masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

とても小さな講演会。

ここ2週間の間に2度の講演機会があった。

それも、今まで経験したことがないくらい小単位の講演会で、いつもと違って新鮮な気持ちでお話をさせていただいた。

先々週の土曜日には、社会福祉士会の地域会のさらに小さなブロックの研修会であった。

これは社会福祉士会の生涯研修体系の中の基礎研修と組み合わせたもので、勉強会とその後の懇親会をどちらも重視している会(僕だけがそう考えているかもしれない?)であり、その中で、基礎研修(倫理綱領についての学習)のほかの研修について、地区監事である僕が担当させてもらった。

つまりお金をかけないために偉い講師を呼ばないで、手作りにしたという意味からの人選である。

社会福祉士会だから介護保険関係者だけでなく、自立支援法や医療機関の関係者など、様々な立場の人がいると考え、テーマを何にするか悩んだが、今回はすべての関係者が共通して考えていかねばならない地域福祉の問題として「療養病床の再編の中で〜社会福祉士の役割を考える」というテーマで講演を組んだ。

しかし地区の中をさらに小単位に割ったブロック研修で、前日にソーシャルワーカー協会の研修会もあった影響もあるのか、参加者は十数名であった。ただそれも想定内ではある。できれば、今後は社会福祉士会に加入していない人も含め、広く活動を知る上で参加を願いたいが、今年から始まったブロック会であり、参加者は少なかったのもやむを得ないところである。

今回は資料としてパワーポイントのファイルを作っていったが、会場は立派で100人以上は入れるし、スクリーンも会場にあわせているので大きい。20名に満たない講演会としては、やや赤面ものの大げさなプレゼンテーション資料であったかもしれなく、むしろ座談会形式で、もう少し講師と聞き手が近づいて議論ができたほうが良かったのかもしれないが、僕自身は、聞き手の方々の表情が全員よくわかるし、非常に話しやすかった。

内容は期待はずれであったかもしれないが、日頃の付き合いに免じて許していただきたい。良い経験であった。

そしてつい先日、先週の金曜日に市の社会福祉協議会の主催で当市の地域福祉実践計画「きずな」の市民学習会に「のぼりべつケアマネ連絡会」として協力させていただき、在宅介護のことをアットホームに学ぶ、という内容でお話をさせていただいた。

こちらは市民の希望者20数名の参加であった。参加者の方は、高齢者の方が多い。実際に介護に携わっている方だけでなく、今は元気だが、高齢夫婦世帯などで将来に備えて介護の現状を知っておこう等の参加動機があるようだ。

僕は今回、地域の中で実際に起こっていることも例に挙げ、介護が必要な状態とはどのような原因と問題があるのか、身体障害の問題を中心に、高齢化と呼ばれる社会状況が介護にどのような影響を与えているのかを、実際に介護を受ける状態になった方の視点と、その方々を介護する家族の視点からに分けて、できるだけわかりやすいかたちで身近な介護問題として説明を試みた。

講演というよりは、一緒に考えましょう、というテーマに近いから、質問やクイズを織り交ぜて、参加者の人にも考えていただきながら現状を説明してみた。だから資料もファイルも使わず、原稿もなしで、その場の雰囲気と空気でお話を変えさせていただいたので、脈絡のない話の展開になったかもしれない。

その後、座談会で質問を受けたが、実際に介護をしている方や、将来、その可能性を持っている人は「一般論」ではなく「個別の対応」「解決の処方箋」を具体的に出して欲しいというのが本当のところのようである。

他人と交わることが嫌いな主人は家の中だけの生活で足腰が衰えてきている、今からどうしたら機能維持が図れるのか具体的に「答え」を聞きたいので、一般的に「こうした可能性もある」という答では満足できないというのも一面の真実だ。

しかし我々ソーシャルワーカーは、実際に、その現場で利用者さんと向かい合いながら、関係作りをしていく過程で、必要な具体的支援を積み上げて問題解決につなげていくもので、今ここで万人に共通の解決策となる魔法の処方箋を示すことができるわけではない。

そういう意味では「聞いても役に立たない」という感想を持つ方もいるのだろうと思う。ただわかりやすく地域で起こっていることを説明して理解してもらうことはまたく無駄ではないだろうと自らに言い聞かせて、できるだけ簡潔な言葉で、わかりやすい話を指していこうと思う。

こうした機会も自分自身には大変勉強になる機会で、来月も小市民座談会形式でお話をする機会があり、この中では、介護保険制度を使う、ということを市民の視点からわかりやすく説明するのが一つのテーマである。

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団塊の世代の退職と新たな社会的役割。

最近、近隣市の総合病院において外来診療科の待合室で、高齢者の方々が外来患者さんのお手伝いをしている姿をよく見かける。

最初は、同じ外来患者さん同志で助け合っているんだろうと思っていたが、どうやらそれは間違った認識であることに気付いた。

それらの方々は医療機関に登録した「ボランティア」の方々であり、高齢者の方等に外来受診時の待ち時間に必要な声かけや支援を行うという目的で活動されている方々であるそうだ。

ご存知の方も多いだろうが、医療機関に外来受診した場合、障害のある方の介助行為について、どこに責任主体があるかという論議に関連しては、訪問介護の身体介護の適用に関するQ&Aでも

Q.院内の移動等の介助は「場合により算定対象」となっているが具体的にはどんな場合か。

A.院内の移動等の介助は医療法において「しなければならない」取り決めはない、診察室に入ったら医師の管理下、看護師の管理下になる。待合室における対応(例えば要介護度によって待っている間トイレへの介助が必要になる等)は院内介助として算定してよい。院内の介助が行われていない病院において算定できる。


このように待合室での対応は、医療機関で必ずしも対応しなければならないというものではなく、個々の状況に応じて、訪問介護での対応が必要なケースなども生じてくるもので、場合によっては家族などインフォーマルな支援がない方で、保険給付の対象にならないような支援行為が必要な方は保険外で訪問介護等を利用するなど、経済的にも精神的にも負担が生ずる場合がある。

それに対して待合室での支援ボランティアを医療機関が中心的役割を担って組織化することは非常に意義深いことであろうと思う。

隣市の医療機関のこの取り組みは、総合病院が複数協力連携して、ボランティアを全体として登録管理して各医療機関に配置しているということであるが、詳しい状況は未確認である。ただ80名近い高齢者の方々が登録して実際の支援に携わっているとのことであり、今後、状況を詳しく調べて皆さんにも情報提供したいと思っている。

今年から団塊の世代と呼ばれる方々が退職の年齢に達するといわれている。わが国の人口自体は減少傾向にあるが、団塊の世代の方々が高齢期に達することで高齢者人口は増え続ける。


このことが2015年問題にも繋がっているわけであるが、しかし高齢者がすべて介護や医療の支援を必要としているわけではなく、むしろマジョリティーは医療や介護の支援が必要ではない「元気な高齢者」である。

これらの「元気な高齢者」の方々が、生きがいに繋がる社会活動に参加して、社会資源の一つとして要介護者の方々等への支援に関わることができるかが、今後のわが国の社会システムのひとつの重要な要素となるのではないだろうか。

平成18年の高齢者白書によれば、65歳以上の高齢者は2560万人で、そうのち要支援以上の介護保険認定者は394.3万人であるから、高齢者に占める割合は15%強である。しかし残りの85%の方々全てが「元気な高齢者」というわけではなく、医療を必要として要介護認定を受けていない方もいる。さらに社会活動の参加ということで考えれば、自分の身の回りのことには不自由はないけれど、他者への支援活動は困難である、という人もいるであろうから、高齢者のマジョリティーを占める、要支援・要介護認定を受けていない人全てが、支援活動に参加できるわけではない。

しかし高齢者の多くが支援を必要としているという理解は一面では間違いで、他者に支援できる高齢者が数多くいるし、高齢者の数が増えるもう一つの意味は、そうした社会活動に参加できる高齢者の数自体は増え続ける、ということである。

そうした方々に、社会参加に繋がる「動機付け」となる「実際にできる支援行為」の情報をいかに提供するかが重要な要素となる。

内閣府の高齢者の社会参加意識に関する調査でも、ボランティア活動に関心がある高齢者が全体の47%以上を占めるのに、実際に活動参加している高齢者は3.6%に過ぎない。希望や関心が実際の活動に結びついていないのである。その原因は様々であろうが、ひとつに実際に何をどのようにできるかという情報がないこと、本当に必要とされている行為自体の実施システムが地域にないことも大きな原因であろう。

そこに手当して、この数字の差をいかに埋めるのかが、地域の社会資源の充実にも繋がるのではないだろうか。

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認知症サポーターの養成の意味は地域の再生。

2005年4月から厚生労働省が「認知症を知り地域を作る10ケ年」構想を提唱し「認知症サポーター100万人キャラバン」という事業をスタートさせている。

このキャラバンは認知症サポーターを全国で100万人養成し、認知症になっても安心して暮らせる「まち」を目指すものだが、サポーター自体に特別な役割があるわけではなく、認知症を正しく理解してもらい、認知症の人や家族を温かく見守る応援者として自分のできる範囲で活動し、認知症になっても安心して暮らせる街づくりを目指すものである。

サポーターを養成する為の各地域における講師を務めるのは「キャラバンメイト」である。キャラバンメイトは都道府県等が主催する養成研修を受けたもので、それぞれの自治体ではキャラバンメイトと協力しながらサポーターを養成していくこととなっている。

このブログをご覧の皆様は、業界関係者の方も多いから、そのことはご存知だろうし、キャラバンメイトである方も多いだろう。

実は僕もキャラバンメイトである。

しかし当市におけるサポーター養成研修はまだ行なわれていない。まあこの市は、こと福祉に関して何かを率先して取り組むということはまずなく、近隣の市町村の状況を見てから後追いで行なうことが得意な地域であるから、なにも珍しい状態ではない。

