masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

2010年05月

処遇という言葉に替る言葉

僕の講演に対するアンケート結果を主催事務局から送っていただき、その中の様々な意見を読みながら今後の参考にしている。

その中で気になるというか、自らの意識について反省されられるコメントがあった。

それは「処遇という言葉は、対応という言葉に置き換えられませんか。気になりました。こういうことから改革が始まると考えます。」という内容で、意見を書いてくださった方は「第3者評価者」となっているから介護サービス事業関係者ではない方であろうと想像する。

日ごろ僕は「介護の常識が世間の非常識」という状況を作り出してはいけないと主張し、感覚を麻痺させてはいけないと言っているのに、このコメントを読んで自分が「処遇」という言葉を何の疑いもなく使っていることに反省の思いを持った。

この講演の中で処遇という言葉を使った場面は、居宅介護支援事業所の立案するケアプランと、各サービス事業所の立案するケアプランの違いを明確にするために、前者については「利用者の課題解決に必要な複数の社会資源を結びつける計画」であり、後者については、総合的援助方針を達するために課題を解決する具体的手段として提供される各サービス事業所における利用者に対する「個別処遇計画」であると説明したものである。

特養では介護保険制度ができる以前から施設サービス計画(ケアプラン)の前身とも言える計画の作成が行われており、それが「個別処遇計画」と呼ばれていた為、この言葉に何の疑いも持っていなかった。しかし一般市民からすれば「処遇」という言葉は、どうやら温かみに欠ける機械的な対応、あるいは上から目線で決められる取り扱い、という語感があるのかもしれない。

そこで広辞苑であらためて「処遇」という意味を調べてみると「人をある立場から評価して、それに相応した取り扱いをすること。また、その取り扱い方」と書かれている。なるほど「評価して相応の取り扱いをする」という意味は確かに機械的で冷たい印象を与えるものだろうと思った。そもそも「取り扱う」という言葉自体が、対等な立場で展開されるべき対人援助サービスにそぐわないと感じるだろうことを理解した。

しかもヤフー百科事典に書かれている内容はもっと深刻で「広義には、犯罪者の人格を考慮した取扱いをいう。〜以下略」と書かれている。この意味を知っている人が介護施設で使われる「個別処遇計画」という言葉を聞けば、刑務所などの「矯正計画」を連想するだろうし、社会福祉援助サービスでその言葉が使われることに違和感を持つのは当然だろうと思った。

そこで今後は「個別処遇計画」という言葉を使わず、別な言葉に変えたいと考えた。

コメントを書いてくださった方の提案通り「個別対応計画」が良いのか、あるいは「個別援助計画」「個別支援計画」「個別ケア計画」など様々な言葉が思い浮かぶが、どの言葉が適切だろうか?それとももっと適切な言葉があるだろうか?

これはアンケートを活用するのが最もふさわしいと考えたので、以下(あるいは右サイドバーの)アンケートにお答えいただきたい。その際、コメントはこのブログ記事ではなく、アンケートの投票のコメント欄に書いていただければ集計上有難いと思う。

是非よろしくお願いします。なおアンケートの結果、最も多かったご意見の言葉を今後使用させていただくことをお約束します。

アンケートは既に終了しました。このアンケートの結果はこちらをクリックしてご覧ください。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

見捨て死の現状

先日僕のブログ記事「最後の晩餐に関する対立」にコメントが寄せられた。この記事自体はかなり以前に書いたものだが、コメントは先週書き込まれたもので、その内容は以下の通りである。

看取りについての疑問を持つ対応があり投稿させていただきます。とあるGHの入居女性94歳の方が5月7日より絶飲となり医師とご家族も何もしなくてもいいといわれ在宅酸素療法のみで口腔ケア・清拭もせずにいます。祖母が入居しているところで安心していたのですがこの方の件で疑問を持ち始めています。自分は週1度おじゃましているところです。臨期が近く医師もご家族も何もしなくていいといわれているとのこと。関わる職員は何もできないのか、何もしないでいるのが?です。口は鼻出血のあとがみられ 皮膚汚れも目立ち 室内の消臭もされずただ死を待つだけなのでしょうか。何もしなくていいというコトバはどのような意味なのでしょうか。
話し合いでご本人の看取りについて心地よさをお互いもっていただきたいなぁと思います。何もできない自分もやるせないです
。」

以上・・・。非常にショックを受けた。

看取り介護というものは「終末期だから何も対応しない」「高齢者だから対応の必要はない」という考え方を徹底的に排除したうえで、なおかつ延命のための医療対応が必要ではない時期と判断するもので、身体介護自体は決しておざなりにするようなものではない。看取り介護であるからこそ、そこでは安心と安楽のために必要な対応を求められているもので、特に清潔支援や安楽の姿勢や状況を作り出す支援というものは不可欠である。安楽のための医療サービスも不可欠であり、看取り介護に移行したからといって、医師や看護師の対応や処置が皆無になるわけではなく、むしろ安心のための関わりや対応はきめ細かく行わねばならない。

看取り介護期は、体力や免疫力の低下が想定される時期であるから、感染症にかかるリスクも高く、その場合は、利用者の「苦しみ」が増幅するのだから、感染症を防ぐ清潔支援は最も配慮されるべきサービスで、清拭は毎日場合によっては複数回行うのが「安楽支援」の一部であるし、看取り期であるからといって「体力が弱って入浴できない」と考えることは間違いで、身体状態を正確に把握すれば、タイミングをはかって、看取り期における入浴も可能であるし、それが安楽に繋がる支援となる。

食事摂取も徐々に困難となるが、決して最期の瞬間まで「好きなもの」を口にする機会を奪わぬよう、その可能性を常に考慮して対応されるべきだし、その準備は怠りなくされるべきである。

僕の施設の「看取り介護」におけるキーワードの一つに「あきらめない介護」というものがある。最期の瞬間まで人として安楽に尊厳を持って生きることができるために、口から物を摂取することも、入浴することも、身辺清潔を保つことも、人とコミュニケーションを交わすことも、活動に参加することも「あきらめない介護」である。結果的にそうした状況が難しくても、支援者がそのことを「あきらめて」しまえば、わずかにできる可能性さえ奪ってしまうことになる。そうであってはいけない。

ブログ記事にコメントを寄せられた方が目の当たりにしている状況は、ターミナルケアでも、看取り介護でもなく、「終末期に見捨てられた状態」に他ならない。棄老(きろう)という文字さえ思い浮かばせるゆゆしき状態である。

看取り介護とは、単に医療機関に入院せず介護サービスの現場や自宅で亡くなることをいうのではない。看取り介護として、旅立つ人の尊厳や安楽を保障した支援を行うのが絶対条件で、それが行われない状況は「終末期の見捨て」というとんでもない状況を生む。その対象者は命ある人間であるのだという「当たり前」のことを考えた時、そんな状況を決して生んではいけないはずだ。

ターミナルケアとは、看取り介護とは何なのか、この当たり前のことを関係者は自らの胸に常に問いかけて、今行っていることが人として恥ずべき状況になっていないのか考え続けるべきである。

単に特養やグループホームで「亡くなる方がいる」ということは「看取り介護を行っている」とイコールではないのだ。特に変な施設では「何もしない」という同意をとることを看取り介護の条件にしているところがあると聞く。そんな施設では恐ろしくて看取られたくない。必要な介護や安楽のために必要な医療については、それは不可欠で、延命のための過度な医療対応が必要ないことと「何もしない」ということはイコールではないのである。何もしないという判断は、なんでもできる医学知識のある医師によって、安楽のために「これこれはしなくてよい」という判断に基づき決められるのが唯一無二の条件である。

むしろ安心・安楽の終末期ケアができる自信がない、できる力がない施設や事業者は「看取り介護」に関わるべきではないのである。

いつかの記事でも紹介したマザーテレサの言葉に

「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう。」

という言葉がある。しかしコメントに寄せられた状況は最期の1%も不幸である。そうであればその方の人生の99%が幸せであっても、それは何の意味もなく不幸な人生に替えてしまうかもしれないものである。

そんな関わりが「介護」であってはならないし、そんなことが許されるわけがない。

そのコメントを書いてくれた方から、今朝再度コメントが寄せられた。

看取り介護の真摯なごく当たり前のケアの支援。人間らしさその方の思いをはかるケア。どこで暮らしていても大切な1つ1つのケアを実践するとりくみ同じ思いの輪が広まってほしいです。なぜ、この見捨てのケアに何もできなかったか。問題に目をそむけたのか。自分も人としてのアプローチが率直にできたらと残念で傍観していた1人だと後悔です。
この方は5月24日の夜中に永眠されました。本日28日11:00より葬儀となります。
看取り介護について今後も目をそらさずその方の思いをくむお手伝いが少しでもできるようにしていきたいです
。」

お亡くなりになった方が、この20数日間、どのような思いで最期の時を過ごしたかを考えると胸が詰まる思いである。ただ安らかなれと合掌するしかない。

こういう最期の瞬間を介護サービスの現場で決して生んではならないのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

「嫌だ」は「助けて」という意味がある。

数年前の話である。とある昼下がり、廊下を歩いていると清掃員から「施設長、ちょっと困っているんです。話を聞いてください。」と呼びとめられた。

何かと思うと「昨日ショートで入ったAさんが部屋の掃除をさせてくれない」というのである。

当施設の館内清掃は、介護職員等とは別に清掃員を雇用して、これらの従業者が清掃全般を担当しているのだが、その一人からの訴えである。しばらく話を聞くと、最初に部屋を掃除しようと思って訪室した時から「掃除なんてしなくてよい」と拒否的で、部屋に入れないというのである。

Aさんはその時が初めてのショート利用で、要介護度2である。(旧判定ルール)速度は遅いが歩行も杖を使って可能で、特養の中では自立度は高い方である。排せつや入浴等には一部支援が必要な状態だが、認知機能の低下は見られない。ただ性格的に頑固な面があり、女性を蔑視する傾向がその言動からみられる。居宅で奥さんと二人暮らしであるが、家事はすべて奥さんが行っていたようで、今回、奥さんが腰痛で家事やAさんの身の回りの世話に対して疲労感とストレスを感じて、このままでは在宅介護が継続できなくなる恐れが出てきたので、一時的な休養をとり、できれば今後の定期ショート利用につなげたいというケースであった。当然のことながら、Aさん自身はショート利用の必要性を感じておらず、できればずっと自宅で過ごしたいという思いを持っているが、奥さんが腰痛で動けないということで、担当ケアマネにも「頼まれた」から渋々ショート利用した、というケースである。

