masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

認知症サポーターの役割

16日夜、登別市で最初の認知症サポーター養成講座が、160名を超える市民の参加を得て開催された。

僕はキャラバンメイトとして前半の講座を担当して、皆さんの前でお話をさせていただいた。事前に参加者が150人を超えると知らされていたので、大画面で説明した方が分かりやすいのではないかという提案を受け、14日の日曜の夜に急遽「標準教材」の内容について僕の担当部分のパワーポイントファイルを作成した。

本来なら文字より図解の方が分かりやすいかなと思ったが、ケアマネの更新研修の真っ最中、宿泊しているホテルで1晩で仕上げたものなので、文字が中心のファイルが出来上がった。ただ、気をつけたことは標準教材の内容をできるだけ網羅しつつ、もっと一般市民の方に分かりやすい内容や言葉であることに配慮しようと思って仕上げた。

地域の中に専門家を増やすという意味より、地域の中で一般住民の方々に広く認知症のことを知っていただき、理解していただくことで、地域の中での認知症支援のネットワーク作りの基礎ができることが目的だから、サポーター養成講座が、そうした意味で興味を持たれるものでなければならないし、そのためにも内容が分かりやすいものでなければならないと思うからである。

サポーター養成講座は1回きりではなく、これから継続的に何度も開催され、そこにたくさんの市民参加を得て、地域で認知症の基礎知識を持った人が増えることで、地域の中で認知症による「不自由」を抱えている人々を支援できる地域社会が作られていく可能性が生まれるのであり、1回目の講座が「面白くもなんともなかった」「難しすぎてわけが分からない」ということであっては次回からの参加者が集まらないということにもなりかねないとプレッシャーを多少感じながらお話させていただいた。

結果はどうか分からないが、一部の受講者の方々からは「わかりやすくてよかったよ」という声をかけていただいたのでほっとしている。少なくとも専門家ではない一般市民の方々が「なるほど認知症とはこういう病気なのか。」という意味の理解のきっかけにはなったのではないかと思う。

個人的には後半部分を担当してくれた地域包括支援センターの方のお話も非常に分かりやすくて、僕の気付いていない部分のお話もあり、興味深く聞かせていただき、ためになった。僕にとっても貴重な機会であった。

サポーター養成のキャラバンメイトは市内でも増えてきているので、養成講座はこれから様々な方が担当することになろうが、たくさんの市民の皆様に今後も参加していただき、認知症の理解が地域の中で広がっていってほしいと思う。

ところでこの養成講座開催を企画した段階では、これを後援する会の会員の一部からサポーターの役割についての疑問が出された。

サポーターになったからといって特別な義務はなく、特別な役割もないことは意味がないのではないかという疑問である。せっかく講座を開いてサポーターを養成するのであれば、それらの方々を社会資源として活用する方法があって良い、という意見である。

しかしサポーターの意味はそうではないと思う。

結果的に認知症を理解して何かの活動に繋がってくれることは大変重要ではあるけれど、それ以前に認知症という病気や症状を理解して、地域の中で認知症の方々や家族に対して暖かな視線を向けることそのものに意味があり、そのことが地域を変えるものであるということの方が重要である。

サポーターは何か義務や役割を負う存在にするより、地域の中でまさに多角度から認知症の方々とその家族を支える応援者の意味である。実際の活動参加でサポーターとしての存在価値を求める前に、具体的な活動は特に行っていないけれど、認知症というものにある程度理解ができて、それらの方に対し暖かな眼差しをむけることができる人が一人でも多くいる、という地域社会を作ることのほうが求められる方向であろう。

もちろんその中からは、結果的にもっと具体的な活動に繋げていく人々が現われるであろう。しかしそうした活動をする人と、しない人に、意味や価値の差があるわけではない、という認識も重要である。

認知症サポーターの間口は、より低く、より広く、という視点が一番大事であろう。

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看取り介護の現場で求められる職員の意識

11月に岐阜で行われる全国老施協主催の研究会議の案内をみていた。

僕にとっては「介護刷新」という大テーマ自体も、その意味と現状の方向性を鑑みると、あまりピンとこないのであるが、基調講演などの内容は、それなりに興味深いと思った。

前三重県知事の北川 正恭氏の組織改革などの講演は僕も機会があったら聞いて見たいと思う。老施協の幹部の皆さんが「組織改革」というテーマをどのように感じるかも興味深いところである。是非実践してもらいたい。

残念ながら今回は参加できないけれど・・。そう思いながら各分科会のテーマなどを見ていると「重度化対応の課題と実践」という分科会では看取り介護をテーマにしていることがわかった。

ただその内容を見ると、そのテーマに違和感を覚えざるを得ない。細かいことであるが「看取り介護における本人・家族への啓蒙」「看取り介護の心得と作法」となっている。

ぼくはこの啓蒙と作法という言葉にどうも納得がいかない。

家族に何を啓蒙せよというのであろうか?そもそも啓蒙とは「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。」という意味である。我々の実践の意味を正しく伝えることは必要だが、看取り介護の現場で家族に対し「教え導く」ことが必要なんだろうか。そのことができるんだろうか。

看取り介護の現場においては、我々が本人や家族を教え導くよりも、本人や家族から「教え導かれる」事柄の方が多いように感じる。啓蒙というような上から見下ろすような態度で、看取り介護の場に関わるのは大いに違和感を持つのである。

看取り介護をテーマにした講演を行うことがあるが、その際に僕は、霞ヶ関南病院長・斉藤 正身先生の言葉を借りて、看取り介護の場では利用者や家族に対して「説明と同意」で終わらず「相談と協働」が必要であることを強調している。

施設の職員が、対象者やその家族とともに、その場で本当に個人に必要な援助をともに考え、協働で悔いのないサービス提供に努めることが必要だと思うのであり、そこでは一方的な指示、命令の関係ではなく、双方向から伝え合って最も必要な支援体制を整えていくことが求められているんだと考えている。

それはまさに介護に関わるものの真摯な態度であって、作法ではない。作法という言葉を「礼儀」という意味で使っているんなら、そもそも「礼儀」という言葉そのものを用いればよいし、作法といえば本来は「きまり。しきたり。」という意味である。

これは言葉遊びでもなく、言葉狩りでもない。意識の問題である。

そのことをしっかり認識しないと、大事な看取り介護の場で利用者不在の、算定ルールだけが重視されるおかしな介護が横行してしまう。それが恐いのである。

看取り介護を行うという意味は、施設の収入とか利益などを超越したところで、利用者の望まれるサービスを完結する結果として、その方々が望まれる支援を最期まで、施設ができる範囲でやり遂げると言う意味があり、施設の理念に基づくサービス提供ではあっても、それは施設側が考える価値観を家族に押し付けることではないし、そこでは利用者や家族と介護支援者がともに考え、ともにスクラムを組む態度と意識が必要だ。

形としての作法ではなく、意識としての協働を構築する職員のコンセンサスと真摯な態度を育む看取り介護の理解が求められるだろう。

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介護支援専門員資格更新検証総括

介護保険制度改正で規定されている介護支援専門員の資格更新に関わる更新研修を今週月曜にすべて受講し終えた。

資格更新はまさに現場の介護支援専門員がその知識と技術を問い直されたという意味があり、都道府県の資格試験を合格しているだけでは不十分と断罪され、新制度ルール等の理解力が足りなかったり、ケアマネジメント技術が足りない介護支援専門員が実際いるということが問題視された。そこで有資格者のスキルアップを定期的に図る機会を作ったものといえる。

しかし、その研修内容はお粗末である。

もちろん制度改正後、このカリキュラムも設計途上であって完成されていないという面もあるんだろうが、講師の力量も様々で、意味のない内容も多い。演習もやりゃあ良いという問題ではないだろう。

今回受講した講義の中には、ほとんど講義の形を呈していない資料の朗読というものも見られた。書いてあることをただ読むだけなら、講師の下手な朗読を聞くより、受講者に資料を読ませてリポートでも提出させた方がましだろう。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

演習でも、その討議の意味を講師がうまく伝えられていなし、というより講師がその演習の内容を深く理解していないから、演習を行うグループのメンバーが想像して「体裁を整える」という意味のない演習になることがしばしばある。

例えば演習課題で「ここの事例を通して学んだことから一般化を試みる」というテーマで「こんな状態像の高齢者にはこんな課題があることを挙げて」→「そこから必要なアセスメントを考える」となっているものがある。

えっ?ケアマネジメントがケースマネジメントと言われていた時代から、これを研究している我々は、制度がひとくくりにしているのは高齢者一般とか障害者一般とかいうカテゴリーであるが、個々の高齢者や障害者は決して同じではなく、一般化する制度の中で個人に光を当てる為に、社会福祉援助技術を用いてサービスを展開するのがケースマネジメントの意味であると考えてきた。それをあえて個々のケースから一般化するという意味は何よ?

(講師の説明では例えば認知症の高齢者も個々により違いがあるという考えを一般化するという意味だとの苦しい弁明。そんな常識と、このテキストで示されている一般化は意味が違うとしか読めない)

しかも本来課題というものは個別のアセスメントの結果から抽出されるものであり、逆に高齢者の状態像から一般的に考えられる課題を取り出し、そこから考えられる必要なアセスメントを引き出してしまえば、例えば認知症の高齢者や身体障害が主訴である高齢者などのカテゴリーわけを助長して、そこから金太郎飴のような同じプランが大量生産される恐れが強いことを、この講師はきちんと自覚していない。きちんとした説明がないから誤解する受講生もいるだろう。

グループとしてそこは説明を求めたが、グループ内でもわからない説明(というより言い訳)をするのみで、全体会でもそのことには一言も触れない。せめてそういう指摘があったが誤解であるくらいは考え方として示してよいだろう。

演習にしても事務局からは盛り上がって見えるのかも知れないが、そこで語られていることは職場の情報交換に過ぎない事柄がほとんどで「気付き」という点では極めてお寒い現状である、という一面も見逃せない。井戸端会議がスキルアップに繋がるなんていうことはないだろう。

演習をあれだけ時間を割いて行うにしてはお粗末で、ただ時間をそれに割いているに過ぎない場面が多い。演習さえしておれば、新しい研修の形態、スキルアップに繋がる参加型研修ということにはならない。考え直さなくては。

それにしてもパワーポイントの資料ファイルを読み上げるだけの人がいるが、プレゼーションファイルの使い方を間違えていないか?非常に疑問である。

ただ主催側からすれば、内容はどうあれ、定期的にケアマネから受講料を徴収できる義務研修だから、毎年受講者を集める努力をしなくとも済む。きわめて売り手市場的なものになりつつある。

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10月12日の介護給付費分科会の議論から見えるもの。

先週金曜日に行われた「登別・室蘭・伊達・白老、3市1町合同研修会」は盛況のうちに終えることができた。高齢者の排尿障害と、地域における介護サービスの現状というまったく異なる2つのテーマが、うまく融合できたのではないかと感じている。

北海道医療新聞社の熊谷記者の道内の介護サービスの現状という講演は、現行の介護保険制度の問題も含めて、様々な角度から地域展開されているサービスの現状と課題をピックアップされていて大変参考になった。

