masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

転ばぬ先の杖も、やりすぎは生活上の不便。

今日は僕の管理するデイサービスセンターで先日指摘した事柄を例にとって考えてみたいことがある。デイの職員は、ここをみていると思うが、あくまでわかりやすい例として、当事業所で「あったこと」、それも全体のごく小さな一場面を取り上げて書くだけで、そのことで不適切なことをしているという意味ではないのでお許しいただきたい。

僕が管理するデイサービス事業所にはベッドを置いていない。

静養スペースはきちんと壁で区分できるのであるが、空間を有効に使うために、それらの仕切りはすべてスライディングドアという可動式の壁にしており、普段は全てオープンにして広く使っている。

そのためその空間にベッドをおくと、食事の際にも、運動の際にも視界にベッドが入り、リビング的な「しつらえ」としては、どうも違和感を感ずるからである。そのためベッドが必要になった人用に、ソファベッドを2つ置いている。普段はソファとして使っているから、これで雰囲気が壊れることはないと思う。

外から通ってくる利用者さんをお迎えするスペースだから、それくらいの気の使い方はあって良いだろう。

そのソファベッドが一つ、数日間おかしなカバーがかけられ「使用禁止」という紙が貼られている。

僕はこういう状態を結構気にする。なぜなら生活空間に普段そんな張り紙はあり得ないし、家のリビングの真ん中に使用禁止と張り紙のあるソファなど置いておくわけがないという「普通の感覚」を職員は持つべきだと思うからである。

だからすぐ違和感に気付いて撤去されるだろうと思って放っておいた。何でも施設長から指摘されるまで気付かないでは困るからである。誰かが違和感に気付いてほしいと思った。

残念ながら週をまたいでもそのことの報告も何もなかったので、口を出すことにした。

ソファが壊れているなら、早急に修理や買い替えが必要だし、使用禁止の紙を貼ったまま、いつまでも利用者がくつろぐ場所に放置されているのはおかしいのである。

まず理由を聞いた。詳しい理由は忘れたが、要は、トイレ介助の際になどにソファベッドがある位置がちょうどよくて、その一つを必ず使わなければならない人がいるので、もう一つのソファを誰かが使ってしまうと、そこを使えない人が、介助の際に座る必要のあるソファに座ってしまい本当に座る必要のあるひとが使えなくなる恐れがあるからだという。

このように書いてもよくわからないだろうし意味が少し違っているかもしれない。要するにつまるところは、今どうしても必要な対策ではなく、もしものために、事前に対策を講じて、不都合が起きないようにする為に、転ばぬ先の杖として、ソファをひとつ常に空いている状態にする為の使用禁止である。

こんなことが本当に必要なんだろうか?本当にその場所が必要になったら、そのとき座っている方に事情を説明して移動してもらえばよいだけの話であると思った。

どちらにしても、公園のペンキ塗りたてのベンチのように、使用禁止の張り紙を常時貼っておくほどの問題ではない。ここまでくると、転ばぬ先の杖が、「世間の常識が介護現場の非常識」という看板に変わってしまう。

デイサービスは、外から通う利用者が、日中過ごすリビングであり食堂であり、生活場所であるという意識が必要だと思う。お客様をおもてなしする、それなりの「しつらえ」の意識が必要だし、それは自分達の職場、業務の場所であることとは対極のものである場合があるという意識が必要だろうと思う。

自分が半日くつろいで過ごせる空間に必要なもの、必要でないものを、ごく常識的な感覚で考えることが大事ではないだろうか。

ただこういうことは自然と身につくものではなく、意識して勉強しながら身に着けないと養われない感覚かもしれない。むしろ介護の常識で考えてしまえば、不自然な感覚になってしまうことが現場には多々ある。

そういう意味で、今回の状況が作り出されたのは個人の責任ではなく、管理者も含めた事業所全体の意識の問題であろうし、ここで学んで何かが変わることのほうが重要であり、良い体験であったろうと思う。

付け加えると、偉そうなことをいっても、他の場面では、管理者が気付かず、職員の方が「わかっている」ことのほうが多いのである。そこはブログに書かないだけの話で、どちらが現場サービスにあたって優れているかといえば、間違いなく現時点では、管理者ではなく、現行職員である。
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筑後の風は熱いぞ!!

今年の6月頃のことであったと思う。

福岡県の筑後地区で特養の施設長をしておられる方からメールをいただき、いつも僕のブログや管理サイト掲示板を読んでいただいているとのメッセージをいただいた。そしてその考え方に共感している仲間が他にもいて、北海道に行って僕の話を聞きたいという連絡があった。

こういうありがたい言葉をいただき断わる理由はない。当然のことながら二つ返事でお受けさせていただいた。

それにしても、それからの企画準備が何と完璧なことか。主催は筑後地区老人福祉施設協議会とのことであるが、この組織自体の企画、運営、処理能力はすごいなあ、準備万端とはこのことを言うんだろうなあ、と感心しながらやり取りをしていた。

その筑後地区老人福祉施設協議会研修会は先週木曜10/15から3日間の日程で道内の施設見学を含めた研修で、僕の講演は到着日15日の夕方である。筑後からの参加者の皆さんは旅の疲れを取る暇もなく、福岡から札幌に移動した日のホテル到着数時間後に行われた。講演を聞く皆さんはお疲れのところ大変であったろう。

当初、お話をいただいた時点で僕が考えた講演テーマは、昨年の制度改正の考え方が新制度における現場の介護サービスにどのような影響を与え、実際の現場では制度のルールとのミスマッチや、矛盾点から、どのような問題が出ているのかを、特にケアマネジメントの面から検証して論じる内容にしようかと思った。

もちろん制度の不備を論ずるのが目的でなく、法律や制度に完全形はないのが当然で、そうであるからこそ社会福祉の援助には、一人ひとりの細かなニーズに的確に対応するためにソーシャルケースワークの視点が重要であり、その援助方法の一つがケアマネジメントで、介護保険制度ではこの援助技術が中心的役割を担っているのであるから、その意味や方法を明確化しようとするテーマであった。

そのためにこそ制度ルールの瑕疵を知っておくことが、そこに手当するソーシャルケースワークとしては重要になるという意味である。

しかし1年前倒しに行われる可能性が高い来年4月の報酬改訂に向けての動きや、介護給付費分科会をはじめ、国の機関で論じられていることを改めてまとめてみると、ケアマネジメントの部分だけでは語れない問題や新情報が数多く出てきていることもあり、テーマの練り直しを行うこととした。

また今回の研修の参加者の方は、事業経営者や幹部の方が多いということも知らされていたので、現場のケアマネジャーさん向けというより、そのケアマネジャーさんを上からきちんとサポートしながら事業経営をする運営管理者の方々に向けての内容にしたいということもあって、途中でテーマを変えメインテーマを「改正介護保険制度下における事業経営」として、サブテーマを「良いケアしか残らない」とさせていただいた。

参加者の方々からの事前のアンケートでは、コンプライアンスの重要性、地域保険としての介護保険のあり方、民間参入の問題などに触れてほしいという要望もあって、それらをすべて含め120分の講演で語る内容のファイルを新たに作った。しかし広範囲な話題を網羅しすぎた為、結果的には焦点がぼやけて、浅く広い話で終わってしまったのではと反省をしている。

それにも関わらず120分という長時間、休憩なしの講演を熱心に聴いていただいた50名を超える皆さんには感謝している。

夕方6:30に講演は終了したが、その後、懇親会〜2次会〜夜中のラーメンタイムまで日付が変わるまでお付き合いさせていただいた。それだけ初対面の方々でも打ち解けて話をできる雰囲気であったということだ。

懇親会の会場で、参加者の皆様から様々にご挨拶や激励を受けた。名刺交換した方も多いが、お逢いした方々すべてが印象深いし、僕にとっての一番の財産は、こうした「人との出逢い」である。

特に今回の参加者の皆さんは、現場で熱い思いを持っている人が多かった。各施設や事業所のお話を、懇親会や2次会の場で聞かせていただいて、この業界も捨てたもんじゃあないなあと改めて思った。人材が何しろ豊富だ、と感じさせられた。

こうした素晴らしい皆さんが、長く活躍できる業界でなければならないと改めて思ったし、そういう方向で制度運営が進んでほしいと思った。

筑後地区老人福祉施設協議会研修会の皆さんが北海道を立った翌日、25日(日)から全道的に猛吹雪になって、北海道は真冬に突入した。筑後からの熱い風が北海道の大地を刺激して、彼らが故郷に帰った途端に、冬将軍があわててやってきたようである。僕らも負けられないといったメッセージかもしれない。

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天国からのメッセージ。

この時期、年賀状の喪中欠礼葉書が届く。

僕の年代(1960年生まれ)になると友達からは、祖父母の喪中の案内ではなく、父母の喪中葉書であることが多くなる。僕自身も昨年、父を亡くし、今年の年賀状は出せない旨、昨年末に喪中葉書を出している。

先週末に1枚の喪中欠礼葉書が舞い込んだ。差出人の名字をみて、すぐあいつからだと分かった。お父さんか、お母さんが亡くなられたのかと思い、よく読むと変である。差出人が奥さんの名前になっている。

夫・○○(享年47歳)・・。絶句した。

友達本人の死亡での喪中欠礼葉書である・・。しかも亡くなった日を見てさらに愕然とした。今年1月下旬の日付になっている。

彼とは大学1年、18の頃からの付き合いである。学校は一度も一緒になったことがなく本来縁のない人間であったはずだが、共通の友人がいたことで知り合いになって、大学生時代はよく一緒に飲んだ仲である。彼は高卒で旧国鉄関係の専門学校に進み、旧国鉄からJRに職を得た。

僕が大学を卒業した後は、登別に職を得、地元から離れてしまったのでほとんど逢う機会はなかったが、毎年、年賀状は欠かさずやり取りしていたし、友達の結婚式などで会うときは昔と同じく馬鹿を言い合って話せる友である。

前述したように父の死で今年の年賀状を僕は出していないし、昨年末に喪中葉書を出しているので、当然、誰からも年賀状がくることもない。彼にも喪中葉書は出していた。その彼が今年の1月には亡くなっていた。そのことを先週始めて知った。

奥さんとは、個人的に知り合いではないので、彼が亡くなった際に、彼女の知らない友達に連絡がなかったのは仕方がないだろうと思う。特に、僕などは一度も同じ学校にも行っているわけではないので、それは無理ない。

ところで亡くなった友人と僕との繋がりは、昨年まで支庁に勤務し、現在は隣の市で訪問介護事業を立ち上げている友人を通じてのものであった。彼こそは亡くなった友と、僕なんかよりずっと昔からの付き合いである。早速、彼に電話をかけて聞いてみた。なぜなら彼がその友の死を知っているなら、当然、僕にも伝わるはずだと思うし、伝わっていないということは彼も知らないのではないか、そうであるなら彼こそショックを受けているだろうと思った次第である。

案の定、彼も僕と同じ日に、同じ葉書で死を知った状態で、大きなショックを受けていた。

彼によれば今年正月の年賀状は、普通に届いていたそうである。

それからわずか20日あまりの後に、彼の身に何が起こったのか・・。

その後わかったことは彼の死因は癌だったということである。そして彼自身もそのことを知っていたという事実だ。

たまたま彼が入院していた病院は公立医療機関であり、公務員の同級生がそこの庶務課に勤務していた。その同級生が入院中の彼を見かけて話をして、彼から直接そのことを聞いたそうである。そのことも先週末、誰か事情が知るものはいないかと友達連中に電話連絡をとってわかったことである。

だから、今年の年賀状を出す時点で、彼は近い将来の自分の「死」を覚悟していたのかもしれない。そのことを少しも匂わすこともなく、普通に年賀状を出し、そのわずか二十日後には帰らぬ人となっている。一番仲が良かった友人にさえも何も告げずに逝ってしまった・・・。

想像するに真実を告げることで友人達に心の重荷を背負わせるのが嫌だったんではないかと思う。それが彼の優しさだし、言わないことが彼のメッセージであったのではないかと考えている。

死から10ケ月後に届いた喪中欠礼葉書が、天国から彼が僕ら友達連中に送った遺言のような気がしてならない。

偶然にも僕は今、秋元康の「象の背中」という本を読んでいる。主人公は末期がんで余命半年という宣告を受けたサラリーマンで、残された時間をどう過ごすか、というテーマの小説だ。漠然と自分がその立場に置かれたらどうするだろうと小説を読みながら考えていたのだが・・・、末期癌とか、告知とか、死という問題が随分僕の身近にあるものでフィクションの世界ではないことに愕然としている。

せめて線香の一本もあげたいと思う。そんなことしか考えられないくらい呆然としている。

ただ47歳というのは、あまりにも早すぎる、若すぎる死である。

僕には、ただ・・ただ安らかであれと祈ることしかできないが、その夜はなぜか涙が止まらなかった。

続々・施設報酬の評価の在り方に関する1考察

老施協が実施した会員施設の昨年度の「収支状況調査」(4461施設を対象)によれば事業収入に占める収益率の速報値では、補助金を含まない場合、平均が6.3パーセントであると報告されている。