どうしてAさんが掃除を拒否するのかを紐解くために、最初に掃除をしようとした時のことを詳しく聞いてみたところ、以下のような状況が浮かびあがった。

清掃員「あのお部屋の掃除に来たんですが」
Aさん「掃除?掃除なんかいいよ」
清掃員「でも仕事ですから、それに綺麗になったほうが気持ちがいいですよ」
Aさん「いいって。掃除なんかしてもどうにもならん」
清掃員「でも埃があると体にも悪いですから、綺麗にしましょう」
Aさん「綺麗にしたって同じことだ。家に帰れるわけでもない」
清掃員「でも私の仕事ですから」
Aさん「ほっとけって。」
清掃員「でも・・・。」
Aさん「うるさい!帰れ!」

ざっと振り返ると以上のような状況である。清掃員とAさんは、この時が初対面で、この場面から関係がスタートしているといってよい。その時清掃員が「掃除をしたい」と言うと、Aさんは「掃除なんかしなくたってよい」と応じて「やりとり」が始まっている。清掃員はこの答えに対して「でもした方が良い」とやりかえし、Aさんは「しなくてよい」と再度やり返している。つまりここで清掃員が口に出している言葉は、結果的に最初の挨拶以外はすべてAさんにとって「NO」という拒否の言葉になっており、両者のコミュニケーションは「やりあいバトル」という結果に終始しているといってよい。

つまりこの関係スタート場面で、ある種の「ボタンの掛け違い」から言葉の戦いが始まり、わずか1〜2分の間に両者は「対立関係」となってしまっているように思う。これではショート初回利用のAさんが、心を開いて素直に自らの部屋の掃除を受け入れることにはならないだろう。

Aさんは「綺麗にしたって同じことだ。家に帰れるわけでもない」と言っている。つまりAさんは清掃員が憎いわけでも、掃除が嫌なわけでもなく、きっと自分の意思に反したショート利用を「強要された」と思い、そのことを不満に思って、たまたま部屋を訪ねた清掃員に、その不満を聞いてもらいたかったのではないだろうか。なぜなら初回ショート利用のAさんにとって、施設職員はすべて同じ職員で、相談員とか、看護師とか、ケアワーカーとか、清掃員も同様の存在であり、自分の訴えを聞くべき職員であるからである。

つまりAさんの「掃除なんかしなくてよい」という「嫌だ」という感情表現は、実は「自分の不満を聞いてほしい」という訴えであり、それは「自分の気持ちを分かってほしい」「誰か今の状況を説明してくれ」「どうして俺はここにいなきゃならないんだ」という訴えではなかったのだろうか?

このケースの場合、対応した職員が「清掃員」であり、部屋の掃除のために訪室したという状況があるが、Aさんの本当の訴えに耳を傾ける前に、一種の対立関係が生じてしまったことによって、掃除までできなくなってしまったケースである。

いったんこうした対立関係が生じてしまうと関係修復は非常に難しく、時間がかかる問題であり、少なくとも「援助関係」を構築しなければならない専門職は、こうした場面で対立関係を生じないように、利用者の訴えに「理解的態度」を持って、その訴えの本質を聞き取ろうとする常日頃からの配慮が必要である。

「嫌だ」という言葉は、背後に「助けて」という意味が含まれているかもしれないことに思いを及ぼすべきである。

ところで、その後様々な関係修復のための試みを行った結果、現在のAさんは・・・。数年経た今も自宅でお元気に暮らされ、定期的にショート利用を続けている。ショート利用中は、かの清掃員に「あれやこれや」と指図しながら、いまでは清掃を拒否することはない。時折「掃除が行き届いていない」と怒られることはある・・・。誰がって?当然施設長が怒られ役である。

その時に「最初は掃除しなくていいっていったでしょ」なんてことを言うほど人は悪くないのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

新masaのラーメン道5〜縄文・元祖味噌ラーメン

今日から今年度のヘルパー養成講座が始まるので、その講義のため13:00まで職業訓練校に行かねばならない。

やがてこれらの講座受講者が我々の職場のマンパワーとして活躍してくれることになるので、こうした養成講座に協力することは我々の責務で、どんなに忙しくてもこれを断ることはできない。それは長い目で見れば職員確保という我々自身の事業運営上のメリットにも繋がるからである。今年度はこれに加え、介護福祉士養成校の授業も受け持つことになっている。それも同じような意味がある。

そうであればこれは真剣勝負で、正しい知識を備えた有能な人材を育成しなければ意味がないので、笑いをとる講義も必要ないし、受講者に媚を売る必要もなく、本当に介護職員として備え置くべき知識や技術に繋がる講義内容に心がけている。授業中に居眠りは許されないが、幸いなことに眠くなるような講義ではないのか、あまり注意が必要なことはない。

さて、その講義のため慌ただしくお昼ご飯を食べた。普段は妻が作った「おにぎり」一つだけを持参してPCを操作しながら、それを食べるだけで食事時間もたいしてかからないのであるが、今日は検食で施設の昼食を摂ることが義務付けられているため、早めにお昼を済ましたというわけである。メニューは醤油ラーメンだった。

もう出発まで時間もないので、慌ただしく書ける記事と言うことで昼食メニューにもちなんで、久しぶりにあの特集記事を書くことにしよう。(画像は事前にPCに取り込んでいる)

先日、苫小牧では現在一番人気と言われているラーメン店「縄文」に行ってきた。イオンショッピングセンター向かいの場所に位置し、大型電気店と並んでいるため、共用の駐車場は広く止めやすい。店の中も広いが、この客席数でも行列ができて、昼時なら1時間近く待つこともあるというのだから相当の人気店である。

僕は平日で、しかも昼時を外した午後2時ころに訪れたため、客はほとんどおらず、広い店内で悠々とラーメンを注文した。

メニューも数多いが、その中でも人気だという通称「ガンミソ」こと元祖味噌ラーメンを頼んだ。値段は780円。普通のラーメンにしては少し高めの値段設定である。どれどれ中身はいかほどじゃい。
縄文・元祖味噌ラーメン
こってりとしたとろみさえ感じる濃いめの味噌スープの表面は油で覆われている。なるほど、これは札幌の澄川が発祥で全国的に超有名店になった純連(澄川は、じゅんれん、他の店舗はすみれ、でおなじみ)のラーメンがベースと見た。

具材は、自家製の色濃いメンマがたっぷり入っているのが目につく(色ほど濃い味ではなく、甘めの柔らかいメンマである)、それに海苔、半熟玉子、刻みねぎ、チャーシュー2枚に、さらに刻んだ(というより短冊切りというべきか)チャーシューが別に入っているので、かなりボリューム感たっぷりだ。そういえば純連の味噌ラーメンは短冊切りチャーシューしか入っていないが、やはり純連を意識しているんだろうか。

麺は中太ちぢれ麺。量もたっぷりで、1人前でお腹いっぱいになるラーメンだ。

まずスープをすすった。ンっ。濃厚であるが、何やら後味が・・・。ニンニクとショウガとネギを煮込んで焦がしたような香りがするが、その後に正体は分からないが、僕にとってはあまり好ましくない後味感がある。スパイスの味だろうか・・・?ただこのスープの味はどこかで記憶があるなあ・どこだったろう?と考えながら麺を食べ、チャーシューを食べたところで思い当たった。

ああこれ「白樺山荘」のラーメンと同じ味だ。特にチャーシューの味は新千歳空港内のラーメン道場の白樺山荘とそっくり味だ。ラーメン全体の味わいも極めて似ている。

こってりが好きな人は、それなりに「はまる味」であろうが、僕は「絶品」という感想は持つに至らなかった。特に前述した後味の悪い香りがどうも苦手である。まあまあ及第点の濃厚派ラーメンといったところか。

並んでまで食べようとは思わないなあ。ラーメンの好みというのは人それぞれだから、有名店・人気店のラーメンが好みに合わないこともある。今回は、少々自分にとっては「期待はずれ」という感じだろうか・・・。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

医療行為のアンケート結果から見えること

5月11日の日に、当ブログにおいて「介護職員への一部医療行為の解禁議論」について「インスリン注射など家族ができる医療行為について介護職員にも認めるべきだという意見についてどう考えますか。」というアンケートを実施した。(参照:アンケート結果

その結果は実に90%近い方が「一部行為は介護職員にも認めるべき」と回答されている。

しかし「医療資格者にしか認めるべきではない」という意見も約8%ある。(本日現在の集計値)そしてそれらの方々の反対意見として寄せられたコメントは

1. 介護職に認めるなら、資格試験の内容を検討すべき。実務、研修のみで資格を与えるのはおかしい。 (女性/40代/福岡)
2. 介護福祉士は医療職ではない。十分な研修も無いまま利用者が困るから認めろとは乱暴すぎる (男性/70代/神奈川)
3. 医療資格者が足りないから介護職員にやらせるんですか?大変不安を感じます。 (男性/70代/神奈川)
4. 医療行為は素人がタッチするべきではない。(男性/30代/千葉)
5. そもそも資格修得過程でのレベルが違いすぎる。(男性/30代/岡山)
6.危険です。 (女性/60代)
7. 医療行為ができる人がいればいい話。それに対する補償も保険ですべき (男性/30代/兵庫)
8. 事故があった場合、家族は自己責任とされるのに、その他の者は責任を追及される為 (男性/40代/石川) etc。

以上である。8については医療事故があれば、医療資格者でも責任は問われるので的外れな意見ではないかと考える。7については、ともかく医療行為なんだから、すべて医療の有資格者を配置すれば済む、という意見であるが、医療行為が必要な人の数が世界にも過去に例をみないほど増えていることに対する視点がない非現実的な意見と思う。これについては介護保険施行時、旧総務庁が「医療行為の中にはヘルパーが行っても利用者の身体に危害を及ぼすおそれのない行為が少なくない。その処置のために訪問看護を利用するのは、ステーションが相当数整備されたとしても対応が困難とみられるほか、コスト面からみても合理的とは言えず、身体介護を行うヘルパーができる限り幅広く行えるようにすることが望ましい」という意見を出しているが、まさにそれこそが正論である。というか我々の主張は医療行為を介護職員にできるようにせよという主張ではなく、時代に合った形で医療行為を整理し直せという主張であり、これについては後述する。

ところで1〜6に示された意見は、まさに「医療行為を介護職員が行って安全性が担保されるのか」という疑問の声であり、この疑念は国民の多くの声を代表するものだと考えてもよいもので、このことについてきちんと答えを示すことができないと、医療行為解禁論は国民に理解が得られないだろう。

