masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

特養と在宅療養支援診療所の連携で生まれる新たな医療支援体制

非常に驚くべきことであるが、4月以降、一定条件下で医療保険の訪問診療と訪問看護が特養の入所利用者も利用できるようになっていることを知らない特養施設長がいる。ちょっと勉強不足過ぎて無責任な施設運営ではないかと感じてしまった。

その適用条件は末期がんの対象者に限ったもので、訪問診療を行える機関も、この4月に新たに医療制度改革の中で新設された在宅療養支援診療所に限られてはいる。しかし少なくとも自施設のサービス提供体制に関連するものとして、その改正点は把握しておくのが施設管理者に求められる責務ではないだろうか。

しかも何も医療制度改革関連の資料を読まねば理解できない問題ではなく、特養の必読通知である「特別養護老人ホーム等における療養の給付(医療)の取扱いについて」自体が変更されているのだから知らなかったでは済まない。

その改正内容を、ここで確認しておくが、医療制度改革において、医療機関ではない自宅や特定施設等でのターミナルケアを支援する為に「在宅療養支援診療所」が新設され、この医療報酬の算定基準の中で「特別養護老人ホームの入所者であっても、末期の悪性腫瘍の患者については、在宅療養支援診療所に係る医師が訪問診療を行う場合やその指示に基づき訪問看護等を行う場合には、在宅患者訪問診療科及び在宅指導料等又は訪問看護療養費を算定できる」とされたものである。

これを受け、「特別養護老人ホーム等における療養の給付(医療)の取扱いについて」も在宅患者訪問診療科料・在宅時医学総合管理料・在宅患者訪問看護・指導料等の算定できない条件に「特別養護老人ホームの入所者であって、末期の悪性腫瘍であるものに対し、在宅療養支援診療所の保険医が実施する場合を除く」などの文言が追加されている。

残念ながら在宅療養支援診療所の指定を受けた医療機関自体がまだ少ないであろうから、特養の所在地域にこれがなく、実質的に「影響なし」という地域もあるだろうが、今後、在宅療養支援診療所の指定を受ける医療機関は増えるだろうと予測される。

大規模ではない個人病院でも指定条件はクリアできるのであるから、間違いなく、指定を受ける医療機関は年単位を待たないで増えるだろう。

すると可能性として、特養利用者で末期がんの方の「看取り介護」において、在宅療養支援診療所の訪問診療と在宅療養支援診療所の医師の指示を受けた訪問看護を利用しながら終末ケアを展開する、という新たな支援体制が生まれる可能性がある。

この取り扱いはあくまで「末期の悪性腫瘍の患者」しか対象としていない為、特養での看取り介護対象者が全て同じ支援体制が構築できるものではないが、例えば、末期がんでペインコントロールが必要な方の場合、施設所属医師の対応ではこれができないというケースで、当該特養の近隣に在宅療養支援診療所があり、この協力を得てペインコントロールを含めて末期がんの方の「看取り介護」を施設で最期まで展開できる、という可能性に繋がる。

施設所属医師や協力医療機関の医療支援体制というものだけに頼ったり、限定したりして考えるだけでなく、別な医療支援の選択肢が出来た、という意味だと思う。

もちろん、そのことが実質的に機能するためには、施設所属医師や協力医療機関の理解や連携も必要になるが、終末期の支援の方法における選択肢(特養、利用者、両者にとっての選択肢であろう)が広がることは新たな支援体制を構築する要素として非常に意義深いものと思える。

贅沢を言えば、対象疾病が「末期がん」に限定されず、「看取り介護の対象者全て」になれば、施設における「看取り介護」における医療支援体制の問題は一挙に解決する可能性が高いし、利用者や家族にとっても、より安心できる施設の「看取り体制」になると思える。

対象疾患・対象範囲の拡大というテーマは是非、今後に向けて建設的に議論してもらいたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護保険と障害者施策の統合〜必要性の理解に温度差

介護保険制度の次期改正における国の最大の懸案は、この制度を障害者施策と統合させることであることは間違いない。次期改正の本丸は、ここ以外あり得ないのである。

ところで先週、各報道機関で報じられた全国市長会での、この問題に対する意向調査では全国の首長(回答があった93%の統計)の22%が反対(賛成8%)で、慎重を含めた数字は91%に上っている。

反対、慎重派の意見は介護保険と障害者施策の目的の違いが挙げられているが、僕が一番危惧する点は、障害者の方々が、介護保険と同じ負担形態になったときに、本当にそれらの方々の生活が守られるのか?最低生活の保障の視点はどこに置かれるか、という点である。

特に先天性の障害を持っている方々は、はじめから雇用機会をはじめとした生活の糧を得る機会に恵まれず、自己責任でないところで社会保障が必要になっているものであり、これらの方々の生活を支援し、尊厳ある生活を保障するのは、どこの国でも政府の責任である。

統合に賛成意見を述べている首長の意見には「障害者に対する関心・理解が深まり、社会全体で支える意識が高まる」としているものもあるが、あくまでその前提である必要な生活保障という観点がなければ、障害者の生活を劣悪なものにして自己責任論で政治の責任を糊塗してしまうという危険性があることを注意していただきたい。

社会全体で支える意識というものが「負担していない人は支えなくて良い」という危険な意識と表裏一体であるという点にも注意を払っていただきたい。

そもそも国が考える介護保険と障害者施策の統合の必要性は、どこから来たものか?

それははっきりしている。介護保険制度の本質は国民の新たな費用負担制度であり、この制度を将来的に継続するために、給付と負担のあり方を見直していくのが制度改正のテーマである。

つまり制度改正の本質は、福祉制度としての国民の生活向上にスポットを当てる以前に、財政論としての改革論議になってしまうという現在の状況が色濃く反映されたものである。

本年4月の改正では、新予防給付という新たなサービスを作ったが、このサービスは別に介護予防としての新しいプログラムが制度化されたものではなく、新予防というサービスの創設によって、介護サービスの利用制限条件を厳しくしたという「給付制限」であることは間違いない。

本当は今回改正での本丸も「給付の抑制」以前に「国民負担の拡大」であったというのが老健局幹部をはじめとした国の考えであったはずだが、政治的な問題もあり、この実現が不可能であったという状況がある。

次期改正では「国民負担の拡大」は「積み残された大きな課題」として強力にその実現に向けたレールが敷かれていくのであろう。

その具体的方法論が20歳程度までの被保険者の拡大による保険料負担年限の引下げであり、そうすると必然的に、この対象年齢の拡大というものが、障害者施策を介護保険に包括するということになるもので、介護保険と障害者施策の統合が、障害者福祉制度の充実とか、障害者への社会的支援の拡充という視点ではなく、単に保険料負担=国民負担の拡大の延長線上にそれがある、という意味でしか過ぎず、いかに理論武装して国民のコンセンサスを得るのかが政府の課題であり、今後の取組である、というのが実態だ。

教育基本法の改革の国民合意の形成にタウンミーティングでの「やらせ質問」で世論操作を図るような国が障害者の権利や生活を本当に守る制度改正論議を保障してくれるのか非常に危惧される点である。

確かに財政論をまったく無視するわけにはいかないが、論議されているのは、社会の隅々まで光を当てなければならない社会福祉制度改革である。資本主義社会の論理とそれは自ずと異なり、相反するものである。

介護給付費分科会での専門家の議論も財政論主導論議で終始しては、福祉施策の専門分化会としての見識や役割が疑われることになろうし、国民はこの議論にもっと関心を持つべきであろう。

社会的弱者、経済的弱者が泣いて継続する社会保障制度は「社会保障」といえないのではないだろうか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

改正介護保険制度の問題点を考える意味

18日(土)に開催予定の『長崎県島原半島介護支援専門員連絡協議会3ブロック合同研修会』に講師としてお招きいただいた。開催場所は、島原市有明総合文化会館(グリーンウェーブ)ということで、明日、同地に出発する予定である。

当初、打診があった講演テーマは「近年の社会保障の流れの中で介護支援専門員として、どう関わるか」という内容であったと思う。

ただ講演時間を考えると、年金制度改革や医療制度改革も含めた社会保障全体の流れをお話しながら、その課題や、介護支援専門員の役割をお話しても、テーマが広すぎて、時間内で論旨が明瞭にならないのではないかと考え、最終的に事務局と打ち合わせ結果、テーマを「介護保険制度改正が抱える問題点〜新しい介護保険の現場から」とさせていただいた。

最終的にそれでお受けしたのが8月の初旬であったかと記憶している。しかし実はその時点で私自身に、そのテーマでお話しする内容の骨格自体が頭にあったわけではない。そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎて、講演資料となる原稿を送らねば、と考え作成したのは10月はじめであったと思う。

しかしそれはあくまで講演の骨組み部分だけで、内容はどう展開させるかパワーポイントで資料を作りながら最終的に決めようと思っていたが、じつはこの間、冊子への原稿の〆切が2誌あった。特に連載している冊子の〆切は11/20であり、講演から戻ってから書いたのでは間に合わない。前回の〆切は父の死亡などで遅らせてもらっている経緯もあり、まずこの原稿を書くことにした。

そのテーマは「栄養ケアマネマネジメントの現状と課題」として、先週仕上げたが、その間は畑違いの栄養分野のことで頭が一杯になって、今回の講演テーマにかかれなかった。

ということで最終的にパワーポイントの資料が完成したのは1昨日夜で、昨晩推敲を終えた。そこで感じたことは結局、介護保険制度の改正という状況の中で介護支援専門員の関わりを考える視点は、結局のところ、社会保障制度全体の変革において考えるそれと同様のものであるということである。

制度改正の問題を考える意味は、何も制度の矛盾点や瑕疵をあげつらって、国や役人を批判することが目的ではない。

全ての人が納得する完璧な制度なんてあり得ないわけだし、しかしその中で我々介護支援専門員は「人々の幸せな暮らし作りの支援」を目的に、その知識と技術を使うわけだから、制度の問題点を知ることは、そういう問題があっても我々がその矛盾や課題に対してソーシャルケースワークの技術を最大限に発揮して関わり、いかに人の幸福の為の支援に繋がる方法を見つけるか、という意味である。

当日の資料の一部であるが、前文を以下に転載してみる。

はじめに〜介護保険制度が抱える問題点を考える意味)

法律や制度だけで、すべての人々が救済できるというのは幻想だ。そして全ての人に平等に効果があるという制度はこの世の中に存在しない。
例えば、高齢者の福祉制度は、高齢者一般として一括処理されており、確かにそれによって、ある特定個人は生活が守られ福祉実現に近づくが、制度が真に個人に役立てられ、個人の福祉を確保するためには、その個人を焦点とした、きめ細かな援助活動が不可欠になる。

その援助活動こそソーシャルケースワークなのである。

例えば、Aさんという高齢者がいたとして、Aさんは高齢者一般の福祉対策上に捉えられるが、彼は、高齢者であるという以前に、他の高齢者とは事情を異にするAという一人の個人である。
そして、一人ひとりの個人の福祉の実現を完全にするためには、Aさんという一人の人間としての個人に着目する必要があり、そこに個別化というソーシャルケースワークの不可欠要素が生まれるのである。

社会福祉が究極的に一人ひとりの個人の福祉の確保、実現だとすれば、ソーシャルケースワークなくして、その具現化は不可能である。

個人が社会に接続される時々において、社会における生活単位としての個人が把握され、その問題が明らかにされ、必要なときに適切な援助が与えられるのがソーシャルケースワークの役割である。

なんのことはない、これはケアマネジメントの理念と同様ではないか。
というよりソーシャルケースワークの1援助技術にケアマネジメントが含まれているのだ。

介護保険制度は、たしかに不合理な部分を内包している。制度としても未成熟な部分が多い。しかし我々ソーシャルワーカーやケアマネジャーが、一人ひとりの個人への援助の実現を目指すことで、制度は真に人を救う手立てとなるし、逆を言えばソーシャルケースワークの視点のない制度は真に個人を救済しないのだ。

制度の問題点や瑕疵(かし)を知るということは、それを知って、そのために援助が困難である影の部分にもソーシャルケースワークの技術であるケアマネジメントの力を持って「光」を当てる為のものであり、単に制度の不備や問題点を嘆いて終わったり、制度が悪いからとあきらめてしまっては介護支援専門員の存在意義はない。

ケアマネジメントはこうして利用者個人に制度の光を当てるためにある。事業所の利益誘導のためにそれを利用しているのは、どこのどいつだ!!