収益率の変化は、02年度11.6%・03年度9%・04年度8.8%・05年度7.1%となっている。

03年に2ポイント以上収益率が下がっているのは15年の報酬改訂(報酬減)の影響だし、改訂のなかった04年は収益率は0.2ポイントしかマイナスになっていない。するとその時期に報酬減に対応した給与規定の改正や正規職員配置の減が行われた可能性もある。

それが05年10月に食費・居住費の自己負担化が行われた。この際は単に報酬の一部から居住費自己負担部分を切り離しただけで施設の収入自体は変わっていないというが、実は食費の算定基準が大きく下げられ、それまでの基本食事サービス費の額(2.120円)が、現行の食事標準負担額(1.380円)に大幅に下げられたことが収益率の1.7ポイント減に繋がっていると思える。

そして昨年の制度改正、報酬改訂でさらに0.8ポイント下がっているわけだが、昨年の4月改訂は新型特養に報酬を厚くして、既存型の多床室が20単位減になっているのだから、この部分で全体が0.8ポイント下がっているという意味で、既存特養の台所具合はさらに厳しい現実があるといえるであろう。

老施協会長談話によれば、この調査結果は収益率の低い都市部の施設が少ない調査で、実際の収益率は6%を切る5%前後である、としている。

収益率が5%ということは、100人施設で年間黒字が3000万円弱であろう。そうすると、職員給与を適切に引き上げて適切な昇給ベースを進めていけば、3〜4年後あたりには収益がでない赤字施設に転落する、という恐れがある。そうした恐怖感が、正職員配置配置比率を下げて、非正規職員比率を上げ、賞与も減らして収益率を上げようとする原因にもなっているのであろうが、そのことで収益率が上がれば次期改訂で報酬は上がらない結果となる。

適切な報酬を評価して適切な人件費を捻出できるためには報酬アップは欠かせない。ここの信頼感が現場にない、上がるという国への信頼がないということも悪循環をつくる要因であると思える。

しかし現実に収益率が6%を切っている現状でも、我々介護施設のトップを含めた職員給与は医療系施設のそれと比べると多くはないのが現状である。次期改正で報酬は本当に上がるのだろうか。

財源措置がない限り、全てが一律に上がるなんてことはあり得ないと思うが、そこをアウトカムの評価として加算でみる方法がないのかと言うのが国の一つの考え方である。下げるところは下げ、その部分から上げる部分に回すというのが基本となって給付費のパイ自体は大きく膨らませないという方向である。

そのためのアウトカム評価を模索しているわけだが、実際の結果評価、サービスの質の評価が難しいところから、これを例えば有資格者の配置数の状況で加算を考えるという方法などが検討されている。

しかしやはり人件費を適切に配分する為には、職員の勤続年数の評価も不可欠ではないだろうか。そうしないとこの業界に有能は人材は長く張り付いていけない。介護のエビデンスを生み出す基礎が揺らぐだろう。

そういう意味では措置費の時代にあった民間施設給与改善費の考え方が介護給付の加算の中に取り入れられても良いのではないかと考える。(残念ながら現時点で国側にそのような考えは皆無なのは理解しているが、あえて提案したい)

例えば5年間、実地指導で重大な指導をされていない施設で、配置基準減算などがないなどを条件に、職員の平均続年数に応じた加算がされるということであれば、ある程度の人件費への再分配と適正運営が可能になるのではないだろうか。新設施設などが過度な繰越金を無理に計上してお金を残す必要も少なくなるから、その面で新報酬体系が組み立てられる可能性がある。

逆に新設施設などは報酬単価が今より少なくても、勤続年数に応じた加算が算定されるなら、将来的な経営不安は少なくなるだろう。

将来の人件費アップに備えて、新規施設が過度な繰越金を出さない仕組みを作って、経験年数の豊富な介護の知識や技術がその部分からも評価される報酬体系が考えられても良いのではないだろうか。

もちろん経験=技術、ではないし高品質サービスが職員の勤続年数を必ずしも比例しないことは否定しないが、経験を積み重ね高い技術と知識をもった職員が、人件費の面から排除されるような報酬体系では介護の未来は暗いだろう。

そういう意味で、サービス評価の一部に経験年数を組み込む考え方も必要ではないかと考えた次第である。

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続・施設報酬の評価の在り方に関する1考察

急に調査が必要になる事柄があって、それに関連して、ある施設の関係者のお話を聞く必要が生じ、これから札幌のとある施設にお邪魔することにしている。

今日という日に設定したのは、当法人として調査の後、ある資料を作る必要があり、その期限が迫っていることと、たまたま僕が夕方から札幌で講演をする予定になっているので、その前についでという意味もある。これから出かけるので、今日は少し早い時間にブログを更新している。

昨日の続きである。

施設報酬が下げ続けられているのは経営実態調査において、施設の収益率が年間ベースで10%を超える、あるいはそれに近い状況にあることが最大の理由とされていた。(評価基準である会計基準不統一などこの調査自体の問題も数多いが、それは別にこのブログ内で書いているので、今回は詳述しない。)

昨年の制度改正時、既存型施設の多床室の介護報酬が削減され、新型特養の報酬が上げられたのは、居住費の自己負担化がされた際の新型特養の報酬設定を低くしすぎた、という意味があり、その理由として収益率の下げ幅が大きかった、ということが理由の一つにされている。

さて10月25日付の北海道医療新聞社・介護新聞に福祉医療機構の貸付先特養平成17年度経営状況調査が詳しく掲載されている。これは全体の経営実態調査ではないので介護給付費分科会の議論の資料とは別個であるが、17年10月の居住費負担による新報酬が与えた影響を見る上では興味深い資料である。

それによると収益率の前年比は従来型で1.8ポイント減の9.3%、新型で7.2ポイントの大幅減で8.6%となっている。この下げ幅が新型特養の18年4月の報酬増の一つの理由でもある。

しかもその中身を見ていると、既存型でも新型でも赤字施設は人件費率が65%を超えている。黒字施設は50%台である。

しかしその中身でいえば、当然のことながら新型特養はユニット型なので人的配置を厚くせねばならないところで、一人当たりの給与単価が低いにも関わらず、人を数多く配置している部分で人件費比率が上がっているのが分かる。

従業者一人当たりの人件費は従来型で黒字施設の平均が3.866千円、赤字施設で4.116千円であるが、新型で黒字施設は3.365千円、赤字施設で3.528千円となっている。

これをみてわかるように一人当たりの人件費は従来型特養に比べ、新型特養のほうが低くなっていることが示されている。

これは人を多く配置せねばならない新型特養は、雇用形態もパートの従業者を数多く配置するなど正規職員以外の職員配置を数多く配置している、という理由があるのかもしれないが、それ以上に新型特養が報酬上の評価とされたのは平成15年からであるため、比較的新しい施設が多いということもあるのだろう。

つまり従業者が若い職員や雇用年数が短い職員が数多い為、人件費単価がまだ低いという理由が考えられるのである。

すると施設の歴史が積み重なるほど、雇用年数も長くなっていくわけだから、早晩、この人件費単価は既存特養と新型特養の差が縮小されていくものと考えられる。そうなると新型特養の経営は年ごとに難しいものになるかもしれない、という予見もしておかねばならず、このことも含めた昨年4月の報酬改訂であったろうし、経営戦略的にもこのことは無視できない要素であろう。

しかしながらこの調査は17年度であるけれど、それでも収益率は平均9.3%とか8.6%であり、この数字だけで見れば国は施設の経営は現行報酬で充分であると見るだろう。

国が考える適正収益率は最高でも6%以内であるといわれており、これを超えた利益率を出している現状では介護報酬を上げる理由はないとされるであろう。

そこで18年度の経営事態調査の結果がどうなるかということが、次期介護報酬改定に大きな影響を与えるし、収益率が6%を大きく超える結果となれば既存施設の多床室を中心に介護報酬は再々度下げられ、その分を居宅サービス等の単価アップにまわすという構図にならざるを得ないかもしれない。

単価下げ→将来の収益源を見込んで正規職員の比率を低下させ人件費を圧縮して収益率を確保する→非正規職員がなかなか見つからない→正規職員の現場の就労状況に身体的・精神的負担がかかる→退職者の増→サービスの質の低下、という悪循環に繋がってしまうことは危険である。

しかしながら一方では、経営者は、現行の人件費が毎年同じレベルで維持されるわけではなく、定期昇給等で毎年数百万円アップするのだから、将来に備えると職員の数、特に正規職員の数は一定レベルで抑えねばならないということも一面では必要である。この数のレベルを過度に試算しないことが必要だし、収益が上がっている段階では、必要な設備投資を行って、収益分を全て繰越金にしないという視点も必要であろう。

では18年分の施設の収益率はどうなっているのであろう。老施協の調査による特養の収益率に関する速報値が先週出されており、この結果から、今後の報酬のあり方を少し考えて見たい。(明日に続く)

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施設報酬の評価の在り方に関する1考察

本来の介護報酬改訂は21年4月からの実施予定であったが、来年4月に介護報酬単価は1年前倒しされて見直される可能性が高い。これは介護療養型医療施設の廃止に伴って、現行の介護療養型が転換できる老健(以下、転換型老健と略す)の報酬を決めなければならないための前倒しである。

しかし法律改正ではないため、あらたな施設の新単価を作ることはできない。このため転換型老健の介護報酬は、基本部分は老健の単価として既存型と同様にするが、転換型老健のみ既存老健より医療機能の強化などを行う部分に対して加算を認めるというものである。

つまり転換型老健の全体の報酬は新たな加算報酬を上乗せする形で既存型老健との差別化を図るという意味である。

これに対し、この提案が出された先月の介護給付費分科会では、加算という報酬評価であるなら、既存型老健も医療機能を現行より強化することで加算できるようにすべきであるという意見が出されている。

しかし現時点での国の考え方はそれを否定するものであると考えてよい。

つまりこの加算は、もともと介護報酬が既存老健より高かった介護療養型が、介護報酬の低い老健に転換するに当たって、いわば激変緩和的に既存老健の報酬レベルまで下がらない程度に加算して、その代わりに医療機能が既存型老健より強化した体制を作れるという意味を含み、現行の介護療養型の利用者をスムースに受け入れ転換するということで既存型老健の役割とは別な部分を加算報酬で見るという意味がある、という考えである。

つまり療養型再編の意味、介護療養型廃止の真の目的は、介護報酬の全体のパイを小さくすること、つまり財政論が大きく影響した改革であることが本当のところであり、せっかく介護療養型を転換型老健という介護報酬の低くて済む施設に転換させたのに、既存老健まで、ここに乗って既存老健の介護報酬が高くなっては、介護報酬のパイの圧縮ができず介護療養型廃止の意味と目的が薄れてしまう、という本音が隠されているということだ。

だから新報酬で、既存老健も転換型老健と同じ加算報酬が算定できるという可能性は、現時点では非常に少ないと見ておいたほうが良いだろう。

さてこの報酬見直し論では、介護職員の確保が待遇の悪化により深刻に難しくなっているという意見を受けて、介護報酬をきちんと職員確保に繋がるように適切なものしないとならない、つまり介護報酬の引下げはもうできず、上げる必要がある、という議論がある。

そういう議論が進めされていること自体は事実であるが、だからといって次期介護報酬では全体がアップするというふうに考えている人がいるとしたら、それはあまりにも楽観的過ぎる見方であろう。

なぜなら介護給付費の全体のパイはそう膨らまない、膨らますことはできない、という、やはりこれも財政上の理由が大きく影響するからである。ということは上がる報酬があれば、下がる報酬もどこかにある、ということになる。

すると現行の国の考えは居宅サービスより、施設サービス、特に多床室単価には厳しい視線を向けているということは事実としてあることを忘れてはならない。特に昨年の制度改正時には、厚生労働省側が提示した多床室報酬は27単位減算であった。それが老施協との事前協議などで20単位減におさまった、という経緯がある。

国の時期報酬の多床室の算定基準は本来国が考えていた27単位減から算定ベースを考えるという可能性がないとも言えないし、その証拠に新判定ソフトの介護の基準時間では多床室の介護に関わる時間が、個室のそれより短時間であり、介護の手間としては大きく差があるというロジックが組み立てている。

どちらにしても国は介護報酬を一律、全体的にアップするという考えは持ち合わせていない。

しかも職員待遇の部分でいえば国側は「介護報酬が適切に職員に配分されているのかという検証がまず先である」といっている。

つまり介護報酬が低いから人を雇えないのではなく、施設の収益率が高すぎる、つまり設けすぎている。その理由は適切な人件費配分をしていないから待遇が悪くなって人が集まらないのではないかという考え方である。

であるから老施協などが過度に正規職員比率を低めて収益率が大きくなることは介護報酬のアップの足かせになること強調しているのである。このことは一面の真実であることも施設経営に携わる人々は知っておくべきである。(明日に続く)