このアンケートは「医療行為の解禁」としているため、医療資格者ではない介護職員がそんな行為を行う不安が前面に出てしまう傾向にあるが、実はこの問題は医療行為を介護職員にできるようにせよ、というより、むしろ「こんなことまで医療行為という枠にはめて、医療職にしかできないままにしておいていいの?」というふうに考えてみたほうが問題の本質がわかるのかもしれない。(つまり質問の仕方自体に問題があったかもしれないと考え反省している。)

そもそも医師法第17条において医業は医師にしか認められていないが、医行為のうち「診療の補助業務」として看護師が補助できるものは「相対的医行為」、医師でなければ行うことのできない「絶対的医行為」と区別して呼ぶこともあり、前者を分かりやすく「医療行為」と呼ぶものである。これについては医師の指示のもと 他の有資格者(看護師等)にも認められているのである。

ところで、もともと医療行為は業として行わなければ、これを全面的に禁止する法令はない。無資格者であっても在宅療養者の家族等の保護者がこの行為を行うことは「業」ではないとして認められているのである。しかし家族ではない第3者がこれらの行為を行う場合は、労働対価としての金銭を得ていない場合でも繰り返し行えば「反復継続行為は業と同様である」とされ法律違反になるものである。

逆に言えば、法律で規制がない家族等の保護者は、在宅療養者に対し医療機関の指導を受けて様々な医療行為を行うことによって、それらの方々の命と生活を支えているもので、その行為は決して危険性が高いものではなく、医師などの管理が及ばない場所で日常的に行われている行為といえる。それらの行為の中で危険性の少ないものについては介護職員ができる行為として「医療行為」の枠から外して行ってもよいのではないかというのが、この提言の本質である。

なぜなら医業を定めた医師法や、医療法の制定後にも、様々な新しい医療器具や治療法が生まれ、法律が想定していなかった範囲まで含めたすべてが「医療行為」の枠に入ってきてしまっているので、ここで一度時代のニーズに合致した形での医療行為の整理が必要ではないかということなのである。

例えば我々が「介護職が行うことができる行為」にすべきと主張している行為の一つ「心臓・ぜんそく時のテープ貼り付け」についていえば、フランドールテープの貼りつけなど、ほとんど安全性を損なわないで誰もができる行為と解釈できるのに、これが治療目的の医療材料であるから医療行為であるという理由で訪問介護では計画できない現状は時代のニーズとの大いなるミスマッチといえる。そもそもフランドールテープが発売されたのは1984年ということだから、医師法や医療法の定めができたはるか後であり、こんなものまで当時から医療行為と想定していたはずがないのである。

治療法や医療器具の進歩は、医療の有資格者ではない人々が可能な行為を増やしているはずなのに、法律の規制が前時代的なままであることで、この進歩の恩恵が国民に届いていないのである。

ここを変えるために、今この時代に合わせて医療行為の再整理を行う必要があるという意味で、その結果、医療行為とは言えない行為が増えれば、これは必然的に医療の資格を持たないものができる行為になるのである。

このことがいま求められている時代のニーズだと信ずるものである。だからこの議論の本質は、一部の医療行為を介護職員が行えるようにする、という意味よりむしろ、医療行為として考えられている現在の解釈はすでに現実とミスマッチしているので一度「医療行為とは何ぞや」という概念を整理して、医療有資格者が行わなくとも危険性がさほど高くないと考えられるものは「医療行為」の枠から外して、介護職員等の行為として認められるべきであるというものである・

その際に「医療行為から外れる条件」として「ある程度の知識と技術を持った者が行う」という条件付けを行って、この部分のセーフティネットを構築する手段として、一定の研修受講義務などを課すなどが考えられる対策ではないだろうか。

つまり医療行為を医療の有資格者しか行えないのは当然であり、今後もそうであって構わないが、しかし現在医療行為と考えられている一部の行為は、医療の有資格者でなくとも安全に行えることができるものも含んでおり、それらは医療有資格者が行うべき医療行為とは区分して、資格がない者にでも可能な行為とすべきであるという主張であり、医療行為を解禁せよという主張ではないということである。ここを誤解しないでほしい。

そういう意味では「医療行為は医療有資格者にしか認めるべきではない」に投票され、なおかつ「口腔内の吸痰や経管の準備は医療行為からはずせば議論の必要がなくなる。」というコメントを書いてくださった(男性/50代/新潟)の方の意見が的を射ていると感じた。

このことについては明日午前中UHB(北海道文化放送)で放映される「のりゆきのトークDE北海道」の特集として取り上げられる予定である。僕もインタビューを受けているので是非明日ご覧いただきたい。ただし道外の方は視聴できないのはいうまでもない・・・。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

看取り介護に対する不安を考察する

介護保険施設だけではなく、特定施設やグループホームなどでも「看取り介護」に取り組もうと考えている関係者が多くなってきた。

それは加算算定という収益上から考えられるものではなく、自分たちが関わっている利用者の方々を最期までお世話したいという意思の現われであり、そのことを望む利用者や家族が増えているという意味でもある。そもそも看取り介護を行って加算算定しても、それ以上にコストがかかる現状では、収益は「動機づけ」にはならない。(参照:看取り介護へ寄せられる疑問に答える

介護施設が看取り介護を行う理由は「収益を挙げるため」ではなく、それ以外の必要性や、動機づけが超高齢社会の中で生まれているということなのである。

つまり、これからの我が国は医療機関で死に臨むことが当たり前という価値観だけではなく、様々な暮らしの場で、自分らしく最期の時を過ごす方法が模索され、医療機関以外での「死」を選択することも、ごく普通に行われるような世の中に向かっているということだろうと思う。

そういう意味では、今から10年後に「日本人はどこで死ぬことができるのか?どこで死ぬべきか?」という答えは今より多様化し、様々な価値観において選択肢が広がっているのではないかと想像している。

いや、むしろ年間死者数が莫大に増え続け2030年にはその数は170万人を超えるとも言われる我が国においては積極的に死の場所を選択できる方策が不可欠である。介護施設もその役割を担うために日々努力・研さんしていくことは求められる社会的使命である。

ところで、いざ自分が所属する施設なり事業所なりが「看取り介護」に取り組もうと考えた時に、最初にぶち当たる壁は、職員の意識改革である。いきなり「看取り介護」「ターミナルケア」を行えといっても、それに対する適切な準備がされていないのでは無理である。きちんと自分たちが看取り介護に係るために、看取り介護とは何か、そこでは何が求められ自分たちのすべきこと、求められる役割とは何か、具体的に何をどのようにするものなのか、という共通理解が不可欠である。そのために管理者等は研修を含めて準備を進めるわけであるが、その際に必ず表出する問題は介護職員等の不安感から生じてくる目に見えないバリアである。

特に介護職員が抱きやすい不安は主に次の3点である。

1.そもそも医療機関ではない場所で、死に臨むことが良いことなのか?
2.夜間、医師や看護職員がいないときに医療処置ができないから無理ではないか?
3.自分が夜勤のとき臨終場面に相対しても何をして良いかわからない。


これらの不安は、看取り介護というものがどのような状態を想定しているのかをイメージできていないから生ずる不安だろう。看取り介護の状態である=終末期である、という判断は、あくまで医師の判断によるもので、それ以外の者がその判断に容喙(ようかい)するようなことがあってはならず、それは病状が重篤だから高齢者には治療が必要ない」と判断されるものではなく、また「もう年だから」と年齢だけで終末期と決めてしまうものでもない。高齢者の積極的な治療は無駄だといった価値観は徹底的に排除されたうえで、人間として安らかに最期を迎える状態とはどのような状態かという観点から「医師が一般的に認められている医学的知見から回復の見込みなしと診断した者」であり、例えば「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能ですが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよい。」と判断させることもある。この判断基準については現在も医師個人による判断差があるところで、今後も議論が必要であることを否定しないが、こうした判断に基づいているという意味は「医療機関で対応すべき状況ではない」という意味も含まれており、死に臨む場面であっても必ずしも医療・看護処置が必要ではないということも表している。

だからその瞬間に家族と介護職員しかいない場面があるだろうし、介護職員しかいない場合もあるだろう。そうであってもそのこと自体は不適切ではなく、それまでの対応を含めて看取り介護をチーム全体でどのように支えてきたかが重要なことであり、そこでは対象者自身が、安らかにその瞬間を迎えられるように、手を握り、声をかけて、息を止める瞬間を「看取る」ことが我々に求められることであり、医師や看護師が対象者が息を止める瞬間まで常時そこにいないから「できない」という問題ではない。

ただこうした不安感を介護職員が抱くことは、ごく当たり前で正常な感覚で、むしろ「看取りの臨床」において、トップダウンの方針に何も疑問を感じないという方が危険な状態とも言え、管理者は、そうした不安に適切に答える理念と具体的方法論を作ることが大事だろう。

日本では現在8割以上の方が医療機関で「死」を迎えており、それが当たり前のように思われ、医療機関で亡くなる限りにおいて、その死の瞬間をどのように迎えたかは問題にすらならないが、医療機関であっても、ベッドで一人さみしく、誰からもその瞬間を看取られることなく逝ってしまった人は、本当に最期の瞬間に安らかであったのだろうか?医療器具で延命されて死にたどり着いた人々の人生の最終ステージは豊かな時と言えたのであろうか?ということも検証されてよいだろう。

しかし何度もこのブログで主張しているように、わずか半世紀前まで、日本人の8割が死をも変える場所は自宅だったのである。もちろんその背景には健康保険制度が充実しておらず医者にかかることができない人も多かった、入院出来なかった人が多かった、という要因もあろうが、専門医療のないところで、家族や親族に看取られながら安らかに息を引き取った方もたくさんおられるはずである。その時代より今の時代は格段に「進んだ時代」であると言われているが、同時に失ってしまったものはないのだろうか。

介護施設で看取るということは、何も終末期の医療を否定するものではない。医療機関の一般病棟で積極的な治療を受けながらも最期の時を迎えざるを得ない必要な人もいるだろうし、緩和ケア病棟で医師や看護職員の専門的管理のもとに終末期を過ごした方が良い人もいるだろう。

同時に医師や看護職員のサポートは必要としても、家族や介護職員で安らかな時間を過ごす支援を行いながら家族や介護職員が最期の瞬間まで看取ることがあってもよいケースは多いだろう。

旅立つ人々が最期の瞬間に求めているものは、冷たい聴診器や注射針ではなく、関係深い人々の暖かな手のぬくもりであるということから臨終に向かいあう介護職員の役割を考えることがあってもよいのではないだろうか。

