の重要な裏情報

昨日(9/6)に開催された社会保障審議会・介護保険部会については様々なメディアで審議内容が報道されている。しかしあれはあくまで表面上の議論で、この部会を傍聴し、委員などの裏情報を得ている人からは、また違った情報が流されてきている。

それも、かなり現場の関係者にとっては憂慮されるべき、厳しい事務局側の姿勢が浮き彫りになっている。

そのことを情報提供する前に、まず皆さんに理解してほしいことがある。介護保険制度改正は24年4月から新制度として施行されるが、それの根幹を決める議論は、今年10月中旬までが正念場であり、ここで軽度者の家事援助などが切り捨てられたら、来年通常国会でこの法案が通って、それ以降はもうどうしようもないということである。再来年の問題と悠長に構えて、意見を挙げないなんていうことは問題外なのだ。だから緊急アンケートで、国に反論するデータを広く求めているんだ。このことを理解してほしい。

昨日の部会は、冒頭、厚生労働省の事務局に対し、部会で審議していない1割負担の引き上げ方針を9/3に朝日新聞報道が報道したこと対する「リーク問題」に、委員から「部会で話し合っていないことを公表するなら部会の意味がない」と非難の声が挙がるところから始まったということだ。このようなことはほとんどメディアが報道していない。

そして報道では、公費負担の引き上げなどが提言されたということしか伝わっていないが、それらはすべて事務局から「NO」という姿勢が示され、そんなことは国会を通らないとくぎ刺しがされている。

国側は、限られた財源で給付をこれ以上大きく出来ないのに、長妻大臣と山井政務官が「お勧めする」お泊りデイサービスへの財源支出が新たに増えたんだから、その財源も必要な状況で、これ以上の給付は増やせないという考えを強く示したとのこと。

そのためには
1.公費負担増は景気動向に左右されるので現在の5割の公費負担はこれ以上増やせないし、そのような案では国会を通らない。

2.給付が増えた分については
1.2号被保険者の範囲を拡大するか
2.利用者1割負担を増やすか
3.軽度者のサービスを保険外にするか

どれかあるいは、その組み合わせしかない。という考えで、9/3に国がリークした考え方は、1割負担維持は難しい、ということである。

さらに介護保険10年の総括では、この制度があまりにも保護的で、国民を甘やかし過ぎて必要ないサービスが使われている、と結論付け、その責任について、ケアマネマネジメントとホームヘルプサービスにおける家事援助が最大の戦犯である、としている。

つまり委員からは軽度者の家事援助を切り捨てるべきではないという意見が多くなっているが、国の方針は、そんな意見に関係なく、軽介護者の家事援助の保険外化、こうしたケアプランを立てるケアマネジャーは必要ないとし、地域包括ケア報告書で「ケアマネジャーは充足している」とされているのを根拠に、この資格受験の基礎資格の大幅見直しによって、ケアマネジャーを削減するというものだ。特に議論では医療連携できないのは介護福祉士を基礎資格にしているケアマネジャーが多いからであるとしている。

しかしケアマネ受験の基礎資格については、特定の資格を切り捨てることは強い各団体の反対にあうので、巧妙に解決するため、介護福士等の特定資格を切り捨てるのではなく、受験資格について「大学卒相当」という条件をつけることを狙っている。そうすれば結果的に介護の実務や介護福祉士資格による受験者数は大幅に減るというわけである。

しかも、こんなにケアマネジャーが悪者にされ、コケにされ、受験資格の見直しが強要されようとしているのに、ケアマネ側の代表委員である日本介護支援専門員協会会長の木村隆次委員は、反論など全くせず、国の言いなりどころか、介護職員切り捨て策には「ケアマネジャーの質の均一化を図るためには、国家資格化と大学教育相当の要請過程が必要」と、このことに積極的で、なおかつケアマネジメントと家事援助戦犯論にも全く反論していない。

日本介護支援専門員協会の会員は、このことを知っており、認めているのか?