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記憶とは箪笥の引き出し。

認知症の高齢者の方で、短期記憶(直前の行動の記憶)の保持がまったくできない方であっても、子供の頃の記憶や、若い頃の記憶が鮮明に残っている方は多い。

医療の専門家の皆さんなら、その現象を脳の構造的な問題として理解できていると思うが、一般市民の皆さんや、介護に携わるサービス事業の職員の皆さんが、この理由や意味をよく理解していないことが多いし、それを理解することによって、より適切なケアに繋がることに気付いていない人も多い。

だから僕が認知症のケアに関する講義や講演を行う際には、この脳の記憶の保持や、記憶の再生について必ず触れるようにしている。それも専門的な知識と言葉で脳の構造から説明するのでは、誰も興味を示してくれないし、わかりづらいと思うので、非常に単純に簡単に説明するようにしている。

そのとき僕は、脳の記憶は「箪笥の引き出しの中身」だと例えて説明することが多い。

認知症サポーター養成講座の標準教材(テキスト)では、記憶の保持の仕方とその引き出し方を、その機能を司る海馬についてイソギンチャクの足と壷に例えて説明されているのだが、僕はこれは分かりにくいと思うのである。しかしサポーター養成講座ではテキストと内容が違っておれば混乱の元になるので、その例で説明する。だが、それ以外の認知症に関する講演等ではあえてその例えを使わず「箪笥の引き出し」に例えることにしている。

記憶というもの自体は、どこか1箇所に積み上げられているのではなく、脳の中に箪笥の引き出しがたくさんあって、そのとき記憶した体験なり知識なりは、一旦そのときの引き出しに入れられてしまわれている。だから脳の中には数え切れないほどたくさんの引き出しがあって、その時々で判断して再生すべき記憶が詰っている引き出しを開けて、必要な記憶を引っ張ってくるのである。

この箪笥の中身が記憶であると考えたら、箪笥の中の衣類がきちんと畳まれて整理してしまわれておれば、必要なときに簡単に衣類は出せるが、中身がごちゃごちゃで整理も何もされずに放り込まれている状態だとしたらどうだろう。

つまり認知症は脳の変質や変性が原因で起こる病気であるが、脳の状態が正常な頃に引き出しの中に入れられた記憶というのは、きちんと整理され畳まれた衣類のように、しまいこまれているのである。だから認知症という症状が発生しても、仕舞われている記憶自体は正常な状態のままであるから、再生が可能で、若い頃の生活習慣や記憶ははっきり覚えているのである。

一方、認知症になった以後の記憶は、整理されず、ごちゃ混ぜに箪笥の引き出しに入れられてしまう為、直前の出来事でも、そのときに記憶が詰っている箪笥を開いても、何がなんだか分からないという状態なのである。時には引き出し自体が壊れてしまって、その中身がなくなってしまう。

だから認知症で短期記憶の保持ができない人は、新しいことを学習して次の行動に繋げるということは非常に難しくなるが、過去の正常な状態で整理されている箪笥の引き出しに入っている部分の記憶が活用できる行動は、認知症になっても可能という意味である。

ゆえに過去の生活習慣を思い出して、そこから今の生活に繋がる希望や、したいことを見つけ出して、それができる支援を行うということが大事になるし、できるのである。

これが「できない事は無理してしないけれど、できる可能性を過去の生活や体験をヒントに見つけ出して、その人なりのできることを続けよう」というのが生活支援型のケアの意味であり、だからグループホームでは、女性の認知症高齢者が、過去に必ず習慣として行っていたであろう家事、特に食事の支度という場面で、職員とともにそれを「できる部分」を中心に続けることによって、落ち着いたその人らしい生活が継続できる、という意味である。

これがユニットケアの方法論の基本的な考え方であり、単に対応人数を小規模にして、個室を中心にした箱物を作ることがユニットケアではないということである。

ところで、短期記憶が傷害されているといっても、感情は最後まで残っている。そして感情に関連深い記憶も保持されやすい。特に「好き、嫌い」という感情は最後まで残っており、明確に表現できる人が多い。

それが証拠に、自分の家族の顔も分からなくなった認知症の方でも「嫌いな看護師、介護職員」の顔だけは、いつもはっきり認識して「嫌だ、嫌いだ」という表現をしてくれる。

介護の現場にいる皆さんは、それだけは覚えておくことだ。自分が認知症の方に嫌われているか、いないか、そこがよき介護者となっているかのバロメーターである。

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混合診療は是か非か。

先週11月7日(水)、医療制度に関連して大きな影響があると思われる地裁判決が出された。混合診療を原則禁止していた厚生労働省の考えは法的根拠がなく、混合診療は法律上認められるという判決である。

混合診療とは健康保険の診療と健康保険の範囲を超えた自由診療を混在させて提供することである。厚生労働省は、この混合診療を認めないという立場をとっていたので、保険外の自由診療を行った場合は、その中に一部保険治療も含まれていても、保険内診療分を別途医療保険に請求できず、全ての治療費が自己負担とされるものである。

今回の裁判では、腎臓癌治療のため、保険適用対象となるインターフェロン治療と、保険適用外の「活性化自己リンパ球移入療法」を併合して受けた患者が、インターフェロン治療まで自己負担とされたのは不当として、インターフェロン治療に対する保険適用を求めた訴訟で、東京地裁判決では「インターフェロン治療に対する保険が適用されない根拠は見いだせない」として、患者側の請求を認めたものである。

つまり結果としては、患者側の言い分が認められ、保険適用対象となるインターフェロン治療については自由診療と同時に行われていても保険請求でき、患者側の自己負担額が減るというもので、患者にとって利益のある判決になっているわけである。

ということは混合診療は認められないという厚生労働省側の考え方を否定して、混合診療が認められるという結果は国民にとって歓迎すべき、国民側に立った判決なんだろうか。

ところがこの内容をよく考えると、必ずしもそうではないように思える。

そもそも厚生労働省側が混合診療を認めてこなかった大きな理由は「混合診療を解禁すれば、所得により受けられる医療に格差が生じる。治療費を多額に支払える患者だけが、より多くの治療を受けることができることになってしまう。」というものであったろう。

それに対して混合診療の禁止は「より支払能力の高い人しか保険外診療を受けられない、という逆効果になっている。」(保険内で給付されるものも保険外とされてしまう為、両者を自己負担できるほどの負担能力がある人のみ、保険外診療を受ける結果となっており、混合診療を認めれば保険対象部分の給付負担が減るので現行より多くの対象者が保険外診療を受けられるという意味)という反論もあったことは事実である。

両者の論理は、それぞれうなづける部分もあるのだが、しかし実際問題として総合的に考えれば、混合診療が認められれば、個人の経済状況により受けられる医療の質の差が現在より広がって、医療格差はより深刻になるのではないかと懸念される。

公的医療保険で保険が給付されている限り、患者は自己負担分だけ支払えば医療が受けられるが、混合診療が認められて自由診療になってしまうと、供給側の言い値で商売ができるようになるので裕福な人だけが高度な治療にアクセスできるという図式が生じる可能性は否定できない。

今でも、所得が高い人は混合診療であろうと、なかろうと診療は受けられる。これは間違いない。

しかし混合診療が当たり前になった社会では、所得や収入の多くない人々は保険外診療など受けられないだろうし、さらに今より診療の質が低下する可能性があるということだ。

なぜなら混合診療が認められることは現在、健康保険でみている療養までも「保険外」となる可能性がある。さらに保険外のほうが儲かる診療であれば、保険医療しか使えない患者が医療機関から排除されてしまう恐れがあるということだ。これは大きな問題だろう。

また混合診療が全面解禁されてしまうと未承認の保険が利かない薬による治療が蔓延する恐れがあり、医療の安全性が大きく問われることになりかねない。薬害が健康に及ぶす影響の責任も、すべて自己責任に転嫁されるであろう。

どちらにしても今回の地裁判決の流れが混合診療の全面解禁に向かうとしても、それは必ずしも改正とはいえないと思う。むしろ裕福ではない階層にはデメリットのほうが大きいように思えてならない。

少なくとも我々は規制改革・民間開放推進会議の議長であるオリックスグループのCEO(最高経営責任者)・宮内義彦氏が雑誌のインタビューで答えている次の発言を肝に銘じておかねばならないだろう。

宮内発言「混合診療は国民がもっとさまざまな医療を受けたければ健康保険はここまでですよ、後は自分でお払いください、というかたちです。金持ち優遇だと批判されますが、金持ちでなくとも高度医療を受けたければ家を売ってでも受けるという選択をする人もいるでしょう。」

宮内氏はどのような医療を受けても家を売る必要はないだろうが、必要な医療を受ける為に家財産を処分しなければならない人々が増える社会が、混合診療の解禁の意味なのかもしれない。

しかしお金持ちの論理はわからん・・。

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白夜を旅する人々(その2)

(昨日からの続き)
「白夜を旅する人々」(1985年大佛次郎賞。)の中に描かれている三浦の血族に背負わされている宿命とは、アルビノという病気である。

アルビノは遺伝子情報の欠損に関わるメラニン欠乏性遺伝子疾患で、先天性色素欠乏症、白子症と呼ばれ、その疾患を発症した固体は「白子(しらこ)」と呼ばれたりする。(これが差別用語とされているか否かは定かではないが、少なくとも人を対象にした言い方とすれば不適切な表現と思う)

症状としては、全身に色素がほとんどなくなり、髪の毛をはじめとした体毛も白くなることが多い。皮膚も乳白色となり、瞳孔も眼底部の血管が透けて見えるため目が淡紅色に見える。メラニンがないため紫外線に免疫がない。脈絡膜に色素がないため網膜上での光の受容が不十分で視覚が弱く斜視、近視、遠視になりやすく視力を失ってしまうケースも多い。

これらの特徴以外はアルビノでない人と何ら変わりはないが、髪の毛が生まれつき白いとなると一般社会では奇異、好奇の目にさらされざるを得ず、定期的に髪染めをしなければならないし、肌の色素異常は隠すことができない。現代医学でも治療法がなく、対症療法のみしか行なえない。

小説では舞台は東北青森としか書かれていないが、三浦の誕生地、八戸であることは間違いないだろう。

実際に、三浦は青森県八戸市三日町の呉服店『丸三』を生家として、宗助・いとの三男として生まれた。小説の一家は三浦家そのものである。三浦は末子であり上は二兄三姉である。

三浦の前半生は家族の哀しみに中にあったといってよく、6歳の誕生日に次姉が青函連絡船から津軽海峡に入水、同年夏・長兄が失踪、翌年秋・長姉が服毒自殺。長じて昭和24年に早稲田大学政経学部に進むが、翌年春・学費の援助をしてくれていた次兄が行方不明となり帰郷。大学中退を余儀なくされている(後に復学)。

小説は、三浦の壮絶な前半生の中の、彼の誕生の場面から長女の服毒自殺の時期までが舞台になっている。自らの一家が負った宿命について淡々とした筆で描かれている。時に幻想的でさえある文章が、この重たいテーマの負担を読者の心に感じさせない要素になっているような気がしてならない。

アルビノを発症していたのは長女と三女で、幼い頃から髪を定期的に母親が染めることが習慣となっており、視力も徐々に弱って将来のために三味線を習っている。世間からも隠れるようにひっそりと暮らす二人の姉妹の間に生まれた次女は、病気を発症することもなく、利発で活発な少女から大人へと成長していくが、いつも心の中に3姉妹の中で自分だけが健康な体であることにある種の罪悪感を持って過ごしている。

その次女が学校の授業で知った「隔世遺伝」という知識から彼女の新たな苦悩が始まる。そこに長兄の恋人の死や、家族の様々な思いが微妙に入り混じり、やがてこの一家に不幸な数々の死が訪れる。

しかしこのあたりの描写も、三浦の筆は実に淡々と透明感にあふれた文章として綴られている。肉親の死へのレクイエムのような哀しいけれど、優しささえ感じる表現が読むものに感動を与えているのではないだろうか。

小説のタイトルに使われている「白夜」とは単なる気象現象ではなく「暮れるでもなく暮れぬでもなく、眠れるでもなく眠れぬでもない、寝苦しくて醒めぎわの白々しい夜」という意味である。つまりそのような精神状態で人生という旅の路を運命に引きずられるように歩いている三浦家の人々の姿を現しているのだろう・・。

2つの若い痛ましい死、一家を精神的に支えている存在であったはずの長兄の挫折と失踪。心優しいゆえに自ら心に十字架を背負った若者たちの魂の叫びがさりげなく表現されている。文中のところどころに民俗説話の「座敷わらし」のエピソードを織り交ぜながら詩情あふれた文章とともに物語が展開されていく。

一点の光明は、この一家に新たに生まれた三浦自身。その小さな命の存在と成長であるように思えてならない。僕はその存在にかすかな希望を感じた読後感を持つのである。

まさに三浦文学の最高峰をなすものだろうと思う。

感動の物語を一度読んでみてはいかがだろうか。人によっては、人生観が変わるかもしれない。

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白夜を旅する人々(その1)