ただし、そうした支援をできる条件は、看取り期に対する明確な理念と、安心・安楽の支援を行うことができる具体的方法論を持つ介護施設や事業者であらねばならないことは言うまでまなく、理念も知識も技術さえもない者が、そこに携わってはならないことも一面の真実として心しておかねばならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

傍らにいることが許される者

桜並木2010遅れていた桜の開花の時期がやってきた。登別温泉に続く道道の桜の今日の咲き具合を撮影した画像を貼り付けておく。おそらく今週末は天気もよさそうなので「桜のトンネル」も満開になり見ごろだろう。週末は登別がお勧めスポットである。桜2010

さて昨日の記事で我々が目指すべき自立支援とは、「自律支援」という意味の方が適しているのではないかと書いた。

それは人の価値とは「他からの支配や助力を受けずに、存在すること」であるとは限らず、むしろ最期の瞬間までそうした存在でいられる人の方が少なく、何らかのやむを得ない要因により「自分でできる能力」を失ってしまうような状態になっても「人としての価値」は決して失われるものではなく、尊厳ある人間として生き続けるものであるからだ。

「行為」としての自立を失ったときでも「自分自身で立てた規範に従って行動する」という自律が保障されている限り、人間は人間として生き続けることができるものであり、それは人に頼る・委ねるという選択権を持つことの素晴らしさを意味している。

つまり社会とは、人間同士が支えあう集合体であり、共立できる存在としての人間の尊さが存在し得る、という意味である。

そのことについて、先日の東京都北区ケアマネジャーの会総会の基調講演では「看取り介護」の対象となったある70代のご婦人の事例を紹介して、彼女から我々が学んだことを紹介した。

彼女は、末期がんの告知を受け、自らの意思で医療機関を退院し施設にもどって「看取り介護」を受けていた方であるが、病気にむしばまれた肉体が衰えて行く過程で、自ら可能となる行為が失われていくことに絶望し、亡くなられる10日前に便失禁をするようになり、夜中に排せつケアを行う介護職員に何度も「すまない、申し訳ない」と言い続け、朝起きてからも「昨日はごめんなさい。汚いものの世話をさせて本当にすみません」と涙を流し、精神的な激しい落ち込み時期に入った。

その時、我々に彼女を救う術は見つけられなかったが、ただできることは彼女の恐れおののく感情を否定せず、心配しなくてよいとか、気にしなくてよいとかいう言葉を機械的にかけることをやめ、ただひたすら最期まで我々が側にいるから安心してほしいという言葉をかけ続けた。

やがて亡くなる3日前に彼女は激しい落ち込み期を脱して、精神安定の兆候が見え始めた。それは彼女自身が「自分ですべてできるだけが人間の価値ではない。」と感じ、「自分でできない部分を任せても安心な場所に自分がいる」と感じることができ、自らの選択で施設に死にゆく場所を求めて帰ってきたことを思い返して「 自らの意思で委ねることができる、という選択性があり、自分でその決定ができる限り私は私であり続ける。 」と感じたからではないだろうか。

そして彼女は「皆さん、私に最期まで付き合ってくれてありがとう。ここに帰ってきてよかったわ」という言葉を最期に残して旅立って逝かれた。

我々が確信を持って言えることは、その時彼女は「自立」を失っても「自律」は失われなかったということである。

ところでこの場合、認知症のように自ら意思決定ができない状態の人が「看取り介護」の対象になった場合、それらの人々は「自律」さえも失ってしまうのかという問題である。その答えは「否」である。

なぜなら我々は、それらの方々の代弁者としてアドボケイトの視点を持つ援助者であるはずで、我々がそれらの人々の「思い」に真剣に寄り添って、その「願うであろう」暮らしの実現を目指す限り、自ら決定できない状況の人にも自律支援は可能であるからである。それができるか否かが専門家としてのアウトカムである。

そしてそれが実現できる援助者とは、同時に「傍らにいることを許されたもの」という意味を持つ。果たして我々はそれらの方々の傍らに寄り添うことができる存在だろうか?そのことを常に問いかける援助者であらねばならない。

ホスピス・緩和病棟で「いつも傍らに誰かがいると、痛み止めがいらなくなるのよね。 」という声を関係者から聞くことがある。これは何を意味するのか?我々は人の存在そのものの力を信じて、人として傍らにいることが許される者になるために、人として大切なものを探し続けながら専門援助場面に関わることが必要だろう。

勘違いしてはいけないのは、我々介護支援者は、利用者の傍らに「いてあげる」のではなく、利用者に必要な存在として傍らに寄り添うことを受容されるべき存在であるということなのである。

※蛇足であるが、今回の東京北区ケアマネジャーの会の後に、ネット検索したところ、gitanistさんが書いた「masaさんの講演を聴いて」というブログ記事にヒットした。彼、なかなかのイケメンとお見受けしているが、若いわりに(多分)しっかり自分の考えをお持ちで、なかなか硬派の優れた支援者とお見受けしている。コメントも結構辛口であるが、筋が一本通っている。若い頃の僕に似ていると感じた。もちろん容姿は向こうが数段上であろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

必要なのは自律支援

今日は昼休みが全く取れない状況で、昼ごはんも食べる時間がないかもしれない。これからデイの時間短縮利用者の送迎も手伝わねばならないので、ブログの更新も休もうかなとは思ったが、東京講演で不在の2日間記事更新をお待ちになっていた方の期待も裏切ってはならないと思い返し、送迎に出かける前のいつもより早いこの時間にザッとお約束の「クイズの答え」に関する記事を書こうと思う。

17日の記事で問いかけた問題。トイレに一生懸命向かおうとして車椅子を操作している利用者にかけるべき言葉は何か?という問いかけに、多くの方からコメントに「自分だったらどういう言葉をかけるか」について書いていただいた。この答えは決して一つではないし、正解は複数あってよいだろう。そういう意味では利用者の心を慮り、その思いに寄り添う言葉であるなら、すべて正解といってよいのだろう。

だからコメントに寄せられた回答に不正解はないといってよい。

その中で、僕自身が想定して用意しておいた言葉は「間に合いますか?」とか「お手伝いは必要ではないですか?」という言葉である。18日の講演の中でもそのように回答した。

「頑張ってください」という言葉は、場面によって毒にも薬にもなる可能性があり、頑張っている人に尻を叩くように言葉になってしまうことがあることに注意すべきだ。

講演では、このことにも触れて話をさせていただいたが、それは「自立する」という概念が、何もかも自分でできることを意味するものではないという観点からの指摘であった。講演でお話しした内容の一部に触れながら、今日の記事ではその考え方を紹介したい。

介護保険法第1条は「総則」を定めたもので「この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。」と書かれている。

これを読む限りこの法律が目的とする「国民の保健医療の向上及び福祉の増進」の具体像とは「その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができる」とことに求めているということができ「自立した日常生活を営むことができる」とは手段ではなく、この法律の目指す目的そのものであるということが分かる。

このことは決して否定されるべき考えではないと思う。

なぜなら例えば医療の目的は「国民の健康増進」であるとして、その具体像は治療を行って病気を治す、あるいは予防医学をもって病気にならない、というふうに示すことができる。しかしこれに比べて、こと介護サービスにおいては「国民の福祉の増進」とか「生活の質の向上」を目的としたとしても、ではその具体像は何か、という点で、はっきりとした状態像を示すことが難しかった。そのことが「その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができる」という形で具体化されたという意味があるからである。

その概念が「自分らしさ」とか「能力を最大限に発揮して自分で生活を作る」とかいわれる個別の具体像にも繋がってきたという意味もあるだろうから、介護保険制度のキーワードの一つである「自立支援」とは、この国の介護サービスが目指す具体像であるということができるのではないかと思う。

ただし一口に「自立」といっても、それは何を指し、どの範囲を言うのかということになると、この理解・判断にも個人差が生ずる。曖昧な部分も残っている。少なくともそれは「何でも自分でできる」という意味ではないことは「その有する能力に応じ」という文言で理解できるが、同時に能力に応じた自立を測定する根拠はケアマネジメントによって求められるものだという理解にも繋がるだろう。

そしてこの「有する能力」を個人の身体機能だけに求めるのは大きな間違いで、そもそもケアマネジメントは「解決しなければならない課題は人ではなく過程(プロセス)や仕組み(方法)にある」という意味であることを考えながら総合的見地から本質を見極めなければならない。

それとともに我々が自立支援において考えねばならないことは「自ら行為を行えなくなったからといって人間としての価値が低下するわけではない」「人である限り、最期の瞬間に近づけば近づくほど、自らの力ではできなくなってしまう行為が増え、やがてすべての行為を失う場合もある」という理解である。

ではその時に自立できない人々に我々の支援の意味は失われるというのか?
「有する能力」が失われた人々に対する支援をどのような目的として考える必要があるのか?

その時我々が考えるべきことは
1.自分ですべてできるだけが人間の価値ではない
2.自分でできない部分を任せても安心な場所に自分がいるという安心感
3.自らの意思で委ねることができる、という選択性があり、自分でその決定ができる限り私は私であり続ける。

ということではないだろうか。

広辞苑で「自立」という言葉の意味を調べると、それは「他からの支配や助力を受けずに、存在すること。」と書かれている。しかしは最期までこうした存在でいられるのか?そしてそれは人の価値として意味があるのか?自立できなくなれば人の価値が低下するのか?決してそうではないはずである。

そうすると我々が考えるべきことは「自立」より、むしろ「自律」=「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」ではないだろうか。それは人に頼る、委ねるという選択権を持つことを意味し、人間が支えあう社会における共立をも意味する。その概念の素晴らしさを忘れないことではないだろうか。

そしてそのことは、我々が目指すべきものは対象者が最期の瞬間まで「その人らしく輝いて暮らし続けけられること」「安心と笑顔がある生活」なのではないかと思うのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

利用者にかけるべき言葉

明日、東京都北区王子の「北とぴあ」で講演を行うため東京に向かう。帰道は19日になるため、明日から2日間はブログ記事の更新はお休みする予定である。(変更更新はあり得る)

ところで明日の講演では「自立とは何か〜よく生き、よく死ぬということ」というテーマを事務局からいただき、それに沿った内容のお話をする予定である。受講対象者は居宅介護支援に携わる介護支援専門員の方々が中心であるから、ケアマネジメントの中で考えるべき「自立」ということを主に考えてみた。勿論その内容は、僕の普段の考え方や、当施設や事業所の実践内容がベースにならざるを得ないもので、理想論や観念論ではないものだが、その中で事前資料として受講者の皆さんに「考えてほしこと」を問いかける内容の文章を書いて、事務局より事前配布していただくようお願いしている。