この結果、次期介護保険制度は、地域包括ケアという定額報酬方式を地域サービスの中心に置くことで、給付費の抑制を図り、介護支援専門員のケアマネジメントを必要としないサービスを増やして、介護支援専門員をどんどん淘汰させ、軽度者への家事援助を保険外として、訪問介護事業所も淘汰し、さらに1割負担を引き上げ、補足給付を廃止して財源を確保する方向に向かうだろう。

こんな改悪が行われようとしているのに、なぜ現場関係者はおとなしいんだ?大変なことになるぞ。

まず声を挙げる第1歩として、それは違うというデータ集めをしている水下さんのアンケートに協力しようではないか。(ワード版 ・ エクセル居宅版 ・ エクセル施設版

でもこれだけじゃ足りない。各地で関係者が国の考えに積極的に異議を唱えていかないと大変なことになってしまう・・・。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士の専門性を疑う人に応えられるのか?

8/25に「介護福祉士に専門性なんてあるんだろうか?」という記事を書いたところ、今日までに40件以上のコメントが寄せられている。同時に様々な人がこの記事に刺激?をうけて自身のブログで「介護福祉士の専門性」に関連する記事を書いている。

例えばbon01979さんこと古瀬先生の「北海道のmasa氏の問題提起」 ・ gitanistさんの「介護の専門性とは」 ・ ヅカちゃんの「介護福祉士の専門性?あるよ。」などである。

ある意味、僕の「挑発」に対し、このように真面目に反応してくれる人がいることは素晴らしいことだ。それが僕の意見に対する反論であっても、自らの専門性を言葉や文字で表現できることが大事だ。このような人が多いとこの業界の未来、そして介護福祉士という資格に対する未来への展望が開ける。

しかし一方では、専門性はないとあきらめたり、開き直ったりする人がいることも事実で、それは僕の記事に寄せられたコメントでも読みとれる。ここが問題だ。

だから僕が書いた記事は、介護福祉に対する愛情を込めた叱咤激励であり、エールであると同時に、ある種の幻滅感も含んでいることを否定しない。そして近い将来、僕の期待がこの資格に対してなくなってしまった場合、別な方向でアクションを起こすことになる可能性も否定しないのである。

なぜなら家族が行える行為を介護福祉士の手で、という提言を「医療行為に手を出す」とか「医療行為解禁」という方向で捉えて、そこは介護の範囲ではないと考えるスキル自体が問題だと思うからである。それは医療行為解禁という問題ではなく、介護職が医療行為の一部を担うという問題でもない。本来医療行為ではないとしてよい行為をきちんと介護の専門家として対応しようという意味であることを理解してほしい。

何度も同じ主張を繰り返すことになるが、医療行為自体は未来永劫、医師や看護師などの医療の有資格者が行うべきで介護の専門職が手を出すべき範囲ではないから「医療行為解禁」なんか必要ない。

僕が言っているのは医療行為を介護職に解禁せよ、ということではなくて、医療行為という概念が広すぎて実際には医療職以外の者ができる行為までその中に括られ制限されてしまっており、時代のニーズはその制限にそぐわなくなって、特に家族が自宅で安全に行えている行為(インスリン注射等)については、医療法が制定されていた当時、このような超高齢社会で在宅高齢者が自宅でインスリン注射が自分でできなくなるデメリットを想定していなかったんだから、そうした行為は医療行為ではないと、その判断を変えていこうというものである。

狭心症の方に対応するフランドールテープだって医療法制定時になかった方法で、こんなものを医療行為という理由だけでヘルパーが貼れないなんて考えるほうがおかしい。その期待に沿うことは国民ニーズに沿うことで、医療行為ではなく、介護としての支援行為をきちんと担うことである。

ここを理解出来ないなら、そもそもこの議論はいつまでも水かけ論である。

だいたい全国老施協も、介護職員の出来る行為を拡大する方向を「医療行為解禁」とか「違法性阻却」でしか語れないから現場が混乱するのだ。老施協に人材はいないのか?

ところでこの介護福祉士の専門性、どうやら多くの有識者は影では「そんなものないよな」と考えている節がある。そのよい例が、社会保障審議会介護保険部会での介護支援専門員の実務経験に関連する基礎資格見直し議論である。そのいくつかの意見を下記に紹介しておく。

「審議会の各委員意見」

結城康博委員(淑徳大学総合福祉学部准教授)
・(資格の新設から)10年間経った今、受験資格を見直すべき。幅広い職種に受験資格があることのメリットもあるが、検討が必要。

川合秀治委員(全国老人保健施設協会会長)
・医療と介護の適切なマッチングを訓練されているか。当施設のケアマネジャーは、看護職で占めている。事業主としては、医療のわかるケアプランナーを支持せざるを得ない。国家資格にとまでは言及しないが、高度な医療知識が必要ではないか。