以上である。ということで明日から移動等で不在の為、ブログも月曜まで休みます!

介護・福祉情報掲示板(表板)

情報公表センターは自らの情報公開はしないの?

参議院議員の舛添 要一氏は、介護情報公表制度について「高齢者が自ら情報収集するのは困難である。また、事業者側から見ても、努力が報われるような情報提供体制が整っていないという状況をかえる手段」として意味があり、「この介護サービス情報の公表により、利用者が事業所選びをするときの選択肢が広がるし、また事業者も自らの活動を広報できるし、他の事業者の取組についても参考にすることができる」とその効果を指摘している。

そして費用負担については「調査費の負担は、いわば企業の宣伝広告費だと考えればよい。」とし、「介護サービスも、家電や車並みの世界的水準になることが肝要である」と結論付けている。

この意見は決して間違ってはいないだろうし、国民の大多数のこの制度に対する認識も同様のものと考えている。

しかし福祉に詳しいと言われている人が、政治家という立場にありながら、その内容を精査することなく意見を安易に公にすることはいかがなものかと言う思いも同時に持つ。

そもそも一律の調査項目が、「できている」「できていない」という公開方法であることで「他の事業者の取組についても参考にすることができる」ような内容になっていないのに気がついていないのか、中身を良く見ろよ、と言いたい。

この制度の目的は百も承知だが現行の方法や内容を変えていかないと、利用者、つまり一般市民の正しい選択肢になり得る情報公開にはならない。

その理由は「介護サービス情報の公表と第3者評価はケアサービスの質を担保しない」や「介護サービス情報公表制度の調査〜その笑える内容」で示している通りだ。

費用算定についても実費相当分になっていない実態がある。

当施設の2つの併設事業所も、この公表の為の調査を受け、さらに来週は本体施設も調査を受ける。最初の調査の際にいくつかの疑問を感じたので、北海道介護サービス情報公表センターに「質問状」を送った。それが11/2のことである。

以下が質問状の全文である。個人名だけ伏せさていただく。

介護サービス情報の公表制度に関する訪問調査に関する質問について


時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。

さて、このたび当施設(特養)および通所介護事業所、居宅介護支援事業所に関して「介護サービス情報の公表制度に関する訪問調査」が行われたところでありますが(特養は後日実施)このことに対し質問があります。

この事業に関して、調査機関は施設や事業所が指定できるものではないことは承知しており、当施設・事業所についてはNPO法人 ○○○○センター が調査機関となっているところです。つきましては、次の点に疑問を感じましたのでご回答をお願いいたします。

1.調査日について、施設側から業務の都合上、日程調整をお願いしたところ「調査員の日程の都合がつかない」との理由で、施設側の希望を勘案する調整に応じない態度はいかがなものか。しかも電話対応は一方的で、高圧的な態度と施設・事業者側が感じてしまう対応は問題ではないのか。公表センターは、調査機関に対し、適切な対応の指導を行うことは出来ないのか。

2.調査費の支払いをなぜ、調査実施前に完了しなければならないのか。本来、調査費という意味と調査費の算定根拠(調査員報酬+交通費の平均40.000+通信費+運営費12.200)を鑑みれば調査実行後の支払いというのが一般的ではないのか。


3.調査費の算定根拠である調査員の調査報酬費の交通費を含まない部分である32.000円は、国勢調査費を基準に一人8.000円×2人×2日間=32.000円としているが(6/30全道老人福祉施設研究大会;於・札幌後楽園ホテルにおいて○○○○氏の介護サービス情報の公表制度について、における説明)今回、2事業所で52.200円×2=104.400円の調査費を支払っているにも関わらず、調査は2事業所を同時に行い、しかもわずか 6時間弱の調査で終了していることにおいて、調査費用の過払いが事業所に生じているのではないかという疑念が生ずるがいかがでしょうか。
(2事業所の調査を1日で終える場合、交通費の積算根拠も疑念が生ずるのではないか)


以上、ご多忙中、まことに申し訳ありませんが、公表制度に対し、施設・事業所が信頼を持って対応し双方の協力の下、正確で真摯な報告と公表を行い、利用者や地域住民の利益に資するためにも、上記の疑問に対して回答をお願いしたいと思います。よろしくお願いたします。

ところがこの質問状に対する回答は今日時点でまったくない。この程度のことを回答するのに、さほど事務処理上の時間がかかるわけではなく、回答する気がない、握りつぶされた、のではないかと疑いを持つ。

このような質問は無視されて当たり前なのか?

公表センター自ら、自身の公平性や中立性を示し、調査機関に対する適切な指導を行わないで何が利用者の選択に資する制度になるというのか。はなはだ疑問を抱いている。

北海道介護サービス情報公表センターが、このことに答えようとしないのはなぜなのだろうか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

防火管理者研修を受けたけど・・。

昨日から雪になった。日中は熔けてしまうけど、朝は一面の白い世界だった。

初雪が「きれい」だと思う前に、また厳しい冬がやってくる、と感じるのが我々の地域であり、雪や寒さが「生活障害」の重要な要素になるのが、この地域の高齢者の生活である。介護予防の視点とはまったく異なる、高齢者に必要な援助が守られるのか?新要支援者に対する「新予防給付」が適用されてはじめて迎える冬に、不安を持つ関係者は多い。

さて、先週は水曜に函館出張、木・金は防火管理者研修で結局、月、火と水曜の朝しか施設にいられなかった。今週も、明日はグループホームの外部評価に行かねばならず、金曜午後には、土曜に長崎県島原市のケアマネ会の皆様の招きで行う講演会に出発しなければならない。施設に不在な日が多いことをお許しいただきたい。

来週以降は、なるべく施設に張り付いて遅れた業務も取り戻さねばならない。

さて防火管理者講習は、管理業務につくための義務講習で、大事な講習とはわかっているが、内容を鑑みて、すこし時間をコンパクトにして欲しいと思った。内容も講師がただ教科書を代読するだけのものもあり無駄な時間浪費、と感じてしまう。おかげで、土日は自宅で遅れた業務を取り戻すため、ほとんどパソコンの前から離れられないという週末であった。

さて、そうはいっても防火管理の体制自体は非常に重要で、これ自体は形式的にしたり、おざなりに取り組める問題ではない。

だから日ごろの訓練や点検は十分に取り組んでいるつもりであるが、しかしやはり一番の不安は夜間の火災などの事故である。どうしても昼間とは同じというわけにもいかず、特に夜中は100人の利用者に5名の夜間勤務者で対応しなければならず、実際の火災事故の場合は、本当にそれで充分かと疑念を持たない関係者はいないだろう。

だから我々介護施設は火災に有効とされるスプリンクラーが義務設置とされている。

しかしこれも昭和62年に、東京都東村山市・特別養護老人ホーム松寿園火災という大事件があった後に義務化されたもので、当施設でも最初から設置されていたものではなく、当時、今より小さな50人施設であったが、スプリンクラーの新設に数千万円の費用をかけている。

スプリンクラーの設置が、それほど有効なのか疑問視する人もいるが、実は、当施設は、その威力を実体験で経験している。なんとスプリンクラー工事が終わった数ケ月後、ランドリーのガス乾燥機から出火したことがあるのだ。

この部屋は、職員玄関近くで、機械が動いている間も、通常は人気のない場所で、もしスプリンクラー設置前であれば、気づかずに延焼したかもしれず、大変な事故に繋がりかねなかったと思う。しかし幸いにスプリンクラーが作動したことで、壁さえも焼けなかった。

作動中の水の噴出状況などを思い起こしても、この設備がある限り、施設が延焼することはないと思う。

まあ当時の火災は機械の原因で、施設の責任や過失はなかったわけだが、こうした状況を引き起こさない体制やリスク管理は充分行うことを前提に、それでも予期しない原因や、なんらかのヒューマンエラーに対応するための備えとしての設備は必要だと思う。

ところで今年1月の長崎県のグループホーム火災で、たくさんの命が失われた悲惨な事故を受けて、消防法が改正され、グループホームにも基本的にスプリンクラーが義務付けられる。

家庭用スプリンクラーでも数百万はかかるわけだから、ホーム側の負担は大きいし、中にはそんなお金が簡単に調達できるのかと憤っている関係者や、設置義務より、1ユニットで民家型は設置義務を課せられないという例外規定の方に関心の深い関係者もいる。

しかしそれは、どこかおかしい。小規模とはいえ最低9名の認知症高齢者の命を預かっているのだ。宿直から夜勤義務に夜間勤務基準が変わったといっても、9人に対し一人の職員で対応している状況は、認知症のかたがたという特性を考えても、夜中の火災の際、避難誘導が充分な体制とは考えられず、民家型だからこそ、延焼も速いだろうし、そこの手当てを充分していないと、人の命をお預かりする責任は果たせないのではないだろうか。

僕は生活施設は、すべてスプリンクラーを設置して欲しいと願う立場である。

なお明日は外部評価に出かけるためブログを一日お休みします。

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認知症の研修のあり方(最終章)

(一昨日、昨日からの続き)
認知症高齢者のケアを考える場合、我々の「関わり方」によって認知症の方の行動変容が必ずあるということを根拠とともに理解する必要がある。その中で、認知症の中核症状と周辺症状の違いを理解し、その中でケアの及ぶ範囲と及ばない範囲を理解する必要がある。

認知症の研修の企画をするならこの視点は欠かせないし、その視点がない研修は現場で参考となる研修内容にはならない。

ケアの及ばない範囲とは、中核症状の器質障害、つまりアルツハイマー型や脳血管性の見当識障害や記憶障害、ピック病の反社会的行為などであり、これに対し、ケアが及ぶ範囲とは、中核症状である障害が廃用により進行することと、(徘徊や暴言等の)周辺症状の全てである。

少なくとも周辺症状(我々からみた問題行動)はケアで改善する可能性があるのだ。

そのための関り方をどう考え、具体的に何をすべきかわかりやすく伝えられる講師や内容が求められている。認知症の原因や症状を聞いて終わったってしょうがないのである。

「重度の認知症の方の対応がわからない」という人たちは実は軽度の認知症にも適切に対応できていないのだ。ただ適切に対応できていなくても軽度の方々は混乱行動が激しくないから「軽度」と見られているのであり、適切に対応した結果が現れなくても、その「介護者」にとってさほど大きな問題と感じないだけの話である。

しかし介護者の大きな負担にならなくとも混乱症状である周辺症状を理解して対応してくれない認知症高齢者自身は、いつまでも不安と混乱を抱えたまま過ごさねばならないという意味だ。やがてそれらの方が不安行動を悪化させて「重度の認知症高齢者が多くなって困っている」と言われるのである。

対応困難と呼ばれる行動は、実は認知症が重度だから困難行動となっているんではなく、中核症状がもたらす不自由のための日常生活の中で困惑して生ずる不安と混乱がそれだけ大きいから、激しい行動になっているということでだ。

それは急に出現するというより、様々な本人にとっての危機による混乱が積み重なって現れる周辺行動が周囲の受け入れがたいほど激しくなっているという意味で、そうなる過程において必ずといってよいほど、問題となる周囲の対応がある。認知症の無理解による軽蔑や差別、暴力等である。

かつて書いたブログ「過去に向かって歩き続ける人々」の中でその具体例を僕は次のように挙げている。

例えばものをなくして見つけられない自分、そして失くすことを他者からなじられたり、怒られたりする自分であるかもしれない。物を無くしたことを忘れる自分は信じられないから「盗られた」というのであり、これを単なる「盗られ妄想」なんていって欲しくない。

おしっこを漏らしてしまう自分を受け入れられないことで、徘徊行動に結びつく高齢者も多い。
おしっこを漏らす自分は自分自信ではないと思う。だから「あいつ寝ているまに水をかけた」とか「人におしっこをかけられた」というんだ。これだって妄想ではない。自尊心の叫びなのだ。
このとき失禁する自分を受け入れられない高齢者の前で、介護者が失禁をなじるとしたら、これは居たたまれない気持ちになるのは想像に難くない。


こうした行動は多くの場合、初期段階の適切な対応で防ぐことができる。激しい混乱に対しても
介護者や周りの人々が、その混乱の意味や原因を共感的に理解して、受容的態度で対応することで、軽減できたり消失したりする。

