masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

年の瀬や〜この国のかたち

このブログを立ち上げたのは11/9である。

今日まで2日(だと思う)休んだだけで、毎日書き続けている。
それを毎日100人、200人、多い日には500人を超える皆さんに読んでいただいている。掲示板と違って、Blogの来訪は1日1回というパターンが多いだろうから、これは少なくない数字だと思っている。

さして面白くもないであろう僕の一方的意見を毎日のように読んでいただいてありがとうございます。

いつまで続けられるか、何を書いていくかも考えていません。

書くことが苦痛になったらやめようと思う。誰かが読んでいるという意識も特になく、自分自身や、できれば自分の子供が、数年後に今の僕を読んでくれることを少しは意識しているかもしれないが、別に飾るつもりも、背伸びするつもりもない。

思いを、独り言を、こういう形で綴って、ネットを通じて多くの方に読んでもらえる社会は本当に便利になった。しかし、同時に、紙に書く情緒や、その苦労を楽しむことを失ってしまっているのが現在なのかもしれない。

不幸とか幸福とか、形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。

だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、誰も答えは出せない。

ただ世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。

同時に、少しだけ、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったり、そういう状況や人が増えているような気がする。少しずつ「優しさ」が失われているように感ずる。

この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、優しさが失われていくことに対して「それは違う」という声を出し続けよう。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではない。

ヒルズ族が注目され、瞬時に数億単位でお金をもうける人がいる社会であると同時に、年数万円の健康保険料が払えないために医療機関の受診が遅れて命を落とす方々がいるこの社会を、この国の為政者たちは世界に向けて「先進国」であると言えるのだろうか。

せめて時の為政者は、社会のひずみや影の部分に目を向けるものであってほしい。

光り輝く部分は、誰にでも見ることができるのだ。

そうでないところを見て、暖めてくれる存在がないと、人の生きる路には、険しさしかなくなる。

介護・福祉情報掲示板(表板)

後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方4

794681ff.jif北海道でも雪の少ない地域であるはずの当市も、今年は例年以上の積雪である。

施設周辺もご覧のとおりで、毎日の雪かきが欠かせない。デイサービス送迎担当者は毎朝早くから、駐車場の雪をかいてバスを出している。居宅で待つ高齢者の方も、様々な手段で道路までの路を確保せねばならないのが雪国の厳しいところだ。

しかしそういう厳しい自然環境であっても、故郷ほど住みよい場所はない。
そして、どんなに身体状況が変化し生活が不便になっても「家」で生活したいという思いは、ごく当然なことなのだ。

だから我々は、様々な事情で家で生活できない方々に対し、それに近い環境や「安らぎ」を与える義務があるのだ。

さて、そのことも踏まえた上で、昨日までの続きであるが、そういう「生活への思い」をも具現できる、機能訓練活動の意味について考えてみたい。

当施設では、平行棒での歩行訓練や視知技能と手指の訓練を週1回のペースで行っている。

しかし週1回の歩行訓練やOTなど本来さほど意味があるものではないし、訓練室でしか歩行できず、生活行為と結びついていない能力も意味を持たない。

つまりこれはあくまで利用者の動機付けや、やっているという自信に繋がるものであったり、自分の能力の確認という意味があったり、それぞれの利用者の状態や希望に応じた補完的メニューとして行われるもので、参加も強要されるものではなく、自由意志に基づいて楽しめる方が参加するという、機能を楽しく使いながら健康を維持しようという取り組みの一つに過ぎないのである。

そして、それに加える形で毎日の生活の中に立位や歩行訓練等を日課として組み入れている方も多いが、それもあくまで利用者の生活に密着した形で、その希望に沿った内容であることに主眼を置いているものである。

つまり最も重要なことは、個々の持っている能力を、いかに苦痛でなく自然に使うことができる生活様式が確立できるかという点に注目して必要な機能活用の視点を個々のケアプランに落としてケアを提供することであり、例えば身体能力の衰えに最も影響がある下肢筋力は、毎日の暮らしの中で、立ったり、歩いたりする行為を、できるだけ失わないようにケアサービスが提供されることが重要である。

車椅子を移動の手段としている利用者にしても、本当に車椅子でしか移動ができないのか、場面に応じて介助歩行が可能にならないかという視点は常に必要で、介護者の側の都合で移動のツールが車椅子に限定してしまい歩行機会を失わないようにする視点、できる機能を有効に使える介護の方法が必要とされているのである。

今、施設サービスの中で取り組みがすすんでいるユニットケアやグループケアは、こうした個人への目配りがしやすく、そうしたニーズに容易に対応するための方法論の一つなのである。

加齢に伴う病気の発症や病態の変化、重度化自体を止めることはできないが、個人に着目したきめ細かなケアを展開することは当然のことながら個人の状態変化にも即応できる視点が育つし、身辺の保清にも気配りがされやすく、病気の早期発見や感染症予防に繋がる可能性を持ったものである。

例えば昨今、介護予防に重要といわれるフットケアにしても、その内容は「消毒、ゾンデによる角質除去、ニッパーによる爪切り、ファイル(やすりがけ)、マッサージという一連の技術』ということから医療的な行為に思われがちであるが、しかしその必要性は「高齢者はつめの伸び過ぎや深爪により、炎症や足の変形がある人が多い。歩行の不安定や転倒の危険につながっている」ということで、それに対する本来の意味のフットケアの基本的な考え方は、そういう状態になる前に気付いてケアする「快適支援」であろうと思える。 

こう考えたとき入所施設に限らず高齢者の健康維持や状態像の悪化を防ぐ支援とは、常に利用者の体の状態に目配りして快適で正常な状態に保たれるよう対応できているかが重要な要素であり、利用者の重度化予防の手段は目配り気配りが行き届いた高品質なケアサービスそのものに求められるべきものであるといえるのではないだろうか。

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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方3

高齢要介護者の介護予防において大切なのは、実は、機能を良くしてから生活改善を図るという視点でなく、生活を良くする取り組みの中で、利用者の喜びや意欲が生まれ、そのことが機能改善や維持に繋がるという視点である。

4月から始まる新予防給付にこの視点が欠けてはいないだろうか?

それはさておき、具体的な話に戻そう。

現在様々な場面で、筋力トレーニングを含めた機能訓練メニューが重視されているが、これは果たして生活改善、機能維持に最も効果があるメニューになり得るのであろうか。

少なくとも昨日のブログで述べてきた状況や視点からは、我々の施設の中で、それは機能維持や生活改善に繋がるような主要なメニューにならないと考える。

もちろん機能訓練自体を否定するものではないが、まず機能訓練ありき、ではなく、個々の利用者の能力が生かされる暮らしを作る中で利用者は自ら持つ能力や機能を生かすことができ、生き生きとした生活の中でこそ、様々な意欲が持てるのである。

逆に、訓練によって機能を維持しないと、良い暮らしが実現できないという立場に立つとしたら、そうした考えが重荷にならないで数十年の生活を継続できる強い人間はそう多くないであろう。

大事なことは、機能訓練というメニューでさえも、気楽に楽しく、生活と結びついた状況の中でごく自然に行われる、ということである。なぜなら特養は10年20年〜というスパンでの「暮らし」の場なのであり、嫌なこと、痛いこと、面倒なこと、は続かないし、効果を生まないのである。

具体的に言えば、当施設には専任のPTやOTはおらず、訓練指導員は看護師が兼務し、機能訓練加算の算定は行っていない。

その中で例えばボールゲームや風船バレーなどのいわゆる遊びリテーションや療育音楽、回想法などのグループワークを選択メニューとして日課活動に取り入れているが、要は「心が動けば体も動く」という具体策が展開されることが必要なのであり、逆に言えば「心が動かなければ体も動かない」ということである。

今日、施設のケアの提供体制の「集団的処遇」が槍玉に上がり、脱集団処遇と個人の生活行為を中心とした個別ケアの視点が重視されケアの方法が「プログラム化」から「生活支援型」に転換されつつあるが、グループワークが一律、個別性や主体性を軽視したプログラムと考えるのは間違いであり、それに選択性があり、個人のニーズにマッチして動機付けや、意欲の向上につながるのであれば自立支援や生活改善に有効なツールであることに変わりはないし、廃用に対する対策にとどまらず、認知症の方への意欲引き出しや生活改善にも繋がるツールになり得るのである。(明日に続く)

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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方2

昨日トラックバック先のリハビリの考え方が違うというようなことを書いたが、どうやらそれは私の誤解らしい。リハビリの本来の意味が全人格的復権を意味しており、単に身体機能の回復に特化していないという点については同じ理解と思われる。

さて、それでは我々がアプローチせねばならない高齢者の自立支援の意味とは何なのか、より具体的に考えてみたい。

当施設における利用者属性を考えてみると、本年4月の利用者の平均要介護度は3.76となっており、重度介護者が多くを占めている。

そして利用者の8割超の方が脳血管障害等の後遺症で四肢の様々な部分の麻痺や筋力低下を抱えており、それはいわゆる症状固定の状態であるとされている。

また平均在所日数は1789日となっており、このような在所期間の長期化は同時に平均年齢が85.73歳という在所者の高齢化の進行となって現れ、後期高齢者が大半を占めている現状を生み出ている。