とはいっても来年度は、この事業を実施することになり、僕も協力していかねばならないのだろうと思っている。

さてサポーターを地域で増やしていこうという意味は、サポーターに地域の中で、認知症の方々のケアについて具体的に何かをやっていただこうと意味でも、専門的に関わってもらおうという意味でもなく、地域の中に認知症の方々への理解を浸透させていこうという意味であり、その理解も専門知識というより、超高齢社会の今日においては、誰もが認知症になる可能性があり、地域の中に認知症の方が暮らしているのは「当然である」という意識を持ってもらって、街の中で何かに混乱して困っているような高齢者を見かけたら、誰もが声をかけたり、ちょっとした支援をしたりできる「当たり前にふれあい支えあう街」を作ることが目的である。

僕は、ヘルパーの養成講座などで認知症についての講義をする際に「85歳以上の4人に一人は認知症になる」という事実を挙げ、ご夫婦の方のそれぞれの両親がすべて85歳までご健在なら、確立から言えば、必ずそのうちのお一人は認知症になる、と話している。つまり認知症になるということは、自然の老化の過程でひき起こる極めて普通の現象であり、恥ずかしいことでも、異常でもない、ごく身近な問題である、ということを理解していただくという意味だ。

考えてみれば過去の日本の社会の隅々には、サポーターを養成しなくても、良い意味での他人への関心と干渉が自然に存在していた。「向こう3軒両隣」の人間関係がある地域社会があって、悪いことをする子供には、知らないおじさんやおばさんが怒ったし、困っているような高齢者がおれば、誰もが声をかける関係があった。僕は田舎の出身だから、そんな関係社会が普通であった。

そうした地域社会を、この国はわずか数十年の間に急速に失ってしまったんだ。それを何とか構想とか、なんとか事業で補おうとしている。この社会が失ってしまったものの価値は想像以上に大きかった、ということではないのだろうか。

ところでこのサポーター研修は100万人という養成人数の数値目標がある。そのため各地で養成研修を行なって何人サポーターになったかを数字で競っている感があるという意見もある。今年1月現在のサポーターは12万人となっていることも、様々な場所で大きく取り上げられている。そのため各自治体も要請者数が増えることのみに関心が向いているのではないかという意見も聞かれる。

しかし今まで認知症というものがまったく自分と縁遠い存在と意識していた市民が「認知症って何」ということを、どういう方法でも触れて知る機会ができたことは良いことで、その講習を受ける人が増えていることも悪いことではないと思う。

つまりサポーター研修終了の意味は、終わりではなく「始まり」なのだ。

まず1歩目が必要だ。そのサポーターの中から、一人でも、二人でも、地域の中に住まう「認知症の方々」に目を向ける意識を持ってくれたり、関心を持ったり、声をかけたりする人が生まれたら、もしかしたら、僕たちが失った地域社会の再生のきっかけにはなるかもしれない。

他人に無関心の社会を変えて欲しい。おせっかいがたくさん存在する地域社会の再生が必要だと思う。

特に子供たちに、その意識が育ってくれることを願ってやまない。

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心が動けば体も動く、っていうこと。

集団処遇が否定され個別ケアが叫ばれるのは、昨今の介護現場ではどこも同様だろう。

もちろん集団に埋没して、個人の思いが達せられないような生活は問題だ。個人の思いが実現できる生活支援が重要なのはいうまでもない。

しかしだからといって、集団的な活動全てを否定するような意見にはついていけない。

大事なことは活動参加に選択性があり、参加しない自由も、参加できる自由も、両方が保障されることであり、小単位ではできない利点も集団活動の中にある場合もあるという臨機応変、柔軟な発想が必要だ。

介護の現場は、生活そのものに密着した現場だから、固定観念だけでは適応不能になるし、それを無理に既存の考え方に押し込めるのが利用者より、サービス提供者側の視点からのケアというものになるから、サービス対象集団をいくら小集団化したところで、柔軟な発想や、個人の思いに目を向ける視点がないと、小集団に硬直的サービスを押し付けるスタイルに変容するだけの話で、ハードだけがユニットケアで、実際のソフトは極めて押し付けがましい現場を数多く見てきている。

心が動かないユニットケアなど、導線が短い画一処遇にほかならない。

僕は施設の中で、今でもたまに療育音楽やビデオ回想法の進行役を行なうことがある。どちらも結構大きな集団で行なう。

それを見て集団処遇だとか、活動単位が大きすぎて、個人に目が向いているのかという人がいる。大きなお世話だ!!僕と一緒に歌を歌ったり、ことわざを復唱したり、昔話をしている人々の表情を見て言え。

回想法は集団では効果がない、なんてわかったようなことをいう輩もいる。

誰が精神療法としてのライフレビュー、回想療法を行なっていると言っているのだ。療法なんかクソクラエである。

僕は、単にビデオを見ながら、昔の生活や、家具や、食べ物を思い出しながら、ここに住まう皆さんと談笑して楽しいひと時を過ごす時間を作っているだけだ。

その向こう側に、心身活性化効果による機能維持とか、脳の活性化なんて考えていない。ここでともに暮らす方々に、少しでも楽しいひと時を過ごしてもらおうという意味にしか過ぎない。

それがある人には、ビデオ回想法であり、ある人には読書であり、ある人には外出であり、行事やレクなどの活動であったりする。選択肢がある、ということが大事なんだ。

療育音楽だって、好きな曲のときだけ参加したって良いし、愉しみ方は様々だ。
でも皆で一緒に歌うというのは個別対応の場面にはない別の楽しさがあるのだ。

この時期は卒業シーズンで、舟木一夫の「高校3年生」とか、学校唱歌の「仰げば尊し」なんかを歌ったり、千昌夫の「北国の春」なんかを歌ったり、演奏したりしている。

こういうのは人数が多ければ多いほど乗りもよくなるのだ。4〜5人で寂しく歌ったり、演奏するんじゃなくて、みんなで集団となって声を出しているうちに、口も大きく開いて、気分も高揚してくるんだ。それが嫌いな人は参加しなければ良いだけの話で、そういう活動を全て否定する考えこそ硬直的だ。

だって、そんなの全生活の中の、どれだけの部分よ。時にははじけて声を出せる場があったってよいのである。日常の中の非日常があったって良い。

心が動く方法は、集団であるか、ないか以前に、ひとりひとりの思いに目を向けた眼差しが職員に養われているか、ということが問われるわけで、ユニットケアという方法は、使いこなす道具に過ぎない。

道具を使う人間自身の想像力と創造性が問われてくるのだ。ハードとソフトだって、その中で使いこなすものだ。

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准介護福祉士創設の背景とその意味。

昨日から表の掲示板でも話題になっているが、今国会提出予定の「社会福祉士及び介護福祉士法等の一部を改正する法律案」の中に『准介護福祉士』という新たな位置づけ(あえて資格とは言わない)が盛り込まれていることが明らかになった。

法律案によると『准介護福祉士』とは、養成施設卒業者で介護福祉士の国家試験に合格していない人(不合格者のほか未受験者も含まれる:厚生労働大臣指定の登録機関への登録が義務)を対象としている。

この准介護福祉士創設の背景と意味には様々な複合的要素があることを忘れてはならない。

つまり今回『准介護福祉士』が含まれた法律案は、あくまでも介護福祉士の資格取得方法の見直しに関する法律案の中のものである。

新たな法律案では、今まで養成校を卒業したものには国家試験免除で資格が与えられていた『試験なし』ルートがあったが、これををなくして、すべての介護福祉士は国家試験に合格したものでなければ資格が与えられないようにするというもので、教育課程の義務研修時間の拡充なども含んで資格としての重みを増すような改正であり、結果として質の向上を目指したものだ。

当然、その向こうには、将来的に、この資格が名称独占という現在の位置づけから、業務独占へという流れを作っていくという一連の過程の中にあると考えてよい(立場によって、その考えにはかなりの温度差があるのが事実であるが)。

なぜなら誰でも業務ができる、報酬上の評価がない資格であれば、正も准も必要ないからだ。

だからこの問題の背景には、別に議論されている、介護の基礎資格を「介護福祉士」に統一し、ホームヘルパー1級、2級という資格は将来的に廃止する、という議論とも大きく関連しているという意味である。

さらに現在施設の介護については「資格」がなくても誰でもできるというのが現状であるが、これについても将来的には業務独占とはならないにしても、有資格者について報酬上の一定の評価をしようという考え方があり、これと関連している。

つまり厳しい財政事情のなか、社会保障費削減目標の実現を図らねばならないという状況下で、時期報酬改正の際にも、介護報酬の本体報酬を一律引き上げることはできないが、必要なマンパワーの確保の観点からは人材を雇用できる報酬水準が必要で、これを資格加算で対応しようとする考えがある、ということであり、これについては「次期介護報酬改訂に関する社会援護局長の考え方から見えるもの」で述べているところである。(参照していただきたい。)

この実現も現実には厚生労働省内でも、老健局と社会援護局で考え方に相違があるし、財務省はそれとはまったく違う考えを持っているから、次期介護報酬については、不透明というより真っ暗闇の状況であるが、少なくとも有資格者の一定割合以上の配置に対する加算という可能性はあるわけで、そうなった場合は、准の位置づけも何らかの評価基準にならないとも限らないという意味もあるんだとは思う。

しかしこの『准介護福祉士』創設の一番の意味は、経済連携協定(EPA)に基づくフィリピン人介護士受け入れ対策上の問題に他ならない。

つまり、EPAで受け入れた外国人労働者は滞在期間中(最大4年間)に介護福祉士資格を取得することが条件付けられている。資格を取れない場合、帰国せねばならない。この問題について昨年8月に書いた「介護福祉士の資格で情報錯そう? 」の中で僕は

『我々に身近なある組織の圧力によるもの、外国人労働者の受入れ問題と関連して、これを推進する観点から、国家試験を経ないで資格付与される道が残されるように、動いている団体があり』

と書いているが、今回このことが『准介護福祉士』創設という別な形で実現されたという意味である。

介護福祉士の資格取得ルート自体は国家試験免除のルートを残す、ということはできなかったが、外国人労働者が4年間で国家試験に不合格となっても、国家試験受験資格さえ持っておれば准介護福祉士として継続して就労できる道を作った、という意味に他ならない。

ここでは我々にも関連する団体の主張が通ったという結果に見えるが、百戦錬磨の厚生労働省の官僚が、単に我々の関連組織の圧力に屈したと思うのはあまりに浅はかな考えで、その裏に、どのような意味が含まれているのか、そのことはもう少し後からでないと結果や意味として表に出ては来ない。

