masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

介護福祉士の上級資格を創設〜方向性が間違っていないか。

今日付けの読売新聞の報道によると、「厚生労働省は5日、重度の認知症患者などを世話し、介護事業で指導的役割を担える介護福祉士の上級資格として「専門介護福祉士」(仮称)制度を創設する方針を固めた」との事である。

その理由として全労働者平均給与より100万以上年収が低い現状から、介護福祉士の離職率の高くなっており、「業務内容に比べて賃金水準が低い」との指摘もあり、待遇改善により人手不足を解消しようとするものである。

しかしこれが本当に待遇改善、人手不足解消に結びつくのかと首をかしげている人のほう多いだろう。しかも介護福祉士の資格見直しの最中の状況資格の創設である。どのような意味があるのだろうか。

介護福祉士の地位向上、待遇改善が進まないもっとも大きな要因は、この資格が名称独占の資格で、業務独占になっていない為であろう。しかし業務独占とするのは、その資格取得過程が、看護師資格と比して、あまりに統一性や専門性に欠けている構造になっており、一方では専門学校を卒業するだけで資格が付与され国家試験が免除されている。一方、実務経験での受験の場合、国家試験合格が必要だが、専門的な研修が行なわれているとはいい難い。

看護師の養成、資格付与過程と比して上記の点で著しい差があるのが現状で、資格付与体系の見直しが行なわれ、国家資格や基礎研修を全対象者に義務付ける等の検討がされている最中での、今回の上級資格論である。

むしろ上級資格を作る前に、基礎資格の底上げ、社会的信用を担保する資格取得システムを構築した上での、介護業務への資格評価報酬の導入などを図っていくべきではないのだろうか。

実は昨年8月に僕は「介護福祉士の資格で情報錯そう? 」というブログを書いており、この中で

≪国家試験を全員に義務付けるという部分については既に、「ぽしゃった」という情報がある。しかもその原因は、ある組織の圧力によるもの、外国人労働者の受入れ問題と関連して、これを推進する観点から、国家試験を経ないで資格付与される道が残されるように動いている団体があり〜。≫

と書いたことがあるが、今回の上級資格者の問題も、外国人労働者の受け入れ問題と絡めて、外国人労働者は将来的に継続してわが国で介護労働に就く条件の一部に、介護福祉士資格の一定年限での取得が条件になっている為、この資格の取得難易度自体を高めるのはやめて、このハードルは低くしたままで、という意図があり、それに替わって別の上級資格を作ろうとするものではないかと考えてしまう。

同時に将来的に介護の基礎資格は介護福祉士に一本化してヘルパー資格をなくそうという議論がされていることの影響も無視できない。このためにもハードルを上げない、ということではないか。しかしこれは現場のニーズにも、国民ニーズにも合致した考え方ではないと思う。

上級資格ができた場合、介護福祉士資格というものは、どのような価値があるのだろうか。非常に危惧されるところである。

しかも厚生労働省が先に「将来的にすべての介護職員に義務付ける」としている500時間の「介護職員基礎研修」については、先行して動き出している地域では、その費用が一人30万から50万かかる研修になっている。こうした基礎研修の上の、さらなる上級資格を取得する為に、現行の介護福祉士はいくら自己負担しなければならないのだろう。

その結果として上級資格を取得して待遇、給与アップが図れるのだろうか。図れるとして、どのくらいの水準になるのか。

介護給付費というもともとのパイが上がらねば、その水準はしれているし、上がった分を、どこで補填するのか、ということで言えば、現行のヘルパーや介護福祉士等の待遇はますます悪化するのではないだろうか。

少なくとも上級資格に対する、報酬加算の方向性が示されなければ、格差の助長にしかならない。

これも改正とはいい難い考え方である。

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通所介サービス、規模別報酬の計算から見える矛盾。

通所サービスの報酬については制度改正で利用者実人員に応じた規模別報酬が導入された。このルールでは「毎年度3月31日時点において、事業を実施している事業者であって、4月以降も引き続き事業を実施するものの当該年度の通所介護費の算定に当たっては、前年度の平均利用延人員数は、前年度において通所介護費を算定している月(3月を除く)の1月当たりの平均利用延人員数とする。」とされている。

3月を計算式から除外しているのは、3月末までの実績から計算したのでは、4月の介護計画を立てる段階で、通所サービスの規模別報酬がどれに属するか不明で、3月中に新年度・4月の計画が立てられないからであろう。

つまり3月に入った時点で、通所サービス事業所は前年4月から、当年2月までの1月当たりの平均利用延人員数を計算しなければならない。

計算式においては「指定通所介護事業者が指定介護予防通所介護事業者の指定を併せて受け一体的に事業を実施している場合は、当該指定介護予防通所介護事業所における前年度の1月当たりの平均利用延人員数を含む。」とされ、当事業所はまさに、ここに該当するので予防サービスの人数を含んで計算することとなる。

このとき注意すべきは「平均利用延人員数に含むこととされた介護予防通所介護事業所の利用者の計算については単純に延人員を加えるのではなく、同時にサービスの提供を受けた者の最大数を営業日毎に加えていくこととする。」というルールである。

つまりは、予防サービスは介護サービスと異なり、サービス提供時間が報酬別に決まっているわけではなく、各個人の状態に併せて事業所の2次アセスメントで決めることが出来、介護通所と予防通所を一体的に行なっている事業所においては、予防の対象者は時間によってサービス利用している人数が異なる場合がある。また予防サービス対象者のみ午前と午後の2単位に分けて介護サービスと一体的に実施している事業所では午前5人、午後6人などと利用人数が異なる場合がある。

このとき延べ人数合計で利用人員を算出するのではなく「同時にサービスの提供を受けた者の最大数を営業日毎に加え」というルールであり、例えば定員20人の介護と予防通所を一体的に行っている事業所で、ある日、介護サービス10名、予防サービス午前4名、午後6名という場合
予防サービスの利用者が午前と午後で入れ替わり別の利用者が利用していても利用人数の計算は10+4+6=20ではなく、10+6=16となる、という意味である。

また当事業所のように4〜6のサービス提供時間の場合は「4時間以上6時間未満の報酬を算定している利用者については利用者数に4分の3を乗じて得た数とする。」という計算式だから上に例示したケースでは10×3/4+6=13.5 という計算式になる。

この場合、気をつけなくてはならないのは、予防通所はサービス提供時間が介護サービスより短い時間だとしても1と計算することになる。

ところでこのルールにある矛盾があるのを皆さんはお気づきだろうか。

つまり規模別報酬というのは「事務経費等の固定経費についてスケールメリットが働くことから、それに相当する程度」の減額や加算を行っているという意味である。

ところが定額報酬の予防サービスの利用回数は事業所の2次アセスメントで決まっており、要支援1の人が必ず週1回しか利用できない、ということではない。現実に当事業所では要支援1の人でも週3回利用している人が居られる。そうなると収入増加にならない利用者の数も実はこの規模別報酬の計算上の利用人数に含まれてしまうということになり、利用者の状態増に関係なく、2次アセスメントも不十分で、一律予防の対象者を要支援1は週1回、要支援2は週2回の利用などと限定している事業所の方が、より高い報酬を算定でいるという矛盾が生じてくる。

つまり規模別報酬とは事業所の質の評価にはなり得ないし、スケールメリット論も予防サービス対象者を計算式に加えることで綻びが生じたルールになっているという実態が見て取れるのである。

何はともあれ通所サービス事業所は、この計算を早急に行い、4月以降の報酬が小規模型か通常型か減算型か利用者や担当ケアマネにアナウンスする必要があることを忘れてはならない。

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講演で話していること

今日は特別な話題が思い浮かばないので、今、僕が様々な機関の依頼を受けて講演を行う際に、どんなテーマで何を話しているのかを書いてみたい。

講演テーマは、依頼される内容や、聞いてくださる皆さんが、どのような立場かで若干違いはあるし、まったく同じ内容で、別の場所で話をする、ということは少ない(同じテーマで同時期であれば、使うファイルも内容も同じということはあり得る)。ただ時期ごとに、話題となっているテーマは絞られるので、話の方向性は似てくるということはあるかもしれない。

とりあえず、つい最近話しているテーマや、今後話す予定のテーマを挙げてみる。

1.介護保険制度改正から1年〜その検証と課題
新しい介護保険制度の現場で何が起こっているのか。問題点は何かを、居宅介護サービスを中心に検証している。単に問題がある制度ということではなく、問題点を的確に知ることで、現場の介護支援専門員やサービス従事者の支援の方向性を見出そうとする意味。ケアマネジメントのあり方を総合的に考える視点が骨格。新予防給付の問題や課題も検証し、特に予防訪問介護が一緒に家事をしないと不適切だという誤解等にもふれて、あるべきケアマネジメントの課題を抽出している。

2.施設ケアマネジメントのあり方
わが国では介護保険制度とケアマネジメントの導入が同時に提唱された結果、両者が一心同体のように捉えられがちである。しかし本来それは別個なものである。その誤解によってケアマネジメントが居宅介護支援事業所の方法論に偏って考えられてしまい、施設のケアマネジメントの方法論が確立されていない。
また施設の介護支援専門員の位置づけも不明瞭で、各施設により業務内容も大きな違いがある。専任化が必要なのか、何の専任化なのか、ということを含め、施設の介護支援専門員の位置づけや業務内容について提言を行なっている。

3.地域で起こっている介護問題
一般市民、地域住民の方々を主な対象として、要介護状態とはどのような原因で起こるのか。その結果、地域の中に、各家庭でどんな介護状況が生まれ、介護問題が生じているのか。認知症の高齢者の方々の問題も含め、特別ではなく身近な問題として、自分たち自身が関係する「介護」という視点を解説している。

4.看取り介護の実践と課題
おそらくネット上で独自の「看取り介護指針」を公開したのは僕が最初であろう。もしかしたら、この指針自体を一番初めに独自に作ったのも僕かもしれない。ということで、その指針に盛り込んだターミナルケアの理念を中心に、特養でのターミナルケアの歴史的流れ、制度改正後の「看取り介護」のルールとポイント、指針のあり方・意味、実際の看取り介護の方法や課題について、現在までの実践例を挙げながら解説している。死生観の問題にも触れ、看取り介護が死への援助ではなく、対象者が最期の時まで尊厳ある生き方ができる支援であることを説明している。

5.認知症高齢者のケア
認知症とは何か、医学的見地からだけでなく、生活障害としての認知症について、ケアの及ぶ部分とケアの手が届かない部分の違いも含めて、介護の現場で支援に関わる関係者がもつべき理解的態度や実際の方法論を提言している。

まあ、最近は、だいたいこういった内容で話すことが多い。

それから今月10日には、地区の社会福祉士会で「療養型医療施設の廃止の問題」に関してお話をすることになっているが、これは所属する職場が多岐にわたる社会福祉士の勉強会で、皆が共通に問題になるであろうテーマとして選択したもので、単にお金をかけないために事務局の僕がお話しするに過ぎない。これから内容を考えてファイル等を作らねばならない。

また5月の予定としては、ある地区のケアマネ会において「デマンドとニーズの違い」をテーマにケアマネジメントについて講演することを依頼されている。この内容もこれから精査するが、単にデマンドがニーズではない、ということではなく、表明されているニーズと隠されているニーズということが重要な視点になると思う。当然、介護支援専門員が対象の講演だから、ケアマネジメントはソーシャルワークの一技術である、ということも骨格になり、ケアマネジメントだけが介護支援専門人に求められる援助技術ではない、ということにも触れていかねばならないと思う。

ただ講師とて人間である以上、様々な考えがあるし、その考えも間違っていないとは限らない。講演を聞く側の方々は、それがすべて正しいといして全面的に受け入れる態度ではなく、自分の考えや実践と比較して、様々に判断をすればよい。その中で、一つでも自らの資質向上やサービスの向上に繋がるものを見つけ出して欲しい。

ただし批判をする為だけに聞く態度は建設的な姿勢とはいえず得るものもないだろう。大事なことは、講演で聞いた内容を一方的に受け入れるのではなく、それらを充分咀嚼して、自らのスキルアップの肥やしにしようとする態度である。

知識とは、人から一方的に与えられるものではなく、自ら獲得するものであることも忘れてはならない。

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挨拶。

今日、僕が書く内容については異論がある方も多いだろう。しかし僕の考えとして書こうと思った。間違った考えであるとしても、正さなければサービスに著しい障害を及ぼすような問題でもない。こうした考え方もある、というふうに認識してもらって、様々な生活場面での既存の方法論を見つめなおすきっかけになれば良いと思う。さて本題だ。

挨拶は大切だとは思う。

ただ問題はその方法、声のかけ方である。

僕自身の個人的好みで言うと、昨今、コンビニエンスストアに入るたびに大きな声で「いらっしゃいませ、こんにちは」と言われるのは『うざったい。』
普通の声で「いらっしゃいませ」だけで充分だ。

特に迷惑と感じて、イラつくのは、レンタルビデオ店や本屋での店員の声のかけ方である。

ビデオや本を選んでいる最中に、他の客が入ってくるたびに大声で「いらっしゃいませ」という声がかかるのは非常に不快である。挨拶をするなというのではない。ことさら不自然に大声を上げるのではなく、普通のトーンで静かに声をかけたっていいじゃないかと思う。

昔からの古い本屋で、レジにおじさんが静かにたたずんで、客の出入りにもほとんど無関心で、値段を言うときしか声を出さない店のほうがほっとすることがある。

商売のタイプで、それに見合った声のかけ方というもんがあるだろう。ほとんど叫んでいるような挨拶をする店員がいる店は、できるだけ行かないようにしている。

施設を訪れた人に対しても、玄関や廊下で顔を合わせた職員は、きちんと挨拶ができないとならないとは思う。

ただその声のかけ方は「普通」でよいと思う。ことさら大きな声で、元気よく、声をかけないと外来者に失礼と言うことはないと思う。

それと外来者に対し「いらっしゃいませ」と言うのはなんとなく違和感がある。「おはようございます」や「こんにちは」でよいのではないか。その声のトーンも普通で良いと思う。