本を読むのが好きである。

各地から講演等に招かれて移動する場合も、移動中に寝てしまうより、できるだけ多くの本を読むようにしている。(自分の講演のことを考えたり、資料を読んでいることはまずない。)

だから自分の運転で移動する道内の出張より、飛行機で移動する道外出張の際の移動時間は貴重な読書時間である。

それは自分の知識を増やすとか何か目的あることではなく、単純に読書が好きだからであり、忙しい日常で本を読む時間が休日でもなかなか作れないから、出張などの移動時間は読書の時間として貴重になってくるのである。文字中毒かもしれない。

読むのは小説が多いが、そのジャンルは様々である。ただ読書という趣味は、僕の本業にまるで意味がないことではない。ソーシャルワーカーには自己覚知が必要であるが(参照;面接の技法2〜自己覚知について)同時に自分の価値観を意識して援助に関わるということは、人々の多様な価値観を認めるということである。

そのとき、どのような価値観を人々が持つに至るのかを理解するためには、ある程度の人生経験が必要だし、人生観が関連してくる。しかし残念ながら、我々が経験できる人生は自分ひとりの、一つの人生でしかないし、そこから生まれる人生観も狭いものだろう。

しかし小説を沢山読むことによって、様々な登場人物の人生に、物語を通して触れることができる。実際に経験できることではないけれど行間、文字間から様々な生き様や価値観を感じ取ることができる。

そういう意味でも本を読んで自分なりに感じ取るという行為が、今の自分に様々な影響を与えているし、それらが全て糧になっていると思う。まあ究極的には、そんなことを感じる前に好きだから読んでいるだけであることは否定できない。

今までに何冊の本を読んだか数え切れないし、その中から好きな本を一つだけ選べてといっても無理である。その時々に思い入れの深い本がある。そんな中から、今日は印象深い1冊を紹介したい。

「白夜を旅する人々」は三浦哲郎の私小説的長編小説である。

短編小説の名手といわれた三浦は、芥川賞受賞作の名作「忍ぶ川」を書いている。これも心の琴線に触れる名著と思う。

また南部領八戸藩を舞台にした天明の大飢饉を書いた作品「おろおろ草子」では、極限状況に置かれた人間の姿を赤裸々にしている。谷崎潤一郎賞受賞という冠がなくとも、引き入れられる名作である。

しかし「白夜を旅する人々」を始めて読んだときのショック、これは今までに経験したことがないものであった。物語は重たいテーマなのだが、決して読後感が悲壮な感覚だけで終わらないのは何故なんだろうか。そのことを含めて考えてみた。

「白夜を旅する人々」を三浦の自伝であると紹介している文章があるが、僕はこの物語を自伝というのには賛成しかねる。それは間違いと思う。なぜなら物語の中に描かれているのは、三浦の生まれたときから幼少期まででしかなく、三浦自信の伝記とはなりえないからである。

しかしこの小説は事実に基づく私小説ではある。その描く内容は、血族(あえて家族とは書かない)としての三浦の、その親や同胞達に背負わされた宿命。その中で生きる人々の何気ない日常と挫折、絶望、それぞれの運命。悪い人間が誰一人いるわけではないのに、普通に生きている普通の人々が、知らず知らずのうちに悲惨な運命の渦に巻き込まれていく・・・。

小説の構成としては非常に重いし、読むものにも負担感を感じさせてもおかしくないのに、悲惨な読後感だけではなく、ある意味さわやかさを伴う感動を残すのは何故だろうか。このことをカタルシスと表現している人がいるが、僕はカタルシスとも違うような気がしている。

それは読んだ者にしか感じ取れないものだろうから、是非一度、興味のある方はこの小説を読んでもらいたいが、この小説の内容を少し紹介しながら、僕自身の感銘の気持ちを伝えたいと思う。長くなったので、続編を明日書きたい。(明日に続く)

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特養に入ると長生きしない、という議論

07/09/28 開催の「第6回介護施設等の在り方に関する委員会」議事録を読むと次のような発言に行き当たる。

(山本委員)特養に入ると入ったらそこにお任せなのか。というのは、特養に入っている人たちは介護認定を受けている。そうすると、それぞれの基準があって、それぞれの人々に対して、要介護1とか2とか3とか出るわけである。
そこまではよいが、私が知っているところで、全員車椅子である。わかりますか、全員車椅子です。車椅子が一番体を悪くするというのはおわかりでしょう。だから、そういう支援に入れば、例えば、まだ20年ぐらいは元気でいける人が、5年か10年で亡くなってしまう。車椅子が一番体力を落とすものになっている。必要な人は必要ですよ。ところがみんなだから、そういうのは基準をつくって、こういう人には車椅子は使用させない。できるだけ動くことである。
だから、そういう基準を施設内でつくるか、そういう制度をつくるか。あるいはこちらで決めた基準をつくるか。どちらかにしないと、何のために施設に入っているのか。そういう点をひとつ考えてもらいたい。
(以上、引用転載)

どこの特養の例かは定かではないが、本当にそんな実態があるんだろうか。そもそも車椅子に座る必要がない人を車椅子に全員乗せているとして、おとなしくそこに座っているんだろうか?寝たきり老人を座ったきり老人にしても意味が無いということは以前から言われているが、それはその通りだし、山本委員の指摘のような特養があるとしたら、これは大きな問題であることは間違いはない。しかし・・・。

我々の施設の例で言うと、車椅子を使っていなかった方が、施設入所をきっかけに車椅子を必要とするようになる理由は、歩ける方が車椅子を使うようになるのではなく、ベッド上での生活で大半の時間を過ごしていた方々が、車椅子を使って日課活動に参加して、日中、車椅子の使用頻度が増えるから他者との共用の使い回しの車椅子では対応できなくなるので、個人専用で使える車椅子を準備する必要が生ずる、ということである。

そこから短距離の介助歩行ができるようになる方もいるし、ホールで歩行訓練をしている利用者の姿を見て、数年ぶりで立って歩いている姿を見た、と喜ばれる家族の方も多い。

ましてや山本委員の発言のなかで「まだ20年ぐらいは元気でいける人が、5年か10年で亡くなってしまう。」という状況は現実の特養に入所している方の平均寿命が、国民全体の平均寿命より低くないという実態とは乖離している指摘と思える。

本当に車椅子が必要ではない人の歩行機会を奪っている特養があるのか、それによって特養入所者の平均寿命は一般の平均寿命より低いとでも言うのか。

車椅子の安易な使用があるとすればそれはどのような理由で全体のどの程度にそうした現象が現われているのか、個人の印象ではないところで、具体的な検証が伴わないとならないはずで、少なくとも国の検討機関での議論としてはあまりにもお粗末な認識と指摘ではないのか。

そもそも指摘されている特養のような施設が実際にあったとして、安易な車椅子の使用を基準で解決できると思っているんだろうか。人の身体状況はある一定の基準ではおさまらないほど複雑で個別なものであり、基準で使用を規定してしまえば、そこからはじかれた人々の生活の不便を助長する結果を同時に生むことは、福祉用具の軽度介護者への給付制限が証明しているではないか。

制度やマニュアルでの規制が当てはまらないから後にあのルールも大きく変わっている。こういう例からの学習能力が皆無なのが現在の専門委員の実態なんだろうか。

それを防ぐのは基準ではなく、専門家の見識と専門知識・技術であり、唯一の解決法は、そうした人材を育成し現場に貼り付けることができるシステムの構築である。有能な人材が現場からどんどん離れていってしまう現実が、おかしな介護現場を生み出している最も大きな要因ではないのか。

とにもかくにも特養の関係者は、こうした馬鹿げた指摘が国の委員会で行われていることを知っておくべきだし、それゆえに安易に車椅子を使用することによって機能を低下させるような支援方法が現場で行われないことを検証すると同時に、寝たきりといわれている方々を単に車椅子に移乗させるのがケアではなく、車椅子に移乗して何をできるのか、ということが本来の生活支援であることを踏まえて考えるべきである。

そして、まっとうにケアを行っている大部分の施設関係者は、学識者という冠をかぶった無知に対して大いに声を挙げるべきである。
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「大根干し」から役割のことを考えてみた

昨日、午前中に緑風園の正面玄関前で、何人かが集まって、なにやら作業をしていた。よくみれば大根を洗って干している。時期は少し遅いが沢庵作りのための大根干し作業で、利用者が2名と、ケアワーカーの主任が作業している。

先週末、大根の寄付をいただいたということで、どうしたらよいかと考えたところ、沢庵作りをしたいという希望者がいるので、天気を見て作業を開始したとのことである。

お二人は時折帰宅欲求のある認知症の方であるが、生き生きと作業をしている。身体の障害はない方であるが、干し方も堂に入っている。おそらく認知症という病気を発症する以前は毎年、冬を迎える前には、こうして沢庵をはじめとした漬物作りを行っていた方であろう。その作業をいつからしなくなったのか、本人も覚えていないが、一旦始めると、昔とった杵柄である、様々な思いを語りながら作業を行っている。

当然、全てが完璧にできるわけではないが、ちょっと手伝うことで思い出してくれることが多い。これこそ生活習慣に即してできることを実現するという「生活支援型ケア」の方法論である。

100人の入居者の中の、たった二人しか参加しないのか、という考え方もあろうが、すべての行為を100人という集団で考える必要はないし、このお二人ができる行為として沢庵作りを行ってもらうということが実現できる日々、そういうアイディアが生まれる環境があることに目を向けたほうがポジティブである。

この大根干し作業が終われば、今度は実際の漬物作りには、また何人かの参加があるかもしれないし、それがなくとも実際に漬物ができて、食べるとき「これは○○さんと、○○さんが一緒に作った沢庵だよ」という話で盛り上がるだろう、そこから「私のうちでは漬物は、これこれ作っていたよ」というふうに話が広がれば、これはもう回想法の手法である。

と、わけのわからない理由をつけなくとも、過去の生活習慣が生かせて役割を持てる生活は否定されるものではない。認知症の方々がそこで示してくれる知識の中には若い我々(彼女達に比べてという意味でしかない)にはない知識もある。認知症だから何もかもが分からなくなるわけではないし、残されている能力が引き出されるときに、それらの方々の表情は生き生きと輝くのである。

だから女性の方が長く生活の中で担っていた家事という行為を長くしない時期があったとして、そのことを再びできるということは、そこから取り戻すことができるものがあるということなんだろう。もちろん強いられた行為は何にもならないが、再び過去の生活習慣上の行為をしたくなる、できる、という生活環境があるという意味は、その方がそこで役割をもって生活できるということであり、その背景には、その方が人として尊重され、常に何が必要かを見守る視点があってこそ始めて整う環境なんだろう。

それが大事だと思う。何が行われているかという前に、どのように考えられて、そういう行為に結びついているのかで、色々なものが変わってくる。

そういう意味で家事に参加するという形だけで物事を考えるとおかしなことも出てくる。家事=生活支援ではない。特に男性は仕事を失うと無趣味でやることがない人が多い、という点で、ここでは家事を強制しても「そんなことできるか男子厨房に入らずだ」という意味での拒否行動をとる人も多い。

だがこれは問題行動ではない。当たり前の主張である。家事や我々の想像範囲にある狭い趣味活動だけで、物事を考えると動機付けに繋がらないということが多々あり、それは我々の想像力と創造力の欠如に他ならない、ということである。

沢庵作りに喜びを見出せる人がいれば、誰かが作った沢庵を「あーでもない、こーでもない。」といいながら食べるだけの役割があったてよいということである。

手先を使う職人が惚けにくい、といわれるが、それは職人が手先を使う商売であるからではなく、定年がなく、役割を高齢期まで持つことができる職種であるという理由であろう。

また教師が惚けやすいといわれるが、それは定年を迎えると同時に、それまでの最大の役割であった「人にものを教える」という機会が急激に失われていくことに原因があるのかもしれない。

まとまらない話で終始しているが、役割を持つということがそれだけ大事であるという意味である。

さて今一番の心配は、干してある大根が、野生の鹿の被害にあわないかという点である。すぐ隣の牧場にねぐらを持っている鹿の群れが夜な夜な周辺をうろつくのである。

鹿だからシカタナイではすまないのである。

ちなみに緑風園から車で7分ぐらいのところにあるクッタラ湖で売られている「クッタラバーガー」とは鹿肉のハンバーグであるが、この辺の野生の鹿の肉を使っているものではないことを書き添えておく。
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寄り添うケアは抽象的過ぎる、という指摘。

認知症高齢者のケアの方法について「寄り添うケア」という言い方をすることが多くなった。

しかしその表現や方法に対して「そんな抽象的で具体性に欠ける表現で認知症ケアを語るな」という意見の持ち主がいる。

そういった主張をする方々が指摘する点は、認知症ケアは脳科学と精神医療、介護の3つが組み合わさってはじめて実効性がある支援となるもので、脳科学や精神医療を無視して介護の情緒的関わりだけで考えても問題解決にはならないということである。