以下にその内容を示すので、皆さんも僕の問いかけの「答え」を一緒に考えていただきたい。

なおこの問いかけの僕なりの「答え」は次の更新記事で示したいと思う。

講演を聞かれる皆さんに考えてほしいこと。

一つの光景がある。ある特養の日常場面だ。面会に来たある家族が、車椅子をなかなか前に動かせない方に声をかけたところ「トイレ行きたい」と言われ、手を貸そうとすると職員から「その方は自分でトイレまでいけるので手を貸さないでください」と怒られたとする。

皆さんは、こうした状況を「当然」だと考えるのだろうか。僕はそうは思わない。
確かに自分でできることを自分で行い、頑張ることが保障され、機能活用して維持できる「生活スタイル」があるということは良いことと思う。しかしそれも時と場合によりけりで、排泄という行為に対してまで移動能力という機能活用を優先させることは疑問だ。

排泄という行為は、排せつ感覚が保たれ、トイレで排泄できることそのものが自立なのだ。排泄感覚が維持できて、訴えることができ、それがトイレでの排泄に繋がっているならば、いつも切迫するまで手伝わないという一律の対応が正しいとは思わない。

確かにその方は一生懸命車椅子を前に進めてトイレにたどり着いて間に合っているのかもしれない。間に合わない場合もパットをしているので大丈夫という理屈かもしれない。しかし、移動能力など別の場面でいくらでも機能活用できる。トイレまで行くために毎日、額に汗してぎりぎりまで「頑張る」ことが普通の生活ではないのではないか。気持ちよく排せつする支援は自立を阻害するのか?

せめて排泄のときくらい、我慢せずに「必要な支援」としての移動介助を行なってトイレで気持ちよく排泄してもらうのは悪いことか?こんなところまで頑張る必要もないし、頑張りを強要するのは虐待と紙一重だ。手を添えれば明日から移動能力が失われるわけではないだろう。こんな状況は、高齢者が頑張っているんではなく、頑張らねば寝たきりになる、という強迫観念をうえつけ精神的に追い詰めていることとなんら変わりはないのでは、と思ってしまう。

機能活用さえすれば良い、というのは間違いだ。その前にその人らしい、人間として当たり前の生活とは何か、という視点があるべきだろう。自分の親が、排泄のたびに、廊下やフロアを大変な時間をかけてトイレに通う姿を見るとして、なんとも感じない子がいるのだろうか?

しかし、かく言う僕の施設でも似たような状況に出くわすことがある。

車椅子を自走する方がトイレと訴える際に「頑張ってトイレまでこいできてください」と声かけるケアワーカーがいたりする。

本来、この時に最初にかけるべき言葉は「○○○○○○○?」ではないのか。

場合によっては何より早く移動できるように手伝うことが、この際の適切な支援である。普段、自走できている人に排泄まで絶対に自力移動を強いる必要はない。排泄感とは人にもよるが、それだけ切迫した状況があり得るものなのだ。移動できる人を安易に手伝わない、という意味と、この行為の支援を行わないこととは少し違う。

食事摂取も同様である。自分で食べることができる機能を大切にして維持することは必要だが、摂取状況によっては一概に援助が不適切とはいえない。わずか茶碗一杯のご飯と副食2品を食べるのに、1時間もかかるような摂食状況は好ましいものとは思えない。そもそもそのような時間をかけた結果ご飯やおかずが1時間後にどのような状態になるかは容易に想像できる。皆さんはそれを食べたいと思うだろうか?これでは美味しさとか、楽しみがほとんど感じることができない単なる栄養摂取の行為、かつ苦しい行為に変容してしまう可能性さえある。上肢機能の活用は食事摂取行為と絡めて考えれば、それはてっとり早い方法ではあろうが、本当にその人の生活のためになっているのか、という考察が出来ないと無意味である。

自立支援は介護サービスが目標とする具体像としては正しい理念だ。しかしそれは生活が良くなる、その人らしい生活が送れる、という結果を具体化した概念であると思う。

人間らしい生活に目を向けず、動作自立だけを考えてしまうことで見えなくなってくるものがある。ある行為について、介護者が行う行為か、利用者本人がご自分で行ってもらう行為か、これを2者択一でしか考えられないこと自体がナンセンス。確かに自立支援の視点や、完全にできる行為を安易に代行することで能力を奪わないという視点は重要だけれども、それだけがすべてではないということだ。人の生活とは一定の基準で判断できるものではなく、その時々の状況や気分で「揺れ動く」ものなのである。一律の線引きで答が出せるものではなく、そのときの利用者の顔を見て、声を聞いて、声なき声にも耳を傾けて、はじめて理解できることがある。

サービス担当者会議で決めたケアプランは、ある一定の基準であり、判断の目安であり、各職種間の共通言語ではあるが、それに縛られて利用者のサービスに応変の処置を欠いてはならない。

自分で出来ることも、やれない状態のときもあるんだ。やりたくないという気持ちを支援してほしいときもある。そこに心を配れるか、配れないかが介護支援専門員をはじめとした支援者の資質だろうと思う。自立とはそうした個別状況に常に配慮できる助けにより支えられるものだ。

※本文中の「○○○○○○○?」の中に当てはまる言葉を考えてみてください。

以上が事前配布資料の内容である。ブログ読者の皆さんも一緒に考えていただきたい。正解は一つではないだろうが、こういう形で日ごろのケアのあり方を問い直すことも必要だろう。コメント欄に答えを書いてくださればありがたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

人間の存在をどうみるか

社会福祉援助技術の考え方となる基礎原理は、ほとんど欧米からもたらされてきたものであり、福祉援助者としての人間理解の観念も欧米の書物からの影響を受けているものが多々ある。

そうであるがゆえに、僕がそうした観念上の人間理解を学んだ学生時代は、その考え方についていけずに違和感を禁じえなかった。特に宗教観と関連した考えには首をひねることが多かったものだ。それは確かに考え方としての格調は高いと思っても、自分の感覚がついていけないのである。その違和感は今でも変わらず、頭では納得できても、心ではすべて受け入れられないと感じている何かがある。

例えば、あの有名なバイステックの7原則を訳した名著、尾崎新さん等の「ケースワークの原則」の中でこのような表現がある。

「ケースワーカーは理想主義者としては、クライエント一人ひとりを天なる父の貴い幼子として捉えようとするが、現実主義者としては、クライエントが神の振舞いとはまったく異なる態度や行動を示す現実ももっていることを知っている。」
「ケースワーカーは小さな規模ではあるが、自らが神の摂理の道具となるように願うのである。」

ここが観念上ついていけなくなるところである。

僕は僕と相対する人々を、理想論として考える場合も、それらの人々を「天なる父の貴い幼子」として捉えたことも、捉えようとしたこともない。ましてや人の行動を「神の振舞い」と考えたことも比較したこともない。そして自らを「神の摂理の道具となるよう」願ったこともない。そもそも神の摂理の道具なるものが何かを理解しえない。

どうもこうした考え方は欧米のキリスト教文化に根ざした宗教観が基になっているように思え、我々の文化とは違った価値観であると感じている。

しかしだからといって人間を「貴い存在」であると考えることそのものは否定するわけではない。だがそれは神が与え賜うた命であるがゆえに「貴い」という感覚とは少し異なって、命ある人間という存在としての貴さであって、失われた命は再生できないから儚(はかな)いがゆえに貴いのである、という考え方である。

神とか、神の子とかいう概念がどうもピンとこなくとも、少なくとも命というものの儚(はかな)さや、貴さというものは十分理解出来るし、我々が守るべきものは何かということも十分理解できるのである。

しかし哀しいかな、人間は様々な要素によって、人間らしさ、自分らしさ、というものを失ってしまう状態に陥ることがしばしばある。その原因は例えば「老い」であったり、「病気」であったり、「怪我」であったりする。脳に損傷や障害を受けることで「自分らしく」生きられない状態になる人が存在するという事実がある。

しかしそうであっても、人間は命の鼓動を止めるまで人間であり続けるし、人間としてあり続けるように他者からも遇される必要がある。それは人として生まれた人間の権利であり、そのことを他者も尊重することが「人として生かされている」人間の条件でもある。

ところが人の弱さとは、ある環境におかれた時、他人の不幸に鈍感になるということである。人の尊厳を傷つける自らの恥ずべき行為に鈍感になるということである。神ならざるがゆえに、人が犯してしまう大きな間違いである。

物言わぬ認知症の高齢者の顔に絵を描いたり、上半身裸の姿や、四つん這いにさせた姿、おむつを首に巻いている姿を写真に撮ったりして、それを「そうされた本人が喜んでいる」という理由で「悪いことではない」と主張する介護施設の職員がこの国には存在する。彼らの心の闇は、そうした行為を行っていることだけではなく、それを人として情けない行為だと気がついていないことにある。やがてその行為は他人だけではなく、自らの心に刃を向ける形で、自らに還ってくる問題である。

なぜなら神様がみているかどうかは知らないが、その行為は彼ら自身の目がしっかり見て、彼ら自身の心に刻みつけられているからである。そのことを何とも感じなくなっているのなら、彼らはもはや人ではない。自分の親や、自分の子が同様の行為を他人から受けても何とも感じない心を失った存在になっているんだろう。

振り上げた拳は他人の体に痛みを与えることができるかもしれないが、それは自らの拳の痛みでもあり、結果的にそれは自らの心の痛みにしかならない。

争いは幸福を作らない。それが生み出すものは不幸でしかない。人を冒涜する行為もまた同じである。一時的な快楽感を得ることがあっても、そのような空虚なものに何の価値があるだろうか?人が人として生きることとは、人の中で人としての誇りを持ち、人と繋がっている喜びを全ての人々と分かち合うことである。

私の幸福は、あなたの涙により存在するのではなく、あなたの笑顔によってのみ存在するものなのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

エイジズムを克服せよ

とあるネット掲示板をチラッと覗いてみた。めったに見ることがない場所であるが気になるスレッドがあった。

それは老人会(老人クラブのようなものか?)で介護保険の説明を依頼されたのだが、どのような内容にしたらよいかという相談で、それに対して「老人会なら難しい制度の説明をしても理解できないから、相談窓口の紹介とか、Q&Aや事例紹介が良いだろう」というような主旨のレスポンスがついていた。

老人会も随分馬鹿にされたものである。こういう「高齢者問題史観」がいまだに存在して、それも介護支援専門員と思われる人の偏見としても存在しているんだと唖然とした。

正直言って、分かっていないなあ、と思った。確かに老人クラブ内部での高齢化問題も深刻化している現状はあるが、それでも会員の属性は様々で「老人会侮るなかれ」と声を大にして言いたい!