ここは家庭に変わる場所で、商店ではないのだ。朝、出勤したときに、ここに住まう方々に「おはようございます」という声は、ごく普通のトーンで、普通の会話で話しかけるはずだ。外来者だからといって、特別な声のかけ方が必要なのだろうか。施設の職員として外来者を迎える立場で「いらっしゃいませ」というのだろうが、どうも商店に入る客に対しての「いらっしゃいませ」に聞こえてしまう時が多いのだ。家庭を訪ねた来訪者を、玄関のドアを開けて、いきなり「いらっしゃいませ」という人は多くないだろうと思うし、僕にはそういう習慣はない。

僕は職員に挨拶をきちんとするようには常に注意しているが、ことさら大きな声で挨拶するような指導はしていない。普通の声でよい。

利用者の名前の呼び方も、呼び捨てやニックネーム、ちゃん付けは論外だが、「様」というのにも違和感を持つ。接遇の指導者に言わせると(ごく一部の考え方と思うが堂々と専門誌にも掲載されているので)介護サービスも顧客と従業員の関係であり、他事業所とサービスの質の差を図って生き残る為には、そうした差別化の意識改革が必要だというが、我々が介護の現場で利用者と接している関係は単なる顧客と、サービス従事者という関係にとどまらず(もちろん家族と同じではないが)もう少し近しい関係で、生活支援が必要な方と共に生きる、共に暮らす支援者という意味があると思う。

その場でふさわしい呼び方は「様」ではなく「さん」でよいと思っている。

接遇というのは専門家に言わせれば、施設の「人間性」を物語るものだそうである。だが化粧をして仮面をかぶった人間性では意味がない。マナーとか、作法とかいうものは目に見える表面の部分を飾ることのみをいうのではないだろう。

その根本は介護の現場でも、人を人として当たり前に敬い、尊厳に対して真摯に向かい合う姿勢だろう。

良い施設は挨拶も立派だといわれる方も多いし、それは一面真実を語っていると思うが、少なくとも「挨拶がよければ良い施設だ」という説は成り立たないと思う。

そしてよい挨拶が、商店街の呼び込みや、コンビニエンスストアの接遇を基準に考えられるものでもないだろうと思う。

外来者への挨拶の声に驚いたり、戸惑ったりする利用者を無視して、ことさら大声を上げる必要なんてないのだ、と考えている。

看取り介護へ寄せられる疑問に答える

特養の看取り介護についてはその問題を過去にも書いてきたし、そのまとめはトップページの「看取り介護の実践とその考察」に掲載している。そのことと一部重複することを恐れず、述べておかねばならないことがある。

というのも一部の医療関係者の中には、昨年の制度改正で特養に看取り介護加算という請求コードができ、費用算定されることになったことで、費用算定を目的に、安易に終末期のケアが特養に於いて行なわれるのではないかという疑問を持っている方がいるからである。

確かに国の考えは、介護保険制度改正のみならず、医療制度改正においての在宅療養支援診療所の位置づけでもわかるように、死を迎える場所を医療機関から、それ以外の場所に渡そうという誘導はあるように思え、それは医療機関で終末を迎える場合より、他の場所でターミナルケアを行なうほうが医療費の抑制効果がある、という意味があることを否定はしない。

しかし、だからといって、看取り介護加算ができたから、特養で終末期のケアは安易に行なわれるというのは大きな誤解である。

施設サービスの報酬は抑制され、特に昨年の改正では多床室の単価が下げられたことで、経営的に厳しくなっていることは確かである。そのため体制加算の「重度化対応加算」の10単位というのは非常にありがたい加算であり、これもターミナル関連加算といえるわけではある。しかしこの加算は「看取り介護を行う体制も含めた重度の医療対応が必要な人も受け入れることができる体制」に対しての加算であり、正看護師の配置や、医療機関との24時間連携が必要で、体制作りにもコストがかかるもので、必ずしも経営的なメリットがあるというものではない。

ただ医療対応が必要な利用者が増えて、それらの方々に対応する場所が必要というニーズに応えるのも特養の社会的使命であり、そういう意味で体制が整えることが可能な施設で、この加算を算定して、適切に利用者の医療ニーズにも応えようとするものである。そしてこの体制加算自体は、ターミナルケアを行うという実績とは直接的な関連はない。

ターミナルケアの実績加算としての「看取り介護加算」との関連で言えば、重度化対応加算を算定している施設で、利用者が終末期に過ごしたいと望んだ場合に、そのニーズに応えられないのは問題であろうし、当然「看取り介護」を行うことが前提になっていることは間違いない。

さて、そのとき、実際の看取り介護を行い「看取り介護加算」を算定して、経営的にメリットがあるのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。

例えば当施設での実績を見ると、昨年4月から11月までの実績では、看取り介護の実施件数が7件、延べ44日実施である(最短1日、最長21日)。加算報酬は44日×1.600円=70.400円である。コスト計算を細かくすれば、このために看護職員が夜間対応する超過勤務費用、看取り介護のために、その他の職員が超過勤務する費用や、看取り介護のための消耗品費用などを勘案すれば、ここから収益など出るはずはない。

また看取り介護は30日以上実施しても、加算算定期間は30日限定なので持ち出しのほうが大きくなる可能性のほうが高い。だから看取り介護を行って施設の収益を上げるなんてことは不可能だ。この部分だけいえば赤字であろう。

しかし振り返って考えれば、当施設をはじめ、加算がない時代からターミナルケアに取り組んできた施設は、それに対する手当が報酬上にできた点はメリットとして認めるが、この報酬算定を目的に看取り介護を行う、という動機付けはない、ということを認識していただきたい。

そもそも特養でのターミナルケアの始まりは、収容施設から生活施設への転換過程で、終生施設としての責任を果たして利用者ニーズに応える形から始まっている。

昭和50年代の初めは、特養利用者が入院すれば1月で籍が切れてしまった。それでは特養は「終の棲家」とはなり得ない、ということから長期入院は3月まで籍を施設に置いておくことができるルールに変更された。それでも当初は、医療機関で医療的な対応は終了したのに、あとは清潔援助と褥創予防や経口からの栄養や水分摂取にできるだけ努めて、安楽な最期を援助するだけなのに、看護対応が不十分で受け入れられない施設。あるいは老衰が進行して、医療機関に受診したがこれ以上、医療処置をしての対応はないのでつれて帰りなさい、といわれ困惑して入院をお願いするような事例が多々あったようで、その都度、医療機関の医師の皆さんからは、特養でターミナルを行なえないのは「おかしい」という指摘とお叱りを受けてきたところである。

それらの疑問や指摘に応える形で、特養では看護職員の配置も基準以上に整備して、協力医療機関との連携の体制も整備して、終末期のケアを行なえる体制を整えてきて、実際にそれを行なうように汗をかいてきたものである。

ところが報酬上に加算ができた途端に、それとは180度方向が違った批判的意見が出るのはおかしいし、認識不足であると思う。

ところで、このたび、ホスピスの関係者の皆さん、医師の方々が中心となっている「日本死の臨床研究会」の北海道支部の依頼を受け4月14日に、札幌市で「介護施設での看取りを考える」という研修会で講演を行う予定になった。

60分という短い講演ではあるが、その中でもこの問題にも触れておかねばならないだろうと今、考えているところである。

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療養型医療施設廃止問題のもう一つの意味

昨日も書かせていただいた当地域のケアマネ会と医師会との懇談会では、療養型医療施設の廃止、縮小問題もテーマの一部に取り上げられた。

しかしその問題を深く掘り下げるまでには至らず、現状のまま、療養病床の数が減っても、特養は現在でも数多くの待機者を抱え、年間の新規入所者数もある程度の人数しかないことから見ても、受け皿にはなり得ず、療養型自体の転換施設が、既存の入院利用者をいかにスムースに転換施設に移行できるかが介護難民を作らないポイントではないかという部分までしか話が及ばなかった。

しかし転換施設が有料老人ホームやケアハウス、グループホームなどである場合、費用負担の面で利用不可能な利用者が出てくるだろうし、老健であっても、中間施設としての在宅復帰機能が軽視されていく「施設再編、見直し論」になっていくとは考えられず、療養型利用者で医療ニーズの高い、要介護度の高い人で在宅復帰やリハビリの適用とは思われない状態像の人をどうするかというめどは暗闇の中である。

このことに関連して施設機能の見直しということで、特養と老健の機能や医療の位置づけが議論されているが、両者が同じ施設になることはあり得ないと(個人的には)考えている。やはり終生介護施設と在宅復帰機能中心施設、という区分は残さざるを得ないであろう。ただ老健のマルメ医療など、医療保険との関連が、特養の利用者への医療対応の状況と、どのように整合性をとっていくのか、という部分が再編議論の中心にならざるを得ないのではないだろうか。このことは、また別の機会で詳しく述べたいと思う。

さて療養型廃止の問題に対し、それらの施設の経営者としての医師の皆さんは、どのように対応を考えているのだろうか。おそらく現時点では「なんともいえない」「ここ1〜2年の状況を見て対応を決めたい」という考えを持っている方が多いように見えた。先が不透明という感覚が強いのである。

そしてできれば「医療保険の療養病床」として存続させたい、という希望が一番多いのであろうと思う。だが現実には全ての病床がそのような存続は不可能である。地域の中で削減される療養病床数が何床になるのかが大きな論点になってこよう。ではその後は、どうなるのであろうか。

国は介護療養型の病床が、老健に転換することは「完全に保障する」と言っている。そして職員配置や機能面から見ると、第3者的立場からは、転換施設としては老健がもっとも選択肢としては、ふさわしいように思える。しかし利益率など経営面から二の足を踏んでいる経営者の方々も多いと思われる。どちらにしても、現時点で明確に構想を持っている方は少ないように思える。

さて、ここで療養病床の廃止を別な面から考えて見たい。

療養病床の廃止は施設も居宅サービスも受け皿が不十分な状態で実施される可能性が高い。介護難民は至る所で生まれかねないが、それでも行き場所がない高齢者は居宅で家族の支援も得ながら暮らさざるを得ない。

そうするとそのとき、23万床分の療養病床削減で、老健に転換しない9万床分はケアハウス、有料老人ホーム、グループホーム等へ転換される。

このもう一つの意味は、入所施設のベッドが減る、ということのみならず、短期入所療養介護のベッド数も削減される、ということにならないだろうか。なにしろ短期入所療養介護とは今現在は介護療養病床の定員数の「内枠」のなかにあるもので、これがなくなれば内枠自体がなくなることを意味している。しかも介護療養病床のショートが減った分のショートベッドがどこかに増えるという方向には現在はなっていないし、そのこと自体の議論もほとんど行なわれていないように思う。

しかし5年後は、今年定年に達した団塊の世代の人々が65歳に達する。要介護者の割合は増えなくとも、数は増加する。施設利用者は減って、在宅で生活する要介護者の数が現在より大幅に増えることが予測されるが、そのとき一時的な滞在サービスを組み込んだ支援計画が不可欠で、ショートスティは在宅介護の重要なサービス資源であろうと思える。

その量も減ってしまうということの受け皿も不透明であるのが現在の状況である。だから今後は、ショートスティのベッドが地域の中でどのように確保されていくのか、現在の量が適正量で、それが維持されていくのかも見据えていく必要があるのでないかと考えている。

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医師から顔の見えるケアマネになることの重要性

昨週末の金曜・当地区で「第4回介護保険懇談会」が、午後6時30分から2時間開催された。

これは医師会と地域ケアマネ会の定期懇談会で4年前から年1回定期的に行なわれている。介護保険制度の中での双方の様々な関わりにおける問題点を話し合ったり、情報交換を行なったり、相互理解を深める貴重な場である。

今回も、ターミナルケアへの関わりとか、医療保険のリハビリ日数制限による介護サービスへの移行の問題、療養型廃止で予測される問題など多岐にわたるテーマが話し合われた。そのことの「まとめ」は別の機会に行なうが、今日は医師側から出されたケアマネへの要望の中から特に「意見書を書いている患者さんが、実際にどんなサービスを利用しているのか、よくわからないケースが多い」「自分の患者の担当ケアマネの顔が見えない」といった意見を考えて見たいと思う。

実はこの意見は前回の第三回懇談会でも出されたテーマで「ケアマネと医師の連携の模索 」の中でも、同じ事を書いており、僕はこの中で

「仮に全てのケアマネが、初回だけでもプランを立てることになった利用者の医師意見書の記載者たる主治医に何らかの形で連絡をとったとしたら、医師とケアマネの接点はかなり増えてくる。別にプランの説明でなく挨拶程度で良いのだ。このあたりは医師会側からもむしろ好ましいという意見をいただいた。
例え一方通行の連絡であったり、時には迷惑がられても、ケアマネに無関心の医師が、その存在を意識してくれるきっかけになるのではないだろうか。そこが連携の第1歩ではないか」

という提案を行なっている。

しかし実際には、ケアマネ側から主治医師に積極的に情報提供しているケースは少ない。室蘭市の事業所では必ず初回プラン作成の際には、そのプランを主治医師に送っているところもあるが、登別市はそこまで積極的な情報提供を行なっている事業所は見当たらなかった。

かくいう僕の施設の併設居宅介護支援事業所も、全部の利用者の担当医師には情報提供は行なっていない現況がある。

せっかく医師会にも好意的にご協力をいただいて、定期的な意見交換の場を作っていただいて、かつ、忌憚のない意見交換ができているんだから、医師側からの要望にも積極的にこたえる必要があると思う。

特に介護保険は既に、医療保険のルールとは無縁ではなく、双方のルールに共通したものもあり、むしろ介護保険のルールが医療保険にも及んでくる、牽引している部分も見られる。

介護保険で末期がんが2号被保険者の対象になり、介護サービスの導入が可能になったことと、医療保険制度に在宅療養支援診療所が位置づけられ、在宅でのターミナルケアが増えてくる現状は必然的に、医療チームの中に居宅介護支援事業所の介護支援専門員が加わっていかねばならない状況を生んでいる。

そのときに、当の介護支援専門員に相応の知識と情報があるかどうかが問われてくる。その意味でも連携の第1歩は主冶医師にケアマネの存在をより身近に感じてもらい、実際の介護サービスの支援をどのように行っているかを知っていただくことだと思う。