そういう意味と指摘であればその通りであろうと思え理解できるのであるが、しかし一方的に講演などで壇上から「寄り添うケアなんていう抽象的な表現はやめましょう」と言われてしまえば、それでは我々が現場で実践してきた生活支援型ケア=寄り添うケア、なんていうのは認知症高齢者の介護に必要がないものという誤解を生むと思う。

毒舌だかなんだか知らないが、名のある人が勢いにまかせて無責任な発言をすることはいかがなものかと感じる。もう少し丁寧な説明が必要ではないだろうか。

認知症ケアの基盤を3層構造で考えるべきという指摘はその通りと思うが、認知症のワクチン開発が現実味を帯びてきているといっても、実際には今、認知症を予防したり治療したりする薬もワクチンも今現在はなく、中核症状に届く治療法はない。

アリセプトは進行を遅らせることのできると言う意味で、適応の方を早期に発見する為に専門医への早期受診は大切であるが、だからといって周辺症状に正しく適応する方法としての「寄り添うケア」を否定してもはじまらない。

不安を助長させず、生活習慣を大切にしながらできることを支援することによって症状を緩和する具体的な方法が抽象的だといわれる意味が分からない。

もちろん一部では、この寄り添ケアというものを理解しておらず、つきまとっているだけのサービスしかできていないところもあるし、具体的な方法を説明できない人もいる。

しかしサービスの質の高いケアを実践している関係者は、この寄り添うケアというものを、その方の生活習慣から問題の所在やできること、したいことを見出して、無理しないでできる部分を支援することで混乱を防ぎ、周辺症状を悪化、拡大することなく、むしろ精神的な安定を取り戻す成果を挙げている。まさに認知症の周辺症状に手が届くのはケアである、という実践であり、このことを単に経験と勘という表現をしてもらっても困る。

周辺症状のどの部分に手が届くかということを理解して、その届く部分の方法論を「生活支援型ケア」という具体的方法として作り上げたスタイルを「寄り添うケア」とわかりやすく表現しているだけであることを理解すべきである。

精神医療は、そうした介護の手が届く部分と、そうでない部分を明確に区分して、認知症高齢者の関わり方を専門的立場からカウンセリングの視点も含めて専門的立場から助言・指導されればベストであるが、現実にはそこまでうまく機能していないし、精神科医の認知症理解にも個人差が大きい。

生活のないところで認知症の方々の周辺症状は良くならないという理解も必要である。周辺症状を抑えることが行動抑制であってはならないという基本的な疑問から生活支援型ケアは出発していることも大事な視点であるのだ。

同時に情緒的なサービスは科学にならないという指摘もあるが、本来、人に対する介護サービスは情緒抜きでは考えられないものである。

情緒が入りこむ余地のないものが科学であり、それからしかエビデンスは生まれない、と考えるのであれば、人に関するサービスにはいつまでもエビデンスを作り出せないかもしれない。しかし、あの人が今混乱している原因は何、という部分をその方自身の生活暦と生活習慣と絡めて理解する過程で、情緒的に関わる作業は不可欠である。

寄り添うケアを観念論と考え、経験や勘の産物と考える人々は、同時に「その人らしいケア」というのも観念的で具体性に欠ける勘に頼った表現だという。

しかし介護サービスに関わる人々が、向かい合っている人々の「その人らしさ」を顧慮しないとしたら、対人援助とはなんと殺伐としたものになってしまうのだろう。「その人らしさ」を見つけ出す道具の一つとしてアセスメントを行っているんではないのだろうか。

「その人らしさ」を見つけ出す為に情緒的に関わる方法が駄目というなら、そういう現場に僕は長くは居たくないと思うであろう。

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masaのフォーク道7〜ゆうちゃん。

746b8c92.jpg中学校1年のときに父に初めて名寄の楽器店でフォークギターを買ってもらった。当時の値段で1万円。高いギターではない。初心者だからこんなもんだろう。

ギターのメーカーといえば、モーリスとかギブソンとかであるが、僕が買ってもらったギターも、モーリスと思っていたが、よく読むと「モラレス」・・・??違うメーカーであった。(笑)

当時、日曜の昼に、土居まさる司会の「TVジョッキー日曜大行進」という番組が流行っていて、その番組に「奇人変人」というコーナーがあり、そこに登場した人々には白いギター(後には青とか黄色になったが)がもらえて、それがうらやましかった。

チェリッシュの「白いギター」なんていう唄もあり、色つきギターにあこがれていたのか、僕はエンジ色のギターを買った。ピックガードを既製品からオリジナルのものに取り替えて、かなり目立つギターだったと思う。

それを高校2年生頃まで使っていたが、その後、誰かにやってしまったのか、今その所在は不明である。

さて、高校の時の同級生にユウジという友達がいて、おそらく岩見沢西高の当時の同級生の中では彼が歌唱力NO1であったろう。ギターテクはそこそこだが(僕よりははるかにうまいけど。)ともかく唄がうまい。まだ全然売れていない頃の松山千春をよく聴いていてコピーをしていたが、千春のオリジナルより、彼の唄の方が良く聞こえることもあった(いいすぎか!!)

《※この頃の千春がどれほど売れておらず無名だったかというエピソードとして僕の出身校の岩見沢西校の学園祭に河村通夫(現在北海道のラジオ番組のキャスターで活躍している)と5人衆というグループを呼んだことがあるが、隣町の栗山高校で松山 千春を呼んだが、当時は松山って誰よ?河村のほうが上だろうと思われていた。以上、余談です・・。》

彼は大学で放射線を学び、今、道東の大きな医療機関で放射線技師をしているはずだが、卒業後もOMR(オホーツクリズムマシーンの略らしい)というグループを作って活躍していた。

僕の結婚式では彼のオリジナルの唄を弾き語りで披露してもらったりした。(ちなみに彼の結婚式では僕は山口百恵の『秋桜・こすもす』を歌った。)

そんな彼は高校時代、僕の近所のクリーニング屋さんの娘で、僕らより1年先輩の同じ高校の家政科の彼女と付き合っていた。

そんな彼に対し、僕らのやっかみも含めて、うらやましい気持ちも込めながら彼をモデルに作った唄であり、ゆうちゃんとはハンカチ王子のゆうちゃんではなく、僕の同級生のユウジくんのことである。

ゆうちゃん

私の彼が言いました。
私にそっと言いました。
ヒトミちゃん 今度の土曜に
二人で 図書館に行こうって
君の苦手な数学 僕が教えてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 愛してる
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 好きなのよ
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

私の髪に口づけて
彼がそっと言いました
ヒトミちゃん、今度の日曜に
二人で サテンへ行こうって
君の哀しい話を 僕が聞いてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん みつめてよ
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん いつまでも
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

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学生時代の実習で学んだこと

僕の手元に日本シリーズ第6戦・明日・土曜の3塁側内野指定席のチケットが3枚、空しく残っている。

もう1試合息子達と札幌ドームで声を枯らして応援したかったが、仕方がない。残念だが、今週まで夢を与え続けてくれたファイターズに今年も感謝しながら、来年に期待をしよう。ドラゴンズとドラゴンズファンの皆さんには心からお祝いを言いたい。・・派手に勝ってくれました。強かった!!

今年の最終ゲームが完全試合で負けるとは、守り勝ってきたファイターズの逆の一面として「打てない」という課題が最後まで克服できなかったことを示しているようだが、それも来期からの飛躍のスタートである。中田 翔という大型新人も入団するし、監督もかつてイテマエ打線を率いた梨田さんに代わる。チームも変わるが、明るくファンから慕われるファイラーズらしさを失わずに来期に向かってくれるだろう。昨日までの日本シリーズも来期からの肥やしである。

とにもかくにもファイターズに送る言葉は今期も「ありがとう!!」以外にない。

さて、肥やしといえば、我々にとって学生時代の実習がそれにあたるだろう。

僕の学生時代は主に児童福祉関連の勉強を中心にしていた。

単位取得に必要な介護実習先も児童相談所を選択して、4週間の実習を行った。そのとき経験した様々なことが、僕がこの道に入ったきっかけになったが、その時のことは「Think about my Daughter 」として4回に分けて書いている(参照:2005年12月のarchive ;ここの12月15日から18日分をご覧ください。)

ところが就職先が特別養護老人ホームに決まったとき、あわてて授業とは別に特養の実習をしたり、大学では特養に勤務経験があった助教授に個人授業を受けたり、にわか仕込みの詰め込み勉強をした覚えがある。

個人教授をしてくれた助教授の知り合いの方がいるということで、空知管内のある特養で、4週間、学校の実習とは別個の特別な実習をさせていただいた。相談援助業務の実習であるが、そこでは夜勤の状況を知るために夜勤実習もプログラムに入れていただいた。ところが仮眠時間に寝過ごしてほとんど朝まで寝てしまった、という失敗談もある。

学校の授業の実習でもないからであろう、担当の寮母さんには(当時の介護職員はすべてそう呼ばれていた)「あんまり気持ちよく寝てるから起こせなかったわ!!」と言われた。参りました!!

どちらにしても寮母さんからすれば、介護の知識も技術もない、にわか勉強の相談員実習生が、ウロウロ付き纏うより寝ててくれた方がまし、という僕自身の存在レベルの問題であったろう。しかし我ながら緊張感がないぞ、と自分を叱らねばならない問題である。

ただ、就職先が決まっての実習ということで、自分なりには、特養の相談員(当時は生活指導員)業務を覚えなければならないと考えていたので、それなりに真剣で必死であった。が、なにしろ右も左も分からないから、実習先の指導者の皆さんには夜勤実習以外にも随分迷惑をかけたと思う。

しかし本当に親身になって、丁寧に教えてくれたなあ!!

業務終了後に鍋を囲んでお酒も飲ましていただいたり、酔いつぶれて担当者の方のご自宅に泊まらせていただいたりもした。今でも感謝に絶えない。ありがとうございます。そこでの経験が、今の僕の考え方の根幹になっている。

措置費の時代だから、事務的な書式の取り扱いも随分覚えることがあったが、僕が就職する施設は新設であったから、書式も何も整っていなかったので、全ての書式を、この実習先からいただいて当施設の様式にした。

使いやすいように変えても良い、といわれたが、どこをどう変えるのかさえも皆目見当がつかない状況であって、施設名だけを変えて、そのまま使用させていただいた。印刷が間に合わない書類は、今のようにワープロソフトで作れるという時代でもなく、タイプライターなんて使い方も分からず、結局、手書きで公文書を作って、各実施機関に送った。だから当時の「収容引き受け所」(特養への入所を収容と呼んでいた時代である)は、すべて手書き文書である。受け取った市町村の担当者も「なんだこれは」と思われたことだろう。

今では、その当時の書式で残っているものはないし、ほとんど必要な書式は施設のオリジナルで独自に作っているが、当時の実習先で、指定様式も条件さえ整っておれば、独自の使いやすいものに変えて使ってよい、という意識を自然と身につけさせていただいたことが、僕なりの柔軟な発想の源になっていると考えている。

指定書式からものを考えるのではなく、現場から考える記録の意味や書式のあり方、という発想が本来求められるべきものであろうと結論付けている。

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企業倫理って何よ?

当施設は平成11年に50床の特養単独施設から、通所介護を併せ持つ、100床の特養(+12床のショート事業所を併設)として増改築を行った。

その際、ナースコールについて、広くなった管内で場所によっては、本体の音がなっても聴こえなかったりするということが想像されたので、ハンディナースシステムというPHSでコールを受けるシステムを導入した。もちろんそのもう一つの意味としては、利用者の生活がナースコール音が本体からなり続けることでかき乱されないということも含んでのものである。

このシステムはナースコール本体の会社とは、別個の無線システムで、本体に対応する無線システムを持つ企業は複数社あって、その中から現在のハンディナースシステムを選んだわけである。企業規模としても大きな企業である。

ハンディシステムの子機は普通のPHS電話機である。無線システム自体のトラブルというのは今まで特にないが、携帯電話でコールを受けているのと同じだから、この電話機自体のトラブルは結構ある。

それは機器自体の性能という問題ではなく、介護職員が持ち運んで介護にあたっているのだから、時に落としたり、あるいは水周りの周辺で介助している際に濡らしてしまったり、そのための故障ということがある。

修理できるものもあるが、精密機械だから、落下や水没の場合は、ほとんど修理がきかない場合が多い。不注意というより、介護現場ではやむを得ない状況でのこともあるし、常に持ち運びながら介護しているのでPHSとしての耐用年数は短くなるのはやむを得ない。

だから毎年、ハンディコールシステムのメンテナンスにかかる費用=PHS電話機の買い替え費用は必要経費である。

ところがである。

当施設で使っているハンディコールシステムの企業が、もう一つの大手企業と合併して新会社としてスタートした。その際に、現在のハンディコールシステムサービスから撤退するというのである。よって今後はこのシステムに関わる保守、修理、機器の提供も行わないというのである。

つまり今後は、無線システムは使えるがPHSが壊れても修理も新規購入もできないので、1台ずつ使えなくなって子機が減ってしまうというわけである。もちろんPHS電話機であればなんでも使えるということではなく、他社の無線システムの子機をこのシステム上で使えるわけでもない。