老人クラブ等で制度の説明をしても、あまり反応がなかったり、評判が芳しくない結果に終わる最大の原因は「難しい話は理解できない」からではなく「話がおもしろくない」「説明が下手で分かりづらい」からである。つまり聞き手の能力ではなく、話し手の能力の問題であるのだ。この点を間違えてもらっては困る。

難しい内容でも、興味がある方向から話をすれば高齢者の集まりだって十分理解してくれる。地域の老人会に参加している人ならなおさら積極的な人が多くて、お元気で地域において活動されている人なんだから、政治的関心も強く、経済面の動向にも興味を持っているし、自身に関係する問題として語れば十分理解してくれる。むしろ今地域で老人クラブの活動に参加している人々は、数年単位あるいは十年単位で遡れば地域のリーダー的役割で活躍されていた方も多く、高学歴の人も多いのだ。けつの青いそこいらの介護支援専門員より知識も経験も豊富な先輩方だぞ。我々より難しい話だって分かっているのだ。あまり思いあがらない方が良い。

僕も老人クラブの方々に対して短い時間で介護保険制度の説明を行う機会はあるが、例えばその際、介護保険制度の創設にしても、それは介護保険料という強制・掛け捨て保険料を40歳以上のすべての国民から原則徴収するという「国民負担増」という意味があって、消費税の引き上げに対しては、常に国民の強い反対感情があって選挙対策上も難しい面があるが、介護保険の創設という形で、介護保険料という新たな国民負担を作り出したことを国民はほとんど認識しないまま受け入れたと説明している。そして過去の首相の支持率低下や退陣問題が、大型間接税問題とどのように関連していたかをエピソードとして取り上げ、政治と経済状況という観点から介護保険制度創設を説明して、その制度の中身についても、利用者負担がなぜ必要で、受益者負担がどのような形で取り入れられているかという面から話をしている。そうすると非常に反応がよい。

政治との関連では、過去に議論された大平内閣時の「売上税」とか、中曽根内閣時の「一般消費税」、そして現在の消費税導入後の税率引き上げ議論の際に細川内閣で取り上げられた「国民福祉税」とかいう言葉に反応する方も多いし、その中には現在の高齢者の方に馴染みのある歴代首相名が出てくるので反応は実によいのだ。しかもそういう話題になると、僕の知らない様々な知識さえ披露してくれて、こちらの方が勉強になる。

つまり制度というものは、本来難しい説明を伴うものであるが、それを理解できるかどうかは、聞き手の知的レベルの問題ではなく、話し手の説明の仕方の問題であり、老人会など高齢者の集まりであるから理解力が低いなんて言うのは、講師側の勝手な思い込みであり、自己の説明能力の問題でしかない。

介護関係者は得てして、高齢者の大部分は介護や何らかの支援が必要な人と捉えがちであるが、実際には高齢者の数が大幅に増えている現状においても、高齢者のマジョリティは「在宅元気高齢者」であり、その割合は85%といわれている。それらのマジョリティに属する高齢者までが弱者扱いされ「老人クラブの会員には難しい話の理解は無理だ」という偏見がはびこる現状こそエイジズムにほかならない。

老人クラブに所属する高齢者の方々の方が、よっぽど我々より知恵や知識が豊富な例は枚挙にいとまがない。

なにより介護支援専門員等の介護関係者こそ、こうした「高齢者問題史観パラダイム」に反省を加え、高齢化する時代の全体社会像を新たに抽出し、エイジズムを克服して、超高齢社会における柱になる元気で明るい高齢市民の姿を描き出すべきである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

クマった話。

今日は、こぬか雨の降る寒い日だ。

今年の春は今日のように寒い日が多く朝晩の暖房が今でも必要な日が多い。例年より季節が2〜3週間は遅い感じがする。その証拠に例年ならゴールデンウイーク前後に満開を迎える登別温泉街道沿いの名物「桜のトンネル」を彩るエゾヤマザクラも蕾のままである。

予定されていた花見も遅らせざるを得ない。自然相手だから、そのことは仕方ないこととして人間の方の都合を変えればよい話であるが、寒い春は「仕方ない」で済まされない問題も生じさせる。

北海道ならではの問題かもしれないが、特に僕の施設の位置する中登別地域というのは山の中といってもよいところで、自然に囲まれたところだから野性動物も多い。寒い春は山の植物の生育に影響が出て、野生動物の食べ物が少なくなるので、里に下りてきて食害をもたらすことがしばしばある。

例えば4年前に書いた記事「シカたない、とは言えない話」で紹介したエゾ鹿の食害などはよくあるケースで、今年も被害を受けているが、これは「オンコ」の被害だけで、特に人的被害の危険性はそう高くないので植物だけを守る対策をすればよいだけである。

ところが昨日、登別観光協会から思わぬ連絡が入って背筋が凍りつく思いをした。

その連絡とは「クッタラ湖中登別側にて熊の目撃情報」というFAXによってもたらされたもので、その内容は「5月11日午前9時30分から45分位の時間帯で、登別○○○○ホテルのお客様が、ホテルの車で(運転手付き)温泉側からクッタラ湖を廻り中登別側に下って行ったところ、緑風園よりクッタラ湖寄りのところで親子の熊を目撃したとの情報がありました。親熊1頭と小熊1頭がいたということです。ホテルの運転手さんが直接見たわけではないのですが、お客様が目撃されたそうです」

という内容である。施設の前は「道道倶多楽湖公園線」と呼ばれる道路であり、登別駅から登別温泉に直進する「道道洞爺湖登別線:登別温泉通」から当園に向かって右折する道路であり、ここを通れば当園を左手に観て、クッタラ湖を通り、観光名所である大湯沼を眼下に見下ろしながら温泉街に抜けることができる周回道路である。特に桜の季節や紅葉の時期は絶景の中を走り抜けることができる観光道路でもある。(冬は通行止めである)。よってこの時期、交通量も多いのであるが、その道から目撃されたらしく、それも当園に近い位置であるらしい。

当然、通報は地元の猟友会にもいっているだろうし、警戒体制はとられているんだろうが、近くに「クマ出没」となると平静ではいられない。しかし「注意しましょう」といわれても、何をどのように注意するのか謎である。本当に困った問題だ。

とりあえず職員や面会の方々には、当分クッタラ湖方面にはいかない方が良いとアナウンスするしかないだろう。

ちなみに熊の話題で思い出したが『動画・緑風園開設5周年記念・広報ビデオ』では登別温泉のクマ牧場の小熊が当園の屋外ステージでショーを行っている映像を紹介している。しかしこの画像がニュース報道されたことによって、小熊であっても猛獣を飼育施設外に連れ出しショーを行うのは法律(何の法律かは確認していない)に触れる行為であると問題になり、以後、同牧場が小熊のショーを別の場所で行えなくなったという曰くつき画像であるので、一度ご覧になってはいかがだろうか。

ちなみにその映像には27歳当時の僕がたくさん映っている。ドラえもんに出てくる「のびた」のような眼鏡をかけているのが笑えるところである。(しかし当時は皆こんな眼鏡だった。新人時代のヤクルトの古田も同じような眼鏡をかけてたっけ)

こんな能天気な記事を書いていてよいのかとお叱りを受けそうだが、寒くて脳の回転も鈍っている日なのでご容赦いただきたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

医療行為の法制化について

4月から特別養護老人ホーム(特養)で解禁した介護職員によるたん吸引などの医療行為の法制化に向け、対象を要介護者の自宅やグループホームなどの施設に拡大する方向で検討に入ったことは関係者の方は既にご存じだろう。

そもそも特養で介護職員にも認められた行為はあくまで「医療行為の解禁として認めたものではなく、違法性阻却として可能となる条件を示して認めたもの」とされている。そのためたん吸引などでミスが発生した際の責任問題などへの懸念もある。このため厚生労働省は、この行為を法律で規定すべきと判断、来年の通常国会への関連法案提出を目指しているものである。

ところで「たん吸引」に限って言えば、行為としては在宅の方が先に認められており、しかもその範囲は気管切開部を含めた喉の奥の吸引までも認められているものである。これは2003年7月から筋委縮性側索硬化症(ALS=筋委縮と筋力低下が特徴的な進行性の難病)患者への痰吸引が一定条件下で認められたもので、さらに2005年3月24日には、厚生労働省から痰の吸引が必要な在宅療養患者や重度障害者に対して、ホームヘルパーやボランティアなど家族以外の第三者にも吸引行為を同様の条件下で認めた経緯がある。

※たん吸引を資格のないものに認める条件
(1)主治医や看護師による吸引方法の指導
(2)患者の文書による同意
(3)主治医らが定期的に吸引が適正に行われているかを確認する

しかしこれはあくまで行為として認めたに過ぎず、業として認めたわけではないので、例えば訪問介護員が在宅高齢者に対して「たん吸引」をボランティアとしては行うことは現在でも可能であるが、訪問介護事業所のヘルパー業務として行うことはできないもので、当然のことながら訪問介護費を「たん吸引」という計画に基づいて算定することはできない。

つまり今回、厚生労働省が検討している通り法案が国会審議を通れば、その後、痰の吸引と経管栄養の一部対応については、訪問介護サービスとして計画できることになり、その行為で訪問介護費を算定可能になるという意味を含んでいる。また特養とグループホーム等で介護職員ができる行為に違いがあるのもおかしな話で、このことも検討課題になるという意味である。

しかしこのことが超高齢社会にニーズに合致した改正であるのかと考えた時、確かに今まで議論の俎上にさえ上らなかった2つの行為を一定条件下で認めたという意味はあるものの、ここを橋頭保にして先に進むという見込みがない現状は、この検討で「打ち止め」とされる可能性が高い状況と言え、先送りされた医療行為の一部解禁という課題が、ここで終止符が打たれてしまう可能性があるという意味では、まったく国民ニーズに合致したものではない。

特に特養での2つの行為解禁を検討した「特別養護老人ホームの入所者における看護職員と介護職員の連携によるケアの在り方に関する検討会」では、痰吸引と経管栄養対応という2つの行為しか検討されておらず、そのほか医療行為として介護職員に認められていない行為につき、生活と深く結び付いてそのことが介護職員など有資格者にしか認められていないことで特養入所ができないなど問題となっている行為は何かについて何も検討されていないのである。