また氏からは前日の12日に取材した「介護給付費分科会」のホットな議論の情報提供もあって、大変興味深かった。

今日は、氏の講演の中の、その部分に触れた内容について、一部情報提供を行いたい。

すでに10月12日の介護給付費分科会の議論内容については資料等が公開されているのでご存知かもしれないが、議論の中心になったのは療養型から転換する介護老人保健施設(以下、老健と略す)の問題である。

前回の分科会では、この転換型老健については「医療機能強化型老健」という名称は、現行の療養型よりも医療機能が強化されているという誤解を与える、実際は療養型医療施設よりも医療機能は低下しており、既存の老健よりはそれが強化されているに過ぎないのに、その名称では施設の利用者も家族も誤解するだろうということで、名称の変更を強く求められ、結果、国もそれを受け入れ、「医療機能強化型老健」という名称は12日の分科会を最後に以後使用せず、正式名称が決まるまでは「療養型医療施設から転換する老健」(本稿では以後、転換型老健とする)と呼ぶらしい。

ところで今回の給付費分科会で議論の中心にななったのがこの転換型老健の介護報酬である。当然これは介護療養型医療施設が廃止になることに伴ってできるもので、対象者も現行の老健より医療依存度の高い利用者が想定され、介護報酬も既存の老健とは別に「高く」設定される、と考えられていた。

しかし今回国側が示した案では、転換型老健の新報酬は設定されず、加算でみる、ということである。報酬を新たに設定すれば法律を変えねばならない等の煩瑣な手続きが生じることがその理由らしい。

そしてこの加算は転換型老健のみに適用されるということであるが、委員からは「加算ならば既存老健にも適用すべきである」という意見が出されたようである。

方向としては転換型老健は現行の老健の報酬に加算で対応して、現行の老健より医療機能を強化して、療養型廃止で行き場を失う比較的医療依存度が低い利用者の受け入れをできるようにするというものだ。国側からすれば、この範囲を既存老健にも広げてしまえば在宅復帰機能が吹っ飛んでしまうという危惧があるから加算なのに転換型老健にしかその算定を認めたくないというものだろう。

給付費抑制策の結果であるところの療養型を廃止して、他施設に転換するという無理のひずみがここにも表れているということだ。

また「介護施設等の在り方に関する委員会」の意見書に関連した介護職員の待遇改善問題を受けての議論であるが、このことにより一部関係者には次期介護報酬のアップという期待があるようだが、基本的に報酬をアップする財源は全体の介護サービスのパイのやりくりする、つまり上げる部分は、どこか下げる部分から持ってくるという考えが基本となっているようである。

そのことは国側が「給付費が適切に介護職員に分配されているのかという点をまず検証してから介護報酬を考える。そのために経営実態調査の結果が出てから具体的な検証作業に入る」としている点が重要になる。

つまり施設サービスは収益率が下がっているとは言っても、いまだに10%に近い、あるいはそれを超える収益を上げている施設が多いということになれば当然次も報酬は下げるという論理である。特にターゲットは、これ以上整備を促進しない「多床室」の報酬であることは間違いなく、この報酬は下がることはあっても、上がることはない、というのが現状の国側の考え方である。

過剰な繰越金を毎年計上している施設の経営者は、そのことが自らの首を絞めることになることをきちんと自覚して、適切な人的配置と高品質なサービスに努めねばならないことを自覚してほしい。

それに加え、国側に言いたいのは経営自体調査を行うのなら、その際には会計をきちんと統一した上で、その結果を評価すべきであり指導指針、会計基準、その他の会計が混在した状況での評価では正確な診断はできない。

同時に収益率のアップの実態が実は介護職員の募集に対する応募がなく、必要な人員配置が配置できない結果として、やむを得ず少ない人員配置でサービスを回している結果ではないかという検証もあってしかるべきで、短絡的な評価で報酬を下げてしまっては、この国の将来には、介護を職業にしようとする若者はいなくなるだろう。

こういう厳しい状況下の議論の中で、医療系団体の代表委員ばかりが議論の中心になって、老施協代表員の発言が極端に少ないように思う。これは議論の中心が転換型老健である今回や前回に限らない。国に相手にされていないのか?

老施協については何かと会員から不協和音が聞こえる昨今であり、政治に偏る姿勢を批判する向きもあるが、こうした厳しい状況では政治力も必要であることは間違いないと思う。しかし現実にはその総合力は十分機能していないのが現状で、それはイエスマンで固めた側近政治の限界としての結果ではないかと危惧する。

組織の強化にはもっと視野を広げて、適材適所の人材登用が不可欠なのだが・・・。

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masaのラーメン道・番外編〜羅妃焚(ラピタ)岩見沢総本店・味噌ラーメン

140ae7a7.png母が倒れて1月が過ぎている。先週の金曜日に2度目の手術を行ったが、いまだに意識が回復しない。先週はその手術のため、木曜の夕方から金曜にかけて有給休暇を取り祝日の今週月曜まで岩見沢の実家で過ごした。

そのほか、ここ1月の間は、金曜の仕事を終えたあと実家に帰り、日曜の午後に登別に帰るという生活を続けている。ただ今週と来週は週末も予定が詰まって帰ることはできない。

実家といっても一人暮らしの母が倒れて入院中だから、誰もいない場所だ。僕の家族も子どもの学校や部活があるので一緒に行くわけではない。

ということで週末は僕自身が一人暮らしのようなものだ。そうなると食事が問題であるが、まるっきり料理ができないわけではないが、どうも面倒くさい。そこでほぼ毎回、夜の8時過ぎ(面会時間が8時までなので面会から帰る足で)スーパーに行くと、弁当類が半額になっている。

そこで半額の弁当と翌朝分のサンドイッチなどを買って、夕食と朝食としている。1食300円程度の食費である。ただし昼は豪華(?)に外食が常である。

とはいっても僕の場合、ほぼ毎回ラーメンを食べている。

学生時代にうまいラーメン屋にはよく通ったが、当時の店がなくなっていたり、店主が変わって味が変わっていることも多くて、新たなうまい店を捜し歩いていた。

結果、現在ほぼ毎日ここ羅妃焚(ラピタ)岩見沢総本店の味噌ラーメン(画像)を食べている。間違いなく今現在、味噌ラーメンでは岩見沢NO1である。濃厚なスープの深い味、トロトロの3枚肉のチャシューが普通のラーメンに3枚も入って680円は超お得である。

固めの麺もよい感じだ。これほどの味噌ラーメンは残念ながら登別・室蘭圏内にはない。

注目したいのは、もやしが入っていない点だ。味噌ラーメンには「もやし」というイメージがあるが、ここの味噌ラーメンを食すと、もやしの味が味噌の味を損なっていたかがよくわかる。白髪長ネギだけのシンプルな野菜具材もスープの自信の表れだろう。

具はそのほか、メンマ、なると、味玉子(半分)。

サイドメニューも豊富で、小丼(とはいっても量は結構多いので気をつけたほうがよい)がおすすめ。長沼のかねひろジンギスカンを使ったジンギスカン丼も絶品である。普段400円のドンブリがタイムサービスや曜日サービスで150円から200円で食べられる曜日と時間があるので(土日祝祭日除く)これもうれしい。

場所は札幌から旭川に向かう国道12号線沿いで、36号線との交差点から3分ほど(大きな交差点を2箇所過ぎる)旭川方面に進むと右手にある。不思議なことにほぼ大きさの同じラーメン店と軒を並べており駐車場もほぼ同じスペースであるのだが、隣のラーメン店の駐車場ががら空きで、羅妃焚だけが満車であることは珍しくない。

お昼時はほぼ行列ができると考えて間違いない。僕は昼を少しずらしていくことが多い。

岩見沢で味噌ラーメンを食べるのなら、ここで間違いないだろう。

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野球と学校の勉強、どっちが大事だ!!

明日、地域ケアマネ会の3市1町合同研修会が開催される。2講目の講師をお願いしている介護新聞の熊谷氏は、取材で今日開催されている介護給付費分科会も傍聴されているとのことで、その内容も聞くことができるだろうから期待して良いと思う。

今週はじめ、当日の配布資料作りを行ったが、A4版20ページの量を製本したので結構な手間になった。その資料は、原本を担当事務局(今年は私の所属組織)が作り、各ケアマネ会に送付して、それぞれの参加会員の分を、それぞれの地域会が製本し、当日の受付も地域会ごとに行う。会員は参加無料であるが、非会員の参加についても統一した取り決めではなく、各会の判断で、年会費を納めてもらって参加していただいたり、参加費を別途徴収したり、会員と同様の無料参加を認めたり、各会の裁量で自由である。

のぼりべつケアマネ連絡会の場合は、製本等の費用に会費が使われている事情を鑑み、基本的に会費をいただき会員として登録してもらった上で参加してもらうことにしている。ただ年会費といっても月100円、年間1.200円であるから、この額を支払えば、今回の合同研修会だけではなく、その他の定例会や研修会にも無料参加する権利が得られので、かなりお得と考えている。

今のところ参加予定者は、研修会が120名強、懇親会は40名弱である。

ということで明日、午後からこの研修と終了後は懇親会である。そして先週も書いたが、翼日曜からは2日間の(あまり勉強にならない)介護支援専門員更新研修の後期日程受講である。この研修で使うテキストは「居宅サービス計画作成の手引き」であるが、当然のことし書かれていない手引きで何か勉強になる研修となるんだろうか、大いに疑問と不満を抱えての受講となる。

機嫌と気分によっては、講師に意地悪な質問でもしちゃおうかな、と考えているところだ。しかし研修終了日には、そのまま札幌ドームにクライマックスシリーズ第3戦の応援に行けるので、程々にしておこう。

ところで先日、夕食のとき、月曜の研修後、ドームに行くからその日の夕食もいらないことを話していると、高2の次男が怒った。「ずるい」というのである。

この次男とはよく野球観戦に一緒に行く(もちろん日ハムファンである)。去年も日本シリーズ優勝の瞬間は彼と一緒に観戦していた。(ヤクルトファンの長男はその時は、修学旅行から帰ってくる日でいけなかった)

今年は開幕直後の西武戦1試合だけ、長男と次男と3人で観戦しているだけで、それ以外はドームに連れて行っていない。その理由は、長男が受験生で忙しいし、次男も部活で行く暇がなかったということで、ケチっていたわけではない。

僕が行くクライマックスシリーズ第3戦は月曜のナイターで、さすがに平日は学校だし(去年は学校を休ませてつれて行ったが)、受験生の長男は勉強を放り出して行くとは言わないだろうし、油断していた。次男は是が非でも行きたかったらしい。

父:「だけど平日だし、ナイターでも午後から休まなきゃアいけないしょ!!」
次男:「休めばいいっしょ。」
父:「バカモン、学校と野球とどっちが大事だ。」
次男:「野球に決まってるしょ。学校は毎日あるけど、クライマックスシリーズは今だけだよ。しかも来年も出られるって保障ないっしょ!!これを逃したらクライマックスシリーズと日本シリーズはドームで応援できるのは何年先か分からないんだよ。」

