masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

ふぞろいの林檎たち〜左半側空間失認を見逃してはならない。

1db5f611.jif医師や療法士の皆さんはよくご存知だろうが、介護の現場で意外と知られていない脳血管障害後遺症の症状のひとつに左半側空間失認がある。

左半側空間失認とは脳の高次機能(知識に基づく認知的な脳の働き)障害で、脳の右半球損傷後に起こる場合がほとんどで、結果的に左片麻痺の人に多い症状であり、対象者の左側が見えているにもかかわらず認識できない、見えているのに意識に上らず結果的に見落とす、という症状である。

まずこのブログに張り付いている画像をご覧いただきたい。

これは私が左半側空間失認を疑った女性利用者に対して行なった簡易テスト:とはいっても画用紙に林檎の絵を3つ並べ「塗り絵をしてみましょう」と色を塗ってもらっただけであるが:の結果である。

これほど典型的に症状がテスト結果に出る例も珍しいが、ご覧のように一番右端の林檎は、ほぼ完全に色が塗られているのに、真ん中の林檎は右側2/3しか色が塗られておらず、左端にいたっては右部分の一部しか色が塗られていない。

つまり彼女にとって自分の体の左側の物は意識できない状態なのだ。

私が彼女の左半側空間失認を疑ったのは、彼女が食卓テーブルにつく際に、テーブルに対し、まっすぐに着席できないことだ。

車椅子を健側の手と足を使って上手に動かし、移動には問題がないにもかかわらず、テーブルに着く際に曲がってしまう。それも決まって左側が先にテーブルに触れ、右側が入りきらない状態で、右側向きに曲がって着席する状態になる。

最初は性格の問題かな?と疑ってしまったが、どのように声かけしても、うまくいかない。

これは結果的に、左側のテーブルが意識に上がってこないため左側のテーブル位置がわからず、右側のみの意識でテーブルにつこうとするから、自分の左部分が先にテーブルにぶつかって動けなくなるためと思える。

思い合わせて考えると、彼女は認知に全く問題がないのに、時折、ボーとしていることが多いし、無気力と見られがちだ。

しかしこれは左半側空間失認の典型的症状である。

左半側空間失認がある方の状態例として、右を向いている、話し掛けてもとりとめがない、なんだかやる気がなくて……、と誤解を招きやすいことがよくある。

高齢者の場合、厄介なのは、これを気力の衰えや物忘れ、認知症などと誤解してあきらめてしまうことだ。

しかしこれは性格的な問題でも認知症でもない。

例えば本ケースの女性の場合も、封を切って渡した薬を食後、自分で飲むが、飲み忘れがある。しかしそれは決まって、薬をお盆の左側に置いた場合で、右側に置くことで、それは防ぐことができるのだ。

そのほかの方でも、例えば自力で食事をしているのに、副食を1品しか食べない、あるいは主食しか手を出さない、などの方で、左麻痺がある方は左半側空間失認を疑ってもらいたい。
単に、食器の位置を工夫することで改善する例があるのだ。

また、食器の位置だけでなく、皿の部分だけでも、皿の右部分におかれた副菜は食べるが、左に添えられたポテトサラダにはまったく手を出さない、という例もあるのだ。

そのほかにも、視力に問題がないのに左側を歩いている人にぶつかる、などという症状が出る。これも認知症と間違えないで、その方の移動の際には環境整備も含めて左側に注意する、などの配慮が必要だ。

介護の現場の職員が、そういう症状がある、ということを知っておくだけでケアに生かせることは多い。このような方へのコミュニケーションも相手の右側に立つことで、よりスムースになる。

食事介助が必要なら、なおさらだ。
箸やスプーンが対象者の左側から伸びると口が開かない、何かの拍子に口をあけた際、食事を口に入れると誤嚥しかねない。

無気力ではなく、意識できる側から(右)しっかりコミュニケーションをとって誘導すれば、自立できる部分は多いのだ。

是非、このことを介護の現場職員は覚えて意識して介護にあたって欲しい。

だが、左半側空間失認などという難しい言葉をおぼえる必要はない。

なんなら「ふぞろいの林檎症状」とでも言い交わして、理解していただければ、左半側空間失認の方の行動理解と適切なケアサービスに繋がる可能性は大いにある。

介護・福祉情報掲示板(表板)

祈り

今日の新聞の1面はライブドアへの強制捜査と、耐震偽装建築問題でのヒューザー小嶋社長への国会証人喚問のニュースで埋まってしまった。

ただ1月17日という日は、6、434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災が起こった日であることを、11年経った今、震災地とは、遠く離れた北海道に住んでいる僕にとっても忘れることはできない。

耐震偽装に係った人々は、あの時失われた貴重な「命」の叫びを何も聞いていないのだろうか。

自然災害は避けることができなくても、人間の英知で被害を減らすことができる意味を考えることはないのだろうか。被害で亡くなられた方々の魂の叫びに耳を傾けない社会であってはならない。

当施設にも震災被害にあわれて神戸の小学校の体育館に避難していた方で、そこで風邪から肺炎を併発して、北海道の親類宅に引き取られた方が入所された経緯がある。その方は、幸い今は元気で当施設で過ごされているが、震災の話題に触れることは決してない。さぞかし恐怖の体験であったであろうと容易に想像がつく。

思えば11年前の震災時は介護保険制度は誕生していなかった。

あの時、震災の中で、介護が必要な高齢者の把握に努めたのは、行政とボランティアがほとんどであったろう。

ところで1昨年の新潟の震災の折には、こうした高齢者の避難場所や状況把握に活躍したのが地域のケアマネジャーであったと聞く。介護保険制度の功罪は様々に挙げられるが、地域の中で個人の高齢者の「頼れる人」という部分に、ケアマネジャーという存在ができたことは、重要な点だろう。

そして我々ケアマネは、地域で必要な存在として、ますますスキルを上げていくのが責務でもある。その視点なくしてケアマネの存在意義はないだろうと思う。

ところで阪神地区では震災後も復興支援住宅で生活する方が、まだ多く残っているとのことであるが、昨年1年間だけでも復興支援住宅で孤独死した高齢者が69人もいるという。震災はまだ終わっていないのだ。

そして、その原因や状況は様々であろうが、震災で家族を失い、老いの時期を復興支援住宅で一人過ごし、誰に看取られることもなく旅立っていった多くの命を考えたとき、心が震えずにはおれない。せめて安らかであれと、ただ、ただ祈るのみである。

今日1月17日が「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」が制定した「おむすびの日」であることは余り知られていないが、これも阪神・淡路大震災でのボランティアの方々による「炊き出し」に由来した日であることを我々は決して忘れてはならない。

今日はやはり「祈り」の日である。

私は、コレデ!!煙草をやめました。

禁煙したのは20数年前のことである。

意志の決して強くない私であるが、禁煙を実行したその時依頼、いたずらであっても1本の煙草も吸っていない。

いまでは酒席であっても私の前に灰皿が置かれることはない。

しかし、もとは大変なチューンスモーカーであり、就職当時を知る事務員などは当時を振り返って現在が信じられないと言う。

白状すると、煙草を吸い始めたのは中学生時代であった。(自分の子供が吸っていたら烈火のごとく怒るであろうに)。

動機は、ただのカッコつけで、煙草を吸うことが大人びてカッコいい行為に思えた。おいしいとは思わなかったが、いつの間にか癖になり、止められなくなっていた。

高校生時代にはじめて「マイルドセブン」が発売されたのだが、当時はイッパシの愛煙家気取りで、マイルドセブンどころかセブンスターも軽くてまずい、などと言っていた。
私の好みはショートホープで、就職当時は1日80本は吸っていただろう(今現在では、どんな煙草が売られているか品名さえも知りません)

私のデスクには、灰皿にフィルター部分しか残っていないショプの山が渦高く積まれ、右手の人差し指と中指の一部はニコチン色に染まっていた。

そんな私が煙草をやめるきっかけになったのは、ある先輩ソーシャルワーカーの何気ない一言である。

先輩とは言っても、当時、我が施設は50床の単独施設で、ソーシャルワーカーは私一人であり、新設施設でもあり、施設内に先輩はいなかった。

その当時、私のスーパーバイザー的な立場であったのは、職場はまったく別だが、協力病院の医療相談室の課長や係長であった。

当時を振り返ると、新卒で何の知識も経験もない私が、新設施設の相談援助職を続けられたのは、協力病院のソーシャルワーカーはじめ先輩や同僚が協力して、援助してくれたからだ。幸い仕事以外でも、野球というつながりで、同病院のチームに所属していたこともあり、他機関という意識はなく、指導や助言を受けることができた。

その当時、はっきりした日時は覚えていないが、何かの「飲み会」の席でソーシャルワーカーとは、という話になったと思う。

その時ある先輩が「俺たちワーカーは患者さんに、簡単に、あれはしちゃあいけない、とか、これは駄目だとか、あれを止めろ、これを止めろ、というけど、そう簡単にできるもんじゃあないよな。」「キクチくんは、お年寄りに指導(当時はこういう言葉が当たり前に使われていた)する立場で、自分が何か我慢できることがある」とかいう内容だったと思う。

はっとした。

今のようにポジティブなケアサービスというのが当たり前に考えられなかった時代のことである。ネガティブな指導をせざるを得ない状況の多さを指摘されて、これは違うよな、と感じたものだ。

しかし当時の若い僕には、それを表現する言葉も見つからなかった。

ただ血気盛んなその頃の僕は、この気持ちを何か行動で表さなきゃアならないと思ったんだろう。「僕、今から煙草を止めます。」気付いたときには、そう口走っていた。

酒席の「たわ話」である。誰もそれを信用していないだろうし、守らなくても誰から責められるわけでもない。まして当時、一人暮らしで、誰にも内緒で吸うこともできたし、吸わないことが非常に苦痛だった時期がある。