そこで僕の併設事業所では早速、全ケースの担当医師に遅まきながら、ケアプランを送ってご挨拶し、できれば情報提供をお願いしたいと連絡することとした。

実はその依頼書式は既にあって、僕の管理サイトトップに掲載していた。それを今回は一部手直しして今日公開した。特別養護老人ホーム緑風園のホームページのトップから

「かかりつけ医師への問い合わせ書式(メール添付用)」

こちらのシート2の方を利用できると思う。

他の会員の皆さんにも是非、活用して、積極的に医師との関係作りに努めてもらうように次回の定例ケアマネ会で提案するつもりである。

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小規模多機能居宅介護の地域展開を検証する〜新しい方法論とは?(下)

(昨日からの続き)
小規模多機能居宅介護の宿泊も既存のショートスティとは大きな違いがある。

ショートスティはまさに一定期間を区切った滞在サービスであるが、小規模多機能居宅介護の宿泊も一定の期間や日数はそれぞれの計画で定められていたとしても、状況や環境の変化により、随時それは変えられるし、宿泊を取りやめて居宅に帰っても、引き続き小規模多機能居宅介護の職員により訪問サービスを受けられるということで既存のショートとヘルプの組み合わせより臨機の対応がとりやすい。

また既存のショートとのもっとも大きな違いは、夜は宿泊サービスであるが、日中はこの滞在サービスが引き続き行われているというより、通いサービスを利用している、という形になることである。2泊3日の利用なら2泊は宿泊利用だが、前後と真ん中の日中は通いサービスを利用しているということになる。

まさに通いサービスの特定の日に宿泊を臨機に組み込みながら在宅生活を継続できるサービスであるといえるのである。

宿泊費用は、このサービスの特徴である定額報酬に含まれておらず、別料金となり、それは各事業所で設定している。道内の事業所を見ると、その設定金額には結構な差があり、高いところは1泊1万2千円というところもあるが、安いところは2000円というのもある。札幌市内に事業所が集中しているので、相場は5000円程度である。

全国的に見ればもっと差はあるだろう。

この費用は利用者負担ということを考えると、できるだけ低く(安く)設定するほうが良心的であるとはいえるが、しかしサービスの特徴として考えると、そのことが良いことか悪いことかという部分では疑問が呈されている。

つまり小規模多機能居宅介護は施設でも在宅でもない、第三のサービスという「うたい文句」で地域密着型サービスの中に組み入れられ、この制度に登場したが、その目的は、住み慣れた地域社会でできる限り生活を継続できることを目的としており、そのサービスの中心はあくまで「通いサービス」であり、居宅を中心にしたサービス展開が求められている。

よって宿泊費用があまりに低すぎると安易に泊まる、ということになりかねず、目的に合致しない、という見方である。

動機付けの問題を費用に絡めることに違和感を持つ方もおられると思うが、現実にはそういうこともあり得るのだろう。ここはもう少し検証が必要である。

事例を見ると、泊まりサービスをかなり長期間連続して利用しているケースがある。数か月に及んでいるものもある。これでは一時的に小規模多機能居宅介護を中断して、一般のショートを使ったほうが良いのではないかと言う意見もあろうが、個々のケースを見ると必ずしもそうではない。

それは泊まりの期間があらかじめ長期に計画されていたものではなく、例えば急な体調変化や認知の悪化で宿泊を一時期連続的に行なわなければならなかったケースなども含まれ、何らかの理由(家族の虐待なども含む)で緊急避難として居宅に復帰することは前提だけれど一時的に長期宿泊をするケースもある。

宿泊期間中も、日中は一時的に居宅に帰る時間を作ったり、夜間の居宅での滞在時間を作ったり臨機の対応を行えるというメリットを生かし、最終的には宿泊が月数日利用で済むようなサービス形態に移行していく事例もある。これはこのサービスのひとつのメリットであろう。

ただこの場合問題となるのは小規模多機能居宅介護における「通いサービス」の上限は15名と定められている点である。たしかに宿泊の時間と通いの時間設定は、事業所が独自に行ってよいということになっているが、だからといって日中の「通い」の時間に連続宿泊者は「宿泊の定員」だから別枠で考えてよい、ということにはならない。

そもそも小規模多機能居宅介護のサービス提供方法は少人数に対してきめ細かなサービスを行うというもので、サービス提供単位の上限を日中は対職員比3:1以上で、かつ15名以内と定めている点に注意が必要で、この点への調整力や配慮が必要である。

ただし、どうしてもやむを得ない場合、この定員については基準上「(定員の遵守)ア.事業者は、登録定員並びに通いサービス及び宿泊サービスの利用定員を超えて指定小規模多機能居宅介護の提供を行ってはならない。ただし、通いサービス及び宿泊サービスの利用は、利用者の様態や希望等により特に必要とされる場合は、一時的にその利用定員を超えることはやむを得ないものとする」という例外規定があることを認識しながら、ケースにより、この例外適用する配慮もあってしかるべきであろう。

昨日から検証した、通いと訪問と宿泊を臨機の状態で変動させ利用するパッケージサービスのメリットは理解できたであろうか?うまく説明ができなかったかもしれないが、パッケージサービスは既存のサービスの単なる組み合わせでなく、あらたな概念でパッケージを臨機に組み替えることにより、より個人のニーズに合致したサービスになり得る、という点が重要だ。

しかし小規模多機能居宅介護も計画に基づく利用が基本で、小規模多機能居宅介護事業所専従の介護支援専門員が「小規模多機能居宅介護計画」を立てて利用することになる(そのほかの使える居宅サービス;訪問看護等:の居宅介護計画もこのケアマネが立てる)。

「小規模多機能居宅介護計画」は小規模多機能居宅介護の中で、どのようなサービスを行うかが中心となり、パッケージサービスであるがゆえに、通所の日時、通いの時間や目的、宿泊予定日も事前に計画に組み込んでおくのが基本となるが、これを常に微調整、あるいは時として大幅な組み換えが随時できるという基本姿勢と理解が必要であり、それがなければ、単に既存サービスの貼り付けでの硬直サービスになってしまう危険もあり、この事業所の介護支援専門員の役割は重要である。

そうしなければ昨日から書いている小規模多機能居宅介護でしかできない多機能という特徴を生かした個別のニーズに対応できる新しいケアにはならないからである。

最期に課題として2点挙げておきたい。

まず一つは、このサービスが地域密着型で第3カテゴリーサービスといわれても、実質それは居宅生活を継続維持するための方法論の一つであり、今後予想されるのは療養型医療施設の廃止や縮小で、地域に医療ニーズを抱える、あるい実際に医療機器を使いながら生活する高齢者が増える、という事実に対する対応である。

胃婁や在宅酸素への対応も必要になってくるであろう。その時、現在、小規模多機能居宅介護には看護職員の配置義務はあるが、常勤の必要はなく毎日の配置も必要とされていない。これは一面では事業展開上、コスト管理と職員配置面で事業所の裁量が広がってメリットとなってはいるが、そのことで地域の利用者の医療ニーズに対応しきれない状況が起きないか懸念されるところである。

もう1点は、サービス地域の問題で、本来ならこのサービスの利用者は、できるだけ地域を狭め範囲を限定したほうが、サービス提供方法に様々なバリエーションも生まれ、より個別のニーズにマッチしたものとなり得る。

しかしながら現状では、このサービス事業所の数自体が多くないこともあって、例えば札幌市で運営する事業所のサービス利用者は、区を越えて数箇所の区にまたがって点在しているという状況もある。将来的には区内において、1中学校区域に限定した範囲で、サービス展開ができれば地域密着型としての新たな可能性がより広がるのではないかと考える。

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模多機能居宅介護の地域展開を検証する〜新しい方法論とは?(上)

昨年4月から誕生した新たなサービスである小規模多機能居宅介護。この原型は宅老所に多機能サービスを付随して展開したサービスであり、諸外国にもモデルがない日本型の新型サービスといえる。

このサービスが生まれて、そろそろ1年を迎えようとしているが、北海道で小規模多機能居宅介護の指定を受けてサービスを展開しているのは、現時点で15ヶ所程度と記憶している。この広い北海道としては、その数はあまり増えていない。その理由の一つは、もともと道内では宅老所、というサービス自体が少なく根付いていなかったという理由が挙げられるだろう。

今日はこのサービスを実際に行っている事業所の現況を第3者としての立場から見て、この新しいサービスの方法論を検証してみたい。

ちょうど1年前のブログ
「小規模多機能サービスの将来像。1」と「小規模多機能サービスの将来像。2」の中で、このサービスに対する期待を書いたことがあるが、その中で僕はこのサービスの特徴を

「通っている方々の必要性に応じて随時、宿泊してサービスを受けたり、居宅にヘルパーを派遣して介護サービスを提供する、という、いわばデイサービスとホームヘルプとショートスティを1事業所で1元管理してサービス提供するシステムである。」と述べた。

しかし、今あらためて考えてみると、どうやらこの考えは間違ってはいないものの、このサービスの本質に迫るものではなく、考え方を改めねばならないと思っている。

つまり小規模多機能居宅介護を単に「デイサービスとホームヘルプとショートスティの組み合わせ」と考える事業展開では高齢者のニーズにマッチしたサービス展開はできず、まったく新たな「通いサービス」を中心に、訪問と泊まりを組み合わせたサービスと考えねばならない。逆にそういう発想が出来ない小規模多機能居宅介護は良いサービスに結びついていないのが現状だろう。

一般のデイサービスと小規模多機能居宅介護の「通いサービス」の大きな違いは4-6等の時間の縛りがないことと、サービスの始点、終点が決まっていないというところにある。
つまりデイサービスはサービス提供時間の中で職員配置ができ実際のサービスができる状況で、あらかじめ決められた時間内でサービス提供を行わねばならないが、小規模多機能居宅介護の「通いサービス」は、ある日は半日の利用、ある日は数時間の利用、それも臨機に状況に合わせて変えられるということに特徴がある。利用者の送迎時間もまちまちに設定して必ずしも乗り合い形式による送迎ではなく、その人に合わせて随時事業所から迎えに出る、ということが可能になる。

例えばある日は、10時から5時まで通いサービスを受ける予定だった人を迎えに言ったときに「今日は休む」と言い出したとする。そのとき理由を尋ねると「スーパーの特売のチラシが入ったので買い物に行かねばならない」という。一般のデイサービスなら、説得して、買い物にいくのをあきらめてサービス利用するか、サービスを中断するか、極めて限定的な選択しかできないが、小規模多機能居宅介護の「通いサービス」はこのとき様々な選択が可能だ。

例えば、じゃあ午前中だけ、通いサービスを受けて昼ごはんを食べて、昼から送るから、そのとき家に帰る途中(あるいは家に一旦帰ってからでも)運転手と一緒に買い物に行きましょう。という取り扱いが可能だ。

これが通所サービスなら、送迎途中の買い物は認められず保険外だとか、様々な縛りによりできないし、そもそも運転手が居宅で別なサービスをすることも無理である。しかし通いも訪問もパッケージのサービスであれば、あるときは送迎の運転手、事業所ないでは介護職員、あるときは居宅に訪問するヘルパーの役割と、何役も臨機に役割をこなすことが可能である。

さらに訪問サービスも、介護保険の訪問介護なら単なる安否確認や趣味の活動の支援はできない、ということになるが、小規模多機能居宅介護の「訪問サービス」も多機能だ。

例えば今日は通いサービスはお休みのAさんがどんな様子か安否を確認する際に、通いサービスの送迎途中に、送迎を行っている利用者のBさんと一緒にAさん宅を訪問して「元気かい」と呼びかけ、ついでに30分ほど運転手とBさんんがお宅でお茶をご馳走になりながら、よもやま話をして帰る。Bさんが尋ねてくれてAさんも喜んだし、Bさんも喜ばれた。こんなことも可能である。

訪問サービスも身体介護を中心にするだけでなく、多目的に臨機に行うことも可能なのだ。しかしこれを既存の訪問介護の身体介護とか生活援助とかの概念でしか考えられないと、小規模多機能居宅介護のパッケージサービスとしてのメリットが生かせない。
(明日に続く:土曜も書きますよ!!)

介護・福祉情報掲示板(表板)

北星の遺伝子

僕の最終学歴は北星学園大学である。

学籍番号は791235で(79)79年入学の(1)文学部(2)社会福祉学科(35)クラスでは35番目、という意味だったと思う。

当時、大学のあった大谷地は今のように地下鉄の駅もなく、周りも札幌市内とは思えないほど閑散としていた。

いまでは町並みもすっかり変わってキャンパスも新しくなってしまって、隔世の感があるが、それでもたまにキャンバスを訪れると懐かしく思えてしまうのはなぜだろうか。

この大学で福祉と出会い、福祉を勉強し、この道に進むことになったわけであるが、最初から福祉の道に進むことを目指していたわけではない。そのことや最終的にこの世界に入ったきっかけについては1昨年の12月に書いた

「Think about my Daughter1 〜もうひとつの少年期との出会い 」
「Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。」
「Think about my Daughter 3 〜 彷徨:さすらい」
「Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。」

こちらを読んでいただくと良くわかると思う。この思いを書きたくてブログを立ち上げたような気もする・・・。

さて話を戻すが、その学生時代に同じクラスであった女の子から、先週末にメールをいただいた。結婚後も医療機関でケースワーカーを続けている彼女とは、第1回の介護支援専門員の試験会場で会ったのが最後であったような気がする。

彼女の連絡は、このブログを見て、僕が書いていることを知ってびっくりした、というものである。

所属機関の医師の依頼で、特養の看取り介護について調査していて、たまたま僕のサイトにたどり着き、ブログも読んでいたら、僕が書いているものだとわかったという。masaというハンドルネームは、高校・大学時代に「マサ」と呼ばれていたことから名乗っているし、プロフィールも載せているので知り合いなら誰でもわかる。実際に同級生でいつも僕のブログを読んでる、という友達もいる。ましてや同じ業界に就職している友達も多いので、たまたまネット検索してたどり着くという知人や友人がいることはさほど偶然ではないかもしれない。

しかし見ず知らずの人が読んでいるのと、知り合いが読んでくれていると思うのでは少し感覚が違う。例えば家族がこれを読んでいるとしたら照れくさくてどうしようもない。絶対に見せたくはない。

友達はどうだろう。照れくささも少しはあるが、それと同時に読んでくれているという嬉しさや懐かしさのほうが強いかもしれない。しかし・・・である。

ブログというのは表の掲示板と違って、かなり勝手で独善的な意見を何の遠慮もしないで極論的に書く場合もある。かなり生意気に意見を述べることも多い。

けど学生時代の僕を知っている人には「ずいぶん偉そうなことを言うようになったもんだ」「お前がそんな口をきけるようになったんだ。」と思われているかもしれない。学生時代は皆、青いものだが、それに加え僕は人一倍不真面目で、ちゃらんぽらんで、福祉の道には進みそうもない大学生と見られていたと思う。

クラスで最初の授業で教室を見回したとき、革ジャン、オールバックにサングラスは僕ともう一人くらいであったろうし(今考えるとひどい格好だね。恥ずかしい!!なあトオル!!)、「仏のY教授」の授業では出席カードを受け取った瞬間に上級生を差し置いて堂々とエスケープする不真面目さを「もう少し遠慮してこそこそ出ろよ」と友達に言われたこともある。代返を頼んだことも数知れない。社会学のK助教授の授業ではスポーツ新聞を堂々と読んでいて、しかもめくる音が遠慮無しで、とうとう退室を命じられたこともある。

ちなみに老人福祉論は優良可の「可」で単位をとっている。ひでえ・・・。

いくら生意気に理屈を語っても同級生には説得力がないよなあ。でも、そんな僕も、ある時期から「更正?」して頑張ってるんだから過去のことは時効にしてもらおう!!