普通の父親なら屁理屈言うな、とでも怒るのが正しい選択と思う・・・。しかし、こういわれると納得してしまう馬鹿親父である。

学校の勉強で得られないものが、球場の中にあるのも真実である。

ということで、学校を休ませてドームに一緒に連れて行けるように息子の分もチケットを購入しておけばよかったと大後悔している。しかしこのプラチナチケットは今からでは、とてもとれない。

ということで「すまん。日本シリーズに出られたら、必ず連れて行くから。」と約束して今回はあきらめさせた。

やはり我が家の結論は、学校の勉強よりも、野球観戦が大事だという結論になった。

ウン間違いない。勉強などいつでもできるんだ。人生にはそれ以上に大切なものは星の数ほどある。

ということでまだ出場チームも決まっていない今年の日本シリーズの先行予約が昨日から始まったが、昨晩PCの前で必死に受け付け予約を行う僕であった。抽選に当たると良いのだが・・・それ以前に、ファイターズがクライマックスシリーズを勝ち上がってくれないと困るが・・。

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施設見学の必要性と意味

職員研修の一環として、他の施設や介護サービス事業所を見学するということがある。

措置費の時代は、こうした施設見学を毎年のように研修計画に入れて、全国の施設を巡ることを、職員旅行を兼ねて行っていた施設もあるようだ。

僕の施設も、温泉地にあるということ、ホームページで割合知られているということもあって、結構見学者は多い。ただし、こちらも忙しい身であるから僕が全てに対応はできない。

それと漠然と見学と言われても何をどのように案内して説明すれば良いのか戸惑うこともある。

テーマを絞らない見学では、せいぜい1時間や2時間で、その施設のケアの中身など見られるはずもないし、実態は分からないと思う。せいぜいハードを自施設と見比べるくらいだろうが、そういう意味では新型特養でもなく、特別立派な設備を持っているわけでもない当施設は、あまり見て勉強になるようなこともないと思う。

その中で行われているケアサービスに関することになれば、これは他と比べてよい点、悪い点、様々だろうが、わずかな時間では評価は難しいだろう。

看取り介護の方法だって、設備を見て分かるものではない。システムとして理解してはじめて実践の方法やケアの視点が理解できるものであり、これは見学で終わるより、僕のレクチャーをどこかで聞いた方が良いかもしれない。

だから僕の施設では、ある時期から、特に目的が定まらない他施設見学はやめている。

相手にも迷惑がかかると思うからだ。しかしテーマがあって、どうしても他施設の状況を肌で感じたいという場合は、旅費を惜しむことなく複数チームを様々な施設に派遣することもある。

ソフト面でのユニットケアを取り入れようと模索していた頃は、数チームが道内の様々な施設に、既存施設のユニットケアの方法を研究するという目的だけで、多くの職員を派遣した。そのことが今の実践の基礎になっている。(なかなか素晴らしい施設のケアには追いつけないが・・。)

明確な目的やテーマを持った見学なら受け入れ側も対応に迷うことはないだろう。単に旅行の途中で、公費支出の理由付けで寄り道ルートの一つであるだけの施設見学ほど、受け入れ側にとって迷惑なものはない。

そういう意味で、施設見学の依頼がある際には、僕は、当施設がさほど先進的なハードを持つ施設ではないし、むしろ古い器で、ハード面ではユニットケアの視点に欠けたしつらえであること、そのため特に勉強になることはないと思いますよ、という返答をすることが多い。

だからといって断わるわけではないし、実際の見学に際しては、担当職員等も真摯に対応するように努めるが、時間つぶしの見学依頼だけはやめていただきたいと思う。観光のついでで施設見学をして簡単な復命書を出せば公費で旅行ができる、という意味での見学なら受け入れ側の職員に無駄な時間を消費させているだけの結果になることも考慮していただきたい。

ただしテーマが明確であったり、どうしても、この施設に来て見てみたいという考えがある方々は歓迎である。

行っていることについては何も化粧することなく、あるがままを見ていただくことはできるだろう。その結果、サービス内容が見学者の期待に添えないと感じる場合もあるだろうが、それはそれでまた評価の一つであるから、特に問題とは思わない。

見学者の気づきが、我々のサービス向上の手助けになる場合もあるし、それは大歓迎である。

そういう意味では受けいれ側も緊張感を持って、聞く耳を持って見学者に対応すべきであろうと思う。

それからもう一つ大事な点は、見学に訪れる施設というのは、一方では利用者の皆さんにとって家庭に変わる生活の場であるということである。本来家庭に見ず知らずの人々が大勢で見学に訪れるということはあり得ないし、利用者は来訪者の無遠慮な視線を我慢すべき存在でもない。

この点は、見学を行う側も、受け入れる側も最大の配慮があってしかるべきだし、少なくとも10人、20人という大人数の施設見学というのは避けるべきだと思っている。

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民間経営がもたらしたもの、もたらすもの。

介護保険制度がそれまでの措置制度と大きく違う点は、居宅サービスの部分には民間の営利企業が経営主体として参入できるようになった点である。

居宅サービスとはいっても、実際には生活の本拠であるグループホームは生活形態は施設サービスと変わらず、ここにも民間参入ができるようになっており、これがグループホームの爆発的な数の増加に繋がっている。

この流れが特区での施設サービスへの株式会社参入を認める方向へと進み、いずれ施設サービスへも積極的な営利企業の参入への流れとなっていくことは容易に予想される。

民間営利企業の介護サービスへの参入の一つのメリットは、それによりサービスの供給主体が増えることによって、サービスの総量を確保することに繋がるというもので、事実、訪問介護サービスやグループホームなどでは、結果としてたくさんのサービス供給主体が新たに生まれて「制度あってサービスなし」という懸念はごく一部の地域、一部のサービス種類の問題としては残っても、全体としてはサービス供給は充分な量が確保されたといってよい。

しかしもう一つのメリットとして考えられた費用対効果の面から言えば、民間の方がより安いコストで質の高いサービスを提供できる、という面については、結果的に介護労働の低コスト化による介護職員の低賃金化と、大手経営者だけが太り、現場職員は低賃金で悲鳴を上げるという構図に繋がっており、同時に経営側の過度な利益追求に関連した不正請求が膨大な額に膨らむという負の結果をも生み出したといえる。

また民間の経営理論が介護保険サービスと決定的に違う点は、良いサービスの結果が収入(介護報酬)の増加には必ずしも結びつかないという点にあることを、もっと国民に周知すべきである。

例えば、公的機関が経営に行き詰まった「公共の宿」の経営を立て直すために、民間企業に譲渡して経営主体を変えたとする。新たに経営を行うことになった民間営利企業は当然のことながら無駄なコストを省いた経営を目指し、従業員も能力がある必要最低限の人員で経営を行い、かつ新たなアイディアやパフォーマンスで集客を増やして収入を上げる、という2つの面から経営を立て直すことになる。

ところが介護施設を例にとれば、同じ状況が起こったとしても、経営の建て直しは前者の運営コストの削減だけで見なければならず、後者の収入増加は期待できない、というよりあり得ないという点がまったく民間営利産業とは異なる点である。

つまりは収入である介護給付費は、どのような高品質サービスを提供しても、国民受けのするパフォーマンスを行っても増えないし、施設サービスのように利用人数に対する報酬という構造から言えば、出来高が増えるというものでもなく、一定の収入の中で経営を行い、さらに報酬改定で単価が下がれば経営努力に関係なく収入は減るという構図になる。

だから経営コストの削減でしか、収支バランスがとれなくなり、結果的に人件費支出を抑えることが経営手腕になるという、おかしな状況が生まれる。

そうすると、そういう職場に有能な人材は貼り付くわけがないし、他産業に有能な人材は流れ、さらに職員の定着率も低下せざるを得ない。

介護サービスというのは、ある程度、人手が最低限必要で、それがないと、いくら理念や理想が高くてもサービスの質は保たれないという特徴があるのだ。そんな中で、一番大切な人的資源の適切な配置ができないことでサービスの質はどんどん下がることになる。

しかしサービスの質が低下して、劣悪なケアの体質になったとしても、それだけでは報酬が下がるという構図でもない。

ということは、現行の制度体系やルールの中では、職員配置を最低限にして、技術や知識が低下しても安いコストで雇える人材を登用し、ルールに外れないぎりぎりの最低限のサービスをしている施設のほうが、有能な人材を配置し、高品質なサービスを保つ為に人数の確保に努めてケアサービスに努めている施設よりも収益が上がる構図と言えなくもない。

質の悪いサービスの収益が、質の高いサービスを上回るという逆転現象を生み出し仕組みになっているのが介護報酬の体系であるといえる。

しかも質の高いサービスを提供している施設では、利用者の要介護度も維持、改善される確立が高くなり、要介護5で入所された利用者が、半年後には要介護3になるというケースも多い。するとこの方の介護報酬単価は下がるわけで、サービスの結果、利用者の介護度の軽度変更は収益源に繋がる結果とイコールになる。

何もしないで利用者を寝たきりにして、軽度介護者を半年後に、寝たきりにして要介護5にした方が経営的にはよいという矛盾をも内包している。この1点をとって考えても、施設サービスに安易な民間企業の参入を図るべきではなく、一定の質と使命をもった経営主体に限定される必要性はあるのだ。

しかしそのためには社会福祉法人自体が、自らの使命を充分自覚して、サービス展開する責任を社会全体に示す実践が欠かせないであろう。

それを忘れたら、社会福祉法人不要論は世論となる。

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帰宅願望は「いつものこと」だから対応は後回し?