つまりは相手の立場に立って行動を理解し受容するという介護の基本姿勢そのものが実際のケアの現場で守られているか否かという検証が必要なのだ。

そもそも認知症高齢者のケアは苦手だけど、認知症のない高齢者には非常に優れたケアを行うことができる施設なんてあり得ない。その逆もしかり。認知症高齢者の方々のケアだとて通常のケアサービスの延長線上に位置するものだ。本当に日ごろから高齢者の尊厳や暮らしを守るケアを行えているのかということが問われている。

ただ勘違いしてはいけないのは、優れた講師が、講義の質疑応答で「徘徊行動を緩和させることはどうしたらよいですか」という質問に確実な処方は出せない、ということである。それは一般論ではなく、個別の利用者の視点が必要だし、貴方が今までその方にどのように関わっているんですか、ということがわからないと答えられないのである。

しかし一つ確実なことは「認知症高齢者のケアだからといって特別なことは何もない」 ということだ。

そうすると認知症高齢者のケアに対する研修では、介護サービスの本質を認知症の方々へのケアと関連して語ることができる講師でなければ務まらない、という意味だ。

認知症の原因や行動をいくらレクチャーしたところで、必要な対応の根拠となる「人間理解」を語らねば意味がないし現場で役立たない。

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認知症の研修のあり方を考える(中)

(昨日から続く)
このテーマは2回で完結させる予定であったが、重要な要素が数多く含まれている。その一つは、果たして認知症ケアという特別なケアが本当にあり得るのか、というテーマである。このため明日も含め、3回完結としたい。今日は2回目、中篇である。重要な視点は明日の中で示すことになるだろう。

さて、認知症ケアの原点は、周辺症状に対してのもので、それは中核症状がもたらす不自由のために日常生活の中で困惑して不安と混乱が生ずることで出現する行動であるという理解が必要である。

一方、中核症状とは、何らかの原因で引き起こる能の器質変化による、器質性症状と廃用症状を言うものであり、少なくとも器質性症状は脳の障害そのもので我々のケアが届かない範囲である。それが器質症状より低下するような廃用に結びつかないように「生活支援」の中で「できないことは無理しないけど、できることは支援しながら残す努力をしよう」という部分で廃用症状にはケアサービスの手が届く。

このあたりの理解がないと、認知症ケアの研修効果など期待できない。

そうすると両者の理解という意味で、医師の専門領域の研修もまったく意味がないわけであるが、そこから周辺症状の対応まで現場で現実的に役に立つ視点から話をできる、実際の現場を経験した医師がどれだけいるかという部分で疑問が出てくる。

むしろ現場の実践家が中核症状の理解を含めて、周辺症状への適切な対応方法を示す内容のほうが求められているものではないのか?

介護者がもっとも困難を感じる認知症の周辺症状は、暮らしの中で適切の対応することで改善もし、不適切に対応することで悪化もする。つまりはケアと関係が非常に深く現れる症状だという理解が必要だ。

いかに我々が不適切な関わりをしないかということがポイントである。そのために過去の生活習慣などから、認知症高齢者の「その人らしい」生活、その人らしさを理解して、周辺症状も彼らの表現の一つとして理解することだ。

僕は認知症の方々でも、感情は最後まで残る。特に「イヤだ、嫌いだ」 という感情は残されている、と言っている。さて、そこで認知症ケアの重要なポイントを極めて素人的に表現すれば、介護者は認知症高齢者に「嫌われる存在」にならないこと、あなた自身が認知症高齢者の「嫌いな人」になれば、それが認知症高齢者の生活上の混乱要素になり、生活障害そのものになるんだ、ということである。

周辺症状は認知症高齢者の生活上の「小さな危機」の訴えなのであり、介護者が「危機要因」 になっては困るのだ。

そうするとどのような研修が求められてくるのか大枠は見えてきたと思う。

しかし、ここでよく考えてほしいことがある。それは認知症の研修で、受講者がそこに求める声の中に「重度の認知症の方との関わりが増えてきて、著しい問題行動(周辺症状という言い方はまだ浸透していないなあ)にどう対応してよいかわからない」といことである。

「重度の認知症の方への対応が難しい」という声は、僕が介護新聞に連載していた際に、認知症をテーマに取り上げたときにも、幾人かの方からご意見をいただいた際にも聞かれた。

しかしそうした悩みをもたれている方に逆に質問したいのだが「では重度でない認知症の方への対応は充分なのですか」「重度でない認知症の方の対応には困っていないのですね」ということである。

そして最初に書いたように、認知症の方に対する特別なケアってあるんですか?という問いかけである。
(明日に続く)

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認知症の研修のあり方を考える(上)

とにかく忙しい。今日はこれから中央競馬・馬主協会社会福祉財団の補助目録贈呈式の為、函館に向かう。明日と明後日は、防火管理者の講習を受けなければならない。施設の中で忙しいのは苦にならないが、移動や、義務講習で時間がつぶれるのは苦手である。

ということで、このブログは朝書いている。まだ起きていないから、論旨に自信はないが、昨日、認知症の研修の件で、ちょっとした質問を頂いたので、今日と明日、早起きして、そのことを書いてみようと思う。

先日参加した認知症高齢者の研修会の内容について「医療現場の認知症ケアは介護施設より5年遅れ?」という内容で報告している。

少なくとも介護現場で認知症高齢者の方々とお付き合いして、ケアの方向をある程度見つけ出している者にはその講演内容は役に立たなかったし、介護現場の職員として、これから認知症の方々のケアに携わるに当たって、ケアの方向性を学ぼうとする人たちにも、その内容は必ずしも適切ではないように思った。

問題の本質は、認知症の研修だからといって、物忘れ外来や精神科の医師を講師に呼べばよいだろうという考え方が間違っているというか、安易過ぎるのだ。認知症を医療の問題として捉えてよい部分と、そうでない部分があるという基本的なことがわかっていない関係者が多すぎる。

我々が介護現場で取り組まなければならないのは、認知症の「周辺症状」との付き合いである。

周辺症状(以前の言い方は問題行動;徘徊や異食行動などのことである)の原因の理解がなくて、ケアの方向性も見つけ出せない。少なくとも周辺症状のケアに対してかつて参考になった「医師」の講演はなかったといっても過言ではない。

研修会を企画するなら、もっとテーマを深く考えて、何を誰に伝えるか考えなければならない。

例えば、在宅でケアする家族に対して認知症とは決して恥じたりすべきものではなく、老化の1現象、あるいは病気の一つであることを理解してもらうために、認知症の中核症状(脳の気質変化に伴う症状:見当識障害や記憶障害のこと)について医学的見地からレクチャーしたり、あるいはそれを引き起こす病気や生活上の危険因子をレクチャーするならば、専門の医師に担当してもらうことは良いかもしれない。

特にピック病は局所性脳萎縮(前頭葉や側頭葉のごく一部分)であるがため正常な部分が多く残っているのにも関わらず、反社会的行動が出現しやすく、しかもまったく病識がない認知症であるという特長についてなど、アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症との違いを医学的見地から考察する場合は、医師の講義も良いだろう。

僕は、ごみ屋敷の住民で地域に迷惑がられている人とか、近隣に騒音を撒き散らして反省のないおばさんとか、万引きを繰り返しても罪の意識がない高齢者の何割かには「ピック病」の人が混じっていると思っている。

まあこういう講義内容なら医師ではなくとも僕でも出来るが・・・。

しかし周辺症状の理解やケアに話が及び、その様々な症状といかに付き合うかという内容は、むしろ医師よりグループホーム等の優れた実践家・介護職員や相談員を呼んだほうがよいだろうと思う。

医師を講師に呼ぶ認知症研修は、認知症の中核症状の理解というテーマに限ったほうが無難という意味だ。(もちろん、そうではない医師の方もいるだろうが、そう多くはあるまい)
(明日に続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

新しい加算算定ルールへのぼやき。

介護報酬の見直しのたびに給付費抑制の面から、施設サービス費も本体報酬が減らされ今後も厳しい状況が続くだろう。

その中で、実績加算という報酬加算が様々なサービス分野で新設され、そのルールに則った算定で、減収分を補うという視点は当然出てくるわけである。それが必ずしも悪いこととは言えないが、施設の管理者が経営面から加算算定を急ぐあまり、現場の体制や能力を無視し、あるいは適切な人的配置を行わないのに、書類だけ整え加算を算定しようとすれば、これは介護サービスの質の向上に繋がるどころか、記録あってサービスなし、という状況を生む可能性がある。

そしてそのことが現場の専門職員のモチベーションを下げる可能性がある。これは注意しなければならない。加算というものは実効性のある高品質なサービスに対して算定されるという基本を管理者は理解して、形を重視する前に、介護サービスとしての高い理想を掲げて専門職のモチベーションをあげる必要があると思う。

さて、そうはいっても、この加算ルールのいくつかは、本当に国は現場の状況をわかって作っているのか疑問となるものも数多い。

今日は僕の「嘆き」が半分以上あると理解して読んでいただきたい。

僕は現在は施設長であるが、3月まで現場の介護支援専門員として業務に携わっていたわけであり、この施設のケアプラン作成評価システムはほぼ一人で構築して、その作成作業に当たってきた。4月以降も、介護支援専門員に徐々に仕事を手渡しているが、現場でのサポートやケアカンファレンスの参加は現在でも行っている。この一連の作業におけるケアマネの大変さ業務量の多さは肌で感じている。

そして計画については半年毎に見直しを行っている。半年といっても100人+α(新規入所者)を最低半年に1回はモニタリング表を作って、再アセスメントを行い、カンファレンスを開いて、計画の再作成を行うわけで、月に17人以上実施しないとならない。

我々の介護サービスは直接現場で利用者と向き合って提供されるサービスが重要なわけだし、人手だって常に足りているわけではない現状において、大事なケアプランだとて、サービスの現場から介護職員が離れて会議を行っている時間は、現場で様々なしわよせやひずみが生じる可能性があるわけだから、カンファレンスの時間短縮は重要な課題で、そのため事前資料や事後資料の作成にケアマネは多大な作業時間を要している。

それでも現状、ぎりぎりの作業である。

ところが4月からの新たな加算ルールである栄養ケアマネジメントや老健と療養型のリハビリテーションマネジメントの加算算定ルールにおいて、それぞれの計画は3月毎に作成が必要とされている。

栄養ケア計画にしても、リハマネ計画にしても、それは施設介護計画と連動しているもので施設のケアプランにも、その計画内容は反映されなければならないので、それらをまったく別個に作成するのは作業効率としても問題なわけで、結果的に、栄養ケア計画やリハマネ計画はケアプランの中に組み入れている施設も多いし、どちらにしても施設介護計画自体3月毎に見直し再作成が必要となったと言える。

これは大変な作業量で新規入所者を考えたら毎月35名のプランをカンファレンスを開催して作成しなければならない。これでは施設ケアマネはケアプランナーだよ。

僕は施設ケアマネの役割についてかねてから、ケアマネジメントの専門技術を使ってスーパーバイザーの役割も担えるソーシャルワーカーである、と言い続けている。しかしこれらの状況でプラン作成作業の一連の過程を見ると、この作業をかなり機械的にこなすか、どこかで手を抜かないと、数としてこなすのは難しいのではないかと感じてしまう。

サービスの質の担保に必要な計画に、これほど時間をかけて効果と比較したとき、それが果たして適切なものだろうか、大いに疑問を持っている。これはケアプラン作成作業を適切に行い現場に必要なツールとして有効なものを作っている施設であればあるほど感ずる矛盾と思う。

役人は、自分たちの机上作業で物事を考えすぎて、介護の現場で我々が提供するサービスの実態を知ることなく方法やルールを考えているのではないかと日々ぼやきながら、方法を改善することに頭を悩ます今日この頃である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

食を考える素人の視点の大切さ。

介護サービスを考える視点について「蟻の視点、鳥の視点」という言い方で、ミクロとマクロの見方が必要だと言われることがある。

現場でまさに利用者と関わってしかわからない問題がある反面、その問題や課題を考える際に、どっぷりと現場にのめりこんで、そこでしか発想しないのでは見えてこないものがあり、一歩引いて、大きな視野で全体を見ることも大切な視点であると言う意味である。

それと似た考え方であるが、施設サービスを考えるとき、僕は専門家の視点のほかに、素人の視点という面からも考えないと「施設の常識が世間の非常識」となる危険性を常に内包していると考えている。

介護施設では「給食会議」という食事の問題を多職種で議論する会議が定期的に行われる。その中で、様々な問題が討議されるのであるが、食事内容の評価という問題になると、介護職員の意見は、主に「摂食介助が必要な嚥下障害がある利用者」を代表する意見に偏りがちになる傾向にある。