齊藤秀樹委員(全国老人クラブ連合会理事・事務局長)
・ケアマネジャーの生命線は中立性にある。事業所併設サービス利用は、現行の集中減算で中立性が確保されているか再考の余地がある。また、保有資格が介護福祉士に偏り、医療的ケアへの知識が十分といえないとの指摘があるため、人材養成の抜本的見直しが急務ではないか。

河原四良委員(UIゼンセン同盟日本介護クラフトユニオン会長)
・ケアマネジャーが独立できない、しないのは、月々の収支が不安定であるから。収入の安定に向けた対策が必要。また、介護の要でありながら、国家資格ではないということは不思議でならない。

日本介護支援専門員協会会長の木村隆次委員
・ケアマネジャーの質の均一化を図るためには、国家資格化と大学教育相当の要請過程が必要、受験要件(基礎資格など)の見直しを行うための検討会を設置することといった大胆な養成見直しが必要である。

以上である。

この意見をよく読むと、基礎資格から外そうとしている第1番目のターゲットは、明らかに「介護福祉士」と「介護業務」である。まあ看護師等医療系の有資格者ではないと適切なケアマネジメントができない、などという全老健協会会長の意見などは偏見にしか聞こえないが、これだけ介護福祉士への評価が低い意味を、この資格を持つすべての人が考えるべきだろう。

単に相談援助職ではなく、介護の専門職だから、基礎資格から外されてもよいのだろうか?それとも社会が、国民が要請する介護職の担う行為の明確化と範囲拡大に二の足を踏み続ける日本介護福祉士会に対する痛烈な評価であるのか?

ここが考えどころである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

masaのipad活用報告

先月ipadを購入した経緯について「何かが変わる?僕のIT事情」という記事で紹介したが、購入から今日で16日間が過ぎた。

その後、このツールをどのように活用しているのか、高いおもちゃにしか過ぎなくなっているのか、はたまた既に使わなくなっているのか?気になっている方もいるだろうから、現在の活用状況を報告しておく。

当初、僕はipadは家族みんなで使おうと思って購入したのであるが、妻も子供も、PCと携帯だけで充分であるようで、ipadにあまり興味は示していない。(うちはドコモ携帯でiphoneは誰も持ってません。)そもそも僕がずっと持ち歩いているので、僕が寝ている時間以外は家族の手に触れることもないから使えないと思っているらしい。

逆を言えば、それだけ僕自身は使っているということだ。最近では携帯がなくても不便を感じないが、ipadがないと何となく不便を感じてしまう。

インターネットを外出先のちょっとした空き時間にスイスイつなげられるというのは、ネット掲示板の管理を行っている僕としては大変便利である。介護福祉士養成校の授業の合間の休み時間に、ipadから掲示板にレスポンスを書きこんだり、次の時間の授業で話そうと思っていたことの背景補足に関する部分をネット検索で確認したり、大変重宝している。


メール受信トレイ当然ipadを使って、メール送受信も行っている。ipadではPCと同じアカウントを設定して送受信することも可能だが、さほど早急に確認する必要もないのでPCアカウントは登録してあるがOFFにして送受信しないように設定している。しかし旅先などでは、この設定をONにするだけでPCアカウントのメールも送受信が可能である。日常的にはipad専用アカウントとしてGmailアカウントだけをONとして使っている。どちらにしても画面上のキーボードで文字入力ができるので、携帯電話のメールよりはるかにストレスなくメールが書け、PCを持ち歩いているのと変わりなく便利である。電話で話をするより、メールでコミュニケーションを交わすことが多い僕にとってはなくてはならない機能である。(左上の画像はGメール受信トレイ:この記事に貼りついている画像はすべてクリックすると拡大表示します。)

パワーポイントやワード、エクセルファイルについても、ipad自体でそれを作成はできないと思うけど(多分?)、師匠であるMr.Mさんに教えていただいた方法で確認可能である。

ipadでgoogleドキュメントを開くPPTファイルをみるまずネット上にgoogleドキュメントのマイページを作成し(もちろん無料である)、ここにパワーポイントやエクセル等のファイルを保存しておく。それをipadから開けば良いわけで、左端画像がipadからgoogleドキュメントにアクセスしているところで、次の画像がipadから自分が作成したパワーポイントファイルをダウンロードして確認している画面である。(ただし僕はまだPPtについては確認までの段階で編集まではたどりついていない。M師匠によると文字編集は可能だというので、さらに研究が必要だ。)M師匠、このあたりコメントでご指導願えればありがたい。

ipadでワードを開くワードをipadで開いたのが右画面である。文書としてみるのは問題なく、コピーペーストなどができるのだが、文字編集にたどり着けない。これも現在研究中。







ipadでエクセルを開くエクセル文書編集画面左端はエクセル文書を開いたところ。特に問題はない。次の画面は編集画面である。エクセルはこのように文書編集にたどり着くことができた。どちらにしても、googleドキュメントを利用した文書管理は、まだ研究と対策が必要だ。