先日、父の1周忌法要を実家で行った。母が急病で倒れたため、長男である僕が主催する形となったが、法要に参加するのは、弟夫妻以外は、父の兄弟姉妹が中心である。

亡父は10人兄弟の長男であり80歳で亡くなったが、その弟や妹達も、当然のことながら随分年をとったと感じた。まず法要の後の供養膳の際に、飲むお酒の量が、むかし祖父や祖母の法要のときとは違って随分減っている。また畳に膝を折って座れないため、椅子が必要な人も複数いる。

話題も年金や病気、孫のことで盛り上がる。年月の流れを、こんなところで感じていた。

さて、そういう状況のように親戚や知人が高齢化しているということは、それらの人たちが医療機関に入院したり、施設に入所したりすることもあって、個人的なお見舞いや面会のために、僕自身が医療機関や施設を訪ねる時がたまにある、という状況が増えている。

そういう時は、福祉関係者としての意識を捨てて、なるべく家族や知人として振舞おうと思うのだが、なかなかそうもいかない。あの看護師の言葉遣いは問題あるな、とか、あの介護職員の対応は違うだろうとか、窓口の職員もチームに介護チームの一員であるという意識の薄い施設だなとか、いろいろな見方をしてしまう。

しかし、いくら専門知識を持っているからといって、他の施設の運営上の問題に直接口を出すなんていうことはないし、介護サービスの方法に意見するということもない。ただ感じている、思っている、というだけで、福祉関係の職業に就いている、ということも気取られないように注意はしている。しかし、時には少しは物を言いたくなることもある。

先日、ある施設に親戚が入所したということで、たまたま仕事で近くまで行ったので、挨拶に寄ってみた。僕一人ではなく、その方の家族とご一緒して、施設内で取り留めのない話をして帰ったのだが、その最中、ホールで、ある一人の女性利用者の方が手に荷物を持って「帰りたいのでバスの停留所の場所を教えて」と話しかけられた。

当然、一目見て、入所利用者の方で、認知症があって帰宅願望から発言していることは充分理解できた。しかし、僕が勝手に対応しても施設の方々に悪いだろうと思って「バス停ですか、僕遠くから来ている者で、この辺の地理に詳しくないものですから、分かる方を連れてきますね。」といって、近くにいる介護職員に対応を求めるべく声をかけにいった。

ところがである。そこの職員の言うことによれば「あの人は、いつものことだから放っておいて下さって構いません。問題ありませんから。」「でも少し話を聞いてあげた方が良いのではないですか」「大丈夫です。それに今、それより優先的にしなければならないことがありますから、あの人に関わってられないんです。」

介護の現場の職員が常に忙しいことくらい承知している。しかし今目の前で起こっていることは介護職員にとって日常茶飯事で特別なことではないと言っても、当該利用者の立場から見れば、常にバスに乗って帰りたい気持ちを訴え続けているのに、誰も真剣に耳を傾けてくれない、心を寄り添わせてくれないということではないのか。

こうした帰宅願望を訴える人の心に寄り添う対応が、対応の優先順位が低いことだという意識がある職場だから、その施設では、いつも帰宅願望を訴え続けるような混乱と不安を持っている人がいる、いうことではないのか。

帰宅願望が訴えだけで、実際に外に出ようとしたり、危険行動がないから問題ないと考えるのは間違いである。

そうした不安を抱え続ける方の心の中身をしっかり把握して、不安を解消する為にきちんと介護者の耳と心を傾けることが必要な支援であり、それが「寄り添うケア」の原点である。

このような状況を「いつものことだし問題ない」と考えるような麻痺した感覚が、普通の高齢者を混乱の世界に引き込み認知症を作り出してしまうし、混乱している認知症高齢者により添えないから、周辺症状が改善しない人たちが誰も聞いてくれない魂の叫びからパニックが生まれるのだ。

優先順位のつけ方が間違ってはいないか、もっとケアの原点を見つめなおしてほしい。

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masaのフォーク道6〜ああ早稲田

今日紹介するのは、僕にとってはただ1曲だけ、同級生と協同作詞で作った唄である。

高校1年生の夏に、名寄高校から岩見沢西高校に転校した。そのときクラスメートになった一人に長沼町から通っているウチヤマくんがいた。

ところで僕らは共通1次試験の第1期生である。僕が現役として大学受験した年に、共通1次試験が導入された。

名寄高校は今でも進学校として名高いだろうし、自分で言うのもなんだが、僕も名寄高校時代は成績も上位であったし、国立大学の合格を目指す組に入っていた。

しかし(言い訳になるが)岩見沢西高校に転校したとき、使われている数学の教科書が違っており、名寄高校では2次関数の前にベクトルを習うのだが、岩見沢西高ではベクトルが先で、関数が後になっている教科書が使われており、僕が転校したときには2次関数の授業は終わってしまっていて、独学で学習するしかなく、これが数学の躓きの始まりとなった。

ベクトルは達人と言われるほど難問も解けたが、関数がさっぱり分からなかったのである。

まあ田舎から、それなりに8万人口がある市にやってきて、遊ぶところがたくさんあって、勉強に身を入れなかったということが最大の原因だが、関数に躓いて数学が分からなくなるのは自分のせいではなく転校と教科書のせいにして、文系も理数系もすべて網羅しなければならない共通1次をあきらめ、文科系の私大でもいいか、と思い始めていた時期に、かのウチヤマくんが、早稲田を目指していると知った。

自分の行く道はまだ分からなかったけど、明確に志望校があるウチヤマくんに頑張れよという気持ちがあった。

そんな話題で盛り上がったとき、何かの拍子にウチヤマくんから、自分の応援歌を作ろう、という話になって、詞は自分が書くから、曲を作ってくれということになった。

そのときウチヤマくんが作ってきたのが、この唄の1番である。

ただ曲にするには1番では格好がつかないと思って、2番は僕が歌詞を考えた。だからこの曲は作詞がウチヤマ君(1番の歌詞)と僕(2番の歌詞)の協同で、作曲が僕である。

応援歌というより、すこしファニーな調子で書いた記憶がある。それは1番のウチヤマくんが書いた「慶応の馬鹿ども やじる夢」というフレーズからの影響だと思う。慶応出身者が見たら激怒されるだろう。

もちろん曲は応援歌風に仕上げている。高校2年の終わりころに作った唄である。

ああ早稲田

昨日見た夢 何の夢
大隈講堂(おおくまこうどう)仰ぎ見て
一人涙を流す夢
熱気あふれる神宮で
慶応の馬鹿ども やじる夢
ああ遠のく 早稲田の森よ
君に捧げた あの誓い
今では 過去のものなのか

やると決めても 次の日は
必ず意思は くだけてる
人の性(さが)の 空しさよ
今日は鉢巻 締めてても
明日は挫折が 待っている
ああ遠のく 早稲田の森よ
僕は必ず やってくる
そのとき 待っていてくれよ

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情報伝達の難しさ

先月初めに倒れた母の意識が回復しないまま、2度目の手術が行われた。

意識レベルの回復がないのは水頭症のためで、脳ずい液を排出するシャントを埋め込むためである。そのため今日は有給休暇をとってずっと病院で待機していた。

母が倒れた直接の原因はくも膜下出血で、その手術の際には、レベル2の出血で9割方、後遺症が残らず回復するだろうと言われたが、その後様々な経緯で脳梗塞を発症して現在の状況になっている。

不幸にも、母は確率的には「1割の人しかならない」悪い状況になってしまったということである。今後もリハビリができるような状態まで意識レベルが回復するのか、このままリハビリも適応でないほど意識レベルは低いままになるのか、後は神のみぞ知る。

確率ほど、悪いほうに転がった立場のものからは不確実で、恨みがましいものはないということだ。

今回の経緯については、担当医師から随時、丁寧な説明を受けて僕なりには理解しているが、これをさらに、僕の口を介して親戚に伝えるときには、なかなか本意が伝わらず、医師の処置に疑問を投げかける親族がいたり、医療ミスを疑う感想をもつ親族もいたりして、情報の伝え方とはいかに難しいかを実感している。

ある程度、医療的な知識を持った僕でも、うまく伝えられないのである。もちろん伝達媒体が電話であるということも理由だろうが、それほど言葉で伝えるということは難しいものだということだろう。

介護や医療の現場でも、伝えることの難しさを知るものが、言葉だけではなく様々なコミュニケーションの方法を工夫することの大事さを知っている。

このことを再認識しながら伝えることを職業としている身であることを全身で感じている。

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日常介護の中でも個別機能訓練はできる

当施設では特養部分について、専任の機能訓練指導員を配置していないので個別機能訓練加算は算定していない。

看護師は基準配置より2名多い5名で、このうちの1名を機能訓練指導員と兼務発令しているのであるが、とても訓練業務に専従できる状態ではなく、看護師業務が主となってしまうからである。

しかし、機能訓練を行っていないというものではなく、個別に歩行訓練や作業療法的な訓練を行うなどの取り組みは行っている。そうした訓練室で行う機能訓練以外にも、日常介護の中では、機能活用と維持の視点を持って行っている。

ところで日常介護の中に個別機能訓練を位置づけていた「とある施設(道外)」が、実地指導で個別機能訓練加算の算定ルールはあくまで訓練であるから、それは介護と別個で算定できない、という指導を受けたという話がある。

その施設では当然、機能訓練指導員は別個に専従配置しているし、個別機能訓練計画も全員分が立案され、同意を得て実施されていた。その中の、日常の離床援助を訓練目的の具体的方法にしているケースなどが指導対象になったという話である。

しかし、これはおかしい。以前書いた「個別機能訓練に対するおかしな理解」でも指摘しているが、それは訓練室で行う医学的リハビリテーションに特化されたものではないし、「機能訓練指導員が行う機能訓練」などにも限定されていないことは、改正された解釈通知でも明らかだ。

だからこの施設の担当者には、指導担当者に直接クレームを挙げるように助言した。でも実地指導で言われたんだから、どうクレームをつければ良いのだろうと言う。

そもそも実地指導は、一方的に言われるがままのことを受け入れるのではなく、分からない点、疑問点はその場で聞くべきだし、施設の主張もきちんと述べるべきだろうと思い、まずそこのとを指摘した上で、解釈通知「指定介護老人福祉施設の人員、設備及び運営に関する基準について」(老企43号)の機能訓練とその指導内容は整合性がないという点から、あらためて日常介護の中で行う訓練が、なぜ加算対象ではないとされるのかという根拠を確認するようにアドバイスした。

老企43号では機能訓練について

「基準省令第17条に定める機能訓練は、機能訓練室における機能訓練に限るものではなく、日常生活の中での機能訓練やレクリエーション、行事の実施等を通じた機能訓練も含むものであり、これらについても十分に配慮しなければならない。」として「機能訓練に限るものではない」ことを明確にした上で「日常生活の中での機能訓練」が挙げられているところであり、そうであれば当然、離床介護を機能維持、活用の為の心身活性化、日課活動参加目的で行うことは、個別機能訓練になり得るものであると解釈されて良いということだろうと思う。

後日、この施設からは、個別機能訓練算定に関する指導担当者の誤解があり、指導を行った際の総括評価の一部訂正があって、報酬加算の返還指導は行わない旨、連絡があった、ということである。

こうした指導担当者の誤解とは本来あり得ないことだろうし、レアケースと思うが、大手介護サービス事業所の指定取り消し問題などでナーバスになっている時期には、こうしたこともあるのかと思った。しかし、そのとき現場の担当者は、自らの所属する事業に関する基準省令や解釈通知から、現在行っているサービスの意味や加算算定の根拠を説明できねばならず、指導担当者の「思い込み」による一方的指導に対して反論できないのでは、専門家としての見識が問われる。

指導担当者は、それなりに勉強した専門家ではあるが、それは行政という立場から、現場のケアの品質をチェックする専門家であって、我々介護サービス事業の専門家とは質が違うという理解が必要で、介護サービスやケアの専門家は我々自身であって、そこで行う介護サービスの意味や目的をきちんと指導担当者にも分かるように説明する場面が必要な場合もあるという理解がないといけない。

それも介護現場の専門家の責任と見識である。

(個別機能訓練加算の考えかた、目標の設定や具体的行為については現在発刊されている日総研出版「通所介護&リハ2007 9・10月号」に「通所介護における個別機能訓練に求められる要件」という小論文を書いておりますので興味がある方は参照してください。)

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逆デイサービスから得られた教訓への疑問

逆デイサービスという取組があるのをご存知だろうか。

その名称が、このサービスの意味を正しく現しているかどうかは別な問題であるが、そのサービスとは、施設入所者が、日中だけ施設から離れた民家などに通って日中を過ごす取り組みのことであり、居宅サービスではなく、あくまで施設サービスの方法論の一つである。

施設という大きな器における生活支援だけにとどまらず、施設利用者が施設から離れて地域の中にある民家等で小規模対応のケアサービスを展開するもので、施設に機能に一部を地域に持っていって、ユニットケアのメリットを生かした馴染みの関係のケアを日中に限定して提供するという方法である。

その取り組みにおける効果として、大きな施設ではできなかった脱集団処遇という点や、地域と密着した生活を継続するという部分は様々に紹介されており、一つの試みとしては非常に面白いし、可能性を秘めたものであると考えている。

しかしである。本当にこのようなサービスが必要かということになると、やや首を傾げたくなる。それならいっそ、施設自体を分割してサテライトの小規模施設を地域に作って、そこで小集団で過ごし、ケアサービスを展開した方がより暮らしとしてのしつらえは整うのではないか?

