masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

2010年06月

制度改正の視点はまたも給付抑制

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成澤さんのブログnarisawaメモの6/23「地域包括ケア研究会報告書に物申す」の記事で、彼が指摘しているように、「アセスメントやケアカンファレンスが十分に行われておらず、介護支援専門員によるケアマネジメントが十分に効果を発揮していないのではないかとの指摘がある。」というふうに根拠のないケアマネジメント批判が制度改正議論との絡みの中で再燃している。

この状況は18年改正議論と全く同じであるが、それよりさらに悪質な世論誘導が行われていることを関係者は知っているのだろうか?

6/21に行われた社会保障審議会介護保険部会の資料の中にそのことは載せられているが、同会そのものが介護保険制度改正(24年4月からの改正)の方向を「社会の在り方として、まず自分のことは自分でする。介護保険がその人を食べさせるわけではない。」(田中滋慶応義塾大学教授)として「介護の社会化」という制度創設時のキーワードを否定するところから入っているのだ。

この発言内容は現在まで一般には公開されていない。今後議事録が公開された際に載せられる保障もない。これは当日同会を傍聴した「とある関係筋の方」が、当日の質疑応答の内容をメモして僕に送ってくれた情報である。

それを読んで、ここでの発言を総合的に評価すれば、彼の展開する持論の根底にあるものは、いかに費用をかけないで制度を維持するかというもので、介護サービスの質も、人の暮らしも、建て前としては「向上させる」といいつつ、実際には、サービスを削り、暮らしの質の低下を自己責任論で放置し、金がないものはそれなりのレベルでしか生きるな、という給付抑制策でしかないのだ。

その内容を具体的に示すと、現在、長妻厚生労働大臣が推進発言をしている24時間365日の巡回型の介護・看護訪問によるサービスを地域の中心サービスにして、これを在宅生活維持の切り札とする「脱・施設化」を前面に示すと同時に、「介護保険に頼り過ぎてはいけない。自分のことは、まず自分でするのが当たり前」(同教授)という考え方により「介護保険は、本来保険事故に対して給付するもので、本来ならば予防介護と補足給付は介護保険ではない」・「(訪問介護の)生活支援は介護ではない。民間のサービス利用をすべきだ(保険給付せず自己負担で保険外サービス利用とすべきという意味だろう)」(同教授発言)とされている。

つまり龍谷大学の池田教授と同じように、介護保険制度は社会保険制度になったんだから、それは社会福祉ではなく、保険事故だけに対応するものだという主張である。だから予防介護サービスや訪問介護の生活援助は保険外とすべきだし、低所得者減免としての補足給付も行うべきではない、という主張だ。そして地域包括ケアシステムとは聞こえはよいが、その中で介護・看護のパッケージサービスを作り、包括的なサービス部分だけに生活援助などを残すという考え方である。長妻大臣も、山井政務官もこの辺の整理や理解ができて肯定的発言を続けているのか?

しかしこれはまやかしだ。もし2000年の介護保険創設時に、介護保険が保険事故だけを給付対象とする社会保険と変わるという意味であったとしたら、その時、時の政権政党は、この国の高齢者介護サービスは今後「社会福祉制度」から外し、社会保険制度としての意味だけしか残さずサービス展開しますと公にして、そのことが良いかどうかを問う政権選択選挙で国民の信を問わねばならなかったはずだ。一定領域から社会福祉制度をなくすということは、それだけ大きな社会問題なのである。

実際には、そんなことはされず、介護保険の導入も、社会福祉構造改革の中で、介護の社会化を旗印に、国民の権利を明確にしたうえで「社会保険方式」を取り入れた制度に変えた、というものである。それを今更、介護保険制度は、社会福祉制度ではないというような理屈は、ペテン師の理屈で、そうであるなら、介護保険審議会でこうした主張を展開する田中滋は今世紀最大の詐欺漢である。

しかし28日に経済同友会が「要支援1と2、要介護1のサービスを保険給付から外せ。利用者自己負担は現行の1割から2割に引き上げよ」という提言を行っているが、同時にその中で「公的介護サービスの提供は必要最低限にとどめ、それ以上のサービスは自己責任・自己負担で」と提言している点と重なり、こうした方向に流れてしまうことが一番怖い。そうなれば日本から高齢者福祉はなくなり、貧富の差は、高齢者の中でさらに拡大して、陽のあたらない場所で、最低限の生活でお迎えが来るまで苦しい息をし続けるだけの高齢者が増えていくだろう。そういう国家であってよいのか?

そもそも田中教授が提唱する「地域包括システム」とは、概ね30分以内の日常生活圏域(中学校区)で、医療・介護・福祉・生活支援を一体的かつ適切に相談・利用できる体制であるというが、それは都会の論理である。北海道の田舎でそんな範囲にサービスが包括化できるわけがない。都会と同じサービス資源を包括的に作ろうとすれば、小さな町単位でやっとという状況の地域がたくさん生まれる。過疎が進行する地域ならもっと大きな単位でしか実現できないことだ。それを全ての地域において概ね30分以内の日常生活圏域で実現しようとすれば、非効率費用の負担が現在より増え、地域保険者の財政はさらに悪化するだろう。

しかも彼の考えるシステムは、インフォーマル支援が皆無で実現する状況を想定しているとはとてもではないが思えない。欠陥だらけである。例えば認知症の一人暮らしの人を、このシステムで地域の中で支援できるかといえば、それは現実的には不可能だし、重度介護者もインフォーマル支援の比重がかなり重くなることが予測される。

そもそも在宅要介護者の施設入所ニーズは、必ずしも要介護4や5という状態でなくとも、90歳の要介護者を65歳の嫁が支え切れなくなって生じているケースや、70代の高齢者世帯で主介護者が限界に達しているという老老介護の問題がたくさんあるという視点が全く欠けている。巡回型サービスの限界を超える状況が今以上に生ずる社会の現実に目を向けていない。

彼が部会で主張した主な発言内容は以下の通りである。

1.これからの在宅介護はリハビリ中心
2.保護的介護からの脱却。なんでもしてしまう介護が利用者を駄目にしてきた。
3.24時間365日の巡回型介護・看護による自立支援
4.短時間型介護
5.複合型事業所によるパッケージ化されたサービスを中心に
6.地域当直医制をつくる
7.介護保険に頼り過ぎてはいけない、自分のことはまず自分でするのが当たり前
8.生活支援は介護ではない。民間サービス利用を。

こんな現実理解のない大学教授を「有識者」として審議会の参考人にしている限り、介護保険制度が国民から見て良い制度になるわけがないのである。

しかも恐ろしいことに、この「地域包括ケア報告書」は、筒井孝子研究員と一緒に、あの軽度誘導介護認定1次判定ソフトを作り出し、世間を大混乱させて、その修正に莫大な国費を使わせる元凶となるデータに深く関与した三菱UFJ総研の報告書データに基づいて作成されているんだぞ。また水面下で意図的な給付抑制につながる制限ルールが構築されていると考えられないか?

さらに胡散臭い動きがある。これもとある筋からの情報によるが、6/18に厚生労働省は、マスコミを完全にシャットアウトした非公開の会議を開催して地域包括ケア研究報告書の中の『24時間巡回型介護』について話し合っている。なぜ非公開の秘密会を開く必要があり、そこで何が話し合われたのか?マスコミ関係者は、このことをもっと注視して問題視したほうが良いのではないのか?

そして介護支援専門員を始めとした関係者は、この「地域包括ケア報告書」をよく読んで、この中身がいかに現実とマッチしていないかを把握し、地域からアクションを起こしていかないと大変なことになるぞ。

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水分摂取拒否への対応

北海道のこの夏の長期天気予報は一度「冷夏予想」が出されたが、その後修正されて平年並み以上の暑さになるらしい。

だから覚悟はしていたが、先週あたりからかなり暑い日が続いて、これは例年よりかなり早い夏だし、暑さも半端ではない。なんでもモンゴル暖気なるものが大陸から北海道に入ってきたためらしい。

再来週の週末にお邪魔する帯広は道内でも「冬寒くて夏暑い」ということで有名であるが、その帯広の6/26(土)の最高気温は36℃にも達している。こりゃたまらん。10日も熱くなるんだろうか?(ちなみに当日の道内最高気温は、松山千春の出身地である足寄の37.3℃である。)

ところでこう暑いと心配なことがある。

たくさんの高齢者が共同で生活する特養の管理者という立場は、常に何かの不安やリスクに対峙して生活を送っていなければならない。とりこし苦労といえることもあろうが、心配して対策しておかねば後から大変な状況を生んでしまうことがあるので、このことは宿命と思ってあきらめている。

夏が近づき暑さを肌で感じる季節になると、いつも心配になるのが汗をかくことによって体内の水分量が減ることで起こる脱水の問題である。

高齢者にとって脱水は様々な生活障害リスクになる。健康障害だけではなく、認知症の行動・心理症状(BPSD)の原因になる場合も多い。

しかも高齢者は、若い人たちより脱水になりやすい。これは体細胞が減少しているため細胞内液量が足りなくなるためであり、よって1日に必要な水分量を摂取したとしても、一時期に大量の水分を摂取したのでは、細胞内にたまらない水分はすべて体外に排出され、脱水予防にはならないケースも多い。

つまり高齢者ならば、3度の食事を含めて、少量ずつでも頻回に水分摂取を行って1日の必要水分量を満たした方が脱水リスクは軽減されるという意味である。同時に汗で消費した体内水分を大量の水だけで補おうとすれば体内のミネラルが不足し、電解質異常が起こるため、お茶などでしっかりミネラルを補給する必要がある。だから夏に冷たい麦茶を飲む習慣は先人たちから伝えられた知恵の一つなのである。このことは、この時期かならず朝礼や会議で何度もアナウンスすることになる。

ところが水分摂取支援が必要な方がいたとして、摂取をなかなかしてくれず、水分摂取拒否をする例は多い。認知症の方であっても、認知症ではない人であっても同様の拒否があり、その理由は極めて単純で「のどが渇いていないから、飲みたくない」という理由がほとんどである。厄介なことに、前述したように高齢者の脱水原因は、細胞内液量の減少と深い関連があるため、口渇感を感じない状態で、本人が水分を要求しない場合でも脱水に陥るという危険性が高いため、この水分拒否は大きな問題になる。

しかし我々自身に置き換えて考えても分かるが、喉が渇いていない時に水分を摂れ、と言われても、それは苦痛でしかない。しかも高齢者で頻尿やお漏らし、という別の問題を抱えて、そのことを自覚している人ならなおさらである。まさか無理やり口をこじ開けて水分を流し込むわけにもいかない。

だからこの場合は、脱水の危険性や、それに伴う問題について丁寧な説明責任を果たすのと同時に、栄養士や看護師だけではなく、介護職員も含めたチームでの様々な関わり合いが必要だ。特養等の施設なら、利用者と一番近い位置にいる介護職員が、まず利用者本人の希望や意思を代弁して、どのようなものならスムースに口にできるかを多角的に考え、栄養士は、単純に水分に寄らずに、食事内容やおやつ、場合によっては水分に替るゲル状の食物の代用など食の専門家としての立場から、1日の食事量の中での水分摂取の方法を考える必要があるし、看護職員は脱水の兆候の発見や、もしもの場合の、点滴を含めたリスク管理を行っておく必要があるだろう。

こういう問題は「水分を拒否する人に、どのように対応すればよいのですか」という単純な質問に対して答えが出せるようなものではなく、その利用者の普段の生活を知り、その個別の状況に合わせた方法を考える必要があるもので、答えは何千通りにもなるだろう。しかし、その解決に結びつく前提条件としては、利用者と支援者の信頼関係、心の結びつきがきちんとできているかということであり、これがないと問題解決は難しくなる。

水分を拒否する人に、どのような事情と理由があるのかを真剣に考える支援者がいるところでないと、問題は容易に解決しない。

また水分を拒否する理由の一つに「まずい」からであるという理由がある。夏の暑い日に、水道から直接汲んだ生ぬるい水を飲んでも「まずい」だけだが、良く冷えた水であれば飲んでくれる人もいる。だから当施設では、利用者全員に、ベッドサイドキャビネット内に専用の小型冷蔵庫を個別に設置し(もちろん施設負担である)いつでも好きなものを、そこから出して飲めるようにしている。

そもそも高齢者の暮らしの場で、個人用の冷蔵庫設置がなく、共用の冷蔵庫を設置されているだけで、誰のものか区別がつかない状態で自由に自分が飲みたいものを取り出せない環境は、あまり好ましくないと思う。このあたりの環境設備スタンダードは、もっと水準を引き上げて考えられるべきだと思う。

水分を口にする人の立場を自分に置き換え、何をどのように飲みたいのか、摂取する食器等は適切で清潔なものであるか、摂取を勧める場所は、食物や水分を摂るにふさわしい落ち着いた場所であるのか、案外そのことを考えなおすだけで水分摂取が可能になるケースも多いのである。

摂取を勧める側の、言葉や態度も当然見直される要素の一つであろう。「あんただって嫌な奴からお酌されても飲まないべさ〜。」なんて言われたりすることが案外本質をついていたりする。

あれ、「べさ」ってこれも北海度弁だったかい。最近、標準語と北海道弁の区別がつかなくなっちゃったしょや。なまら不調だべさ。もう一回完璧な標準語を勉強するかい。無理だろな〜。おかしくなったので今日はこの辺で・・・したっけ。

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制度改正、ケアマネは小間使いか!!