他のアプリケーションも現在使っているものをいくつか紹介したい。

カレンダー月スケジュール画面週間スケジュール画面(カレンダー)まずスケジュール管理に使うカレンダーである。データを随時更新することで月別・週別・日別にスケジュール内容や時間、場所等を確認できる。しかもこれはGoogleカレンダーと同期出来るので、PCまたはipadどちらかで編集すれば、どちらにも同じデータが反映されるから便利である。週単位の画面(左から2番目の画像)は、居宅サービス計画や施設サービス計画の第3表に似ている。かつては介護認定審査会を忘れて仕事に没頭していたり(参照:認定審査会に遅刻する)、何かと物忘れが多くなった自分としては活用できるアプリである。僕の認知症発症時期はこれにより数年先送りされるだろう。

メモ転送画面メモメモも便利だ。紙ベースのメモ帳はもういらない。ちょっとしたことでもipadさえ持っていれば、会議等でも、ここのメモに必要事項を打ち込んでおけば、忘れることはないし、あとから編集も可能である。しかも便利なのは、メモしている途中でも、画面上のメールアイコンにふれると右端の画像のような画面になって、メモした内容をそのままメールで送信できるのだ。これも結構活用できる。例えば制度改正関連で業務命令を受けて審議会を傍聴しているとした場合、誰それがどう発言したとか、今こんなことを話し合っている、というようなことをメモに入力して、それをそのまま職場にメールで送ればリアルタイムで離れている場所で会議の進行具合が分かるわけである。マスコミ関係の方などは実際にipadやiphoneをこのように使っているのではないだろうか?

I文庫HDの本棚息抜きの読書も画面の大きさがちょうどよいからストレスなく本が読める。アップルストアの無料の読書アプリには現在日本語の本が入っていないため、僕は「i文庫HD」というアプリをipad画面上のアップルストアから800円で購入した。左側画面が本棚で、ここには著作権が切れた作品がたくさん入っているので、これはすべて無料で見ることができるわけだ。夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、宮沢賢治、森鴎外、梶井基次郎など僕の読みたい作者の作品が多数ある。800円でこれだけの種類の本を読むことができるのは非常にお得で幸せな気分になる。

次の画面で読んでいるのは夏目漱石の「門」であるが、ipadを横にすると見開き2ページの画面に自動的に切り替わる。次の画面はページをめっくっているところであり、本物の本のような感覚で読むことができる。もちろんマンガもこのように見ることが可能だ。

夏目漱石「門」画面を横にすると見開き表示本のページをめくるマンガも読める







マップマップも面白いアプリだ。現在位置から移動予定場所へのルートや時間が表示されるので、カーナビがない車で移動する際は、カーナビ代わりに使えるだろう。方向音痴の僕にはうってつけである。

Macもiphoneも使ったことがない僕が、わずか半月で、毎日様々な新しい使い方が見えてくるので、使い方はそう難しくないと言ってよいと思う。他の誰が使っても大丈夫だろう。僕自身も今後アップルストアから無料のアプリをどんどんダウンロードしていろいろなことに使えるようにしたいと思う。何しろアップルでは、今後、禁煙支援や健康管理情報の無料アプリも出す予定であるとのこと。Ipadで自分の健康や介護サービスの管理もできる時代がすぐそこに来ているのかもしれない。

いまMr.Mさんと、BOBさんが盛んに勧めるのは、スカイプを設定し、それを使ってipadをテレビ電話として使うことなんだが、さすがにipadに向かって話しかけている自分の姿を想像すると気色悪いものを感じ、まだその設定はしていない。しかしお師匠達に直接教えを仰ぐためにも早晩これも設定して使うことになるだろう。