たしかに特養には摂食障害という生活課題を持つ利用者も多いし、そのことは重要な問題であるのだが、それらの方々だけに目を向けて「食」を考える視点が強すぎると、高齢者の食事はできるだけ飲み込みやすく、小さく、やわらかく、という視点に偏る傾向にある。

普通食で自力摂取している利用者の声は届きにくくなるというより、はじめから問題がないので無視されてしまう、という恐れがあるのだ。これが極端になると、味や見た目が二の次になる、一般家庭の食卓にのぼらないようなものが「当たり前」に施設利用者の食卓に並べられ、食事なのか薬なのか、はたまた餌なのかわからない、という状況が生まれないとは限らないのだ。

「餅」を例に挙げて考えると、この食材は嚥下障害のない高齢者でも「のどつまり」で毎年死者が出る「あぶない食材」として認識されている。このため餅を出す際の、施設の注意は並大抵のものではないが、このときも「のどつまりをしないように」という視点のみで、嚥下力が低下した人だけを基準に提供方法を考えてしまうと「なんだか餅を食べてるんだか、何を食べてるんだかわからないねえ」というまで細かく、小さく提供しないと心配だと言う変な状況が生まれる。

まさに蟻の視点からしか発想しないときの問題である。

嚥下障害のない人は、その人なりに、好きな形や、調理法で食べたいのだし、それが出来るように、わざわざ杵と臼を使って餅つきを行い、その場で調理して食べてもらうのである。その意味を考えながら、「食」としてのあり方を考える視点が必要だ。

それは鳥の視点という面と、当たり前のことを当たり前として考える「美味しくなければ食べたいと思えない」という素人でもわかる視点である。

栄養ケアマネジメントやその計画にしても、単に食事を「介護予防や健康管理」の方法としか考えらないマネジメントでは困る。あくまで「食べることの喜び」が前面にあってしかるべきだ。

数値による低栄養を、プロテインなど補助食材で補おうという方法が行われているが、本当に高齢者が毎日続けられる方法なのだろうかということが、味とか見た目とか、においとか、総合的に考えられなければ栄養ケアマネジメントはおかしなものになる。低栄養の改善だけの方向でしか考えられないのであれば、これは食の問題ではなく治療としての医療サービスになってしまう。

医者ではなく、栄養士がマネジメントすることの意味は、それが「食」という人の喜びや満足感に繋がる自然欲求に対してのマネジメントであるからだろう。

「まずい!!もう1杯」というのはCMの世界だけの話で、美味しくなければ続けられないし、苦痛が伴う食事提供サービスなど、本来の「食事」ではない、という視点が大事ではないだろうか。

そのときの視点が、栄養士としての専門職としての視点と、食べる側である利用者から見た「素人」としての視点と、両者を見つめることが出来るのが真の管理栄養士の役割ではないだろうか。

少なくとも僕は、給食会議では、できるだけ福祉の専門職ではない、一般家庭の「お父さん」の視点から物を考えていこうと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

風のlonely way

いつも強くは生きられない。

いつも前だけを見ていられるわけではない。

誰かを支えるより、誰かに支えてもらいたい。

笑うときがつらいときがあるよね。元気って憎らしいときがあるよね。

そんな僕の思いを、そんな君の思いを、誰もわかってくれなくとも時は流れてゆくんだ。でも、君にとって、それに耐えることができる場所と、時間が見つけられなかったんだね。

でもね、いつか君をわかってくれる人や、時間や、風や、雲や、宇宙があるよ。

君は必ずいつか幸せになるんだ。それは決まっていることなんだ。だからあきらめちゃあいけない。君はここに生まれてきた意味があるんだよ。君はここに必要なんだ。

少しだけ顔を上げてごらん。君を笑う人、君をののしる人、君をさげすむ人、君に唾をはきつける人、君の心をぐちゃぐちゃに踏みにじる人、その人たちの顔を見てごらん・・。彼らの顔、醜いだろう、そしてそれは、彼らの心の荒野を現しているんだ。

可哀想だろう。哀しいだろう。救ってあげなきゃあ・・・。

死んじゃいけない。死んで思いを伝える前に、君にできることはもっと限りなくある。それをわかってくれる人が必ずいる。

君の思いを、君の生き様の中で伝えることは大切なことだと思うよ。そしてそれは君にしかできないことだから。

介護サービス調査で役立つこと、無視すること。

昨日のブログで書いたとおり、この評価事業の構造的問題は数多い。

ただ調査され、その結果を公表される施設や事業所は、ただ単にその問題点を批判するだけに終わることなく、役立つ部分については目を皿にしても探しだして、すこしでも事業運営に役立てなければならない。

何しろ納得いかなくても数十万円のお金を支払っているのだ。ただ義務的にサービス内容を公表されるだけに終わってしまっては、あまりにももったいない。サービスの向上に役立てなきゃア。

そう思って、調査項目をいろいろ検証した。昨日示した過去のブログで指摘しているような問題ある調査項目もあるが、しかし調査を受けて僕自身気づかされたこと、反省すべき点もある。

例えば、職場の倫理の問題である。このことは極めて重要で、朝のミーティングのほか、機会あるたびに会議や回覧プリントで様々な形で職員には教育してきたつもりである。

ところが今回、通所介護の調査項目の自己評価で「出来ていない」という部分に、この倫理に関する項目が入っている。それは「従業者を対象にした倫理及び法令遵守に対する研修の記録がある」という部分である。日常的に話し合っている問題であることで、施設内研修等で取り上げるテーマとして「倫理や法令遵守」を挙げていなかった。しかしここは重要な課題として研修計画にもきちんと入れるべきだと反省した。

また各種マニュアルについてであるが、必要と思える「事故防止・対応」や「感染予防」とか「身体拘束防止」「個人情報保護」などといったものは独自に整備していたが、ケアに関する部分はマニュアル化してしまうと、かえって職員の気づきやサービスの品質の足かせにならないかと考え作っていなかったものもある。

しかし新人職員等のガイド的役割や、サービスの最低基準を下回らない品質水準の一定化とか、感覚で行っていたケアを言葉にすることで職員間の共通理解が得られて点を考えると「認知症高齢者のケア」とか「介護マニュアル」とかはある程度整備しておいたほうが良いと考え、作成してみた。

読むだけで大変で、役に立つのか、という疑問も出されているが、やってみる前に結論を出す必要もない。いらなかったら捨てるだけだ。やらない前からネガティブにしか考えられないのが一番サービスの質向上の足かせになる。

ただ、顧客の顔色、心の動きを読み取る視点がなく一律「ポテトはいかがですか」というマニュアル介護職員を現場で作り出さない責任は管理者にあり、それは教育・育成の仕方の問題だろう。

ただどうしても受け入れられない内容の調査項目もある。

今回僕が疑問に思った通所介護の評価内容の中で「利用者の家族と交流を行っている」→家族の参加が確認できる行事等の実施記録等、という項目がある。

家族との交流自体は大切だが、これが通所介護サービスの目的として妥当だろうか。

通所介護の最大の目的は、社会的な役割や関係の複合的喪失期において、社会との接点を失うことなく他者との関係を継続できる「引きこもり防止効果」であると思っている。そういう意味での他者との交流機会は大切であるが、家族との交流まで居宅サービスの通所サービスに求める必要があるだろうか。大いに疑問である。

通所サービスのひとつの目的としても、家族の介護負担を減らす休養という意味のケースもあるだろうし、通所事業所の中で馴染みの関係を作り出してサービス提供をするという目的があり、家族との交流機会まで求める点がこの目的と相反する部分がある点の考察は出来ていないのではないかと感じた。

行事に家族を呼んで一緒に行うと言っても、必要なサービスを充分に提供する体制の中で、そのことも可能となるのか、可能となっても意味があるのか?

本来それは保険外事業としての「特別な行事」の範疇で行われるべきであろうし、そうであるならこの評価項目には入れるべきではない。

なんでも家族を巻き込んでのサービスが優れているという考えは、どこかが違っている。通所サービスという居宅サービスの特性を鑑みたとき、もっと大切な視点があるはずだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護サービス情報の公表に関わる調査を受けている!!

今日は居宅介護支援事業所と通所介護事業所の外部調査の日である(特養は21日予定)

公表制度については「介護サービス情報の公表と第3者評価はケアサービスの質を担保しない」で問題点等を指摘しているものの、これを実施するのは法律で定められた施設や事業所の義務であり、調査に対しても真摯に対応せねばならないことは言うまでもない。

ただ調査費52.200円公表費14.100円を各施設、事業所ごとに払っているんだから(当法人は1施設2事業所だから合計198.900円である)この制度が費用負担に見合った内容になっていかという検証はしたって罰が当たらないだろう。

調査内容自体の未熟さは上で紹介したブログでも書いているし、その他にも「介護サービス情報公表制度の調査〜その笑える内容」で指摘しているところで、居宅介護支援事業所の調査内容にも「経営改善のための会議において〜検討された記録がある」というように一人の事業所は全部0(行っていない)となるような変な項目もあり(法人内でその検討は行っていても調査項目にないから反映されないってさ)今後の改善が必要だ。

また調査自体は報告書の書面確認で「出来ている」という項目についてその確認書類があるかだけであり特にコメントする必要もない。

調査員の対応は適切かつ真摯なものであり、価値観の押し付け的なものもない。ただ掲示が必要とされている書類について、あまりにも多いので僕の施設や事業所ではそれぞれ冊子にして掲示板に掲げているが、それぞれのページを開いて内容が見えるように「掲示してほしい」と言われた。これには閉口!!壁が書類で全部埋まるよ。

掲示とはそういう方法のみではないだろう。それはさておく。

今回は、この調査を費用算定基準からに絞って問題点を考えてみたい。

しかしそのことを言うと国は調査費や公表費について「給付費に上乗せしている」から施設や事業所がとやかく言う問題でないと言うだろう。しかし各都道府県の条例で定め、全国一律でない調査公表費に対し、この言い分は通用しない。

しかも4月の報酬改定でほとんどの事業は給付費を下げられているのだ。特養は基本報酬について多床室が20単位減らされ、そのほか変化があったのは各加算分だけである。この状況で費用上乗せと言われても信用できない。それはただ単に国の概念上の問題だけで、明らかに費用は施設等が持ち出しているのだ。

さてそこで問題点を考えてみた。

調査費の52.200円の算定根拠は、調査員の報酬32.000円→これは国勢調査の調査費用基準8.000円を根拠に2日間で2人の費用、つまり8.000円×2人×2日間であり、それに加え交通費の平均費用を8.000円として合計40.000円が調査報酬費、残りの12.000円は通品費+運営費である。

すると今回、2事業所で52.200円×2=104.400円の調査費を支払っているにも関わらず、調査は2事業所を同時に行っている。

13時から通所介護の調査を行うが、これも15時頃には終える予定であり、今日の調査はわずか 6時間程度で終了する予定である。すると、それぞれの事業所に2日間の調査費用を積算し根拠にしている点において、調査費用の過払いが事業所側に生じているのではないかという疑念が生ずる。加えて2事業所の調査を1日で終える場合、交通費の積算根拠にも疑念が生ずるのである。

まあこれは本当のところ、この費用が算定根拠の積み上げで出された費用ではなく、公表センターや調査機関が人員を配置して運営するのに年間いくらかかるかという総額がまず先に来て、それを調査対象事業所の数で割った費用を計算し、それに根拠費用をこじつけたに過ぎないので、必ずしも調査機関や公表センターが「儲けすぎ」ということではないことはわかっているのだが、調査員の報酬は支払い実費の計算で計上しているんだから、実際に支払われていない費用は調査費から除外すべきという論理は充分成り立つと思っている。

これに公表センターはどう答えるのか。

表の掲示板で指摘した調査機関の不適切な対応も含めて道の公表センターには質問状を送りたいと思っている。

介護・福祉情報掲示板(表板)

「言葉遣いにうるさいことは強制労働よりひどい」という批判に対して。

三好春樹氏といえば業界では超有名人だ。彼の介護の世界に残した功績は今更いうまでもなく、生活リハビリや利用者の視点から見た認知症高齢者への関わり方など、我々が学ぶべき点は多い。