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インフルエンザの流行に参っている。

はじめに今日の話題とは別に書いておくことがある。1昨日のブログに書いた論文添付書式の件であるが、出版社から連絡が来て確認したところ、同論文の執筆者は、その書式を僕のサイトではなく、上部団体の会員ホームページからダウンロードして2次使用したものであるということだ。

早速、確認したが、なるほど、ほとんど同じ内容だ。偶然ということはありえないので、僕が作成の際に参考にしたか(そういう記憶も事実も実際にはない)、何か別の理由か・・。ただいえることは、そのサイトに資料が掲載される以前に、僕は当サイトに「看取り介護指針」とその書式をはじめとした一連の資料を掲載しており、それは掲示板でもブログでも記録として残っているし、なにより当時からの読者の皆様がそのことはご存知である。まあそれ以上突っ込むつもりはない。

悪気はないということで1昨日のブログは一部伏字にしたが、同論文の執筆者の問題は、添付資料の出処を明らかにせず、自施設の資料として掲載している点であろう。

僕のサイトから直接でなくとも、他のサイトからダウンロードして2次使用している書式であれば、そのことを明記しなければなるまい。この点で不適切である点は免れないと思う。

さて今日の本題に移る。

今年の冬はノロウイルス対策に始まって、今まで何とか感染予防ができていたところであったが、ここに来てインフルエンザが猛威を振るってきた。

もちろんほとんどの利用者が予防ワクチンを打っている(100名中95名接種済み;5名は不適応で接種できず)。また管内の感染状況は注意深くアンテナを張って、逐次情報を仕入れて注意してきたのであるが、3月はじめに1名の感染者がでて、そこから緩やかに一人、二人と感染者が出ていたところ、昨日はあらたに5名の方が熱発して、検査の結果、4名がインフルエンザと判明。今現在7名の方が感染しているということになった。しかも今日も熱発者が新たに出ている。その数は益々増えそうである。

職員も数人感染して休んでいるし、職員の家族に感染者が出ている人もいる。

この調子でいくと倍々ゲームのように感染者が増えかねず、職員で体調の悪い人は無理しないで休んでいただくことと、感染者はできる限り個室対応している。しかし数が増えればその対応にも限りがある。

おそらく感染源は外来者の方であろうと思えるが、特定は不可能だし、自身気付いていない場合がほとんどで、悪気があるわけではない。できるだけ体調の不調がある際には面会を自粛していただくしか方法はない。

昨週から、面会者の方にはマスク着用を義務付けさせていただいている。もちろん自分でマスクを持参して面会に来る人はほとんどいないので、使い捨てマスクを施設で購入し、面会者に玄関で配って協力を求めているところである。

効果は?という意見もあるが、何らかの対応は必要だろうと、この処置に踏み切っている。

いま発症している方は、すべてA型インフルエンザで、そういう意味では予防ワクチンは空振りというわけではないのだが、ワクチンを打ったからといって完全に予防できるわけではない。ただワクチン接種済みの方は、感染して症状がでても、未接種の場合より軽い症状で済む、とも言われているので、それに期待するしかない。

最初の感染者の方は、症状は軽快に向かっている。しかしかなり高熱を発している人もいて、脱水等には充分注意が必要な状態である。

特養のような施設の場合、気密性が高いがゆえに、感染が施設内に広がりやすい、というデメリットもあり、逐次、換気が必要だが、この寒い時期に少しでも、どこかの窓を開けて外気を入れていると利用者からすぐ苦情が出る。

飛まつ感染が主となるし、感染が広がることを完全に防ぐことは不可能だ。できることは職員自信の体調管理(これとてウイルスには限度がある)、環境衛生、外来者の方々への予防対策協力、感染者の導線をできるだけ狭くして経路を絶つことくらいだろう。

それにしてもこの感染の拡大は、インフルエンザワクチン接種が公費負担されるようになった際の、きっかけになった流行時の状況に似てきている。心配である。

ショート利用の方々も、利用中に感染を防ぐ完全な対応は無理であり、現在利用している方や、これから利用予定の方々には、担当ケアマネを通じて、あるいは直接的に利用者や家族に、現在のインフルエンザ流行の状況をお知らせしている。その上での利用可否判断をしていただく以外ない。

できる限りの対応と対策を行なってはいる。残されていると考えられる対策としては、信心が薄い僕でも神頼みくらいしか思い浮かばない。

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パクリに目が点〜論文添付資料。

日総研の介護リーダー2006という隔月誌に1年間連載してきた。その最終稿の掲載された冊子が昨日届いた(3/30発行分)

その冊子に何気なく目を通していて思わず目が点になった。

連載の中で、僕も「看取り介護の視点」というタイトルで当施設における看取り介護の考え方と実践について執筆している。その理由は当施設はおそらく全国1早くネットで『看取り介護指針』や、そのほかの各種書式を公開しているからだ。

掲載資料は指針のほか、夜間緊急対応マニュアルや医師の診療体制表、看取り介護の同意書である。すべて当施設のオリジナルである。

ところで今回の「介護リーダー2006」の中に、ターミナルケアについての実践論文が掲載されている。

この論文の添付資料に「看取り介護についての同意書」がある。

文言は数箇所変えられているが、ほとんど僕が作った同意書と同じ内容と表現である。書式のスタイルもまったく同じである。そもそもタイトルは1文字も違わない。僕のオリジナルをベースに修正したと考えても不思議ではない。

僕はこの同意書は、どの書式も参考にせず、自分で作った指針に示した内容に基づき、白紙の中から自分の言葉で作ったものであり、参考になれば多くの皆様に使ってもらっても良いと考えて、看取り介護指針と共に当施設の公式Webに掲載してインターネットを通じて公開している。

それを各施設や事業所で使用することには問題はない(使用するにしても一言メールで挨拶はあってよいとは思うが・・それは強制ではない)。

しかし自施設や事業所で使用することと、自分の論文等に参考資料として掲載することは明らかに意味が違う。

著作権云々という問題を問うつもりはないが、法的にはインターネットで公開したとしても、著作権は放棄されていないとされ、手に入れた人が自由に使うことは問題ないが、第3者に自分の作ったものであるとアナウンスすることはできないし、例えばネットで公開されている資料や情報を学校の講義で使用する場合も、出典を明らかにせねばならない(必ずしも著作権者に承諾を得る必要はなく、どこに掲載されているかを明らかにしておれば良い)とされていると理解している。

今回は僕が作った同意書とまったく同一ではなく、数箇所文言や内容は変わっているがその修正箇所はごく一部で、誰が見ても、当施設サイト上に公開されているものがベースになっていることは明らかである。それを自分の論文の参考資料とし、あたかもオリジナルの書式のごとく掲載している。

各施設や事業所では、ネットでの公開資料を参考にして自由に使ってくださって構わないし、公開されているものをそのまま使ってもらっても何の問題もない。義務ではない連絡をしなくても構わない。

しかし論文に資料添付するのは問題ないのだろうか。僕がたまたま、この冊子に連載をしておらず、読む機会がなかったら気付かないし、どこからもクレームはつかないのかもしれない。

だが、これは法律より良識の問題だろう。

様々な書式をすべてオリジナルで作る必要はないだろうし、雛形や参考があっても良いが、原資料を無視してあたかもオリジナル書式のごとく、自らの論文に掲載する行為はいかがなものかと思う。

パクリといっても言い過ぎではないだろう。

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多床室と個室のこと〜そして居室変更について

僕の施設はユニット型ではない既存施設といわれる特養である。部屋のタイプは個室と多床室があり、個室は32室、多床室は2人室が12室、その他が4人室である。

個室と多床室のどちらが良いかと問われれば、迷いなく個室が良いと答える。住む側としても、サービス提供側としても同様にである。

住む側としては、自分に置き換えればよい。
生まれも育ちも違う他人と、ある日を境に、突然、生活の大半を共に過ごさねばならない。こんな暮らしに「慣れる」のは容易ではない。いくらプライベートカーテンで仕切っても、遮ることが出来ない音や臭いや気配を無視して何も感じなくなる過程では、さまざまな「自分らしさ」を捨て、かなりの「あきらめ」を自分の中に強いる必要があると思う。

そういう意味では、少なくとも夜、ゆったりと休む空間は、狭くはあっても個室としての空間が必要だと思う。

ところで、このことの反論に「1人部屋だとさびしがる人が多い」という意見がある。何と比べて多いのか明確に説明でいる人に出会ったことは無い。本当に個室を利用すると寂しがらない人より、寂しがる人が多いという根拠は何も無く、そういう意見を述べる人の感覚の域を出ていない場合がほとんどだ。

確かに実際に「1人部屋は寂しいからいやだ」という高齢者に出会うことはある。しかしそれは例外なく、入院生活を長期に送っている人で、その生活に慣らされてしまっている人であり、かつ、個室に対してそこに入ったら誰も来てくれずに放っておかれるというイメージを持っている人である。そういう方々が、実際に、ホームに入居し個室を利用してみて「こんなに快適なものか」ということになる。

寂しさとは、居室の形態により生ずる問題ではなく、施設サービスのあり方、利用者と職員の関係により生ずる問題なのだ。貧困劣悪なサービス環境においては「多床室の孤独」だってある。日中を中心に、適切な活動参加や他者、職員とのコミュニケーションが出来ておれば、個室はプライベート空間として、アメニティの高い、自分らしさを保障される空間になり、デメリットなどない。

サービス提供側から見れば、個室が多いということは、導線が広がって、目が届きにくくなる、という心配がある。導線が広がることは、その通りであり、動く距離は長くなるが、個人に目が届かなくなるというのは施設あるいは職員の意識と構造の問題である。

むしろ多床室の中で、すべて集団の視点で画一的なサービスをすることにより、見失ってしまっている個別のニーズや方法論が、個室に変わることにより表面に出てくる、という面がある。