24年4月からの介護保険制度見直し議論の中で、地域包括支援センターの機能強化としての見直し案が具体化されてきた。

これは6/15の地域包括支援センター全国担当者会議において、厚生労働省が「介護予防事業」の見直し案を示したもので、それによると特定高齢者の予防プランは必要な場合にのみ作成するなど簡素化を図るほか、特定高齢者という名称も変更するとした。

そして要支援者に対する予防プランについては、居宅介護支援事業所に委託できる件数を拡大するとしており、その理由は「予防プランにかかる業務負担が大きく地域の介護支援専門員に対する支援を行うという本来の業務が不十分となっているから」であるという。

まったくふざけた話である。

18年改正で、居宅介護支援事業所から要支援者に対する予防プラン作成業務を取り上げ、それまで要介護1と認定されていた人の6割近くを要支援2に組み込み、一定地域の要支援者は選択性もなく地域包括支援センターが予防プラン作成することとして、その数にも制限を設けず、数百件もの予防プランを地域包括支援センターに丸抱えさせて、それらの人々に対しては自宅への面接訪問も3月に1回しかしなくてよいんだから機械的に予防プランを作れ、というルールにしたんだから地域包括支援センターは予防プラン作成作業に振り回されるのは分かっていたではないか。

それを今回「地域のケアマネ支援という本来業務をきちんと行うため」という理由で、委託件数を増やすという。介護支援専門員の作成するプランのアウトカムなど関係なしに、地域包括支援センターのご都合主義で、こういう問題がすべて決まってしまうというわけである。

その前に必要なのは、地域包括支援センターが要支援者に対する予防プランの作成主体を担って、居宅介護支援事業所のケアマネジャーがその下請けしかしていない現在の方法は予防プランの質の担保になっているのか、というアウトカム評価である。

本当に要支援者の予防プランは地域包括支援センターが主管しなければならないのか?その理由は何か?包括から居宅介護支援事業所への委託プランと、その管理という方法が適切に機能していたのか?

そしてもう一つ検証せねばならないことは、予防プランの委託件数制限を緩和した後、地域包括支援センターの職員が本当に「地域の介護支援専門員に対する支援」ができるのか、その能力があるのか、それが求められているのか、という問題である。

正直言って地域包括支援センターの主任ケアマネジャーも、保健師も、その任に堪えない資質の持ち主が存在しているぞ。地域の居宅介護支援事業所のケアマネより制度のルールを知らない人間もいるし、ケアマネジメントの技術も持っていない人がいるぞ。胸張って僕の事業所に指導しに来ることができる職員は何人いるのか?

居宅介護支援事業所も介護支援専門員も、随分コケにされたものである。それもこれも、この有資格者の全国組織と言われている日本介護支援専門員協会が国のひも付きで、現場の声を代表していないからだろう。なにかを主張しても「逆らえば研究補助金は出せないよ」と言われればそれまでである。こんな会に会費を上納する介護支援専門員がいる限り、この制度は良くならない。

もともと要支援者に対する予防プランを地域包括支援センターが主管しなければならないなんていう理由はないのだ。予防から介護(あるいはその逆)に変わるたびにケアプラン担当者が替り、ワンストップサービスが不可能になった弊害を考えるなら、予防プランを居宅介護支援事業所に委託するのではなく、その業務は居宅介護支援事業所の業務としてワンストップサービスの復活を図る方がよほどよい制度になる。

つまりは委託プラン数の上限を拡大するのではなく、予防プランも居宅介護支援事業所が作成できるようにして、利用者が担当事業所を選べるようにすべきなのである。

こんな簡単なこともわからない連中が制度をいじくりまわしていて、制度が良くなるわけがない。

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人のぬくもりをリレーして。

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人はいつかこの世から消えてなくなる。それは人という存在の宿命であり、そのことは誰にも平等に訪れる確実な結末だ。

だからと言って、人生とはその終末に向かって歩き続けているという意味だけではなく、生かされているこの場所で、人として必要とされる役割なり、意味なりを探し続ける旅路でもある。

いつか消えてなくなるから儚いかもしれないが、それは同時に生かされている今この瞬間がいかに意味深く貴重な時であるのか、という意味があり、人はそのことに幸福を感じながら歩き続けることができるはずだ。

僕はこの世に自分の軌跡を残そうとは思わない。名もない一市民として誰の記憶にも残ることなく朽ち果ててゆくことを恐れない。

今この瞬間も路傍の石のように、その存在を誰からも気がつかれないことを恐れない。無視され通り過ぎられようとも、そのことを空しく感じない。

ただ僕は見ていたい、この世のすべての美しい光景と、人々の笑顔と輝きを。

信じていたい、暗い夜の向こうにある光りある朝や、厳しい冬の吹雪の後に来る春の息吹や、冷たい雨の後に優しく降り注ぐ太陽を。

僕がこの世で生かされている間は、そのように誰かに待たれる存在になりたい。しかし同時に、昼間の太陽や、訪れてしまった春は、人々にとって当たり前の存在であり、そこにある間は人々から意識されないように、そこにいる僕は、人々の意識から消え、ただ静かにたたずむ存在でありたい。

そして決して忘れたくはない。人は支えあって存在するものであり、誰かを不幸にするために生まれたわけではないことを。そして望まれず生まれてくる人などいないということを。名もない花にも命があり、誰の目に触れることもなく枯れてゆくとしても、この世に花を咲かせたことに意味があるように、僕たちの存在そのものが天から与えられた意味ある生の営みである。

だから僕らが生きることは、愛を育み、愛を伝えて行くことだろうと思う。そんな思いを青臭いと笑う人は笑えば良い。僕はそうした蔑みもすべて受け入れて生きたいと思う。

しかし神ならざる身の人間であるがゆえに、僕自身はあるとき、人を憎み、人を恨み、そして人を傷つけてしまう時がある。しかしそこで失われるものは、僕以外の他人の心であっても、それは同じ人間として本当は僕らの大切な仲間の心なんだ。だから結局のところ、人を憎み、人を恨み、人を傷つけることで、僕自身が深く傷ついて行く。それを分かっているのに、自分以外の誰かに嫌悪感を持つ感情を捨てられない。人間とは何と愚かな動物なんだろう。愚かであり、弱いから支えてくれる誰かを常に必要とするんだ。

『いつか時がたち、僕らも死んでしまう日が来るさ、その時までに何を残せるのかな。大げさなことではなく、例えば君のぬくもり、そんなことが僕を変えてゆく。』

上の詞は、ゆずの北川悠仁くんが書いた「リアル」の歌詞の中の一節である。

僕が残せるものがあるとすれば、それは僕の存在の記憶ではなく、人が人と繋がっていくことの素晴らしさと、そこで繋がれる人と人のぬくもりを伝え、そのことの素晴らしさを誰かが感じてくれることだろうと思う。

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制度改正、歴史は繰り返される。

介護保険制度は24年3月までは現行方式で実施されるが、定時見直しにより同年4月から制度改正されて新たなスタート地点に立つ予定となっている。

18年4月以来の制度改正というわけで、既に改正議論は始まっており、来年の今頃はかなりの部分で改正の骨格が見えてくることになろう。

前回18年改正では、それに先駆ける形で17年10月から施設利用者の居住費と食費が自己負担化され、翌年4月からは新予防給付の創設ということで、要支援2という状態区分が新たに新設された。介護保険サービス給付も予防と介護に区分され、予防サービスには定額報酬が導入された。

そして予防対象者のケアマネジメントは、居宅介護支援事業所の介護支援専門員には担わせないとして、地域包括支援センターの保健師が中心となって「予防介護支援事業所」によって立案されることになった。

これによって、利用者が自ら選択する居宅介護支援事業所の「介護支援専門員」が担当者となって、そこを窓口にしてすべての介護サービス利用に繋がるという介護保険制度創設によって生まれた「ワンストップサービス」という重要な機能が失われてしまった。(参照:ワンストップサービス後退の爪痕

このことはケアマネジメントの質議論の結果であり、介護支援専門員の居宅サービス計画が不適切で、要介護度悪化を招く計画が多くて信用できないから、予防マネジメントは介護支援専門員に任せることはできないという考えが根底にある。

その論拠とされたデータはいくつかあるが、最初に国が介護給付費分科会で示した根拠データは、日医総研が島根県で行った平成12年12月と14年10月比較データであり、それは「サービス利用が多い軽介護者の介護度が短期間に悪化」したというものであった。しかしその調査対象者は、わずか7.800人で、1地域の定点観測データが国の平均値であるかのように給付費分科会に示した、という問題点があった。しかも、それは後に、平成16年度介護給付費実態調査において国全体としては、軽度者と中・重介護者の重度化率は同じという結果が示され、島根県データはデタラメであると否定された。

そこで国側は、給付費分科会に最終的に鹿児島県保健福祉部「居宅介護支援事業所の実態調査」というデータを出し、この中で要支援者中、ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合という主張をした。

しかしこれもまったくひどいデータで「ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合」といっても、総サンプル数310人というわずかな数のもので、しかも毎日サービス利用はわずか2人しかいない。この2人の悪化をもってして高割合としているのだ。

そもそも、ほぼ毎日訪問介護を使っている軽介護者などそういないはずだ。これは現場で実際に居宅サービス計画を立案しているケアマネなら共感できる感覚だろう。それなのにわずか310のサンプルに2人もそれが入っているのがおかしくないか?そういうサンプルをあらかじめ組み込んだ操作データではないかという疑いが強い。

このことは当時、このブログ記事で再三指摘していたところであるが、歴史はまた繰り返されつつある。それはシルバー新報が報じた次の記事をみて分かる。

『地域保健研究会が調査 :予防訪問介護を利用している要支援者の2年後の心身・生活状況や介護度の変化について調べたところ、84.7%の利用者の介護度が悪化したことが、地域保健研究会(田中甲子会長)の調査研究で分かった。悪化の要因を分析すると、関節疾患や骨折、脳血管疾患など疾病の発生や悪化をきっかけに運動・移動機能が低下し、歩行が困難になるとともに日常の掃除や買い物、調理といった家事遂行能力が低下。利用している訪問介護でも生活援助サービスの割合が増えるという傾向にあることがうかがえる。一方、要介護度が改善した人の要因について見ると、身体能力の低下をなるべく防ぐ努力をしたり、健康管理に気をつけたりするよりも「日常の家事を出来るだけ自分で行うようにした」と回答した割合が最も多い。ヘルパーや家族に依存せず主体的に家事を行うことによって積極的な運動や外出する頻度も増え、生活全体が活発化しているという好循環が生じていることが推察されると分析している。』

以上である。家事に対する生活支援が増えれば増えるほど、身体機能が悪化する高齢者が多いという結論を導き出しているデータである。つまり18年制度改正議論の時と同じようなデータが、同じような時期に出されている。これは何を示すものか?

当然この背景には、現在の制度改正論も「財源をどうするか」という立ち位置から入っているという意味と、その中で「生活援助」の対象となる家事の支援について、「家事ができないということは保険事故ではないから、社会保険である介護保険の対象外とすべきである」という理屈から、介護給付から訪問介護の生活援助をはずそうとする一部勢力の思惑が反映されているのではないかと疑う。

同時に、公益社団法人「認知症の人と家族の会」が6月21日に「介護保険制度改正への提言―要介護認定の廃止など利用者本位の制度に―」を長妻昭厚生労働相にあてて提出したが、対応した厚労省の宮島俊彦老健局長は「要介護認定は制度の根幹。制度そのものが成り立たなくなる」と難色を示した、ということも関係して、支給限度額をなくしたら、このような不必要サービスが増えて身体機能が悪化するから、支給限度額を定めた要介護認定は廃止できない、という理屈に繋がるものとも考えられる。

どちらにしても、関係者はこうした切れ切れに出されてくる調査データに、どのような意味があるのか注視しておく必要があり、きちんと必要な場所で声を挙げるなど、国のいいように制度がいじられるだけで終わらないようにアクションを起こしていく必要があるだろう。

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揺れる国技の影響は特養にも・・。

大相撲は、高齢者施設にとって非常に身近なスポーツである。

毎回、本場所ごとに大相撲星取り大会というゲームが行われ、場所を通じて毎日、幕内力士の取り組みの勝敗予想をして、15日間の合計点で賞を争うからである。

成績上位者(得点の多い人)から優勝・準優勝・敢闘賞・殊勲賞、技能賞という各賞が授与され、賞状と記念品を贈呈する。ゴルフでもないのにブービー賞があるのは、いつも同じ人が賞の対象にならないようにするための配慮でもあり、このことは毎日の得点ルールにも反映されており、例えばボーナス点として3点(通常の取り組みは正解が1点)与えられる取組を2番作って、偶然性が得点獲得の大きな要素になるように配慮している。

参加者は希望者のみで、施設内の高齢化に伴い、年ごとにその数は減ってはいるが、それでも入所者の3割弱の方が参加し、毎日の取り組みに一喜一憂している。星取り大会に参加しない人であっても、それらの人々とテレビで大相撲観戦すれば、当然のことながら熱気が伝わりテレビの前では大きな歓声がわきあがったり、おおいに盛り上がる。特養では、なくてはならないゲームである。

ところが、その大相撲が揺れに揺れ、7/11から始まる名古屋場所の開催さえ危ぶまれている。

批判を覚悟であえて本音を書くが、正直僕は、ゴルフの「握り」や、花札や麻雀の賭けなどは金額が大きかろうと「仕方ないだろうな」「さほど問題視しなくてもよいのではないの」と思う。自分自身、賭け事とは無縁で現在まで生きてきたかと問われれば、それは否であり、現在はパチンコも麻雀も賭け事というものの一切を行う趣味もお金もないが、過去には公営ギャンブル以外の賭け事を行っていたこともある。

例えば仲間内の麻雀や花札でお金をかける、なんてことは学生時代には流行っていたし、普通のことだった。中学生のころだって田舎で遊びの少ない僕らの地域ではトランプのポーカーゲームで小遣いを賭けるのは常識であった。もちろん金額は可愛いものだが、それも違法と言われればいい訳ができない。
(ただし一時の娯楽に供するもの、については違法行為とはならないとされているが、どこまでがその範囲かの判断は難しく、判例による解釈しかない。)

社会人となった後も、花札でお金を賭けて、そのたまったお金で飲み会をしていたこともある。このことで言えば、僕は人の批判はできない。

しかし野球賭博となると話は別である。野球賭博に胴元がいて、それが暴力団と深く関わりがあるということくらい常識であろう。特に野球が好きな人なら、プロ野球の「黒い霧事件」を知らない人はいないだろう。あれも野球賭博に関わって、わざとゲームに負けるように八百長が行われていたということで何人かの有名プロ野球選手が球界から永久追放されている。(事の真相はいまだに闇の中という部分が残されている。)

そういう意味では、暴力団に関係するゲームに関わっていた力士は、単純に花札や麻雀の賭けに関わっていた力士とは分けて考えられるべきではないかと思う。個人的には暴力団と関係が深い野球賭博を行っていた師匠や力士は解雇になっても仕方がないと思う。そういう厳しい対応からしか新しい相撲協会は生まれないだろうし、国技としての発展もないだろう。

そもそも地方巡業を始めとした興行の形態が古すぎて、暴力団が興行を仕切る、という形ができやすい体質が問題である。

かつて芸能界も地方興行に同じような体質があったが、チケット販売の専門業者によるインターネット等を使った集客方法に替ることによって、この体質は大きく変化してきている。この根底部分を相撲協会も変えて行かねばならないのではないだろうか。

国技というなら、暴力団との関係はこの際、徹底的に絶たねばならないと思う。

どちらにしても、特養の利用者にとって、本場所が開かれない事態になれば、楽しみが一つ減ってしまうということになってしまう。大変残念なことである。

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施設サービスの呼称変更は必要ないか?