我々の主張は、介護職員にすべての行為を解禁せよというものではなく、在宅で家族が行っている行為については(例えばインスリン注射)看護師等が行う行為と分けて介護職員が行えるようにすべきだというものである。例えば現在介護職員ができないとされている行為で、それにより特養入所が困難とされているような支障があって利用者の不利益に繋がっている行為として考えられるのは

具体的には
1.血糖値の測定やインシュリン投与。
2.褥創の汚染の際の処置。(治療処置ではなく、便汚染した際に褥創部の便を拭きとる行為)
3.摘便。
4.心臓・ぜんそく時のテープ貼り付け。
5.点滴が終了した場合の処置。
6.在宅酸素の取扱と施設における酸素吸入。

等である。これらは在宅で家族が実際に行っている行為で、施設の中で医療管理もある程度可能な状況で、介護職員が行っても在宅で家族が行う状況より危険性が高まるということはあり得ず、認められるべきである。

前にも指摘したが、特養など施設入所者の医療ニーズとは、例えば医療機関で対応すべき病状に限らず、加齢とともに緩やかに生ずる身体機能の衰えに起因する問題であったり、治療を必要とするような急性疾患はなくとも枯れるように徐々に嚥下機能が低下して最終的に経管栄養が必要になることであったり、インスリン注射で血糖値管理さえできれば医療機関への入院が必要でないケースであったり、インフルエンザなどの感染症を発症し、一時的に点滴が必要ではあるが入院までは要しない状態である場合が考えられる。

つまり特養利用者の医療ニーズとは常時医療対応が必要である状態をいうわけではなく、ある一定期間あるいは1日のうちの特定時間帯に医療対応ができれば日常生活に支障がない状態が多いのである。それなのにその行為支援が必要な時間帯(例えば朝食前のインスリン注射支援)に看護職員が配置できない状況から入所できないという在宅高齢者が少なからず存在するという「国民にとっての不利益」にきちんと目を向けて、何が求められている対策であるかを超高齢社会の課題、変化する社会構造における新たな対応課題として、もっと真剣に議論されるべきなのである。

これは施設サービス提供側、特養等の介護関係者の都合による提言ではなく、あくまで国民全体のニーズに照らした提言であって、これが実現することによって、多くの医療ニーズが人々が救われることになるのだということを肝に銘じて考えてほしい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

ニーズを計画に結びつける技術

居宅サービス計画を立案する介護支援専門員が、現場でしばしば抱えるジレンマは、アセスメントの結果抽出したニーズに基づく介護計画と、利用者が希望する介護サービスが一致しないということである。

しかしこの時、間違えてはならないことは、利用者の表明する希望が単純に「デマンド」に過ぎず、ニーズではないと決めつけることである。場合によっては利用者の希望は、介護支援専門員が気づいていない主観的ニーズなのかもしれない。介護支援専門員が抽出した客観的ニーズだけが正しいとか、客観的ニーズが主観的ニーズの上位にあるわけではない、という理解が必要である。そのため利用者の希望の中に「どのような理由があるのか?なぜ介護支援専門員が必要としないと考えるサービス利用を希望しているのか?」ということを常に冷静に、しかも注意深く考察する姿勢を持たなければならない。

そうした結果、やはり必要のないサービスであると考えざるを得ない場合でも、そこで介護支援専門員は新たな役割を求められていることを理解せねばならない。

つまり「利用者の希望するサービスを、いわれるままに安易に計画したり、増やしたりするのは間違いである。」という考え方自体は正しい。それは間違っていないが、そこまでは介護支援専門員ならば誰しも考えることができることだ。ここからもっと社会福祉援助の専門家として介護支援専門員が考えなければならないことは「正しい考え方であるから単なるデマンドによるサービスは計画しない、切り捨てる、で終わっていないか? 」ということである。

介護計画には説明同意が必要とされているが、説明同意とは、計画しないサービスについても、計画しない理由の説明責任があるという意味である。

利用者の自己決定を支援するのが社会福祉援助の目的であり、ケアマネジメントも同様で、介護計画の目的や意味を、介護支援専門員だけが分かっていて、自分が専門家だから「任せておけばよい」という態度で「サービス利用しない」ことも利用者が十分納得しないままに説得によって決めてしまうだけでは援助関係として不十分なのである。

一般論として言えば、利用者は福祉援助を求める際に自分の自由まで放棄しようとは考えていない。利用者は問題に関する助けを求めて介護支援専門員に援助を依頼するだけである。そして利用者は、介護支援専門員ならば地域にあるサービスを熟知して、自分が求めるサービスを提供してくれると期待している。その時においても自分の選択権が認められないとは考えてはいない。希望は最大限に認められるであろうと考えている。介護支援専門員に対し、専門的助言や心理的サポートや、制度上の手続きの支援を望んではいても、自身が必要とするサービスが問題解決であるという考えを容易に変えたりすることはないし、問題解決の方向を自分が決める自由は確保したいと願っているのが普通である。

だから希望するサービスを利用しないほうが望ましい理由や、その根拠はより丁寧に説明して理解を得ないと、その後の信頼関係構築に繋がらないばかりではなく、本当の意味で生活課題解決に向けた介護計画が立案できなくなる。

このことを「説得」により解決しようとしたり、押し付けたりする場合、介護支援専門員は無意識のうちに利用者に従族的役割をとらせることになり、利用者は操作・操縦されていると感じ、自らが「猿回しの猿」を演じていると感じてしまうかもしれない。これが一番援助関係としては「まずい」状態を生む。

介護支援専門員は、利用者が「適切な情報や知識が与えられていないことにより情緒的混乱が生じて問題の整理ができていない」という視点に立って、介護支援専門員の調査や判断を「わかりやすく」説明し、利用者の気持ちを受け止め共感しながら、共に生活課題を解決する姿勢を示す必要がある。そして複数のサービスの中から、何がどのように必要とされているかを説明しつつ、その最終決定は利用者自身にあるという前提に立つためにも、利用者がサービス資源の意義を比較検討できる機会を与えなければならない。そのうえで専門的助言として利用者に最も適したサービスが自らの潜在的能力をも引き出すという共感的理解を得るように努めなければならない。

高齢者であっても、自らの問題解決能力は失われていないし、適切な説明と助言により、利用者自身が生活課題に対してよりよい洞察を得て自らを助ける力が生まれるという可能性を否定してはいけない。そのためには利用者の訴えを傾聴して、受け止めるという理解的態度が不可欠である。

そういう日常の積み重ねが信頼に繋がり、やがてそのことがニーズに即したサービス計画に繋がっていくもので、最初から最善の計画が作られなければならないという呪縛から逃れることも一方では必要である。

不適切なサービス利用を切り捨てることは簡単だが、その時に利用者が納得する形で説明責任を果たし、それに加えて、利用者が自らその問題に気がつくような援助関係を築いているかということが、今後の介護支援専門員の社会福祉援助者としてのアウトカムに繋がっていくだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

介護保険法第2条第4項をどう読むか。

介護保険制度は「居宅サービス」を重視した法律であるといわれ、その根拠は介護保険法第2条に求められる。

第2条1項では「介護保険は、被保険者の要介護状態又は要支援状態に関し、必要な保険給付を行うものとする。」と規定し、第4項で「第一項の保険給付の内容及び水準は、被保険者が要介護状態となった場合においても、可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮されなければならない。」とされている。

つまり保険給付について、まず「可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営む」ことが可能になるように配慮しなければならないというものであり、施設入所は、そのことが困難と判断された場合のみ給付されるべきサービスであるとしているものである。このことが介護保険制度は在宅重視といわれる所以である。

しかしこの法文を読む限り、この制度は「在宅重視」というより、むしろ「居宅サービスで対応できる可能性をまずアセスメントすること」つまり「居宅サービス優先」であると解釈できるのである。出来る限り在宅で生活することを目的とし保険給付サービス利用を行ったうえで、なおかつ居宅生活が難しくなった人に対して施設サービスを提供しなさいと読める内容となっている。

この法文解釈自体は、さほど的外れでもないし、そういう意味であることは自体は決して間違った考え方ではない。つまりもともと施設サービスは、居宅生活を補完する最終的なセーフティネットの役割を担っているという意味があるからだ。

ところが、この「在宅重視」「居宅サービス優先」という意味を間違って捉えている関係者が少なからず存在する。

それは、あたかも施設サービスが「必要悪」であるかのように考えている関係者のことである。

それらの人々は何か「施設に入所する」ことを「禍々しいもの」とでも捉えているかのごとく、居宅生活を続けることができなければ人間としての価値が低下するような考え方を持っていると同時に、施設サービスに移行せざるを得ない人々は、生活の質が下がるがごとく考えて、いたずらに「頑張らないと家で暮らせなくなりますよ」的な指導や援助を行っている場合がある。こうなると、もうこれは生活支援ではなく、脅迫による「尻たたき」にほかならない。

地域福祉というものは、居宅サービスと施設サービスが車の両輪の役目を果たしているものであり、そのどちらが欠けても安定走行ができなくなるものである。それは居宅で生活している人が、何らかの理由で、その状態が難しくなったときに、施設サービスがその後の安心を保障します、という意味なのである。ここを間違ってはいけない。

同時に、居宅サービスと施設サービスという選択において、両者には両極端の差異があるにもかかわらず、従来の居宅サービスのあり方のままでは、それらのサービス対応が困難になってきた場合の選択肢が少ないことから、境界層の人々がすべて施設サービスに移行せざるを得ない状況にあって、このことは非常にバランスが悪いとして、小規模多機能居宅介護などの第3極のサービスが考えられたもので、それは施設サービスを否定して、この国から施設をなくすために作ったものではないという理解も必要である。

介護保険制度の在宅優先、施設サービスの補完性というものは、どちらが優れているとか、どちらの質が高いかという問題ではなく、人の暮らしの援助を考える場合、過去の暮らしとの連続性を視野に入れる必要があり、安易に生活拠点を移す選択に繋がらない、そういう選択肢しかない、という状態を作らないという意味なのである。

しかし、それは同時に施設サービスというセーフティネットが構築された条件下で安心して居宅サービスを受けることができるということであらねばならない。そういう意味では待機者が膨大な数にのぼり、施設入所がままならない現状は、このバランスを崩していると言えるもので、一定数の特養などの施設整備計画は必要不可欠であって、これは居宅サービスが充実さえすれば必要ないという問題ではないのである。もちろんその前提として、施設サービスとして、利用者の人権を守る適切なサービス水準を維持していくことが必要なことは言うまでもなく、過去の記事にかいたような宇都宮市の老健施設における人権蹂躙の対応は徹底的に排除されなければならない。

ところで4月26日に出された厚生労働省の「地域ケア研究会」の報告書では、2012年の介護報酬と診療報酬の同時改定では、「居宅サービス優先」という介護サービスの機能を一段と意識した原則に立つべきだと提言している。しかし前述したように、その本質部分の理解に差がある現状では、この原則論が「国側の都合のよい理屈」に使われないか心配である。

特に施設サービス関係者においては「サービスの外付け論」が給付費の圧縮理論と深く結び付いていることに注意していかないと、在宅重視・居宅サービス優先の御旗は、施設サービス費の削減論と変質する可能性が高いことを知っておくべきである。

なにしろ厚生労働省内でも、有識者会議の一部のメンバーのなかにも根強く主張されている考え方は、介護保険施設の将来像は、いわゆる「特定施設モデル」であり、一部の費用の切り出し、利用者自己負担化であることを関係者はしっかり捉えて、必要な反論とアクションを起こしていく必要があるからだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

人の命を軽く考えすぎていないか?