それに対して私ごときが意見を述べる立場にはないが、ただある職員から氏の著書の文章を引用して疑問を呈せられたので、意見を述べさせてもらう。

かねてより私は介護施設における職員の言葉遣いは「介護保険施設の割れ窓理論」として、その乱れは問題であることを指摘してきた。

しかし三好氏の著書「ねたきりゼロQ&A」のQ52、言葉遣いにうるさい施設長、という問いの中で「言葉の強制は強制労働よりひどい」として次のように書かれている。

『そもそも私は施設長が介護職員に言葉遣いをよくしろ、と説教したり、チェックしたりすることは問題があると思っています。言葉には二つの側面があります。一つは規範としての言葉です。もうひとつは自発性です。言葉を通して自分自身の内面を表現するという側面です。同じ言葉を使っても人によって意味が違ったり、比喩になったりするのがそうです。人に言葉を強制するのは、こうした自発性を抑え、内面を管理することに他なりません。かつての社会主義国では権力によるこうした強制を拒否した人は、収容所で強制労働をさせられました。そうしてまで自分の内面を守った人が大勢いたのです。私は言葉の強制は労働の強制よりもっとひどいことだと思っています。施設長は一人ひとりの職員から自然に優しい言葉が出るようになるかを考えるべきなのです。職員が喜んで働ける環境を作ったらどうでしょう。現場の人を監視し言葉狩り、をするよりはるかに職員も老人も元気になると思います』

後半部はともかく、強制労働と言葉の修正教育を一緒にするのは間違っている。

言葉は時に刃物だ。

言葉で人の心を傷つけることは簡単だ。そして、そのことに気づかずに不適切な言葉を日常的に使ってしまう職員がいることも事実で、利用者を守るためにも適切な言葉の教育としての訓練は必要で、不適切な言葉遣いが「言葉を通して自分自身の内面を表現」という理由で許されるものではない。

介護現場で「利用者の心が傷つく」状況と「職員の自分自身の内面を表現」のせめぎあいが起こるとしたら、僕は迷いなく利用者を守る。

「自分自身の内面を表現」といっても言葉の適正化を図る取り組みは、職場という機関における就業中のルールに過ぎず社会規範の範囲で、こんなものを強制労働に結び付けて論ずるほうがどうかしている。

「ひとりの職員から自然に優しい言葉が出るよう」な環境づくりは、適切な教育育成体制も含めて考えるもので、一方的に命令指示するという思い込みで変な指摘をしてほしくない。

我々が職場で行っている取り組みは、言葉の強制ではなく、言葉の大切さの意味を職員全員で理解して、適切な言葉を使いながら、良いサービスを実現しようという取組である。こうした取り組みに水を差すような大衆迎合的・不適切ケア迎合論文は百害あって一利なしである。

僕が職場で職員の言葉の大切さを職員に語る際に使った最近の文章を以下に掲載する。

『我々の施設の「声かけ」や介護サービスについて、あらためて振り返って考えて見ましょう。
特養での言葉の虐待の問題が大きく報道されています。
しかし少し油断すれば、似たような状況が気づかないうちに、この施設でも発生するかもしれないと思います。

虐待をする職員、言葉の虐待を行う職員すべてが日頃から「悪いやつ」といえるかといえば、そうでもなく、ごく普通の人が慣れから不適切な言葉や態度に気づかず、それがエスカレートして、密室場面でそのような不適切な態度をとることに罪悪感を感じなくなってしまうという恐ろしさがこの問題には含まれていると思います。

当施設でも日頃から外来者への挨拶をしっかり、はっきり大きな声ですること、利用者の声かけは「丁寧語」を基本として親しき仲にも礼儀ありということを忘れないように呼びかけていますが、なかなか日常的に守ることができない職員もいます。

外来者に挨拶ができない職員。利用者に命令口調や友達言葉を使ってしまう方は是非気をつけてください。さすがに虐待と思うような言葉かけに遭遇することはありませんが、「冷たい」印象を感じたり、「命令」的な雰囲気が感じられる言葉に出会うことがあるのは事実と思います。

また例えば食堂で食事介助をしている場面で、利用者や食事とはまったく関係のない話題を職員同士で話している場面がないとはいえません。これも不適切であることは間違いないし、利用者を無視した虐待的態度ととられても言い訳ができないと思います。他の介護場面、入浴介助や排泄介助の際もしかりです。

介護サービスの評価は、良いサービスを行っているかという以前に、不適切なサービス、特に利用者が「嫌だ」と思うサービスではないか、という検証がまず必要だということが重要な視点です。

利用者に信頼され喜ばれることが、この施設で働く職員のモチベーションにもなるし、それはとりもなおさず職員として品質の高い適切なサービスに携わるということです。

なにより介護は人を幸せにする支援なのですから、介護者や介護施設の職員が、人を不幸にしたり、悲しませる要因になってはいけません。』・・・以上である。

こと、この問題に関しては、いかに偉い先生の考えであろうと、僕は譲ることは出来ないのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

医療現場の認知症ケアは介護施設より5年遅れ?

当地域のケアマネ会は近隣の3市1町合同で毎年研修会を開催している。

今年もその研修が昨週の土曜日に開催されたが、テーマは「認知症高齢者を地域で支えるために」とし、講演を2題行った。

テーマの設定自体はタイムリーだし、地域の居宅介護支援現場で、認知症高齢者の支援に困難ケースを抱えるケアマネにとっても興味ある内容と思えたが、いかんせん講演内容が疑問符である。ソフトとしてみれば明らかに失敗であろう。

特に認知症の高齢者の理解というテーマで「物忘れ外来」を開設する医師の講演が行われたが、講演中、僕が臨席のケアマネと小声で話して一致した意見は「当たり前のことしか言わないね」ということである。

つまり我々介護現場で認知症高齢者のケアを専門的に研究する立場のものにとって、それはわかっているから、という内容なのだ。

おそらく、講師はこの種の内容の講演自体は数多く行っているのだろう。パワーポイントの資料も図表も交えてしっかり作られていることでもそれはわかる。

しかし、その対象は、せいぜい認知症を抱えて対応に戸惑う家族とか、認知症のキャラバンメイトが一般市民のサポーターを養成する際の内容でしかない。もしかしたら医療現場の関係者がこの内容を聞いて「新たな発見」がある講演と思うとしたら、医療現場の認知症ケアは介護現場と比べて、かなり遅れているということだろう。

その証拠も講演の中身に数多く見られる。講演の中で講師が「認知症高齢者は何もわからないのではなく喜怒哀楽の感情は最後まで残っている。このことに最初気づかなかった」と言っているが、少なくとも介護の現場では、こんなことは20年前に言われていたことで、特に喜怒哀楽の感情の中でも「嫌だ」という感情に目を向ける重要性については、認知症高齢者の混乱原因である「自らの生活場面に起こっている本人にとっての小さな危機」のサインを見逃してしまうことが周辺症状の悪化原因であるという意味として繰り返し述べてきた。

このことは僕が10月まで連載していた介護新聞のコラムの中でもいくつか取り上げているので「現場の風〜新たな時代への対応〜北海道医療新聞社「介護保険新聞」連載コラム(06.4月〜10月)」
を参照いただきたい。

「認知症介護の基本」「やってはいけない行為」という内容も、要は受容する方法を書いているのであるが、その前提が認知症の周辺症状が、周囲の人々の価値観で認知症の方の行動を判断することで生じる「無理解への反応」「混乱」であるという意味が抜けている為、有効な処方箋にはなり得ない。介護支援専門員を対象とした講演内容としてはレベルが低すぎると思う。

この講演内容しか理解していないとしたら、個々の困難ケースの対応について、質問しても、おそらく的確な回答はないだろう。

なぜこのような内容の講演を、認知症外来の専門医という立場の人が行うのかというヒントが、講演内容の「認知症ケアの歩み」を見れば理解できると思う。

その内容は、
1970年代→ケアなき混迷の時代:抑圧・保護・監視中心
1980年代→集団・管理的ケア:治療優先・回廊式
1990年代→意識改革:ケアの中心・集団から個別へ
2000年代→改革・実践の時代:利用者中心ケア

と書かれている。しかし事実として言っておく。介護の現場で1980年代は集団管理ケアから個別ケアへの視点変換がすでに模索されていた。僕は昭和62年頃、まさに80年代に全道の老人福祉施設職員研究大会で「痴呆老人のケアに関する1考察」というテーマで研究発表を行っており、この中で徘徊の原因を、個別の理由として捉えて、個別のかかわりをする必要性について現場での実践と絡めて報告している。その当時でも古い施設に見られた徘徊を放置するのがケアと勘違いするような「回廊式施設」は既に批判対象であった。
(ただ当時は、その処方箋;具体的ケアの方法が対症療法に限定されていた向きが否定できないが)

明らかに介護現場のケアは医療現場よりすすんでいたのである。

そのケアの歴史を見ると、その転換過程は、問題対処型ケア(徘徊、弄便、帰宅願望、異食等を問題とし行動を抑制したり対症療法的にケアを展開)1980年代前半 → ケアのプログラム化(〜療法、〜レク等、グループワーク中心のプログラム優先ケアが中心 (一部でこれは訓練化、個別性や主体性軽視の傾向と誤解や批判が生じた;ただしそうではないグループワークもある;回想法や音楽療法などは現在でも有効になケアの方法のひとつだ)19980年代後半から1990年代後半まで → 生活支援型 (できること、やってきたことなど生活行為の復活、暮らしを基本とした環境、馴染みの環境、馴染みの関係を重視したケア)1990年代後半から(グループホームのユニットケアの方法論の影響が大きい)

という過程と思う。

つまり「改革・実践の時代」ということを単に「利用者中心ケア」と言っても意味がないのであり、利用者中心ケアとは何か、ということを説明できない内容では役に立たないのだ。その意味がわかってこそユニットケアの優れた方法論から、個々の認知症ケアの具体的実践方法を見出せるのである。

今、介護の現場で行われている「利用者中心ケア」とは何でも自立支援が大事という視点ではなく「その人なりの生き生きとした生活とは何か」ということを介護者が認知症高齢者とともに生活する中で考える視点であり、その実践方法である「生活支援型ケア」とは、できないことより、できることに目を向けて、つきまとわないで、自然に寄り添うケアである。

「出来ることは」は昔なじみの物品や生活習慣を利用したり尊重したりして、支援するけど「出来ないこと」が混乱要因にならないように、そこは支援していきましょう、という視点であり、無理に強いない、という視点だ。

少なくとも医療現場の実践方法が我々の教師になることはないようである。

認知症の中核症状を医学的見地から研究する講演であるならともかく、周辺症状の対応を考える内容の講演であれば、医師よりふさわしい立場の介護実践者は「あまたいる」と考えたほうが良いだろう。

認知症外来の医師=認知症ケアの専門家、という理解は間違いである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

シンジラレナ〜イ!!・・北海道最高。

年末になると流行語大賞というのが発表されるが、北海道の今年の流行語大賞を選ぶとしたら、間違いなく「シンジラレナ〜イ!!」だろう。

もちろんファイターズのヒルマン監督が勝利監督インタビューで発する常套句であり、札幌ドームでは、いつからか4万人の観客と一斉に「シンジラレナ〜イ!」を大合唱するのが勝利の後の「いつもの風景」になっている。

その声を、そしてスタンドの9割を埋めるファイターズファンの熱狂的な応援を、昨日はテレビ観戦した皆さんが多いのではないだろうか。

まことに申し分けないのであるが、僕は平日の通常勤務であるにも関わらず、午後から有給休暇を頂いて4万超の観客の一人として札幌ドームで声をからしていた。職場の皆さんご協力有難う。

しかもさらに不届きといわれるかもしれないが、プレーオフも日本シリーズも、チケットを取ることさえ難しい状況でドームの中で北海道の歴史上初めての「胴上げ」を見ることができるチャンスにめぐり合える人は本当に「幸運」であったのだが、僕は2度とも「そこにいた」のである。

両方の胴上げの歓喜の場に居合わせることができた人は道民でも何人いることか!!