しかし、それを守らないことは、この仕事を続けられないことに繋がるような気がしていた。自分が禁煙程度を守られないのに、人の相談にのって、時と場合によっては、人生の先輩たちに偉そうなアドバイスを行なったり、「〜は止めた方が良いのではないでしょうか」などと言えないような気がしていた。

律儀に守っているわけではないが、そうした若い頃の思いを引きずるようにしている自分自身は嫌いではない。

それやこれやで20数年が経過して、今では煙草を吸いたいとも思わないし、他人が吸っていても迷惑とは感じないが、決して美しい姿とは思わない。

はっとする美女でも煙草を吸っている姿は、美しくない。

と、言いつつ、自宅で台所を見上げると、換気扇の下で、そっと煙草をふかしている女房殿がいたりする・・・。

人生とは何とも面白きものだ。

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「老いる」ことは不幸でしょうか。

昨日、「老いることは不幸か」ということを少し考えてみたので書こうと思う。と予告したが、今朝の北海道新聞の『年取る意味を科学する』という特集記事の中で「ジェロントロジー(加齢にかかわる諸問題を研究する学問領域。生物学・医学などの自然科学と社会科学を統合して研究する。老年学。老人学。加齢学。)」が紹介されていた。

老いを積極的側面から捉えて意味あるものにしようという学問は大事だ。

ただ私の今日のブログでは、すこし別な視点から「老い」を考えてみたい。

それは、どうしても人は「死」というものが避けられず、「老い」はその入り口に確実に近づいている、という意味をも持つもので、死や身体の衰えを無視して考えることは現実逃避してしまう恐れが多分にあると考えるからである。

老いることが不幸か否か、その答えは単純ではない。幸か不幸かは、その人が持つ人生観や、置かれた状況(経済的、環境的)にも左右されるし、生育歴や学歴によっても左右されるであろう。

また客観的に、幸せそうに見える一人の人間が、本当に幸福感に満ちて老いの時期を過ごしているかは決して他者から窺いあ知れないであろうし、何より「老いるということは実際に老いてみないとわからない(堀 秀彦「銀の座席」より)」のである。

しかし現実の社会において「老い」がどのように捉えられ、その状況がどうであるかを考察することは可能である。

まず現実の社会には「エイジズム」と呼ばれる高齢者差別が存在している。

現在、我々の価値判断基準の根幹を成すものが労働生産性の有無、ということであり、高齢者はこれに欠く者と評価され、「老い」そのものを価値の低いものと判断するような性格を現代社会は本質的に内包している。

こうした「エイジズム」に対する権利主張として、過去に盛りあがった例としてグレーパンサー運動などがあるが、これらの運動が自分たちの権利を主張し「老人扱いするな」というように自分たちが老年に達したという事実を拒否する傾向に終始してしまったという評価があり、裏返せば、それは「老い」を不幸なこととして否定する発想であったとも言え、本当の意味で「老い」を人生という時間軸の中で限りない持続としてあると肯定的に捉えるものではなかった。

ジェロントロジーはそう言う意味で、その反省から生まれた学問であるとも言える。

さて、本当の意味で、「老い」をも合わせて人生というものを全体として受容する人生観を考えるとき、避けて通れない道がある。

それは「死の影を見つめる」ということである。

昔は幼い命も数多く失われたが、現在では死ぬ人の7割以上が高齢者なのである。

どんなに医学が発達しても死は避けられない。そして「老い」の一面は死へ向って歩いて行く過程でもあり、確実に死に近づきつつあることなのである。

果たしてそれは不幸なことなのであろうか。否、としたい。

人が他の動物と区別される本質的な差は、時間を認識するということであり、その有限性を「死」として理解できるということである。

ひとたび青年期に思いを馳せながらも、その後久しく忘れかけていた「死」の問題を考えるときが人生の何十年か後に与えられている、というのが「老い」の時期の一つの意味ではないのか。

若い時にしかできないこともあるが、年をとらないとわからないこともあるのだ。一つ一つ物事を知ることが増えてくる「老い」という時期も人の生命にとって、人生にとってなくてはならない時なのだ。

「老い」を拒否する社会は死を拒否する社会である。しかし老いも死も必ずやってくる。

我々は時間の中で生きている。

すがすがしい朝、燦燦とふりそそぐ太陽は素晴らしい。しかし同時に、茜色に映える夕陽もやがて沈むことを知るのは大切なことである。老いとは、人生とは、それぞれに意味深い時間の流れなのである。

20歳の頃、40半ばを向える自分を想像できなかったし、その頃より良いものではないだろうと漠然と感じていた。

しかし今、その時期を迎えてみると、40代は40代で、また面白い人生があるのだ。時間の流れの中で「老い」に時期をも楽しんで迎えられる人生でありたい。

雪また雪・・・

雪もこれだけ降り続くと参ってしまう。

今日も朝から雪かきで数時間が潰されてしまった。

時間がなくなるだけではなく、雪の捨て場所も無くなってしまう。市の予算も火の車だろう。

若い我々はまだ良い。子供だって、もうすっかり手伝いの戦力だ。

しかし健康であっても、高齢者世帯の方々は大変だろう。特に除雪車が通った後に残された重たい雪は若い者でも大変だ。屋根の雪降ろしは多くの高齢者には無理だろう。

雪の降らない地域の皆さんには想像が出来ない生活障害が様々にあるのだ。

玄関前を除雪しないと家から出れない状態を想像できるだろうか。除雪した雪を家の周りに捨てていると、家全体が埋まってしまう。仕方ないから、邪魔にならない場所まで雪を捨てに行かねばならない。しかし一般家庭にトラックがあるわけもない。

多くの方々はスノーダンプ(手押しの大きなスコップと思っていただければ良い)やスノーボート(そり)に雪を積んで何度も家と雪捨て場所を往復する。
重労働が毎日、いつ終わるともなく続くのだ。

雪かきは介護保険制度ではサービス対象にならないが、高齢者の独居世帯や高齢者のみの世帯には何らかの支援があってほしいものだ。

僕の両親ももっと豪雪世帯に住む高齢者世帯だが、費用を負担して業者に依頼している。さほど豊な生活を送っているわけでもないのに大変な出費だ。

状況をよくわからない人は「地域のボランティアなどの利用」という。

とんでもなくずれている。僕も周りの高齢者のお手伝いをしたい気持ちはあるが、これだけ毎日だと自分の施設や家だけで体力の限界だ。とてもボランティアで雪かきする体力も気力も残っていない。せいぜい隣の分を少し手伝う程度で勘弁してもらう。

老いるということは決して不幸ではないが、不便な事が多いのだ。

不便から生ずる生活障害を、地域全体が意識して配慮できる地域社会というものを我々はいつから失ったのだろう。

向こう三軒両隣、という地域社会を失ったつけはかなり大きい。

今日は別の話題を書くつもりであったが、ともかく時間がなくなった。愚痴を書いてしまったが、明日、「老いることは不幸か」ということを少し考えてみたので書こうと思う。

今日は、これから雑用的な仕事が山積している、明日まですこし待ってください。

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「大根ケアマネ」になってはいけない!!

今日は休みをとっている。とはいっても休養ではなく、よんどころない別な役目上の会議が入ってしまい、有休休暇を使って参加しなければならない。いま少し時間があるので、ぼんやりと思いつくままのことを書いている。

「大根役者」という言葉はご存知であろう。
この意味と所以(ゆえん)には2通りの解釈がある。

まず1つ目は、大根というものは、煮ても食える、焼いても食える、それだけでなく生でも食える。

つまりオールラウンドに料理に使えて、食材としても使い勝手が広く、人気がある。たとえ生で食べても「中らない(あたらない)」のである。

つまり「大根役者」とは決して下手くそではないし、一応何でも役をこなせるし、そこそこ人気はあるけれど、何を演じてもその役者が出る芝居は「当たらない」というときに、あいつは「大根役者だな」という意味で使われたのである。

これも1説であり、役者の日高 悟郎は、吉永 小百合を現代の「大根役者」と評していた。

もう1説、
こちらの方が現実の意味としては広く使われているのだが、大根というのは色が白い。

しかもこの白い部分は「根」である。

根が白い→ 根が素人(ねがしろうと)という意味で使われるのだ。

一見、下手ではないし、人気もあり、観客受けもまずまずの役者だが、大事な役どころになると、肝心な基礎がなってないからうまくこなせない。ボロが出る。そこで、あいつは根が素人だから「大根役者」だ。ということになる。

そんなことを思い出していると、ふと考えた・・・。我々の介護の世界にも、優秀なケアマネがいる反面、根が素人と思いたくなる「大根ケアマネ」に時々出会うことがある。

スケジュール管理や給付管理にはうるさいけど、それによって利用者がどう感じて、利用者の生活にどのような効果をもたらすかということに関心の薄いケアマネに出会うことがある。

利用者の生活支援より、今月これだけサービスを利用してくれることで支給限度額に占める自事業所のサービス利用率が何%になるか、なんていう計算に長けたケアマネに出会うとガッカリする。

ケアマネジメントって一体何なんだろうと疑問になる。

君はケアマネジャーというより、優秀なケアプランナーだねえ、と言ってしまう事がある(案外嫌味に気付かず、誉められたと思って涼しい顔をしているケアマネが多いが・・。)