85歳を超える方の4人に1人は生活に支障のある認知症状が出現するといわれるが、当施設においてもこのことは例外でなく、認知症の方が5割を超える状況を生み、それは「廃用症候群モデル」に該当しない層が多くなり機能訓練が重度化阻止の有効なツールにならないという状況を生んでいる。

 さて高齢者が要介護状態となるリスクは、加齢と疾病が最大要因で、原因疾患は1番目が脳血管障害、2番目が高齢による衰弱、3番目が骨折である。すると当施設の現状を考えたとき、それらのリスクをすべて抱えた高齢者の方々が生活していると言えると同時に、既に要介護状態が重度のレベルにある高齢者がその大半を占めている現状がある。

ではこうした状況の中で加齢に伴う状態像の悪化を防ぐために、あるいは現在の状況をより改善するために、どのような取り組みが必要なのであろうか。

介護保険制度改正における一連の議論の中で「介護予防」という考え方が注目を浴びている。介護予防とは、できるだけ介護が必要な状態とならないための取り組みや手段を指したものである。

しかし前述したように、当施設の現状では、利用者は既に介護を要する状態で、その症状は固定的に経過しており、かつ生活全般に広範な援助を要す状態である利用者が大半で、これらの方々が介護を要しない状態になるという意味での介護予防の考え方は当てはまらないであろう。

むしろいかに様々な心身機能の悪化リスクを防止して、現状の機能を保ちながら生活状況が悪化しないかということが我々の施設における介護予防の考え方であるといえる。しかしそれは単に要介護度の変化に限定して考えるべきものではない。要介護度というのは心身の状態像を表す尺度の一つに過ぎず、それだけに捉われると「生活の質(QOL)」を含めた生活者としての個人の状態像を正確に捉えることができなくなってしまう。

そこで我々介護者が施設における介護予防を考える視点は、様々な障害を抱えていても、生活者として利用者が生き生きと自分らしく暮らせることというはどういうことなのか、そのためのケアサービスのあり方とは何かという視点が必要になる。

我々は一般的に要介護度が5から4に下がった場合、身体機能や精神機能に改善があったものと考え、生活状態の変化や改善が心身機能の改善によりもたらされたものと考える傾向にある。逆に介護度に変化がなかった場合、生活状態も含めて状況変化がないと考えがちである。

しかし果たして、そうであろうか。

例えば、排泄について考えてみると、要介護度に直接結びつく基準時間に繁栄される排尿や排便の該当調査項目は、自立・一部介助・全介助の3項目である。

しかしオムツを使用し、トイレ誘導することなくベッド上でおむつ交換等の排泄介助を全て行っている場合は全介助であるが、排泄感覚は薄れていても定時誘導や声かけで失禁なくトイレでの排泄ができている場合も、トイレへの移動、便器への移乗やズボン・パンツの上げ下ろしの介助、排泄後の後始末など一連の行為のうち2項目以上の介助行為が行われておれば、これも全介助となってしまう。

つまり両者の要介護度に反映される介護の基準時間は同じということになってしまうのである。

この場合、実際の介護の手間としては前者より後者の方がより多くの労力を要する介護であるといえるであろう。

しかし、ここで考えるべきことは、そういう介護力をかけることにより、トイレで排泄できるという事実であり、トイレで排泄できる生活が継続できることの意味である。これはオムツによって全ての排泄ケアが完結されてしまう生活と明らかに質的差があるといえる。

ただしこの違いは要介護認定調査の基準時間には反映されず、この部分の変化のみによる要介護度の変化はないということである。

食事にしても、例えば嚥下機能に問題はないのに歯の状態や咀嚼能力を個別にアセスメントすることなく、食べやすさの観点のみで厨房から刻み食という形態にして提供し、元の形がわからないものを自力摂取すれば「自立」となるが、食べ物の形がわかるようにお膳には自然の形で配膳し、食堂の食卓において、まさに食べる際に、その方の摂取能力に応じて魚の身をほぐしたり、副食を食べやすくして自力摂取してもらった場合は「一部介助」とされ基準時間も長くなる。

そして、それにより介護度がより高く判定されるということがあり得るのである。

しかし形あるものを意識して食事摂取することは重要で、精神面への影響も大きいと思えるし、何より食事の楽しさや喜びは比較にならないであろう。

私たちが施設の中で、利用者の生活援助に関る中で、こうした生活行為と密着した部分の見逃されがちな小さな改善を積み重ねることが、個人の意欲や希望に結びつく介護予防であり、廃用症候群のみならず認知症の高齢者の方の機能維持にも繋がるケアといえるのではないのであろうか。(明日に続く)


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後期高齢者と重度要介護者の自立支援の考え方

昨晩から発熱して体がだるかったが、しなければならない仕事もあり無理して職場に出た。

午前中はなんとかもったが、いよいよ調子が悪くて早退させてもらった。
薬を飲んで3時間ほど寝て、少し調子が良くなったので自宅で仕事をさばいている。

そんな状態だから、今日は掲示板の管理とレスポンスだけにして、ブログの投稿は休もうと思った。

しかし昨日の「走りながら考えた」のトラックバックをしてくれた方のトラックバック先の考え方を読んで、少しこれは違うな、と感じた。

「介護保険は自立支援の制度だからリハビリを全面にださねばならないのに、その進めかたがわかっていないからこの制度は失敗している」という論調だ。

それは全然違う。

むしろ自立支援の考え方が、加齢という身体状況変化や疾病の出現という状況変化の中で、その意味をどのように捉えて、生活力の低下を防ぐ介護サービスのあり方について考える、という視点に欠け、自立支援=機能回復訓練という誤った見方をするケアマネ始め、関係者が多いことが間違いの原因なのだ。

リハビリテーションの導入や進めかたがわからないから制度がうまくいっていないわけではないのであり、むしろ「自立支援」というキャッチフレーズ自体が正しかったのか、あるいは、そのキャッチフレーズが高齢者の生活課題を限定的にして、生活の質の向上という大事な要素を見失わせた可能性はないかという考察が必要なのである。

特にこのことは後期高齢者、重介護者の自立支援の視点から考えれば理解できると思うが、もし自立支援=機能回復訓練であるとすれば、回復可能性が低い、機能改善の可能性が薄いケースは制度の対象とならないということになりかねない。

決してそうではない。

ここは、自立支援の正しい視点について考えなければならない。

このことを(今日は体調面で限界なので)明日以降、夏に日総研の冊子に書いた「施設入居者の自立支援」に書いた考え方をまとめる形で、ここで示したいと思う。

明日まで少し待ってください。

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走りながら考えた。



タイトルは宮城県の浅野知事が福祉新聞連載していたコラムのパクリである。

しかし当時、このタイトルを見て「やられた」と思った。

毎日走っているのは僕だ!!走りながら考えているのも同様だ。

しかし冬のジョキングは厳しい。まず寒さ対策にトレーニングウエアの下にインナーを着け、野球の練習用の汗取りをばっちり着こんで、頭には毛糸の帽子をかぶる。

しかも一番の難敵は雪道である。とにかく滑る。特に普通のジョキングシューズでは前に進めない。冬用のスノトレを履き、夏場の2/3のスピードで、大地をしっかり踏みしめながら走っている。

冬でも、うっすら汗をかくまで走るが、息が上がるところまではいかない。

この年でも、全国の老人福祉施設の職員マラソン大会があれば上位に入るだろうなんて思いながら走っている。

野球の現役選手の頃からだから20年以上走っていることになる。

その間、制度やケアの中身や、施設のハード自体、周辺環境、様々な変化がある。

変わらないのは、自分が走っているという事実と、走りながら、明日の仕事や、仕事上の問題や悩みを考えつづけていることだけである。

しかし考えても考えても、どうしようもないことが多い。でもやらなきゃあならない。

介護保険制度のように「走りながら考えて」おかしなものにしてはいけないのだ。

しかしこの制度は、この5年間「走りながら考える」といいつつ、実際には「転びながら考え」、その行く先は、給付費をいかに減らすか、という1点に重要ポイントが絞られ、誰もが安心して暮らせる「老後」へのビジュンが全く示されなくなった、というおかしな制度になりつつある。

継続できる制度であっても、人に優しくない、人を救えない制度であれば継続する意味がないだろう。金持ちしか楽な暮らしが出来ないような制度ならいらないのだ。

そんなことを考えながら、さあ今日も走るぞ。

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過去に向って歩きつづける人々2〜認知症の理解

現場で認知症高齢者の方々と接した経験がある方ならよくわかると思うが、徘徊行動がある方が外に出ようとしたり、歩きつづける理由で男女共通で多い理由は「家に帰る」ということだが、そのほか男性の理由で1番多いのは「仕事に行く」女性の理由で多いのは「買い物に行く」である。

これをよく考えてみると、男女で一見違った理由で歩いているように思えるが、良く考えてみると女性の「買い物に行く」というのは一家の主婦としてもっとも重要な仕事である「買い物」という意味ではないかと考えられる。