つまり多床室であれば、仕事の効率が高いというのは間違いで、サービス提供側の論理だけで生活ケアを単なる作業にしてしまっていた、という問題を浮き彫りいさせているもので、その反省を多床室のケアにも生かしていかねばならない。そうなると同じ部屋の中にいる他人に配慮したケアを行なう為には、プライベートカーテンやパーテーションを介護のたびに利用したり、音、臭い、気配に配慮したりするケアが必要になり、むしろ個室より多床室の方が手間がかかる。

だからこの面での個室のデメリットも本来的には「ない」というのが正解だ。

何よりも個室のメリットは「人間関係上のトラブル」が起き難い、という点にある。多床室では必ず「あの人と一緒の部屋では困る」というトラブルが発生する。その理由も様々で、鼾であったり、話し声であったり、音に関するトラブル。態度や性格上の合う合わないという問題も非常に多く発生する。そのたびに解決の手段を考察するが、完全解決の為には「居室替え」しか方法がない場合がほとんどだ。しかし、この時も、どちらが替わるのか、どこに行くのか、ベストの解決策は見つからない。極端な場合、問題のある人を「もの言わぬ人々」に押し付けて問題が解決したがごとく装って終わり、というケースも見られる。

こうした問題は個室では考えなくて良い。そういう意味でも個室はサービスを提供する側にとってもメリットが大きいと思っている。

それにしても、僕がこの業界に入った当時、個室はごく一部の施設の限られた部分にしかなく、ほとんどの施設が多床室しかない施設だった。そしてそれらの施設では「定期的な居室替え」なるものが行われていた施設もある。理由も様々だが、環境提供の公平性とか、刺激を与えて心身を活性化する、などという解るような解らぬような理由を説明された覚えがある。

始めてそういう考えを聞いたとき、1年で必ず替わらねばならないなら「生活の場」とはいえないし、施設の決め事でそういうことが行われて良いのだろうかという疑問を持ったものである。

だから個室がなかった頃から、僕の施設ではなるべく居室変更は最終手段で、そのことが行わなくて良い方法をとってきた。しかしそれでも個室ができて人間関係上の変更が必要なくなってきつつあるが、多床室では未だに、トラブルでの変更を余儀なくされることも多ある。全室、個室なら、こうした事はないのになあ、と思ったりする事が多い。

ただ残念ながら施設側の都合による居室変更が全く無いわけではない。

医療依存度の高い高齢者が増え、特に胃婁の方が増えてきている。これらの方の濃厚流動食の補給やチューブ交換に関ることが出来るのは看護職員のみであり、介護職員は行えない行為が多い。365日看護師は休みなく配置していても、どうしても一人の看護師で全て対応しなければならない時間や日が存在する。そのとき、胃婁の方々が広く分散した場所に居ることで安全な対応に支障がきたす場合があり、どうしても近くの部屋に集中して対応せざるを得ないという「胃婁対応スペース」というものができてしまっている。

この対応は意識改革も含めて今後の課題である。ただこれも全室個室なら、アメニティや環境にほとんど影響しない形での変更も可能なのに、と思ったりする。

介護・福祉情報掲示板(表板)

サミットのニュースで、おちこぼれ指導員部会を思い出す。

北海道は今日、2008年に日本で行なわれるサミット(主要国首脳会議)の開催地への立候補を表明するそうである。

開催場所は洞爺湖町で「洞爺湖サミット」と呼ばれるらしい。

しかも政府内では警備上の費用負担が少ないことなどから、同地が開催場所の最有力候補となっているという報道もあり、来年、道内でサミットが行なわれる可能性が高まっている。

実は、洞爺湖温泉は10年ほど前まで、北海道社会福祉協議会主催の、各研修会の会場になることが多かった。今は札幌で行なわれている全道研究会議等も洞爺湖のホテルを会場に行われていたから、全道規模の研修も年に2〜3回は同地で行なわれていた。

僕もそこに参加することが多かったし、洞爺湖の会場ホテルで同室になった仲間との数々の出会いもあり、今でもお付き合いのある関係者と、その場所で出会ったりしているので思い出深い地である。

思えば、十数年前ADOW【アドゥーと読む;association of drop out wakers(アソシエーションオブドロップアウトワーカーズ)の略:おちこぼれ指導員部会:という意味である】という会を作って年に一度集まって、ああでもない、こうでもないと語り合っていたことがある。

その仲間も、洞爺湖のホテルで研修中に意気投合した仲間で、「今の福祉の状況を打破するのは、今、おちこぼれと呼ばれてもいいから既製の枠組みを破って別なことをやらなきゃあ」という意気込みもあって(本当は単に親睦の団体という意味合いが強かったか?)集まった連中であった。若かったなあ。

ワープロがそろそろ普及しだしたことに会報を作ったり、なんだかんだと集まっていたよね。

女性のメンバーは結婚退職したり、男性の仲間でも転職したりしたメンバーもいるけど、今でもこの業界で頑張っている連中も多い。顔を思い浮かべても、すごいメンバーが揃っていた、と思う。あのときに、あの集まりから影響を受けたことも多いなあと思い出している。

俺たちの主要会議も、洞爺のホテルで始まったということだ。

さてサミットの主要会場となる予定の「ザ・ウィンザーホテル洞爺」は我々が泊まれるようなグレードのホテルではないが、できた当時(所有者もホテル名も違っていたが)友人の招きで、ここのラウンジでカクテルをご馳走になったことがある。それも全道老人福祉施設研究大会の最中のことであったと記憶している。

温泉街とはまったく離れた山の上に、洞爺湖を悠然と見下ろすように建てられている超高級ホテルである。レークビューも絶景であるし、素人からみても警備には都合がよいだろうと思う。

ところで洞爺湖は、ここ登別からはオロフレ峠を越えれば40分ほどでたどり着くすぐ隣の町という感覚である。

サミット開催となれば、関係者の宿泊場所は報道陣を含めると洞爺湖町だけでは足りるはずもなく、周辺の宿泊施設にも関係者の宿泊拠点が作られるのだろうし、そうなれば札幌より会場に近い登別温泉にも、たくさんの関係者が宿泊することになるんではないだろうか。

別に悪いことはないだろうが、通勤に支障をきたすような交通渋滞にならないか心配している。

ということで、今日はサミットのニュースで、若いころのADOWのことを懐かしく思い出した。あの時の会報をどこかに綴って保管しているはずなんだが、見つけ出せない。なんとか探して読みたいと思っている。

タケダ御大、トリさん、持ってないかなあ?

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士の上級資格を創設〜方向性が間違っていないか。

今日付けの読売新聞の報道によると、「厚生労働省は5日、重度の認知症患者などを世話し、介護事業で指導的役割を担える介護福祉士の上級資格として「専門介護福祉士」(仮称)制度を創設する方針を固めた」との事である。

その理由として全労働者平均給与より100万以上年収が低い現状から、介護福祉士の離職率の高くなっており、「業務内容に比べて賃金水準が低い」との指摘もあり、待遇改善により人手不足を解消しようとするものである。

しかしこれが本当に待遇改善、人手不足解消に結びつくのかと首をかしげている人のほう多いだろう。しかも介護福祉士の資格見直しの最中の状況資格の創設である。どのような意味があるのだろうか。

介護福祉士の地位向上、待遇改善が進まないもっとも大きな要因は、この資格が名称独占の資格で、業務独占になっていない為であろう。しかし業務独占とするのは、その資格取得過程が、看護師資格と比して、あまりに統一性や専門性に欠けている構造になっており、一方では専門学校を卒業するだけで資格が付与され国家試験が免除されている。一方、実務経験での受験の場合、国家試験合格が必要だが、専門的な研修が行なわれているとはいい難い。

看護師の養成、資格付与過程と比して上記の点で著しい差があるのが現状で、資格付与体系の見直しが行なわれ、国家資格や基礎研修を全対象者に義務付ける等の検討がされている最中での、今回の上級資格論である。

むしろ上級資格を作る前に、基礎資格の底上げ、社会的信用を担保する資格取得システムを構築した上での、介護業務への資格評価報酬の導入などを図っていくべきではないのだろうか。

実は昨年8月に僕は「介護福祉士の資格で情報錯そう? 」というブログを書いており、この中で

≪国家試験を全員に義務付けるという部分については既に、「ぽしゃった」という情報がある。しかもその原因は、ある組織の圧力によるもの、外国人労働者の受入れ問題と関連して、これを推進する観点から、国家試験を経ないで資格付与される道が残されるように動いている団体があり〜。≫

と書いたことがあるが、今回の上級資格者の問題も、外国人労働者の受け入れ問題と絡めて、外国人労働者は将来的に継続してわが国で介護労働に就く条件の一部に、介護福祉士資格の一定年限での取得が条件になっている為、この資格の取得難易度自体を高めるのはやめて、このハードルは低くしたままで、という意図があり、それに替わって別の上級資格を作ろうとするものではないかと考えてしまう。

同時に将来的に介護の基礎資格は介護福祉士に一本化してヘルパー資格をなくそうという議論がされていることの影響も無視できない。このためにもハードルを上げない、ということではないか。しかしこれは現場のニーズにも、国民ニーズにも合致した考え方ではないと思う。

上級資格ができた場合、介護福祉士資格というものは、どのような価値があるのだろうか。非常に危惧されるところである。

しかも厚生労働省が先に「将来的にすべての介護職員に義務付ける」としている500時間の「介護職員基礎研修」については、先行して動き出している地域では、その費用が一人30万から50万かかる研修になっている。こうした基礎研修の上の、さらなる上級資格を取得する為に、現行の介護福祉士はいくら自己負担しなければならないのだろう。

その結果として上級資格を取得して待遇、給与アップが図れるのだろうか。図れるとして、どのくらいの水準になるのか。

介護給付費というもともとのパイが上がらねば、その水準はしれているし、上がった分を、どこで補填するのか、ということで言えば、現行のヘルパーや介護福祉士等の待遇はますます悪化するのではないだろうか。

少なくとも上級資格に対する、報酬加算の方向性が示されなければ、格差の助長にしかならない。

これも改正とはいい難い考え方である。

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通所介サービス、規模別報酬の計算から見える矛盾。

通所サービスの報酬については制度改正で利用者実人員に応じた規模別報酬が導入された。このルールでは「毎年度3月31日時点において、事業を実施している事業者であって、4月以降も引き続き事業を実施するものの当該年度の通所介護費の算定に当たっては、前年度の平均利用延人員数は、前年度において通所介護費を算定している月(3月を除く)の1月当たりの平均利用延人員数とする。」とされている。