特にこのサービスを行っているある施設の取り組みの報告論文を読み、大いなる違和感を持った。

九州の某特養の副施設長という肩書きの方が書いてある論文において、この逆デイサービスから得られた教訓という部分がある。それは4点挙げられているが、列挙されているもの、ほとんどは逆デイサービスのメリットではなく、小規模対応ケアのメリットに過ぎない。そして一番の問題点は1点目に挙げられている教訓である。

1、施設という空間は非日常的な空間であり、そこで完結している生活は、人間本来の生活とは明らかに違うということ。

こう書かれている。馬鹿も休み休み言え!!と言いたい。そういう偏見を持った職員が施設サービスに携わっているから、この国のケアはいつまでも低いところに流れていってしまうのである。

高齢化が進行する現在社会では、高齢者の身体状況や精神状況、生活環境も様々である。高齢者の住まう場所もそれに合わせて多様化している。家族介護では全て抱えきれず、居宅サービスでありない部分を補う施設サービスとは、すでに多種多様な生活課題を抱える高齢者の「住まう場所」の一形態に過ぎない。

だからそこでサービスを提供する側は、そこで住まう人々が、その人らしい生活が実現できるよう最大限の努力をして、そこがそれらの人々にとっての家庭としてくつろげる場所にする努力が必要であり、そうした努力の結果としての「住まう場所」が非日常であってはいけないし、そうであるわけがない。

ところがこの逆デイサービスを行う施設の職員の感覚は、自分達が現にサービスを展開する施設は非日常であると言って、逆デイサービスで活動する場所こそ日常だという。それっておかしくないか?

そもそも通常の生活を考えてみろ。暮らしとしての場所が日中と夜で違っているということがあり得るのか?あり得ない。暮らしの場所は、人の住む場所で、昼だけ過ごす場所でも、夜だけ寝に帰る場所でもない。きちんと個人に目を向けたケアを行うことができれば、施設はその人々の暮らしの場所である。そして、そこから日常的に地域に出かける機会があるってことは大事で、日中その場所からいつもはなれていなければならない非日常であるなんてとんでもない論理である。

自分らの施設が非日常と感じるような不自然な生活であるなら、まずそこを変える取組が必要で、逆デイサービスとして、そこから日中のみ脱出することが解決策では、こんな貧困な方法論はない。

非日常という言葉の意味、言葉の使い方を間違っている。むしろ生活の本拠が日中と夜間で違ってしまうことの方が「非日常」である。

逆デイサービスの効果は、あくまでユニットケアが展開しやすい方法論の一つであり、逆デイサービスでしか実現できない効果ではない。むしろ生活空間が日中と夜間で分離してしまうというデメリットが生じる対象者が出てくるだろう。

事業の評価を行うのは良いが、おかしな評価は介護サービスへの偏見と誤解を助長する結果にしかならない。

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介護給付費分科会へ出される意見

次の介護給付費分科会は10月12日(金)に開催される予定である。

ところで9月28日に行われた厚生労働省の「介護施設等の在り方に関する委員会」の最終会合では、同会の意見をとりまとめ給付費分科会に提出することにしている。

その意見とは
1.施設の種類にかかわらず介護サービス・医療サービスの使いやすさを是正すること
2.施設であっても必要に応じて外部サービスを導入すること
3.各介護施設の医療提供システムと医療サービスの実態を比較検証すること
4.ターミナルケアのあり方や、医療処置の必要性が高い人へのケアのあり方、さらに介護職の医療行為のあり方について

とされている。しかし、どうも分かりづらい。何を言いたいのであろう。
そのことによって何がどのように変えられる可能性があるんだろう。これは新聞報道の問題で、実際の意見はもう少し具体的なのかもしれないが・・・。

3の検証の部分は本来、介護給付費分科会でこれから行うのではなく「介護施設等の在り方に関する委員会」そのものが行って、その結果から方向性を示唆すべきものではないのだろうか、という疑問もある。

4についても、介護福祉士会代表委員から経管栄養などの医療行為を多くの介護職が行っている現状について言及され「医療ニーズの高い人を支援していける枠組みづくりを検討してほしい」と話したとされている。

しかしこれは実態と違うのではないか。

医療行為のグレーゾーンについては検証がされないまま介護職員により行われている例があるだろうが、経管栄養など明らかに医療行為とされているものについて「多くの介護職が行っている現状」とは、どの行為のどの程度の部分の、どのような頻度や割合を指して言っているんだろう。

自分の施設で考えてみると、それは明らかに介護職員にはできない部分だから、看護職員に委ねればならないため、看護職員の数で対応できる受入れしかできず、それを超えた過重な看護職員の対応は難しいところから様々な問題が生じていると思う。

だからできる限り医療行為のグレー部分をなくして、かつ介護職にも一定の条件下で行える行為を増やすべきだと主張している。

少なくとも介護職員が日常的に経管栄養の濃厚流動食の注入や、それに関する処置を行っているなんていう現状ではない。ほかの事を言いたいのであろうか?

「医療ニーズの高い人を支援していける枠組みづくりを検討してほしい」という発言についても、もっと具体的に意見具申しないと何も変わらない。きちんと現状の医行為の概念は実態にそぐわず、介護職員等ができる行為を増やさないと、違法状態に目をつぶったまま放置するなどの「お目こぼし」をしないと必要な支援が施設でも在宅でも不可能だから、介護職員等ができる行為を明確に拡大すべき、と主張するべきである。

結局、あいまいな表現でとりあえず意見を挙げて、それに対して玉虫色の回答がなされ、善処する、検討するというだけで、現場の何も変わらないという分科会の結果では意味がないと思う。

特に本当にグレーゾーンではない、明らかな医療行為を「多くの介護職が行っている現状」が暗黙の了承とされているとしたら、それは時代のニーズに合致した求められている行為と実際の法律がミスマッチを起こしているということだ。

痰の吸引という非常に知識と技術を伴う行為を一定条件下で認めているという既成事実があるんだから、それをきちんと業務としても認め、医療行為の解釈も聖域をなくして、介護職員にもできる行為を広げる方向で議論すべき時期だと思う。

一方で痰の吸引は良いですよ、一方で自動血圧計での血圧測定は医療行為ではないが水銀血圧計を使えば医療行為だから介護職員にはできない、なんていうことに矛盾を感じないほうがどうかしていると思う。
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シンジラレナ〜イ!!を再び

日本ハム・ファイターズのパリーグ優勝を信じて疑わなかった。よってクライマックスシリーズも第2ステージが札幌ドームで開催されることを疑っていなかった。

ところで金曜のブログに書いた通り、僕が受講しなければならない介護支援専門員の資格更新研修の後期研修は10月14日(日)、15日(月)の2日間、札幌で行われる。ということは・・・。

クライマックスシリーズの第2ステージは10月13日(土)から5連戦である。

まさに僕が更新研修を受けている真っ最中で、宿泊するホテルは随分前に予約済みでほっとしている。今からでは14日の泊まりは取れないだろう、と思いつつ金曜日の昼休みに第2ステージの日程を見ていると・・・。

13日と14日は土日なのでデイゲームだ。

13日は室蘭で地域ケアマネ会の3市1町合同研修会を開催中で、これは見ることはできない。14日も更新研修の真っ最中で、これも見られない。しかし・・・である。15日からはナイターだ。午後6時試合開始。15日の札幌の研修は午後5時までである。

研修が終わってからすぐドームに向かえば試合開始に間に合う。神様のお導きか・・・!!行かない手はないぞ!!

というわけで15日(月)のチケットを、実際に優勝が決まっていない先週金曜に早速ゲットしていた。当然のことながらファイターズファンの聖地・レフト側外野スタンドである。

もちろん一般発売はまだ行われていないから、ファンクラブ先行販売によってである。事務のコバくんに携帯で予約してもらった。ちなみに彼ら(事務の課長も含めて)は土日のデイゲームを観戦しに行く。ファンクラブの先行発売分も金曜に募集開始だったが、その日のうちに全席完売である。

一般販売も争奪戦だろう。プラチナチケットだ。42.222人の超満員になることは間違いない。

先発ピッチャーは第1戦がダルビッシュ、2戦目はグリンだろうから、15日の第3戦は、おそらく武田勝だろう。

去年のこの時期のブログ「シンジラレナ〜イ!!・・北海道最高。」にも書いたが、昨シーズンのプレーオフでの優勝決定の瞬間、そして日本シリーズ第5戦の新庄のラストゲームとなった日本一の瞬間、両日とも僕は札幌ドームで観戦していた。

つまり僕がドームで観戦する日は優勝が決まる日なのである。

ということは・・。間違いない!!今年のクライマックスシリーズ第2ステージは、日本ハムファイターズの3連勝で、15日月曜に日本シリーズ出場が決まるということである。

ヒルマンのシンジラレナ〜イ!!北海道の皆さんは世界1デ〜ス!!をもう一度聞くことができると信じている。

ソフトバンクでも、ロッテでも、かかってきなさい!!

ということで、15日の更新研修の講師の方々、決して1分たりとも終了時間を遅らせてはなりませんぞ。それは決して許されません!!できれば予定の5時より少しでも早く終わってくれれば、一生感謝します!!

いえいえ、決して僕個人のためではありません。北海道を元気にする日本ハムファイターズの応援の為ですので、決して私心ではありません。北海道全体の為ですぞ!!