介護保険法第2条第4項では「第一項の保険給付の内容及び水準は、被保険者が要介護状態となった場合においても、可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮されなければならない。」と定めている。

第一項の保険給付とは要支援者及び要介護者に対する保険給付(居宅サービス及び施設サービス)のことであるから、介護保険サービス利用そのものが「可能な限り、その居宅において」生活できることをまず考えるためにあるんだよ、という規定である。

これが巷(ちまた)でよく言われる「介護保険は在宅重視(あるいは居宅サービス重視)の制度である」という根拠である。

しかし法文をよく読めば、この意味は「在宅重視」というより「在宅優先」という意味であると解釈できる。つまり介護保険法第2条第4項の本当の解釈とは、居宅サービスと施設サービスは、地域福祉の両輪をなすものであるが、施設サービスは、居宅での生活が困難となった人のための最終的な暮らしの場の提供を目的としたもの、つまりセーフティネットとしての意味があり、施設入所を考える前に、まず居宅において暮らしを続けられるように配慮せねばならないよ、という意味である。

ところが居宅サービスと施設サービスが地域福祉の両輪であり、後者が地域の介護問題のセーフティネットの役割を持つという意味を知らない人々が、この法文を誤って解釈し、施設サービスとは、あたかも「必要悪」であるがごとく、居宅サービスの下に見る考え方が生まれている。

そうであるがゆえに、例えばグループホームの関係者に「貴施設は〜」と言おうものなら、「グループホームは施設ではありません!!」「じゃあ何なの?」「居宅サービスです」「じゃなんて呼べばいいの?」「貴ホームと呼んでください」なんて言う馬鹿げた会話が交わされたりする。

グループホームも特定施設も利用者が24時間生活する「暮らしの場」であり、その箱物は「施設」である。特定施設は本体施設が別にあって、本体施設の提供しない介護サービス部分の給付を特定施設サービス費として給付しているので、ここを居宅サービスに分類しているだけだし、グループホームは民間営利企業の経営を可能にするように便宜上「居宅サービス」に区分しているだけであり、これは単に介護保険法上の分類にしか過ぎない。
(参照:グループホームは在宅であるという誤解

しかし施設という呼称そのものに偏見が生まれるという現実は否定できない。

本来「施設」とは、単に「社会生活を営む際に利用する構造物」という意味である。しかしながら過去の福祉制度においては、施設と言えば「収容の場」と呼ばれていた歴史的事実があり、そうしたイメージから、施設=人権を無視した措置・収容の場、というイメージを持つ人が少なからず存在する。

同時に文字イメージにおいても、施設病(ホスピタリズム)という言葉が浮かんでくるように印象があまり良くない。

そういう意味では、居宅サービスに対する「施設サービス」という言葉自体変えてもよいのではないだろうか、いやむしろ変えたほうが良いのではないかと思い始めている。

そんな必要はなく社会に対し「施設」という言葉だけで偏見を持つなというアピールをしていけばよいではないか、あるいは、施設サービス自体のサービスを向上させ偏見を持たせないようにすることが先決であるという意見も当然あろうが、長い歴史の中で植えつけられたイメージからくる誤解や偏見はなかなか変えられるようなものではないのだから、マイナスイメージが付きまとう呼称自体を変えるという考え方があってもよいと思う。

例えば「入所サービス」「暮らしサービス」等々である。いかがなものであろうか?

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グループホームでの看取り介護

当地域の認知症高齢者グループホームは、広域連絡会(登別市・室蘭市・伊達市)を作って、定期的に合同研修会を開催している。

このことは僕が地域密着型サービス外部評価調査員として管内のグループホームにお邪魔した折、多くの事業所がこの会に参加していることを聞いていたし、外部評価としても、そのことは「職員を育てる取組」「同業者との交流を通じた向上」「職員のストレス解消に向けた取り組み」等の項目で評価されているところである。

グループホームは、認知症ケアの切り札として登場し、優れたケアソフトを構築できる半面、事業単位が小さく、異種業者からの参入も多く、専門的な知識や情報が不足する側面を持ち合わせ、場合によっては「密室性」が懸念される。事業所の数が多いだけに優れたグループホームがたくさんあるのと同じくらい、ケアの貧困なグループホームも存在する。質の差が事業者間で大きいのが悩みの一つである。

そうしたグループホームにとって、このように所属事業所を超えた広域的な横のつながりを持てることは大きな意味があり、その中で定期的に合同研修会を行って、他事業所の職員と意見を交わす機会があることは意義深いと評価できる。場合によっては、こうした場での職員の「気づき」が意識の低い経営者を変えることができるかもしれない。

ところで今週金曜日(6月25日)午後6時30分から2時間の予定で行われる同研修会において(伊達市黄金・はまなす館)僕に講演依頼があった。「看取り介護」について学びたいというのである。

それは大変良いことだと思ったので、二つ返事で引き受け「グループホームにおける看取り介護を考える〜住み慣れた場所で暮らし続けるために」と題して120分間の講演を行うことにした。当日の参加者は70名程度と聞いている。(参照:masaの講演予定及び履歴

我々は高齢期の様々な方々と向かい合っているわけで、高齢者だからと言って我々自身と分けて考える必要はないとはいっても、人間の生命というものを考えた時、我々はいつかそれらの方々と、それらの方々が「死を迎える」という形でお別れしなければならない可能性が高いわけである。そうであるなら、我々の介護サービスとは「そこで暮らし、やがてそこで最期のときを迎えるまで、いかにその人が生命を持つ個人として尊重され、豊かな暮らしを送ることが出来るか」ということを命題とすべきで、それがQOL(Quality of life)からQOD(Quality of death)への視点転換であり、「暮らしの場」であるグループホームにおいても、そのことが重要であり、当然その延長線上にある「看取り介護」というものを考える必要があると思う。

特にグループホームは、小規模対応で、職員と利用者の濃厚な人間関係をケアサービスの基本としている「暮らしの場」であるはずで、職員と利用者の「心の絆」が重要になってくる。

そういう場で終末期を過ごすことも、利用者の思いに寄り添うという意味では大事なことなのではないかと思う。だからその方法論を、各事業所のサービス体制をマッチさせて、できる可能性を考えていくことは、利用者が安心してサービスを受ける、という意味からも必要なことだろうと考えている。むしろ各グループホームの基本理念をみても、最期まで暮らし続けられないグループホームであれば、それは矛盾した理念とならざるを得ないであろう。

ただしグループホームで「看取り介護」を行う場合には、医療支援体制や看護体制が十分整えられるか、という問題がある。

看取り介護の対象時期だからといって、医療支援を全く行わないということはあってはならない。積極的な延命治療は必要なくとも、安楽・安心のための医療支援は不可欠だし、医療的なサービスについて「何を行い、何を行う必要がないか」という問題は、医師による専門的かつ的確な判断が不可欠だ。安楽のための看護支援も同様に不可欠だ。何より、看取り介護に移行した途端、医師の診療が行われなくなるのでは、対象者の不安は増幅するだけである。治療が必要ない場合でも、医師や看護職員もまた、看取り介護対象者の傍らに寄り添っているということが求められているのである。

そうであれば医師の配置がなく、介護保険の訪問看護も使えないグループホームにおいて、外部の医療機関との連携、特に夜間の医師の支援体制がどうなのかは重要な課題である。

グループホームの「看取り介護加算」は医療連携加算を算定しているホームにしか認められず、医療連携加算の算定要件には、外部の訪問看護ステーションとの連携も含めて、何らかの形で看護師との24時間連絡体制や、一定の時間の看護サービスが義務付けられているが、看取り介護期間中の利用者対応を考えると、外部の訪問看護師等との連携だけでは不十分になる可能性が高い。

当施設での看取り介護実施中も、夜間の看護職員対応は必要な場合が多く、ホーム自体で看護師を雇用していない状況では医療行為の提供という部分を含めて、困難要素が多い。このことは大きな課題であると言えよう。

そうした医療・看護支援をきちんと構築したうえではないと、安易にグループホームで看取り介護を行うことは、場合によっては「見捨て死」(参照:見捨て死の現状)になりかねないということも指摘しておかねばならないだろうと考えながら昨日までの週末にファイルを作成した。

それでは管内のグループホームの皆さん。当日、伊達市黄金の「はまなす館」でお会いできることを楽しみにしています。

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医療行為議論の本質

特養等の介護施設において、介護職員が現在行っては違法となる医療行為について、これを見直し一部の行為を介護職員が行えるようにすべきであるという議論について「なぜそのことが必要なのか?」という本質部分に、おかしな議論がある。

それは、看護職員が不在の際に、やむなく介護職員が医療行為を行っている現実があって、こうした違法状態を放置しているのは問題であるという方向から意見を述べる人がいることだ。

僕はこのことは、まったく間違った考え方であると思う。

この問題の本質は、特養で違法行為が日常的に行われているということではないし、そんな事実もない。緊急避難として行われる場合は、違法性が阻却されるし、多くの特養経営者は違法行為を前提にした施設運営など行っているわけがない。日常的に違法な介護職員の医療行為が行われている施設があるとすれば、よほどリスクマネージメントに欠けた施設である。

むしろこの議論の本質は、特養という施設の側の問題として考えられているのではなく、利用者にとって何が求められているのか、超高齢社会における医療ニーズが高い在宅高齢者にとって何が必要かという議論なのである。

つまり医療行為とされる行為ができないことで不利益を受けているのは、そうした行為ができないという理由で入所を拒まれる地域住民であり、特養側からすれば、違法状態で介護職員が対応せざるを得ないようなリスクを回避するために、経管栄養の高齢者や喀痰吸引が必要な高齢者は看護職員が対応できる範囲(人数制限が現実的な方法としてあり得る)でしか受け入れず、それを超えた場合は入所判定時点で「はじく」ということが行われているということが、この問題の本質だ。経管栄養等の医療行為への対応者の数をあらかじめ定めて、それ以上を受け入れないという判定基準は「正当な理由」とされており、不当な入所判定基準ではないからこれは可能なのである。

このことに関連しては2010年4月から特養の介護職員に「喀痰吸引」と「経管栄養の処置」の一部行為が一定条件下で「違法性遡及」として認められたが、これについても在宅で保護者である家族が行っている行為のごく一部分が認められたに過ぎない。

しかも在宅では医療資格のない介護職員等が業務外のボランティア行為としては認められている気管切開部を含めた喉の奥の喀痰吸引を認めておらず、口腔内の肉眼で確認できる部分のみに限定している。このことが理由で特養に入所できない要介護高齢者も多い。

つまり現在、特養で表出している問題とは、医療行為がどのような行為かという具体的内容が現行法では明確に示されていないという問題もあるが、それ以上に、在宅で保護者である家族が行うことができる行為が特養では介護職員に認められていないという問題なのである。

加えて言えば、医療行為そのものにまったく手をつけず、その範囲を見直すことをしないで、違法性阻却ということで一部の行為を介護職員に認めた弊害は、その遡及性を証明するために、一人の介護職員がこれらの行為を行うために十数種類の書類(同意書や指示書、マニュアル等)が必要になっていることになって現われている。今回の特養の違法性阻却条件では少なく考えて13種類の書類が必要だ。

さらに、こうした違法性阻却として行うことのできる行為が、特養のみに限定され、同じ介護保険施設である老健や療養型医療施設には認められていないし、介護保険制度上は居宅サービスに分類されているとはいえ実質的に施設であるグループホームや特定施設にも認められていない。違法性を阻却される条件が行為を行う場所によって違うなどという新たな矛盾を生んで、より問題を複雑化させていると言わざるを得ない。

医療行為を実施できる者が、医療の有資格者に限定されるのは当然であり、今後も医療行為が医療資格者ではない介護職員に許されるべきではないことは当然と考えている。我々が主張していることは医療行為を介護職員に解禁せよというのではなくて、現在医療行為とされているものには医療の有資格者が行わずとも安全に実施できる行為が含まれており、そうした行為は医師や看護師等の有資格者しかできない医療行為と区分して適切な医療・看護の専門職員の管理下において施設の介護職員でも行うことができるように法整備をすべきである、という主張である。

医療法ができた当時とは違う社会情勢や医療器具の進歩があるのだから、そのことは絶対必要なのだ。簡単で安全な医療器具の操作まですべて医療行為のくくりの中に入れてしまっている現状がおかしいのである。

繰り返すが、この議論の本質は介護職員への「医療行為解禁」ではない。医療法制定当時に想定していなかった高齢化に伴う様々な個人状況が生まれ、医療技術や器具の発達で、様々な在宅高齢者への対応方法が生まれてきたものを、何でもかんでも医療行為に含んで行為実行者を規制することを見直せ、ということに過ぎない。

家族でも行うことができるような行為について危険性を理由に医師や看護職員の管理が容易な施設においてさえ認めていない状況は、もはや国民ニーズにマッチしていない。地域の介護問題の最終的セーフティネットとしての介護施設の機能を考えるなら、この問題を解決せずして医療器具などを装着している高齢要介護者や、インスリンの自己注射ができない認知症高齢者の方々は地域で安心して暮らすことはできない。これらは介護職員が実施可能となる行為を見直すことによってのみ解決する問題であり、医療行為の明確化はその後に必然的についてくる問題であろう。

我々関係者は、今後もこうした超高齢社会に対応した国民のニーズの変化に対応する法的整備を含めたソーシャルアクションを求められているのである。

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認知症をニンチと略すな!!