どちらにしてもこれは使えるツールだ。なにより(データ編集を必要としない場合は)出張や講演などで道外に行く際にも、今後はモバイルパソコンなど持たず、ipadだけ持っていけば済むので荷物がぐんと軽くなる。それだけでも便利である。

田原さん、やっぱこれイイヨ。データ編集問題はもう少し研究してみるけどね。でもiphoneを持っている人は、そちらで充分あるいは、そちらの方が使いやすいという場合もあるでしょう。これはもう好みの問題ですね。でも使えば使うほど、使い方が広がるからヅカちゃんもやっぱ欲しくなったろう。

ただねヅカちゃん。ipadは奥さんが凶器として君を殴るのにもちょうどいい大きさと重さなので、そこが気をつけなけりゃならんとこだな。

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看取り介護講演は進化している?

先週(8/27)、札幌市の社会福祉法人ハピニスにおいて「看取り介護講演」を行った。

金曜日の午後5時30分からの講演であったが、特養はじめ障害者福祉施設、グループホーム等総勢100人を超える職員の皆さんが90分の講演を熱心に聞いてくださった。

講演の最中に、複数の皆さんが目頭を押さえて、涙を流しながら聞いてくださり、その熱心な受講態度には、大変感謝している。おそらく僕の話振りが涙を誘うというより、様々な実践ケースの紹介の中で、我々にいろいろなことを教えてくださった今は亡き、おじいさん、おばあさん達の「思い」が受講者の方々に伝わっていった結果であろうと思っている。

僕が初めて「看取り介護」を講演テーマとしてお話ししたのは、平成18年7月31日、岩手県社会福祉協議会・高齢者福祉協議会主催の研修(会場:アピオ)であったと記憶している。

それは、18年4月から特養の介護報酬に「看取り介護加算」という加算報酬が認められた際に、算定要件の一つであった「看取り介護指針」を僕が(多分最初に)作り、いち早くホームページからダウンロードできる形で公開したのがきっかけで、この取り組みの先駆者と見られていたからであろう。

実際には看取り介護の実践自体は、僕の施設以外の施設で先進的な取り組みをしているところがいくつもあり、僕の施設はそこを目指して、努力をしている段階にあったに過ぎないが、その過程で様々に考えてきたことや課題を言葉にして伝える、という意味で講演をお受けしてきた。

その後、道内外で何度も「看取り介護講演」を行ってきたが、平成18年〜19年当たりの講演内容と、現在の内容はまったく中身が違っていると言ってよいだろう。

当時の看取り介護講演は、新設された「看取り介護加算」の意味や課題を中心に、そこで求められている算定ルールに基づいて、いかに施設の中でサービス提供システムを構築していくか、看取り介護計画の中身をどうするか、ということがテーマの中心であったが、今現在は新しい報酬加算ルールの下で行った看取り介護の実践から出てきた課題、気づき、看取り介護終了後カンファレンス(デスカンファレンス)の中で家族の意見から考えたこと、改善点等々が中心になっている。

それから18年〜21年当時までは、看取り介護の対象であるという判断が、単に「医師の医学的見地から回復のない状態」としていたものについて、判断の個人差を埋めるために自然死に対する国民的議論が必要であると課題を指摘していただけであるが、今現在の僕の「看取り介護講演」では、例えば経管栄養をしないで経口摂取ができなくなった以後、末梢点滴だけで終末期に備える際の判断基準を、選択肢の一つとして、ある程度の明確な基準を示して、これが将来エビデンスとなるであろうという考えと共に示している。

つまり講演内容はより実践にそって、具体的に、かつ臨場感があふれたものになってきているのではないかと自己評価している。

よって、ここには理想論とか、概念論とかはあまりなく、実際にやっていること、これからできるであろうこと、やりたいことの具体的内容が主になっている。

そして皆さんの前で、こうしたテーマでお話しすることによって僕自身の「気づき」もあるし、自分が施設で取り組むことにおけるモチベーションにもなっていると言ってよいだろう。

だから当時僕の講演を聞いたことがある方々でも、今改めて僕の「看取り介護講演」を聞いても意味があると思う。

ただしその根底にあるであろう、我々の看取り介護に関わる姿勢については、当時と同じことを話し続けている。

それは、大事なことは命というものは、どんな状況に置かれても、誰の命であっても尊いもので、それに代わるものはないということであり、そうであるがゆえに「看取り介護」とは死に行くための援助ではなく、最後までその人らしく「生きる」ことを支援する、かけがえのない命に寄り添うことであるということである。