7名の尊い命が失われた札幌市北区のグループホーム火災の記憶がまだまだ生々しいこの時期に、同じ北海道の岩見沢市でグループホームのボヤ騒ぎがあった。

全国的にはあまり知られていないニュースであると思うが、このボヤ騒ぎには、別に大きな問題が隠されているように思うので、今日はこのことを取り上げみたい。ボヤ騒ぎの詳細は以下に北海道新聞の記事を転載する。(一部事業者が特定できる部分は伏せ字にする)

4月20日午前4時40分ごろ、岩見沢市○町の認知症グループホーム「○○○」1階のトイレから煙が出ているのを夜勤の女性職員が発見した。職員は煙を自力で消したが、入居していた89歳の女性がのどの痛みなどを訴えて病院に運ばれた。岩見沢署は、トイレのパネルヒーターの操作盤がショートして煙が出たとみて調べている。同署などによると、ホームは認知症の高齢者らが利用し、入居者9人が暮らしていた。当時はこのほか、介護保険が適用されない1泊などのショートステイの利用者8人がいて、夜勤の職員は1人だった。国は、夜間の利用者5〜9人につき介護職員を1人以上配置することを定めているが、同ホームは「介護保険が適用される入居者に対して定められた職員を配置しており、国の基準は満たしている」としている。(北海道新聞)

以上である。幸いのどの痛みを訴えた女性利用者以外は無事で、大きな事故には至らなかった。しかしこのグループホームの経営者は、あの北区の火災事故をどのようにみて、何を感じていたのかが大いに疑問に思った。

僕は「夜勤者が一人という配置基準が問題であり、死亡事故を防ぐためには夜勤配置人数を増やせ」という論調には必ずしも賛成ではなく、夜勤者が複数でも燃えやすい木造民家型のグループホームでは絶対的な対策にはならず、スプリンクラー設置が死亡者を出さない最大の手当であると主張してきた。むしろ9人に対し一人の夜勤者というのは介護施設(特養や老健等)と比べれば少ない配置人員とは言えないのだから、この配置基準を増やすのはコストがかかり過ぎて現実的ではなく、現在のマンパワー不足、財源不足から考えると不可能に近いことだろうと思っている。

それにしても・・・である。あの北区の事故から1月足らずのこの時期、一人夜勤で対応できる能力の限界も指摘されているのに、グループホーム9名の入居者のほかに、保険外ショートステイとして8名の高齢者を受け入れ、この利用者に対しては別な対応職員を配置せず、グループホームの夜勤者1名だけで一括対応していることに、このホームの経営者や管理者は危機意識を感じなかったのだろうか?現在の体制で火災事故が起きたらどうしようと考えなかったのだろうか?スタッフからこのことに対する不安の声はなかったのだろうか?そうであれば相当鈍感である。

記事にあるように、岩見沢市の見解(地域密着型だから指導監督権限は市であろう)は「介護保険が適用される利用者に対する配置基準は満たしており、法令上の問題はない」というものである。

しかし保険外のショートステイに対して、この夜勤者は何も関わっていなかったとはどうしても思えない。もしこの1名の夜勤者でグループホーム入所者とショート利用者全ての対応を行っていたものであれば、ショート利用者対応している時間帯はグループホームに夜勤配置者がいないのと同じ状態になり、夜間時間帯を通じて1名以上の夜勤者配置という配置基準に違反していることになる。指定配置基準違反に該当する可能性の方が高いと僕は思う。岩見沢市はなぜ、このあたりを「問題なし」と判断しているのか、このことについても大いに疑問である。配置基準ルールを誤解しているようにしか思えない。このことはもっと精査してもらう必要があるのではないだろうか。

仮に配置基準違反がなかったとしても、あの北区の事故があった以後であるがゆえに、このホームは、せめて安全面から必要最低限の管理体制を考えるべきで、ショートステイ利用者対応は、保険外サービスであっても、グループホーム夜勤者以外のスタッフ対応が必須だろうと考えるのが、常識的な判断ではないんだろうか?あの北区の火災死亡事故の後は、なおさらそういう体制の見直しを行うべきではなかったのではないのか?過度な利潤追求という姿勢が、安全性を鑑みない体制を生みだし、職員に過度な業務を課している結果ではなかったか大いに疑問視するところである。

今回、人命が奪われなかったのはただの偶然に過ぎない。しかしこのホームの夜間の体制をみる限り、あまりに人の命を軽く見過ぎているのではないかと考えてしまう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)

社会福祉援助者の良識が問われるとき

4月15日、介護施設関係者には衝撃にニュースが流れた。

宇都宮市平出町の介護老人保健施設「宇都宮シルバーホーム」で、20代の複数の介護職員が、認知症の入所者が上半身裸で四つんばいになっている姿を携帯電話で撮影したり、入所者の顔に落書きするなど、虐待の可能性がある行為を行っていたというのである。

その内容もひどいもので、同法人によると、これらの行為は2年前〜昨年末にかけてあり、認知症の女性の姿を携帯電話で撮影したのは、女性介護職員。自立歩行ができずに、ベッドの下で四つんばいになっている姿を撮影し、同僚たちに見せて笑ったという。このほか、別の介護職員2人が、認知症の女性入所者の顔にペンでひげを書き、携帯電話で撮影したというのである。

同法人が3人の介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」と話したという。同法人は3人を訓戒処分とし、始末書を提出させた。 また、男性介護職員は、90代前後の女性入所者を車いすからベッドに移す際、高く持ち上げて乱暴に落としたという。この男性介護職員は既に依願退職している。これだけでも重大な問題なのに、この問題はこれだけで終わらず、さらに重大な問題を引き起こしている。

それは同法人が、このことについて一旦は虐待があったとして謝罪したものの、その後態度を一変させ、90代の女性を高く持ち上げベッドに落とした行為について「乱暴に落下させてはいない」と強調。 上半身裸の写真を撮影するなど一連の行為で「精神的な苦痛を受けた入所者もいるのでは」との質問に対し、尾崎理事長は「悪意がなかったため、(虐待に)当たらない」との見解を示したのである

このような人間の尊厳を犯すような行為について悪意がないから虐待ではないという理屈が社会常識として通用するのか大いに疑問であり、行われた行為は明らかに「人を傷つける行為」以外のなにものでもないし、仮にそのことに気がつかず「善意」のつもりで、この施設の職員がそのような行為を行っているとしたら、相当な馬鹿としか言いようがない。そういう馬鹿な意識を放置した施設管理者の責任はより大きく問われるだろう。

しかし第三者がこの問題を調査したら必ずこのような行為は「虐待」であるいう常識的判断が下され、社会から痛烈な批判が起きることは免れないだろうと思っていたら、その期待も裏切られた。

4月30日に宇都宮市が、市の見解として、職員の行為は虐待には当たらないものの不適切で、職員教育も不十分だったなどとして、同施設に介護保険法に基づく改善勧告を行った、というのである。

このような人権無視の行為を行っていて、これが単に不適切行為であって虐待ではないと考えるとしたら、この国の虐待の垣根はずいぶん高くて、人権意識はずいぶん低いんだろう。そんな国の施設に入所させられている人々は不幸であるといわざるを得ない。なぜこれをきちんと「虐待である」と認定し糾弾し、2度とこのような行為を犯さぬように国全体で考える方向に持っていかないんだろう。こういう施設に対してこそ「指定取り消し」を行うべきである。(老健だから許可取り消しか?)

どちらにしても、当該施設の管理者はじめ役員諸君、職員の皆さん、自己保身に走る前に、自らの良心に基づいて何が起きたのかをきちんと明らかにしてほしいものだ。

そもそも介護職や看護職や福祉援助者を目指した動機は何でしょうか。自分が人の幸せに結びつく援助に関わることができ、我々が向かい合う一人ひとりの方の幸福感や笑顔を作り出すことができることが我々のモチベーションではないのか。

人の大切な顔にいたずら書きをして喜んでもらえると考える人がどこの世界にいますか。介護施設にだけ存在するとしたら何と特殊な世界なんでしょう。裸の上半身の写真を意味もなく撮影されて何が嬉しいなんておかしすぎる。そんな正常な感覚さえも失ってしまう現場が我々のサービスなんだろうか?恥を知るべきは誰か、真剣に考えてほしい。

この問題を同考えるのか緊急アンケートを実施したい。是非回答に協力願います。
介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑上のそれぞれのアドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)
masaの講演案内
当ブログ管理人masaの講演予定は、こちらからご覧下さい。講演依頼もこのページからできます。
新刊のご案内
表紙画像(小)
新刊「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から(2019年1月20日発売)のネットからの購入はこちらをクリックしてください。送料無料です。
Weekuly Access

    Blog Search
    Google
    WWW を検索
    このブログ内を検索
    ↑こちらにキーワードを入れて過去のブログ内記事を検索できます。
    masa's book 5
    新刊介護の誇り
    「介護の誇り」はこちらから購入できます。
    masa's book 4
    介護の詩(うた)  「介護の詩(うた)」はこちらから購入できます。
    masa's book 3
    人を語らずして介護を語るなTHE FINAL 誰かの赤い花になるために  感動の完結編。 「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」。 はこちらから購入できます。
    masa's book 1
    表紙カバー、帯付き
    書籍化第1弾「人を語らずして介護を語るな〜書籍masaの介護福祉情報裏板」 はこちらから購入できます。
    Facebook
    masaのフェイスブックはこちらからアクセスしてください。
    Recent Comments
    Archives
    Categories
    Access Counter
    • 今日:
    • 昨日:
    • 累計:

    QRコード
    QRコード