つまり「仕事に行く」と「買い物に行く」は同じことなのである。

徘徊する高齢者は、自分が一家の主あるいは家庭を守る主婦として、それぞれに「役割」をもって家族を支えていた過去に戻って歩いているのである。

今現実にある自分の姿が、あるいは自分の置かれた状況が、本来の自分の姿ではない、と感じることから始まって、自分がもっとも自分らしくいられた過去に頭の中の時計を戻し、それを取り戻せる場所に向って歩いているのだ。

つまり、いまいる現状を否定したくなる現実があり、そこから逃れる為に時間を戻しているのだ。だから徘徊行動は異常行動ではなく、それぞれの高齢者の自らの「小さな危機」の訴えであると考えられる。

その訴えのサインをきちんと受けとめて寄り添わないと、認知症高齢者はいつまでも現実に戻ることはない。

誰にでもプライドはある。認知症の高齢者にも、プライドはあるのだ。彼らの自尊心がいたずらに傷つけられるとき、彼らはそれに抵抗するすべを持たず、ただ安心できる場所を求めてさまようことになる。

それは例えばものをなくして見つけられない自分、そして失くすことを他者からなじられたり、怒られたりする自分であるかもしれない。物を無くしたことを忘れる自分は信じられないから「盗られた」というのであり、これを単なる「盗られ妄想」なんていって欲しくない。

かれらがそれを否定する現実を受け止めてほしい。

おしっこを漏らしてしまう自分を受け入れられないことで、徘徊行動に結びつく高齢者も多い。

おしっこを漏らす自分は自分自信ではないと思う。だから「あいつ寝ているまに水をかけた」とか「人におしっこをかけられた」というんだ。これだって妄想ではない。自尊心の叫びなのだ。

このとき失禁する自分を受け入れられない高齢者の前で、介護者が失禁をなじるとしたら、これは居たたまれない気持ちになるのは想像に難くない。

他者が受容できないことを、何故高齢者だけに受容すれというのか?

介護者の関わり方は、高齢者の精神のありように関わってくる問題だ。

失禁したからといって人間失格なんていうことはないんだ。数度の排泄失敗は、そっとフォローすれば済むじゃないか。

受容とは、その方が今、どういう状況にいて、何を考えているのかを共に考え悩みを共有することだ。答えなんてすぐ見つけなくていい。見つけられなくていい。共に考えることから全ては始まる。

僕達は天使でもなければ、天使のような心を持つことも出来ない。でもその必要はないんだ。普通の人間として、共に悩み、ともに歩み、共に生きることが大切なんだ。

認知症高齢者のケアだからといって特別なことは何もない。

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過去に向って歩きつづける人々1〜認知症の理解

認知症の高齢者の特徴的な行動のひとつに徘徊がある。

徘徊とは辞書を引くと「目的も無くうろうろ歩き回ること」で異常行動のひとつとされている。

しかし認知症高齢者の行動への理解を考えるとき、異常行動にも必ず、それぞれの方にとっての理由があり、その理由に対しアプローチすることが重要だと言われている。

つまり彼らの行動は決して無目的ではないという理解が大切だということである。

徘徊する高齢者の口にする理由の代表的なものとして「家に帰る」という言葉がある。しかしそれは施設に入所している方が外に出て行くときに限って口に出す言葉ではなく、自宅で生活している認知症高齢者の方でも「家に帰る」と外に出てしまう場合が多い。

つまりこの場合「その理由に対しアプローチする」ということは、表面的に口に出されている「家に帰る」ということにのみ囚われてしまっては何の解決にもならないことを示しているのだ。

「家に帰る」という意味をもう少し掘り下げなければ、歩きつづける高齢者の理解は困難だ。

僕はこのことについて「家に帰る」という認知症高齢者は「家に帰る」という表現で、本当に自分らしい自分がいられる場所としての「過去」に向って歩いているんだと結論付けている。

今、置かれた自分自信の状況が、彼らにとって「本当の自分ではない」と感じてしまうから「そんなはずはない」と感じられるから、本当の自分がいる場所を求めて彼らは歩きつづけるんだ。

ではそのような状況が何故起こるのだろう。

そのヒントとして考えられることは、男性と女性で歩く、あるいは外に出ようとする理由に特徴的違いがあることが挙げられる。もうお気づきの方も多いだろう。男性はどういって外に出ますか?女性はどうですか?

この答えは明日書くとして、今週末は、認知症の方々の徘徊を中心にした行動パターンから、ケアの方法、付き合い方の方法を考えてみたい。(明日に続く)

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栄養ケアマネジメントの向こうにあるもの。

週始めに栄養ケアマネジメントの研修に参加してきた。

実は我が施設ではまだ栄養ケアマネジメントを行なえる条件にないため、この加算算定は行なっていない。

しかし早晩、実施を行なう必要を感じているし、その際、栄養ケアマネジメントの旗振り役を管理栄養士に丸投げするわけにはいかず、むしろ通常は施設のトップ(施設長)が旗振り役になる必要があると考えており、替わって現場のトップである私自身が参加してみた。

このことはひとつ大事な視点である。

栄養ケアマネジメントが実効性のあるものになるためには、現場の多職種協働が必須であり、施設のリーダーシップをとれる立場の者が旗を振らねば、管理栄養士だけが「加算を得る手段」としての書類上のケアマネジメントを行なうだけに終わり、そのことがケアサービスや利用者の健康管理に生かされない状況が生まれるし、管理栄養士の燃え尽きや、不完全燃焼に結びつきかねない。

さて栄養ケアマネジメントの方法論を、ここで長々述べるつもりはない、それは各施設が示された 書式 などを参考に、独自にルーチンワークとの絡みで考えるべきだ。

ただ私が迷っていたのは、栄養障害のリスク管理に「血清アルブミン値」を取り入れるか否か、この点もひとつテーマとして考えていた。結論から言うと、ただ単に12単位を算定するための栄養ケアマネジメントであればBMIを主眼点としてみることで、大きな問題はないと思えるが、このマネジメントを利用者の健康管理に実効性があるものとして生かそうと思えば「アルブミン値」は必要なデータだ、ということである。

BMIで低リスクと判定した何割かは、血液検査で高リスク、中リスクと変わる現実は無視できない。

幸い我が施設では毎月検診の一環として全員の血液検査を行なっており、項目を増やしてアルブミン値を測定してもらえば済むことなので早速実施することにした。

アセスメントからスクリーニング、計画の策定のモニタリングまで、非常に膨大な作業があるわけだから、これを形式的な加算算定に必要な作業とするのはもったいない。

むしろ管理栄養士が単に献立を立ててカロリー計算する人、という誤った認識を改めて、健康管理に重要な役割を持つ専門家として再認識できる良い機会だ。

このマネジメントを数年前から試行的に行なっている施設では入院者の割合が激減したというデータもある。1施設のデータはエビデンスにはならないが、こういう可能性は大いに考えられるのだ。

すると栄養ケアマネジメントが生かされれば単に12単位を算定できるだけでなく、入院者が減り、給付費の減額も防げるという経営面での別なメリットも考えられるのである。

なにより施設利用者の方が、楽しく適切に栄養摂取できるという喜びに変えられるものはない。ケアサービスの品質管理面でも有効だ。

ただし、問題は一連の栄養ケアマネジメントの評価の後にくるであろう、では何をどのように食べるかという「食」そのものに対する視点である。

生きるためにサプリメント的な栄養摂取のみで「生かされる」という馬鹿な状況を生み出しては困るのである。

ここは考えどころだ。

食は見た目も、味も重要なのだ。栄養障害のリスクがある方なら、なおさら、食べるということそのものに何らかの障害要因があることが考えられるのだから、ここをどのように考えるか、という点で生活の質が左右されてしまう。栄養剤を補給すれば良いという問題ではないのだ。

そういうことから考えると、現在の施設の給食のあり方、そのものに見直しが及ばねばならない。

見るからにまずそうな刻み食や流動食は改善しなければならない。その方向がソフト食であるかどうかはわからないが、栄養ケアマネジメントの重要な課題は、あの示されている書式の使い方ではなく「食」そのものであることを現場の栄養士の皆さんには理解してもらいたい。

食べることは「生きる」ことだし、生きることは「喜び」であるはずだ。

苦しみの「食」では意味がない。

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老施協の多床室報酬に対する解せない姿勢。

昨日に引き続いて介護報酬の新単価の改訂論議について語ってみたい。

施設報酬±0%がまやかしだということも昨日書いた。
特にユニット型居室単価上げ、と従来型多床室下げでバランスをとるおかしさを指摘した。

しかし老施協の12/14付け「JS WEEKLY」を読むと、このことについて

「ユニット型個室等と多床室との報酬水準の見直しなど本年10月の介護報酬改訂に関連した課題への対応、経営状況等を踏まえた見直しを行なう」としている、

このようにしか触れていない。

この記事を読む限り、あたかも現行の報酬の国が言う「ねじれ現象」とか「逆転現象」とかいうおかしな論理に老施協も乗っかって多床室報酬が「10月改正時に積み残した課題」であることを肯定しているようだ。