こういうケアマネに出会ったら、これからは密かに「大根ケアマネ」と呼ぶことにしよう。

ケアマネの受験資格について、いつか実務年数の短縮と職種範囲の見なおし、資格試験内容の見直しの提言をするつもりだが、とりあえず、資格試験、実務研修を通じてソーシャルケースワークの基礎知識の理解をもっと深めて、ケアマネジャーとしてソーシャルケースワークの1場面であるケアマネジメントを専門にする誇りや倫理観の醸成を促進しなければならない。

ケアマネジメントにかかわるものが「バイスティックの7原則」も理解していないなんて本来考えられないはずだ。

知らないことは罪である、という人がいたが、少なくともこのことぐらい知っていないケアマネは「恥じ」である。

この国がケアマネジャーを大量生産しようとする方法論に過誤があったんではないのか。

とりあえず数をそろえようという時期は過ぎたのである。

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ソーシャルケースワークとは何か。〜その意味から見えるもの。

私の施設の職名の中に「相談員」という職名はない。

基準配置上、相談員に該当する職員はソーシャルワーカーと呼んでいる。

その理由は、高齢者生活施設の相談援助業務が(相談員という職名になる以前の)老人福祉上の「生活指導員」という呼称に違和感があったからで、総合的な援助を行なう専門職として利用者には解りづらいかもしれないが(どうせ職名で呼ばれることは少ないだろうし)ソーシャルワーカーという職名に統一したものである。

ところで、ソーシャルケースワーク(社会福祉援助技術)とは何だろうか?このことを少し考えてみたい。

ウイットマーはソーシャルケースワークについて「社会福祉の活動は制度的組織の改善に向けられるが、ソーシャルケースワークは、この制度的組織を個人がより良く利用することに向けられる」とし、フィンクは「社会福祉を各部分によって組み上げられた組織体系とし、その内部においてソーシャルケースワークが人々を援助すべく活動する」としている。

このように社会福祉とソーシャルケースワークは、それぞれ制度と対個人援助活動として捉えられており、前者は一般的・固定的と考えられ、後者は個別的・力動的と考えられる。

すなわち社会福祉とは「人々の社会生活をめぐる福祉の達成と維持向上を国家・社会が援助する理念であり、それを具現化した政策・制度のシステム」といえるのである。

そして問題は、その内実が、援助を目標にした具体的制度から成り立っているとはいえ、制度自体がもともと多数な人々の共通のニーズに対応し、一括的処理を目指す画一的側面を否定できないところにある。

例えば、高齢者福祉事業は高齢者一般として一括処理されており、確かにそれによって、ある特定個人は生活が守られ福祉実現に近づくが、制度が真に個人に役立てられ、個人の福祉を確保するためには、その個人を焦点とした、きめ細かな援助活動が不可欠になる。

それを担うのがソーシャルケースワークなのである。

例えば、Aさんという高齢者がいたとして、Aさんは高齢者一般の福祉対策上に捉えられるが、彼は、高齢者であるという以前に、他の高齢者とは事情を異にするAという一人の個人である。

そして、一人ひとりの個人の福祉の実現を完全にするためには、Aさんという一人の人間としての個人に着目する必要があり、そこに個別化というソーシャルケースワークの不可欠要素が生まれるのである。

しかしここで言う「個別化」は、教育場面などでいわれる特定生活場面での「個別化」ではなく、個人そのもの、あるいは全体としての個人の福祉(発展成長)を目的とし、それゆえに生活のあらゆる場面に配慮を及ぼす「個別化」といえる。

個人の能力と環境の諸力を全体として取り上げ、個人の問題解決と福祉の実現を目指す個人的焦点アプローチとしての「個別化」はソーシャルケースワーク固有のものであり、ゆえにソーシャルケースワークは個人との何らかの距離を有する固定的な制度や施策を、個人を焦点にし、個人を中心にダイナミックに援助活動を展開させることで、それら制度・施策が個人に光を当てるものにする可能性を持つのである。

つまり社会福祉が究極的に一人ひとりの個人の福祉の確保、実現だとすれば、ソーシャルケースワークなくして、その具現化は不可能である。

個人が社会に接続される時々において、社会における生活単位としての個人が把握され、その問題が明らかにされ、必要なときに適切な援助が与えられるのがソーシャルケースワークの役割である。

なんのことはない、これはケアマネジメントの理念と同様ではないか、というよりソーシャルケースワークの1援助技術にケアマネジメントが含まれているのだ。

介護保険制度は、たしかに不合理な部分を内包している、制度としても未成熟な部分が多い、しかし我々ソーシャルワーカーやケアマネジャーが、一人ひとりの個人への援助の実現を目指すことで、制度は真に人を救う手立てとなるし、逆を言えばソーシャルケースワークの視点のない制度は真に個人を救済しないのだ。

ケアマネジメントはこうして利用者個人に制度の光を当てるためにあるんだ。事業所の利益誘導のためにそれを利用しているのは、どこのどいつだ!!

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鏡開き〜お餅が怖い??

bf1afc07.jif今日は暦の上で「鏡開き」である。

当施設でも昼食は園内に飾られていた鏡餅を割って食べる日である。

餅をどのように調理するかは、それぞれの好みで違うのだろうが、当園では人気の高い「お汁粉」にしていただく。

ところで毎年、餅をのどに詰まらせて亡くなる高齢者が必ずいる。正月3が日だけで毎年、30名近い高齢者が餅を詰まらせて亡くなっている。今年も既に関東地方だけで9名が同じ事故で亡くなっている。

つまり、餅を食事に出すことは、施設側の立場からのみでみれば実は非常に怖いことなのだ。

幸い、当施設では開園以来20数年、餅をのどに詰まらせた事故は起こっていないが、今まで起こらないから今後も起こらないという保障は何もない。

かくして、年数回、お餅が食事に出る際は、それぞれの嚥下状態に合わせた形状や大きさから、提供方法まで、事前に主任ケアワーカーや栄養士が中心になって十分なアセスメントを行なうことになり、提供当日は、事務職員も含めて、全職員が見守りや食事介助に入ることとなる。

しかし、ここで問題なのは、そういう体制を仰々しくとることが食事の雰囲気を壊してしまわないか、という点だ。

餅を食べるために監視されなければならないとしたら、そこまでして食べる意味もないし、おいしくもないであろう。

自然に職員が介助や見守りに入って、皆で楽しく食べられる雰囲気を作ることも重要なのだ。

また普段から食事は部屋で一人、ゆっくり食べたいという人がいる。これは通常であれば、全く問題ないが、やはり「餅」の場合は不安がある。

だからといって、そのときだけ職員が部屋に張り付くのも不自然である。やはりこの場合は「鏡開きは日本の伝統的な行事で1年の健康を寿ぐものですから、食堂で皆で一緒に祝いながら食べましょう」などと誘い出ていただく。

そういう方々にも雰囲気を充分楽しんでいただかないと2度と同じ誘いには乗ってくれない。

それやこれや、やはり餅を食事に提供する際には、普段以上のエネルギーをそれぞれの職種、職員が使っていることは間違いない。

今年も、今、無事に(?)昼食時間が過ぎた。しかし無事であることと「今日は良い昼食だったは」という評価は別だ。

我が施設職員にはこのことをきちんと意識して評価できる介護者であって欲しいと願うのである。

ところで僕自身は、若い頃から、餅を進んで食べるタイプではなかったし、正月だからといって雑煮を食べたいと思ったこともなかったが、今ではすっかり「餅嫌い」になってしまって、餅を食べることは全くない。

潜在意識の中で「餅」を食べることにトラウマを感じているかいるかどうかは知らない。

落語の「饅頭怖い」の「怖い」は「大好き」の意味であるが、僕が「餅は怖い」といえば「本当に嫌い」という意味になるので間違えないでいただきたい。

皆さんの施設や事業所にお邪魔する際は、決してお餅を「ひとつつまんでください」と出されても本当に怖がちゃいますから!!

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masaは時に講師になる

いくつかのマンパワーの育成事業に関わっている。

資格者養成講座の講師を務めることもある。大学生の特別講義などを行なう場合もある。

そこでいつも思うことだが、ホームヘルパーの講義というのは結構難しい。

大学生への講義であるなら、ある程度、学習レベルが統一されているから獲得している知識も予想がつき、そのレベルでの話をすれば良い。

しかしホームヘルパーの受講者というのは、年齢もまちまちだし、現在もっている知識や情報に大きな個人差がある。

例えは悪いが、分数の掛け算の理解ができていない人に、いきなり方程式を教えても、ちんぷんかぷんで理解でいないであろうし、逆に、高次方程式を理解している人に、分数計算を教えれば「馬鹿にするな」と思うし、興味もわかない。

これらをひっくるめて興味を抱かせつつ、根幹部分はきちんと理解してもらわねばならない。

特に介護保険法における介護保険制度の必要な理解を大上段から振り下ろすような制度論では理解できない場合が多い。

だから私の講義は、基本的なレジメは作っても、それに拠らないこともあるし、教科書やテキストはあまり使わないし、同じテーマでも集団属性や時により異なる講義内容になることが多い。

ただ基本的に伝える部分への説明や誘導が違うだけで、結論は同じと考えていただきたい。

そのためには、決められたレジメより、その日のニュースとか、身の回りの出来事とか、そういった生きた事例が有効になる。我々の具体的な生活にそって、様々なテーマを当てはめて考えてもらう。

だから僕の講義はレジメがなくてもわかることが多い(と自分では思っている)

面白い講義とは、。講義中に何度も爆笑する講義ではない。ファニーな講義は程々が肝心である。本当に面白い講義とは、話が始まったなと思って、その講義内容に関心がひきつけられ、時間を忘れて60分なり90分なりが、時間を感じる間もなく、あっという間に終わっている講義だと思う。

しかし新年早々、どえらい失敗をやらかした。

今日の午前中はこの「ヘルパー講座」が入っていた。もちろん事前に施設には講義に派遣する決済もとってあり予定に入っていた。

それをすっかり忘れていた。学校から電話が来て、あわててて駆けつけたが30分遅刻。

しかも講義の準備はまったく(忘れていたため)していなかったので事前資料もなく受講生の方には迷惑をかけたが、レジメがなくてもわかりやすかったでしょ!!