2004年(平成16年)12月から、行政用語から「痴呆」という言葉を排除し、「認知症」という言葉に統一することとした。これがいわゆる痴呆から認知症への呼称変更である。

この背景には、当時「痴呆老人」と呼ばれた人々への呼称から受ける蔑視が問題とされたという理由があった。

世間一般的に使われていた「痴呆」とか「呆け」という言い方が差別的イメージを与え、弊害となっていたからである。特に「痴呆」の痴という字には「おろかなこと、ばか」という意味があり、白痴や痴漢から連想されるマイナスイメージがあったし、呆という字には「あきれる、あっけにとられる」という意味があり、阿呆という言葉を連想させるイメージが強かった。

そのことで当時の「痴呆老人」と言われた人々が、馬鹿・阿呆というイメージで見られる傾向があり、そのことによって「痴呆症」になることが「恥」であるかのような印象を与え、家族に「痴呆老人」がいると、世間からそのことを隠そうとして早期発見や早期対応に支障が生まれ、地域の中で問題が明らかになったときには、本人も家族も大変悲惨な状況になって、例えば「穢土荘厳(えどしょうごん)」の記事で紹介したように、認知症の妻を道連れにした心中事件なども起こった。

認知症の発生リスクの最大要因は「加齢」である。よって何らかの病気等が原因で、認知症という症状を持つ人が増えることは超高齢社会の中では当たり前のことで、地域や家族の中に認知症の方がいたとしても、それは社会の姿としては決して異常なことではないし、ましてや恥ずべきことでもない。だから皆で認知症を理解して、認知症の人々を支えるために、まず差別的イメージを与える呼称を変えることから始めたのだ。

この呼称変更は大変うまくいって、今、地域で「認知症」という言葉を知らない人はほとんどいなくなったし、過去に使われた「痴呆老人」「呆け老人」という言葉を使う人や機会も、非常に少なくなってきた。これはよいことである。

認知症が本人の性格や日ごろの行いとはまったく関係のない、病気等の症状として誰にでも起こる可能性があるということを日本中の人々が理解できるために意義があることであった。

ところが・・・である。過去の記事でも同じ指摘をしたが、地域で今大変な問題がひき起ころうとしている。

人権を守る先頭に立つべき社会福祉援助者、高齢者介護のリーダーたるべき介護支援専門員や介護サービス事業関係者の中に、認知症という言葉を「ニンチ」と略して使っている人がいる問題である。

それも多数存在する。彼らは、痴呆から認知症という言葉に変えるために、どれだけの時間と努力を要したかを知っているのだろうか?というより、そんなことは知らなくてもよいが、言葉の与えるマイナスイメージがどんなに問題であるか分かっているんだろうか。そして認知症という言葉を「ニンチ」と略して使うことで、再び認知症高齢者の方々が偏見を持たれてしまう危険性を分かっているんだろうか?これは認知能力や認知機能を「認知の問題はない」と表現するのとは異なる問題なのだ。つまり認知能力の低下を「認知の低下」と表現することはあり得るだろうが、認知症のことを「ニンチ」と略するのは認知症そのものへの偏見を生みだしかねない問題なのである。

彼らは言う「あのひとニンチだからさ。」「その人ニンチはないよ。」(そもそも認知がなければ認知症という意味だろが!)「あの人、ニンチはどう?」、中には認知症対応型通所介護の管理者が自らを「認知デイ管理者」と名乗っている馬鹿ものが存在する。

関係者がこういう略語を使ってしまうことで、地域で認知症をよく理解していない子供たちが、認知症の方々に向けて「ニンチ」と表現と意識を持って対応するとしたら、新たな偏見が生まれてしまうということを考えないのだろうか?

こうした略語を使う人に「人を思いやる心」は見えないと感じるのは僕だけだろうか?認知症を「認知」と略すことに何も感じない人々に認知症を蔑む心を感じるのは僕だけだろうか?そもそも略語は、使われている方の立場からすれば「自分を軽く見ている」という印象を与えるもので、呼び捨てにされているのと同じ語感を持つものだ。

確かにそういう略語を使う人は、認知症高齢者の方々を差別したり、蔑んだり、バカにしたりする気持ちはないんだろう。しかし地域で子供たちがそうした略語でやり取りする状況を知ってどう感じるか、認知症の方々本人や、その家族が、そういう形で専門家の間の会話が交わされていることをどう思うのか、そういうことに配慮がない職種は社会の信用を得られないということを肝に命ずるべきだ。

特に地域の認知症の方々を守るために、認知症の理解を広め、偏見をなくす先頭に立つべき地域包括支援センターの職員が、こうした略語に無神経なのは最低である。

あなた自身や、あなたの周囲の人々は、こうした略語を普段何気なく使っていないか、そして使っているとしたら、それらの人々の意識は低いとは言えないのか、是非この問題を議論してほしい。

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通所サービス昼休みの職員配置問題

通所サービスについては、利用者数に対するサービス提供時間中の業務専従職員数が配置基準として規定されている。これは施設サービスで利用者数に応じた常勤換算職員数(雇用人数)を配置基準にしているのとは大きな違いがある。

つまり施設サービスであれば、例えば50人施設では、相談員は常勤専従1人が求められるが、その職員が休んで配置がない日があっても問題ではない。

ところが通所介護の場合の相談員配置規定は常勤専従者の雇用配置状況をみるのではなく「指定通所介護の単位ごとに、その提供を行う時間帯を通じて専ら当該指定通所介護の提供に当たる生活相談員が一以上確保されるために必要と認められる数(厚生省令第三十七号第九十三条)」とされ、サービス提供時間中に常に1名を配置している必要があり、しかしそれは常勤職員でも非常勤職員でも構わないという規定である。

よって相談員が公休であれ、病欠であれ、出張であれ、その理由を問わず休んで配置がされない状態での運営は認められておらず、相談員が休んだ場合は、この者に替る相談員配置をしておらねば運営基準違反である。

ところが、ある地域で「提供時間(6〜8時間)を通じて相談員が一名配置の日について、その相談員の休憩時間(昼休憩45分間)に相談員がいないので、人員基準を満たしていないため運営基準違反である。」という実地指導がされたという情報が表の掲示板に書き込まれた。

こんな指導はあり得ないと思った。なぜなら相談員がサービス提供時間中に昼休みをとらねばならないのは、労働基準法に照らせばあたり前で、その時間に別の相談員配置が必要なら、通所介護事業所ではすべてのサービス提供日に相談員を2名配置しておかねばならないことになる。現行の通所介護費基準で、そのような厳しい配置基準を求めているわけがない。そうなれば介護職員だって、昼休みをとっている職員を除いても配置基準を満たす人数が常に必要になってしまう。こんな基準はおかしい。

これは施設サービス等の夜間配置職員の基準を考えても理解できることで、夜勤者の配置人数の規定は夜勤帯に利用者数に応じた一定職員配置数が求められているが(そういう意味で、夜間に限って言えば通所サービスの規定と同様と言える)、その最低基準配置数を満たせば、夜勤者が休憩時間を勤務時間内にとっても(とらねばならないから休憩時間や仮眠時間があるのが当然)その時間、夜勤者が業務従事していないからと言って、別に代替職員配置を求められてはいないし、運営基準違反でもない。だから昼休みに別職員を配置せよという指導は「行きすぎ」であることは間違いないのである。

夜間職員配置加算でさえ平成21年4月改定関係Q&A Vol.1において「通常の休憩時間は、勤務時間に含まれるものとして延夜勤時間数に含めて差し支えない。ただし、大半の時間において仮眠をとっているなど、実態として宿直に近い状態にあるような場合についてまで含めることは認められない。」とされているのである。

つまり、通所サービスにおける配置職員の昼休みも「通常の休憩時間は、勤務時間に含まれる」という考え方で制度開始当初から運用されているんだ。だからこの変な指導は、途中から介護保険を担当した「おバカな小役人」が思いこみ・妄想に基づく不適切な指導をしているに過ぎない。しかしこういう手合いに限って、そういう間違いを認めないので、僕は全国老施協に動いてもらって正しい情報を流してもらおうと考えた。そのために老施協110番という目安箱があるので、それを利用して、国から正式に見解を示してもらうように次のような質問をした。

(問い)
(1)通所サービスの休憩時間帯における職員配置について
基準第93条に定める従業者の員数について、同条第1項の生活相談員および第3項介護職員の配置に関する条文で、“サービス提供時間帯を通じて専ら”という表現がされていますが、労働時間が6時間以上であれば休憩を与える旨の労働基準法を考慮した場合、サービス提供時間帯が6時間以上の事業所では、当然、休憩時間がサービス提供時間内に生じてきます。
この休憩時間の部分に対しても定員規模に応じた人員配置は必要と考えるべきでしょうか?
必ず必要であるならば、少なくとも生活相談員を行うことのできる有資格者を基準配置以上に置くと同時に、他の職員休憩も考慮して、相当数の職員を余剰に配置しなければ、休憩時間帯における生活相談員及び介護職員の配置は困難であると考えます。
(一般的にサービス提供時間が終了した後に休憩を与えるということは、無理がある。)
休憩に対する行政の対応も異なり、利用者と一緒に食事をしていれば…という表現をされる方もありますが、労働基準法の休憩に対する解釈と大きく乖離しており、休憩とはみなされないと理解をしております。

(2)サービス提供時間帯に限定して雇用する非常勤職員の取扱いについてサービス提供時間が9:45〜16:00(6時間15分)の事業所について、変更申請書面の勤務割表を提出した際に常勤職員であれば、8時間と表示し、サービス提供時間に限定して雇用している非常勤職員(9:15〜16:15で雇用)は、休憩を除いて6時間と表示しますが(1)の疑義にも関連しますが、休憩時間を含めれば、サービス提供時間はクリアしているにも拘らず、非常勤はサービス提供時間を割っていると解釈されてしまうのですが、サービス提供時間内の状況は常勤、非常勤に変わりは無く、2時間の差はサービス提供時間外のことであり、非常勤であってもサービス提供時間帯を通じて専らという条件は満たしていると解釈していますが、この非常勤部分についての見解は如何でしょうか?

その結果、老施協が次のように回答してくれた。

(答え)
サービス提供時間帯に専従とされる職員が他の業務で外出する等、業務時間中の一定時間、当該サービスに従事しないことが明らかである場合には、人員配置基準違反となると思われますが、労働基準法上の休憩にあたる範囲(常識的な範囲)での休憩時間について、別途、相談員の増配置を要するような解釈は通常ではなく、少なくとも労基法上定められる水準(時間)の休憩時間であれば、「サービス提供時間に専従」と考えてよいと思われます。

(1)また、かかるサービス提供時間帯の専従要件については、常勤・非常勤によってその解釈が異なるものではありません。従って、非常勤職員の場合であっても、上記の考え方(休憩時間に関する取扱い)が同様に妥当であると考えます。
(2)もっとも、休憩時間帯の取扱いについては、その取扱いについて特に通知やQ&A等で示されておらず、行政(担当)と解釈が異なる場合は個別の調整が必要と思われますが、ご指摘の通り都道府県、保険者等で解釈が異なることは問題が大きいと認識しております。

以上。結果は考えていた通りのものであるが、しかしこの回答に僕は大いに不満である。

そもそも老施協110番と看板を掲げている場所は単なるネット掲示板なのか?僕が中田会長に直接聞いた話によると、ここは現場の困った声を集約して、国にアクションを起こしていくことを目的としていると言っていたぞ。そのとき中田さんは「皆さんの声が国に届くようにするので、何かあったら老施協110番という場所もあるので利用してください」と言っていたぞ。だから僕の施設の公式サイトトップでも、これを紹介しているんだ。

そうであるがゆえに僕が求めているのは、このような老施協の回答ではない。求めているものは、国の考え方をきちんと公に情報として流して変な指導はいかんとアナウンスしてくれというものだ。単に老施協の担当者が僕に回答する程度のことなら、僕の管理する情報掲示板で僕が答える方がよっぽどましである。

もちろんこの回答は国の担当者にも確認したうえで、情報として答えていることは、回答までの一連の動きで僕は分かっているが、第3者がみれば、これはあくまで老施協の見解にしか見えない。110番という大層な看板を掲げているんだから担当者がネット掲示板のまねごとをしても始まらん。もっと現場の会員に役に立つ形で情報提供してもらわんと意味がない。

問題が大きいと認識しているなら、その解決の具体的なアクションを起こすのが職能団体だろう。しかも参議院議員を出している団体ではないか。そのようなアクションさえ起こさないのなら、会を挙げて特定候補者を応援する意味などなくなる。

老施協110番よ、110番の看板を下ろさないのなら、そういうアクションも求められるんではないかい。

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看取り介護は常にベストを求めなきゃ

今日は少し長い記事になることを、あらかじめ断っておきたい。おそらく普段の倍以上の字数になるだろう。

1年に数件の看取り介護を行うが、すべて完ぺきに実施され反省点のないケースはほとんどない。同じミスは繰り返さないようにしているが、様々な問題に対して、様々な対応が必要であるがゆえに、反省点がなくならないのが現状だ。

しかし看取り介護の対象となる利用者本人にとって、そのことは大きな問題である。今現在のサービスに完璧を求めるのは利用者側からすれば当然のことであるし、やり直しがきかない問題なので、少しでもそういう反省点が生まれない完ぺきさを求めるのが我々の務めでもある。特に「看取り介護」とは最期の時間をいかに過ごすかという問題なので、ヒューマンエラーは完全になくして、ベターではなくベストを求める必要が常にあるのだ。

だから「看取り介護終了後カンファレンス(デスカンファレンス)」は重要だし、そこで出された反省点を忘れてミスを繰り返してはならない。ミスを一つ一つなくして想定外のことが起こる確率が減ったときに、ミスの生じないサービスの可能性が生まれるのである。