新庄選手の涙にも感激させられた。ナインが彼に感謝しながら駆け寄る姿、胴上げがマウンド付近でなく外野近くで行われるのも異例だろう。いいものをみた。

彼のことは実は4月に書いている「テーマのない日〜シンジョーのこと。」

彼が多くのファンの心をつかむのはパフォーマンスが派手だからではなく、そこにファンを思う気遣いとか真摯な気持ちがあるからで、それが伝わるからである。目立ちたがりやの派手な人ではなく「気遣いの人」というのが彼の真実の姿だ。

その証拠が北海道の至るところに逸話としてある。タクシー内で運転手にサインを求められて「僕は色紙にしかサインしない主義だから」といって断ったかと思ったら、コンビニにタクシーをとめて自ら色紙を買いに行った、という話は有名である。

それから北海道のファンの応援スタイルも独特なものが作られた。一番誇るべきは「応援するとも非難せず」というスタイルで、札幌ドームで相手チームに対する「野次」を聞いたことがない。

他のチームの応援と違うもうひとつの特徴はトランペットなどの鳴り物を使わないということだ。太鼓は控えめに使っているが、ほとんどがファンの声とメガホンを打ち鳴らす音で、それが球場全体の一体感となっている。

ドラマ「北の国から」の「う〜う〜ううううう〜」という、さだ まさし作曲のテーマソングも応援ソングのひとつであり、この大合唱もすごい。

どこかの金持ち球団の「うるさい」応援スタイルとは一線を画している。これも道民の誇るべきスタイルだろう。

ともかくあの場所にいた人にしかわからない感激がまた球場に足を運ばせるのであり、この地域密着型球団は北海道にしっかり根ざしているといってよい。その証拠が球場に年齢を超えて「主婦」の姿が多いことが証明している。ファイターズで野球に興味を持ってファンになった人々であり、その子供や孫たちも当然のようにファイターズを応援して育つのだ。

昨日はプラチナチケットであったことで、こんな場面もあった。

ドームの駐車場でラジオで応援する「お父さん」がいて話を聞くと、函館から家族で来たというその人は奥さんと息子はドームで観戦しているが、チケットがないから彼は球場に入れないというのだ。お父さんはどこの家庭も「弱い立場」である。

ただひとつ、ざんげしなければならないことがあり、告白しておく。

○○高校の先生、息子を病院に連れて行くと偽って早退させて申し訳ありませんでした。本当はドームに連れて行ってしまいました。

勉強より大切なものを感じ取れる日になるかもしれないし、そういう機会は、人生の中でそう何度もないと思ったからです。

感激する心を持つことが人を思いやる心にも繋がるのだから・・・。

介護・福祉情報掲示板(表板)

看取り介護は「死に行くため」の援助ではない。

先日、日経BP社から「日経ヘルスケア」という冊子が送られてきた。

忘れていたが、9月下旬頃、わざわざ東京本社から同社の記者が訪れて当施設における「看取り介護」の実践の取材を受けた際の記事が掲載されている。

2時間近くにわたった取材の割りに、わずか1ページの記事である。しかし量より、内容を見て、やはり取材というのは事実が伝わりづらいなあ、と感じた。

例えば医師によるムンテラをカンファレンスと混同して記載されている。僕自身の看取り介護に対する「思い」も微妙に違って表現されている。

やはり、こうしたデリケートな問題は、自分自身の論文や講義で表現するしかないのだろうか。

そんな折、北海道のホスピスの協会から、介護施設でのターミナルケアのあり方に関するシンポジストの依頼があった。シンポジウムの参加者は、ホスピス医療に携わる医師と看護師が主であり、僕が日頃、講演を行う対象である介護関係者や学生とは肌合いが少し違うので、二の足を踏んでいたが、僕の施設の所属医からの強い依頼もあって、お引き受けすることにした。

とはいっても時期は年が変わった来年のことであり、主催団体の正式名称も、参加対象範囲の詳細も把握していないのだから、我ながら「すいぶんお気楽に受けちゃったなあ」と反省している。

さて、その中で僕が伝えなければならないことは、医療関係者の介護施設の「看取り介護」に対する偏見であると感じている。

その偏見とは、言い換えれば、医療関係者の特養のターミナルケアに対する「信頼できない」という思いである。

この4月に、特養の介護報酬に「看取り介護加算」が算定される際の、最大の抵抗勢力は日本医師会であったことは隠しようもない事実である。その反対理由は、医師や看護師が常駐していない場所でのターミナルケアに加算をつけることは、安上がりの終末ケアを促進するものであり、救える可能性のある命まで、安易に終末期として処理されるのではないかという懸念であろう。

しかし実際に費用としての面を考えると、僕がこのブログで何度も指摘しているように、1日1.600円、最長30日しか算定できない「看取り介護加算」を得るために、それを実践するということは、看護師の緊急呼び出しの超過勤務手当等を考えても、決して収益に繋がらず、加算目当てに実施する施設などあり得ないという点がまずひとつにある。

冒頭に紹介した冊子の掲載論文には「ターミナル加算の算定が生き残りの条件」というタイトルの論文が掲載されているが、それは入所者全員に10単位の加算ができる「重度化対応加算」と「看取り介護加算」を混同して述べられている拙劣な論文であると感じた。

さて、そう考えたとき、私は医療関係者に強く訴えたいことがある。

特養の新報酬で看取りの取組が評価された背景には、施設でのターミナルケアの実践を促進することで、医療機関での死を減少させ、終末期の延命治療にかかる医療費を削減する、という考え方がある、という声が聞かれる。それが真実か否かは解らない。

しかし我々は、この加算ができる以前から、ターミナルケアに取り組んできており、それは死への援助ではなく、「生きる」という姿を支えてきたという意味がある。その人らしい尊厳ある生き方の延長線上に「看取り」という時期があるという意味であり、ターミナルケアに係わるすべての関係者は、人の命の尊さを理解し、敬い、謙虚に係わるという姿勢がなければならないし、看取り介護の研修では、こうした観点の教育は欠かせない。

看取り介護が、単に延命治療の否定ではなく、人の尊厳ある生き方にたいする介護であり、尊い命が燃え尽きる最期の時まで、その人らしい生き方ができるための支援であるということを忘れてはならない。ということである。

そして最後の瞬間まで、それぞれの命が、輝ける命であるために、われわれは今日も看取りの介護に取り組んでいる、という事実である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護難民はどこへ行く

昨日、当施設の入所判定会議が行われた。

議事はスムースに進行したが、予定された議事の審議が終了後、その他の議事に移った際に、地域代表委員から介護療養型医療施設の廃止の影響についての懸念が示された。

6年後に療養型医療施設が廃止され、さらに医療保険の療養病床も削減し、結果的に2012年度までに療養病床は現在の38万床から15万床に減らされる見込みである。

国は削減する約23万床のうち約15万〜17万床は老人保健施設、残り約6万〜8万床は有料老人ホームやケアハウスなどの居住系施設や在宅に転換を促す考えを示している。医療の必要度が低い「社会的入院」を減らして医療費の伸びを抑制する、という意味である。

仮に療養型が廃止、削減された際に、現在の入院患者はどこに行くのか、そのときに特養はそれらの方々の受け皿になり得るのか、そしてその条件として経管栄養その他の医療ニーズにどの程度対応が可能なのか、という点である。

この件については、僕は介護新聞の連載コラムや、11月発刊予定の日総研の「介護リーダー2006」の連載でも問題点を指摘しているが、そもそも特養の待機者が減らない状況で、介護療養病床から直接、特養に移行するケースは多くないだろうと考えている。

医療ニーズへの対応についても、4月改正で、特養の多くは「重度化対応加算」を算定する施設になっている。

その場合、老企40号の規定で「重度化対応加算算定施設においては、常時継続的に医学的管理が必要と医師が認めた者の受け入れまで求めるものではないが、軽度の医療ニーズがある者(例えば胃ろう)の受入れを正当な理由なく断らないことが必要である。」とされているところである。

しかし実際には、医療行為に関する問題で、その行為が明確に示されていない現状、加えて、痰の吸引等の一部医療行為が介護職員に認められたといっても、それは「業」としてではない行為で認められたに過ぎず、特養の業務上では出来ないこと。経管栄養のチューブ交換でも介護職員が行って問題となっているような経緯があることを考え合わせると、経管栄養ということのみで一律入所を拒むことはできないが、看護師が24時間常駐していない施設では、自ずと提供できる医療行為体制への状態像のマッチングとかキャパシティーという視点から、入所判定員会で、その受け入れ可否が話し合われることになろうと考えている。

その問題は「特別養護老人ホームにおける医療ニーズの高い高齢者の受け入れの現状と課題」でも述べているので貼り付いたリンク先の論文を参照いただきたい。

さて、そのことについて、さらに考えてほしいことは、廃止される介護療養型医療施設が転換する施設は、老健か有料老人ホーム、ケアハウス等である。

老健は制度改正のたびにリハビリ機能強化の方向性と在宅復帰機能を強く求められ、医療ニーズの高い長期療養者の受け皿とはなりにくい状況がある。

つまり国が主張する「約15万〜17万床は老人保健施設への転換」とは、療養型施設のベッドをそっくり老健のベッドへ転換するということを保障したに過ぎず、現行の療養型入所者の約15万〜17万人が老健施設に移行入所することを保障したものではないのだ。

その他の施設に至っては、費用負担体系が違いすぎ、多くの既入院患者にとって経済的負担が困難であることが想像される。

すると結果的に、現在介護療養型医療施設に入院している多くの患者さんは、国が「医療の必要度が低い社会的入院」とレッテルをはっている理由により、地域に帰らざるを得ない。

本当に、これらの方が地域に帰ることができる場所があるのか。

医療ニーズが低いといっても、インフォーマルな支援がない入院患者の生活場所の確保は簡単なものではないし、インフォーマル支援が仮にあっても、充分なケアが出来ない理由があるから、入所、入院に至った個々の理由がある。

そのことを無視して、地域の受け皿が貧弱なまま、高齢者を無理やり地域に戻しても、地域の中で様々な介護問題や事件、事故が続出することになるだろうし、表面化しない潜在的問題が、この国の「影」として社会の隅々に置き去りにされ、(どこかの国の首相が言う)「美しい日本」の影で、多くの高齢者の悲劇が生まれることになるだろう。

会議に参加している地域代表委員の一人である、包括支援センターの代表委員に「その際は包括の腕の見せ所ですね」と冗談半分に問いかけたが、もちろんこのような大問題は包括支援センターや居宅介護支援事業所の努力だけで解決できる問題ではない。

地域行政全をも巻き込んだ総合的地域支援体制が必要なんだろうが、それで解決できる問題なのか、僕には自信がない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

地域密着型サービスに対する市町村の「お寒い」意識。

10/19日付の北海道医療新聞社「介護新聞」の中に興味深い記事がある。

それは道市長会の介護保険事務担当係長研修会の中で、グループホームの医療連携加算における条件の一つである「看護師の基準勤務時間」を国として一定基準を示す必要性などが指摘され、中には「少なくとも道内の市町村が統一判断できるように道としての基準を示してほしい」という意見も出された、という内容である。

ご存知のように、4月の介護保険制度改正でグループホームは新たなサービス体系である地域密着型サービスに分類され、立地する市町村が指定権を持ち、運営指導検査も市町村が行うことになっている。

また医療連携加算については、このブログでも「グループホームの医療連携加算を考えてみた」(リンクが貼りついているので参照されたい)でそのルールを示しているが、看護師の配置についてはホームに配置されていなくとも、外部の訪問看護事業所と契約等により「24時間看護師との連絡体制がとられている」ことを条件に「利用者に対する日常的な健康管理が行われる」ことで認められることとなっている。

その際、実際に「利用者に対する日常的な健康管理」に必要なための看護師のグループホーム内での勤務時間については特に示されておらず、指導監督者、つまりは各市町村で判断せねばならないわけで、このことに対し基準がないので統一してほしいと言っている訳である。

確かにそのために現状では、看護師の勤務状況を最低週1回(1回4時間)としている札幌市や空知中部広域連合などと、週2回としている小樽市などとは差があるわけである。

しかしだからこれが不適切だとして国なり道なりが基準を示して統一せよ、という議論になるのはどうも納得がいかない。

そもそもグループホームが地域密着型になった意味は、単に「不動産活用の切り札」的に数が増えることを規制する目的で市町村に指定権を渡し、監督責任を負わせたわけではないだろう。

認知症の高齢者が、地域とのつながりを切って、見知らぬ町のグループホームに入所するのではなく、住み慣れた地域社会と接点を持った場所で生活できるように、原則、その市町村の住民が利用できるホームとして、その質の管理も、地域事情を熟知した市町村が行うという意味である。

そこにおける「サービスの質」も市町村が適切に管理するという意味ではないか。であれば「適切な医療支援の状況」も医療連携加算を届け出る際に、訪問看護ステーション等とどのような契約内容になっているのか、医療機関との連携はどうなっているのかなど、まさに地域の事情に根ざした判断が必要なのではないだろうか。