今日はブログを「言い訳」の場にさせてもらった。次回はレジメを作っていきます!!

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火災事故の悲惨さを繰り返してはいけない

1月8日といえば17年前の今日、昭和から平成に変わった日だ。

17年間には、いろいろなことが、それぞれの時間に流れている。高齢者福祉が措置中心であった時代も遠い昔になっていくんだろう。昭和は遠きになりにけり・・である。

さて、年末から年始にかけて、火災事故のニュースが目に付いている。

4日未明にも姫路市で小学生5人が犠牲となる悲惨な火災があったばかりであるのに、今日は長崎県大村市のグループホームの火災事故で6名のお年寄りが亡くなられた。他の3名の方の状態も心配される。

1ユニットの木造平屋住宅が全焼している映像が報道されている。

何とも言いようのない悲惨な事故である。犠牲者の方々には心よりご冥福をお祈りしたい。

宿直(夜勤体制であったか宿直体制であったかはさだかでないが)の職員は無事であるようだが、通報が精一杯であったのだろう。

実際にこのように木造住宅が火災になった際、いくら通報体制が整備されていても、夜勤者又は宿直者1名で避難誘導は困難であろう。特に認知症の方々には状況の理解すら難しかったのかもしれない。

個別のホームの管理体制ではなくグループホームの夜間緊急時の管理体制、火災事故に対する危機管理が問われてくることになると思う。

思い起こせば、昭和62年には、東京都東村山市・特別養護老人ホーム松寿園火災という大事件があった。

あの火災は、2階リネン室付近から出火し、原因は放火の疑い。入所者74人のうち、寝たきりのお年寄りを含む17人が死亡し、負傷者は25人という悲惨な火災であった。

この事故をきっかけに、消防法施行令が一部改正(昭和62年政令第343号)され社会福祉施設等のスプリンクラー設備等の消火設備の設置基準が強化され、我々の特別養護老人ホームについても、夜勤者以外の管理宿直が義務付けられ、設備上スプリンクラーが必置とされたのである。

あらためて考えてみれば、当施設でも協力病院等から夜間でも緊急通報で駆けつけてくれるシステムはあるが、初期誘導で全員を安全な場所に避難できるという保障は無く、むしろ燃え広がる火の中であれば、夜勤者5名で100名のお年寄りを全員怪我無く避難させることは困難であり、まず火災の場合は延焼を防ぐのが一番の危機管理となってくる。

そのためのスプリンクラー設備は非常な威力を発揮する。

しかし現在グループホームの設備基準ではこれは義務ではない(兵庫県など必置義務を課している自治体もあると思うが)

しかし民家スタイルが多く木造建築がほとんどグループホームの場合、延焼は鉄筋コンクリート作りの比ではないだろう。

コストの問題が出てこようが、高齢者の方々の生活の場として安心した暮らしを提供する責任において考えた時、スプリンクラー設備の設置が設備基準に盛り込まれるなどの対策が必要ではないだろうか。

グループホームの乱立が問題になっているが、安心して暮らせる設備を提供できる施設というのも、ひとつの設置条件となってよいのではないだろうか。

介護・福祉情報掲示板(表板)


制度改正で言えること、言えないこと。

48644f7e.jpg昨年のクリスマスにひいた風邪が治りきらないまま新年を迎えた。

体のだるさが続いている為、今日は完全休養だ。しかし明日も日直で出番だし、来週からは早速、認定審査会があり、月曜の祝日は、審査会資料の読みこみで終わりそうである。

体調が悪いこともあり、今週の4日からの仕事は、もっぱら施設内業務に専念して、外の関係機関への挨拶回りは遠慮させていただいた。

それでも、いくつかの関係機関や施設関係者の皆様には、わざわざ当施設に僕を訪ねてくださり恐縮している。

関係者の皆様の新年挨拶と共に、共通して出てくる話題は、制度改正についてである。

特に新予防給付の影響をもろに受ける通所系サービスについては、報酬や人員基準について、あるいは、どのように新予防のサービスを展開するかについて尋ねられることが多い。

しかし、1月26日の介護報酬諮問、とそれに伴う省令が出るまで確定的にいえることはない。

8割正しいと言われている情報でも、安易に口に出して、結果が変わってしまっては影響が大きすぎる。

ということで、このことに関して僕は貝にならざるを得ない。

それにしても事業計画や予算を組むに関して、今月末まで姿が全く見えないというのは、やはり困ったものである。

ただいえることは、施設系サービスの報酬の±0%については、昨年12/20のブログ

「騙されてはいけない介護報酬改訂の数字のマジック。 」
でもふれているが、±0%をユニット型施設と従来型施設に加え、地域密着型の新施設との3つの施設でパイを奪い合うのであり、従来型の多床室が多い施設の減収は否めない、という点をまちがえてはならない。

さて話は変わるが、

代表的な女流歌人、与謝野晶子が「地獄谷、 業のけむりとなしがたし、 恋の心のつぶやくものを」と詠んだ歌がある。

なかなか風情があっていい歌だ。ここでいう地獄谷とは、登別温泉の「地獄谷」の事である。

ところで昨日出された、登別の防災マップ案を見て驚いた。

我々の住む地域に「登別火山」なるものがあって、これは活火山で、将来の噴火の危険があるというのだ。

考えてみれば温泉地に火山があることは当たり前で、ないのに温泉が湧くわけはないが、「登別火山」という言葉は始めて聞いた。

じつはこれは、観光名所になっている地獄谷や大湯沼、一帯の総称とのことである。

今日はこの二つのうち、大湯沼の画像を掲載してみた。

最近の噴火は200年前ということであるが、お隣の地域の有珠山は2000年に噴火している。

その際は、伊達市などの住民の方で、当市に避難された高齢者のサービス利用などにかかわったこともあるが、登別市民にとって噴火非難は、どうやら他人事ではなく、もっと身近に備えておく必要があるものであるらしい。

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車椅子 考。

車椅子というものは、歩行困難な方々の移動ツールとしては非常に便利なものである。

しかし、我々がよく間違えてしまうことは、車椅子を使って移動する方の、生活全てを車椅子に乗ったまま完結できると考えてしまうことだ。

例えば、食事である。
食堂への移動ツールとして車椅子を利用するだけでなく、食事中の椅子として何の疑問もなく車椅子を使ってしまうことが多い。

しかし車椅子の座り心地というのは、普通の椅子に比べて極めて悪いものだ。

それは一般的な車椅子の座面が座るという目的のためにできているわけではないことが原因だ。

車椅子の座面は「座る」ことより、「折りたためる」ことに重きを置いて作られているから、どうしても座位時に「たわんで」しまう素材で作られている。つまりそういう状態は、長時間座位には本来適していないし、ということは食事の際に座るツールとしても適していないといえるのである。

この座り心地の悪さを補うために、様々なクッションを工夫して使ったりするのだが、このクッションも使い方によって、背もたれや、フットレストとの位置関係が微妙にずれて、介護者に気付かないところで利用者の「座り心地」をますます悪くする、という例も多々見られる。

最近では、食事などの際には、車椅子から、普通の椅子に移動するという習慣を作っている場合も多いと思われるが、個別のアセスメントの中に、是非、座り心地を考慮した座位ツールの考察を入れてもらいたい。

ただ勘違いしないでほしいのは、あくまで個別にこれらの判断がされるべきで、車椅子座位のまま食事を摂る事が一律駄目だと言っているわけではない。我々の施設でも、椅子への移乗介助を勧めても、様々な理由で、あるいはその時々の気分で、それを拒む方がいるのも事実である。

大切な点は、その方の安楽な姿勢というものに、常に心配りがされているか。ケアの視点にそのことが取り入れられているか、ということなのであり、過程を見ないで結果だけを見ても、どうしようもない。

それと、車椅子に対して考えなければならないもうひとつの重要な問題がある。

それはブレーキの問題だ。

ごく当たり前のことであるが、車椅子は移動ツールであるがゆえに、車輪がついている。

しかし車椅子から立ち上がったり、あるいは車椅子からベッド等、他の場所へ移乗する際、この車輪がロックしていないと転倒の大きな危険因子になる。

つまり移乗の際などは、ブレーキがかかっていないと危険きわまりないのである。

これは何も下肢筋力に障害がある方のみならず、例えば我々が、何気なく車椅子に座って、そこからブレーキがかかっていないことを忘れて車椅子の肘掛部分をつかんで立ち上がろうとしたとき、車椅子自体が動いてしまえば、よろけてしまうことでも実感できる。

ブレーキのかけ忘れた状態で、立ち上がったり、移乗したりすることは誰にとっても非常に危険なのだ。

が、しかし、ブレーキのかけ忘れ、というものは完全に防ぐことはできない。

何も認知症の方のみならず、見当識や記憶に障害がない方でも、「うっかり」することはあるわけで、とりわけ高齢者においては、ブレーキかけ忘れによるインシデントは日常茶飯事である。

じつは介護用品の中には、このブレーキのかけ忘れに対して座面からお尻が浮いたら車輪のスポーク部分をロックする形でブレーキが自然にかかるものが販売されて(当施設でもこれを利用して転倒防止に繋がっているケースもある)いるのだが、いかんせん値段が張る。

毎年、全国で、ブレーキかけ忘れによる転倒事故が何件あるかわからないが、決して少なくないはずである。

車椅子メーカーは、そろそろこの危険にもっと目を向けて、車椅子のスタンダードの中に、自動ロックのシステム(一般化されれば、それほど複雑な機器ではないし、低価格に押さえることもできると思える)を取り入れてよいのではないだろうか。

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夜間のポータブルトイレ利用は生活の質の低下か?