となれば早晩、ハンディナースとしての機能を失ってしまうわけである。コール対応の問題だから「仕方ない」では済まされない。

こうした状況が突然のアナウンスで知らされたわけである。企業が合併して違う社名になって、新たなものになったから、サービスも変わるということで、当施設においては9年経っているシステムといっても、まったく異常も問題もないシステムの変更が迫られているわけである。

ということで他社の無線システムに変えるためにまた数百万円の費用がかかることになるが、命綱としてのナースコールであるから、これはやむを得ないだろう。

しかしこういう数百万円の費用がかかる設備を商品にしている大きな企業が、企業自体がなくなるわけでもないのに合併した途端にそのサービスから撤退して、経過期間も設けず、メンテナンス等も一切行わないというのは問題ないのだろうか。

法律には触れないといっても企業倫理としては最低だろう。

「日※※株式会社」から「N※Cインフロンティア株式会社」に変わったこの企業の対応については大いに憤りを持っている。(※は伏字)

今後この企業と付き合うつもりは一切ないが、同社がもともと、こういう対応を行ったということを関係者は知っておいた方がよい。

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2007年度介護支援専門員実務研修受講試験について

介護支援専門員の資格を得るために各都道府県ごとに実施される試験のことを「介護支援専門員実務研修受講試験」と呼ぶ。この試験に合格して実務研修を受けてはじめて介護支援専門員として登録できるから、このように長い名称になるんだろう。

ところで2007年度の試験が10/28(日)に行われた。

今年の試験問題は難しかったのか、難しくなかったのか、これはそれぞれで感じ方が違うかもしれない。

そこでネットで公開されている今年の試験問題を解いてみた。その感想を少し書いてみたい。

僕自身は現在、介護支援専門員の実務に携わっているわけではないが、地域ケアマネ会の代表でもあるし、職業はまさに介護保険制度の現場の施設長であり、居宅サービスの管理者でもあり、居宅介護支援事業所も併設しているという意味では、制度がどんどん新しくなっているからといって、その制度に自らの知識がついていけず「わからない」ではシャレにならないし、合格点を取れないのでは困ったものだと考えながら問題を解いてみた。

しかし期待に反して問題の難易度自体は余り高くないし、僕の知識がついていけていない部分は特にない。

正直言って、分からない問題はない。難問と思うものも特にない。ただし答えが簡単に見つけられるという問題でもないように思った。

どういう意味かというと、よく読んでじっくり考えれば満点かそれに近い得点は取れる内容であるが、どうも引っ掛け的な表現が多くて、正解を3点選べ、という問題の中には、ここの表現をこのように不自然にしているから正解ではなくなっている、という問題が多いのである。

文章の一部をこねくることによって5つの設問のうち、微妙に2つが正しくないという問題が多い。だから時間に追われながら受講する受験生は、正答を引き出す際に見事に引っかかって不正解になるという例も多いだろうなあ、と思いながら回答した。

しかしこれって本来の資格試験のあり方として正しいのだろうか。

正面から知識を問うものではなく、受験テクニックを問う試験問題になっているような気がしてならない。

もっと制度の大事なルールをしっかり把握しているかどうか、社会福祉援助技術に対するしっかりした基礎知識が備わっているか否かを問う問題であった方がよいように思う。

介護保険制度とその関連領域という狭い範囲からの出題であるから、問題が作りづらくなって、それが小手先の引っ掛け問題に繋がっているような気がしてならない。

では一体、国はどのような介護支援専門員を作り出したいと思っているのか。ソーシャルワーカーとしてきちんと社会福祉援助技術を持って、制度を理解し、コンプライアンスの重要性を理解しながら、ソーシャルアクションの視点も併せ持って、現場で利用者の生活力を高める支援を行えるような人材を必要としているんではないのか?

少なくともこの試験問題からは、介護支援専門員に求められている像は見えてこないといってよいだろう。

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認知症ワクチンは10年以内にできるか

アルツハイマー病のワクチン開発がヨーロッパ、アメリカ、日本で進んでいることは周知の事実である。

先々週、兵庫県篠山市の研修にお邪魔した際、空港まで出迎えてくれた篠山市のキミオーさんと車中でお話した中で、このワクチンの話題も出てきて、キミオーさんから「10年以内にワクチンができるという話がありますね」といわれた僕は「おそらくできないでしょう。実験段階では実用まで行くような成果は出ていないと思います」というような話をした。

その背景には、僕のトラウマとして昭和60年代のポパテという薬のことが頭に浮かんでしまう、ということが一因としてある。当時「痴呆(当時の言い方)の特効薬」として多くの医療機関で処方されたポパテの副作用により、多くの高齢者が亡くなり、その薬はすぐ、劇薬指定されて、今では使われない薬になっている。

そしてアルツハイマーワクチンも、その研究で先を走っていた米国では、人間に用いた段階で被験者が脳炎を起こして死亡し、暗礁に乗り上げたという経緯を知っていたので、日本でマウスの実験で成果を挙げたことを知っていても、どうも信用ならないという「観念」が先行してしまうのである。

しかし篠山の研修会で、僕の実践報告の後に基調講演を行った龍谷大学の池田教授は、この点にも触れ「10年以内にワクチンが開発されるので、現在の50代からその前の世代はアルツハイマーから解放される」というお話をされていたので、あらためてワクチン開発の現状を調べてみた。

なるほどこのワクチンの開発状況は、僕の認識よりかなり進んでいることがわかった。10年以内にワクチンができるかどうか、僕には疑念があるが、一応、ワクチン開発の現状だけはここで紹介しておこう。(各種文献から要点を書き出したものである。)

アルツハイマー病については、過去においては原因不明の脳萎縮により生ずる認知症といわれていたが、現在ではこの原因は「アミロイドベータ」というたんぱく質が脳内で分解されずに蓄積して神経細胞が死滅することで脳萎縮が起こることがわかってきた。

だから「アミロイドベータ」をうまい具合に分解できればアルツハイマー病は予防できるし、治療も可能となる、という仮説に立ってのワクチン開発である。

米国ではこの「アミロイドベータ」を臨床段階で攻撃、分解する過程で被験者が脳炎を発症して死亡してしまったわけであるが(その対策として米国では経口投与するワクチンに代わりパッチ(貼付)剤という形で研究が進んで成果が挙がっているらしい)、日本では「アミロイドベータ」を抑える物質について特定の酵素に着目した。つまり睡眠を促すホルモン「プロエスタグランジンD2」を作り出す酵素が十分働かなくなるとアルツハイマー病が発症する可能性が高まると予想するようになった。

そしてそれはマウス実験で立証され、そこから人間が服用できるワクチン開発の可能性が高まっているのである。

ワクチンの仕組みは(素人の僕にはよく理解できない部分もあるが、書かれている内容をそのまま転記すると)病原性のないウイルスの殻にアミロイドというたんぱく質を作る遺伝子を入れ、これを口から飲むと腸の細胞がこの「偽ウイルス」に反応してリンパ球がアミロイドを攻撃する抗体を作る。この抗体が脳にたまったアミロイドにくっつき、ばらばらにして取り除く、と書かれている。

マウス実験では、ワクチンを飲んだマウスは全て3月後に記憶力などの認知力を示すテストでレベルが発症前に戻ったという。一方、ワクチンを飲まなかったマウスは認知力の大半を失ったというのである。脳内のアミロイドが消えることは数年前かわかっていたが、症状の改善も証明されたというわけである。

しかもこのワクチンは口から飲むだけのもので大量生産も容易であるとのこと。人間に実用できれば大変な発明である。

もちろん人とマウスの薬の効き方は同じではないし、人間の複雑な認知力が改善するのかも定かではない。さらに副作用として大きな障害が現われることも完全には否定できない。ここが人間に実用するまでの大きなネックになるものだろう。

しかし確実に認知症の予防と治療への歩みは進んでいるということだ。僕の予測に反して本当に10年以内にこのワクチンは開発、実用化されるかもしれないと感じた。

しかしワクチンができたとき、最初にそれを飲む立場にはなりたいと積極的に思う人はあまりいないかもしれない。

やはり、あのポパテや米国でのアルツハイマーワクチンの悪夢がよぎってしまうからである。

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介護用品開発者のセンスはズゴ〜ク時代遅れ。

様々な介護用品があるが、高齢者の方々が身につける食事用エプロンなどを見て、いつも思うことは、なぜあんなに派手なんだろうということである。逆に派手ではないものは一様に無味乾燥のものばかり。両極端である。

どちらにしても、高齢者が身につける「介護用品」となると奇抜な色や模様になるか、暗い味気のない無表情な見かけのもの、どちらかの選択肢しかないように感じている。

真っ赤がやけに目立つエプロンを食事のたびに身につけることを高齢者が喜んでいると思うのだろうか。模様にしても、いかにもセンスのない魚であったり、動物であったり、幼児と間違っているんではないかと疑うデザインであるものが多い。

そういうものを使いたくないと思って探しても、結果的にはどこのメーカーも似たり寄ったりで、ほぼ同じようなセンスのない色・デザインである。

派手な色、子供が見てしか可愛いと思えないような模様であったほうが明るいイメージになると思っているんだろうか。

これらのものを身につけるのが高齢者であって、我々の人生の先輩であるという意味を介護用品を開発したり、商品化する側の人間は分かっているんだろうか。

高齢者の皆さんが身につけるものとして求められているのは、そうした度派手な「ばか色」「ばか模様」ではなくて、もっとシックで優美さが表現できるものであるという考えはないのだろうか。

ということで食事用エプロンを真剣に考えれば、自施設で何か工夫をして独自に作るしかなくなってしまう。結婚式に出席したときに出されるナプキンなどを1枚失敬して、参考にして作るなんていうやばいことも時々行われる。

これらの身につけるものは、もっとハイセンスでオシャレで、高齢者がもっともっと自らの優美さを感じられるものに変えていかねばならない。

介護用品開発者は、そうした商品を自分の親が身につける姿を想像して、それが似合っているか、子から見て「美しい姿」になって喜ぶことができるかという面から考え直したほうが良い。

場合によっては、商品に採用した色や模様と同じ服装で街を歩いてみることである。とってもこの色と模様の服装では街は歩けないと思うものなら、それは高齢者もそんな色や模様のものを日常的に身に着けたくないということになる。

介護の現場が様々にサービスを進化させていくのに、この部分での商品開発者のセンスは極めて遅れている。機械化された商品の性能向上や技術的進歩は目覚しいのに、介護用品のファッションセンスは極めて前時代的というより、ローセンスである。

介護用品のメーカーが、この部分に有能な人材を貼り付けていない=この部分を軽視していることの現われであろう。

しかし、現場が求めている商品はすでに志向性自体が変わっているのであり、実はこの部分にいち早く対応したメーカーにこそビジネスチャンスはあるんではないだろうかと秘かに考えている。

オシャレでハイセンスな介護用品が、これからのキーワードだ。利用者の優美さが表現できる商品開発が企業利益に繋がっていくと考えるのは間違いではないだろう。

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ファイターズプア。

3ef5e799.jpg今年のプロ野球日本シリーズは明日、我がファイターズの聖地・札幌ドームで開幕する。
(画像はクライマックスシリーズ、対ロッテ第5戦勝利の瞬間;ライトスタンドの一部・黒い塊がロッテ応援団、それ以外はすべてファイターズファンであふれている:クリックすると拡大表示されます。)

ほんの数年前までプロ野球の日本シリーズと北海道は、まったく縁がないもので、この北の大地で、この時期に野球が行われること自体が考えられないことであった。

札幌ドームができたことで、シーズンを通して野球観戦できるようになったが、まさか北海道にプロ野球球団ができるとは思ってもみなかった。そこにファイターズがやってきた。

当初はジャイアンツファンばかりの土地にパリーグの人気のない球団が来て、盛り上がるわけがないという声が多かったが、それからの道民のファイターズへの傾斜は、ここに実際にいるものでも驚くほどである。野球をあまり知らなくてもファイターズは大好きという道民も増えている。

いまでは巨人戦でもスタンドの9割がファイターズファンで埋まる。子供達のほとんどはジャイアンツグッズなどゴミ扱いで(?)ファイターズグッズを手に声を枯らして歓声を挙げファイターズを応援している。

フリーエージェントで選手が移籍するのは選手自身の問題であるが、その反感は選手を獲得した球団そのものに向けられており、いまや巨人は憎っくき敵という感情を持っている道民が多い。巨人ファンは年毎に倍々ゲームのように減り続け、逆にファイターズファンがそれ以上に増加している。5年後にはこの差はさらに拡大するだろう。

しかも去年、今年と、ファイターズが道民に夢を与えてくれるように日本シリーズに進出した。今年も野球シーズンの最後まで道民はファイターズのおかげで夢を見ることができる。

だから札幌ドームで行われる日本シリーズのチケットはものすごい争奪戦で、発売日には電話も、ネットも、なかなか繋がらない。昨日の一般販売は開始わずか2時間でチケット完売し、電話もネットも一度も繋がらないまま、チケットを手にできなかった人も多い。中には昼まで数千回電話をかけ続けても繋がらずにチケットを手にできなかった、という人もいる。まさにプラチナチケットであり、応援団でさえも手に入れるのが難しい状況である。