そんな僕ではあるが、彼女のメールに嬉しい一言があった。

『ブログを読ませていただき、「そうそう!」と、楽しく?読ませていただきました。こういう考え方って、あの大学の影響って大きいのだろうかとも』

その通りなんだ。不真面目な学生が、のめりこんでしまう大切なものを僕は当時のあのキャンバスの中で見つけることができた。酒を飲んだ後、薄野から大谷地まで歩いたなんて無茶もしたけど、そのときも何だか、この国の社会福祉の現状はいかん、なんてしゃべりながら歩いた覚えがある。

当時の頭でっかちで、何もわかちゃいない青さが言わせた言葉であるが、あのキャンバスで学んだり、友達と議論したものが今の僕の考え方の根底になっていることは間違いないし、それに共感してくれる同級生がいるということは、まさに僕らの体の中に、先輩たちが築き上げてきた北星の歴史と遺伝子が組み込まれているという気がした。

なんだか学生の頃の、青くて、酸っぱいような気持ちを少しだけ思い出した。

1分間タイムスタディの目的外使用?

要介護認定の見直しの流れ等については「要介護認定の見直しの背後にある影」にも書いたが、今、特養や老健で新しい介護の基準時間を設定する為のデータ収集として「1分間タイムスタディ」が行なわれている。

このことについて全老施協主催の「女性フォーラム」のなかで中村会長が語っている内容が興味深い。

1分間タイムスタディは新しい介護認定の基礎データとなるだけではなく次の報酬設定の基礎データにもなるというのである。その内容を読んで、なるほどと思ったので、その発言要旨をまとめてみる。

(老施協会長発言要旨)
厚生労働省が「1分間タイムスタディ」を特養、老健で実施しているが、そのデータとして
1.多床室とユニットケア型の介護量の差
2.日中と夜間のケアに基づく介護量の差
3.要介護度別の介護量の差

以上にも注目して調査しているが、これに顕著な差が出れば、次期介護報酬単価にも大きく影響する。「私たちにとって死活問題のデータだ」とし、例えば、多床室がユニットケア型に比べ介護量が少ないとされた場合、両者には大きな報酬単価差が生じ、多床室は「生活支援型」ではないとされ、報酬が大幅に減額される可能性に言及している。

また障害者自立支援法と同様に「日中介護」と「夜間介護等」の分離の為のデータともなり得る恐れがあると指摘している。加えて、介護度別で介護量が大きく差がでれば介護量が少ない軽介護者は介護保険から外すという根拠データになりかねないと指摘している。
(要旨以上)

つまり次期介護報酬では一律報酬を下げるんではなく、有資格者の配置等の加算など、サービスの品質保持に関する評価を設け、メリハリをつけ報酬増となる場合もあり得る、という考えを社会援護局長が表明していることは「次期介護報酬改訂に関する社会援護局長の考え方から見えるもの」で書いている通りであるが、その前提に、既存施設の多床室単価の引下げがまずありき、という考え方があるという意味である。

なるほどと思った。しかも1分間タイムスタディ自体の積算介護時間というものには胡散臭さ、実態との乖離があり、データの読み方でどうにでも取れる部分が排除できない。まず多床室報酬減ありきでデータを読む、ロジックを作り上げる。そういう可能性だってあるわけである。

しかし多床室の介護の手間は、個室における手間よりかかる場合がある。例えば、個室で着替えや排泄の援助を行う場合は、入り口から室内が見えない状態にすればプライバシーを守って、羞恥心に配慮したケアが出来るが、多床室であれば、それに加えて、ベッドの周りを囲むプライベートカーテンを引いたり、衝立を立てたり、更には物音や臭いにも配慮が必要となり、声かけにも、同室者の方に迷惑をかけたり、遠慮をさせないよう、様々な手間と労力がより必要になる、ということについては以前にも指摘している。

つまり個室のほうが多床室よりアメニティは高いが、介護の手間が多床室に比べて大きくなるわけではない。

導線上の問題、それが広がるというのであれば、それは施設全体の問題で居室の中の介助の問題ではないだろう。ここをきちんとみることが可能なのか?なんとも怪しい限りである。

これ以上、多床室の報酬が引き下げられたら、だれも多床室の施設を経営したくなくなるぞ。でもそのとき困るのは経済的負担に耐えられない層の高齢者自身ではないか。社会福祉のサービスは守られるのかという問題が一つある。

生活支援型というケアの品質は1分間タイムスタディで測れる問題ではないだろう。報酬にメリハリをつけて質を評価する、という次期報酬改定の自体とは、全体のパイを下げ、ユニット型施設に報酬を厚くした分を、既存の施設、特に多床室をターゲットに下げるというなら、非常に危うい改革といわねばなるまい。

経済的弱者には霞を食わせて生きろ、というのだろうか。

しかもである、会長の話によると老健局の考え方は「特養に入っていること自体が尊厳を支えるケアではない。生活支援機能施設はユニットケア型であり、ユニット型以外は施設でないと言っている」と発言している。

これでは既存施設でサービスの向上に努めている現場職員は浮かばれない。

せめて準ユニット加算でもとらなければ「駄目な施設」という烙印を押されているということなのか?ユニットケアが形だけで、ソフトが伴わないところだって数ある。既存施設でも加算算定はできていなくても個別ケアに取り組んで成果を上げている施設がある。そういうのは全部無視なのか?

形や建前より、利用者や家族の顔を見て、声を聞く、という血の通ったアウトカム評価が必要ではないか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

告知について〜死期を告げることの是非論

介護保険制度の改正で2号被保険者が介護保険の認定対象になる特定疾病に「末期がん」が加えられたことで、ターミナルケアの現場に介護支援専門員がより深く関わる場面が増えている。その中で末期がんであることの告知について、昨年「末期癌が特定疾病に追加されたことで生じる問題。」で現状と問題を指摘している。

また特養における看取り介護(ターミナルケア)においても「看取り介護計画」の同意を得る段階で、誰に計画を説明して同意を得るかについて、僕は、死期が近いという告知に繋がる「看取り介護計画の同意」を利用者本人から得ることのメリットは見出せず、家族に同意をいただいている現状を「看取り介護考〜死の告知。」の中で説明している。

これらの中で僕は、末期がんであることや看取り介護であること、つまり死期が近いという事実を本人に告げることは絶対に必要なことではなく、本人が知らずにいたほうが良いケースも多いことを主張した。

しかし僕は、末期がんであることの告知や、死期が近づいている事実としてターミナルケアを行うことを、何が何でも本人に告げるべきではない、という立場を取っているわけではない。むしろ自分自身に置き換えて考えれば、事実を伝えて欲しいと思う気持ちのほうが強いかもしれない。

しかし現実として、居宅サービスの現場で、介護保険サービスを導入したい40代の末期がんの方がいる状況で、家族が「介護保険のサービスを導入すれば本人が末期がんであることに気づいてしまう」という理由で、その導入をあきらめるケースが実際にあるし、そのお気持ちや、デメリットも十分理解できる。特養の看取り介護においては、その事実を本人に告げたケースはなかったし、それが正しい選択であったと思っている。

ところで、このことについて末期がんや看取り介護に関わらず、死期が近い、近い将来確実に死が訪れることを本人に告げるべきであるか、隠したほうがよいかという議論がされることは必要であると思う。しかしその議論の中身が問題である。

本当に「死」というもの、そこに向かっている人がその限られた時間を知ることの意味やショックを真剣に考えているのかと疑いたくなるような議論がある。現場の介護支援専門員でも「私が関わったケースから考えると、どちらかというと知らせないより知らせたほうが良かったケースが多いように思う。だから告知は必要」という意見がある。

あいまいな感想を根拠に、統計的な数値もなく、深刻な問題をあまりに主観に偏って議論を展開する見識を疑ってしまうことがある。

その介護支援専門員は何をもって「告知したほうが良かった」という事実があるのか。きちんと説明できるのだろうか。また告知しなかったケースは、告知したケースと比べて、どのようなデメリットがあったか明確に説明が可能な事実があるのか?主観や想像で論ずることが出来るような軽い問題ではない。

さらに9割の方が告知したほうが良いという事実があったとしても、では告知しなかったほうが良かったケースが1割しかないのだから、原則は告知が良い、ということにはならない。我々の軽率な言動の影響で、死の恐怖におびえながら終末期を過ごさねばならないようなことが、一人にでも生じさせてはならないのであり、告知すべきかは、確立や多数議論ではなく、常に個々のケースで様々な条件や環境を考慮に入れて考えるべきで、そうした現場に立ち会う医師や看護師や介護サービスの担当者が常に持つべき態度は「どちらが良いとは言えない」という態度を基本に「個々に考える」 とすべきだと思う。

実際の終末期医療や看取り介護に関わった経験がある方はわかる方も多いだろうが、告知を希望する人に対し、その希望通り告知したからといって、それがすべてよい結果に結びつくとは限らず、告知された数日後に自ら命を絶ってしまうケースもある。

また告知して、それを受け入れることができる方でも、家族しかいない場面で「死の恐怖」に懊悩する姿を見せる人もいる。世間一般、他者からは告知され、死期が近いことを従容と受け入れているように見えても、それ以外の顔を妻だけには見せ続けて亡くなられる方もいる。

こうした方々に本当に告知は必要であったのだろうか。

少なくとも告知することについては、そのことによってメリットもデメリットもあるし、告知しない場合も同じである、という理解が必要であろう。

以前、僕の施設の所属医師で、数多くの末期がんの方に関わっていた先生がいて、僕が告知は良いことか悪いことか質問したことがある。その時の答えは「告知しなかったことで起こる問題もあるし、したことで起こる問題もある。どっちが良かったかなんて自分が死ぬときでもわからんよ」 と言われたことがある。僕はこの言葉を常に噛み締めながらターミナルケアの場面に関わっていこうと思っている。

もちろん死期を知って、それに備えた様々な準備を行うことが必要な方もいる。それは理解できるし、告知が必要であれば、しかるべき方法で行ったほうがよいケースもあるだろう。

また告知してほしいという意思を明確にもって、それを表明している人に対し、そのことを否定して、その希望に反することはできないであろうと思ってはいるが、そのときでも告知による精神的ショックやそのことで生ずる障害は「あって当然」という認識を持つべきだし、それに対する支援準備を欠かせないと思う。

告知することと、しないことの「どっちがよいのか」という考え方を固定的に一つの答えとして持つ必要はないし、逆に、どちらかが良いと頑固に固執することは良くないと思う。

少なくとも、どちらが良いか判断がつかない場合は、あえて告げないほうがよいという立場を僕は取るだろう。

なぜならほとんどの人間は自分の限りある時間がいつ終わるか、あらかじめわからないところで、その瞬間を迎えるからであり、それが、神が与え賜うた人の「限りある命」というものの本質ではないかと考えるからである。

何が何でも全てを知っていないと幸福な人生とは言えない、ということではないのではないだろうか。

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のぼりべつケアマネ連絡協議会の定例会とその他の活動

今日は僕が代表を務める地域ケアマネ会の定例会の日である。

定例会は、勉強会+情報交換の場、として年間8回行なっている。そのうちの1回は他市町の地域ケアマネ会と合同で、3市1町合同研修会を開催している。合同研修は、それぞれの地域のケアマネ会が持ち回りで、テーマを決めた研修会(主に講演会)と親睦会がセットになっている。開催場所は担当地域の市町としている。

今年度(昨年10月)は白老町のケアマネ会の皆さんが頑張ってくれた。認知症をテーマにした講演の後、懇親会は有名な白老牛の焼肉パーティーだった。美味かった。来年度は当市が担当だが、白老牛に対抗しうる食材はないので少々困っている。室蘭は「室蘭やきとり」もあるのに登別は意外と食べ物の名物がない・・。話がそれた。

その他の例会は、年度計画の中で日時と担当グループを決めておき、それぞれの担当が企画して行なっている。形は様々でグループワークやパネルディスカッション等、テーマにあった形で進行する。先月は新年会も兼ね、オードブルと飲み物を囲んで「介護予防プランについての地域での問題」をテーマにグループ討議を行なった。

また年に1回は毎年、全国から著明な講師を招き、講演会を行なっており、この際は、ケアマネ会だけでなく、関連の諸機関に案内を出している。

その講演会の例会が今日、室蘭市の中島神社蓬莱殿という場所で行なわれる。

ただ金曜の午後6時から、という時間は、仕事を終え駆けつけても間になわない事業所も多いと思え、参加事業所も近くに限られるかなと考えていたこともあるが、3市1町合同研修に参加している地域ケアマネ会の事務局に協力していただき、それぞれの地域の関係機関に呼びかけてもらったところ、毎年思わぬ人数の参加を頂いている。今年も470人を越える参加申し込みがあり、最終的には500人近い人が参集すると思える。今日おいでになる方は駐車場も混むので少し早めにお越しいただきたい。

今年は「認知症のケアと診断」と題して、北海道医療大学心理科学部論証心理学科教授の中野 倫仁先生に講演をお願いしている。道内の講師の方にお願いするのは3年ぶりであるが、先生は全国的にも著明で講義も面白いと聞いているので期待している。