昨年11月16日のブログ「まな板の上のmasa」で報告したが、今年度の介護支援専門員現任研修に、ケアプラン作成、モニタリングの演習事例の発表者として参加した。

その際、ケースの主要なテーマから外れた部分で、会場から複数・共通の指摘と質問を受けた。

それは排泄ケアに関する部分で、今日はその際のことを、昨日のブログの引き続きのテーマとして書いてみたい。

当該ケースの対象者は90代の女性で、廃用性の下肢筋力低下で、数メートル程度の歩行は体幹を支えて可能だが、日常の主たる移動手段は車椅子を使用し、日中はコール対応でトイレ排泄介助を行い、ほぼ失敗なくトイレで排泄できているものの、夜間をポータブル対応で排泄ケアしていることに対しての疑問である。

当該ケースの主要テーマは、認知症の出現による心気症状等の問題に対するケアであるが、排泄に関しては、特に問題ないと考えていた。

夜間は、習慣化している眠剤服用があるが(一度やめたが本人の不安感が強く、極弱いものを服用継続している)、朝まで2回ほど目覚め、その際にコール対応でポータブル排泄介助を行なっているものである。

しかし質問者には、トイレで排泄できる利用者を、夜間という理由で、ポータブル排泄を行なっているのは「生活の質」の低下に繋がるのではないかという疑問があったと思う。

しかし、これは介護側の都合で「ポータブル介助」としているわけではない。

安易なポータブル利用によりトイレでの排泄機会をなくすようなことは問題外だが、こと排泄ということに対しては、個人毎の諸事情、状態と「夜間」という状況部分に目を向ける必要がある。

身体に障害がない人が、排泄感で夜間目覚め、トイレで排泄する、という場合は、排泄感=排泄行動に即結びつく。

しかし身体に障害がある方の場合、排泄するために目が覚め、そこから排泄動作場所に移動するために、移動手段である車椅子への移乗という行為を行い、さらに車椅子を操作し(あるいは車椅子を押してもらい)排泄場所まで移動し、そこでさらに介助を受け、便器に移乗するために立位をとり、その際下衣を下ろす介助を受け、そしてやっと便器に座って排泄する、という手順になることは誰が考えてもわかるだろう。

さてここで日中と夜間の違いを意識していただきたい。

まず覚醒時の感覚と、寝ている場合の違いで、移動時間中に排泄が間に合うかという問題も出てこようが、それよりももっと大切な視点があると僕は思っている。

つまり一連のトイレへの便器へ移動する、という行為の中で、すっかり目が冴えてしまわないか、という視点である。

これは以外と重要だ。

いつでもどこでも眠ることができる人には、なかなか寝つけない方の悩みはわからないだろうが、高齢者にはこうした悩みを抱える方が多い。

できれば排泄の介助行為が、睡眠を妨げない状況で行なわれるのが望ましい、という視点でケアカンファレンスが進行される必要もあるのだ。

ましてやオムツへの排泄を強いるわけではない。

夜間の2度程度の排泄を、トイレでなく、ベッドサードのポータブルを利用したとて、生活の質の低下といえるだろうか。決して、そんなことはないはずである。

トイレで排泄することの重要性は十分承知しているが、それも時と場合の問題である。

いつ、いかなる状況でも、トイレで排泄することが絶対ではない。この方にとって、夜間のポータブルトイレでの排泄は、必要で適切なケアスタイルだろうと思っている。

大事な点は、介護者の価値観を絶対的なものとして、利用者に押し付けないことだ。

この場合はトイレでの排泄が人間の生活の質として考えるとき、最良の場所という価値観だ。

頑張る場所では頑張ってもらってよいし、頑張れる状況を作ることも大事だ。しかし人間は頑張ってばかりいられないということを忘れてはならない。

ましてや夜間の排泄がトイレで行なわれないことのみをもって「頑張りが足りない」なんていうことにはならない。

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新年雑感。

明けましておめでとうございます。

今日は今年の仕事始めで、午前中は園内の皆様に新年のご挨拶に回った以外は、ケアカンファレンスを2ケース行なうなど、普段と変わらぬ業務で時間が過ぎ、昼休みにこのブログを書いている。

正月休みは4日間(31〜3日まで)、実家に帰って過ごした。

昨日自宅に戻ったのだが、登別は大吹雪で交通渋滞に巻き込まれたほか、家にたどり着いても、雪の中から家を掘り出さないと玄関も開けられない、車も止められないような状態だった。そんななか、二人の息子が除雪作業の戦力になることに対し、有難く感じると同時に、時の流れの速さを感じるこのごろである。

さて、正月といえば毎年、箱根駅伝を楽しみにしている。

とはいっても(テレビ解説の)瀬古が2区を走っていた時代は、あまり知らない。現・大東大監督の只隈が3年で2区区間賞をとった時代以降のファンである。早稲田では櫛部、武井、花田、小林に加え、渡辺康幸(現監督)というスターがそろっていた頃が懐かしい。

今年もまた様々なドラマがあった。8区での順大、難波君の脱水が最大のドラマになってしまった。

しかしレース後、仲村監督が「計算外だった。まさかまた同じことをするとは…」「もう一人メンバーがいたのに経験者を使う判断をした。ちょっと情に流された部分もあった」というマスコミへのコメントはいただけない。

結果的にこのコメントは、ただの個人攻撃に聞こえるではないか。

スポーツ選手として結果が全てであるといえるかもしれないが、母校の名誉を背負って精一杯の努力をしてきた選手が、20キロ以上走るレースでは、いろいろなことが起こり得る。

チームの監督とは、チームを強くするだけでなく、失敗した選手の心をもフォローする存在であってほしい。少なくともマスコミに発言する内容ではないだろう。心無い一言が後味の悪い大会を印象付ける結果にしてしまったように感じる。

話は変わるが、この年末年始、我が施設の利用者で、自宅に帰られ過ごされた方は、8名である。

年々、自宅に戻られる方が減っているように思う。それぞれに事情があるが、しかし多くの利用者から聞かれる言葉は「家は寒いから」である。

つまり「帰れない」というより「帰りたくない」方も多いのだ。

昔のように隙間風が入って寒さに震えるような住宅はほとんどないし、部屋は暖かいはずである。

しかし例えば、トイレが寒いなどという状態はまだ多い。我々健常者が排泄する時間と、障害を持った方が排泄にかかる時間には、かなりの差がある。

この差を理解できないと「トイレの寒さ」による困難要因を理解できない。我々にはほとんど障害にならない状態や状況が、麻痺があり介助を要す方々には「生活障害」となる場合が多いのである。

在宅で生活している方でも同じであろう。ただ単に生活スペースがバリアフリーになっているかどうか、という視点のみならず、生活場所として、どのような不便があるのか、という個別状況に目を向けないと正しいアセスメントにはならない。

居宅介護支援に係るケアマネージャーの皆さんには是非、この視点を忘れずにもっていただきたい。

実は施設のケアサービスを考える上でも、このこと(障害による不便さ)を忘れてしまうことは間違ったサービスプランを導き出す要因になるのだ。

明日はこのことを施設の排泄サービスのプランの具体例から考えてみたい。
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Funny Memory 〜1978年の暮れのこと

0d7f0dab.jpg今年もあと数時間を残すのみになった。

今年もいろいろあった1年で、忙しい年であったことはここ数年変わらないが、特に今年は地域のケアマネ会の代表という肩書きが増えた分、プライベートの時間が減った。

そんな中、1年、いろいろ思い出すこともあるが、今、変に思い出すのは27年前の大晦日である。

なぜか。
その理由は、私の今までの人生の中で、体調が最悪な状態で迎えた大晦日が、今年(12/25からの発熱がまだとれない)と1978年、18の時の大晦日だったからである。

たしかその年は夏にサザンオールスターズがデビューし「勝手にシンドバット」が大ヒットした年である。
年末も「いとしのエリー」が流行っていた。

その年の瀬、受験生であった僕も、年末年始くらい羽をのばそうと、友人の車に乗り込み(高3の暮れ、免許と車を持っている友人もいた:もちろん学校に知れれば停学間違いなしである)夜の岩見沢(地味〜)の2条通りを流していた。
夜も深くなりかけたころ、妙な寒さを体に覚えた。

「寒くねえか」(僕)
「なんも」(友人)と僕を見つめた友人の顔が引きつる!!
「なんだお前の顔」

もともと、さしてルックスに自信があるわけでもないが、そいつに顔のことを言われるほどひどくもないと思っていた僕は一瞬むっとしたが、ルームミラーに映った自分の顔を見て愕然とすることになる。

ひでえ〜!!なに、このぶつぶつ、自分でも気持ちが悪かった。

おびえる友人は僕の家までマッハで飛ばし、僕をおろして走り去るのであった。

生涯初体験、大晦日によりによって「風疹」を発症したのだ。おかげで大変な正月であった。
当時、救急外来といっても風疹程度で受診してよいかわからなかったし、どこが救急外来かもわからず、4日間で自宅でうなっていたように記憶している。