3月を計算式から除外しているのは、3月末までの実績から計算したのでは、4月の介護計画を立てる段階で、通所サービスの規模別報酬がどれに属するか不明で、3月中に新年度・4月の計画が立てられないからであろう。

つまり3月に入った時点で、通所サービス事業所は前年4月から、当年2月までの1月当たりの平均利用延人員数を計算しなければならない。

計算式においては「指定通所介護事業者が指定介護予防通所介護事業者の指定を併せて受け一体的に事業を実施している場合は、当該指定介護予防通所介護事業所における前年度の1月当たりの平均利用延人員数を含む。」とされ、当事業所はまさに、ここに該当するので予防サービスの人数を含んで計算することとなる。

このとき注意すべきは「平均利用延人員数に含むこととされた介護予防通所介護事業所の利用者の計算については単純に延人員を加えるのではなく、同時にサービスの提供を受けた者の最大数を営業日毎に加えていくこととする。」というルールである。

つまりは、予防サービスは介護サービスと異なり、サービス提供時間が報酬別に決まっているわけではなく、各個人の状態に併せて事業所の2次アセスメントで決めることが出来、介護通所と予防通所を一体的に行なっている事業所においては、予防の対象者は時間によってサービス利用している人数が異なる場合がある。また予防サービス対象者のみ午前と午後の2単位に分けて介護サービスと一体的に実施している事業所では午前5人、午後6人などと利用人数が異なる場合がある。

このとき延べ人数合計で利用人員を算出するのではなく「同時にサービスの提供を受けた者の最大数を営業日毎に加え」というルールであり、例えば定員20人の介護と予防通所を一体的に行っている事業所で、ある日、介護サービス10名、予防サービス午前4名、午後6名という場合
予防サービスの利用者が午前と午後で入れ替わり別の利用者が利用していても利用人数の計算は10+4+6=20ではなく、10+6=16となる、という意味である。

また当事業所のように4〜6のサービス提供時間の場合は「4時間以上6時間未満の報酬を算定している利用者については利用者数に4分の3を乗じて得た数とする。」という計算式だから上に例示したケースでは10×3/4+6=13.5 という計算式になる。

この場合、気をつけなくてはならないのは、予防通所はサービス提供時間が介護サービスより短い時間だとしても1と計算することになる。

ところでこのルールにある矛盾があるのを皆さんはお気づきだろうか。

つまり規模別報酬というのは「事務経費等の固定経費についてスケールメリットが働くことから、それに相当する程度」の減額や加算を行っているという意味である。

ところが定額報酬の予防サービスの利用回数は事業所の2次アセスメントで決まっており、要支援1の人が必ず週1回しか利用できない、ということではない。現実に当事業所では要支援1の人でも週3回利用している人が居られる。そうなると収入増加にならない利用者の数も実はこの規模別報酬の計算上の利用人数に含まれてしまうということになり、利用者の状態増に関係なく、2次アセスメントも不十分で、一律予防の対象者を要支援1は週1回、要支援2は週2回の利用などと限定している事業所の方が、より高い報酬を算定でいるという矛盾が生じてくる。

つまり規模別報酬とは事業所の質の評価にはなり得ないし、スケールメリット論も予防サービス対象者を計算式に加えることで綻びが生じたルールになっているという実態が見て取れるのである。

何はともあれ通所サービス事業所は、この計算を早急に行い、4月以降の報酬が小規模型か通常型か減算型か利用者や担当ケアマネにアナウンスする必要があることを忘れてはならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

講演で話していること

今日は特別な話題が思い浮かばないので、今、僕が様々な機関の依頼を受けて講演を行う際に、どんなテーマで何を話しているのかを書いてみたい。

講演テーマは、依頼される内容や、聞いてくださる皆さんが、どのような立場かで若干違いはあるし、まったく同じ内容で、別の場所で話をする、ということは少ない(同じテーマで同時期であれば、使うファイルも内容も同じということはあり得る)。ただ時期ごとに、話題となっているテーマは絞られるので、話の方向性は似てくるということはあるかもしれない。

とりあえず、つい最近話しているテーマや、今後話す予定のテーマを挙げてみる。

1.介護保険制度改正から1年〜その検証と課題
新しい介護保険制度の現場で何が起こっているのか。問題点は何かを、居宅介護サービスを中心に検証している。単に問題がある制度ということではなく、問題点を的確に知ることで、現場の介護支援専門員やサービス従事者の支援の方向性を見出そうとする意味。ケアマネジメントのあり方を総合的に考える視点が骨格。新予防給付の問題や課題も検証し、特に予防訪問介護が一緒に家事をしないと不適切だという誤解等にもふれて、あるべきケアマネジメントの課題を抽出している。

2.施設ケアマネジメントのあり方
わが国では介護保険制度とケアマネジメントの導入が同時に提唱された結果、両者が一心同体のように捉えられがちである。しかし本来それは別個なものである。その誤解によってケアマネジメントが居宅介護支援事業所の方法論に偏って考えられてしまい、施設のケアマネジメントの方法論が確立されていない。
また施設の介護支援専門員の位置づけも不明瞭で、各施設により業務内容も大きな違いがある。専任化が必要なのか、何の専任化なのか、ということを含め、施設の介護支援専門員の位置づけや業務内容について提言を行なっている。

3.地域で起こっている介護問題
一般市民、地域住民の方々を主な対象として、要介護状態とはどのような原因で起こるのか。その結果、地域の中に、各家庭でどんな介護状況が生まれ、介護問題が生じているのか。認知症の高齢者の方々の問題も含め、特別ではなく身近な問題として、自分たち自身が関係する「介護」という視点を解説している。

4.看取り介護の実践と課題
おそらくネット上で独自の「看取り介護指針」を公開したのは僕が最初であろう。もしかしたら、この指針自体を一番初めに独自に作ったのも僕かもしれない。ということで、その指針に盛り込んだターミナルケアの理念を中心に、特養でのターミナルケアの歴史的流れ、制度改正後の「看取り介護」のルールとポイント、指針のあり方・意味、実際の看取り介護の方法や課題について、現在までの実践例を挙げながら解説している。死生観の問題にも触れ、看取り介護が死への援助ではなく、対象者が最期の時まで尊厳ある生き方ができる支援であることを説明している。

5.認知症高齢者のケア
認知症とは何か、医学的見地からだけでなく、生活障害としての認知症について、ケアの及ぶ部分とケアの手が届かない部分の違いも含めて、介護の現場で支援に関わる関係者がもつべき理解的態度や実際の方法論を提言している。

まあ、最近は、だいたいこういった内容で話すことが多い。

それから今月10日には、地区の社会福祉士会で「療養型医療施設の廃止の問題」に関してお話をすることになっているが、これは所属する職場が多岐にわたる社会福祉士の勉強会で、皆が共通に問題になるであろうテーマとして選択したもので、単にお金をかけないために事務局の僕がお話しするに過ぎない。これから内容を考えてファイル等を作らねばならない。

また5月の予定としては、ある地区のケアマネ会において「デマンドとニーズの違い」をテーマにケアマネジメントについて講演することを依頼されている。この内容もこれから精査するが、単にデマンドがニーズではない、ということではなく、表明されているニーズと隠されているニーズということが重要な視点になると思う。当然、介護支援専門員が対象の講演だから、ケアマネジメントはソーシャルワークの一技術である、ということも骨格になり、ケアマネジメントだけが介護支援専門人に求められる援助技術ではない、ということにも触れていかねばならないと思う。

ただ講師とて人間である以上、様々な考えがあるし、その考えも間違っていないとは限らない。講演を聞く側の方々は、それがすべて正しいといして全面的に受け入れる態度ではなく、自分の考えや実践と比較して、様々に判断をすればよい。その中で、一つでも自らの資質向上やサービスの向上に繋がるものを見つけ出して欲しい。

ただし批判をする為だけに聞く態度は建設的な姿勢とはいえず得るものもないだろう。大事なことは、講演で聞いた内容を一方的に受け入れるのではなく、それらを充分咀嚼して、自らのスキルアップの肥やしにしようとする態度である。

知識とは、人から一方的に与えられるものではなく、自ら獲得するものであることも忘れてはならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

挨拶。

今日、僕が書く内容については異論がある方も多いだろう。しかし僕の考えとして書こうと思った。間違った考えであるとしても、正さなければサービスに著しい障害を及ぼすような問題でもない。こうした考え方もある、というふうに認識してもらって、様々な生活場面での既存の方法論を見つめなおすきっかけになれば良いと思う。さて本題だ。

挨拶は大切だとは思う。

ただ問題はその方法、声のかけ方である。

僕自身の個人的好みで言うと、昨今、コンビニエンスストアに入るたびに大きな声で「いらっしゃいませ、こんにちは」と言われるのは『うざったい。』
普通の声で「いらっしゃいませ」だけで充分だ。

特に迷惑と感じて、イラつくのは、レンタルビデオ店や本屋での店員の声のかけ方である。

ビデオや本を選んでいる最中に、他の客が入ってくるたびに大声で「いらっしゃいませ」という声がかかるのは非常に不快である。挨拶をするなというのではない。ことさら不自然に大声を上げるのではなく、普通のトーンで静かに声をかけたっていいじゃないかと思う。

昔からの古い本屋で、レジにおじさんが静かにたたずんで、客の出入りにもほとんど無関心で、値段を言うときしか声を出さない店のほうがほっとすることがある。

商売のタイプで、それに見合った声のかけ方というもんがあるだろう。ほとんど叫んでいるような挨拶をする店員がいる店は、できるだけ行かないようにしている。

施設を訪れた人に対しても、玄関や廊下で顔を合わせた職員は、きちんと挨拶ができないとならないとは思う。

ただその声のかけ方は「普通」でよいと思う。ことさら大きな声で、元気よく、声をかけないと外来者に失礼と言うことはないと思う。

それと外来者に対し「いらっしゃいませ」と言うのはなんとなく違和感がある。「おはようございます」や「こんにちは」でよいのではないか。その声のトーンも普通で良いと思う。