定例会は以上のように年8回だか、会の活動としては、他にも様々な地域との交流事業等も行っている。

来週2/23(金)の午後6時からは、医師会とケアマネ会(登別、室蘭合同)の定例懇談会(年1回開催)を予定している。地域で活動するケアマネの状況を医師の皆様にも知っていただく共に、保健、医療、福祉の連携のあり方を医師とケアマネが面と向かって議論できる貴重な場である。その内容については、再来週以降に紹介したい。

「在宅介護者の集い」など実際に居宅で介護をしている方々との交流の協力なども行なっている。

また当市では、地域福祉実践計画を市民中心で策定しているが、この策定作業にも会として参加協力し、昨年、登別市地域福祉実践計画『きずな』ができた。その計画のなかで「きずなを育て確かめる」ための市民向けの学習会が予定されているが、「市民のための福祉を学ぶ学習会」の支援を会に求められた。

具体的には3月と4月に1度ずつ、対象者20名程度の小集会で「在宅介護」や「介護保険」について市民にわかりやすく解説する、というもので、僕がテーマに沿って1時間程度のお話をして、その後、質疑等で1時間話し合う正味2時間程度の時間を持つ予定である。

一般市民の方で、介護の経験もなく、家族に要介護者もいない方も対象でどれだけ介護が身近な問題として感じていただけるように、わかりやすい話にできるか、がポイントであろう。面白くても中身がなければ意味がないし、中身があっても、わからない専門的過ぎる話でも意味がない。このさじ加減は少々難しいのである。

その他、各地のケアマネの皆さんの集まりにご招待頂き、お話をさせていただく機会も多い。遠くでは昨年、NA6さんのお招きで長崎市島原市の皆さんの前で講演をさせていただいた。一番先の予定では5/19に、道内空知地区のケアマネ会で講演をさせていただく予定がある。

ただそれは、のぼりべつケアマネ会代表というより、masaとしての立場で呼ばれている、という意味かもしれない。


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うどんと蕎麦。

昨日の昼食は、施設で出された「きつねうどん」を食べた。そのときふと考えたことを最近の出来事と絡めて書いてみることにした。

そば、うどんを比較すると、関東はそば、関西はうどんの文化だと聞く。

北海道は、どちらも好んで食べられており、うどん屋にも蕎麦はあるし、蕎麦屋にもうどんがあることが当たり前の感覚である。僕も子供の頃から両方を食べていたように思うし、施設でお祭り等の行事を行う際も、うどんとそばは、どちらも必ず提供メニューに入るが、人気はほぼ2分する。

もちろん普段の給食メニューの中でも、麺類といえば、ラーメン、うどん、蕎麦の出される割合は季節に関係なく多い。しかし、たまには外で評判の店でうどんや蕎麦を食べに出かけたいと思うのは、各家庭でも施設で暮らす高齢者でも同じであろう。

ところで近くに、うどんと蕎麦が評判の店がある。最近そこのご主人から電話を頂いた。聞けば、ここの施設を訪れ、お店で出しているうどん、蕎麦をつくってお年寄りに食べていただく機会を持てないかという相談である。もちろん費用はかかるが、儲けを目的としたものではない。

動機について尋ねてみると、去年、当施設の利用者が、お店にお邪魔したときに、一緒に来る予定だった人がたまたまその日体調を崩されて、行けなくなった、という話を聞いたが、その後もその方が来た様子がないので、体調が悪くて店に来られない方がいるんだと考えていて、そうした方にも是非食べていただく機会を作りたい思った、ということである。

夏から秋にかけて、外出を希望する方はいろいろなところに出かけている。昼食を外で摂る機会も作っている。その中で、そういうことがあったようである。ただこの冬の時期はどうしても外出する機会は少なくなるし、外食希望もほとんどないから、その日たまたま機会を逃した方が、行けないままになっていたのだろう。そういう話をお店で聞いたご主人が、今度はその方がいつ来るんだろうと気にかけていた、ということだろうと思う。

流行っていないお店ではないので、昼時に店主がわざわざ施設にやってきて、お店のメニューと同じものを作って提供するのは、そんなに簡単なことではないだろう。いくばくかの料金を支払うといっても、実費に近いもので商売としての問題ではないと思う。

施設でお店にあるものを食べる、ということは施設から出かけてお店で好きなものを選んで食べることとは少し意味が違うが、しかし特養に住まう人の中には、様々な事情で、どうしても外のお店に出かけるのは難しい方がおられる。そうした方にとっては、喜ばれる機会になるだろうと思って、栄養士に相談して、実現を図るべく計画している。

しかしこれはイベントではなく、普通の食事と考えている。こんなことまで非日常にしてはいけない。ごく自然に、そういうメニューの日もある、ということが重要だ。

その日は施設の中でも通常の食事は作り、希望者は、そのお店の(今回は単品、手延べの天ぷらうどん)提供メニューを選べる方法にした。食材料費は通常の費用の中で賄えるので選択した利用者も別料金を支払う必要はなく、施設で出すものと、うどんと好きなほうを選べるという形である。お店の方の支払いは、施設の給食費の中から支払うこととしてみた。

問題がでてきたら変えればよいので、今回はこの方法で行なう。「慣れてきたら複数のメニューから選択も可能ですが今回は単品で」というご主人の話もあるので、定例化することもあり得る。こういう地域との交流だってある。

いい事かどうかはわからないが、こうしたメリハリのあることもときには悪くはないだろう。地域の中に出かけていくということは、地域の人に、施設があり、そこに住まう人がいるということを知ってもらえるということで、それをきっかけに施設に足を運んでくれる人が増えることが、施設が「特別な場所」ではないことを知っていただく機会にもなる、というふうに考えもよいが、しかし現実には、そんな難しいことを考えないほうが良いと思う。

なぜなら、こういう話があるんですけど、あそこの店のうどんを食べてみたいですか、と聞いたときに「ウン」という声が多ければ、そのことが大いなる動機付けになり得るものだからである。

その結果が利用者の笑顔であれば言うことはない。

我々の介護サービスは、まず「個人が望む暮らし」 をどれだけ実現できるかが重要なのだから。

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在宅復帰支援施設(中間施設)に必要なもうひとつの視点

今日は老健の優れた療法士の皆さんに、怒られることは承知の上で、次のような問題提起をあえてしてみたい。

老人保健施設は老人保健法の中で、在宅復帰支援施設(中間施設)を理念として誕生した経緯がある。介護保険法の施行後、それは介護老人保健施設となったわけでが、中間施設の役割を放棄してよくなったわけではない。

ただ一部の老健では、介護保険制度誕生以降、特養と変わらないような長期入所施設に様変わりしてしまったという結果が見られ、15年のルール改正時は「老健の在宅復帰支援施設としての機能強化」という観点から、老健における訪問リハビリを認め、これを活用することが奨励された。報酬も本体報酬は減算されたが、リハビリ関連の加算報酬を作って、リハビリ機能を前面に押し出す誘導が行なわれた。

昨年の改正でも試行的退所の費用算定が新設されたことは、在宅復帰支援機能のさらなる強化という意味がある。リハビリテーションマネジメントや短期集中リハビリも、専門的リハビリの実施をより強く求めたものであろう。

今、介護保険施設は23年末の療養型廃止に伴う再編論の中で、特養と老健の機能見直しが行なわれている最中であるが、老健の中間施設の機能が見直されるということはないと思う。

しかし老健が真に在宅復帰機能を発揮しているんだろうか。
もちろん老健の中には在宅復帰率の高い施設も実際にある。ただ、ここで考えて欲しいのは、単に結果として自宅に戻る高齢者の割合や、数が多いという意味だけではなく、どういう生活を在宅でできるのか、そのために施設入所期間中にどのようなサービスが行われているのか、という意味である。終生生活施設との差別化はどこで図っていくべきなのだろうか。

そこで在宅復帰支援施設としての老健が、あまりにも医学モデルの機能訓練、理学療法や作業療法に偏ってリハビリが考えられていることで見失ってしまっているものはないか、という点を考えてみたい。

勘違いして欲しくないのは、僕は療法士の行なう個別リハビリをすべて否定しているのではなく、それに加えて必要なものはないか、ということを言いたいのである。

まず僕は在宅復帰を支援する施設や事業所の過度な(?)バリアフリー化は必要ないと思う。玄関の自動ドアや段差解消が「当たり前」という感覚ではなく、自分で開けることができる玄関ドアや、上がり框をあえて作ることも必要ではないだろうか。居宅で暮らすために、必要な段差がある暮らしを施設の中に取り入れる視点があっても良いのだ。住宅改修ですべてクリアするのではなく、普通の住宅での暮らしを想定した小さな段差や、不便さを感じながら、そこで暮らすための機能活用を考える視点も必要だろうと思う。その上で、どうしてもクリアできない部分だけを住宅改修や福祉用具貸与で補うことのほうが必要な支援ではないだろうか。

それから施設サービスにおいてもっとも欠けているのは、家事能力に対する機能活用のプログラムではないか。施設サービスの中で、自分で煮炊きしたり、洗いものをする行為、あるいはそれらができなくても何らかの役割を持ってその一部に関わる機会は以外と少ない。

なぜそれが必要かと問われれば、それは居宅には療法士がいない、という意味からである。

在宅復帰できる状態に身体機能が改善しても、その機能を生活の中で使わなければ廃用は進行する。自宅で身体機能を維持する為には訓練を継続するのではなく、生活の中でいかに機能を活用維持できるかという視点も必要ではないだろうか。インフォーマルな支援があったとしても、その中で家庭で高齢者が生活の中で役割を持てる、という生活が必要で、一方的にケアを受けて生活する、ということだけではなく、また家庭でケアできる、という介護者の論理だけではない在宅復帰支援が必要ではないだろうか。

訓練室の中でしか使わない機能では意味がないのである。施設におけるリハビリの視点を、もっと居宅の生活に近い形と場面で機能活用する働きかけが必要だ。そうでなければ在宅復帰施設の機能訓練が、ともすれば本人の生活の為ではなく、介護者がいかに楽に介護できるか、という視点に偏ってしまう恐れが無きにしも非ず、である。なにより生活者としての利用者が居宅でどんな暮らしができるかが求められるべき視点と思う。

ユニット施設で行う高齢者自身の家事参加と、そこで展開する支援は何も認知症の方々のケアに特化して考えなくても良い。家事参加がメインサービスである老健ができたって良いと思う。新型老健はその方向に行くのだろうか。そうあって欲しい。

医療の専門家としての医師や看護師、療法士が配置されている施設に、非専門的な日常のケアへの視点がプラスされれば、これは大きな武器になるのではないか。

なにしろ僕は何度も言っているが人の生活はもっとも個別的で非専門的であるのだから。

介護・福祉情報掲示板(表板)

要介護認定の見直しの背後にある影

先週末、共同通信社から配信され、新聞各社などで報道されている「要介護認定の見直し」。
しかしそのこと自体は別に新しいニュースではなく、介護認定ソフトは、見直し・修正することが決まっていた。そして2002年のソフト改正では行われなかった基礎データである1分間タイムスタディの見直しも既方針である。

それは、昨年の制度改正で新たに要介護者と要支援者の区分が変更になったのに、判定ソフトのロジック自体は変更がなく、審査会で要介護1相当となった対象ケースを要支援2と要介護1に振り分ける作業を行っているわけであるが、この要介護1相当も1次判定から要支援2と要介護1という判定ロジックに組み替えることは出来ないか、という考えが始まりであった。

その中で、82項目の基本調査の結果、介護に要する時間を割り出している基礎データ(1分間タイムスタディ)も古いデータとされ、実態と乖離が見られることで見直しが求められることになった。

ただ、今回の報道により見えてくる部分は、この見直しの中心が、予防と介護の区分の明確化ではなく、実はその軸足は障害者福祉制度が介護保険に組み入れられることを想定して、若年者の要介護状態をも表せるロジックを組み込もうとするものだ、ということである。

洗濯や掃除、炊事がどの程度できるか、を問う「家や地域での日常活動」や、一人で外出可能か、時候のあった服を選択できるか、を判断する「日中の過ごし方」という調査項目に追加し、100項目を超える調査内容となっている。障害者と高齢者の介護サービスの統合の既成事実化が様々な場面で行われていくということであろう。

介護認定について言えば、手続きの簡素化を行うといっても、調査自体は項目が増えた分だけ時間もかかり、内容によっては正確を問うには本人以外への聞き取りも必要になってくる。

しかも肝心な点は、項目がいくら増えても実際の状態象に近い判定結果に結びつくとは限らないということだ。むしろ調査項目が増えるということは、それに対して介護の手間を導き出す樹形図の枝が増え、複雑化する、という意味であり、そこには当然逆転現象(あきらかに介護の手間がかかる項目を選択すると基準時間が減る;あるいはその全く逆)の出現率も高くなるということだ。

現在のソフトでも、下肢の筋力低下が「ある」にチェックされているものの「筋力低下」のチェックをはずすだけで1次判定が1ランク上がるケース等がある。新ソフトでも 、時候のあった服を選択できる人のほうが、出来ない人より1次判定が重度に出るなんていうケースがあり得るわけだ。

1分間タイムスタディの結果を、あの複雑な樹形図に落として介護の手間時間を出し、その積算時間を判定基準時間としている限り、枝の分れ方により逆転現象が起こってくることを完全になくすことは不可能に近いからである。

だから過去に使われた要介護認定ソフト1999も、今の2002も逆転現象が解消されていない正確性に欠くオンボロソフトである、と言われているのである。

「実態と乖離が見られる」という現象は、基礎データの集積を新たに行って改善できる問題ではないと思う。

そもそも居宅で介護しているケースの介護の手間の時間も、施設や医療機関で基礎データ集積が行われている。実態と乖離するのは当たり前だろう。こうした状況を見ると、新たな認定ソフトも正確性や介護の現状に即した判定を導き出せるものにはならないだろう、という結論を導き出さざるをえない。

そういう意味での期待は持てないのである。

それよりも心配なのは、過去の介護認定ソフト改訂でもみられた「操作」が行われないかという危惧である。

要介護認定ソフト1999から2002への変更理由については「運動能力の衰えていない認知症」 の対象者の判定をより正確に出来るように、ということでルールが一部変更されたが、それよりもその際の変更では、1999で要介護2と判定していた層も要介護1に取り込む判定ソフトとなっている。