懐かしき青春時代である。

今年も様々な新年の迎え方があるだろう。
我が施設でも年末年始に関係なく働いているスタッフがたくさんいる。

それら全ての方々に、この1年の感謝を心より述べると共に、全ての人々にとって来るべき新たな年に幸多かれと願いたい。

今年も大変お世話になりました。3が日はブログもお休みしようと思います。
masa

年の瀬や〜この国のかたち

このブログを立ち上げたのは11/9である。

今日まで2日(だと思う)休んだだけで、毎日書き続けている。
それを毎日100人、200人、多い日には500人を超える皆さんに読んでいただいている。掲示板と違って、Blogの来訪は1日1回というパターンが多いだろうから、これは少なくない数字だと思っている。

さして面白くもないであろう僕の一方的意見を毎日のように読んでいただいてありがとうございます。

いつまで続けられるか、何を書いていくかも考えていません。

書くことが苦痛になったらやめようと思う。誰かが読んでいるという意識も特になく、自分自身や、できれば自分の子供が、数年後に今の僕を読んでくれることを少しは意識しているかもしれないが、別に飾るつもりも、背伸びするつもりもない。

思いを、独り言を、こういう形で綴って、ネットを通じて多くの方に読んでもらえる社会は本当に便利になった。しかし、同時に、紙に書く情緒や、その苦労を楽しむことを失ってしまっているのが現在なのかもしれない。

不幸とか幸福とか、形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。

だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、誰も答えは出せない。

ただ世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。

同時に、少しだけ、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったり、そういう状況や人が増えているような気がする。少しずつ「優しさ」が失われているように感ずる。

この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、優しさが失われていくことに対して「それは違う」という声を出し続けよう。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではない。

ヒルズ族が注目され、瞬時に数億単位でお金をもうける人がいる社会であると同時に、年数万円の健康保険料が払えないために医療機関の受診が遅れて命を落とす方々がいるこの社会を、この国の為政者たちは世界に向けて「先進国」であると言えるのだろうか。

せめて時の為政者は、社会のひずみや影の部分に目を向けるものであってほしい。

光り輝く部分は、誰にでも見ることができるのだ。

そうでないところを見て、暖めてくれる存在がないと、人の生きる路には、険しさしかなくなる。

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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方4

794681ff.jif北海道でも雪の少ない地域であるはずの当市も、今年は例年以上の積雪である。

施設周辺もご覧のとおりで、毎日の雪かきが欠かせない。デイサービス送迎担当者は毎朝早くから、駐車場の雪をかいてバスを出している。居宅で待つ高齢者の方も、様々な手段で道路までの路を確保せねばならないのが雪国の厳しいところだ。

しかしそういう厳しい自然環境であっても、故郷ほど住みよい場所はない。
そして、どんなに身体状況が変化し生活が不便になっても「家」で生活したいという思いは、ごく当然なことなのだ。

だから我々は、様々な事情で家で生活できない方々に対し、それに近い環境や「安らぎ」を与える義務があるのだ。

さて、そのことも踏まえた上で、昨日までの続きであるが、そういう「生活への思い」をも具現できる、機能訓練活動の意味について考えてみたい。

当施設では、平行棒での歩行訓練や視知技能と手指の訓練を週1回のペースで行っている。

しかし週1回の歩行訓練やOTなど本来さほど意味があるものではないし、訓練室でしか歩行できず、生活行為と結びついていない能力も意味を持たない。

つまりこれはあくまで利用者の動機付けや、やっているという自信に繋がるものであったり、自分の能力の確認という意味があったり、それぞれの利用者の状態や希望に応じた補完的メニューとして行われるもので、参加も強要されるものではなく、自由意志に基づいて楽しめる方が参加するという、機能を楽しく使いながら健康を維持しようという取り組みの一つに過ぎないのである。

そして、それに加える形で毎日の生活の中に立位や歩行訓練等を日課として組み入れている方も多いが、それもあくまで利用者の生活に密着した形で、その希望に沿った内容であることに主眼を置いているものである。

つまり最も重要なことは、個々の持っている能力を、いかに苦痛でなく自然に使うことができる生活様式が確立できるかという点に注目して必要な機能活用の視点を個々のケアプランに落としてケアを提供することであり、例えば身体能力の衰えに最も影響がある下肢筋力は、毎日の暮らしの中で、立ったり、歩いたりする行為を、できるだけ失わないようにケアサービスが提供されることが重要である。

車椅子を移動の手段としている利用者にしても、本当に車椅子でしか移動ができないのか、場面に応じて介助歩行が可能にならないかという視点は常に必要で、介護者の側の都合で移動のツールが車椅子に限定してしまい歩行機会を失わないようにする視点、できる機能を有効に使える介護の方法が必要とされているのである。

今、施設サービスの中で取り組みがすすんでいるユニットケアやグループケアは、こうした個人への目配りがしやすく、そうしたニーズに容易に対応するための方法論の一つなのである。

加齢に伴う病気の発症や病態の変化、重度化自体を止めることはできないが、個人に着目したきめ細かなケアを展開することは当然のことながら個人の状態変化にも即応できる視点が育つし、身辺の保清にも気配りがされやすく、病気の早期発見や感染症予防に繋がる可能性を持ったものである。

例えば昨今、介護予防に重要といわれるフットケアにしても、その内容は「消毒、ゾンデによる角質除去、ニッパーによる爪切り、ファイル(やすりがけ)、マッサージという一連の技術』ということから医療的な行為に思われがちであるが、しかしその必要性は「高齢者はつめの伸び過ぎや深爪により、炎症や足の変形がある人が多い。歩行の不安定や転倒の危険につながっている」ということで、それに対する本来の意味のフットケアの基本的な考え方は、そういう状態になる前に気付いてケアする「快適支援」であろうと思える。 

こう考えたとき入所施設に限らず高齢者の健康維持や状態像の悪化を防ぐ支援とは、常に利用者の体の状態に目配りして快適で正常な状態に保たれるよう対応できているかが重要な要素であり、利用者の重度化予防の手段は目配り気配りが行き届いた高品質なケアサービスそのものに求められるべきものであるといえるのではないだろうか。

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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方3

高齢要介護者の介護予防において大切なのは、実は、機能を良くしてから生活改善を図るという視点でなく、生活を良くする取り組みの中で、利用者の喜びや意欲が生まれ、そのことが機能改善や維持に繋がるという視点である。

4月から始まる新予防給付にこの視点が欠けてはいないだろうか?

それはさておき、具体的な話に戻そう。

現在様々な場面で、筋力トレーニングを含めた機能訓練メニューが重視されているが、これは果たして生活改善、機能維持に最も効果があるメニューになり得るのであろうか。

少なくとも昨日のブログで述べてきた状況や視点からは、我々の施設の中で、それは機能維持や生活改善に繋がるような主要なメニューにならないと考える。

もちろん機能訓練自体を否定するものではないが、まず機能訓練ありき、ではなく、個々の利用者の能力が生かされる暮らしを作る中で利用者は自ら持つ能力や機能を生かすことができ、生き生きとした生活の中でこそ、様々な意欲が持てるのである。

逆に、訓練によって機能を維持しないと、良い暮らしが実現できないという立場に立つとしたら、そうした考えが重荷にならないで数十年の生活を継続できる強い人間はそう多くないであろう。

大事なことは、機能訓練というメニューでさえも、気楽に楽しく、生活と結びついた状況の中でごく自然に行われる、ということである。なぜなら特養は10年20年〜というスパンでの「暮らし」の場なのであり、嫌なこと、痛いこと、面倒なこと、は続かないし、効果を生まないのである。

具体的に言えば、当施設には専任のPTやOTはおらず、訓練指導員は看護師が兼務し、機能訓練加算の算定は行っていない。

その中で例えばボールゲームや風船バレーなどのいわゆる遊びリテーションや療育音楽、回想法などのグループワークを選択メニューとして日課活動に取り入れているが、要は「心が動けば体も動く」という具体策が展開されることが必要なのであり、逆に言えば「心が動かなければ体も動かない」ということである。

今日、施設のケアの提供体制の「集団的処遇」が槍玉に上がり、脱集団処遇と個人の生活行為を中心とした個別ケアの視点が重視されケアの方法が「プログラム化」から「生活支援型」に転換されつつあるが、グループワークが一律、個別性や主体性を軽視したプログラムと考えるのは間違いであり、それに選択性があり、個人のニーズにマッチして動機付けや、意欲の向上につながるのであれば自立支援や生活改善に有効なツールであることに変わりはないし、廃用に対する対策にとどまらず、認知症の方への意欲引き出しや生活改善にも繋がるツールになり得るのである。(明日に続く)

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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方2

昨日トラックバック先のリハビリの考え方が違うというようなことを書いたが、どうやらそれは私の誤解らしい。リハビリの本来の意味が全人格的復権を意味しており、単に身体機能の回復に特化していないという点については同じ理解と思われる。

さて、それでは我々がアプローチせねばならない高齢者の自立支援の意味とは何なのか、より具体的に考えてみたい。

当施設における利用者属性を考えてみると、本年4月の利用者の平均要介護度は3.76となっており、重度介護者が多くを占めている。

そして利用者の8割超の方が脳血管障害等の後遺症で四肢の様々な部分の麻痺や筋力低下を抱えており、それはいわゆる症状固定の状態であるとされている。

また平均在所日数は1789日となっており、このような在所期間の長期化は同時に平均年齢が85.73歳という在所者の高齢化の進行となって現れ、後期高齢者が大半を占めている現状を生み出ている。

85歳を超える方の4人に1人は生活に支障のある認知症状が出現するといわれるが、当施設においてもこのことは例外でなく、認知症の方が5割を超える状況を生み、それは「廃用症候群モデル」に該当しない層が多くなり機能訓練が重度化阻止の有効なツールにならないという状況を生んでいる。