つまり多床室の報酬を人質にとって、これを下げる見返りに、ユニット型の報酬単価を上げることを認めているようなものだ。

こんな馬鹿な話があるものか。

もともと介護報酬はケアサービスの対する対価であり、多床室も個室も、自己負担+介護報酬の総額が変わらないのが基本である。アメニティの差を自己負担の多寡に求めており、多床室のアメニティの低さは、利用者の居住費負担の低さで差をつけている。自己負担が安くなっているのだから、総額が変わらない分、給付費用が高くなるのは逆転現象でもなんでもない。

そもそも部屋の体系により同一施設で施設が得られる対価に差があることがおかしい。
サービスの質的差は同一視説であれば部屋の形態による差はほとんどないはずだ。

要介護度が同じなら、同じ従来型施設であれば個室であろうと多床室であろうと自己負担+介護報酬は同額であることが筋だ。

逆に、多床室の給付費を下げてしまえば、自己負担+介護報酬の総額自体が同じ施設内の個室と多床室で差が出てしまう。介護サービスの質自体に両者に差がないのに、こういう費用差ができることこそ「ねじれ現象」だ。

しかも経過措置がある現在、個室であっても多床室単価で使わざるを得ない状況下で多床室の報酬下げは死活問題だ。ユニット型の報酬さえ守ればよいという姿勢は何か胡散臭い。

なぜ、老施協は多床室の報酬を守ろうとしないのか?何か理由があるのか、うがった見方をしたくもなる。(この部分は想像になるので書けないな!!)

ターミナルケアへの評価を求めるのは良いが、その前にサービスの基本となる本体報酬に対し、きちんとした質が担保されるような報酬体系であるような提言が必要だ。

ユニットケアの人質が、従来型施設のケアサービスであることは納得できるものではない。

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騙されてはいけない介護報酬改訂の数字のマジック。

来年4月に改訂される介護報酬単価については1月26日に諮問を出す予定で進められているが、一昨日この改訂の大枠が政府与党と厚生労働省の協議で決定された。

それによると介護報酬は全体0.5%%減、在宅1%減、施設は10月改正で減額された分を考慮して±0%とされている。

これをみて施設の報酬単価が守られた、と理解する向きがあるが、果たしてそうだろうか。

その前に忘れてはならないのは、この背景にはユニット型個室の単価を上げて、その分、従来型多床室の単価を下るという意図が隠されている点(一部では既成事実として国の関係者が明言している)であり、老施協もこれに対し積極的に反論していない点が解せない。

さて、そこで考えてほしいことは、この増減率の比較は、総額比較ではない、という点だ。

つまり仮に事業所の数や、利用者数が現行と同じと想定して、給付費の総額の増減が−5%とか±0%とか示されているわけではないのだ。

あるサービスの単価が比較されているに過ぎない。

どういう意味かというと、単純に施設サービスを例に挙げれば、総体の額は全く考慮に入れず、施設サービスのうち、ユニット型個室の単価を5%上げて、従来型多床室の単価を5%下げれば、施設サービス費は全体で ±0% ということになる。

しかし、これは考えようによってはおかしい。

総体が±0%になるには、例示の場合、ユニット型個室と従来型多床室の比率が1:1でなければならないのだ。

だが実際にはそうではない。従来型多床室の方がユニット型個室より圧倒的に数として多いはずだ。

つまり今回改訂の増減率が施設サービス費±0%とはいっても、単価が下がる従来型多床室が多くて、単価が上がるユニット型個室の数が少ないということは、給付費のパイは下がるという単純な結果が導き出されるのである。

これが今回の改訂の本質だ。

居宅サービスの数字も同じだ、軽介護者が−5%で、重介護者が+4%だから総体−1%というのはおかしい。この場合も軽介護者と重介護者の比率が1:1でないと相対的に−1%にはならない。それとも各サービス別のメリハリで総体−1%と言っているのか、そうであっても同じ数字のマジックが現れてくるだろう。(通所サービスが3%減で、訪問看護が2%増だから総体−1%と言う意味には本来ならないということと同じである)

物事には本音と建前があるが、今、新聞等で報道されていることは事実である。しかしその中には本音を隠した、様々な建前で飾られた数字が先行している点を見誤ってはならない。

ユニット型個室の単価を守るために、総体の給付費が著しく下げられ、数多い従来型施設の経営がますます困難になるような改悪に対し、我々の上部組織は何故、積極的に反論しないのだろう。多床室単価に対する「逆転現象」や「ねじれ論」に根拠がないことは

「居室類型による報酬差は妥当か」

でも示してきた。おかしなことを、おかしいといわないのか、思っていないのか。それとも上部組織は「新型特養」だけを守れば良いと思っているのか、非常に疑問である。

加えて、今回の改訂では、要介護度については重度者に厚く報酬が設定され、要介護1.2はさらに単価が下がるといわれる。実質、特養等の介護保険施設の対象者を要介護3以上にしようとする誘導がみえている。本当にこれでよいのだろうか。

居宅サービスも同様である、在宅1%減とは言っても、要介護1.2は5%減である、4.5は4%上げである。

末期がんが介護保険の対象となったことで、訪問看護など重度者に対応する分は報酬引き上げが図られているが、要介護1.2の5%減は通所サービスに大打撃を与えるだろう。

予防給付に移行する利用者が多い、これは現行の介護給付の報酬より大幅減額だ。加えて、軽介護者の介護給付費も5%減ではやっていけない。しかし通所サービスの介護予防効果も立証されているところであり、軽介護者の利用サービスとしてはエビデンスができつつある中、こういう制度改正は本当に在宅者の自立支援に繋がるか、大いに疑問がある。

こういうおかしさが大手を振ってまかり通ろうとしているのが今回の改正だ。

いま出されている数字の本質を見誤ってはいけない。

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Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。


4日間にわたって、僕の学生時代の「思い」に付き合っていただいて感謝しています。

特に、このブログで何を伝えようという目的はありません。僕自身の心の叫びをブログに乗せることで、今現実の僕自身がその言葉を聞いています。

頭で考える前にブログを書いている。思いついたままをキーボードで打ち込んでいる。だからここにかかれる言葉は自分でも意外に思うことが多々ある。

学生時代の何とも言えない、苦いような、それでいて震えた心がいつも訴えたがっていた思いを書き綴った。

もしかしたら、これを書きたくてブログを始めたのかもしれない。そんな気がした。

性善説とか性悪説とか言う言葉がある。

しかし誰もが生まれついての悪人はいないはずだ。人間は真っ白なキャンパスだ。

そこに色をつけて染めるのは、人間を含めた周りの環境だ。親の影響は特に強いだろう。家庭や家族が子供を成長させる。彼らはある時期までしっかり守られなければならないのだ。でもこの社会は様々に人を傷つけてしまう。

いつも誰かがどこかで傷つけられる。それをすべてなくすることはできない。

なぜなら、それはもう神の領域だからだ。そんな重いものまで背負うことはできないよ。僕は普通の叔父さんなんだ。

だけど、僕たちには、僕達自身が手を差し伸べて守ることができるものがある。それは、ひとつでも、ひとりでも多いにこしたことはないだろう。ひとりでできなきゃあ、あの人にも手を貸してもらえばいいじゃないか。そう気楽に考えることにした。

肩の力を抜いて、そういう思いで福祉の仕事に関わっていこうと思いたい。

僕の周りにはたくさんの幸せな家庭があり、たくさんの幸せそうな子供たちがいる。

昨日まで書いた子供たちの存在は、まるでフィクションの世界と感じる方も多いだろう。

でも多分、今もどこかに、僕が学生時代に出会った子供たちのように、魂の叫びをあげている子供たちや、若者たちや、おじさんおばさんや、高齢者がいるんだ。

誰かの幸せを作るために、誰かの不幸がたくさん土台になっている社会なんてつまらない。

そういう当たり前の感覚を持てない社会は不幸だ。

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Think about my Daughter 3 〜 彷徨


幼くして母親と死別した小学校2年生の女の子は、いつからか声を失った。
しゃべれないわけではない。機能的には何の問題もないのだ。しかし、しゃべらないのだ。

いつからそうなったのか、父親に尋ねても答えが返ってこない。ただ父親は再婚した継母に反抗している悪い子、という認識しか持っていない。「児童相談所で鍛えなおしてくれ」という態度だ。

父親が再婚した女性には、知的障害があった。ただ生活上の習慣や、身の回りのことは自分でできるし、食事を作って、片付けるなどはできていた。しかし家の中は雑然としている、食器を洗う姿を見ても水に濡らして拭くだけという状態である。夫以外の他者と適切なコミュニケーションがとれているのかも疑わしい。食事も夫と妻は一緒に食べているが(夫の帰宅が遅いせいもあると思う)、少女は別の時間に食事も違うものを食べさせられていたようである。