ここは家庭に変わる場所で、商店ではないのだ。朝、出勤したときに、ここに住まう方々に「おはようございます」という声は、ごく普通のトーンで、普通の会話で話しかけるはずだ。外来者だからといって、特別な声のかけ方が必要なのだろうか。施設の職員として外来者を迎える立場で「いらっしゃいませ」というのだろうが、どうも商店に入る客に対しての「いらっしゃいませ」に聞こえてしまう時が多いのだ。家庭を訪ねた来訪者を、玄関のドアを開けて、いきなり「いらっしゃいませ」という人は多くないだろうと思うし、僕にはそういう習慣はない。

僕は職員に挨拶をきちんとするようには常に注意しているが、ことさら大きな声で挨拶するような指導はしていない。普通の声でよい。

利用者の名前の呼び方も、呼び捨てやニックネーム、ちゃん付けは論外だが、「様」というのにも違和感を持つ。接遇の指導者に言わせると(ごく一部の考え方と思うが堂々と専門誌にも掲載されているので)介護サービスも顧客と従業員の関係であり、他事業所とサービスの質の差を図って生き残る為には、そうした差別化の意識改革が必要だというが、我々が介護の現場で利用者と接している関係は単なる顧客と、サービス従事者という関係にとどまらず(もちろん家族と同じではないが)もう少し近しい関係で、生活支援が必要な方と共に生きる、共に暮らす支援者という意味があると思う。

その場でふさわしい呼び方は「様」ではなく「さん」でよいと思っている。

接遇というのは専門家に言わせれば、施設の「人間性」を物語るものだそうである。だが化粧をして仮面をかぶった人間性では意味がない。マナーとか、作法とかいうものは目に見える表面の部分を飾ることのみをいうのではないだろう。

その根本は介護の現場でも、人を人として当たり前に敬い、尊厳に対して真摯に向かい合う姿勢だろう。

良い施設は挨拶も立派だといわれる方も多いし、それは一面真実を語っていると思うが、少なくとも「挨拶がよければ良い施設だ」という説は成り立たないと思う。

そしてよい挨拶が、商店街の呼び込みや、コンビニエンスストアの接遇を基準に考えられるものでもないだろうと思う。

外来者への挨拶の声に驚いたり、戸惑ったりする利用者を無視して、ことさら大声を上げる必要なんてないのだ、と考えている。

看取り介護へ寄せられる疑問に答える

特養の看取り介護についてはその問題を過去にも書いてきたし、そのまとめはトップページの「看取り介護の実践とその考察」に掲載している。そのことと一部重複することを恐れず、述べておかねばならないことがある。

というのも一部の医療関係者の中には、昨年の制度改正で特養に看取り介護加算という請求コードができ、費用算定されることになったことで、費用算定を目的に、安易に終末期のケアが特養に於いて行なわれるのではないかという疑問を持っている方がいるからである。

確かに国の考えは、介護保険制度改正のみならず、医療制度改正においての在宅療養支援診療所の位置づけでもわかるように、死を迎える場所を医療機関から、それ以外の場所に渡そうという誘導はあるように思え、それは医療機関で終末を迎える場合より、他の場所でターミナルケアを行なうほうが医療費の抑制効果がある、という意味があることを否定はしない。

しかし、だからといって、看取り介護加算ができたから、特養で終末期のケアは安易に行なわれるというのは大きな誤解である。

施設サービスの報酬は抑制され、特に昨年の改正では多床室の単価が下げられたことで、経営的に厳しくなっていることは確かである。そのため体制加算の「重度化対応加算」の10単位というのは非常にありがたい加算であり、これもターミナル関連加算といえるわけではある。しかしこの加算は「看取り介護を行う体制も含めた重度の医療対応が必要な人も受け入れることができる体制」に対しての加算であり、正看護師の配置や、医療機関との24時間連携が必要で、体制作りにもコストがかかるもので、必ずしも経営的なメリットがあるというものではない。

ただ医療対応が必要な利用者が増えて、それらの方々に対応する場所が必要というニーズに応えるのも特養の社会的使命であり、そういう意味で体制が整えることが可能な施設で、この加算を算定して、適切に利用者の医療ニーズにも応えようとするものである。そしてこの体制加算自体は、ターミナルケアを行うという実績とは直接的な関連はない。

ターミナルケアの実績加算としての「看取り介護加算」との関連で言えば、重度化対応加算を算定している施設で、利用者が終末期に過ごしたいと望んだ場合に、そのニーズに応えられないのは問題であろうし、当然「看取り介護」を行うことが前提になっていることは間違いない。

さて、そのとき、実際の看取り介護を行い「看取り介護加算」を算定して、経営的にメリットがあるのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。

例えば当施設での実績を見ると、昨年4月から11月までの実績では、看取り介護の実施件数が7件、延べ44日実施である(最短1日、最長21日)。加算報酬は44日×1.600円=70.400円である。コスト計算を細かくすれば、このために看護職員が夜間対応する超過勤務費用、看取り介護のために、その他の職員が超過勤務する費用や、看取り介護のための消耗品費用などを勘案すれば、ここから収益など出るはずはない。

また看取り介護は30日以上実施しても、加算算定期間は30日限定なので持ち出しのほうが大きくなる可能性のほうが高い。だから看取り介護を行って施設の収益を上げるなんてことは不可能だ。この部分だけいえば赤字であろう。

しかし振り返って考えれば、当施設をはじめ、加算がない時代からターミナルケアに取り組んできた施設は、それに対する手当が報酬上にできた点はメリットとして認めるが、この報酬算定を目的に看取り介護を行う、という動機付けはない、ということを認識していただきたい。

そもそも特養でのターミナルケアの始まりは、収容施設から生活施設への転換過程で、終生施設としての責任を果たして利用者ニーズに応える形から始まっている。

昭和50年代の初めは、特養利用者が入院すれば1月で籍が切れてしまった。それでは特養は「終の棲家」とはなり得ない、ということから長期入院は3月まで籍を施設に置いておくことができるルールに変更された。それでも当初は、医療機関で医療的な対応は終了したのに、あとは清潔援助と褥創予防や経口からの栄養や水分摂取にできるだけ努めて、安楽な最期を援助するだけなのに、看護対応が不十分で受け入れられない施設。あるいは老衰が進行して、医療機関に受診したがこれ以上、医療処置をしての対応はないのでつれて帰りなさい、といわれ困惑して入院をお願いするような事例が多々あったようで、その都度、医療機関の医師の皆さんからは、特養でターミナルを行なえないのは「おかしい」という指摘とお叱りを受けてきたところである。

それらの疑問や指摘に応える形で、特養では看護職員の配置も基準以上に整備して、協力医療機関との連携の体制も整備して、終末期のケアを行なえる体制を整えてきて、実際にそれを行なうように汗をかいてきたものである。

ところが報酬上に加算ができた途端に、それとは180度方向が違った批判的意見が出るのはおかしいし、認識不足であると思う。

ところで、このたび、ホスピスの関係者の皆さん、医師の方々が中心となっている「日本死の臨床研究会」の北海道支部の依頼を受け4月14日に、札幌市で「介護施設での看取りを考える」という研修会で講演を行う予定になった。

60分という短い講演ではあるが、その中でもこの問題にも触れておかねばならないだろうと今、考えているところである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

療養型医療施設廃止問題のもう一つの意味

昨日も書かせていただいた当地域のケアマネ会と医師会との懇談会では、療養型医療施設の廃止、縮小問題もテーマの一部に取り上げられた。

しかしその問題を深く掘り下げるまでには至らず、現状のまま、療養病床の数が減っても、特養は現在でも数多くの待機者を抱え、年間の新規入所者数もある程度の人数しかないことから見ても、受け皿にはなり得ず、療養型自体の転換施設が、既存の入院利用者をいかにスムースに転換施設に移行できるかが介護難民を作らないポイントではないかという部分までしか話が及ばなかった。

しかし転換施設が有料老人ホームやケアハウス、グループホームなどである場合、費用負担の面で利用不可能な利用者が出てくるだろうし、老健であっても、中間施設としての在宅復帰機能が軽視されていく「施設再編、見直し論」になっていくとは考えられず、療養型利用者で医療ニーズの高い、要介護度の高い人で在宅復帰やリハビリの適用とは思われない状態像の人をどうするかというめどは暗闇の中である。

このことに関連して施設機能の見直しということで、特養と老健の機能や医療の位置づけが議論されているが、両者が同じ施設になることはあり得ないと(個人的には)考えている。やはり終生介護施設と在宅復帰機能中心施設、という区分は残さざるを得ないであろう。ただ老健のマルメ医療など、医療保険との関連が、特養の利用者への医療対応の状況と、どのように整合性をとっていくのか、という部分が再編議論の中心にならざるを得ないのではないだろうか。このことは、また別の機会で詳しく述べたいと思う。

さて療養型廃止の問題に対し、それらの施設の経営者としての医師の皆さんは、どのように対応を考えているのだろうか。おそらく現時点では「なんともいえない」「ここ1〜2年の状況を見て対応を決めたい」という考えを持っている方が多いように見えた。先が不透明という感覚が強いのである。

そしてできれば「医療保険の療養病床」として存続させたい、という希望が一番多いのであろうと思う。だが現実には全ての病床がそのような存続は不可能である。地域の中で削減される療養病床数が何床になるのかが大きな論点になってこよう。ではその後は、どうなるのであろうか。

国は介護療養型の病床が、老健に転換することは「完全に保障する」と言っている。そして職員配置や機能面から見ると、第3者的立場からは、転換施設としては老健がもっとも選択肢としては、ふさわしいように思える。しかし利益率など経営面から二の足を踏んでいる経営者の方々も多いと思われる。どちらにしても、現時点で明確に構想を持っている方は少ないように思える。

さて、ここで療養病床の廃止を別な面から考えて見たい。

療養病床の廃止は施設も居宅サービスも受け皿が不十分な状態で実施される可能性が高い。介護難民は至る所で生まれかねないが、それでも行き場所がない高齢者は居宅で家族の支援も得ながら暮らさざるを得ない。