みんなでファイターズを応援して、クライマックスシリーズを勝ち上がり、軟弱なセリーグの覇者も蹴散らし、今年も日本一になって北海道全体が元気になろう!!そしてみんなで2年連続日本一の瞬間に、ヒルマンと一緒に「シンジラレナ〜イ!!」と大合唱しよう。

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masaのフォーク道5〜冬の午後

17408eff.jpg小学校低学年のとき「ヤマハ音楽教室」に通っていた。いや通わされていた、というのが正解で、日曜日にこの教室(菱光小中学校の音楽教室を利用していた)に通うのが本当に嫌であった思い出がある。

音楽教室で習ったのはオルガンである。名寄市で開催されていた発表会には毎年出ていたので、ある時期まで僕はオルガンが弾けたのである。ところが今ではまったく弾けない。不思議なもので体が覚えているということもない。

しかし確実に弾けた証拠として、小学校2年生のときの音楽発表会の8ミリビデオがあって、ここでしっかり両手を使ってオルガンを弾いている僕の映像が残っているのである。よっぽどこの音楽教室とオルガンが嫌いであったのだろう、ある時期からまったくオルガンを遠ざけたことで記憶に残っていないのかもしれない。

その後、ギターを始めた中1の頃まで、僕は授業としての音楽も嫌いであったと思う。ギターを始めても、ギターには興味を持っていたけど、授業の音楽にも、フォークソング以外にもあまり興味がなくて、唄を作るとはいっても、きちんとした楽譜を書いたり、読んだりできるわけではなく、詞を作って、コードをなぞってメロディをつけるだけであり、高等技術はない。

そんなふうなスタイルで僕の唄は作られている。さて、生まれてはじめて作ったオリジナル曲を覚えている人は多いだろう。

僕も、作った唄の8割は忘れているが、最初に作った曲だけはコードも歌詞も覚えている。非常にシンプルで歌詞の意味も自分でも分からない部分があるが、これが自分の感性から生み出された最初の曲であることを考えると、非常に大切な唄だと思っている。

中学1年のとき、13歳になったばかりの冬に作った短い曲である。

恋の唄であるが、ラブソングではなく別れのイメージの唄である。なぜか女性の側の視線と言葉で書かれている。そのとき誰をイメージして作ったのかは覚えていない。クラスメートだろうか・・・。空想の中の架空の人物だろうか・・・。

どちらにしても、今よりずっと純粋な心を持った少年時代の唄である。

冬の午後

恋の悩み打ち明ける
あなたと二人だけの冬の午後
言葉にしたい思いを
探し続けていたわ
いつも いつも いつも

ごめんなさいなんて
あなたと二人だけの冬の午後
信じていたはずなのに
短い恋の終わり
なみだ なみだ なみだ

何かが壊れたような
そんな気がしたのよ
さよなら さよなら さよなら

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走りながら考えていること

今日はあまり話題が思いつかないので、僕の今後の予定から話題を広げてみる。

今月は、専門学校や職業訓練校での講義が入っているので、結構忙しいし、土日も事情があって実家に帰っているが、資料作りのためゆっくり休んでいる暇はない。

しかし来月に比べるとまだましである。10月の予定はさらに詰っている。ヘルパー養成講座も最終日が10/12だから2時間講義が3日間前半にある。

加えて先日、このブログにも書いたが、登別市・室蘭市・伊達市・白老町の4地域のケアマネ会が合同で研修会を開催する予定で、この事務局が当市の登別ケアマネ会なので、代表という立場の僕は、その準備にかなり時間がとられる。案内に関わる作業は終わったが、最終調整や参加者名簿作成や配布資料編集はこれからの作業であり、当日の運営も主体的に行う必要がある。研修会は10/13(土)だから、それが終わるまで慌ただしい。

それが終わったすぐ次の日、10/14(日)15(月)の2日間は、介護支援専門員の資格更新研修の後半2日間である。そのため札幌に滞在せねばならない。僕にとっては、この2日間はなんとも無駄に感じ時間の浪費としか思えない2日間であるが、研修内容がどうあれ、参加しないと資格更新ができないから欠席できない。

さらに、その週の土曜日には兵庫県篠山市における「地域包括ケア研究大会」において基調講演を行う予定で、10/20(土)の早朝から出かけて2日間の研修に参加し10/21の日曜の夜に帰ってくることになる。

ちなみに20日土曜の出発は千歳空港が8:00発の飛行機で、千歳には高速バスで行く予定だが、それに間に合うため自宅近くの停留所のバス出発時刻は早朝5:57分である。ハードだ。しかし篠山では、研修を企画してくださったキミオーさんや、兼任CMさん、BOBさんなど、表の掲示板でお世話になっている方々にお逢いして一緒に飲める。そのために行くようなものという指摘もあるが、その声を否定はできない・・。しかし僕はあまり(最近は)お酒は強くないので相手が務まるか・・。どちらにしても楽しみにしている。

ただし、それらのツワモノたちの前で講演を行うというのは少し腰が引けているのも事実である。

このように土日の休日はないのは仕方ないが、職場に出られない日のたまった業務を通常業務の日に行うことになるので、当たり前の時間に帰ることができなかったり、休み時間がとれないことになろうことも覚悟している。

しかもここにきて、10/16に当市の認知症サポーター養成講座が開催予定とのことで、僕はサポーター養成のキャラバンメイトなので、この講座の講師も頼まれている。平日の夜なので業務には影響はないと思うが、どちらにしても10/13〜10/22は予定がすし詰めである。

そんな中、以前ぼくが基調講演を行った研修会の主催者の方から連絡があり、10/5に札幌で行うシンポジウムのシンポジストとして参加してほしいという依頼があった。さすがにこの状況で、これ以上予定を入れるのは不可能であると思い、お断りしようと思ったが、よく話を聞けば来年の10/5ということだ。

なんと1年以上先の依頼なのである。少々びっくりしたが、来年の10/5なら日曜であるし、今年ほど予定も詰まっていないだろうと思うので、一応お受けしておいた。忘れなければよいが・・・。

それから11/15には、福岡県の介護施設と事業所の幹部の皆さんが札幌に集まり、2時間の講演を行う予定が入っている。わざわざ僕の話を聞くのをメインに北海道研修を企画したとのことなので責任重大である。

11/29(木)は同じく札幌で行われる「日本サイコオンコロジー学会」にシンポジストとして参加予定である。

さらに12/8(土)は仙台市で行われる「ターミナルケア研修」でも講演を行う予定が入っている。杜の都仙台は初めてであるが、千歳空港から仙台空港までは1時間であるし、講演後1泊し日曜の午後に帰ってこようと思っているので比較的時間の余裕がある。牛タンでも食べてこようかと楽しみにしている。仙台周辺の施設関係者の皆さん、よろしくお願いします。

しかしこういう日程で走り回っていても一向に痩せるわけでもないので、まだ元気だということだろう。

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広報ビデオを動画にしようか

いまから20数年前の昭和63年という年は当施設の開園5周年の年であった。

そのとき、かなり盛大に5周年のイベントを行い、記念事業を数々行った。施設開設5年程度でなぜあんなに大掛かりな事業を行ったのか、今考えると不思議であるが、度派手な記念事業だった。

現在もある屋外ステージも、5周年の記念行事を屋外で行うために建てられたものである。ログハウスのステージで、舞台の後ろには3畳ほどの楽屋も作られている。当時の建設費で550万、屋外用のオーディオ機器を加えると600万以上の費用をかけているはずだ。

ここで行ったお祭りは、現在でも敬老の日の「緑風園祭り」として引き継がれているが、現在とは費用のかけ方が違う。当時は、市内の主なボランティアを全て招待し、そのために大型バスを5台貸しきり市内循環して、500人以上の(家族以外の)来園者を集め、イベントも、平尾 昌晃音楽学院から、歌手志望のプロの卵達を集めて歌謡ショーを行った。

今では笑い話だが、温泉にある「登別クマ牧場」から、小熊を連れてきて、このステージでショーを行ったニュースが全国ニュースで流れ、猛獣を連れ出していることで何かの法律に触れることが問題となったということもある。以後、クマ牧場の小熊の外部派遣が中止されてしまった。

ところで、その際に、5周年記念誌はもちろん作ったが、それに加えて広報ビデオを製作した。
確か当時、登別市が広報ビデオを作って、評判になっていた頃で、それに影響されてのことであると記憶している。

今と違って、パソコンが普及していないアナログの時代であるから、VHSビデオであるが、製作は、テレビ番組などを手がけているプロダクションに発注して作っている。正味19分であるが、これは通常、コマーシャルが入る30分番組の実映像時間とほぼ同じであるそうだ。

内容的には古臭いし、中の説明も「クサイ」部分があるのだが(編集に僕はあまり関わっていなかった)、それなりに今でも見られることは見られる。映像に残っている思い出とは、当事者にしてみれば結構恥ずかしいが、たまに見ると懐かしくもあるものだ。

5周年イベントの様子が中心になって、施設の生活を紹介しているものだが、当時27歳の僕もしっかりインタビュワーとして登場している。今で言うリポーターの役回りだろう。

施設も50床の頃で、中の設備もしつらえも、サービス内容も職員構成もまったく現在とは別の施設といってよいほど違うのであるが、今の緑風園の歴史を知る上では貴重なビデオである。

しかし時の流れは残酷で、テープもかなり劣化してきている。このまま放っておけば、いずれ見られない状態になるだろう。

当時このビデオ製作にも、100万ほどの費用がかけられているはずである。もったいないと思った。

そこでDVDなどにダビングでもして保存しておこうかと思っていた。しかし、ここでさらに考えついたことは、せっかくだから、動画にしてホームページで皆さんにも見ていただいたらどうだろうということである。

そんなの見る価値ないと思っている方も多いだろうが、こうした施設の広報ビデオを公式ホームページから動画で見られる、というサイトはほとんどないように思う。結構斬新なアイディアではないか?(施設の広報ビデオ自体あまりないと思うが・・。)ただし前述したように、ビデオの内容自体は20年以上前で古臭いが、それはそれで面白いだろうと思った。

退職した職員も、ホームページから当時の動画を見て懐かしむことができるし、当時の映像に写っている方々のご家族にとっても懐かしいのではないだろうか。登場されている方々全てには、当時、撮影に際しては、あらゆる方法で広報として上映することを条件に承諾を得ているので特に問題はないと思う。

緑風園の開設5年目に作った広報ビデオが、ホームページから動画配信される、というこの考え、どうだろうか?