先日約2月間という長い期間の「看取り介護」を行った方のカンファレンスでも、初歩的な部分でのミスを反省しなければならなかった。同じ過ちを繰り返さないのと同時に、こうした問題も看取り期には想定されるということを皆さんに知ってもらうためにカンファレンス報告の内容を以下に示してみた。

対象:91歳 男性。
(家族の評価)
職員の対応、医療・看護体制、介護サービス、設備・環境、看取り介護全体について満足していると回答がありました。また長女より「このたびは父が大変お世話になりましてありがとうございます。スタッフの皆様にもよくしていただきまして御礼申し上げます。妹からも皆さんに宜しく伝えて下さいと言っておりました。本当にありがとうございました。」と伺っております。

(看護部門の評価・課題)
誤嚥を何度も繰り返していたがご本人に「食べたい。」という気持ちが強くあったため状態に応じてではあるがプリンや水ようかんなどを食べていただき「おいしかった」という反応がみられたことは良かった。また歌が好きであったため交流会やカラオケ等行事にも出来る限り参加できるようにし楽しむ時間も持てていたと思う。

(介護部門の評価・課題)
【本館1階ユニット】
看取り介護期間も入浴や訪室等で少しでも関わることが出来たと思う。

【新館2階ユニット】
看護師からの引き継ぎだけではご本人の状態を細かく把握することが難しい為、訪室回数を増やす・担当ユニットケアワーカーからの聞き取りを多くすべきだった。絶飲食となった後も調子のいい時にはゼリー等の摂取ができているのか、入浴は出来ているのか等が、他ユニットケアワーカーは殆ど把握していなかったように思う。

【本館2階(担当)ユニット】
平成22年○月○日 嚥下困難にて看取り介護開始となったが、ほぼ毎日ご本人より「食べたい。」との訴えがあり、看護師介助によりプリンやゼリー、水ようかん等を摂取していたが、○月○日にゼリーを摂取したものの唾液と共に30分以上も口腔内に入ったままの状態でいた為、ケアワーカーが口腔内清拭し取り除いた。その日以降、食べたいという訴えがなくなり、ご自身でも摂取することが難しいということを理解した様子だった。しかしそれ以降もパインジュースでの口腔ケアを好み、口腔ケアの訴えも多く都度対応することで乾燥予防が出来、少しでもおいしいものを味わっていただく機会も持てたのではないかと思う。さらにパインジュースでの口腔内清拭を行い2回目位から口腔内の垢のようものがとてもきれいに取れ、口腔内保清が十分出来ていたと評価する。

○月○日 特浴入浴し以降入浴不可となるも、その日以降もほぼ毎日体清拭を行い身体保清が出来ており全身の血行促進にも繋がっていたと思われる。低反発マットの使用、2時間おきの体位変換援助、全身タッピングを確実に行い褥創予防に努めていたが、○月○日 背部発赤、仙骨部1?程の皮膚剥離が出来、1時間毎の体位変換援助に切り替えた。ご本人のキャビネットに加湿器を置き湿度を保つよう配慮し乾燥予防が出来ていた。ケアワーカー手作りの日めくりカレンダーをご本人の見やすい場所に置き、今日が何日なのか一目で分かるような配慮や好きな野球カレンダーを置く等、少しでも安心出来るような環境を整えることが出来ていた。

○月中は○○○○を楽しみ、行事や療育音楽にも参加していた。○月に入ってからはプロ野球を観戦していたが、徐々に体力が低下し目を閉じていることが多くなっていった。○月○日のカラオケクラブに参加するため、1週間程前よりベッド上でケアワーカーと一緒に歌の練習をした。当日歌を1曲歌ったが声が思うように出ない様子があったものの、終了後は「歌ったよ〜」と満足した顔で伝える姿が見られた。最期まで意思疎通がしっかり取れ声かけに対しても頷く等の反応があったため、訪室回数を多くして寂しい思いをしないよう配慮し関わることが出来た。
○月○日よりSPO₂低下し酸素使用となった。○月○日、呼吸状態悪化、目を開いたままの状態となり意識レベル低下、呼名反応も鈍くなった。その時点からケアワーカーは数分おきにご本人の状態を確認しており同日、8:08頃、ケアワーカーが訪室した際に2回呼吸し、息を引き取った。状態に応じて訪室回数を調整、ユニット間で意識・協力しあうことで、ご本人の最期を看取ることができた。看護師に連絡を入れた際に、ケアワーカーよりご家族にも連絡を入れたが、その事を報告しなかったため再度看護師がご家族に連絡を入れていた。ケアワーカー連絡した事を看護師に報告すべきであった。東京在住の次女が○月○日に面会に来て、同月○日に東京に戻った。ご本人はまるで次女の様子を見ていたようであり、その事が大きく影響したのではないかと思う。髪の毛がとても伸びており、以前から整容面に気を使い散髪をこまめに行っていた為、状態をみて理髪を行うべきだった。

【主任ケアワーカー】
酸素マスク使用について汚れていることがあり、保清対応が今一つ出来ていなかったのではないかと思われる。また寝具類や体位変換用の枕等、ご本人にとって安楽なものを使用していたとはいえない状況があった。特に防寒の意味でバスタオルを何枚も重ねて身体の上に掛ける・首に巻く等していたが、最期の瞬間に向かおうとしているご本人にとって、その環境は重く負担になっていた可能性があり、軽くても保温性の高い肌布団を使用すべきだったのではないかと思う。
整容面において、理髪だけではなく髭も伸びた状態でいたため、毎日援助を実施できていたか疑問がある。酸素マスクを使用していても、以前より日課として行っていた事は変わらず実践すべきではなかったか。

体位変換援助を行うにあたって、ご本人の体を動かす際に苦痛表情が見られる・痛みを訴えるという事を理由に体位変換を浅くすることがあった。今回ご本人の状況から褥創リスクが高く、ほんの数時間の状況で傷が出来てしまったという可能性もあるが、その時の言葉を重視しすぎるあまり、結果として不十分な対応に繋がり発赤や褥創形成等のスキントラブルに発展する可能性もあることを理解してほしい。痛みを訴えるから出来ない・しないという意識は改めるべきであり、その方にとって痛みが緩和される介助とはどのような方法があるのかを学ぶ向上心を養う必要があると痛感した。

行事参加等に関しては、ご本人の状態に合わせて対応することで楽しむことが出来ていたものと評価する。

(相談援助部門の評価・課題)
体調の良い時に訪室すると、ご本人が2本指を立て“煙草が吸いたい”と表現していたが、酸素マスクをしている状態だったため喫煙することが出来ず残念に思った。パイポ等を用意し吸っていただくことで喫煙気分を味わうことが出来たのではないか。

基本となる援助の実施はなされていたと思われるが、状況に応じての環境整備(テレビの位置、ベッド柵の使用の必要性について等)をこまめに確認し対応すべきであったと反省する。テレビを好んで見ていたが通常のキャビネットの位置では少々高めでベッド柵も邪魔になることから、ベッド柵の使用についての確認とテレビの位置をずらし検討するよう伝えていたが、結局はテレビが元の位置に戻っていた。自室での看取り介護は限られたスペースでの対応になるが、ご本人が楽しみにしていたテレビを出来る限り見やすい姿勢・場所で見ていただけるような配慮を深めるべきであったと反省し、次回はこまめに担当ケアワーカーや他職員に呼び掛けていきたいと思う。

ご本人が好きだった歌を歌う・聞く機会を持てていたことは、とても大切な時間であり参加に繋げることができたスタッフの対応を評価する。しかし歌の練習等、ご本人の好きな活動に参加する働きかけに関しては、入園後の段階から取り組むべきであったと反省し、今後はケアカンファレンス等の機会で実践できないか提案する・私自身も関わることが出来ないかを考えていきたい。
家族の面会もあり、特に東京に住む次女が面会に来た事でご本人も安心された様子だった。入園前より東京に帰りたいとの思いが強く、また長年同居していた次女の体調面を自分のこと以上に心配されていたことが思い出される。

長女ご夫婦に至っては、看取り介護の話を医師より説明する前、体調不良が続いていると看護師からの報告を受けた段階で、ご夫婦より相談があり看取り介護指針を渡し、援助内容について説明した。少しずつ覚悟はしていたようだが、改めて説明を受けご本人の最期が近づいていることを実感し、看取り介護を決断していた。入園時点でも説明している事項ではあるが、実際にその時が近づいた段階で改めて説明することの重要性を学んだ。

(給食部門の評価・課題)
平成22年○月○日より、医師の指示のもと絶飲食となり看取り介護実施期間中の食事提供はなかった。状態の良い時に、厨房からプリンやようかんを提供し味わっていただくことができた。またパインジュースも提供し口腔ケアの際に使用してもらえた。今後も他職種と連携し個人の状態にあわせた対応を行いたい。

(総合評価と課題)
最期までご本人との意思疎通が可能な状態だったため、その想いを受け止め、出来る限り対応することが出来たと評価する。ご本人にとっては辛い状況だったと思われるが、その状況を緩和するためにご本人の想いをどれだけ実現できるかということに力を入れ対応することで、最期まで望みを失わない『ご本人らしい生活』に近づけることが出来たものと思われる。

整容面に関して、以前より身だしなみに気を配りおしゃれだったご本人のことを考えると、髭をこまめに確認し少しでも伸びていたら剃る事や理髪する事は対応が不十分であり見逃していた部分でもあった。実際髪が伸びていることに気付き理髪を予定したものの、その2日後に体調悪化し最期を迎えた。看取り介護実施している方は特に『明日』という時間が来ない可能性もあることを念頭に速やかな対応を行う事が重要であることを改めて実感した。看取り介護を実施する方だけではなく、当園で生活されている方も高齢者であることを踏まえて、その時に取り組むことが出来るものはすぐにでも実践していくことが大切であることを忘れずに関わっていきたい。

皮膚トラブルについては、ご本人の状態より褥創となる条件が揃っている中、こまめな体位変換援助・保清対応等出来る限りの対応が限界までなされていたものと評価する。しかし体位変換時に痛みを訴える事から浅い体位変換を、時間を調整しないで継続していたり、敷いていたバスタオルやシーツに皴が寄っていた事があり、褥創を作らないための基本的な注意点が不十分だった部分も見られ、改めて褥創予防に対する基本を学び徹底して援助を行うことが必要であることを確認した。

身体機能低下した際や体調悪化した際等、それまで使用していたパジャマや衣類が使用しにくく楽に着脱できるようなものに替えたほうが変色や傷等のリスク回避にも繋がること可能性が高い為、その時は気付いたスタッフがご家族に状況を説明し用意していただく・当園で用意する等、着脱しやすい衣類を速やかに揃え使用する事で、その方の負担軽減だけではなく無理のない援助に繋がるという意識を高め、日頃関わる他利用者の衣類についても再度確認し必要なものは速やかに揃えたい。

(その他)
現在当園で使用している布団が、季節や身体状況から重い・暑い等で使用しにくいことがあるが、今後軽い肌布団などの夏用の布団を各ユニット1枚ずつ用意し、状況に応じて使用してはどうか。
看取り介護を実施する方だけではなく、保清援助が困難な方の通常の口腔ケアにおいてもパインジュースを使用し保清に繋げることが出来ないか。

以上である。結果については読者各自の評価をお願いしたい。

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施設系介護支援専門員の研修充実が課題

のぼりべつケアマネ連絡会という組織には現在107名が会員として登録されている。

そのうち介護保険施設業務従事者は20名に満たない。ただ居宅サービスに分類されているグループホームや特定施設の職員が、このほか20名弱いる。これらの介護支援専門員は単品サービスとして自施設の内部の介護計画を立案するという意味で、ケアプラン作成作業は介護保険施設のそれと同様であり、そういう意味で「施設系サービス」と分類して良いだろう。つまりこの記事で「施設系サービス」と定義しているのは介護保険3施設・特定施設・グループホームという意味である。

それ以外の6割を超える会員は居宅介護支援事業所か、居宅サービス事業所に所属する職員である。

ケアマネジメントについては、介護保険制度創設により新設された居宅介護支援事業所の介護支援専門員が行うケアマネジメント技術の確立、つまり給付管理を含めたケアプラン作成方法(居宅サービス計画の作成)の理解が先決とされていたこともあり、居宅系のケアマネジメントやケアプランに関する研修は、制度開始当初から全国各地で行われ、現在もその状況には変わりがない。

一方「施設サービス計画」作成や、施設のケアマネジメント全般に関する研修というものは、それに比べて多くはない。これは特養等では、施設サービス計画自体は、介護保険制度以前から「個別処遇計画」という形の計画を作成している施設が多かったことと、相談員業務がそのまま施設ケアマネ業務に置き換えられていった施設が多かったことで、緊詰の課題がさほどなかったという理由もあるのだろう。全国老施協でも「施設ケアマネジャー」向けの研修を始めたのは1昨年からであり、僕はその第1回のコーディネーターを務めされていただいたが、こうした施設系ケアマネジメントに関する定期研修会はまだまだ足りない。

しかし制度施行から10年を経て、施設の介護支援専門員も様々な業務をこなしており、一方では施設サービス計画作成の専門性が確立していないという課題が残されたままである現状を考えると、施設のケアマネジャーの専門研修の充実が必要で、そこできちんと相談員と介護支援専門員の業務内容の区分や融合を考える必要があるのではないかと感じている。もちろんこの課題は介護支援専門員が専任なのか兼務なのかによっても違いがあるだろうし、それぞれの施設での相談員と介護支援専門員の位置づけの違いによっても業務内容は異なっているのではないかと想像できるが、ある程度の共通基盤を確立したうえで、それぞれの組織の状況に応じた業務分掌の考え方が必要ではないかと思う。よって今後は施設系のケアマネジメント、施設系プランの作成方法といった内容の研修会がもっと開催される必要があるだろう。

そういう意味で、各地で招かれる講演・講義などでは今年度以降は「施設の介護支援専門員の業務」に関するものも増えてきてほしいと考えていたところ、帯広市介護支援専門員連絡協議会・施設系ケアマネ班から7月10日に講演を依頼された。3時間半という長い時間の研修であるが、中身は自由に構成してほしいという依頼であった。