一律に看護師の基準勤務時間を示したからといって、サービスの質が保たれるわけではあるまい。むしろそれは市町村の監督責任を国や道の指導に転嫁する市町村の責任放棄と「甘え」の構造以外の何ものでもない。

現に「事業所が状況に合わせて対応すべきもの、適切な対応は運営指導の中で確認していく」「必要時に連携が確保されておれば要件を満たしており基準時間を設ける必要なないだろう」という意見を持つ市町村担当者もいるのだ。

地域密着型で、きめ細かく運営状況を確認してサービスの質を確保する、という視点から言えば、そうした姿勢こそあるべき姿であろう。

何でも国や道の基準がないと判断できない市町村職員では地域密着型の理念がわかっているのか大いに疑問である。

もう少し、自ら汗を流して考える視点がなければ自らの地域の問題が見えてこないぞ・・・。

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霞ヶ関の設計ミス?(2)〜国は新予防給付の介護予防効果に期待せず。

地域包括支援センターが地域住民の保健医療の向上及び福祉の増進を支援するという包括的支援事業の中で、高齢者の介護問題の地域の最終的セーフティーネットの役割をも担い、加えて介護予防のプランの作成主体となることの実現が可能なのかという疑問に対して、その答えのヒントになる通知が7/19に出されている。

例の「介護予防支援業務の指定居宅介護支援事業所への委託に係る経過措置期間の延長等について」のことである。

この通知により居宅介護支援事業所が包括支援センターから受託できる介護予防プラン作成数の上限8件の規定が適用されない経過措置が、当初の9月末までから来年3月末まで延長された。

地域包括支援センターが「予防プランセンター化」しているといわれる問題の一時的な解決を図った措置といえる。

では、この経過措置の再延長、あるいはなし崩し的に予防プランの受託件数制限が撤廃されることになるのであろうか?

答えはNOである。国はあくまで予防プランの作成主体は地域包括支援センターであり、居宅介護支援事業所は介護プランを中心にケアマネジメントを展開すべきだとして、受託件数制限は必要という姿勢を崩していない。なぜだろうか。

そして経過措置の延長理由を

1. 地域包括支援センターの職員が新制度に習熟していないこと。
2. 年度途中の職員採用や予算措置が困難である。

としている。2については、確かに職員採用は年度途中で難しいだろうということは理解できる。しかし新年度になったからといって補助金が増えるわけではないだろうから、限られた予算の中で、新規の職員採用が可能なのかという疑問が残るところである。

そうすると国の本音は1に隠されていることになる。

「包括支援センターの担当職員が新制度に習熟していない」という意味は、介護予防プランの作成に習熟していないという意味と考えられる。来年4月までに、それに習熟するから大丈夫という意味である。

どうしてあの膨大な予防プランの作成に習熟して、予防プラン受託件数制限の経過措置が必要なくなるのか?その疑問は本年5月に出されたパブリックコメントに答がある。

Q. 介護予防支援について400単位では報酬が低すぎる。

A. 介護予防支援業務については、居宅訪問を原則3月に1回とするなどの効率化・合理化を図るなどの配慮措置を講じており、また、最も手間のかかる初回については、加算を含め650単位としていることにかんがみれば、十分な水準の報酬であると考えています。

国は、介護予防プランの作成は、介護プランの作成のような手間隙をかけないで機械的にこなしなさい、と言っているのである。それは新予防サービスの介護予防効果など始めから期待していない、という本音を示していると言って良いだろう。

以前、このブログで紹介した日本福祉大学の二木 立教授の論文『社会福祉研究第95号:新予防給付のゆくえ〜長期的な健康増進効果と費用抑制効果は未証明』の中で、次のような指摘がある。

「百戦錬磨の厚生労働省老健局幹部が新予防給付に大きな健康増進効果と費用抑制効果があるとナイーブに信じ込んだとは考えられない」

「今回の介護保険制度改革の隠れた本丸は制度存続の為の被保険者の拡大による保険料収入の増加だったが、それが挫折した為、保険給付額の抑制しかできなくなり、それへの国民の不満をそらすために、一見口当たりの良い新予防給付の創設を前面に出した」

考えてみれば介護予防そのものは老人保健法をはじめ、各法に規定され、実施されてきているのだ。何も今年から始まった新予防サービスだけが介護予防ではない。しかし今まで全ての介護予防の取り組みにエビデンスがないということを霞ヶ関は百も承知である。

新予防給付の実態は、軽介護者の支給限度額を引き下げ、サービス利用を介護予防に限定し定額報酬で給付費抑制効果を図るという以上のものはないということである。

そうした霞ヶ関の論理と、面子に、現場の包括支援センターの職員や居宅介護支援事業所の介護支援専門員は振り回されているというのが実態だ。

そして、そのつけは、効果の期待されていない、エビデンスのないサービス利用を強いられる高齢者自身に負わされるのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

地域包括支援センターの機能不全は霞ヶ関の設計ミス?(1)。

4月から北海道医療新聞社の介護新聞に連載していた僕のコラム「現場の風〜新たな時代への対応」が今日付けの号をもって終了する。

思えばまだ雪が残る3月に連載の依頼を受けて軽い気持ちで引き受けたが、その際は、せいぜい2〜3ケ月の軽い気持ちであった。それが半年以上の長期連載となり、雪虫が舞う季節まで続くとは思ってもいなかった。毎週良く書き続けたものだ。少し肩の荷が下りた。

校正ゲラを確認することを通して、文章を書くという点ではおおいに勉強になった。特に接続詞を安易に使わない文章作りに少しは習熟した。このブログの文章も春とは変わってきていると思う。

連載原稿は毎回1500字〜2000字の範囲でという枠があったが、僕はこの枠を自ら毎回2000字ぴったりに収めることを自身に課していた。だからほとんど毎回の字数は数字程度の差しか出なかったと思う。これも僕自身の訓練であった。

当初、制度改正に絞って、その問題点や意見を集約して書くつもりであったが、様々な方面の方々からの激励や要望がでて、施設や居宅のケアサービス全般にまで及ぶ広範囲なテーマを扱う結果となった。

認知症高齢者のケアに関連するいくつかのコラムでは、各方面の方々からご意見や励ましを頂き、専門学校の講義の資料になったテーマもあると伺った。ありがたいことだと心から思う。

さて最終回は「介護保険制度はどこへ行くのか」というテーマで、今後、様々な要因で介護施設や医療施設から退所せねばならなくなるであろう介護難民予備軍が今後、地域に戻ったとき、あるいは戻ろうとする際、居宅介護支援事業所の介護支援専門員や地域包括新センターの役割が、より重要になる点と、そのことにおける現行の課題に触れさせていただいた。

その背景には、現状の地域包括支援センターは、本来の役割を発揮できない機能不全に陥っているのではないかという危惧があるからだ。

僕の住む登別市は人口54.000人弱、高齢化率は全国、全道平均を上回る24%弱である。

3月まで、在宅介護支援センターは、基幹型1箇所、地域型3箇所の計4箇所であったものが、それがすべて廃止され、現在、地域包括支援センターが3箇所できている。しかもすべて委託で、それぞれ所属法人を異にし、さらに3職種配置は2箇所のみで、1箇所は、主任ケアマネがいない2職種配置である。

その評価は別にするとして、この状況で、在宅介護支援センターが担っていた、地域の介護問題のセーフティネット機能は充分守られているのだろうか。というより地域包括支援センターが新設された意味は、介護予防も含めて地域での高齢者支援機能が強化されるためであったはずであるが、その目的は達せられているのだろうか。ここが問題である。

本来、地域包括支援センターの事業は
1.介護予防のマネジメント。2.介護保険外のサービスを含む高齢者や家族に対する総合的な相談・支援。3.被保険者に対する虐待防止、早期発見。4.支援困難ケースへの対応などケアマネジャーへの支援。

であり、1が保健師、2.3が社会福祉士、4は主任介護支援専門員が主にその業務を担うものとされているが、現実は増大する要支援者への介護予防プラン作成業務に追われ、3職種が共同でその作業に関わり、その他の支援機能まで手が回らず「予防プランセンター化」されているといわれる現実がある。

その現状をみると、在宅介護支援センターが地域福祉の拠点であった作年度までより介護問題のセーフティネットとしての機能は低下していると言わざるを得ない状況ではないか。

地域ケア会議も機能不全に陥っている地域が多い。

そもそも地域包括支援センターが2万〜3万の人口に対して1箇所設置が想定されている点や、人員配置基準とあわせて考えたとき、その目的とした地域住民の保健医療の向上及び福祉の増進を支援するという包括的支援事業の中で、在宅介護センターが果たしてきた役割もすべて引き取り、加えて介護予防のプランの作成主体となることの実現が可能なのか大いに疑問の残るところである。

では、そこに横たわっている、陰に隠れた形の国の本音は何なのだろう?そこが問題だ(続く)

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介護支援専門員=ケアマネジャーへの異論。

この国の介護保険制度のグランドデザインを描く当初は、それまで福祉サービスの利用の際の窓口が各サービスごとに別々であったことから、この窓口の一元化が重要な課題であった。

そのためケアマネジメントの手法が、窓口の一元化と同一線上に議論され、介護支援専門員が窓口となり高齢者と介護保険サービスを中心にした社会資源を結びつけることをケアマネジメントの主題としているのであるが、給付管理という業務が付随することを原因として、単なるスケジュール管理をケアマネジメントの本質と誤解している介護支援専門員が少なからず生まれたという現実がある。

しかし本来、ケアマネジメントはソーシャルワークの1技術である。それを中心的な手法とする居宅サービスにおいても、介護支援専門員はソーシャルワーカーとしてバイスティックの7原則をはじめとした基礎知識や基本技術を持っていなければならない。

つまり居宅介護支援とは高齢者のニーズを単なるインペアメントとADLに関わるニーズとして捉えるのではなく、利用者がもつ社会的不利(ハンデキャップ)という観点からも捉え、生活障害としてその問題を捉え援助するという意味である。

要援助者が、どのような家族環境や地域環境の中で生活し障害が不利な状況になっていないかも視点として捉え、インペアメントやディスアビリティに改善がなくとも、家族や地域の環境を調整することでも生活課題が改善できるという視点を持つものである。

簡単に言えば、問題や障害は、あくまで「生活障害」なのだ。

だから介護支援専門員は、生活支援の専門職であり、やはりソーシャルワーカーである。ケアマネジャーと言い換えられるのには異議を持っている。

その誤解による弊害は居宅介護の領域より、施設のケアマネジメントを考えるときに著しい。未だに施設の介護支援専門員の位置づけが不明瞭である原因は、相談員と介護支援専門員の業務分掌が不明瞭なのは、施設の介護支援専門員をケアマネジャーと考えるから生ずる問題であると思っている。

僕は施設のケアマネジメントについて、いくつかの冊子に論文を掲載しているし、このブログでも問題提起している。

例えば「施設と居宅のケアマネジメントの違い(1)」「施設と居宅のケアマネジメントの違い(2)」「施設と居宅のケアマネジメントの違い(3)」のそれぞれに貼り付いたリンクを参照してほしいが、この中では、施設と居宅のケアマネジメントの本質は変わらなくとも中心となる目的とそのアプローチの方法論の主題が違う点に着目して、施設の介護支援専門員の位置づけの明確化を「専任化」することで図ろうとすることが幻想であると否定している。

この問題は実は介護支援専門員の位置づけの明確化と同時に施設における相談援助職の役割や位置づけも同時に明確化しなければならないという意味も含んでいるのだ。

つまり相談員が介護支援専門員を兼務すること自体は、ソーシャルワーカーがケアマネジメントの技術を用いて援助する、という意味において整合性があるし、むしろそれは推奨されるべきであると思え、介護支援専門員の資格を持つ相談員が、各施設のスーパーバイザーを含めた相談援助職の指導的立場での業務に携わることは、ある意味、専任化より、その位置づけを明瞭にするものであると思っている。

現に僕自身も、介護保険制度以前から、相談員として、MDSを使って「個別援助計画」を立てており、介護支援専門員という資格がない当時から、ケアマネジメントは施設の中で援助技術として展開していた。