少女は、こういう家庭で幼児期を過ごした。

少女が、幼児期に受けるべき両親からのごくあたりまえの愛情を受けることなく育ったのは想像に難くない。声を出さなくなったのは、反抗ではなく、彼女なりの危機の表現ではなかったのか?出さないのではなく、出せないという心の叫びではなかったのか。

児相の一時保護という場所は、生活施設ではなく家庭とは異なる場である。しかし家庭から離れて、ここでの生活を続けるうちに、彼女は少しずつであるが、短い言葉を発するようになっていった。

彼女にとって、家庭とは、家族とは何だったのだろう。少なくともその後も彼女が平穏に暮らせる場所は、彼女の本当の家庭ではない、という哀しい現実が僕の心に重くのしかかる。

ある女の子は、年の離れた妹が生まれたときから自傷行為が始まった。やがてそれはエスカレートし、妹を傷つけるようになって保護されてきた。

僕らの前では素直で、何でも言うことを聞くかわいい女の子であった。しかし少女が保護された日を境に、数人保護されていた所内の子供たちの雰囲気が変わった。すぐに気づいたが、たまたまその日保護された少女より弱い(年齢が低かったり、知的障害があったり)子達の集団となっていたため、たちまちその日から、少女のいじめが始まったのだ。

しかし少女は生まれるつきそうだったわけではない。少女が6歳の時、やっと2人目を授かった両親は、生まれた赤ん坊の世話に目を奪われて、それまで愛情を一心に集めていた少女の寂しさに気づかなかったのかもしれない。自分の体を傷つける少女を両親は、愛情で保護する前に、強く叱った。

両親の対応が根本的に間違っていたわけではない。すこしだけ少女の寂しさの理解に気付くのが遅れただけだ。むしろ普通の親として、当たり前の反応だったかもしれない。でも少女は待てなかった。

僕らは、いじめは悪いと諭すことは簡単にできる。でも少女にとって自分や人を傷つける以外に、自分を表現する方法がわからないのだ。悪いことをすることで彼女は彼女なりの心の叫びを示していたんだろう。

僕はあの時、彼女自身の問題と、一時保護で守られている子供たち全体の問題とを分けて考えられなかった。だから彼女に本当に必要な手を差し伸べることができなかった。わからなかったんだ・・・。

実の父親に強姦され、身ごもってしまった少女。言い出せずに母親が気付いたときには既に堕胎が不可能な時期になっていた。僕にとってはあまりに重い現実だった。指導者である児童福祉士の背中に隠れるように少女と母親が二人で暮らす家庭を訪問していた。

僕はあのとき、自分が福祉の世界で何をできるか皆目見当がつかなかった。

逃げ出すことは簡単だった。

でも、逃げなかった、というより逃げられなかった。言葉では表現できないけれど、震えるような思いがあった。その思いが僕のこの道に向かう動機付けになっていったんだろう。

そしてその時、いつかここで経験したり考えたりしたことを何かの形で表現できないかと思った。
Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。に続く

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Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。


昨日、僕が学生時代「児童心理学」を研究していたことを書いたら、ある人から、さぞかし「子育て」に役立っただろうと言われた。

そんなことはあり得ない。

児童心理を研究していても、「子育て」に大切なのは、子供の側の心理ではなく、親の側の、自分自身の心理の方が大きく影響するからだ、これを理解できるほど僕は人間ができていない。

ただひとついえることは、子供というのは、少しの大人の心理が深く影響するデリケートで壊れやすい存在なのだ。

学生時代に話を戻そう・・・。

「もうひとつの少年期」という本を読んだことで、児童福祉の勉強に興味を持った僕は、実習とか自主研修とかいう形で、児童福祉の現場で子供たちと触れ合うことが多くなった。

たくさんの壊れやすい魂と接してきた。
だけどそのとき20歳前後の僕には何もできなかった。

ある小学生の兄弟は、小学校低学年の頃から「盗み」を覚え、何度も児童相談所に保護され、一時保護で観察期間を置いて家に戻っても、繰り返し、繰り返し盗みを働いて止むことがなかった。
彼らは実の両親ではなく、父親の兄の家庭で生活していた。兄が彼らを虐待していたわけではない。むしろ親以上の愛を注ぎ、それだけに彼らの「盗癖」に絶望していた。

しかし、彼らが盗みを働くようになったのには理由がある。

彼らはなんと小学2年と3年という時期に、「食べる」ために盗みを働くようになったのだ。
父が炭鉱夫だった兄弟の家庭は、それまでは裕福ではなくとも、ごく普通の家庭だった。

彼らの家庭が壊れたのは、母親が男を作って家を飛び出したことがきっかけだった。当初男手一人で兄弟の世話をしていた父親が、いつしか酒におぼれるようになり、家庭にも育児にも関心すら示さなくなった。当時、育児放棄という言葉があったのか覚えてはいない・・・。

父親が帰らない日が何日も続いた。やがて家から食べるものも、飲むものもなくなった。彼ら幼い二人の兄弟は、「生きる」ために、留守の炭住に入り込み、食べ物を持ち出した。当時の炭住街は、日中家を空けても鍵をかける家などほとんどなかった。なぜなら地区全体が同じ会社か下請けの仲間の集まりで、盗みを働くものなどいなかったからだ。

そうして盗みを覚えた兄弟は、やがてお金を他人の家から持ち出すことになった。

彼らにとってそれは生きるために必要だったんだ。今日、今、食べ物を得ることができても、明日、3食食べられる保障はないのだ。学校で給食がでない日は1日のまず食わずで過ごすこともあったはずだ。わずか9歳とか8歳の子供がである。

やがて彼らの家庭の問題が地区の問題になったとき、彼らの心の闇は、もう他人が理解できないほど深くなっていた。叔父に引き取られ、その土地から離れることになり、食べる心配がいらなくなったのに、かれらは盗みをやめなかった。

それはかれらが、わずか9歳とか8歳で植えつけられた不安がいつまでも心から消えないからなんだろう。いや、本当の理由は僕には決してわからないに違いない。

ただいえることは、これは決して彼らの持って生まれたパーソナリティではないということだ。大人が彼らをそうしたんだ。そうなった彼らが特別、弱い人間ではないのだ。彼らは生きるためにそうならざるを得なかったんだ。

でも僕にはわからなかった、教科書の児童心理学は役に立たなかった。僕にはただ、彼らと僕が接している間だけでも、彼らが「安らかであれ」と祈りにも似た気持ちで、いい兄貴として接する以外すべがなかった。
Think about my Daughter 3 〜 彷徨に続く

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Think about my Daughter 〜「もうひとつの少年期」との出会い


今日から週末にかけて、僕が福祉の仕事に就くきっかけとなった体験や思いを書いてみたい。
〜そう、無性にそのことを書いてみたくなった。少し付き合ってください。

僕のことを老人福祉や介護保険の専門家と考えている人がいるらしい。

この仕事に携わって20年以上経っているんだから、そう思われても自然なのかもしれないが、少なくとも僕のベースは老人福祉ではなかった。

僕の学生当時の専攻過程が分野別選考として区分されていたわけではないが、僕の専らの研究対象は児童心理学や少年非行論を中心にした「児童福祉」であった。

ちなみに「老人福祉論」は、可、という成績で何とか単位をとった。

実習や自己研修は、児童相談所や、ある地域の少年非行センターといった場所で行なっていた。

とはいっても最初から、福祉の仕事に就きたいとか、児童福祉の勉強をしたいとか、そんな明確な思いを持って大学を選んだわけではない。もう少しいい加減で、軽い気持ちであったと思う。しかし進んだ道が社会福祉学科であり、漠然と福祉の仕事を目指そうかなという思いはあった。
いや、あったんだろう。

そんな、浮ついた気持ちが影響していたのか、1年時は経済学部の経済学の教授の主催するゼミで活動していた。(当時、1.2年時は一般教養過程でこういう履修方法が可能だった)もしかして、大学での勉強が福祉に偏ることにある種の不安を持っていたのかもしれない。少なくともどっぷり福祉に浸かることに恐れに似た気持ちを抱いていたことは事実だ。

そんな時、恩師でもある松井 二郎教授が、授業教材として使われたのが、遠軽の北海道家庭学校・藤田俊二氏著「もうひとつの少年期」という本であった。

幼いときから小説を読むことが好きだった僕は、それまでもたくさんの書物との出会いがあったし、時々に感銘や感動をうけた書物も多かった。

しかし、このとき、この本との出会いの印象は強烈であった。感動とか感銘とかとは違う衝撃であった。

北海道家庭学校は、現在で言う「児童自立支援施設」である。当時は「教護院」と呼ばれていた。

様々な事情で、家庭を離れて教護施設で生活しなければならなかった「子供たち」の幼少期から、やがて家庭学校を巣立って、社会人になって生活していく姿の実話である。

様々な人生がある。

そして様々な巣立ちがあり、すべてがハッピーエンドの人生ではない。

しかし、それらの人生の原型は、本人たちが作り上げたものではなく、彼らの周りの大人たちが深く影響して作り上げられていることが共通していた。彼らは幼い頃に影響を受けた様々な運命を背負って、あるいは逃れようとしても、いつのまにか引き戻されてしまう宿命と戦いながら懸命に生きていた。

自己責任などという生易しい言葉が通用しないほどの烙印を、ほんの幼い命が経験して育っていかざるを得ない人生という強い印象が僕に何かを語りかけたのだろう。

本の内容自体は、忘れてしまっていることの方が多いが、今でもその印象が残っている。

そしてその印象が、僕の「行く道」に影響を与えたことは間違いない。

でも、その後の僕の体験の中で、同じような宿命を背負った子供たちと実際に関わることになろうとは、そのときは少しも気づかなかった。
Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。に続く

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社会福祉士資格の不思議さ2

社会福祉士の資格取得過程をみると、すべて国家試験に合格しなければならないことがわかる。

しかし、原則的に受験には必要な指定科目または基礎科目の履修が条件であるのに、一つのルート、すなわち行政実務5年ルート(老人福祉指導主事等)のみ、この科目履修義務がなく実務のみで受験ができるシステムになっている。

これもおかしなことだ。

大学で社会福祉を専門に学んで、社会福祉施設で何年も相談援助職に就いていても、履修科目によっては受験資格がなく、通信過程で指定科目の履修が必要になる多くの方と比べ、行政ルートだけが著しく専門性が高いというのか?