帯広市には3月の成澤氏の講演を受講させてもらったという恩義があるので(参照ブログ記事はこちら)今回は忙しい日程を何とか調整してお受けすることにした。

テーマは「ケアマネジメントから考える豊かな暮らしづくり」として「施設ケアマネジャーの業務と役割から考えるポジティブプラン」という講演と、「生活の場で求められるサービスを考える〜チームケアで介護の常識を変えよう」という講演の2題で研修を組み立てた。最初の講演で特養等の介護保険施設や特定施設・グループホームにおけるケアマネジメントとケアプラン作成の実務を考え、次の講演でその向こう側にあるであろう利用者の「豊かな暮らし」を実現するために必要な視点や方法を考える内容にしようと思っている。

講演案内はこちら「帯広市介護支援専門員連絡協議会 研修会」からご覧になれるが、定員が100名ということである。もしまだ席があったらお近くの施設系ケアマネジャーの方(特養・老健・療養型・グループホーム・特定施設の方々)は是非おいでいただきたい。

ところで今一番悩んでいるのは、当日お昼ころに着く予定であるが、その時昼食は帯広名物の「豚丼」にするべきか、帯広の有名なラーメンにしようか、はたまた別のものにしようかということである・・・。まあこれも旅の楽しみなので「くだらない悩み」であるが、大目に見てお許しいただきたい。

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最少不幸の社会への政策課題

日本人の平均寿命と平均余命という言葉はよく聞く。その意味は「老老介護の本質(前編)」で確認してもらいたい。

ところで日本人の平均年齢というものを意識したことがあるだろうか?現代社会のそれはいくつなのか知っているだろうか?ふと気になって調べてみた。

社会の平均年齢の意味は説明するまでもないが、0歳時〜最高年齢者まで社会全体のすべての人の合計実年齢(満年齢)を実人口で割った数値である。すると1945年(昭和20年)我が国の平均年齢は26歳である。僕が生まれた1960年(昭和35年)のそれは28.5歳である。

ちなみに当時、高齢化率はわずかに3%である。この数字は地域社会で33人の人間を集めて、やっと65歳以上の高齢者が一人いるか・いないか、という数字である。

しかし日本人の平均年齢も、高齢化率も年々上昇を続け1995年(平成7年)には社会の平均年齢が40歳に達し、それ以後も上昇し続けている。この社会全体でみると日本は既に青年期を過ぎ、壮年期も超えようとしているのである。高齢化率も25%に達し、地域によっては30%を超えている場所もある。

社会の平均年齢が40歳を超えている状況を考えると、この国の抱えた問題が余計クローズアップされてくる。社会全体で活力を失わずに、豊かさを保っていくことは簡単ではない。

そういう状況で政治は常に「財政の健全化」という課題を背負わねばならない現実がある。しかし財政の再建は倹約だけでは実現しないのは歴史が証明しているので、経済力の強化として景気の回復と安定した経済成長は絶対条件である。

さらに社会の高齢化は、社会保障費の自然増をはじめとした負担を必要とする社会であり、かつ有権者の大半が社会保障給付を自分の問題と考える世代であるのだから、このことを無視した政治なり政策なりは実現困難となる。

特に「最少不幸の社会」の実現を政治の目的に掲げた現政権において、財源論で社会保障費を簡単に切り捨てることは困難であろう。

するとこれからの政治は、経済の発展・財政の再建・社会保障の充実という三兎を追う必要がある。「二兎を追う者、一兎も得ず。」ということを言っておられるような状況ではないのである。こういうことが現実として可能なのかという議論をしている間もなく、それをせねば国家が破綻するのである。

であれば当然、税負担は今のままでは済まないだろう。消費税引き上げ論は当然の国民議論となろうが、同時に消費税は考えられているほど公平な税制度ではないので(参照:『消費税率アップがもたらすもの』 『税制論議に置き忘れられているもの』)格差が今以上に広がらないように所得税の累進課税の高額所得者負担率にも手を入れる必要があると思う。高額所得者には今以上の負担をお願いして、社会の「財」の再分配政策は一層推し進める必要があり、それは早急な課題である。

ただ法人税について言えば、現代社会においては国内企業だけで経済成長を促すのは難しく、経済発展のためには国外からの投資や、国外企業の進出が不可欠要素であり、その促進を図るのであれば法人税率は逆に引き下げる必要がある。

そうなると巷では、国民に厳しく企業に優しい税制なのか!という疑問と不満の声が上がることは必然であり、この部分については丁寧な説明責任が政府や政治家には求められる。

そして何よりも国民が不満を持っている「税金の使われ方」は一層透明性を高めて、官僚機構の無駄遣いを徹底的に排除する「強い政治」が必要だ。天下りのための機関は大胆に撤廃すべきだ。

国民負担を求めるのだから国会議員の報酬や年金、議員数も手をつけないと信頼は得られない。政治家自身が血を流す覚悟がない限り、この国の未来を保障する新たな税負担など導入できるはずがない。

ここの覚悟を政治家が始めに持つことによって、国民の覚悟に繋がっていくのだろうと思う。

どちらにしても国民負担の増加は必然で、それは避けて通れないことだろう。しかしその前提は、国が国民の血税を無駄遣いしないということであり、そのことを明確にしていかねばならず、政治家も官僚も国民もスクラムを組むために、それぞれの利益に偏らない「正直さ」が求められていくのだろう。

ここの方向性を間違うと、最少不幸の社会は単なる「最少不幸の役人社会」にしか過ぎなくなってしまう。

「清貧を徳とすれ」などとは言わないが、我々の国を守るために、この国の未来を子や孫などの子孫に、よりよい形で手渡していくために、個人の問題をさておき、マクロな視点から何が必要かを考えることがより重要になってくるだろう。

来るべき参議院選挙では、そういう志を持った政治家であるかを見極めて投票行動につなげるのが、この国の未来のために必要である。

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どうしようもなく北海道人

北海道で生まれ、北海道で育ち、一度も道外に生活拠点を移したことがないまま半世紀がたとうとしているから、僕は根っからの北海道人である。そう道産子というより自分にとっては「日本人」と感ずるのと同様の感覚で「北海道人」なのである。

ところで昔から北海道の言葉は「標準語」とほぼ同じであると言われて育ったので、自分の言葉も標準語で方言ではないだろうと思いこんでいる。

なるほど北海道にも方言はあると言われ代表的なのは「〜でっしょ」とか「〜べさ」「〜べや」という言葉であるが、こういう言葉を常日頃連発しているということはなく、むしろフジテレビの人気ドラマ「北の国から」のセリフなどは何となく違和感があったものだ。

それでも北海道で日常何気なく使う言葉で、北海道以外の方が奇異に感ずるものも実際にはあって、例えば「ゴミを投げる」というと「捨てるんじゃなく投げるの?」といわれることがある。北海道は「ゴミ捨て」ではなく「ゴミ投げ」ということの方が一般的なのだ。

それと食パンのことを「カクショク」と呼ぶのも理解されない場合が多い。カクショクって何?ということになる。食文化でも赤飯に入れる豆のスタンダードが小豆ではなく「甘納豆」であるということも奇異に感じるらしく「じゃあ、赤飯の色はどうするの?」といわれることがある。当然、北海道のスタンダードは「食紅」である。

それでも日常会話等は、ほぼ標準語だろうと自分では思い込んでいるのだが、全国の色々な場所で講演などを行うと、やはり僕の言葉は「標準語」とは言えないアクセントや言い回しがふくまれているらしい。

先日東京で行った講演のアンケートの中に「北海道弁懐かしかったです!!」というコメントがあった。その方は小樽出身であるらしく、好意的な意味でそういうコメントを書いてくださっており、その方の暖かい気持ちが伝わってくるものである。ただ自分では、どこの部分が北海道弁に聞こえたのか謎である。というかやはり全体の言葉が標準語ではないんだろうか?と思ったりしている。しかしそのことは決してネガティブに感ずる問題ではなく、やっぱ自分は北海道人だと思い、そのことにアイデンティティさえ感ずるのである。

第一、僕は寒い冬より夏の方が好きだが、それも限度のある話で30度の気温が連日続けばとてもじゃないが耐えられないし、ましてや最近のように夏に40度近くなる地域で暮らすことなど想像もできない。熱帯夜で眠ることができる体力もない。

北海道の冬は凍れるし(しばれる)、雪かきも大変だし、都会のように交通網も発達していないし、生活上の不便も多いけど、やっぱ北海道が好きなのである。これは自分の中にしみついたもので、さしたる明確な理由もない感覚なので説明もつかないし、どうしようもないものなのである。

しかし北海道以外の人をどう思うんだ?と聞かれると、これはまったく別問題で、それぞれの土地を愛する、それぞれの人々に興味があるし、自分の生まれた郷土や自分が住まう地域を愛する人は大好きである。北海道より沖縄や福岡や大阪や静岡etc様々な土地が良いと言い合う「自慢」を肴にお酒を飲むのも実に楽しい。

ファイターズを愛していても、ホークスやカープを熱狂的に愛する人がいるから野球は百倍楽しくなるのである。

だから北海道が好きという感覚は、他の地域との比較ではなく、僕の血や肉や骨になっているしみついた感覚なので、それ以外の何ものによっても説明ができないものである。

それでも「いいんでないかい!!」

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群衆の中の孤独

孤独とは深い闇の中に一人残される不安と関連しており、人が生きる過程で自分一人では何一つできないことと関連している。

周囲に誰もいないわけではなくとも人は孤独を感じることがある。たくさんの人間に囲まれ、ざわめきうごめく人々の息吹を感じているときでさえ人は孤独である。雑踏の中で、群衆の中で、人は孤独に打ちひしがれている。

なぜならば自分のことを誰も認めてくれず、無視され、頼る人さえいないときに人は孤独であるからだ。

孤独とは心が繋がる人が誰ひとり存在しないことである。そしていつまでも孤独に耐え続けられる強い人間などいないはずだ。孤独を好む人もいることを否定しないが、多くの場合、それは限定された場面における孤独でしかない。

我々は社会福祉援助や介護サービスを通じて、様々な利用者と向かいあっている。その時我々は、それらの人々の孤独感を受け止める感性を持っているだろうか。決して孤独感を感じないように心の回線を繋げあっているだろうか。

介護施設で、居宅サービスの現場で、多くの人々に囲まれながら孤独を感じている人はいないだろうか。

自分を誰ひとり分かってくれない、自分のことを理解してくれない、という心の叫びを発している人はいないだろうか。

認知症の人々が歩き回っているのは、自分のことを理解してくれる誰かを探し続けているからではないのか。1日の大半をベッドの上だけで過ごす人々の視線が追っているのは、自分のことを気にかけ、自分のことを見つめてくれる誰かではないのか。

人を認めているか。人を求めているか。人を愛しているか。

社会福祉援助者に知識や技術は必要不可欠であるが、人の心を思う感性や、目に見えない人を愛おしく思う感情は、その前提条件としてなくてはならないものだと思う。

人を人として愛(いつく)しみ、故郷を愛し、自然を愛(め)で、命を大切にする心を持つことが何より大切である。

我々は誰かの不幸の上にのっかった自己の幸福を欲しない。人の流した涙の川で自らの体を清めることを欲しない。

全ての人が、人として遇され、心から愛される地域や国や世界であってほしいと望むものである。それは夢物語で現実としてはあり得ないというが、そうした現実を求めないのであれば人間の存在とは何と空しいものなのだろう。

誰かの哀しい叫びに耳をふさいで生きて行くことが大人になることだとしたら、人間の成長とは心を閉ざし、心を失っていくことなのだろうか。心を殺せ、殺せと言い聞かせなければ生きていけないとでもいうのだろうか。

群衆の中の孤独に手を差し伸べる人が一人でも増え、この世界に笑顔が満ちて行くことを我々は欲してこの業界に足を踏み入れた。理想はいつしか現実の荒波に揉まれ、掲げた旗は、いつしか色あせ、破れかけようとしているのかもしれないが、この部分の「青さ」を失ってしまわないようにしたい。

この国の新しいリーダーは「政治の役割は、国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか『最少不幸の社会』を作ることだ。」と語っている。その通りだと思う。しかしその言葉をスローガンだけに終わらせないように、具体的政策の中にその実現性を取り込んでいくことが政治家には何より求められる。その時に「青さ」を失ってしまえば、それは単なる幻想社会に終わってしまうだろう。

すべての人々が、この国から、世界から見捨てられ「群衆の中の孤独」に陥らないように、全ての人々が自分以外の誰かを暖かく見つめる目が必要だ。一人でもそういう人が増えることによって、誰かの孤独や不幸に少しだけ光を当てられる。その光が少しずつ増え続けて行けば「ぬくもり」は社会の隅々に満ち溢れていくことだろう。小さなことから、それは始まる。

人の世の 旅人として生かされて 終の日までも夢に生きたし(読み人知らず)

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内部告発者の苦悩

今日は僕の感想をあまり入れずに、主に事実関係だけを紹介する記事となるかもしれない。

表の掲示板に5月26付で「内部告発をしたいです」というスレッドが立てられた。そのレスポンスとして様々な方が意見を述べているが、僕も次のようなレスポンスをつけた。

「介護保険制度以後、特養の虐待事件が公になった最初の事件は札幌市白石区の特養・ルミエールの虐待問題ではなかったでしょうか?この問題は職員の内部告発がきっかけで問題が明らかにされましたが、この施設の問題のように明らかな虐待と思われるケースでも経営者はいまだにそのことを否定し、しかも内部告発者は施設内で嫌がらせを受けたという別問題にな発展しました。その問題、ちょうど昨日札幌高裁の差し戻し控訴審において施設側に対し内部告発をして不利益な取扱いを受けた(罵倒される、会議に出席させない等)職員2人に80万円ずつ、計160万円を支払うように判決が下りました。
このように内部告発者の保護義務があるとは言っても、今現在の状況は内部告発者が全く傷を負わないことにはならず、裁判沙汰にならないと保護されないという状況もあります。このことをまずもって覚悟する必要がありますし、告発するにはそれなりの証拠、正式な記録、録音、録画など証明するものがないと実際に取り上げられるまでにはならないと思われます。まず証明する証拠を握ることが肝心です。」