そうすると「介護保険制度の向かう方向に関する1考察。」でも指摘しているところであるが、介護予防サービスの範囲を要介護2の一部まで広げたいという国の意向は、ルールを変えなくても新判定ソフトで、現在の要介護2の認知症でない層まで要支援2に取り込むロジックにすれば目的が達せられ、眼に見えないところで批判を受けない形でそういう方向にしてしまう可能性が排除できないのだ。

しかし我々は、出来あがったソフトのロジックをいくら検証して、問題点を指摘しても、何も変えられない。一方的に与えられる側である。作る側の見識に頼るしかないか・・。

どちらにしても新ソフトで「オンボロ」が修正される、という期待はしてはいけないということである

介護・福祉情報掲示板(表板)

スタイルシートを更新

今日の土曜は、仕事も休みである。いつもならブログの更新もお休みするのであるが、デザインを変えることにして朝から作業を行っている。知識が不足しているのでスタイルシートの更新の際、わからないことがあって完成はしていないが、大方、公開できる形にはなったので、一応新デザインに更新した。

タイトルの画像は、オフロードバイクである。

高校時代、バイク、特にオフロードバイクが好きでスズキのハスラーというバイクを乗り回していた思い出があるが、この厳しい制度の中で、道なき道を走り続けていく、という今日の福祉現場の状況を象徴する意味もある。

ところで僕の愛車ハスラーは、僕が大学4年のある日、弟が事故を起こし廃車にしてしまった。

その日は札幌のホテルで知人の結婚式に出ていたが夜、帰宅すると家には誰もおらず、夜中にけたたましく電話が鳴った。市立病院からで、弟が事故で緊急手術をしているという。酒の酔いも一気に覚め、病院に駆けつけると、頭を打った弟の手術はまだ続いていた。朝方までかかった手術は何とか成功したが、その後彼は生死の境を行き来し、家族も覚悟したことがあった。彼が17の冬である。

幸い死の淵から生還した彼は、その後、後遺症も残らず、本州のある大手企業に就職し原子力発電に関わっていたが、様々な事情で数年後に北海道に帰ってきて、別の職業についてた。

しかも10年ほど前、かれは再び交通事故を起こす。バイクの事故は彼の過失ではなく相手側の過失によるものであったが、今度の事故は、彼の運転する車の単独事故であり、しかも酒気帯び運転で言い訳の出来ない事故であった。

そして彼はあの日と同じように手術室に横たわり、僕の父母は再び医師から覚悟を促された。

幸い、その時も彼は生還した。足にはやや障害が残ったが、日常生活に支障はない。しかし酒気帯びの事故で、事故を起こした車も会社のもので、地元の新聞にも大きくそのモラルと共に取り上げられた。当然、責任は免れず、解雇もやむを得ない状況である。

しかしその時、なぜ彼が会社の車両を酒気を帯びた状態で運転したのか?警察の事情聴取の際にも、会社の上司からの聴取にも、彼は自分の責任以外、一言も語らなかった。やがて解雇の方針が決まったとき会社の同僚や後輩から、情状酌量、解雇反対の声が上がった。

彼の会社は全道チェーンの飲食業であるが、不思議なことに、それらの声が全道の支店から寄せられた。

結局彼は、給与の7割カットと東北に進出した支店への配置転換という形で会社に残った。そして全く見知らぬ町で働いた数年の間に、店の同僚と結婚し家庭を持った。

そして東北の支店の業績を上げ、昨年札幌の支店に店長として戻ってきた。両親は僕と離れた実家で暮らしていたが、父が入退院を繰り返して体調が悪いときで、彼が奥さんと共に実家に同居してくれたことは、僕も安心したし、何より両親が喜んだことだろう。

その父が昨年9月に急逝した。弟夫妻が同居するようになってから、わずか5ケ月後のことである。しかし父は体調が悪いながら、自宅で生活し、倒れて心停止したときも、弟の妻に、母と一緒にドライブに連れて行ってもらって(僕の父は若い頃から自分で運転は出来ないのにドライブ好きであった)、帰りに大型量販店に寄っている最中の事であった。

僕と弟は倒れたときには間に合わなかったが、母と弟の妻によって充実した時間を過ごした中での出来事であったと思う。父は一旦心臓が動き、その1週間後に死亡したが、最後まで意識は回復しなかったものの最期は孫も含め全ての家族に見守られて逝った。弟夫妻が短い期間でも同居してくれて本当に良かった、と思う。

弟は事故に2度も会うという不幸に見舞われ、運が悪いという見方も出来るが、あえて僕は、そんな大事故で命が救われてことを幸運と思う。目に見えないものに感謝している。

命があることで、たくさん幸せが彼にも彼の周りにも生まれてくるのだ。本当にあの時死ななくて良かった。死んだ父が一番そう思っているだろう。弟より先に逝けて喜んでいるかもしれないと前向きに考えても良いと思う。

僕のつぶれて廃車になったオフロードバイクも、僕らの人生の肥やしになってくれているはずだ。タイトル画像にはそんな思いもある。人生何事も前を向いて歩かなきゃあ。


今日は別の事を書くつもりだったが、高校生の頃、大学生の頃を思い出して妙に感傷的な気持ちになって僕自身の話で終わってしまった。認定調査の変更の話題は別の機会に書きたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護老人福祉施設の主な改善指導事項(道資料)を読んで感じたこと

北海道介護保険課と北海道厚生局の平成18年度合同指導結果概要の資料を見ている。主な改善指導事項に6項目挙げられているが、その内容を紹介しながら、少し考察してみたい。ほとんどの項目は老健や療養型も共通して参考にできると思う。

1点目、重要事項説明書に事故発生時の対応や苦情処置の説明がない点を改めることとしている。内容の不備で、これは他の方々も確認したほうが良い。

2点目は、栄養マネジメント加算の算定について、栄養ケア計画の同意をいただく前から加算算定している場合、同意を得ていない期間はすべて遡って報酬返還を求めている。算定ルールを遵守していない、というよりルール自体を確認できていない施設や、拡大解釈している施設が多いようだ。注意が必要である。個別機能訓練加算やリハビリテーションマネジメント加算も同様のことが言えるであろう。

3点目は、当施設の実地指導でも指導されたが、運営規定や重要事項説明書などは冊子にして設置していても掲示にはあたらないと指導している。これについては「文書指導〜実地指導の結果」で意見を書いているので参照してほしい。

4点目は療養食加算についてであるが、「加算算定の対象とならない食事箋により算定分を返還せよ」となっており「経管栄養の濃厚流動食は対象外」という説明がある。つまり未だに特別食加算の時と同様に「経管栄養の濃厚流動食」を療養食加算として算定している施設があるということである。なんだかなあ、というレベルの話である。

重度化対応加算については、看取りに関する指針の家族への説明同意の状況が不明瞭とされている。重要事項説明書にこのこともきちんと記載しておくべきであろう。なにより説明できる形で看取り介護の指針を作っているのか、職員間の意思統一は図られているのか、という基本的な問題も関わってくるだろう。定期的な「看取り研修」の実施とあわせて十分な取組が求められる。

最後に老企54号関連で特養ならではの指摘事項がある。全文を省略せず転記する。

「入所者の私物の洗濯を、外部のクリーニング店に取り継ぎ、自己負担としているが、介護老人福祉施設における入所者の私物の洗濯については、基本的に施設サービスとして保険給付の対象としていることから、入所者から費用を徴収することは不適切である。今後は、入所者の希望により個別に外部のクリーニング店に取り継ぐ場合のクリーニング代を除き、費用の徴収はしないこと」

「入所者の私物の洗濯を、外部のクリーニング店に取り継ぎ、自己負担として」と「所者の希望により個別に外部のクリーニング店に取り継ぐ場合のクリーニング代を除き」の両者の意味の違いが分かるだろうか?

つまり私物の洗濯代金については「介護老人福祉施設である特別養護老人ホームは、従来から在宅生活が困難な入所者の生活の拠点としての機能を有しており、介護サービスだけでなく、入所者の日常生活全般にわたって援助を行ってきたところであり、入所者の私物の洗濯等も基本的に施設サービスとして行われてきたものである。したがって(5)の�イ痢峪篳�の洗濯代」については、入所者の希望により個別に外部のクリーニング店に取り継ぐ場合のクリーニング代を除き、費用の徴収はできないものであること。なお、このクリーニング代については、サービスの提供とは関係のない実費として徴収することとなること。」

とされており施設のサービス費の中で対応しなければならずクリーニング代金を利用者に自己負担させてはならない規定である。ただし「入所者の希望により個別に外部のクリーニング店に取り継ぐ場合」はクリーニング店に支払う実費は利用者負担させて良いというルールだ。この希望とは施設が私物の洗濯を行っているという前提で、それを希望しない場合や背広など一般の洗濯機で対応できないクリーニング代金は取り次いで利用者負担としても良いというルールである。

ところが指導を受けた施設は、自施設で洗濯を行わずに、すべて外部業者に取り次げば自己負担させて良いと拡大解釈したものであろう。でもこれって勘違いか?あまりにも常識はずれな判断で指導されれば是正しようという確信犯的な行為のように思えてならない。

もちろんこれは許されるものではない。

ただ私物の洗濯代は、同じ介護給付費で運営されている老健や療養型は「その他の日常生活費」として徴収できる。特養だけ不可だ。これはあまりにも不公平だ。措置費の時代はそうであった、といってももう措置費ではなく財源も使途も同じはずの介護給付費の使い方であり、これが特養だけ中身が違うというのは大きな矛盾だ。

介護保険施設の中で、私物の洗濯代を特養だけが利用者負担させられないことを「当然」というような考え方は見直していく必要があり、もうその時期ではないかと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

療養通所介護の課題(下)〜なぜ広がらないか。

このブログは滞在先のホテルで書いているが、PCさえ持ち込めば部屋で自由にネットに接続できるホテルが多くなって本当に便利になったものだと思う。だから僕の出張にはいつもPCだけは忘れられない。

さて昨日からの続きである。

本来医療系サービスとして考えられていた通所看護が福祉系サービスである通所介護のサービス「療養通所介護」に転換された経緯は昨日書いた通りであるが、このサービスを必要としている人が地域に実際にいることは理解できても、通所介護事業として考えると、このサービスは、なかなか実施しにくい介護サービス事業であるといえるのではないだろうか。

まずこのサービス事業の人員配置基準では

イ 管理者は、看護師でなければならない。
ロ 当該指定療養通所介護事業所における看護職員又は介護職員の数が、常勤換算方法で、利用者の数が1.5又はその端数を増すごとに1以上であること。
ハ 看護師がサービス提供時間を通じて1以上専従しているものであること。

つまり一般の通所サービスにおいて管理者は、看護師でなくても良いが、このサービスを行う場合、看護師(准看護師は不可)を管理者として配置せねばならない。そして看護職員の配置も一般型は「提供時間を通じて」配置する必要はなく、併設の施設との兼務で可であるが、それも不可となる。常勤換算法による配置でも利用者の数が1.5又はその端数を増すごとに1以上にしなければならない。

看護師自体を募集しても、なかなか人材がいない昨今の状況で、常時継続安定的に、この基準を満たすことができる事業所はそう多くはないと感じる。

それでもって事業収入は一人当たり、介護報酬+1割負担分で3〜6時間未満:10.000円 6〜8時間未満:15.000円である。しかもその対象者は

ニ 利用者は難病等を有する重度要介護者又はがん末期の者であって、サービス提供に当たり、常時看護師による観察が必要なものであること。

とされ後(のち)に、例外的に難病やがん末期に併せ、サービス担当者会議等において、主治医が療養通所介護の利用が不可欠であると判断する者についても対象とする取扱いとする。としたものの、自ずと利用者の対象範囲は限られたものとなり、毎日、この利用対象者がいるとは想定しにくく、看護師配置を厚くしていても利用者がいない日も多い、という状況が考えられる。

さらに、基準通知を見てもわかるように一般型の通所サービスと異なり、療養通所介護は、事業所に到着してからサービスが始まり、当該事業所から利用者が帰宅の為に出発した時点でサービスが終了するのではなく、

「利用者が当該療養通所介護を利用することとなっている日において、まず当該事業所の看護職員が利用者の居宅において状態を観察し、通所できる状態であることを確認するとともに、事業所から居宅に戻ったときにも状態の安定等を確認することが重要である。従って、利用者の居宅に迎えに行った時から、居宅に送り届けたのち利用者の状態の安定等を確認するまでをも含めて一連のサービスとするものであり、これらの時間をあわせてサービス提供時間とする。」 というサービスであり、これは一面では送迎時間もサービス提供時間となり合理性があるように思える。

しかし別な一面からは、迎えにいって確認しないと、その日のサービス利用が実際にできるかどうか、わからないという意味でもあり、かつ、このような確認や利用後の安定の確認の為には、当該利用者の居宅における看護師の対応時間も相応に必要となるという意味である。そのことを利用者の状態像と合わせて考えたとき、乗り合い形式の一括送迎車両にこの利用者を含めることはできず、個別の車両による送迎対応が必要であろうことが想像できる。

つまり送迎体制もそれ相応の人的配置と車両が必要となってくるものである。

加えて医療機関との連携では、
ホ 緊急時対応医療機関は、同一の敷地内に存し又は隣接し若しくは近接していなければならない。とされている。この意味について「近接の定義は、社会通念上一体とみなされ、緊急時に対応できる距離。車で何分というのは想定していない。なお、緊急時対応医療機関は別法人でも可。
」とされてはいるものの、併設医療機関がない場合は、緊急対応のシステムを契約等で定めておかねばならず、別法人で委託料などを必要としないでこの協力体制を作ることができるのか、などの課題もある。

こう考えたとき、看護師や送迎人員に係る職員配置、人件費や重度医療対応者を受け入れる際の機器や医療支援協力に係る費用を鑑みて、あの報酬で経営が成り立つのかというコスト計算では、なかなかその実施は難しく、躊躇せざるを得ない要素が多い。