もうこんな不公平ルートはなくそう。資格の専門性に対する信頼性が揺らいでしまう。

職能団体としての日本社会福祉士会はこのことについて、ほとんど何も触れることがない。資格の信頼性、専門性を高めるなら、受験資格の整合性まで考慮せねばならない。会員に行政職が入っていても、正すべきことは正す姿勢がないと、社会的に信頼される組織とはいえない。不公平や不透明感はなくすべきであろう。

さて、話をもどすが、社会福祉士があまり魅力のある資格とみなされない不思議さの最大要因は昨日述べたとおり、直接的に職の確保に結びつかないという点が最大要因である。

社会福祉士会は、社会福祉士がコミュニティソーシャルワーカーとして活躍する基盤の構築とか、社会福祉士の資質と意識の向上を命題として挙げているが、しかしきちんとした身分保障がない状態では全体のモチベーションは維持できない。

社会福祉士だけが、霞を食って生きていくわけにはいかないのだ。

ソーシャルワークの総合的援助技術を身につけた専門家が、ソーシャルワークの1援助技術でしかないケアマネジメントに特化した専門家より就業に結びつかないような現状はおかしい。

今回の保険制度改正で、包括支援センターに社会福祉士が重要な役割を果たすことになるが、これだけではなく、やはり介護施設を中心に、業務独占でなくとも、少なくとも社会福祉士配置に対する加算や減算規定の導入、一定規模の施設における社会福祉士の配置義務を積極的に提言すべきだ。

財団法人化を目指す、社会福祉士会の目指す方向が会員にも不明瞭だ。

もっと会員のニーズを吸い上げる組織でなければならない。社会福祉士会がこの資格による身分保障や地位向上にもっと積極的になれば、入会に二の足を踏んでいる有資格者たちも入会に傾いてくれると思うのは僕だけだろうか。

どちらにしても、社会福祉士が今のままの身分保障では、その役割が、別の専門資格に包括され、必要性が失われかねないであろう。

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社会福祉士資格の不思議さ

この業界に入った当時、任用資格としての社会福祉主事は別として、相談援助職の公的資格はないに等しかった。

施設の相談員にしても、医療機関のソーシャルワーカーにしても、社会福祉主事の有資格者は多かったが、相談援助職そのものの資格はない状態で、ソーシャルワーカー等の名称を名乗っていた。(ソーシャルワーカーという名称に関して言えば今も変わりないが)

このことについて当時の学卒バリバリの蒼い僕は、相談員なり・ソーシャルワーカーなり、それ自体の身分を現す国家資格があっても良いのではいかと先輩たちに(つばを吐きかける勢いで)問いかけたものだ。

そんな意見に同調してくれる方もいたが、以外だったのは医療機関に勤める多くの先輩ソーシャルワーカーたちの否定的な意見であった。

ソーシャルワーカーが資格化されれば、医療の資格に包括されて、医師の管理がより強くなり、ソーシャルワーカーとしての独自性が失われるという意見である。

当時の僕に、その意見に反論する知識も見識もなかったが、何か「おかしさ」を感じていたことは事実だ。ずいぶん融通性が利かないんだなあ、という感覚というか、資格が明確化されて身分や地位や確立されることで、ソーシャルワークの機能が縮小される、という論法に違和感を感じていた。

だから1987年に社会福祉士という国家資格が法制化されたとき、これは医療の相談援助業務の資格とは一線を画した資格であると捉えていたような気がする。実際、福祉の現場職員のほうが当初の受験者は多かったように思う。

ただ、その後、医療の領域でも精神保健福祉士という資格ができ、医療機関のソーシャルワーカーも社会福祉士の資格取得者が増えている現実をみると、決して、これらの資格はソーシャルワーカーの活動領域を狭めることにはなっていないのであろうし、やはりきちんとした身分保障とスキルアップの動機付けには「国家資格」という形は必要であると思ったものである。

ところで社会福祉士資格とは、なんとも奇妙な資格である。

試験内容から見ても、合格率から見ても、そのハードルは決して低くない。むしろ介護支援専門員資格(これは国家資格ではないので比べようがないという意見があるが)と比較すると、社会福祉士の合格へのハードルはかな高いといわざるを得ない。

しかし、この資格を持っていても就職に有利になるかといえば、必ずしもそうではないし、ケアマネの求職はどの地域でも必ずあるが、社会福祉士募集という求人は少ない。

この不思議さは、やはり業務独占の資格でなく名称独占の資格である、という点が大きいのであろう。

しかし同じ名称独占の介護福祉士が、高齢者介護施設の正職員の雇用条件にされている場合が多いのに比べ、同じ高齢者介護施設で相談員の雇用条件を社会福祉士としている施設は、そう多くないように思う。

これはなぜか。おそらく介護福祉士は実務や養成過程で、ある程度、介護の経験や技術を、有資格者以外より身につけている、という可能性が高いと考えられているのに比べ、こと社会福祉士は、有資格者が資格のないワーカーより、技術や経験、見識が高いとは限らないと見ている向きが多いのだろう。

この原因が何であるのかは複合的要素があり特定できないが、ひとついえることは、大学でソーシャルワークの専門課程を勉強してきた者は、社会福祉士の資格の有無に関わらず、相談援助職としての一定の要請過程を経ていることに変わりがないことがひとつの要素として挙げられるのではないだろうか。

しかし、どちらにしても、資格取得のメリットがさほど大きいと実感できない、という声が多いことは事実である。

このことをもう少し具体的に考えながら、将来のこの資格のあり方を検証してみたい(明日に続く)

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介護福祉士の歴史と将来

今日は介護福祉士いう資格が生まれた背景や、当時の議論を思い出して、今後のこの資格のあり方を考えてみたい。

歴史というには、あまりに若い資格であるが、介護福祉士は、1987年5月26日に制定された介護福祉士法により、「介護 福祉士の名称を用いて、専門知識及び技術を持って、身体上もしくは精神上の障害が あることにより、日常生活を営むのに支障がある者につき入浴・排泄・食事、その他 の介護を行い、並びにその者及びその介護者に対して介護の指導を行うことを業とする者を言う」と定義している。

これをみて解るように、この資格は業務独占ではなく、あくまで名称独占の資格であり、介護福祉士の資格がないから介護施設の介護職員や在宅介護に携われないということではない。

しかも、この資格を得るために、必ず国家試験を受けなければならないというものではなく、実務経験者は国家試験で合格する必要はあるが、養成校で必要な科目を履修して卒業した者は国家試験免除で資格が付与される。

どうしてこのような中途半端(?)な資格になってしまったかご存知だろうか。

そもそもわずか19年前には介護の資格は公的には全くなく、介護職員の地位向上とスキルアップの両面を睨んで、老施協は独自に「福祉寮母」という養成資格を作っていた。そして同時に介護の国家資格を作ることを大きな目標としていた。

その際、もっとも抵抗勢力となっていたのは、家政婦協会である。

介護の国家資格化により、医療機関等に派遣されている(当時の医療機関は現在のように、医療機関の責任での介護が義務付けされておらず、基準看護をとっていない医療機関の大部分は、介護者として患者自己負担で外部の派遣職員を受け入れていた)家政婦の職が奪われるという理由で、旧労働省をバックに、介護の資格化に真っ向対決姿勢を打ち出していた。

しかも、国会議員の中にもこの資格を疑問視する勢力は、かなり大きく、有名な話では、あのハマコー氏などは、自民党の総務会で「誰にでもできる仕事に、なぜ資格が必要なんだ」と発言し大きな話題にもなっていた。

こうした抵抗勢力があるにも関わらず、介護の専門性が必要であるという一方の認識も徐々に広がる中、両者の妥協として、業務独占ではない、名称独占という形で、資格ルートも複数化して取得の幅を広げるという形で資格制度がスタートした、というのが実態だろう。最初から名称独占のみを目指した資格ではなかったはずだ。