 さて高齢者が要介護状態となるリスクは、加齢と疾病が最大要因で、原因疾患は1番目が脳血管障害、2番目が高齢による衰弱、3番目が骨折である。すると当施設の現状を考えたとき、それらのリスクをすべて抱えた高齢者の方々が生活していると言えると同時に、既に要介護状態が重度のレベルにある高齢者がその大半を占めている現状がある。

ではこうした状況の中で加齢に伴う状態像の悪化を防ぐために、あるいは現在の状況をより改善するために、どのような取り組みが必要なのであろうか。

介護保険制度改正における一連の議論の中で「介護予防」という考え方が注目を浴びている。介護予防とは、できるだけ介護が必要な状態とならないための取り組みや手段を指したものである。

しかし前述したように、当施設の現状では、利用者は既に介護を要する状態で、その症状は固定的に経過しており、かつ生活全般に広範な援助を要す状態である利用者が大半で、これらの方々が介護を要しない状態になるという意味での介護予防の考え方は当てはまらないであろう。

むしろいかに様々な心身機能の悪化リスクを防止して、現状の機能を保ちながら生活状況が悪化しないかということが我々の施設における介護予防の考え方であるといえる。しかしそれは単に要介護度の変化に限定して考えるべきものではない。要介護度というのは心身の状態像を表す尺度の一つに過ぎず、それだけに捉われると「生活の質(QOL)」を含めた生活者としての個人の状態像を正確に捉えることができなくなってしまう。

そこで我々介護者が施設における介護予防を考える視点は、様々な障害を抱えていても、生活者として利用者が生き生きと自分らしく暮らせることというはどういうことなのか、そのためのケアサービスのあり方とは何かという視点が必要になる。

我々は一般的に要介護度が5から4に下がった場合、身体機能や精神機能に改善があったものと考え、生活状態の変化や改善が心身機能の改善によりもたらされたものと考える傾向にある。逆に介護度に変化がなかった場合、生活状態も含めて状況変化がないと考えがちである。

しかし果たして、そうであろうか。

例えば、排泄について考えてみると、要介護度に直接結びつく基準時間に繁栄される排尿や排便の該当調査項目は、自立・一部介助・全介助の3項目である。

しかしオムツを使用し、トイレ誘導することなくベッド上でおむつ交換等の排泄介助を全て行っている場合は全介助であるが、排泄感覚は薄れていても定時誘導や声かけで失禁なくトイレでの排泄ができている場合も、トイレへの移動、便器への移乗やズボン・パンツの上げ下ろしの介助、排泄後の後始末など一連の行為のうち2項目以上の介助行為が行われておれば、これも全介助となってしまう。

つまり両者の要介護度に反映される介護の基準時間は同じということになってしまうのである。

この場合、実際の介護の手間としては前者より後者の方がより多くの労力を要する介護であるといえるであろう。

しかし、ここで考えるべきことは、そういう介護力をかけることにより、トイレで排泄できるという事実であり、トイレで排泄できる生活が継続できることの意味である。これはオムツによって全ての排泄ケアが完結されてしまう生活と明らかに質的差があるといえる。

ただしこの違いは要介護認定調査の基準時間には反映されず、この部分の変化のみによる要介護度の変化はないということである。

食事にしても、例えば嚥下機能に問題はないのに歯の状態や咀嚼能力を個別にアセスメントすることなく、食べやすさの観点のみで厨房から刻み食という形態にして提供し、元の形がわからないものを自力摂取すれば「自立」となるが、食べ物の形がわかるようにお膳には自然の形で配膳し、食堂の食卓において、まさに食べる際に、その方の摂取能力に応じて魚の身をほぐしたり、副食を食べやすくして自力摂取してもらった場合は「一部介助」とされ基準時間も長くなる。

そして、それにより介護度がより高く判定されるということがあり得るのである。

しかし形あるものを意識して食事摂取することは重要で、精神面への影響も大きいと思えるし、何より食事の楽しさや喜びは比較にならないであろう。

私たちが施設の中で、利用者の生活援助に関る中で、こうした生活行為と密着した部分の見逃されがちな小さな改善を積み重ねることが、個人の意欲や希望に結びつく介護予防であり、廃用症候群のみならず認知症の高齢者の方の機能維持にも繋がるケアといえるのではないのであろうか。(明日に続く)


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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方

昨晩から発熱して体がだるかったが、しなければならない仕事もあり無理して職場に出た。

午前中はなんとかもったが、いよいよ調子が悪くて早退させてもらった。
薬を飲んで3時間ほど寝て、少し調子が良くなったので自宅で仕事をさばいている。

そんな状態だから、今日は掲示板の管理とレスポンスだけにして、ブログの投稿は休もうと思った。

しかし昨日の「走りながら考えた」のトラックバックをしてくれた方のトラックバック先の考え方を読んで、少しこれは違うな、と感じた。

「介護保険は自立支援の制度だからリハビリを全面にださねばならないのに、その進めかたがわかっていないからこの制度は失敗している」という論調だ。

それは全然違う。

むしろ自立支援の考え方が、加齢という身体状況変化や疾病の出現という状況変化の中で、その意味をどのように捉えて、生活力の低下を防ぐ介護サービスのあり方について考える、という視点に欠け、自立支援=機能回復訓練という誤った見方をするケアマネ始め、関係者が多いことが間違いの原因なのだ。

リハビリテーションの導入や進めかたがわからないから制度がうまくいっていないわけではないのであり、むしろ「自立支援」というキャッチフレーズ自体が正しかったのか、あるいは、そのキャッチフレーズが高齢者の生活課題を限定的にして、生活の質の向上という大事な要素を見失わせた可能性はないかという考察が必要なのである。

特にこのことは後期高齢者、重介護者の自立支援の視点から考えれば理解できると思うが、もし自立支援=機能回復訓練であるとすれば、回復可能性が低い、機能改善の可能性が薄いケースは制度の対象とならないということになりかねない。

決してそうではない。

ここは、自立支援の正しい視点について考えなければならない。

このことを(今日は体調面で限界なので)明日以降、夏に日総研の冊子に書いた「施設入居者の自立支援」に書いた考え方をまとめる形で、ここで示したいと思う。

明日まで少し待ってください。

介護・福祉情報掲示板(表板)

走りながら考えた。



タイトルは宮城県の浅野知事が福祉新聞連載していたコラムのパクリである。

しかし当時、このタイトルを見て「やられた」と思った。

毎日走っているのは僕だ!!走りながら考えているのも同様だ。

しかし冬のジョキングは厳しい。まず寒さ対策にトレーニングウエアの下にインナーを着け、野球の練習用の汗取りをばっちり着こんで、頭には毛糸の帽子をかぶる。

しかも一番の難敵は雪道である。とにかく滑る。特に普通のジョキングシューズでは前に進めない。冬用のスノトレを履き、夏場の2/3のスピードで、大地をしっかり踏みしめながら走っている。

冬でも、うっすら汗をかくまで走るが、息が上がるところまではいかない。

この年でも、全国の老人福祉施設の職員マラソン大会があれば上位に入るだろうなんて思いながら走っている。

野球の現役選手の頃からだから20年以上走っていることになる。

その間、制度やケアの中身や、施設のハード自体、周辺環境、様々な変化がある。

変わらないのは、自分が走っているという事実と、走りながら、明日の仕事や、仕事上の問題や悩みを考えつづけていることだけである。

しかし考えても考えても、どうしようもないことが多い。でもやらなきゃあならない。

介護保険制度のように「走りながら考えて」おかしなものにしてはいけないのだ。

しかしこの制度は、この5年間「走りながら考える」といいつつ、実際には「転びながら考え」、その行く先は、給付費をいかに減らすか、という1点に重要ポイントが絞られ、誰もが安心して暮らせる「老後」へのビジュンが全く示されなくなった、というおかしな制度になりつつある。

継続できる制度であっても、人に優しくない、人を救えない制度であれば継続する意味がないだろう。金持ちしか楽な暮らしが出来ないような制度ならいらないのだ。

そんなことを考えながら、さあ今日も走るぞ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

過去に向って歩きつづける人々2〜認知症の理解

現場で認知症高齢者の方々と接した経験がある方ならよくわかると思うが、徘徊行動がある方が外に出ようとしたり、歩きつづける理由で男女共通で多い理由は「家に帰る」ということだが、そのほか男性の理由で1番多いのは「仕事に行く」女性の理由で多いのは「買い物に行く」である。

これをよく考えてみると、男女で一見違った理由で歩いているように思えるが、良く考えてみると女性の「買い物に行く」というのは一家の主婦としてもっとも重要な仕事である「買い物」という意味ではないかと考えられる。

つまり「仕事に行く」と「買い物に行く」は同じことなのである。

徘徊する高齢者は、自分が一家の主あるいは家庭を守る主婦として、それぞれに「役割」をもって家族を支えていた過去に戻って歩いているのである。

今現実にある自分の姿が、あるいは自分の置かれた状況が、本来の自分の姿ではない、と感じることから始まって、自分がもっとも自分らしくいられた過去に頭の中の時計を戻し、それを取り戻せる場所に向って歩いているのだ。

つまり、いまいる現状を否定したくなる現実があり、そこから逃れる為に時間を戻しているのだ。だから徘徊行動は異常行動ではなく、それぞれの高齢者の自らの「小さな危機」の訴えであると考えられる。

その訴えのサインをきちんと受けとめて寄り添わないと、認知症高齢者はいつまでも現実に戻ることはない。

誰にでもプライドはある。認知症の高齢者にも、プライドはあるのだ。彼らの自尊心がいたずらに傷つけられるとき、彼らはそれに抵抗するすべを持たず、ただ安心できる場所を求めてさまようことになる。

それは例えばものをなくして見つけられない自分、そして失くすことを他者からなじられたり、怒られたりする自分であるかもしれない。物を無くしたことを忘れる自分は信じられないから「盗られた」というのであり、これを単なる「盗られ妄想」なんていって欲しくない。

かれらがそれを否定する現実を受け止めてほしい。

おしっこを漏らしてしまう自分を受け入れられないことで、徘徊行動に結びつく高齢者も多い。

おしっこを漏らす自分は自分自信ではないと思う。だから「あいつ寝ているまに水をかけた」とか「人におしっこをかけられた」というんだ。これだって妄想ではない。自尊心の叫びなのだ。

このとき失禁する自分を受け入れられない高齢者の前で、介護者が失禁をなじるとしたら、これは居たたまれない気持ちになるのは想像に難くない。

他者が受容できないことを、何故高齢者だけに受容すれというのか?