加えてどうしても、医師の配置されていない場所で行うサービスとして、利用者の状態を考えたとき不安をすべて払拭することができない。

これがこのサービスがなかなか地域の中で、通所介護の枠組みとして広がっていかない原因ではないだろうか。

繰言になってしまうが、やはりこれは医療系サービスの中で位置づけられ、医療機関の一部をサービス提供場所としたり、訪問看護ステーションの協力や介入が必要なときに行なえるサービスとして位置づけられる必要があったのではないかと考える。

対立とはいわないまでも、国と医師会の意見の違いが、利用者の利用形態としての利便性を損なう形でニーズに一部合致しない形で、通所看護を療養通所介護に変化させてしまったという結果になっているのではないかと感じている。

療養通所介護の課題(上)〜制度への位置づけの経緯。

今朝このブログを見た方は、今日はやけに早い時間から更新していると思っているだろう。 実は、今日は札幌に出張である。朝7時過ぎの高速バスに乗らねばならないので、(何も毎日ブログを更新しなくて良いとは思うが)ネットの管理を朝早くしていたら、書きたいテーマが浮かんだ。 ところで昨日から札幌雪祭りである。この時期の札幌1泊出張は宿泊先の確保も大変だし、宿泊料も普段の倍である。迷惑な話だ。というわけで今日明日は、ブログ更新は朝になる。明日朝もホテルの部屋にPCを持ち込んで更新することになる。表の掲示板も日中はレスポンスをご遠慮するのでよろしくお願いします。 昨年の制度改正では、いくつかの新しいサービスがこの制度に位置づけられた。 しかしそれらは、すべてモデル事業として取り組まれた結果、効果が認められ、モデル事業の方法をベースに制度の中に組み入れられたものである。 その代表的なものとして、小規模多機能居宅介護が挙げられるし、夜間対応型訪問介護もナイトパトロールとしてモデル実施されており、特養の加算サービスとして位置づけられた在宅・入所相互利用加算もホームシュアリングとしてモデル事業化されていたものである。 だが、それらとは明らかに違った経緯で制度に位置づけられたサービスといえるのが「療養通所介護」ではないだろうか。 通所介護事業所の経営者や関係者のなかでも、昨年の制度改正案が出されたとき、突然のように、通所介護の項目の中に「療養通所介護」というものが位置づけられたことを「これって何?」という感覚で見られた方も多いし「なぜ唐突にこんなサービスが通所介護の中に加えられたの?」と感じられた方も多いはずである。 しかし、このサービスのモデル事業が行われていなかったというわけではない。というより、むしろナイトパトロールやホームシュアリングより話題となって取り組まれていたはずである。 ただし、そのモデルは福祉系サービスである通所介護としてのモデル事業ではなく、医療系サービスとして「通所看護」というモデル事業の中で取り組まれていたものである。 その必要性については当初「医療的ケアを常時必要とする人は、医療職の少ない通所介護や短期入所では受け入れてもらえないことが多い。医療行為ができない訪問介護にも頼れない。家族の負担は重く、本人も家にこもりきりの暮らしを強いられがちだ。」と指摘され、「重い症状でも家でみたいという家族には、それだけ相手を思う気持ちが強い。その思いを受け止め、支える仕組みを作る必要がある」という観点から、「訪問看護ステーションの利用者に対して、通所により、訪問看護の延長線上で、よく状態を把握した看護師が専門的・継続的看護を提供し利用者の状態の改善を図る。また、介護する家族のレスパイトおよびエンパワメントによって、在宅生活の継続を支援する」サービスとして考えられ行なわれていたモデル事業であり、これを「通所看護」と呼んでいたものである。 そして、通所看護モデル事業の多くは医療機関の一部のスペースを使って行なわれ、日中通いで看護対応が必要な方々のケアを医療チームのバックアップにおいて行なう、というサービスであった。 それがなぜ制度改正案で医療系サービスではなく、福祉系サービスの「療養通所介護」に変わっていったのであろうか。 その理由は明白である。通所看護の介護保険への導入について、日本医師会が反対し、国と調整がつかなかったのである。 反対理由を都道府県医師会・介護保険担当理事連絡協議会の議事録や各都道府県の医師会報告書によると、医師会側は 「日医としては、医療との連携がなければ通所看護を認めるわけにはいかないと考えている。」 「今回の改正において、看護協会から通所看護という言葉が提唱されているが、医師と看護師が協力してはじめて医療依存度の高い患者さんが守られるという視点から、それは絶対に駄目であると主張し厚労省にも断念していただいた。」 としている。つまり反対理由はモデル事業で行なわれた通所看護に、医師の介入、指示など、診療報酬上の手当に繋がるものも一切なく、医師の介入が薄い看護師対応サービスであっては認められない、というものである。 これに対し国はほとんど明確なもの(モデル事業の通所看護はなぜ導入を見送ったか)を表に出してはいない。しかし報酬改定案を見ると医師会が言うように「厚労省にも断念していただいた。」という結果ではなく、医師会があくまで反対するなら、それはそれで構わない、医療系ではない福祉系サービスで同じ事を行ないますから、という結果になっている。 かくして通所看護は「療養通所介護」という福祉系サービスである通所介護の1形態として姿かたちを変えて制度に位置づけられたのである。そうなると、今後の制度改正に備えたモデル事業で再び「通所看護」が「医療との連携を強めた形」で再度試行されるという可能性はほとんどなく、通所介護のサービスとしての療養通所介護が見直されていくという道しかないということではないだろうか。(明日へ続く) 介護・福祉情報掲示板(表板)

文書指導〜実地指導の結果

1月25日に当施設で行われた実地指導の結果通知が先週届いた。

文書指導として以下の3点が書かれている。(注:社会福祉法人監査の文書指導ではない。意味はそれよりは軽い)要約せず全文を掲載する。

1.身体拘束に係る記録について
緊急やむを得ず身体拘束を行う場合には、その様態及び時間、その際の入所者の心身の状況、緊急やむを得なかった理由を記録する必要があるが、当該拘束時における様態や時間等の具体的な記録が行なわれていないので改善すること。(H11厚令39-11-5)

2.掲示について
施設内には、運営規定の概要、従業者の勤務体制、協力病院、利用料その他のサービスに資すると認められる重要事項を掲示する必要があるが、貴施設においては、それらの事項を冊子にして設置している状況にあり、掲示が行なわれていないことが認められたので、掲示すること。(H1厚令39-29)

3.苦情処理体制の掲示について
苦情に係る相談窓口、苦情処理の体制及び手順等当該施設における苦情を処理するために講ずる措置の概要について、施設内に掲示が行なわれていないことが確認されたので、掲示すること。(H12老企43-4.59-(1))

さて文書指導内容の考察と対策を次に記してみたい。

1について「緊急やむを得えない拘束」がいつも行なわれているわけではなく、現に今もないが、たまたまやむを得ず行なわれていた際の記録に一部不備が指摘された。もちろん未実施減算が適用されるような記録不備、基準違反ではない。

つまり拘束同意書など一連の手続きの書類はそろっていて拘束を行なった記録はあるのだが、個人ごとの支援記録に1日の中で、いつ拘束を行ない、それがやむを得ない状況で、いつそれを終了したのか、その際の利用者の様子、状況等はどうであったのか、拘束を行なわなくてよいという考察を常に行なっていたのか、という記録が曖昧であった、あるいは記載されていない部分がある、ということである。

当該ケースは、昨年1度2週間ほど拘束対応したケースであるが、重度認知症の方で、心疾患を患い、入院してペースメーカー埋め込みを行なった。本来なら状態観察のため入院継続が必要な状況であったが、認知症の周辺症状から継続入院が困難になって、施設に戻って、通院しながら経過対応していたケースであり、病状から一時的に酸素吸入が必要になったが、理解困難で酸素マスクを外してしまう行為が頻回にあったため、命にもかかわりかねない状況で、一時的にミトン対応したケースである。つまり酸素吸入時のみミトン手袋をはめてマスクを外さないようにすることを家族に同意を頂き対応したケースである。

しかしその時期の支援記録を読むと、なるほどその日のいつから、いつまでミトンを使ったか、そのときの利用者の表情や感情はどうであったかなどの記載が不明瞭である。

おそらく酸素をする時間にしか行っていない行為で、その時間もほぼ固定的で、かつやむを得ない状況ということで支援記録にまで詳しい状況を書かなくても「現場の職員は理解している」という意識もあったのであろう。状況も特に焦燥不安感がみられていないということで詳細を記録するような状況はなかった、という判断であったろうと思う。

ただ「緊急やむを得えない拘束」であっても常にしなくて良い方法を考えるべきで、指摘事項はもっともだと思った。これについては実地指導が行われた翌日に職員には次のように改善の文書を回覧した。

緊急やむを得ない身体拘束を行なった場合の記録について(連絡)

身体拘束廃止委員会において検討後、家族等の同意を得て緊急やむを得ない身体拘束を行なった場合は、当該拘束を行なっている期間中は毎日の日誌及び支援記録(個別ファイル)に拘束を行なった時間、拘束の内容、その際の利用者の状況(様態)について必ず記録を行なうこと。
同時に、当該拘束を中止できないか、常に考察を行なうこと。(←ここまでが連絡文書)

次に2と3の指摘についてである。これは冊子にしてファイリングしたものをホールの掲示板にかけてある。これは基準省令で定められた「掲示」には該当しないから改善しなさい、という指導である。

実は以前は全ての文書を掲示板に貼り付けていた。これなら「掲示」そのもので問題ではないはずである。しかし今回、それをやめてファイリングしたのには、それなりの理由がある。

まず掲示すべき文書の量の問題。
運営規定の概要、従業者の勤務体制、協力病院、利用料その他のサービスに資すると認められる重要事項、苦情に係る相談窓口、苦情処理の体制及び手順等当該施設における苦情を処理するために講ずる措置の概要。これらを全て掲示し、制度改正で変わった部分を付け加えたりしていく過程で、掲示板に張り切れなくなった。量が増えれば縮小しても貼り付けてくださいというが、元文書でさえ細かい文字を、さらに縮小したら、読みづらいだろうなあ、と思う。

それから「家庭的雰囲気のしつらえ」としての問題。
生活空間としての食堂やホールに、これを掲示板一杯に、さらにそこからはみ出して掲示しておくことは、どうしても生活施設としての雰囲気を壊してしまう。違和感が拭い去れないのである。

公開の方法はファイリングで充分ではないか?と個人的には思う。

自分の家庭の居間に文字がぎっしり詰まった説明文などが壁一面に貼られていたとして、くつろいで食事ができる場所といえるんだろうか。落ち着ける場所になるんだろうか。廊下だってしかりだろう。

サービスの質の向上を図るのも基準を守る目的であるのだから、このあたりの指導基準はもっと柔軟に考え直すべきではないかと思っている。

ただこれは指導担当者の問題ではなく、基準の問題であり、国レベルでそこを考えてもらわねばどうしようもないことなのであるが・・・。

介護・福祉情報掲示板(表板)

生活と業務の導線を断たないことで生まれる非常識。

僕はいくつかの小論文や自らの講演、そしてこのブログの中で「施設の常識が一般社会の非常識」という状態を無くさないと、個人のニーズに光が当てられる生活支援はできないといい続けている。

同時に介護サービスは、家族に替わる支援であり、家族に寄せられるような信頼感を得て支援に当たることは大事だが、家族とイコールではなく、親しき仲にも礼儀あり、過度の馴れ合いを生む言葉の乱れ(ちゃん付けの呼び方や友達言葉での会話)は問題だと指摘し続けてきた。

しかし、自らの施設でも、なかなか継続的にこの考え方が浸透していかないジレンマがある。言葉の適正化は常に言い続けないと、すぐおかしな乱れになるし、先日も「〜ちゃん」と呼んでいる職員に注意した。そのような乱れた言葉でしか親しみが表せないわけではないだろうし、若い職員ではなくても、自分の親が年下の介護職員からそのような呼び方をされていて喜ぶ子がいると思っているとしたら、それは間違いである。

どんな体や心に障害が生じても、子にとって親は、自分を育ててくれた尊敬すべき存在なのである。他人様にわざわざ尊厳を無視されてまで親しくしてもらわなくても良い。

また「施設の常識が一般社会の非常識」という面でも個々の職員の意識がそこについてこないことで現場の中でも、意識の差がサービスの差になって現われてしまう場面が多々ある。

我が施設の恥を書くような結果になるやもしれないが、改善しなければならないという教訓の意味をこめて、あえて「意識の低さが現われる場面」について書くことにした。

僕の施設はもともとユニット型の施設ではないので食堂は1回に全員が集まるタイプで1箇所しかない。

しかし、この施設の中で、ユニットケアを実施するに際して(実際は1単位がユニットより大きいグループケアであるが、施設内では各ユニットという言い方をしている)、介護の導線を考えたとき、各ユニットごとに食事ができる場所が必要となって、デイルームとして使っていた場所を食堂に置き換えて使っている。しかし、そこはもともと食事場所ではなかったので、トイレの入り口に近い場所となってしまっている。

そのため、トイレのドアは常に閉めているし、食事場所としての雰囲気を失わないような工夫に注意はしているのであるが、時として、食事中にトイレのドアが開けっ放しになってしまったりする。これは食事支援という業務の中で、食事が終わった人がトイレに行く介助をそのままの延長で行なってしまうことにより、食事を摂っている人の立場を考えることなく、介護業務の一環としての感覚で全ての物事を捉えてしまうことにより、食べている人の立場ではなく、トイレ介助が必要だという業務の流れを優先して考えてしまうから、今食事をしている人の感覚を忘れてしまっているのだ。

確かに生活支援というのは、利用者にとってのプライベートな生活部分に、介護者は業務の一環として関わるわけだから、両者の感覚にはズレが生じやすい。しかしプロであるということは、こうした感覚のずれにも意識が及ぶ支援ができる、ということでなけらばならない。

生活者としての利用者の立場を考えるとき、業務としての導線と、それをしっかり区別する意識や感覚が不可欠なのである。

こうした感覚のずれを放置してしまうと、この感覚差は非常に大きな問題を引き起こす。

つい先日、食事介助に時間がかかる方がいて、ユニットの食事場所で、その方だけが食事摂取介助を受けていたのであるが、そのすぐ近くのトイレのドアが閉められておらず、しかも、その中でケアワーカーは濡れて汚れてしまったオムツの処理をしている場面に出くわした。