以上である。

このルミエール事件の経緯は「特別養護老人ホーム ルミエール虐待事件の経緯」「ルミエール内部告発その後」「ルミエール高裁判決」等を参照いただきたい。このほかにもネット検索すれば、数多くヒットするサイト等があり全容が理解できるだろう。

そもそもこうした虐待が日常的に行われていたことが許されないことだし、異常なことであるのに、虐待を行った当事者を処分せず、虐待という事実を隠すために、虐待を告発した職員に対して陰湿な嫌がらせと思える行為や、差別を行うというのは「ひどい」を通り越している。逆にそうした行為に関わった管理職や介護職員が、何も責任をとらず、現在もサービスに関わっているとしたら、これは何を信じてよいのか分からなくなる。

第3者が見ていないところで神様が見ているかどうかは知らないが、少なくとも虐待を受ける利用者や、虐待を行う自分自身は、しっかりそのことを目に焼き付け、心に刻んでいるはずだ。そのことはやがて必ず自らの心に向かう刃になるであろうことを当事者は肝に命ずるべきである。

じっと目を閉じて、一人静かに自らの「心の闇」をみつめなさい。

ところで、このスレッドに内部告発したことによって嫌がらせを受けた当事者の方が5/30付で書き込みをされている。その内容は

「私はmasa様が仰っていた札幌の事件の内部告発当事者です。この掲示板は、以前から参考にさせて頂いていましたが、投稿は初めてです。今回、この話題になっていましたので、躊躇しましたが、体験談を書かせていただきます。
匿名様は、返信がないようですがまだきっと悩んでおいででしょうね。
私の経験からは・・はんかくさい経営者は、決して認めようとしませんからそのおつもりで。そして告発に至るまでに、必ず正当な訴えを職場内で一通りやってみましょう。それをやってしまうと解雇になったりする心配があるのでしょうが、そこでへこたれるのでは、告発など到底無理です。解雇されたら、不当解雇で闘うくらいの気概がなければいけません。
職場内での訴えを怠ると、公になった時の防御が薄くなります。
上記のように、このような行動は、当事者に闘う気などなくても、経営者にとっては宣戦布告ですから、どうしてもひとり孤立した時の支えは準備しておかなくてはなりません。たいてい職場で同じような気持ちの仲間を支えに、と思うでしょうが、それはあてになりません。信用しながらも、信用せずに、証言の記録や録音は用意しましょう。
私の問題では、私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。行政は施設に確認したり、会議などをしなさいと指導しただけでした。その1ヶ月後に、私が施設内での解決を試みましたが、圧力に負けそうになりました。そして2ヵ月後に所属の組合を通じて、今度はもみ消されないように、市への申し入れと同時に新聞に報道してもらいました。
私にとっては、労組の支えがなかったら、精神的にも裁判費用などの金銭面でも耐えられませんでした。職場内の仲間は、土壇場になると経営者と本気で闘う気持ちのある人はなかなかいませんから、孤立は覚悟でするしかありません。
そして、最後まで頑張り続けなければ、自分が犠牲になるだけで、いい事はひとつもないに等しいです。ちなみに私は職場の健全化を訴えて組合の立ち上げから虐待問題を経て、裁判が終わるまで7年半かかりました。その間プライベートも健康も犠牲にしてきました。
匿名さんのような状況は許せませんが、内部での解決へ向けての努力をまずは考えるべきです。自分の職場なのですから、やめる前に出来ることはしてみましょう。方法は告発だけではありません。何をやってみてもだめなら告発も視野に入るのではないでしょうか。長々とすみませんでした。」

以上である。言葉が浮かばないほどショックである。さぞ大変であったろう。しかも過ぎ去った7年以上という月日の重さを考えると内部告発者が守られない状況に対する深い憤りを感じざるを得ない。心の傷を癒し1日でも早くお元気になっていただきたい。

それにしても「私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。」と書かれているが、なぜ行政担当課はこうした問題に踏み込んで人権を守ろうとしないのだろう?ここが一番の疑問である。

この国の福祉や介護には、まだまだ深い闇が残されている。多くの心ある関係者にとっては本当に胸の痛むことであろう。

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通所介護の外出サービス

八重桜緑風園の正面玄関前に咲く「八重桜」は、真っ白な花を満開に開かせるとても見事な木である。これは昭和59年に登別市に「日・米桜の女王」が訪れた際に、当園にも来訪し記念植樹した木である。

北海道はどこもそうだが、白く清楚な美しさのある「ソメイヨシノ」ではなく、ピンクがあでやかな「エゾヤマザクラ」が多く、八重桜もピンクの花弁の種類が多いので、この白さは一段と目立って存在感を示している。
※画像をクリックして拡大してご覧ください。

こうした桜の季節、北海道の「花見」はジンギスカン鍋を囲んでの宴会が定番である。しかし高齢要介護者の中には、何年も自宅からの外出機会を持てず、家の中で過ごして桜を何年も見たことさえないという人々が存在する。

そうした中、通所サービスという社会資源ができたことは、それらの人々が外出する機会を作り、再び社会と接点を持って、桜の季節にはその花を愛でるという当たり前の生活習慣を取り戻すための有効なサービスとなっている。通所サービスの行事として花見でジンギスカンというのも、かつては当たり前であった。しかし介護保険制度になりデイサービスが通所介護と変わったことによって、そのことが必ずしも簡単ではなくなった、という歴史を我々は経験してきた。制度開始から10年。あらためて通所サービスの外出効果というものを問い直し、そのルールを緩和して良い時期に来ているのではないだろうか?

通所介護の原型は、1979年に市町村事業として「在宅寝たきり老人デイサービス」として実施されたサービスであろうと思える。

これは1986年に整理され、現在老人福祉法第5条2の3項に位置づけられている「老人デイサービス事業」となり、1998年からはこの事業が市町村委託事業として社会福祉法人等が実施できるようになり、さらに2000年の介護保険制度創設により介護保険制度上の「通所介護」事業として民間事業者も指定を受けサービス提供できるようになり事業所数が大幅に増えた。

つまり現在の通所介護は、老人福祉法では「デイサービス」、介護保険法では「通所介護」が正式名称である。介護保険法の原案づくりを行っていた際の小泉純一郎厚生大臣(当時)の「日本の法律なんだから、カタカナばかり使わず日本語で法文を作れ!」という鶴の一声が、両者の正式名称の違いに繋がっている。

ところで市町村事業として「老人デイサービス事業」が行われていた当時でも、その数はさほど延びず、デイサービス事業を実施していない市町村も数多くあった。当登別市も同様で、1989年〜1998年当時までは「在宅寝たきり老人入浴サービス事業」として、特養に通って特浴入浴を支援する、という事業しか行われておらず(当施設で実施していた)、当法人が市の委託事業としてデイサービス事業を行うようになったのは1999年からである。

つまり当法人におけるデイサービスは介護保険法が施行される1年前からの実施であり、開始から1年間は老人福祉法上の市の委託事業として実施されていたわけである。この1年間の事業実施内容と、介護保険制度移行の指定事業とでは、その実施方法は大きく変わっていると言ってよい。様々な変化があったが、一番の問題は、事業者の裁量で認められていたサービス内容が、介護保険法や法令通知によって、かなり規制を受けるようになったことだろう。そのように考えると介護保険制度移行、通所介護事業に関して言えば「できなくなった」ことの方が増えたように思う。

その最たるものが外出行事だろう。特に介護保険制度開始当初は、基本的に通所介護は事業所内で行うのが原則という考え方が強く、花見やドライブなど、すべての外出サービスを「保険給付不可」とする地域があった。そのためQ&A等で、機能訓練の一環として通所介護計画に位置付けられた外出行事は可能とする見解が出されたが、それでもその範囲の解釈には地域差がかなりあり、それは現在でも解消しておらずグレーゾーンも相変わらず残っている。

老企25号通知ではこのことについて
(2)指定通所介護の基本取扱方針及び具体的取扱方針
4.指定通所介護は、事業所内でサービスを提供することが原則であるが、次に掲げる条件を満たす場合においては、事業所の屋外でサービスを提供することができるものであること。
イ・あらかじめ通所介護計画に位置付けられていること
ロ・効果的な機能訓練等のサービスが提供できること

以上のように規定されている。このルールに沿った外出行事は認められているので、まず制限ありきのようなローカルルールで自由度を著しく損なっている保険者は反省すべきである。

ところでここで書かれているように、算定ルール上あらかじめ計画されている必要があるのは「通所介護計画」であって、居宅介護支援事業所の「居宅サービス計画」ではない。つまりこのルールに合致する外出行事を行うごとに、居宅介護支援事業所の介護支援専門員に、居宅サービス計画変更をお願いする必要もないし、ましてや「伺い」を立てる必要もないのである。

それを通所介護計画に位置付ける場合であっても、外出による心身活性化効果を「個別機能訓練計画」の中にあらかじめ落としておけば外出行事を行う時期になるたびに通所介護計画を変える必要はない。

例えば利用者のサービスに対する意向が「外出の機会が確保され、楽しい時間を持ちたい。」とされる場合、生活上の課題を「外出機会が少なく精神の不活性化リスクがある」とアセスメントし、それに対する課題解決目標を「社会交流の機会を確保し、楽しい時間を過ごすて心身活性化できる。」とし、具体的サービスとして「花見や紅葉狩りなどの外出レク参加による活動範囲の拡大、季節に応じた行事に参加することにより、心身機能の活性化を図ります。」としておけば、いちいち外出行事が組み込まれるたびに通所介護計画を変える必要もないし、ましてや担当ケアマネが立案する「居宅サービス計画」の通所介護の目的として身体機能時の機能訓練の目的が明記されておれば、それに沿った計画ということになり、何の問題もなく、誰からもイチャモンはつけられないものである。

こうした理論武装と、計画内容の説明ができる理解が通所介護の計画担当者にも不可欠だろう。

ただ保険算定可能な外出行事を行う際にも忘れてはならないのは、本来通所サービス利用者が求めている通所事業所の機能とは何なのかという部分で、入浴などの基本サービスをおざなりにしないことである。そして参加したくないという利用者が一人でも存在するのであれば、それらの方のニーズにもきちんと応えることであり、少数意見として単純に切り捨てることは好ましくないという理解だろう。

なお外出行事は地域ごとに、外出先からの自宅への直帰や、サービス開始の際に事業所を経ず自宅から外出先への直行を認めていないなどのルールを設けている場合があるし、外出行事の際に、事業所に居残る人がいる場合の人員配置については、事業所と外出先の両方に必要人員配置を求めている地域と、全体を1単位としてひっくるめて総数配置されておればよいという地域があり注意が必要だ。

これらのグレーゾーンやローカルルールもそろそろ整理して、できる可能性を増やしていくべきではないかと感じている。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

協会会員にあらずんば人にあらず?

日本介護支援専門員協会という職能団体について、このブログでは様々な問題点を指摘してきたが(参照ブログ記事一覧)最近、以前にも増して、この団体のトップの言動に首をかしげざるを得ない状況が増えている。

それは表の掲示板への書き込みや、このブログのコメントで情報提供いただいている各地の研修会での、この団体トップの発言内容である。

異なる地域の、異なる人々から、ほぼ同じ内容の発言内容が同会会長の言葉として情報提供されているのだから、ほうぼうで同じことを語っていることが想像できる。具体的にその発言内容は以下の通りである。

「日本介護支援専門員協会は会員の為の団体。協会に賛同する会員のみしか守らない。協会の働きにより21年報酬改定で様々な加算を獲得したが、それは会員の利益を守るためだ。しかしそのことで協会に入会していない人がその恩恵だけを受けるのはおかしい。今後も協会は会員だけを守る活動を続けて行くので、自分たちの利益が守られたいなら介護支援専門員は、協会に加入すべきである。」

以上である。

この言葉を聞いて、まず思い浮かんだのは平時忠(平清盛の義弟)の「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉である。日本介護支援専門員協会会長発言の状況や意味は、時忠の言葉とやや異なるが、会員以外を「価値の低い存在」とみなし、人を見下す傲慢な態度という意味では似たり寄ったりである。「おごる協会は久しからずや」である・・・。

職能団体は会員の利益を守るための目的を持って、そのためにソーシャルアクションを行うということはその性格上当然あってよいと思うが、だからと言って「会員の利益しか守らない」「自分たちの活動の結果、会員以外のよそ者が利益を受けるのは困る」というのは、何か勘違いしていませんか?と言いたくなる。

協会に入らないという意思を持つ介護支援専門員にはそれなりの理由があり、しかし介護支援の現場ではその能力を発揮して利用者を支え、かつその労働対価として報酬がアップするように様々な面からソーシャルアクションを起こしている有能な人々もいるのだ。それらの人材さえ単に協会会員ではないから「恩恵を受けるのはおかしい。」というのは暴論を通りこした問題発言だ。

そもそも介護支援専門員とは、介護保険制度において介護サービスを計画する有資格者であり、制度の中心的役割を担う社会福祉援助者である。

そうした有資格者の職能団体が、会員の利益しか求めず、社会全体で考えるべき介護サービスの質については、全く我関せずという態度で「自分たち会員以外に利益が及ぶことはけしからん」というのであれば、これは場合によって団体や会員の利益であれば、国民の不利益さえ許容する、という考え方に陥らざるを得ない状況さえ生まれかねない。

こういう発言をするトップが、介護支援専門員という社会福祉援助者の職能団体を代表していること自体がおかしなことだ。介護支援船専門員という有資格者名を冠にしている団体として、そのトップとして恥ずべきことである。

そういうトップを擁いて活動する組織に加入する会員も見識が問われる。そもそもこの組織の執行部選びは「代議員制」を敷いているが、それは一部の代議員の意向が、下部会員の意識とかい離している場合、下部会員の意思が組織に伝わることはない、ということを意味しており、組織の仕組み自体が既得権とか、執行部の体制を守るというものになってしまっているように思う。

会員の利益だけが重要で、会員以外に報酬加算が算定されるのが嫌なら「協会加入加算」でも主張したらよい。その時、この組織と、組織のトップの実像が国民全体の前に明らかになるだろう。だが発言内容から解釈すれば、この人物の腹の中は「ともかく会員が集まりさえ発言力が増しさえすれば良い」「そのために会員だけに利益がある報酬体系になったほうが良い」ということであることは見え見えである。

まったくくだらない人物を頭に持ってきたものである。この状況は、この組織が「なくてもよい団体」とか「加入すべきではない団体」ということを超え、社会正義と社会福祉の増進のためには「あってはならない団体」であるというレベルにまで達し始めている。この団体の存在そのものが社会悪であるとさえ言えるのかもしれない。

少しでも志を高く持つ介護支援専門員ならば、こういう組織に決して与さず、加入せず、ということで意思表示する以外ない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

賢い犬のセラピー?