そしてその役割はケアプラン作成作業と、それに付随した業務で終われるはずがなく、施設サービスの中でトータルに利用者を援助するツールのひとつに「個別援助計画」、現在で言う施設サービス計画(ケアプラン)があるわけであり、施設のケアマネジメントの確立を、ケアマネジャーという職種の専任化に求める施設経営者は「わかっていない」と思っている。

むしろ問題は、この制度が始まる当初、居宅サービス分野では介護支援専門員の大量生産が必要であったし、施設サービス分野でも義務化された配置に対応すべく、他の職種との兼務を広範囲に認めた問題が影を引きずっている。

社会福祉援助技術の専門家たる介護支援専門員を大量生産する時期は終わったと思う。

養成、資格付与過程での受験資格の見直しや、兼務の体制見直しが議論されるべきであり、施設においては少なくとも兼務できる職種は「相談員」に限定すべきである。

専任化を求める施設職員の最大の理由は、介護や看護業務に時間をとられながら介護支援専門員の業務は難しい、という訴えである。たしかに生活援助のトータルな視点から言えば、介護業務もまったくソーシャルケースワークと無関係ではないが、しかし適切な支援システムとして考えれば分業専任化は必要な部分があり、それはソーシャルワーカーとケアワーカーの分業であり、相談員と介護支援専門員の分業ではないと思っている。

介護支援専門員をケアマネと呼ぶのはやめて、きとんとソーシャルワーカーとして意識してもらいたい。

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介護職員が腹部カテーテル挿入〜その問題の本質。

このブログでは何度か医行為についての話題を取り上げてきた。

僕の主張は一貫して医行為とは何かという部分に対して、グレーゾーンをなくして明確にすることが第1に必要。

その上で、かつて人類が経験したことがない超高齢社会と少子高齢化の波の中で、現実的に様々な生活場面で医療ニーズを併せ持った高齢者を支えようとするならば、医行為について「業」でないという理由で家族が行える行為とされているものについては、一定のセーフティネットを確保した上で、介護職員にも出来るように規制を緩和することが絶対必要、という主張である。

(現在示されている、「医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について」の中の介護職員が行うことが出来る行為だけでは不十分である。)

しかしだからといって現行の法規制を破ってよいということにはならない。

社会福祉援助の専門家として、制度の不備や瑕疵に対して、問題提起したり、ソーシャルアクションの視点を持って行動することは必要だが、その前提は、コンプライアンス(法令順守)の基本姿勢を持って正論を主張するという態度が絶対条件だ。

そうしなければ、一般社会の常識とはかけ離れた、一般国民に受け入れがたい「自己中心的」主張に終わってしまう恐れがある。

しかるに、今回、北海道帯広市の特養で数年にわたり行われていた違法行為は問題がありすぎる。

腹部カテーテルの挿入・抜去について「看護師が足りない」という理由で、日常的に介護職員にその行為を「行わせていた」というものである。

濃厚流動食の注入行為でさえ、状態変化のリスクが大きく介護職員には認められていない行為というのに、カテーテルの挿入、抜去という行為まで、介護職員のルーチンワークにしていたという意識の低さは糾弾されるべきであろう。「消毒はしっかりしており、これまで医療事故は起きていない」という主張は通らないだろう。

僕がいう、その意識の低さとは何か?そこを考えてもらいたい。

ALSの患者さんの痰の吸引という、かなり難しい行為まで一定条件下ではあっても介護職員に認められてきている現状において、行為の内容そのものを問うているのではない。

繰り返しの主張になるが、むしろ将来的には少なくとも家族が行うことが認められている行為については「介護職員も可能」とすべき行為だと思う。

しかし実態として、現在は「認められていない」のである。

高速道路の有料化をけしからんとする人々で作る団体が、けしからんから料金所を無法に強行突破して国民のコンセンサスが得られるのか、という意味の「意識の低さ」である。

僕も、特養の施設長として、医行為としての対応が必要な利用者と、看護職員の数のマッチングが十分でないという状況は理解しているし、医行為の中には、介護職員が行っても問題ないと思われる行為が数多く含まれていることも承知している。

もちろん介護職員の行為拡大が議論されていく過程で、セーフティネットの構築とともに、様々な行為を介護職員にも渡していくことは必要であるが、一足飛びに、十分な教育やリスク管理もないまま、拡大解釈して違法行為を日常化してしまっては、正当な「介護職員が出来る行為を拡大してほしい」という主張にまで水を指す。

しごく迷惑な話である。

今後、行政指導がされるということであるが、この施設の管理者は道義的な意味でも自ら責任の所在を明らかにする必要があるだろう。

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介護予防訪問介護の問題を考える

この国の国民性なのか、物事への順応力は半端ではない。

制度改正前に新予防給付の効果に疑問を投げかけていた人が、制度改正から半年を経た現在では、あたかも「新予防給付の番人」であるかのように、家事援助はだめだ、通所サービスの回数は国が決めた標準回数でなければ認めない、と声高らかに呼ばわっている。

意見を変えることは、あって当然のことであるが、説明責任も果たさず、それなりの立場にある人が、舌の根も乾かないうちに、一方的に反対の立場をとって、その考えを第三者に押し付けようとするのは「権力」の押し付けそのものである。恥を知りなさい。

以前にも紹介したが、ある障害者の方の言葉に次のようなものがある。
「私は一人では着替えも出来ないし、排泄も食事も出来ない、すべて人の手を借りないと生活できないが、それでも自立している。なぜなら、10分間人の手を借りれば着替えが出来、20分人の手を借りれば食事が出来る。人の手を借りなくて良い時間は自分でパソコンを使って執筆活動が出来る。だから自立している」

できることを保障するために、できないことを支援するのが生活支援である。家事支援が一律、自立を阻害するものではなく、身の回りのことは何とか自立できるが、掃除や調理が「しんどい」人にその支援を行うことは必要な支援だ。

介護予防の訪問介護について、ヘルパーと一緒に家事を行わなければ不適切なプランだと主張する包括職員やケアマネがいるが、どこにそんなことが規定されているんだろうか?

確かに改正議論の中では給付費分科会でそのような考え方が示されていた。

しかし介護予防の訪問介護の解釈通知を見ても

1.介護予防訪問介護の提供に当たっては、介護予防とは、単に高齢者の運動機能や栄養改善といった特定の機能の改善だけを目指すものではなく、これらの心身機能の改善や環境調整等を通じて、一人ひとりの高齢者ができる限り要介護状態にならないで自立し
た日常生活を営むことができるよう支援することを目的として行われるものであることに留意しつつ行うこと

2. サービスの提供に当たっては、利用者の意欲が高まるようコミュニケーションの取り方をはじめ、様々な工夫をして、適切な働きかけを行うよう努めること

3. サービスの提供に当たって、利用者ができないことを単に補う形でのサービス提供は、かえって利用者の生活機能の低下を引き起こし、サービスへの依存を生み出している場合があるとの指摘を踏まえ、「利用者の自立の可能性を最大限引き出す支援を行う」ことを基本として、利用者のできる能力を阻害するような不適切なサービス提供をしないよう配慮すること。

4. 提供された介護予防サービスについては、介護予防訪問介護計画に定める目標達成の度合いや利用者及びその家族の満足度等について常に評価を行うなど、その改善を図らなければならないものであること。〜とされている。

特に3ではこの手の通知では珍しい「〜があるとの指摘を踏まえ」というう表現がある。

私が言っているんではなく、多くの専門家が言っているんだといういい訳か?しかしここでも一律家事援助をともに行わねば不適切などという表現はない。むしろ利用者のできる能力を阻害するような不適切なサービス提供をしないよう配慮すれば「利用者の自立の可能性を最大限引き出す支援を行う」というアセスメント結果による理由付けがされておれば家事援助も必要な場合があることを示しているともいえるし、4では「家族の満足度等について」も評価項目としている。

具体的取り扱い方針でもそれは「介護予防訪問介護計画は、利用者の日常生活全般の状況及び希望を踏まえて作成されなければならないものであり、その内容について説明を行った上で利用者の同意を得ることを義務づけることにより、サービス内容等への利用者の意向の反映の機会を保障しようとするものである」とされている。

90近い人で、それまでまったく家事を行っていなかったのにヘルパーと一緒に調理をして何か効果が出ると思っているのか。運動器の向上が生活を変えるのか?それより身体が自立しているのだから、必要な家事支援をきちんとして、筋トレを行わなくとも他者とコミュニケーション機会を持つため通所サービスに通うほうがよっぽどいい。

介護予防に携わる包括支援センターの職員や予防プランを受託するケアマネは、自立支援をマクロな視点で捉え、議論の過程ででた極端な意見を「一般論」と誤解しないでほしい。

理由がある家事援助はサービスの中に組み込んでよい。一連のサービスの一環としてだ。だから介護予防訪問介護には生活援助と身体介護という区分がないではないか。

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もうひとつの地域密着型

別の話題を書くつもりであったが、今日は福祉や介護の話題ではない内容を書くことをお許しいただきたい。

昨日は午後から札幌に所用があって出かけていたが、ご存知の通り、札幌ドームのプレーオフで北海道中が盛り上がっていた。実は僕もチケットを手に入れたので、会議が終了後、ドームに直行した。

思えば3年前に、日ハムが札幌ドームをフランチャイズにするといっても多くの道民が「日ハムかあ」という感想だったと思う。

しかし今年の活躍を別にしても、ファイターズは着実に道民に浸透していった。

巨人ファンが多いといっても、それは地元の球団がなくて巨人戦しかテレビに映らないし、新聞のニュースも巨人戦が中心だったからで、地元球団が出来てみると道民に予想外の感情が生まれてきた。

おそらく、この3年間の「意識の変化」は、北海道に住んでいるものにしか理解できない感情と思う。

まさに日ハムが北海道移転時に掲げた「地域密着型の球団」の具現化である。(グループホームや小規模多機能居宅介護より地域密着の理念は野球が先なのだ!!)

さらに高校野球の駒大苫小牧の活躍と相まって、道民は野球の面白さ、勝つことの面白さにあらためて気づいたという面もあるだろう。

一時的人気ではないかと危惧する方もいるだろうが、しかし僕等は現に見ている。

何をかというと、小中学生だ。今、ジャイアンツの帽子やTシャツを身に着けている小学生は皆無だ。ほとんどがファイターズグッズを身に着けている。10年後、北海道の巨人ファンは激減するだろう。

いや今年だって交流戦の日ハムVS巨人戦の札幌ドームの応援は7割が日ハムであった。巨人ファンの年齢層が中年男性が多いのに比較して、日ハムは老若男女、入り乱れてバラエティーにとんでいる。ファン層が広いのだ。

昨日のチケットもプラチナチケットで、ネットでは8万円で売られている。巨人主催ゲームが満員にならないのとはえらい違いだ。

札幌ドームの盛り上がりもすごかった。ファンが一体となる応援スタイルも確立している。4万3千人(そのうちSBの応援団が200人ほどか)の心が繋がる応援スタイルである。

巨人の私設応援団のように鳴り物が先行して、強制的に応援させられるような雰囲気はまったくない。

まさにひとりひとりのファンは1/43.000ではなく、僕や君がいて43.000になれる、という感じである。

僕も年甲斐もなく、赤白のプラカードを揺らし、ウエーブを4回もやってしまった。25年ぶりの優勝とは言っても、北海道日本ハムファイターズは初優勝だし、北海道のプロ野球球団が史上初めてリーグ優勝した歴史的瞬間に立ち会うことが出来て幸せだった。

それにしても敗れたとはいえ、立派なのはソフトバンクの斉藤和己投手だ。

プレーオフ2試合、18イニングでわずか2失点しかしていないのに、2敗の孤高のエース。

敗れた瞬間、立ち上がれず、ズレータとカブレラの両外国人に抱えられ退場していく姿はテレビで多くの方が見ていたと思うが、そのすぐ後に、記者の取材にきちんと答え「全力を出し切ってこういう結果になった、今年は日本ハムのほうが力が上だった」と相手にエールを送る姿はまさにスポーツマンの鏡である。

それと僕は丁度、レフトの守備位置のすぐ後ろにいたのだが、試合が決まった瞬間、グランドからソフトバンクの選手が引上げ、マウンド付近でハムの選手が歓喜の輪を作る中、長くレフトの守備位置に座り込んでうなだれている松中選手の背中が目に焼きついて離れない。

勝者の背後には、必ず敗者がいる。しかし彼らも立派な勇者だった。

勝利者だけでなく、ゲームに敗れたチームの勇者たちにも感動させられた。

いいものをみたと思った。

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