これは異常だと思って、当該職員だけでなく、主任、副主任を呼んで注意すると共に、緊急的にユニット会議を行い、問題の所在を話し合ってもらった。幸いなことに、わが施設の職員は、この状況を「まずい」と考えてくれていて「大きなミス」と自覚してくれたので、すぐ改善への取組が行なわれたが、これを異常と思わなくなったらおしまいである。

こうした社会の非常識で、利用者の尊厳や希望を失わせないような支援が求められているのであり、良いケアをする前に、当たり前のケアとは何かを考えることが重要だ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

次期介護報酬改訂に関する社会援護局長の考え方から見えるもの

昨年12月に書いたブログ「介護報酬はどうなるか。」の中で、

『厚生労働省内部でも社会・援護局は「次期改正では介護報酬引上げの方向で」と声を挙げているが、老健局は「改正の主軸は報酬減で推移するものと考えている」と正反対の意見を述べている。』と書かせてもらった。

これに関連して「シルバー産業新聞(昨年12/10付け分)」のインタビュー記事の中で、社会援護局長が語っている内容が面白いので一部抜粋して、その意味と問題点を考察してみようと思う。

(以下抜粋部分。〜の部分は一部省略部分です)
(局長)「景気が回復し他の産業と人材の奪い合いになりますが、福祉の分野は劣勢です〜診療報酬や介護報酬で運営している公的セクターは景気が良くなったからといって急に支払いを増やせない為です〜診療報酬、介護報酬は長い間マイナス改定が続き医療法人や社会福祉法人の経営が相当厳しくなっている。〜人を採用するには賃金を良くしなければなりません。基本的なサイクルとしては介護報酬や診療報酬を上げなければならないということです。」

(インタビュアー)『ただ次回の改定でもアップすることはみこめないでしょう。』

(局長)「介護・障害・医療は保険、税金で運営しており、それらを上げたくないという声は強い。賃金が上がっているんだから介護報酬や診療報酬を上げなければならない。けれども国民負担は上げたくないという板ばさみ状態です。しかも国も地方も歳入に対して歳出が大きくプライマリーバランスが崩れている。だからますます増税が嫌なら歳出をカットしろという声が強くなるんです。骨太方針では5年間に社会保障費は国と地方で合わせて1兆6000億円減らせといわれています。来年度予算も予想される伸びから2200億円削れといわれています。介護報酬や診療報酬、障害に要する費用は上げられず人は確保できない。〜とはいえ現実的に人件費が上がるので、カットカットだけでは済まなくなります。それに見合った人件費の確保が介護報酬や診療報酬の中に求められると思います。だけど、全部の事業所、全部の施設を一律に挙げることは相当難しい。優れた人材を配置しているとか、優れたサービスをしているところに対し重点的に引き上げるという重点化を図らねばなりません。究極的にはサービスの質の評価というものさしが必要になります。それが出来上がるまでは、資格を持った人間の比率など外形標準的なものを指標に介護報酬なり障害報酬を評価するしかないでしょう〜」
(抜粋ここまで)

つまり社会援護局が考える次期報酬は、本体報酬は上げないけれど、介護福祉士などの有資格者の一定数以上の配置に対しては加算報酬でみてはどうか、ということだろうと思う。

何か気付かないだろうか?この構図は、一昨日問題提起した診療報酬の7:1の看護師配置への加算と非常に似通った考えだ。すると現在問題となっている看護師の都市部への集中と地方医療の荒廃という状況が介護の領域でもより深刻に広がってくる恐れがある、ということである。

良い介護には、それだけ人の配置が必要で、それは質と量の両方が必要であり、どちらかが欠けて、どちらかで補えるものではない。加算報酬を得ることで人的配置が容易になり経営的に安定するのであれば有資格者の配置はすすむであろう。しかしそのとき過疎化がすすむ地域だけではなく若年人口の少ない地方の市町村には有資格者自体の数が足りていないし、わざわざ別地域からそうした地域に若者が就業目的で集まってくる状況ではなくなる傾向が強まっている。20年前、10年前の状況とは明らかに違ってきているのである。

そうなると地方の施設は加算をとる人的配置ができず、人件費も抑制せざるを得ず、ますます人の配置が厳しくなる。悪循環を断つ具体的な方法論はない。それで我慢できればよいが、その先にはもっと恐ろしい現象が生まれてくる。

つまり、これまで福祉施設や介護施設は、都市部のみならず、全国津々浦々、かなり小さな単位の町村にも設置されてきた。それは措置制度で整備がすすんだ側面もあるが、利用者確保という面からは地方の小さな町村でもさほど困難ではなく、逆に土地の確保など建設コストや運営コストが安い地域で事業運営したほうが安定経営が見込めた、という側面があり、地方の小さな町や村に、大きな社会福祉法人が複合施設を建設して、地元の雇用創出や地域活性化の要素になってきたという面もある。

つまり社会福祉法人が地方の経済や地域社会に果たしてきた別な役割も大きかったという意味である。

しかし今後、そうした小さな町村での事業経営は「利用者あっても従業者なし」という問題が起こってくるだろう。 少子高齢化の影響をもろに受けてくるのだ。そうした中、町村部での事業経営から撤退して、本拠や軸足を都市部に移そうとする法人が増えていくのではないだろうか。

介護施設がなくなる、あるいは縮小するという町村が出てくるという現象が生まれる可能性がある。

その向こうには必要な生活支援が受けられず劣悪な環境で暮らすか、住み慣れた土地を離れて暮らしの場所を探すか、そうした新たな空洞化現象が生まれるという意味である。

そしてそれは地方の崩壊、地域社会の崩壊に直結する恐れさえあるのだ。

こうした心配が杞憂に終わることを願うのみである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

地域包括支援センターは予防プランセンター化しているか。

地域包括支援センターが予防プランセンター化しているという声が聞かれる。

というより僕自身が昨年11月30日発刊の日総研「介護リーダー2006」の連載の中で『現実は増大する要支援者への介護予防プラン作成業務に追われ、3職種が共同でその作業に関わり、その他の支援機能まで手が回らず「予防プランセンター化」されているといわれる現実がある。』と書いている。

ただこの意味は、地域包括支援センターが担うべき市町村責務の事業(なぜこんな回りくどい言い方をするかと言えば、1/30に出された国のパブコメの回答では、これらの事業は包括に委託できるが本来は市町村の責務だから包括がこれらの事業の全部を実施することが必然でないと言って、包括の設計図に間違いはなかったと言い訳しているので。)については、

1.介護予防のマネジメント。
2.介護保険外のサービスを含む高齢者や家族に対する総合的な相談・支援。
3.被保険者に対する虐待防止、早期発見。
4.支援困難ケースへの対応などケアマネジャーへの支援。

であり、1が保健師、2.3が社会福祉士、4が主任介護支援専門員が主にその業務を担うものとされているが、現実は増大する要支援者への介護予防プラン作成業務に追われ、3職種が共同でその作業に関わり、その他の支援機能まで手が回らないことを指摘しているのであって、予防プランの作成管理には十分な機能が発揮されている、ということを言っているわけではない。

つまり何を言いたいのかということであるが、今、世間で言われている包括の予防センター化というのは、増大する予防プランの作成作業に手一杯という状態を示しているに過ぎず、だからといって予防プランの作成評価が充分行われていると言うことでもなく、計画はできているけど、適切な評価に結びついているとは必ずしも言えない現実がある、と言うことである。

そもそも制度改正論議の中で軽介護者のサービスプランについて、現場のケアマネは、いわれのない様々な中傷非難を浴びたが(給付費分科会でも)その際たるものは、ニーズに対応していないサービス利用と、評価のないサービス利用の継続プランに対してのものではなかったのか。

それゆえ新予防サービスの計画は、包括から居宅介護支援事業所に委託していたとしても、定期的な評価は地域包括支援センターでもって評価する。その計画の継続性について判断する、とされているところである。

しかし、実際には適切なサービス利用の評価などできていないのが現実ではないのか。なぜならサービス利用の継続可否の評価基準自体がどこにも存在していないのに何をもって包括支援センターの職員は評価のエビデンスを作れるのであろうか。

だいたい評価ができるということは、サービスプランを策定するに際して課題を引き出して、それに対する目標を設定する際のアセスメントが読み取れなければならない、という意味であり、各居宅介護支援事業所が仮に予防プランのアセスメントを統一して使っているのであれば、そのツールの使い方の指導をできる人材でないと評価も難しいと言う意味だし、もしもツールがバラバラである場合は、それをすべて読みこなす能力が求められると言うことだ。

できているんだろうか?

加えて介護予防サービスのメインサービスは通所サービスであると言われているが、個々で行われている選択メニュー、特に介護予防の特徴的サービスである運動器向上メニューは、3月毎に各事業所で体力測定などの評価を行なっているが、この医療モデルの方法論である体力測定の結果と、生活モデルであるサービスプランの整合性をどう見るのか。

できていないだろう。というよりその評価は極めて困難だ。加齢による身体機能の低下をどう見たら、各事業所でバラバラの方法で行なっている運動器向上トレーニングの結果が体力測定の数値に的確に結びつくという根拠はなにもない現状で、評価の方法も、尺度も、結果の判断も、すべて現場に丸投げされている。サービスの継続性の可否をその中でどう読み取ると言うのか。

無理だ。予防センター化とはいっても、その実態は、予防プランを機械的に作成している実態を言っているに過ぎず、予防プランが介護予防に資するべきエビデンスとなりうるような方法を作り上げる専門機関になっていると言う意味ではない。そうした実態であることを間違って捉えてはいけない。

つまり現在の地域包括支援センターの実態は「予防プランセンター」の機能さえ果たせていないというのが実際ではないか。

介護給付費分科会はいかに不毛な議論に終始していたかが証明された。審議機関ではなくただのパフォーマンスの場であるということか。実態として財政論としての制度改正で終わってしまったため、適切なケアマネジメントの方法論など(少なくとも改正介護保険制度の中では)ないということが見て取れる。

しかも問題なのは、評価ができていないのに、通所サービスの回数について、一律、要支援1は週1回、要支援2は週2回だとか、包括支援センターが決められると思っているお馬鹿な職員がいることである。

地域によっては事業所が要支援1の方に週2回の利用を可としているのに(回数は増えても定額報酬だから収益が上がるわけではないのに)公平性を欠く、という理由で地域包括支援センターが、その管轄地域の予防通所利用者の利用回数を統一して制限する指導を行っている場合がある。バカモン!!

通所サービスは「通う」というそのこと自体に生活意欲を引き出したり、機能活用をしたりする効果もあるのだ。適切な評価も行なえないで、国が定額料金から割り算で出した数字を絶対的なものとサービス事業所や利用者、委託するケアマネに押し付ける、こうした包括の一部の(であると思う)お馬鹿さんが、新たな生活障害そのものである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

迷走。〜地域の医療・保健・福祉は守られるのか

少し畑違いで専門知識には欠ける問題であるが、1市民として心配な問題を今日は取り上げてみたい。

福岡の特養で生活されている女性が長寿世界1になったというニュースを見た。114歳とは確かにすごいが、100歳を超える人は珍しくなくなって当施設にも3人の100歳の方がおられる。

日本人の寿命が伸びた要因も様々だが、なんといってもほとんどの地域で必要な医療を受けられるということが大きな要因であろう。しかし今、地方医療や保健・福祉の崩壊が始まっているように思えてならない。

介護保険制度は「走りながら考える」と言われているが、介護保険制度だけでなく、医療保険制度の改訂も走りながら考えられているような状況に思えてならない。

国民の医療、保健、福祉に関する大事な制度に正確な設計図がなく迷走しているのではないか、そして結果として地域で不利益を被るのは国民自身であり、そうした不利益や生活障害が生じて始めて手当を講じようという「後追い」の施策になっているのではないかと感じることが多くなってきたように思う。

介護療養型医療施設の廃止は24年3月がタイムリミットであり、医療の療養型も15万床に削減されていくが、実際には今地域で、その方針とは別次元で療養病床が減っていく現象が起きている。

これは医師不足という問題とともに、昨年の診療報酬改定で7:1の看護基準の加算が診療報酬に設けられたことにより、看護師を厚く配置したほうが収益率が良くなる医療機関が増えたため、看護師の大量雇用という現象がおき、大都市などを中心とした都市部に看護師が流れ、地域によって看護師が配置できない医療機関が増えていることに起因した問題である。必要な人員を配置できないから病棟、病床数を削減する、という対応しかできない医療機関が各地で続出している。

しかしこれは療養型の廃止に際し、転換施設がある、という代替施設の整備がすすむ状況を前提にした病床削減ではなく、その状況以前に生まれている問題で「行き場のいない高齢者」が既に生まれつつある現状は非常に問題の根が深い。

こうしたとき、地域の介護問題の中心的役割を果たすべき地域包括支援センターは、予防プランの作成で介護問題のセーフティネット機能に手が回らない、という状況もある。

そうした状況下、看護師の1極集中問題を深刻に(今更であるが)受け止めた国は、7:1の加算を、救急時の医療や手術の前後など、看護の必要度の高い治療を行う施設に限定する方針を固め08年4月から実施するとしている。

しかし一旦雇用した看護師を、この加算がなくなったからといって医療機関は即、解雇するわけにもいかないだろう。今、この加算を算定していない医療機関は雇用を見送るという意味にはなるんだろうが、地方都市での看護職員の不足は医療機関だけでなく、訪問看護事業や他の介護保険施設の職員確保にも影響が出てきている。今、困っている問題の特効薬はないのが現状だ。

走りながら名案が浮かんで即応できれば良いが、迷走のまま、後追いで制度を修正していくことで良いのだろうか。看護師の問題にしても、必要な人員配置で質を高める、という考えを否定はしないが、基盤があるのか、という考察があってしかるべきではないか。

医師不足の問題にしても、複合的要因があるものの、研修医制度で医師の確保が難しい(過去のように研修医時代に医師としてのアルバイト勤務が禁じられたから)という理由で地方都市から派遣医師を引き上げる大学病院が多い現実をみると、現場の医療や福祉のサービスのあり方と、それを支える人材育成等の基盤整備のミスマッチが原因の一つではないかと考えさせられる。

ここの手当はできないものだろうか。

ともかく今、過疎地域ではない、地方都市でも医療や保健・福祉サービスは崩壊の危機に直面しつつある。北海道は特に深刻で、今後もこれは大問題である。

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