しかし今日、特に介護保険制度以後、介護サービスが多様化して、国民の負担において、それらのサービスが提供される実態が、国民の目にも直接的に触れる機会が多くなったことで、給付費の適正化という問題ともあいまって、介護サービスの質の保持を、有資格者によるサービス提供で担保し、かつ、その基礎資格をヘルパーではなく介護福祉士としよう、という議論がある。

介護の質を管理する、資格のあり方を議論することは大いに結構であるし、介護福祉士の技術や知識に信頼を置く方向の議論であれば、これは有意義である。

ただ、現行の介護福祉士を、もっと「とりやすい」資格にして、広くこれを与えようとするのでは意味がない。

やはり看護師の養成過程を基準にするなり、要請過程の充実を図るとともに、すべての資格取得ルートに対し、国家試験なり、都道府県の認定試験なりの選考を経た上での資格付与でなければ信頼感は薄くなる。その上で、業務上の「できる行為」の明確化と規制緩和、単なる名称独占でない専門職としての地位確保が必要ではないか。

少なくとも介護福祉士という有資格者を大量生産する視点では、困るのである。

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栄養ケアマネジメントの向う先〜施設の食事を考えてみた

11/25のブログで紹介しているのだが、先月の当地域ケアマネ会は、国立国際医療センターのリハビリテーション科医長である藤谷 順子先生をお招きして、「誤嚥性肺炎を防ぐ嚥下障害リハビリテーション」をテーマに講演会を行った。

今日はその時の講演内容を少し思い出しながら、ケアサービスの視点を考えてみた。

嚥下障害のある高齢者が経口摂取を続ける(あるいは、再開する)手段としては、/環境指導、⊃内容指導、摂食・嚥下機能訓練(間接訓練、直接訓練)の3つの要点があることは、多くの方がご存知であろう。

そのなかで高齢者の「嚥下障害リハビリテーション」といえば、まず最初に思い浮かぶのは、口唇・舌・顎の可動域訓練、声門上嚥下、前口蓋弓の冷刺激などである。

しかし、当日の氏の講演の主な内容は、それではなく、まず「誤嚥性肺」というのは経口摂取を行っていない方でも、唾液や胃液の逆流でも起こり得る、その時に大事な点は、そういう誤嚥が起こった場合でも、重篤な状態を引き起こすリスクを減らす為にも「口腔内の清潔」が重要な要素である、という観点から、高齢者の口腔ケアをどうするか、という部分から入っておられた。

しかも単に歯を磨けない方の、あるいは、うがいの出来ない方の口腔内を清拭する、というだけでなく、汚れた粘膜や歯周病菌を口腔外に掻き出すケアでなければならない点を解説されていた。介護職員も大変参考になった点である。

また嚥下リハビリの前段階として、まず正しい姿勢で食べることができる、つまり、できれば座って食べることが出来るような姿勢をとれる体力の向上、そして介護者の視点として、体力が残っている状態で食事が出来る、離床の時間や方法、座位の視点などが重要であることを示されていた。

同時に摂食動作とは、単に喉や口腔の機能ではなく、手を食事に伸ばして、口に運ぶ、つまり自力で口に運ぶ動作をも合わせて考える点が、スムースな摂食動作に繋がる点などがなるほどと、あらためて考えさせられた。

つまりは、人の生活する過程で生ずる様々な障害は、単にその場面や、動作のみを「点」で考えて捉えても解決にはならないことがある、ということであろうと思う。

人が生きる、「生活」というものを、その方が背負う人生の歴史まで含めて線で捉えて援助に関わることが重要なんだろう。われわれがケアに関わるのは利用者の「動作」ではなく「行為」であることを忘れてはならない。

そういう意味では我々の施設で、嚥下障害のある方々に提供している、ミキサー食や刻み食は、多いに改善の余地ありである。飲み込むことが出来る動作を優先させる余り、食べる楽しみを奪っていることがありはしないか。食べるという行為は、もっと楽しいものであるはずだ。

栄養ケアマネジメントの必要性が言われている昨今であるが、これを取り違えて、食事を治療としてしまってはいけない。

ソフト食をはじめとした、あらたな食事形態の模索がより重要な視点になってくる。

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雪の夜〜ふと感じたこと

a60ba77b.jpg雪が遅かったこの地域も昨日から本格的な冬に入る様相だ。

道路の樹木には雪が降り積もり、そのなかを車で走るとさながらホワイトイルミネーションのトンネルを走っている感覚におそわれる。人工より、自然のものがはるかに美しい。

僕の住む環境は、まだそんな自然の中にある。通勤途中に鹿にぶつかりそうになることも珍しくない。

そんな田舎にいながら、情報を得ることに苦労することがなくなったのはネットのすごさである。

僕のホームページ掲示板には、時として、どこより早くて正確な情報が流されることがある。さぞかし充実したネット環境なのだろうと想像している方もいるかもしれないが、実は職場のある地域は、光どころか、ADSLさえ来ていないブロードバンドとは無縁の世界だ。

ISDNであるからPDFファイルの文書は大嫌いである。

だから僕の作るサイト情報は、ほとんどテキスト化している。

携帯だって、1社の電波しか、まともに届かない。

こういう環境で緑風園のサイトは運営され、全国の皆さんに見ていただいている。掲示板にこんなに多くの方が集まってくれるようになったのは、いつごろであろうか。おそらく、ひとつのきっかけは「過去ログ」のページを充実させてきたことにあるんだろう。

しかし最も大きな要因は、書きこみをされている皆さんの、まじめで見識の高い議論の姿勢だと思う。僕自信もいつも勉強させられている。

環境は大事だが、やはり大切なのは人である。

福祉、介護の現場も同じである。いかにアメニティを整えようと、最後にはそこでサービス提供する「人」が重要なのである。

制度改革が給付費減にターゲットを絞っていく中、その大切な「人」を育て、有能な人材が貼りつく環境を、我々は失いつつある。本当にこの国の将来の為の改革になっているのか・・・。

我々が年老いたとき、その答えは我々自信に返って来る。

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老施協の罪深い戦略ミス〜新認定から「準要介護」をはずさせた組織理論

本年2月の老施協ニュースをあらためて読み返してあきれてしまった。

トップ見出しは
「要介護者に介護サービス、要支援に予防サービス」原則を確保、

と文字が躍り、内容は、現行の要支援〜要介護5までの6区分を、改正時に「要支援1」「準要介護」「要支援2」の3区分を増やし9区分にする国の案を、老施協の戦いで「準要介護」新設を取りやめる成果を勝ち取って、認定の複雑化を防ぐとともに、要介護者は介護給付を受けれる原則を確保した、というものである。

しかし私は、この考えがおかしいことは、当時から掲示板で指摘していた。

「要介護者に介護サービス」という意味が、現行の要介護1の方が介護給付を原則受けられるという意味であれば、これは老施協の勝利である。しかし、この時点で、すでに老施協は要支援2の創設は認めているのである。

そうであれば現行の要介護1の大部分が「要支援2」とされたとき、それらの方が介護給付を受けれなくなり、老施協が大見出しで宣伝する「要介護者に介護サービス」とは新認定で要介護1と認定されたものは介護給付を受けるという、当たり前のことを言っているだけだ。

その実態は要支援2の認定で介護給付を受けられない層が、現行の要介護1のかなりの数になる、ということがこの時点で明白だ。
しかるに老施協は、ことを隠しているのか、頭に入っていないのか、どちらにしても本当に間の抜けた組織であることの証明と感じてしまう。

しかも
>「準要介護」新設を取りやめる成果を勝ち取って、

これが最大の問題である。

そもそも「準要介護」とはどのような区分だったのか。

この区分は、要支援と認定された対象者の中から、予防給付にそぐわない認知症などの方をスクリーニングして介護給付を受けることができる区分、という意味であったのだ。

つまり老施協は、この時点で要支援認定者のうち「予防給付にそぐわない」人々を自ら介護給付から排除してしまったのだ。

結果として、今度の新介護認定では2次判定で要支援と判定された全員が予防給付の対象になってしまった。介護給付を例外的に受ける措置がとれないのだ。

区分の数が増えれば利用者にとってわかりづらい制度になる、というが、8区分も9区分も利用者にとっては、そう変わらないだろう。それより、せっかく要支援者の一部が介護給付を受けられるというルールをつぶした老施協。

なんと罪深い間違いを犯したのだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

施設と居宅のケアマネジメントの違い(3)

施設のケアプランがケアサービスの質や内容そのものに焦点が当てられることは既に述べた。

そして居宅のケアマネジメントの視点も、本来その部分が重視されるべきであるが、他事業所の立案するケアプランの具体的方法までは、実際には手出し、口出しできる範囲は限られており、ケアマネジメントの主要な視点が、適切に複数のサービスを提供するスケジュール管理が基本となることも述べた。