このことを実践の具体例から示した時、はじめて感じてもらえるものがあると思う。だから看取り介護を話し続けることは、これからも続けていこうと思うし、それは我々のすぐそばにいる、かけがえのない人々の暮らしを豊かにすることのみを目的にしているに過ぎない。

だからその取り組みは、決して特別なことではないはずである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

午前零時のひとりごと

お盆を過ぎれば秋の気配が漂うはずの北海道も、今年の暑さは異常である。

もちろん本州のように日中35度を超えるような気温になったり、熱帯夜で苦しむというようなことはないが、もともと暑さに耐性のない道産子にとっては、この時期まで日中30度近くなる日が続くのはつらいものがある。

それでも今日から9月である。そろそろ秋のさわやかな風が涼しさを運んでくれるころだろうか?

そんなことを考えながら8月から9月に変わる午前零時の空を見上げながら、ふと思ったことがある。

それは日本人にとってこの8月という月は決して忘れてはならない月なんだ、ということだ。

例えばそれは終戦という歴史上の大きな出来事があった月である。そして広島と長崎において「核」という非人道的兵器によって一般市民が多数殺戮されるという人類最大の過ちが行われた月でもあるからだ。

さらに道内の福祉・介護関係者にとっては、もう一つ8月には特別な意味があることを忘れないでほしい。知らなかった人には是非そのことを知ってほしい。

それは8月12日という日のことだ。この日は僕の誕生日でもあるが、そのことを言っているわけではないし、そんなことはシャレにもならない。

ただ僕の誕生日と同じ8月12日という日は、御巣鷹山に日本航空123便が墜落した日でもある。

それは25年前の1985年8月12日18:56のことであった。

僕はその日、ちょうど施設の盆踊りを終え、会場の後片付けを終えて帰宅してビールを片手に食事をしていた。そしてそのことをNHKのニュースで知った。そして犠牲者520人の中の一人に、歌手でもあり、北海道の福祉に多大な貢献をした坂本九さんが含まれていたことを知りショックを受けた。

あの事故から25年たってしまった今となっては、スキヤキソングとしてアメリカでもヒットした名曲「上を向いてあるこう」などを持ち歌としていた大歌手・坂本九という人のことさえ知らない人が増えている。

そして彼が北海道の福祉現場に多大な貢献をして、大きな足跡を残したことを知らない福祉関係者も多い。

坂本九さんは、当時、日曜日の朝にSTVで「サンデー九」というテレビ番組のホスト役を務め、道内の社会福祉施設を回り、ボランティア活動に自ら取り組み、福祉現場の実態を大きく取り上げ、福祉の向上に繋がる広報活動に多大な貢献をした方である。

そのとき、そこにいたのは歌手・坂本九ではなく、人間・大島九(ひさし)であった。

当時は社会福祉士や介護福祉士という資格もなく、当然それらの養成専門校もなかったが、あの番組をみて福祉や介護の道を選んだ若者も多かったはずだ。

僕も大学生時代に何度か栗沢町の福祉村の活動等で、坂本九さんとはお逢いしたことがある。あの時の優しい笑顔があの航空機事故で一瞬のうちに失われてしまったことを、当時のニュースをみても信じられなかった。

「サンデー九」という筋金入りの硬派番組が無くなってから、それに代わる福祉関係番組はいまだに制作されていない。25年前の8月12日に、我々が失ったものは、九ちゃんを含む尊い520人の命であると同時に、道内の人々に福祉活動を啓蒙する素晴らしい番組も同時に失ってしまったのである。

むごいことだが、坂本九さんの遺体は、墜落の衝撃で四肢・頭部が断裂し所在不明。ただ胴体のみが身に付けていたペンダント(これも胴体に突き刺さっていたそうです・・・)によって奥様に本人であると確認されたそうである。だから坂本九さんの墓地に眠る遺骨は、胴体の遺骨のみである・・・。

だから僕は自分の誕生日は、同時に坂本氏を悼む日でもあると思っている。

道内の福祉関係者も決して坂本氏のことを忘れないでほしいと思う。彼を知らない人にも彼のことを伝えてほしいと思う。

そして、いつか北海道のテレビ局から、あの「サンデー九」のような番組がまた生まれてほしいと思う。

そんな番組が作れるのは、現在ではUHBのMディレクターだけではないかと、僕はひそかに思っているのである。

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