介護者の関わり方は、高齢者の精神のありように関わってくる問題だ。

失禁したからといって人間失格なんていうことはないんだ。数度の排泄失敗は、そっとフォローすれば済むじゃないか。

受容とは、その方が今、どういう状況にいて、何を考えているのかを共に考え悩みを共有することだ。答えなんてすぐ見つけなくていい。見つけられなくていい。共に考えることから全ては始まる。

僕達は天使でもなければ、天使のような心を持つことも出来ない。でもその必要はないんだ。普通の人間として、共に悩み、ともに歩み、共に生きることが大切なんだ。

認知症高齢者のケアだからといって特別なことは何もない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

過去に向って歩きつづける人々1〜認知症の理解

認知症の高齢者の特徴的な行動のひとつに徘徊がある。

徘徊とは辞書を引くと「目的も無くうろうろ歩き回ること」で異常行動のひとつとされている。

しかし認知症高齢者の行動への理解を考えるとき、異常行動にも必ず、それぞれの方にとっての理由があり、その理由に対しアプローチすることが重要だと言われている。

つまり彼らの行動は決して無目的ではないという理解が大切だということである。

徘徊する高齢者の口にする理由の代表的なものとして「家に帰る」という言葉がある。しかしそれは施設に入所している方が外に出て行くときに限って口に出す言葉ではなく、自宅で生活している認知症高齢者の方でも「家に帰る」と外に出てしまう場合が多い。

つまりこの場合「その理由に対しアプローチする」ということは、表面的に口に出されている「家に帰る」ということにのみ囚われてしまっては何の解決にもならないことを示しているのだ。

「家に帰る」という意味をもう少し掘り下げなければ、歩きつづける高齢者の理解は困難だ。

僕はこのことについて「家に帰る」という認知症高齢者は「家に帰る」という表現で、本当に自分らしい自分がいられる場所としての「過去」に向って歩いているんだと結論付けている。

今、置かれた自分自信の状況が、彼らにとって「本当の自分ではない」と感じてしまうから「そんなはずはない」と感じられるから、本当の自分がいる場所を求めて彼らは歩きつづけるんだ。

ではそのような状況が何故起こるのだろう。

そのヒントとして考えられることは、男性と女性で歩く、あるいは外に出ようとする理由に特徴的違いがあることが挙げられる。もうお気づきの方も多いだろう。男性はどういって外に出ますか?女性はどうですか?

この答えは明日書くとして、今週末は、認知症の方々の徘徊を中心にした行動パターンから、ケアの方法、付き合い方の方法を考えてみたい。(明日に続く)

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栄養ケアマネジメントの向こうにあるもの。

週始めに栄養ケアマネジメントの研修に参加してきた。

実は我が施設ではまだ栄養ケアマネジメントを行なえる条件にないため、この加算算定は行なっていない。

しかし早晩、実施を行なう必要を感じているし、その際、栄養ケアマネジメントの旗振り役を管理栄養士に丸投げするわけにはいかず、むしろ通常は施設のトップ(施設長)が旗振り役になる必要があると考えており、替わって現場のトップである私自身が参加してみた。

このことはひとつ大事な視点である。

栄養ケアマネジメントが実効性のあるものになるためには、現場の多職種協働が必須であり、施設のリーダーシップをとれる立場の者が旗を振らねば、管理栄養士だけが「加算を得る手段」としての書類上のケアマネジメントを行なうだけに終わり、そのことがケアサービスや利用者の健康管理に生かされない状況が生まれるし、管理栄養士の燃え尽きや、不完全燃焼に結びつきかねない。

さて栄養ケアマネジメントの方法論を、ここで長々述べるつもりはない、それは各施設が示された 書式 などを参考に、独自にルーチンワークとの絡みで考えるべきだ。

ただ私が迷っていたのは、栄養障害のリスク管理に「血清アルブミン値」を取り入れるか否か、この点もひとつテーマとして考えていた。結論から言うと、ただ単に12単位を算定するための栄養ケアマネジメントであればBMIを主眼点としてみることで、大きな問題はないと思えるが、このマネジメントを利用者の健康管理に実効性があるものとして生かそうと思えば「アルブミン値」は必要なデータだ、ということである。

BMIで低リスクと判定した何割かは、血液検査で高リスク、中リスクと変わる現実は無視できない。

幸い我が施設では毎月検診の一環として全員の血液検査を行なっており、項目を増やしてアルブミン値を測定してもらえば済むことなので早速実施することにした。

アセスメントからスクリーニング、計画の策定のモニタリングまで、非常に膨大な作業があるわけだから、これを形式的な加算算定に必要な作業とするのはもったいない。

むしろ管理栄養士が単に献立を立ててカロリー計算する人、という誤った認識を改めて、健康管理に重要な役割を持つ専門家として再認識できる良い機会だ。

このマネジメントを数年前から試行的に行なっている施設では入院者の割合が激減したというデータもある。1施設のデータはエビデンスにはならないが、こういう可能性は大いに考えられるのだ。

すると栄養ケアマネジメントが生かされれば単に12単位を算定できるだけでなく、入院者が減り、給付費の減額も防げるという経営面での別なメリットも考えられるのである。

なにより施設利用者の方が、楽しく適切に栄養摂取できるという喜びに変えられるものはない。ケアサービスの品質管理面でも有効だ。

ただし、問題は一連の栄養ケアマネジメントの評価の後にくるであろう、では何をどのように食べるかという「食」そのものに対する視点である。

生きるためにサプリメント的な栄養摂取のみで「生かされる」という馬鹿な状況を生み出しては困るのである。

ここは考えどころだ。

食は見た目も、味も重要なのだ。栄養障害のリスクがある方なら、なおさら、食べるということそのものに何らかの障害要因があることが考えられるのだから、ここをどのように考えるか、という点で生活の質が左右されてしまう。栄養剤を補給すれば良いという問題ではないのだ。

そういうことから考えると、現在の施設の給食のあり方、そのものに見直しが及ばねばならない。

見るからにまずそうな刻み食や流動食は改善しなければならない。その方向がソフト食であるかどうかはわからないが、栄養ケアマネジメントの重要な課題は、あの示されている書式の使い方ではなく「食」そのものであることを現場の栄養士の皆さんには理解してもらいたい。

食べることは「生きる」ことだし、生きることは「喜び」であるはずだ。

苦しみの「食」では意味がない。

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老施協の多床室報酬に対する解せない姿勢。

昨日に引き続いて介護報酬の新単価の改訂論議について語ってみたい。

施設報酬±0%がまやかしだということも昨日書いた。
特にユニット型居室単価上げ、と従来型多床室下げでバランスをとるおかしさを指摘した。

しかし老施協の12/14付け「JS WEEKLY」を読むと、このことについて

「ユニット型個室等と多床室との報酬水準の見直しなど本年10月の介護報酬改訂に関連した課題への対応、経営状況等を踏まえた見直しを行なう」としている、

このようにしか触れていない。

この記事を読む限り、あたかも現行の報酬の国が言う「ねじれ現象」とか「逆転現象」とかいうおかしな論理に老施協も乗っかって多床室報酬が「10月改正時に積み残した課題」であることを肯定しているようだ。

つまり多床室の報酬を人質にとって、これを下げる見返りに、ユニット型の報酬単価を上げることを認めているようなものだ。

こんな馬鹿な話があるものか。

もともと介護報酬はケアサービスの対する対価であり、多床室も個室も、自己負担+介護報酬の総額が変わらないのが基本である。アメニティの差を自己負担の多寡に求めており、多床室のアメニティの低さは、利用者の居住費負担の低さで差をつけている。自己負担が安くなっているのだから、総額が変わらない分、給付費用が高くなるのは逆転現象でもなんでもない。

そもそも部屋の体系により同一施設で施設が得られる対価に差があることがおかしい。
サービスの質的差は同一視説であれば部屋の形態による差はほとんどないはずだ。

要介護度が同じなら、同じ従来型施設であれば個室であろうと多床室であろうと自己負担+介護報酬は同額であることが筋だ。

逆に、多床室の給付費を下げてしまえば、自己負担+介護報酬の総額自体が同じ施設内の個室と多床室で差が出てしまう。介護サービスの質自体に両者に差がないのに、こういう費用差ができることこそ「ねじれ現象」だ。

しかも経過措置がある現在、個室であっても多床室単価で使わざるを得ない状況下で多床室の報酬下げは死活問題だ。ユニット型の報酬さえ守ればよいという姿勢は何か胡散臭い。

なぜ、老施協は多床室の報酬を守ろうとしないのか?何か理由があるのか、うがった見方をしたくもなる。(この部分は想像になるので書けないな!!)

ターミナルケアへの評価を求めるのは良いが、その前にサービスの基本となる本体報酬に対し、きちんとした質が担保されるような報酬体系であるような提言が必要だ。

ユニットケアの人質が、従来型施設のケアサービスであることは納得できるものではない。

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