そうするとそのとき、23万床分の療養病床削減で、老健に転換しない9万床分はケアハウス、有料老人ホーム、グループホーム等へ転換される。

このもう一つの意味は、入所施設のベッドが減る、ということのみならず、短期入所療養介護のベッド数も削減される、ということにならないだろうか。なにしろ短期入所療養介護とは今現在は介護療養病床の定員数の「内枠」のなかにあるもので、これがなくなれば内枠自体がなくなることを意味している。しかも介護療養病床のショートが減った分のショートベッドがどこかに増えるという方向には現在はなっていないし、そのこと自体の議論もほとんど行なわれていないように思う。

しかし5年後は、今年定年に達した団塊の世代の人々が65歳に達する。要介護者の割合は増えなくとも、数は増加する。施設利用者は減って、在宅で生活する要介護者の数が現在より大幅に増えることが予測されるが、そのとき一時的な滞在サービスを組み込んだ支援計画が不可欠で、ショートスティは在宅介護の重要なサービス資源であろうと思える。

その量も減ってしまうということの受け皿も不透明であるのが現在の状況である。だから今後は、ショートスティのベッドが地域の中でどのように確保されていくのか、現在の量が適正量で、それが維持されていくのかも見据えていく必要があるのでないかと考えている。

介護・福祉情報掲示板(表板)

医師から顔の見えるケアマネになることの重要性

昨週末の金曜・当地区で「第4回介護保険懇談会」が、午後6時30分から2時間開催された。

これは医師会と地域ケアマネ会の定期懇談会で4年前から年1回定期的に行なわれている。介護保険制度の中での双方の様々な関わりにおける問題点を話し合ったり、情報交換を行なったり、相互理解を深める貴重な場である。

今回も、ターミナルケアへの関わりとか、医療保険のリハビリ日数制限による介護サービスへの移行の問題、療養型廃止で予測される問題など多岐にわたるテーマが話し合われた。そのことの「まとめ」は別の機会に行なうが、今日は医師側から出されたケアマネへの要望の中から特に「意見書を書いている患者さんが、実際にどんなサービスを利用しているのか、よくわからないケースが多い」「自分の患者の担当ケアマネの顔が見えない」といった意見を考えて見たいと思う。

実はこの意見は前回の第三回懇談会でも出されたテーマで「ケアマネと医師の連携の模索 」の中でも、同じ事を書いており、僕はこの中で

「仮に全てのケアマネが、初回だけでもプランを立てることになった利用者の医師意見書の記載者たる主治医に何らかの形で連絡をとったとしたら、医師とケアマネの接点はかなり増えてくる。別にプランの説明でなく挨拶程度で良いのだ。このあたりは医師会側からもむしろ好ましいという意見をいただいた。
例え一方通行の連絡であったり、時には迷惑がられても、ケアマネに無関心の医師が、その存在を意識してくれるきっかけになるのではないだろうか。そこが連携の第1歩ではないか」

という提案を行なっている。

しかし実際には、ケアマネ側から主治医師に積極的に情報提供しているケースは少ない。室蘭市の事業所では必ず初回プラン作成の際には、そのプランを主治医師に送っているところもあるが、登別市はそこまで積極的な情報提供を行なっている事業所は見当たらなかった。

かくいう僕の施設の併設居宅介護支援事業所も、全部の利用者の担当医師には情報提供は行なっていない現況がある。

せっかく医師会にも好意的にご協力をいただいて、定期的な意見交換の場を作っていただいて、かつ、忌憚のない意見交換ができているんだから、医師側からの要望にも積極的にこたえる必要があると思う。

特に介護保険は既に、医療保険のルールとは無縁ではなく、双方のルールに共通したものもあり、むしろ介護保険のルールが医療保険にも及んでくる、牽引している部分も見られる。

介護保険で末期がんが2号被保険者の対象になり、介護サービスの導入が可能になったことと、医療保険制度に在宅療養支援診療所が位置づけられ、在宅でのターミナルケアが増えてくる現状は必然的に、医療チームの中に居宅介護支援事業所の介護支援専門員が加わっていかねばならない状況を生んでいる。

そのときに、当の介護支援専門員に相応の知識と情報があるかどうかが問われてくる。その意味でも連携の第1歩は主冶医師にケアマネの存在をより身近に感じてもらい、実際の介護サービスの支援をどのように行っているかを知っていただくことだと思う。

そこで僕の併設事業所では早速、全ケースの担当医師に遅まきながら、ケアプランを送ってご挨拶し、できれば情報提供をお願いしたいと連絡することとした。

実はその依頼書式は既にあって、僕の管理サイトトップに掲載していた。それを今回は一部手直しして今日公開した。特別養護老人ホーム緑風園のホームページのトップから

かかりつけ医師への問い合わせ書式(メール添付用)」

こちらのシート2の方を利用できると思う。

他の会員の皆さんにも是非、活用して、積極的に医師との関係作りに努めてもらうように次回の定例ケアマネ会で提案するつもりである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模多機能居宅介護の地域展開を検証する〜新しい方法論とは?(下)

(昨日からの続き)
小規模多機能居宅介護の宿泊も既存のショートスティとは大きな違いがある。

ショートスティはまさに一定期間を区切った滞在サービスであるが、小規模多機能居宅介護の宿泊も一定の期間や日数はそれぞれの計画で定められていたとしても、状況や環境の変化により、随時それは変えられるし、宿泊を取りやめて居宅に帰っても、引き続き小規模多機能居宅介護の職員により訪問サービスを受けられるということで既存のショートとヘルプの組み合わせより臨機の対応がとりやすい。

また既存のショートとのもっとも大きな違いは、夜は宿泊サービスであるが、日中はこの滞在サービスが引き続き行われているというより、通いサービスを利用している、という形になることである。2泊3日の利用なら2泊は宿泊利用だが、前後と真ん中の日中は通いサービスを利用しているということになる。

まさに通いサービスの特定の日に宿泊を臨機に組み込みながら在宅生活を継続できるサービスであるといえるのである。

宿泊費用は、このサービスの特徴である定額報酬に含まれておらず、別料金となり、それは各事業所で設定している。道内の事業所を見ると、その設定金額には結構な差があり、高いところは1泊1万2千円というところもあるが、安いところは2000円というのもある。札幌市内に事業所が集中しているので、相場は5000円程度である。

全国的に見ればもっと差はあるだろう。

この費用は利用者負担ということを考えると、できるだけ低く(安く)設定するほうが良心的であるとはいえるが、しかしサービスの特徴として考えると、そのことが良いことか悪いことかという部分では疑問が呈されている。

つまり小規模多機能居宅介護は施設でも在宅でもない、第三のサービスという「うたい文句」で地域密着型サービスの中に組み入れられ、この制度に登場したが、その目的は、住み慣れた地域社会でできる限り生活を継続できることを目的としており、そのサービスの中心はあくまで「通いサービス」であり、居宅を中心にしたサービス展開が求められている。

よって宿泊費用があまりに低すぎると安易に泊まる、ということになりかねず、目的に合致しない、という見方である。

動機付けの問題を費用に絡めることに違和感を持つ方もおられると思うが、現実にはそういうこともあり得るのだろう。ここはもう少し検証が必要である。

事例を見ると、泊まりサービスをかなり長期間連続して利用しているケースがある。数か月に及んでいるものもある。これでは一時的に小規模多機能居宅介護を中断して、一般のショートを使ったほうが良いのではないかと言う意見もあろうが、個々のケースを見ると必ずしもそうではない。

それは泊まりの期間があらかじめ長期に計画されていたものではなく、例えば急な体調変化や認知の悪化で宿泊を一時期連続的に行なわなければならなかったケースなども含まれ、何らかの理由(家族の虐待なども含む)で緊急避難として居宅に復帰することは前提だけれど一時的に長期宿泊をするケースもある。

宿泊期間中も、日中は一時的に居宅に帰る時間を作ったり、夜間の居宅での滞在時間を作ったり臨機の対応を行えるというメリットを生かし、最終的には宿泊が月数日利用で済むようなサービス形態に移行していく事例もある。これはこのサービスのひとつのメリットであろう。

ただこの場合問題となるのは小規模多機能居宅介護における「通いサービス」の上限は15名と定められている点である。たしかに宿泊の時間と通いの時間設定は、事業所が独自に行ってよいということになっているが、だからといって日中の「通い」の時間に連続宿泊者は「宿泊の定員」だから別枠で考えてよい、ということにはならない。

そもそも小規模多機能居宅介護のサービス提供方法は少人数に対してきめ細かなサービスを行うというもので、サービス提供単位の上限を日中は対職員比3:1以上で、かつ15名以内と定めている点に注意が必要で、この点への調整力や配慮が必要である。

ただし、どうしてもやむを得ない場合、この定員については基準上「(定員の遵守)ア.事業者は、登録定員並びに通いサービス及び宿泊サービスの利用定員を超えて指定小規模多機能居宅介護の提供を行ってはならない。ただし、通いサービス及び宿泊サービスの利用は、利用者の様態や希望等により特に必要とされる場合は、一時的にその利用定員を超えることはやむを得ないものとする」という例外規定があることを認識しながら、ケースにより、この例外適用する配慮もあってしかるべきであろう。

昨日から検証した、通いと訪問と宿泊を臨機の状態で変動させ利用するパッケージサービスのメリットは理解できたであろうか?うまく説明ができなかったかもしれないが、パッケージサービスは既存のサービスの単なる組み合わせでなく、あらたな概念でパッケージを臨機に組み替えることにより、より個人のニーズに合致したサービスになり得る、という点が重要だ。

しかし小規模多機能居宅介護も計画に基づく利用が基本で、小規模多機能居宅介護事業所専従の介護支援専門員が「小規模多機能居宅介護計画」を立てて利用することになる(そのほかの使える居宅サービス;訪問看護等:の居宅介護計画もこのケアマネが立てる)。