ご意見がある方は是非、コメントを書いていただきたい。

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集団指導の意味

今日は午前中、道が実施する通所介護の集団指導に参加していたため、今、職場についた。昼食もこれからであるが、おにぎりを片手にこのブログを書いている。

実は午後からも施設サービスの集団指導であるが、居宅サービスと重複する内容も多いということで、別の担当者が聞いた方が良いのではというアドバイスを事前に受けていたので、そちらは特養の事務部門の課長が参加する。

同時に13:30から、来客があり、そちらの対応をせねばならないので、今の時間は結構あわただしいし、ブログを書いている時間もあまりない。

さて介護保険法改正で国の指導監査要綱も変わり、集団指導を重視する指導形態に変わっているのは、皆さんご存知の通りである。方法もいくつか変わっているが、今日はこの集団指導について考えてみたい。

基本的には都道府県は、毎年、施設や事業所向けに集団指導を行い、これを中心に介護事業の適正運営を周知して、実地指導で確認、問題があれば監査などを行うというものである。

これに伴い、通所サービスなどの居宅サービスは、それまで3年に1度程度を実地指導の目安としていたものが、指定更新までに1度実施することに変更されている(施設サービスは2年に1度は変わらない)。

つまり実地指導を受ける機会は、居宅サービスに限って言えば、減ったということである。

これをどう捉えるか・・。

実地指導とは指導担当者の一方的な指示命令を受ける為にあるわけではなく、都道府県の担当者が事業者の業務が法令等に沿って適切に行われているかチェックし、問題があれば改善の方向を指導してくれるというもので、事業者にとっては行政担当者と直接、意見交換や情報交換ができる貴重な機会である。この機会が減ることは決して事業者側のメリットではないと思う。

また年1回の集団指導の意味を考えたとき、この指導は原則的に、当該地域の全ての施設をはじめとしたサービス事業者が参加せねばならないものである。そしてここで介護保険制度に照らした運営の基準などを説明するもので、全ての事業者がここに参加して、必要な法令規定やルールを知ることになる、という前提で行われる。

個別の指導がなくても、集団指導において、必要な情報提供や指導がなされているから「知らなかった」「理解していなかった」という理屈は通用しないということである。

そうなると指定更新までに行われる実地指導において、法やルールを誤って解釈していた部分、ルールに沿わない報酬請求、加算請求などは言い訳ができず、厳しく追及されるという意味にもなる。

つまり集団指導とは、極めて合理的に都道府県の業務を軽減しながら、責任はより一層、事業者側に求める結果となるもので、全ての介護サービス事業者は、今まで以上の「自己責任」を負わされるという意味であることを理解せねばならない。

そうなると施設や事業所のトップ及び担当者は、今まで以上に、法令等の読解力、説明の理解力、そしてそれを通じて行う総合的な情報分析能力が求められるということである。要綱と要領の違いさえ理解していないトップでは対応できないということである。

そういう意味で、事業者側には、非常に厳しい要綱改正といえるのである。

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悪平等の弊害・平等とは何か。

平等という言葉を知らない人はいないし、誰もが様々な場面で使う言葉であろう。しかし悪平等という言葉を聴いたのは、この業界に入る直前のことであった。

何でもかんでも同じではいけないという意味だろうが、その時は、言葉の意味が良く分からなかった。その後、特養の相談・援助業務を通じて、その意味を自分なりに理解するようになった。

介護サービスとは、その時々で支援する方法や頻度が変化するという特徴を持つ。根本部分はケアプランに落として実施できるが、それは計画上の基本サービス事項であるに過ぎず、その人の体調や気分、例えば風邪気味だとか、熱っぽいとかいった身体状況にも左右され変化がある。

つまり身体介護の量(時間)は同じ人に対してでも、その時々で変化があるし、精神的ケアという面でも、常に傍らで見守ったり、会話の時間を多く持つ必要がある人がいたりして一定ではない。

そのとき、我々は、必要な関わりを、必要な人に対して行う。

介護サービスという目に見えないサービスで言えば、そのとき、さほど支援の量が必要とされない状況の人には、サービス量が減る結果になることがある。

例えば、同じ要介護3の人でも、Aさんには1日の大半見守りや、声かけが必要で対応を行うが、Bさんは、さほどサービス時間が必要でなく、身体介護としての直接的支援以外の時間、声かけや見守りをほとんど行なわなくてよい、という場合がある。

そしてそれは時として、非常に大きなサービス時間の差となって現れることがある。そのとき、同じ費用と契約内容であるのにも関わらず、介護の現場で決定的にサービス提供時間が違うのは「平等」の精神に反して問題があるから、Aさんに行っている46時中のサービスというものは全員に行えないのだから、そこまで関わることはない、できないという意見があるとする。

しかしこれこそ間違いであり、そのときにサービスの量や支援の時間が大きな違いが生じているとしても、それは平等の精神に反しないという理解が必要である。

今必要なサービスをAさんに行っている結果がその状況であって、Bさんに対してはAさんほどのサービス提供時間がなかったとしても、それは今現在Bさんには、さほどのサービスが必要ではないという結果であり、仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれたら、我々はやはり今Aさんに行っているのと同じような支援をBさんにも行います、というのが真の平等である。

仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれた状況となったにもかかわらず、そのとき、Aさんに行っているのと同じような支援をBさんに行わないで放っておくような状況が生じた場合、はじめてそれは不平等ということになる。

つまり介護サービスというものは、目に見えないサービスで、人間生活に深く関わるものであるから、いつも同じではないという意味は、誰にでも一定の量のサービスを提供しておれば良い、という問題でもないということだ。

そこを取り違えて、すべて同じ場面でのサービス量の平等を求めることを我々は「悪平等の弊害」と呼ぶものである。

何かを行おうとしたとき、できることより、できないことから発想する人々がいる。そのとき良く使われる理由として「そんなことを全ての人に行うのは無理だ」というものがある。しかし全ての人に、それが求められるとは限らないし、今できることからはじめて、必要な人に必要なサービスを行なうことを積み上げながら、介護サービスの品質を向上させていくという発想が必要で、全員にできないことは低いレベルで均して質の低いサービスを均等に提供する、という発想こそ悪平等の弊害そのものであろう。

つまり悪平等とは、サービスを受ける側の視点に立っているかのように装って、実はサービス提供側の都合にしか過ぎない論理であるともいえるものである。

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寂しさの徒然・・。

僕の実家は、30数年前に父が親せきから購入した持ち家である。

築50年近く経っていおり、ところどころにガタがきている古い家である。昔の造りだから、一つ一つの部屋が広くて、押し入れも、今で言うウオークインクローゼットといえるほど広く取ってあり、ゆうに一部屋分がある場所もある。

この家に住むようになった頃は、父は単身赴任でいない時期もあったが、両親のほか、父方の祖父母と、高1の僕と、小6の弟の6名家族が住んでいた。

この家から最初に巣立ったのは僕で、昭和58年に就職のため現在住む登別に移って、この家は5人家族になった。

その後、弟も就職のため巣立ち、僕が結婚して間もなく、結婚式のときは元気に招待客の皆さんにお酒をついで回っていた祖父が90歳で亡くなり、それを追いかけるように翌年、祖父が死んだ同じ月に88歳の祖母が亡くなった。

こうして、この家は両親だけが住む二人の世帯になった。そしてこの家で両親は年を重ね、昨年9月、父が急逝せるまでは、いわゆる高齢者夫婦世帯であった。

父が亡くなって以後、この家で一人暮らしを続けていた母が、今月初め、クモ膜下出血で倒れ。その後、血管れん縮から脳梗塞を発症し、今も意識が戻らぬままICUに入ったままである。

実家のある場所は僕の住む街からは車で一般道路を通って2時間半、高速なら1時間半の距離であるが、こうした状況だから、できる限り仕事がない日は実家に戻って病院に通っている。

平日の夜に戻って病室で様子を確認し、次の日の業務に間に合うように早朝に帰ることもある。土日といっても、業務以外の公用があってこられない日もあるからだ。

しかし、このような生活をするようになってわずかの期間ではあるが気がついたことがある。

それは、この広い家で、たった一人で夜を過ごす寂しさである。

自分が実家に戻るときは、必ず父や母がいて、父が亡くなった後も母は必ずいた。考えてみれば、この家で僕が夜ひとりで過ごすということは今までほとんどなかったことなのかもしれない。

だが母は昨年父が亡くなって以後は、ずっとこの家で夜ひとりで寂しい思いを持って過ごしてきたんではないかと、ふと考えた。

日中は、多趣味で友達も多い母であるから、近所の友人たちとの付き合いで寂しさを感じることはなかったと思うが、夜、一人になったとき、寂しく感じることもあったに違いない。

僕や弟の家族が来た時も、帰ったあとは「祭りの後の寂しさ」を感じていたに違いないと思った。

もう少し元気な時に、この寂しさに気づいてあげればよかったと思う。

masaのフォーク道4〜Song is my soul

8e25709d.jpg歌詞の中に横文字が入るようになったのはいつ頃からだろう。

僕が唄を作り出した当初は、横文字を詞の中に入れるなんて考えもしなかったが、今、演歌以外の世に出ている唄で、歌詞に横文字が入らない曲ってあるだろうか。おそらく探すのが難しいくらい、歌詞の一部に横文字が入るのは普通になっている。

しかしフォークソングには、横文字は似合わないかも知れない。特に「神田川」に代表される四畳半フォークに横文字が入っていたらつや消しものだろう。やはり日本のフォークソングには日本語が似合うのである。

とはいっても僕がオリジナルで唄を作っていたのは15歳〜22歳頃のことだから、若い感性は時代の流行に向っていかざるを得ないのである。岡林信康がコンサートで生ギターではなく、アコースティックギターを演奏して「フォークじゃない」と批判を浴びてもやめなかったように、時代の挑戦者を自負する若者は、自分の作る唄にもあえて横文字を入れて挑戦したのである。

哀しいかな英語の知識に欠ける勉強嫌いの若者のその唄は、非常に単純な横文字の羅列に終わる結果となったが、とにもかくにも、こういう挑戦が出来たし、それで良い気持ちになっていたという古きよき時代の話なのである。

高校生のときに作ったその唄は、題名までも単純な英語になっている。だけど、この唄、結構いい歌なんですよ・・・。

Song is my soul

心が揺れてる 思いが揺れてる
伝えられない 言葉にできない
全ての感情を 魂の叫びを
歌にできたら メロディにできたら
Song is my heart
Song is my soul
いつかこの手に つかむことができる
いつか出逢える 未来の自分に 

風のささやき 星のきらめき
僕が感じる すべての哀しみを
心に刻んで 叫びにするのさ
歌にするのさ メロディにするのさ
Song is my heart
Song is my soul
僕の心が 歌になるから
君の心が 歌になるから

心が震える 何かが待ってる
夢や希望や 挫折やあきらめ
怒りや愛情や 切ない思いを
心の叫びが 歌になるのさ
Song is my heart
Song is my soul
全ての喜びを すべての哀しみを
魂が今 歌になるのさ

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認知症ケアの転換史

ユニットケアが認知症高齢者ケアの切り札、といわれて久しいが、その方法とて完全に確立しているわけではないし、人によっては単にケアの単位を小規模にして、小集団に対するサービスを行っておればユニットケアであると勘違いしている人も多い。

本当に求められている支援方法とは何かという問いかけと必要な情報発信は行われ続けなければならない。

そのためにももう一度、我々が認知症高齢者の皆さんとどのように関わってきたのかを、介護現場(特に特養を中心に)のケアの方法の転換史を振り返って考えて見たい。

特養における認知症ケアの方法の転換史をみると、大きく分けて4期に分かれるといわれている。その区分は以下の通りである。

1.何もわからない闇の時代
2.問題対処型ケアの時代
3.ケアのプログラム化の時代
4.生活支援型ケアへの転換

認知症高齢者の問題がクローズアップされてきた当時、現場の職員は、そこで何が求められ、認知症高齢者に対しどのような支援を行えば良いかわからず、認知症の中核症状に適切に対処するより、むしろ悪戯に混乱を助長するような非難、叱責的な対応がとられ、周辺症状をますます悪化させてしまうという状況が少なからず見られた。この時期には、認知症の高齢者は、精神科で対処すべきという考え方が介護現場でも主流であり、結果的に、認知症高齢者は向精神薬等で、行動を制限されたり、ふらふらになって活動性を低下させることが問題行動への対処であったり、寝たきりになるのが解決策であったりという面が見られた。

そうした状況への反省から生まれたのが「問題対処型ケア」であり、徘徊や暴力行為などの当時で言う「問題行動(現在は周辺症状と呼ぶ)」には、彼らなりの理由があって、薬や治療で治すのではなく、むしろ徘徊等の行動を、その理由や意味を考えながら、その時々に適切に対処して行動改善を図ろうとしたものである。