さて、ここで施設のケアマネジメントを展開するにあたって最も重要となるポイントを考えてみたい。

施設サービス計画が、利用者の生活全般、まさに365日24時間の生活部分に提供すべきサービスや、その関わり方に焦点を当てるものであるとしたら、それはどんなサービスを提供するか、という視点に留まらず、そのサービス提供のあり方まで常に改良や方法の転換まで及んでくる。サービスのスタンダードを変えなくとも個別の方法を組み込む必要も出てくる。

つまりケアプランは、あなたは何をする、ということでなく、施設のサービス内容がこれで良いのか、という部分まで関わらざるを得ないのである。

そうなると当然ケアカンファレンスで議論される内容も、こういう課題に対し、こういう対応を行なうことにより、こういう目標を達成することができる、という視点をベースに、ケアの展開過程を精査する。このときケアマネジャーや他の職種のケアへの「気づき」が重要で、その「気づき」がケアサービスの品質向上に繋がる業務の見直しにまで及ぶことが当然あり得るのである。

つまり逆に言えば「これこれしかできない」という前提でのケアカンファレンスは、ケアプランを施設の都合に合わせて文言化する形骸化のケアプランにつながりかねないのだ。

ところが実際は、こういう例は無数にある。ケアプランがサービスに生かされず、制度内のルールのためにしか作られないとしたら、これは大きな無駄である。

しかし、その原因は施設のシステムそのものに起因することが多いのだ。

つまりケアマネがアセスメントし、ケアプランを作成する上でのリーダーシップをとらねばならないのに、いざその計画を実践しようとする入り口で、ケアの現場のリーダーシップや権限がケアマネに持たされていないことにより、その内容が受け入れられない、という問題が出現する。現場で展開すべきケアの内容の計画であるのに、作成作業の責任だけ負わされ、できることより、できないことの制限で、ケアプランが機能しないのだ。

これでは何のための計画かわからない。そしてそのことは施設におけるケアマネの業務というのがケアプラン作成業務に偏って考えられてしまうから出現する問題なのだ。

ケアプランというのはケアサービスの展開過程に必要なツールであり、それを作成する施設のケアマネがケアプラン作成とそのチェック(モニタリングを含めた)の専任者という位置づけだけで終われるはずがないのである。特に施設サービスの場合はその傾向が強い。

それは実際に介護業務や看護業務に関われ、という意味ではなく、ケアマネ業務が、ケアプラン作成作業を指すものではなく、トータルに利用者を援助する過程で、ケアマネジメントという社会福祉技術を使いこなす専門職として位置づけられる必要があるということで、専任のケアマネをおく場合は、特に相談員等のソーシャルワーカーとの業務分掌を明確にしておかないと、施設内でも不完全燃焼や燃えつきが起こる原因となるのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

施設と居宅のケアマネジメントの違い(2)

施設のケアマネジメントと居宅のその違いは何だろう。

両者とも、利用者に対し適切なサービスを結びつけ、「生活の質」を向上させる、という目的は変わらない。

しかし居宅におけるケアマネジメントにおいて、その方法は、多種類の違ったサービスを、いかに連携しながら利用者に適切に結びつけるかという視点が重要で、サービス種類と、その提供事業所の選択、利用の日や時間の決定というサービススケジュールの構築が基礎となる。

つまり、まず誰が、いつ、どのような種類のサービスを提供するかという視点が先んじられなければならず、どういう方法でサービス提供するか、という部分は(ケアマネのプランを土台としても)サービス提供事業所自体が主体的に決定する(各事業所のケアプランに基づきサービス提供内容が決まる)という結果とならざるを得ない。

これに対し、施設のケアケアマネジメントにおいては、誰がこのサービスを提供するか、ということは大きな課題にはなりにくい。

なぜなら利用者に提供されるサービスは「施設サービス」という単品サービスであり、他に代替性がなく、そこでの暮らしをどう援助するのか、という計画で、「誰が」という部分は、ケアプランによるものではなく、施設内の業務分掌やルーティンワークにより、ほぼ決まりごとであることが多いからである。

そして施設のケアプランの内容は、生活場所である「施設」において、利用者が質の高い生活を送るためには、どういうサービスを提供するか、という視点とともに、同じサービス提供でも、例えば排泄介助の方法はトイレなのか、ポータブルなのか、オムツであるのか、あるいは同じトイレ介助でも移乗の方法はこれでよいのかなど、サービス提供の内容そのものにスポットが当てて考えられる。

そうすると必然的に、今あるサービス提供技術や方法の見直しにまで、その視点は及ばざるを得ない。

この点は、居宅のケアマネジメントでも「同じ」だと指摘する向きはあるが、それは影響力や権限、それ以前の「サービス内容の把握」という点を考えても、他事業所のサービス内容に言及する居宅のマネジメントと、まさに「私自身」や「我々自体」が行なうケアサービスを考える視点は、決して同じくはならない。

つまり所属も内容も違う多種類のサービスを有機的に結びつける視点が重視される居宅のケアマネジメントの手法は、必ずしも施設のケアマネジメントの手法とは合致しないのであり、この国の介護保険制度におけるケアマネジメントのスタンダードを、現行の居宅の方法論に求める視点が強すぎると、間違ったケアマネジメントの方法論が出来上がってしまう危険性がある。

では施設のケアマネジメントで考えられる視点や方法を、もう少し具体的に考えてみたい。

このことは明日の(3)で示したいと思う。

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施設と居宅のケアマネジメントの違い(1)

最近、施設にも他職種との兼任ではない専任のケアマネジャーが増えている。

そうなると、当然、施設のケアマネジメントのあり方がさらに研究されていくだろう。
しかし、この際、現在の居宅のケアマネジメントをベースに考えることが正しいのかどうか疑問を持っている。

確かに1980年代、精神障害者支援領域の社会福祉援助技術の一つとして米国で生まれたケースマネジメントは、地域で暮らす精神障害者と各種サービスを結びつける視点で展開されたことを踏まえると、現行の居宅介護支援の方法はエビデンスのある方法を踏襲しているといえるのかもしれない。

しかし問題は、わが国の居宅介護支援が、介護保険制度という新たな制度にケアマネジメントを位置づける際に、多種類のサービスを有効に結びつける方法論としてのケアマネジメントに主眼を置くべきであったところが、給付管理という金の計算を、サービス提供の主要な課題としてしまったために(※していないといっても、現実はなってしまった。それは支給限度額の問題もあるし、計画単位が事業所の報酬に直接結びついてしまうためだ)肝心のケアマネジメントがうまいケアマネより、金の計算と配分がうまいケアマネが現場で重宝されるという、おかしな現況を生み出してしまった事実がある。

医者でいえば(例えですので、医師の皆さんごめんなさい)、まだまだ診療の技術が足りないが、薬を出して診療報酬を請求するのはうまい、という危ない状態を奨励しているようなものだ。

その中でも、もちろんケアマネジメントに長けた専門職が活躍しているが、一方で利用者の生活の支援より、事業所の支援優先とか、有効なサービスの検証より金の計算が優先する、という私から言わせればケアマネジャーではなくケアプランナーが多いのも事実だ。

少しタイトルから論旨がはずれてしまった。

居宅のケアマネジメントの質が低すぎると言っているのではない。具体的方法論が早くから確立されている居宅のケアマネジメントにも本当に意味で、わが国の福祉サービスの質を担保するエビデンスが確立していない、ということを言いたいのである。

さて、その中で、有効なケアマネジメントを行なっている居宅の専門家の方法を施設に置き換えて考える場合、これは有効になるんだろうか?

私は、このことにも少し疑問を持っている。この問題を今日だけでは語りきることはできない。今日を前段として、明日移行、施設のケアマネジメントと居宅のケアマネジメントの相違点をピックアップしながら、施設のマネジメントはどのような方向で確立されていくべきなのかを考えてみたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

新予防給付は成功するか3

居宅介護支援事業所にとって制度改正後の新予防給付マネジメントの方法は重大な関心事だ。

ケアプラン作成単価が上がっても、現行の担当者の要支援者が全部と、要介護1の8割近くが新予防給付に移行するといわれており、担当人数上限の30数人の確保さえ難しいケアマネが多いのではないだろうか。

そこで新介護予防のマネジメントの下請けを、(人数が減った分)受託したいと考えている事業所が多いはずだ。

しかし実際には、その作業は現行のケアプラン作成作業より煩雑になり、単価も低いと予想される。1説には包括に支払われる新予防給付の報酬単価が4000円とも言われており、下請けの事業所への報酬はかなり低額になるはずだ。

それでも受けなければ運営が成り立たない事業所は多い。

しかし担当件数を減らして、ケアマネジメントの質を上げる、という当初の目的は、この新予防給付マネジメントを同時に行なうことと両立するのか大いに疑問がある。

本来のケアマネジメントが充実し、職種間の連携や利用者への目配りが充実するのか、保健師が監督して、下請けの予防プランが効果ある内容になるのか、はたまた保健師自身の予防プランは質を担保するのか。

そもそも何故、保健師が予防マネジメントのリーダー資格なのか、ケアマネジャーを監督するのかという根幹部分が明確でない。

今までも介護予防事業に携わっていたからというのであれば、その予防事業自体、失敗続きではないか。

やっぱり新介護予防の前途は暗い。

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