今年の札幌ドームでの日本シリーズは開幕戦と2戦目、6戦目、7戦目で、すべて土日開催のナイターである。

クライマックスシリーズを一人で観戦した僕は、家族の非難の矛先をかわすためにも、息子二人を日本シリーズには是非連れて行かねばならない。そこで先行予約(ファイターズが日本シリーズ進出を決める前の発売券)から懸命にチケットを手に入れようとあらゆる伝(つて)と方法を使った。

幸いなことに10/27(土)の開幕戦と12/28(日)の2戦目、第6戦の11/3分の内野席をそれぞれ3席分ゲットした。(7戦目まではもつれ込まないだろうと見て最終戦は申しこまなかった。)

とここまでは良いのであるが、問題は財布の中身である。

6000円のチケットを9枚購入し、締めて54.000円の出費である。これだけではない。観戦当日の交通費、ドーム内での弁当代等々を考えると、結局、10万を超える出費を日本シリーズ観戦だけで余儀なくされる。しかしこれをカミサンにお願いしても家計から回してくれるはずもないので、結局僕のなけなしのヘソクリから出費することになるのである。

ということで、今時期の僕の財布は随分軽くなっている。しかも深刻なのは、それが回復する見込みが確実にあるわけでないということなのである。哀しいなあ。

世のお父さん連中は、そういう苦労をしながら、いい年をこいてドームで声をからして応援しているわけである。

ちなみにクライマックスシリーズ第3戦でレフトスタンドのファイターズ応援団のど真ん中にいた僕は、稲葉ジャンプをしているところをテレビでばっちり放映され、家族からは「いい年をして格好悪い」とののしられ、職場では「昨日見に行ってましたよね。」と含み笑いとともに指摘され、結構赤面状態なのである。

先々週と先週は土日が研修会等で休みがなかった。今週の土日は3週間ぶりの休みなので母の見舞いに実家の岩見沢に行く予定であるが、夜は日本シリーズの応援に札幌ドームに行かねばならない。これは道民の義務だから仕方ないのである。だから今週も土日はブログの更新はお休みさせていただく。

とにもかくにもファイターズのおかげで夢を見る代わりに、いま僕は見事に「ファイターズプア」と化しているのである。

独身のコバくん、昼飯おごって!!

ファイターズの優勝と、皆さんのお恵みをシンジテマ〜ス!!しかし・・・情けない・・。

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生活援助が要介護度を悪化させる根拠への疑問

1昨日、昨日に続く、龍谷大学・池田教授の主張に対する疑問である。

氏は日本の介護保険制度は諸外国に比べて国民所得に占める介護給付費の割合はトップ水準であると国際比較している。それゆえ介護保険は「贅沢」に作られている制度だという。しかしこれを制度の贅沢さとみるのはいかがなものだろう。

そもそも社会システムも制度体系も目的も違う各国の介護給付費は一様に比較できない部分が多い。民間サービスの位置づけも様々であり実質「官」の役割を担っている国もある。それゆえ制度の贅沢さとは、それによって実生活部分にその贅沢さが反映されている状態であって、はじめて使える言葉ではないのか。実生活の生活レベルの視点なしに社会保障制度を語れるのであろうか。

国民所得と生活水準は、例えば生活に不可欠な食にかかる費用などにも目を向けて考えねばならず、米国の食料の所得に比しての安価さは、介護サービスに個人の資産を活用し対応できる基盤となっており、社会保障の一翼を担っているといっても過言でない。

生活水準を健康で文化的な面から考えての必要な給付費と考えれば、諸外国との国民所得に占める介護給付費比率のみから判断して贅沢であるということにはならない。

さらに氏の主張によれば、介護保険の給付費が要介護度5で在宅35万8300円、特養なら27万5000円の給付を受けているに、スタッフの給与は一体いくらなのか、と問いかけ、少なくとも30万以上もらうのが当然ではないかと言う。

それはそうだろうと思うが、ここで氏の理論展開は、では現実には介護スタッフは20万しかもらっていないのであるから、支給限度額も施設の給付費も35万8300円、27万5000円から下げろという論理展開であり、それで使えない部分は自己負担で賄え、という意味を含ませている。

しかし介護スタッフの給与とは介護給付費で支えられているものではないか。

支給限度額や給付費が下がった分を、すべて自己負担で補えるほど格差社会の現状は甘くない。すると氏の主張する方向に向かえば、事業者の収入はさらに低下して、スタッフの給与にもそれは反映されざるを得ず、介護労働のワーキングプア化はより一層深刻化するだけではないか。

ここの部分はいかにも学者の理論で、現実に介護労働の場で、職員が労働対価として得る給与に心を痛める現場の経営者とは乖離しすぎているし、それは現場の従業者の声ともかけ離れたものである。氏の推進する方向に向かえば間違いなく、この国の介護労働は崩壊する。彼らの目指す「持続可能な制度」の中身がいかに空疎で貧弱なものであるかの証明であろう。

しかも一番の問題は、介護給付費を下げる為の理由としている、過剰サービスは要介護度を悪化させるという証明データを出しているが、それがひどく根拠に欠けるという点である。

もともと過剰サービスが要介護度を悪化させるという根拠データは日医総研が島根県で行った調査結果を元に給付費分科会で議論されたが、後にこれは平成16年度介護給付費実態調査で軽度者と中・重介護者の重度化率は同じと否定されたという経緯がある。

そこで給付費分科会では、最終的に鹿児島県保健福祉部「居宅介護支援事業所の実態調査」というデータを出し、この中で要支援者中、ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合という主張をしている。そして今回の池田教授の講演でもこのデータを根拠資料と紹介している。

しかしこれはまったくひどいデータである。何しろ「ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合」といっても何と、これは総サンプル数310人というわずかな数のもので、しかも毎日サービス利用はわずか2人しかいない。この2人の悪化をもってして高割合としているのだ。

そもそも、ほぼ毎日訪問介護を使っている軽介護者など認定審査会を5年以上行っている経験からもそういない。それなのにわずか310のサンプルに2人もそれが入っているのがおかしくないか?そういうサンプルをあらかじめ組み込んだ操作データではないかという疑いが強い。

毎日サービスを利用して要介護度が悪化するのではなく、おそらく要介護度にマッチした状態像ではなく、実際は要介護度がもっと重度な状況になっていたためにサービスを利用せざるをいえなくなった人が更新時に状態像に即した認定を受けたに過ぎないということも考えられるのであり、このデータを根拠にする限り、例の島根県データの際の状況を鑑みても、国の考え方に誘導すべく情報操作が都合よく行われている、としか思われないのである。

それよりむしろ東京都で行われた軽度者の重度化要因調査研究報告書(05・NPO法人地域保健研究会)の調査結果のほうが実態をより正確に現していると思う。

この中で、要介護度が2年間で悪化した100人の調査について、その要因は多い順から
1.疾病 44件
2.認知症 39件
3.加齢による脆弱化 23件
4.家族関係 15件
5.転倒 14件
となっており、ヘルパーによる家事代行など過剰介護は0となっている。

結論として言えるのは、介護予防という面から言えば、恐いのは過剰サービスより過少サービスで必要な支援が行われないことであるといわざるを得ないのが本当のところであり、池田氏の主張はまず給付抑制ありきの論理としか考えられないのである。

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介護保険は社会福祉ではないという主張について(その2)

(昨日からの続き)
介護保険は社会福祉の制度ではないのではないかという意見は2つの違った立場から主張されていることを現状として認識すべきである。

つまり一つの立場は、介護保険制度はあくまで措置制度から高齢者の介護サービスを切り離して保険料負担を新たに求めた制度設計にしたという意味で、社会福祉の制度であったものを国民負担の新たな体系を作るために「介護保険制度」というものに移したものであるから、当然、そのサービスには社会福祉という資本主義の市場原理とは別個な視点を残して、基本は社会福祉制度として考えるべきものなのに、現実の介護保険のサービス運用は、民間の営利企業の経営論理によってサービス提供され、社会福祉の視点が欠如してしまっているのは問題だという立場からの主張である。

一方、もう一つ別の視点からの主張は、国の主張とリンクするのだが、池田教授らが言うように、そもそも介護保険制度は社会保険になったんだから社会福祉制度ではないのは当然で、社会福祉の領域でカバーすべき低所得者対策などはこの制度で給付対象とすべきでないし、サービスとしての給付も、もっと保険事故に対する給付という原則に立って、必要ない給付を排除して給付費用を抑制すべきであるという主張である。

この両者の主張は似て非なるものであり、前者は介護保険を本来の社会福祉制度としてみるべきであるということで、後者のそれは、介護保険制度と社会福祉とは別個なものという理解をして守備範囲を明確に区分すべきであるというものである。

しかしおかしなことに国は本来後者の立場であるはずなのに、この社会保険という主張する制度の中に低所得者対策としての減免制度を取り入れている。

これは何故か?国や池田教授が主張する社会保険は社会福祉を必要とするサービスまで提供しないということを実際に行うなら、減免制度を導入せず、支払い能力のない人のその部分には生活保護を適用するということになぜならないのだろうか。

答えは簡単である。支払い能力のない部分を生活保護で保障しようとすれば公費負担が大きくなり、介護保険に減免制度を設けてこれで対応した方が国の負担は少なくて済むということではないだろうか。

つまり制度の維持継続という部分を、国費全体でみれば介護保険を社会福祉制度の一部として取り込んだほうが国の負担が少なくなるという意味になって、現実にそれが行われている。

社会保険制度だから社会福祉ではないという論理を都合の良いところだけで使って介護サービスの給付費抑制部分だけで主張するのはいかがなものか?

さらに多くの関係者が心配するところは、北欧では現実に衣食住の部分は自己負担で、負担できない人は介護サービスでみるのではなく生活保護でみているとはいっても、わが国の生活保護の実態が必要な人に必要な保障がされていないのではないかという疑念が先立つ点である。

生活保護を打ち切られた人が「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死している現実が生活保護の適正給付が行われていない現実を示している。

そんなことはレアケースで議論として持ち出すべきではないという意見は当然あろう。

しかしそのことを除いて考えても、昨日主張したように、高齢者の介護サービスは保険料負担を中心にした社会保険方式に切り替えた、という既成事実をもって社会福祉ではないという主張は、あまりにも国側の勝手な論理で、社会福祉でなくしたのなら、その過程ではっきりと介護保険の創設の意味は、介護保険で見る高齢者の介護サービスは社会福祉から外して保険事故に対する給付に限定します、そのために強制加入の掛け捨て保険という、新たな保険料負担義務を国民に課します、ということを制度導入時に国民に適切に情報提供して、そのことのコンセンサスを得る過程を踏むべきである。

それはまったく行われていないではないか。

介護保険という何か新しい福祉サービスができるという幻想を抱かせる為に、介護保険の制度創設の意味を国は「国民がサービスを受ける権利として給付と負担を明確にする」とか「利用者の選択性を保障する」とか「サービスの受け手の対場に立った制度体系」とかいう角度からしか国民に情報提供せず、個人ではなく社会全体で介護を支えると言っているのみではないか。

介護保険の提供サービスを社会福祉制度ではなくするとは一言も言わずして、社会保険料を中心に運営していることをもって社会保険で社会福祉制度ではないから、保険事故以外の給付は行う必要はないなんていうことにはならない。

税金だって半分投入されているのは、それまでの社会福祉制度の一部を社会保険という手法も取り入れた新たな制度に変革したという意味であり、介護保険は社会福祉ではない、ということを絶対根拠にする主張は通らないと思う。

そういう意味で池田教授の主張の根幹部分である「介護保険は社会福祉にあらず」という考え方は、国民に対する冒涜と欺瞞であると言わざるを得ない。

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介護保険は社会福祉ではないという主張について(その1)

先週土曜に、丹波篠山市で行われた「ひょうご地域包括ケア研究会」において講演を行う機会をいただいて、そこで様々な人々とお逢いできた。ネットを通じてお名前は知っていたが、初対面の人がほとんどであった。しかし皆フランクに打ち解けてくださり大変感謝している。

その研究会では介護給付費分科会の委員である龍谷大学の池田 省三教授の講演も行われ、その後、意見交換会では池田氏がコーディネーター、僕がオブザーバーという立場でご一緒させていただいたが、限られた時間で決まったテーマに対することで、氏の講演内容に対しては充分現場から意見発信する、あるいは氏の主張に対して反論を述べたり、疑問を呈したりすることはできなかった。

そこで今日から、池田教授が主張する現行介護保険制度の給付のあり方に対する指摘や、持続可能な制度を作るための給付費の抑制の必要性の理由付けに対する、いくつかの僕なりの個人的意見を述べさせていただきたいと思う。

介護給付費分科会の議事録を読まれている方はご存知であろうが、池田教授は給付費抑制論者であり、現行の介護保険給付は過剰給付であるという意見の持ち主だし、新予防給付の推進論者でもあり、その理由として介護保険の過剰給付(過剰なサービス)と要介護度の重度化がリンクするという意見の持ち主である。