僕が特養に就職した昭和58年当時は、この「問題対処型ケア」への転換が図られつつあった頃で、各地の研修会でも盛んに「問題行動の意味とその対処方法」という研修プログラムが行われていた。

ただこの「問題対処型ケア」は、あまりに対症療法的であり、一時的対処方法に過ぎないのではないかという反省から、認知症高齢者が異常行動を起こす以前に、つまり周辺症状をできるだけ引き起こさないために適切な方法で状態安定、精神安定を図る方法がないかということから生まれたのが「ケアのプログラム化」である。

これは例えば、音楽療法とか回想法とかグループワークを中心にしたケアプログラムを導入して、認知症の高齢者の方々の活動性を高め、心身活性化効果により状態安定を図ろうとしたもので、こうした取り組みや、そこでの関わりの中で支援者と認知症高齢者の信頼関係(ラポール)をも形成して行動悪化を防ぐというものである。

「問題対処型ケア」〜「ケアのプログラム化」の途上では、認知症の方は認知症ではない高齢者との分離処遇が必要ではないかということで認知症専門の施設や病棟などが数多く作られた。

しかし現在行われているユニットケアとは、これらの支援方法を一歩進めて、個人の希望や生活スタイルにより配慮した支援方法を基本とするもので、認知症になって出来なくなった部分を「頑張って」できるように再生するのではなく、失われたものはあるけれども、必ず残っている能力がある、そしてそれを大切に維持できる支援をし続けることが「その人らしさ」を失わないことである、という観点から、過去の生活習慣、生活スタイルを尊重して、その中から、できること、やってきたこと、を探し、生活行為を維持していく中で落ち着き、その人らしい生活を送れるように、支援者が、その方々の生活に深く密着して「ともに生きる」姿勢をもって展開する支援方法である。

そのために「暮らしを基本とした環境」「馴染みの関係や環境」が求められるのであり、できるだけ近しい人間関係をつくり馴染みの関係が作りだされるように、ケア単位を小グループ化するというものである。

だからユニットケアはハードがまずありきではなく、ソフトから小集団というハードが導き出されたケアスタイルといえるのである。ここを勘違いしている人が意外と多いのが現状の問題点である。

できないことは無理しなくていいよ。それは混乱要素になるから。でもできるだけ残っている機能やできることを探して、生活の中で自然に「頑張ることなく」それを使えるように支援して、その人らしい生き方を続けましょう。そのヒントは過去の生活習慣にあることが多いね。だから生活史をみつめて、それをヒントに寄り添うような支援をしましょうというのがユニットケアの基本的考えである。

徘徊する高齢者に46時中付きまとって見守る?・・・これじゃあ監視だろうが。こういうのが「寄り添うケア」ではないと意識することが大事な視点である。

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社会福祉士会について考えてみた。

本業のほかに、個人的に様々な団体に所属して活動しているが、当然のことながら社会福祉士会にも所属している。去年からは支部組織の役員にも名を連ねている。(あまり仕事も、貢献もできていないが・・。)

他の方もそうだろうが、資格関連団体に所属するという理由は、その団体に所属することによって何か個人的に利益を求めているというよりは、自己研鑽の機会を求めてという動機が強いと思う。勉強ができる機会があるということ自体がメリットだと思っている。どこかの団体のように国の御用聞き機関にも成り下がってしまえば別の話ではあるが・・。

また個人の力には限界がある。一定の力を持たないとソーシャルアクションにも繋がらない。そこで個人を超えた力を発揮する為には組織化された資格団体に所属して活動するということは意味があり、志を共にする仲間と力を結集して、地域の隅々で活動する我々自身の声を、雲の上まで届ける可能性を秘めたものであると思う。

しかし社会福祉士会について言えば、組織強化が進まないというか、資格を持った方が、なかなか加入してくれないし、既に加入している人が、途中で脱会してしまうケースも多いと聞く。その主な理由が「メリットがない」ということであるらしい。

そしてそのメリットの一定の秤となる部分で、大きな要素を占めるのは会費の額だろう思っている。

僕は社会福祉士会に加入していることは、自らの研鑽にとっては必要なことだと思っているし、脱会する意思など毛頭ないが、しかし会費の額については「高すぎる」と感じている。

日本社会福祉士会の入会金は5.000円、年会費は10.000円であるが、支部組織に加入が全国組織の加入条件であるから、これに加えて支部の年会費も5.000円必要である。

つまり入会年次には20.000円、その後、毎年15.000円の会費納入が必要ということだ。個人加入の会費としては、あまりに高額すぎないだろうか。

おなじ社団法人である日本介護福祉士会は、入会金こそ社会福祉士会と同じ5.000円だが、年会費は3.000円である。

日本介護支援専門員協会では入会金1.000円、年会費2.000円+支部入会金1.000円と支部会費1.000円である。毎月の会費は支部組織とあわせ3.000円ということになる。

社会福祉士会のように個人加入の組織で、支部組織とあわせた年会費が毎年1.5000円もかかる団体などそうない。個人として負担感が大きいと感じるのはやむを得ないような額である。

この会費に二の足を踏んで会員加入に踏み切れない人、一旦加入しても、活動内容に比して、この会費負担があまりに重たいという感想をもってやめていく人が多いのも、うなずけるのである。

一体あの高額な会費が何に使われているのか。予算書を見ても見えてこない部分がある。個々の検証はできているのか・・。

実際、僕も活動内容を見て感じることであるが、この会費は活動に見合っていない高いものだと思う。定期的に送られてくる刊行物や連絡なども、独自研修の案内以外は、ほとんど(遅くて)役に立たない情報が多い。あんなものに印刷費や送料をかけているのは無駄だろうと思っている。

日本社会福祉士会には専用のホームページがあり、パスワードで閲覧する会員専用のページもあるんだから、印刷物を送って情報提供するのは、支部組織の地域密着の活動に限定して、全国組織レベルでの情報提供はネットを使って、リアルタイムに双方向に行えば、費用はかからないし、もっと生きた情報になる。

事務局の発想をまず変える必要があると思う。そうした無駄と後進性を排除した上で、会費の見直しを行うべきである。

そうして間口を広くして、全国各地で活動する社会福祉士の声を届かせる団体に組織改変しないと、この団体はいずれ会員減に歯止めがかからなくなり、自動消滅してしまうんではないだろうか、と危惧している。

もしも会費の高さを権威と思っているとしたら、間口の高さを権威と思っているとしたら、それは救いようがないと思う・・。

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脳卒中を予防する魔法の薬?

脳梗塞、脳出血、くも膜下出血等を総称して脳血管障害と呼ぶが、一般的には脳卒中と呼ばれることが多い。

昭和33年に疾病別死因順位が公表されるようになって以来、昭和54年までずっと日本人の死因の第1位であった脳卒中も、現在では癌、心疾患に続いて死因では第3位になっている。

ところが介護が必要となる原因の第1位は、今も脳血管障害(脳卒中)である。我々の施設において生活する方々の約7割の方も脳血管障害とその後遺症の方々である。

先々週、母がくも膜下出血で倒れ現在もICUに入ったままである。当分は週末に実家に帰り、週始めに登別に戻ることを繰り返す予定だが、そのことと関連して昔、脳卒中の予防薬というものが話題になったことを思い出した。

元号が昭和から平成に変わったばかりの頃の記憶であるから、かなり前の話である。

当時、相談員(生活指導員というのが正式名称であった)であった僕は、ある日、栄養士とともに施設長に呼ばれ、1枚の紙を渡され指示を受けた。

施設長曰く「昨日施設長会議で良い情報をもらった。1生に1回飲めば脳卒中にならないという飲み物があるそうだ。○○園では入所者全員にこれを飲んでもらってから一人も脳卒中になった人はいないそうだ。作り方がその紙に書いてあるから、うちの施設でも作って入所者全員に飲ませてくれ。」

僕の心の中〜。「はあ?1生に1回飲めば脳卒中にならない薬なんかあれば特許販売されてるだろう。嘘に決まっているではないか。○○園でいつ飲ませて一人も脳卒中になった人はいないと言ってるの?馬鹿馬鹿しい!!」

あくまで心の中でのつぶやきである。まだ若かった初々しい(?)頃である。僕の口から、そんなことは言えるはずもない。

そのときの栄養士の困った顔が今でも思い出される。

僕もそんなことを真剣に検討する気にもならなかったし、紙に書かれていた製法(?)も少し面倒だったので、手に入れられない材料があることを理由に、そのことを説明して、結局、それはうらむやにして、実際に試してみることはなかった。

前述したように、そのことを昨晩、突然思い出して、あの時、紙に書かれていた予防薬の作り方ってどんなだっただろう?と妙に気になった。確か梅干が材料に入っていたと思って、だめもとで「脳卒中 予防 梅干」と入力してネット検索してみた。

あるはずないなと思いながら検索画面を見ていると・・・それがあった。

うん、思い出した。確かに「ふきの葉」が材料の中にあったため、当時、その季節に、そんなものこの辺のどこ探してもないですよ、ということで作らない、試さない口実にした覚えがあるので、この方法に間違いない。

ちなみに探し当てたそれは「脳卒中で絶対倒れない予防飲み物」と紹介され、以下の作り方が書かれている。

�〃寨顳姥帖頁鯡�だけ) �△佞�(自生するチーパッパ)の葉の汁…小さじ3(生のふきの葉3〜4枚を刻んで磨り潰し、それをこした汁) ��清酒…小さじ3(焼酎は不可) �で瀋劼隠姥弔垢蠅弔屬靴燭發痢頁瀋劼韻砲靴峠世蕕�くなったもの・土用干ししていない梅干でも可)

以上、上記の物を� 銑い糧峭羹腓防�ず入れ、できるだけ一品一品を入れるたび、よくかき混ぜること。※この飲み物は、一生に一度飲むだけでOK。

以上である。信じる人は一度試してみても害はないだろう。

ただ民間療法の特徴であるが、効果がなかった場合の保険がかけられている。この飲み物を飲んで脳卒中になってしまった場合でも「できるだけ一品一品を入れるたび、よくかき混ぜる」必要があるのに、それが足りなかったんだろうとか、製法上でいくらでも理由がつけられそうである。

しかしあらためて考えてみると、当時、こうした話題が施設長会議という場で大真面目に情報提供されていたという事実は面白い。ネット社会ではなかった頃、この手の情報がいかに貴重とされていたのかという証拠であるかもしれないし、こんなことが大真面目で論議されていた「おおらかで平和な老施協」の姿が垣間見えるのではないかと思った。

しかしこの飲み物を一生に一度飲むだけで脳卒中にかからないなんて、どうして信じ込めるのだろうか?それってすごく不思議である。闘わない時代の老施協の平和な会議の様子がみてとれる。

しかし、いざ母親が倒れてみると、効果がないと思うもの、怪しい民間療法でも、試してみればよかったかなと思うのも、これまた人情である。当時の喧騒を笑えるものではないと思いながら、回復を神に祈る日々を送っている。

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