春になったので平日はできるだけ早起きしてジョキング+ウォーキングを行うようにしている。(休みの日は夕方も走っていることが多い。)

しかし朝の慌ただしい中で時間をとるといっても、タイムリミットがあって、僕の場合この時間を5:45にしている。それ以降に起きた日は、走るとしても30分ほどしか時間が取れないので無意味だからである。6時10分前くらいには家を出て、50分ほどジョキング+ウォーキングというのが大体の早朝メニューである。

コースはいつもきまっていて、家のすぐ近くの川沿いの遊歩道が僕のジョギングコースで、ここを周回して走り終えた後、ウォーキングとして周辺を気の向くままに歩いている。朝早い時間ではあるが、天気が良い日なら誰とも出会わないということはまずなく、実に多くの人々が朝早くから散歩をしている。

ただそれらの方々の年齢層はかなり高く、若い人が散歩している姿はほとんど見られない。それもそうだろう「若さとは眠さ」であるから早起きが苦にならない僕のような世代より上の人が早朝散歩を行っているわけである。

実にいろいろな人がいて、朝早くから清酒のワンカップを片手に散歩しているご老人がいたりする。これはそれぞれのライフスタイルであろうから、他人に迷惑にならない限り批判の対象にはならない。この方にとっては朝、お酒を飲みながら太陽の下散歩することが生きがいなんだろう。足もともしっかりしているし、酔っ払っているようには見えないし、実に清々しい歩き姿である。しかしなかなか個性的ではある。

犬を散歩させている人も多い。僕は犬嫌いではないが、ジョギング中の犬は結構困った存在なのである。なぜなら飼い主にも犬にも悪気はないのだろうが、走っている僕を追いかけようとしたり、飛びかかってくるようなしぐさを見せる犬が多いからだ。これって結構怖いので、犬の姿をみると、なるべく反対側の端に寄って走ることになる。飼い主の方の多くも、そういう僕に気がついてくれているようで、僕が近づくと犬を端に寄せて動かないで立ち止まってくれる方が多くなった。これも非言語的コミュニケーションである。

そんな中に、かなり高齢で腰の曲がったおばあさんが、杖をつきながら犬を散歩させている。お年は70歳を超えているだろう。(ただし見かけだけで70代か80代かの判断はつかない。これができる人はかなり達人だろう。)

その散歩の仕方がユニークで、このおばあさんだけは犬に鎖をつけず、いわゆる「放し飼い」状態で散歩させているのである。その理由は一見して理解できた。おばあさんの足がかなり遅くて、犬のスピードについていけないのである。鎖をつけて引っ張られると危険なこともあるのだろう。

ところがこの犬が非常に賢くて、おばあさんよりかなり前に進んでいても、一定の場所にたどり着くとおばあさんを待っているのだ。しかも通行人が怖がらないようにしているのか、道路に背中を向けてきちんと「お座り」の姿勢をとって、いつもその姿は変わることはない。僕が側を走り抜けても吠えることもないし、追いかけようとすることもない。ただじっとおばあさんの到着を待っているのである。実に凛々しい姿である。

ただこのおばあさんの方は、犬よりもかなり心配な姿で歩いてくるのである。腰も曲がっていて、傍から見ていると危なっかしい。しかし歩いている距離を考えると、かなりの距離を歩いている。いつぞやは川沿いの土手のかなり急な坂を杖をつきながら登っていた。そういう意味ではお元気なんだろう。その時も、かの犬は見守るように坂の上でおばあさんを待っているのである。

時々、おばあさん「転ばないかな、危ないことはないかな」と心配になるので、走りつつも、そちらに注意を向けているのだが、何かあったら僕より犬の方が早く駆けつけて、何らかの形で急を知らせることができそうである。

そういう意味で、あの犬が一緒だから安心だなあ、と思ったりしている。

おばあさんも犬と散歩するという生きがいを持っているんだろうし、実際にあの距離を歩くのは健康にも介護予防にも有効なんだろうと思ったりしている。

なにはともあれ、微笑ましい心が温まる風景である。おばあさん、元気で散歩を続けてください。

人面犬※その犬とは関係がないが、僕のウォーキングコースの途中の家で飼われている「まゆ毛のある人面犬」である。この地域では有名な犬で、勿論まゆ毛は生まれつきの模様で、何かで書いたものではない。この犬、おとなしくて、全く吠えない。近づいても逃げようともせず、ただ無視する。番犬にはならんだろうなあ〜。ただデジタルカメラを構えた僕の姿は不思議そうに見ていた。それがこの画像である。

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ショートステイも一期一会

ショートステイというサービスは、様々な出逢いが伴うサービスである。

新規利用者の方は、顔も人となりも、家庭環境もほとんどわからない状態で受け入れる場合が多いので、居宅サービス計画担当者(担当ケアマネ)からの情報が命綱で、それが実態と違うと困る場面が多々ある。

そのためショート事業所の中には、はじめから担当ケアマネの情報を信じず、初回ショート利用は原則何日などと暗黙のルールを定めている事業所もあると聞く。おかしなことである。確かにショート利用した途端に混乱が激しく生じて、利用継続が不可能になる場合もあるが、それは個別の状況に応じて対応すべき問題で、未然に問題を防ぐために、サービスを使うための間口を狭めるということはあってはならないと思う。それは困難ケースの排除という形で、実質サービス利用ができない「介護難民」を作ってしまいかねない問題だからである。

正確な状態把握のための情報を得るという意味では、担当介護支援専門員と介護サービス事業所の担当者は日ごろからコミュニケーションを円滑にしておくことが重要である。そういう意味からも当地域のケアマネ会は、将来的にケアマネ資格取得を目指すという条件をクリアすれば、ケアマネ資格のない介護サービス事業所担当者も会員として入会を認めている。そして両者が共にケアマネジメントやケアプランに関する勉強や情報交換を行っている。これはそれなりに地域では意味のあることだろうと思う。

やや話が逸れた。ショートの話題に戻そう。

ショートステイは、必ず利用者が継続利用するという保障はなく、1回限りの利用で2度と利用しない人もおられる。その理由は様々だが「利用してみて自分にはあっていなかった」とか「サービスに不満を持った」という理由も存在するのが事実である。認知症の方が家族に勧められ利用したが混乱がおさまらずにやむなく途中で利用中止する、ということもある。

それらの方々に対するサービスが一概に不適切であったとか、利用者の希望を無視した、とかいうものではない場合もあり、時にはショート利用のコンセンサスを利用者自身には十分に得ていなかったとか、説得によっていやいや利用したというケースも含まれ、そのことで「やっぱり家で過ごしたい」という思いが強まった、というケースも多い。

しかしそうであってもショートサービス事業所としては、それらの方々の不満を解消し「使ってよかった」と感じられるサービスを提供し得なかったという意味では「失敗」であろう。

どのような経緯をたどってショート利用に至ろうとも、我々はそれらの人々に満足していただけるサービスを行うことを目指すべきで、まさにショートステイは一期一会の精神で、利用された初回から心のこもったサービスに努めねばならないサービスだ。機械的に数をこなして滞在中の無事だけに注意を払えば良いサービスではない。ここを間違えてはいけない。

むしろ1回限りの利用で、ショート終了後には2度とお逢いできない利用者であるかもしれないという意味において、その1回限りの利用を満足してもらえるようにサービス提供できることが我々に求められる責任でもある。ショート利用という形で関連を持ったのであるから、このサービス利用が「利用者の人生」において意味があるものであってほしいと思う。

介護サービスの視点はADLからQOLへと変換してきた歴史があるが、僕は現代の介護サービスはQOD(Quality of death)の視点まで含めて考えないとならないと主張している。

それは単にターミナルケアの場で利用者を「看取る」ということのみを意味するものではなく「そこで暮らし、やがてそこで最期のときを迎えるまで、いかにその人が生命を持つ個人として尊重され、豊かな暮らしを送ることが出来、やがて安らかに死の瞬間を迎えることが出来るかという意味であり、我々がそこで豊かな暮らしを送ることが出来る支援のあり方と、最後の瞬間を看取り、送り出すまですべての過程を質の高いサービスとして構築することを意味する概念」である。

そう考えると広く居宅介護支援というステージでも、すべての居宅サービスの担当者が連携してそうした視点を持って、1日1日が利用者にとって意味のある「暮らし」を営むことができているかを確認しながら、それはやがて豊かな「最期の時」に脈々と続いているものであるという理解が必要なのではないだろうか。

それは我々が、人間社会の中で様々な人と関わりを持ち、介護サービスを提供する意味であり、我々自身にとっても、そのことが自分の「生きる証し」となり得るのではないだろうか。

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きらきら輝く

介護サービスの現場で利用者や職員が「きらきら輝けること」が大切だと言っているのは、東京都・根津で小規模多機能居宅介護「ユアハウス」の管理者を務めている若きオピニオンリーダー・飯塚裕久氏である。

まったくその通りで、利用者が輝く生活づくりを目指すことでしか職員は輝けない。職員が輝いていないと利用者にも笑顔が生まれない。どちらも大切なのだ。

そして職員が輝くことができるモチベーションは、自分たちの給料や待遇が上がることだけではなく(勿論そのことも大事ではある)、それと同時に利用者にとって「良い暮らし」に結ぶつくサービスが提供されることであり、そのために自ら考え実践して結果を出すことだ。

介護サービスは、利用者の生活に向かいあっているので、支援者の努力が結果に結びつかないと「何の意味もない」と言ってよい。そういう意味では厳しい結果責任が求められるサービスだ。だって事業者がいくら努力しても、利用者の生活がちっとも良くならず、笑顔も幸福感も生まれないのなら何のためのサービスなのかということになるからだ。しかしその結果は努力し続ける者にしか与えられないというのも一つの真実である。

だから皆がきらきら輝いて幸福感を持てるようにするためには、皆が知恵を出し合って、できないことから考えるのではなく、できることをまず考え、利用者の笑顔に結びつけるという結果を求めることが大事である。

そのためには自分自身がいつでも「きらきらと輝いていたい」と思う。年をとっても自分が輝ける場所を持っていたい。だから介護サービスを利用する様々な人々にも、そういう環境や空間や関係を作ることを我々は目指すべきだし、そのために「彼らが輝けることって何?」という問いかけを常に行い続けるべきだ。それが個別ケアであり、ユニットケアが目指すべき方向であり、それは決して難しく考えるような問題ではないのである。

北海道の山の中にある当施設には、都会と比べるといろいろ不便な点が多い。住宅地から離れているので、地域に出て活動するのも一苦労である。でも豊かな自然の中に囲まれているというメリットもある。そういう地域性を様々にもつのが「ふるさと」のよさであり、日本人としての心の置きどころだろう。だからどんなに素晴らしい施設があっても、全てをマネすることにはならない。自分たちの施設で、自分たちの手でしかできないことがたくさんあるからだ。そのことを大事にしよう。

今時期は、まだまだ寒いが、桜が散り始めて山々に山菜が芽吹く時期でもある。特養が重介護者の多い施設であるからと言って、こういう時期に自然の恵みを利用しない手はない。なにしろ超田舎では、車椅子で行くことができる場所にも山菜は生えているのである。

認知症の方であっても足腰の衰えていない方は、職員が手助けさえすれば収穫がたくさん期待できる場所まで行って山菜を採ることができる。クマが出ない場所を選ぶ必要はあるけれど・・・。

ふきとたけのこ画像は、昨日数人の利用者の方々が職員と一緒に取ってきた「ふきとたけのこ」である。皮をむくのも自分たちで行う。作業している人の中には認知症と診断を受けている人もいる。この施設にやってくる前は、1日の大半をベッドで過ごし、ほとんど表情がなかった人もいる。しかしこの生き生きとした笑顔をみれば、お元気な高齢者にしか見えない。寝巻から日中着に着替えて活動できる空間が作られるだけで表情は劇的に変わるのだ。

山菜皮むき山菜とりショート利用中の方も含まれているが、家で調理をすることはないという。でも皮むきは上手である。何よりも楽しそうな表情が、何をしたかったのか、すべてを物語っている。本当に求められている特養の「機能訓練」とは治療的リハビリテーション・個別リハビリテーションではなく、こうした活動機会を探して、やりがいを笑顔に結びつけることだ。

皆、つい最近まで家事を毎日していた人々である。できないわけがないのだ。今回は山菜とりに男性が参加してくれなかったのは残念であるが、昨晩、夕食にこの山菜が出されたお返しに「今度は俺がとってきてやる」というモチベーションが生まれれば、それがまた笑顔に繋がるはずだ。

きらきら輝ける方法は、日常生活の中で何百も方法が転がっているはずだ。それが見える人になることが大事で、何かすれば問題が起こる、とか、危険性はないか、という位置からしか考えられない人に、それは見えない。

きらきら輝く、という言葉を、飯塚氏のように毎日口に出しながら介護サービスに携わることは本当に大事なことと思う。

ところでその彼が「介護の現場を変える!介護イノベーションだ!」ということでNPO法人「もんじゅ」を立ち上げ、全国の有志を募り、介護サービス事業者の中から改革しようという運動を始める。具体的には「もんじゅ」の会員になって出資された施設の問題を会員が一緒に考え、具体的かつ現実的な解決方法の提案を行い、その輪を全国規模に広げることによって、職員や利用者が「きらきら輝ける」介護サービスを広げて行く活動らしい。

興味のある方は、ユアハウスのHPに入って、飯塚氏に直接メールを送ってみてはいかがだろう。会員になる・ならないは別にして、何をどうするの?という問い合わせでも良いだろう。

きらきら輝いている人から、きらきら輝く返信があると思う。

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