さらにその原因はケアマネジメントの質の低さであるという意見も持っている方で、予防プランから介護支援専門員の関与をなくした制度改正後のケアマネジメントのあり方の推進論者でもある。

その主張は「持続可能な制度のための給付費の見直し(基本的には給付費抑制)」を推進する立場であり、国の主張に極めて近いところに位置する意見の持ち主であるとの印象をかねてから(僕自身は)持っていた。

今回ご一緒した研修会での講演でも、同様の主張をされて、これまでの制度下におけるケアマネジャーの不適切なケアマネジメントの責任、特に安易な家事支援(訪問介護の生活援助)の計画への批判を述べておられたし、介護保険制度のサービス給付水準は諸外国に比べては非常に高い水準であり、むしろその過剰サービスの提供が介護予防効果を阻害しており、適正な給付のための支給限度額の見直しや、サービス対象者の削減(具体的には要支援者は介護保険の対象としない)という施策が必要であることの理由を具体的にいくつか挙げられていた。

しかしその主張の根幹をなす部分は「介護保険は社会福祉制度ではない」ということであろうと僕自身は理解した。

池田教授は明確に「介護保険は社会保険であり、社会福祉ではない」と述べられておられる。

よって本来社会保険とは社会保険料を財源にした保険事故に対する給付なのだから、低所得者対策は別に社会福祉サービスが担うべきもので、この部分との役割分担をきちんと行うべきであるとしている。

それゆえに、衣食住は基本的に自己負担は当たり前なのであるから、これは介護保険で見るべきではない。負担困難者である低所得者、経済的弱者については社会保険であるところの介護保険制度で救済するのではなく、社会福祉で対応する(負担能力のない人に対しては生活保護制度がきちんとあるんだから、そちらで見るべき)のが本来であり、要介護者だから衣食住が保険で保障されるのは不合理だし、普遍的にこれを保障すれば保険財政は崩壊する、としている。

また社会保険である以上、保険事故に対する保障であり、家事援助(生活援助)の保険給付は単なる擬似家族サービスにしか過ぎないところであり、これは保険給付に馴染まない。具体的には男性が家事能力がないということは保険事故ではなく介護サービスの対象とするのは不合理、という主張である。

確かに介護保険制度は社会保険になってしまった。そのことは否定しようもない。しかしだから社会福祉としてのサービスはその部分に不要という意見は短絡的過ぎるし、何よりこの制度を強制加入の掛け捨て保険にした経緯を検証する視点がないところでの、その主張は国民に対する欺瞞である。

我々は介護保険制度の創設時に、高齢者の介護サービスを社会福祉から外されるということに対し充分情報提供されて、それに納得し、国民レベルでのコンセンサス形成がなされた上で、そのことが制度化されたとでもいうのだろうか?決してそうではない。

だまし討ちのように高齢者等の介護サービスを、国民の知らないところ、まったくコンセンサスを得る過程を踏まないところで、社会福祉の領域から外して、それを社会保険料を強制徴収する制度に位置づけたからといって、その既成事実だけで「介護保険は社会福祉制度ではなく社会保険だから、衣食住費を自己負担できない階層の人々の援助まで責任を持つ必要はない」という主張は乱暴である。

何より国がその社会保険制度に減免制度を取り入れていることと、その主張はどこか矛盾していないか、そのことを考えて見たい。(明日に続く)

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韓国の介護保険制度

今週25日に、韓国の方々が当施設を見学に訪れる。

とはいっても別に珍しいことではなく、韓国では来年の7月から韓国版の介護保険制度がスタートするということで、今、日本の様々な施設や事業所に、たくさんの韓国の福祉関係者が訪れて視察を行っていると思う。

今年度のはじめにも、当施設の協力病院が経営するグループホームに韓国の方々が視察に来ている。

韓国で新設される介護保険制度は確か法案成立までに名称変更があって「老人長期療養保険法」という名称が最終決定されたと記憶している(違っていたら申し訳ない)。かの国の高齢化率は現在9%台であろうと思うので、随分準備が良いと考える向きもある。

しかし高齢化率こそ、現在わが国の比ではないといっても、高齢化のスピードはわが国のそれをはるかに上回っていることが韓国が早期に介護保険制度を創設する最大の理由である。何しろ65歳以上の高齢者比率が7%から14%になるのに、わが国では24年かかったのに、韓国では17年しかかからないという数字が出されている。つまりは少子化もわが国より進行しているということであろう。

だからドイツ、日本についで3番目に介護保険制度を創設する必要があったのである。

僕は、わが国の介護保険制度創設時に、その考え方を分かりやすく説明するために講演会などでは人間の形を黒板に書いて、胴体をドイツ、頭を北欧(スゥエーデン・デンマーク)、手足をアメリカ、と書いて示し、制度の根幹部分はドイツの介護保険制度をモデルにして、一部北欧の介護サービスの方法を取り入れ、使いこなす手足となる手法はアメリカで生まれたケースマネジメントを取り入れている、と説明していたことがある。

韓国の場合は、日本の介護保険制度を充分に研究しているので、当然わが国と似た部分が多い。しかし根本的に違うのは、制度の建て方で、日本が独立した保険制度としているのに対して、韓国のそれはドイツ方式(完全に同じではないが)の医療保険活用型になっている点で、健康保険料に介護の部分を上乗せして財源にしている点である。

新たな独立保険ではなく、現行の健康保険料に介護保険部分を上乗せして徴収する仕組みは、ある意味で健康保険料の増加にしか感じられない国民意識が働きやすいという懸念からか、韓国の介護保険制度が当初対象にするのはわが国の要介護4または5にあたる重介護者のみで全高齢者の2%にも達していない。

外から見ると、これで果たして高齢者ニーズに即した介護サービスが十分に提供されるのだろうかという疑問が生ずるが、韓国の伝統的儒教文化においては親の世話は子がするのが当たり前で他人の手は借りない、借りたくない、という考え方が強いという意味があるんだろう。

そういえばグループホームの視察の際に案内した方が言っておられたが、ホームの方々の様子を見て、視察者の方々から「医療サービスが必要でなくなったのに、なぜ家庭につれて帰られないのだ」という疑問の声があったそうである。そのあたりの考えは逆に25日に、こちらから聞いてみようと思っている。

しかし1点。知っておいてほしいのは、日本の介護保険制度は、介護サービスを位置づけている社会保険制度に過ぎず、社会福祉制度にはなっていないかもしれない、という点である。

(福祉制度ではないと言い切る人がいるが、その言い切る方々の論理にも2つの違った立場がある点や、社会福祉制度ではないということの意味の捉え方にも国側の論理と国民の論理とでは違う、という点があることを明日以降「この制度とは何か」という面から詳しく述べたいので、そちらを是非読んでもらいたい。)

自己責任論により本当に困っている社会的・経済的弱者が救えず、お金のある人は良いサービスを受けられるが、お金のない人は、それなりのサービスしか受けられないという現状は、財の再分配という社会福祉の機能を果たしていないし、現役世代の負の遺産を背負って、高齢期も生きなければならないという弱肉強食の資本主義の論理がまかり通る社会になっている、という影を広げている。

そして介護サービスをコストのかからない民間企業の手により量を確保した方策によって人件費の抑圧が経営論理に置き換わり、財源論からしか考えられない介護報酬改訂により介護報酬が下がり続けた結果、人件費の更なる抑制が進行し、介護労働単価の大幅な低下という結果が、介護サービスへの恒常的人手不足を招いている、という深刻な問題がある。

介護保険制度が制度あってサービスなしという状況にならないために、広く民間参入を促した結果が、サービスあっても、それを提供する人手なし、という状況を生んでいるということもいえるのである。

こうした制度設計と運営の未熟さの上に、砂上の楼閣として成り立っているのがわが国の介護保険制度であるという一面も知る必要があるだろう。

日本の介護保険制度の「光と影」の両面をみつめてほしい。

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寂しい看取りは嫌だ!!

このところ認知症に関する講演を数多く行っており「看取り介護」についてお話しする機会が少なかった。

しかし明日、兵庫県篠山市の「地域包括ケア研究大会」の中で「看取り介護の視点」という基調講演を行うのに加え、11/29には日本サイコロジー学会でこのテーマでシンポジストとして報告したり、12/8には仙台市で行われるセミナーでも同様のテーマでお話をすることになっており、先週、それらに必要な講演ファイルをあらたにパワーポイントで作りなおした。

ただし僕の施設が看取り介護に先進的に取り組んでいると思っている人がいたら、それは間違いである。もちろん利用者にとって最も望まれるサービスを提供したいと思いながら、工夫を重ねているが、もっと良いケアを行っている施設もたくさんあると思う。

ただホームページ等を通じて、日々の取り組みの中で考えていることを随時公開しているという意味にしか過ぎず、必ずしもそのことと「先進的な看取り介護」はイコールではないということを自戒しながら質の向上に取り組む必要を感じている。試行錯誤を重ねることも多い。

看取り介護については様々なポイントがあり、昨年自ら「看取り介護指針」を作成しホームページで公開以来、様々な角度からこの問題を検証してきたが、基本となる考え方は同じでも、その時々で「思い」は違ったものになっている。

いま我が施設で看取り介護を行うときに最初に考えることは、看取り介護という時期に、利用者自身がいかに「寂しさ」を感じることなく、その時期を安楽に過ごすことができるか、そしてその部分に、いかに家族が参加して寄り添えるか、ということであり、家族が看取りの時期に、家族としての役割で参加できるのが施設における「看取り介護」の特徴ではないかと考えている。

看取り介護加算を算定できる条件の一つに「看取り介護が行える個室」を備えていることがある。

しかし、これは必ずしも個室で行う看取り介護ではないと加算算定ができない、という意味ではなく、選択肢として個室がある、という意味である。(参照:介護老人福祉施設及び地域密着型サービスに関するQ&A;本人や家族の希望により多床室での看取り介護を行った場合には、看取り介護加算の算定は可能であるが、多床室を望むのか、個室を望むのかは時期によって変わってくることもあるので、適宜本人や家族の意思を確認する必要がある。)

当然、多床室での看取りは、同室者の理解を得ないと、他者の精神的ショックも考えられ、慎重に行われるべきだが、長年、住み慣れた部屋で、親しい人々に見送られる最期があっても良いし、それが適した状況の対象者もおられる。この部分は個々のケースで慎重かつ、それぞれの事情と環境を充分考慮して判断されるべきである。

一方、個室で看取り介護を行う最大のメリットは、利用者と家族という他人が介在しない空間が常時用意され、気兼ねのない空間と時間が保障されるということではないだろうか。

しかし逆に考えれば、この最大のメリットも、周囲の理解がないと、単に「死に行くための寂しき場所」になってしまう。個室を孤独死の空間にしてはいけない。夜間、ドアが閉められたあと、暗い寂しい場所で、一人寂しく死を迎え、呼吸が止まって数時間後、それに気付く、という状況はあまりに哀しいと思う。

だから僕は看取り介護の時期に家族が施設に泊まることは積極的に勧めるべきと思うし、施設職員に気兼ねして宿泊を申し出られない状況だけは作ってはならないと思う。

僕が作った看取り介護指針の中に記してある家族のメンタルケアについても、講演では宿泊する家族の精神的ストレスにも配慮して、食事や入浴なども宿泊する家族がきちんとできるような支援も「看取り介護」の支援の一部であるという意味の話をしている。医療機関で迎える際の死の場面より、介護施設で死を迎える際に家族が持てる役割は多いし、そういう時期をともに過ごすことも意味があろうと思う。

もちろんそれぞれの事情により、家族がついておれない方も居られるし、宿泊を強要するという意味ではない。家族が最後の瞬間にそこに居られる状況であることがベストであることの意味を伝えるだけであり、家族がともに居れない場合は施設職員や他の利用者も家族の替わりに訪室を多くして、寂しい思いにきちんとケアできる体制作りが必要だろうと思っている。

最後の瞬間に「寂しい、誰か来て」という思いだけは抱かせない介護が必要だと思う。

※さて、明日兵庫県篠山市の「地域包括ケア研究大会」において「看取り介護の視点」という講演(過去同じテーマで話していた内容に今の状況を含めて手を加えている)を行うために朝5時半頃のバスで千歳に向かう。篠山市には昼頃到着予定で講演開始時間は午後2時10分である。

その日は懇親会にも参加して、表の掲示板で文字だけの交流をしている幾人かの方々とお逢いする予定で、明後日日曜の午前中には兵庫を発ち、北海道に戻ってくる予定である。

お逢いできる皆様、よろしくお願いします。ブログや表の掲示板をみている方がいたら気軽に声をかけてください。そのため土日のブログは更新できませんので、ご了承ください。

ああっと、書き忘れたことがある。一言書き添えておきたいのであるが・・・・「ファイターズ万歳〜シンジテマシタ〜!!」・・・日本シリーズも「ジンジテマス〜!!」

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