「小規模多機能居宅介護計画」は小規模多機能居宅介護の中で、どのようなサービスを行うかが中心となり、パッケージサービスであるがゆえに、通所の日時、通いの時間や目的、宿泊予定日も事前に計画に組み込んでおくのが基本となるが、これを常に微調整、あるいは時として大幅な組み換えが随時できるという基本姿勢と理解が必要であり、それがなければ、単に既存サービスの貼り付けでの硬直サービスになってしまう危険もあり、この事業所の介護支援専門員の役割は重要である。

そうしなければ昨日から書いている小規模多機能居宅介護でしかできない多機能という特徴を生かした個別のニーズに対応できる新しいケアにはならないからである。

最期に課題として2点挙げておきたい。

まず一つは、このサービスが地域密着型で第3カテゴリーサービスといわれても、実質それは居宅生活を継続維持するための方法論の一つであり、今後予想されるのは療養型医療施設の廃止や縮小で、地域に医療ニーズを抱える、あるい実際に医療機器を使いながら生活する高齢者が増える、という事実に対する対応である。

胃婁や在宅酸素への対応も必要になってくるであろう。その時、現在、小規模多機能居宅介護には看護職員の配置義務はあるが、常勤の必要はなく毎日の配置も必要とされていない。これは一面では事業展開上、コスト管理と職員配置面で事業所の裁量が広がってメリットとなってはいるが、そのことで地域の利用者の医療ニーズに対応しきれない状況が起きないか懸念されるところである。

もう1点は、サービス地域の問題で、本来ならこのサービスの利用者は、できるだけ地域を狭め範囲を限定したほうが、サービス提供方法に様々なバリエーションも生まれ、より個別のニーズにマッチしたものとなり得る。

しかしながら現状では、このサービス事業所の数自体が多くないこともあって、例えば札幌市で運営する事業所のサービス利用者は、区を越えて数箇所の区にまたがって点在しているという状況もある。将来的には区内において、1中学校区域に限定した範囲で、サービス展開ができれば地域密着型としての新たな可能性がより広がるのではないかと考える。

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模多機能居宅介護の地域展開を検証する〜新しい方法論とは?(上)

昨年4月から誕生した新たなサービスである小規模多機能居宅介護。この原型は宅老所に多機能サービスを付随して展開したサービスであり、諸外国にもモデルがない日本型の新型サービスといえる。

このサービスが生まれて、そろそろ1年を迎えようとしているが、北海道で小規模多機能居宅介護の指定を受けてサービスを展開しているのは、現時点で15ヶ所程度と記憶している。この広い北海道としては、その数はあまり増えていない。その理由の一つは、もともと道内では宅老所、というサービス自体が少なく根付いていなかったという理由が挙げられるだろう。

今日はこのサービスを実際に行っている事業所の現況を第3者としての立場から見て、この新しいサービスの方法論を検証してみたい。

ちょうど1年前のブログ
小規模多機能サービスの将来像。1」と「小規模多機能サービスの将来像。2」の中で、このサービスに対する期待を書いたことがあるが、その中で僕はこのサービスの特徴を

「通っている方々の必要性に応じて随時、宿泊してサービスを受けたり、居宅にヘルパーを派遣して介護サービスを提供する、という、いわばデイサービスとホームヘルプとショートスティを1事業所で1元管理してサービス提供するシステムである。」と述べた。

しかし、今あらためて考えてみると、どうやらこの考えは間違ってはいないものの、このサービスの本質に迫るものではなく、考え方を改めねばならないと思っている。

つまり小規模多機能居宅介護を単に「デイサービスとホームヘルプとショートスティの組み合わせ」と考える事業展開では高齢者のニーズにマッチしたサービス展開はできず、まったく新たな「通いサービス」を中心に、訪問と泊まりを組み合わせたサービスと考えねばならない。逆にそういう発想が出来ない小規模多機能居宅介護は良いサービスに結びついていないのが現状だろう。

一般のデイサービスと小規模多機能居宅介護の「通いサービス」の大きな違いは4-6等の時間の縛りがないことと、サービスの始点、終点が決まっていないというところにある。
つまりデイサービスはサービス提供時間の中で職員配置ができ実際のサービスができる状況で、あらかじめ決められた時間内でサービス提供を行わねばならないが、小規模多機能居宅介護の「通いサービス」は、ある日は半日の利用、ある日は数時間の利用、それも臨機に状況に合わせて変えられるということに特徴がある。利用者の送迎時間もまちまちに設定して必ずしも乗り合い形式による送迎ではなく、その人に合わせて随時事業所から迎えに出る、ということが可能になる。

例えばある日は、10時から5時まで通いサービスを受ける予定だった人を迎えに言ったときに「今日は休む」と言い出したとする。そのとき理由を尋ねると「スーパーの特売のチラシが入ったので買い物に行かねばならない」という。一般のデイサービスなら、説得して、買い物にいくのをあきらめてサービス利用するか、サービスを中断するか、極めて限定的な選択しかできないが、小規模多機能居宅介護の「通いサービス」はこのとき様々な選択が可能だ。

例えば、じゃあ午前中だけ、通いサービスを受けて昼ごはんを食べて、昼から送るから、そのとき家に帰る途中(あるいは家に一旦帰ってからでも)運転手と一緒に買い物に行きましょう。という取り扱いが可能だ。

これが通所サービスなら、送迎途中の買い物は認められず保険外だとか、様々な縛りによりできないし、そもそも運転手が居宅で別なサービスをすることも無理である。しかし通いも訪問もパッケージのサービスであれば、あるときは送迎の運転手、事業所ないでは介護職員、あるときは居宅に訪問するヘルパーの役割と、何役も臨機に役割をこなすことが可能である。

さらに訪問サービスも、介護保険の訪問介護なら単なる安否確認や趣味の活動の支援はできない、ということになるが、小規模多機能居宅介護の「訪問サービス」も多機能だ。

例えば今日は通いサービスはお休みのAさんがどんな様子か安否を確認する際に、通いサービスの送迎途中に、送迎を行っている利用者のBさんと一緒にAさん宅を訪問して「元気かい」と呼びかけ、ついでに30分ほど運転手とBさんんがお宅でお茶をご馳走になりながら、よもやま話をして帰る。Bさんが尋ねてくれてAさんも喜んだし、Bさんも喜ばれた。こんなことも可能である。

訪問サービスも身体介護を中心にするだけでなく、多目的に臨機に行うことも可能なのだ。しかしこれを既存の訪問介護の身体介護とか生活援助とかの概念でしか考えられないと、小規模多機能居宅介護のパッケージサービスとしてのメリットが生かせない。
(明日に続く:土曜も書きますよ!!)

介護・福祉情報掲示板(表板)

北星の遺伝子

僕の最終学歴は北星学園大学である。

学籍番号は791235で(79)79年入学の(1)文学部(2)社会福祉学科(35)クラスでは35番目、という意味だったと思う。

当時、大学のあった大谷地は今のように地下鉄の駅もなく、周りも札幌市内とは思えないほど閑散としていた。

いまでは町並みもすっかり変わってキャンパスも新しくなってしまって、隔世の感があるが、それでもたまにキャンバスを訪れると懐かしく思えてしまうのはなぜだろうか。

この大学で福祉と出会い、福祉を勉強し、この道に進むことになったわけであるが、最初から福祉の道に進むことを目指していたわけではない。そのことや最終的にこの世界に入ったきっかけについては1昨年の12月に書いた

Think about my Daughter1 〜もうひとつの少年期との出会い
Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。」
Think about my Daughter 3 〜 彷徨:さすらい
Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。」

こちらを読んでいただくと良くわかると思う。この思いを書きたくてブログを立ち上げたような気もする・・・。

さて話を戻すが、その学生時代に同じクラスであった女の子から、先週末にメールをいただいた。結婚後も医療機関でケースワーカーを続けている彼女とは、第1回の介護支援専門員の試験会場で会ったのが最後であったような気がする。

彼女の連絡は、このブログを見て、僕が書いていることを知ってびっくりした、というものである。

所属機関の医師の依頼で、特養の看取り介護について調査していて、たまたま僕のサイトにたどり着き、ブログも読んでいたら、僕が書いているものだとわかったという。masaというハンドルネームは、高校・大学時代に「マサ」と呼ばれていたことから名乗っているし、プロフィールも載せているので知り合いなら誰でもわかる。実際に同級生でいつも僕のブログを読んでる、という友達もいる。ましてや同じ業界に就職している友達も多いので、たまたまネット検索してたどり着くという知人や友人がいることはさほど偶然ではないかもしれない。

しかし見ず知らずの人が読んでいるのと、知り合いが読んでくれていると思うのでは少し感覚が違う。例えば家族がこれを読んでいるとしたら照れくさくてどうしようもない。絶対に見せたくはない。

友達はどうだろう。照れくささも少しはあるが、それと同時に読んでくれているという嬉しさや懐かしさのほうが強いかもしれない。しかし・・・である。

ブログというのは表の掲示板と違って、かなり勝手で独善的な意見を何の遠慮もしないで極論的に書く場合もある。かなり生意気に意見を述べることも多い。

けど学生時代の僕を知っている人には「ずいぶん偉そうなことを言うようになったもんだ」「お前がそんな口をきけるようになったんだ。」と思われているかもしれない。学生時代は皆、青いものだが、それに加え僕は人一倍不真面目で、ちゃらんぽらんで、福祉の道には進みそうもない大学生と見られていたと思う。

クラスで最初の授業で教室を見回したとき、革ジャン、オールバックにサングラスは僕ともう一人くらいであったろうし(今考えるとひどい格好だね。恥ずかしい!!なあトオル!!)、「仏のY教授」の授業では出席カードを受け取った瞬間に上級生を差し置いて堂々とエスケープする不真面目さを「もう少し遠慮してこそこそ出ろよ」と友達に言われたこともある。代返を頼んだことも数知れない。社会学のK助教授の授業ではスポーツ新聞を堂々と読んでいて、しかもめくる音が遠慮無しで、とうとう退室を命じられたこともある。

ちなみに老人福祉論は優良可の「可」で単位をとっている。ひでえ・・・。

いくら生意気に理屈を語っても同級生には説得力がないよなあ。でも、そんな僕も、ある時期から「更正?」して頑張ってるんだから過去のことは時効にしてもらおう!!

そんな僕ではあるが、彼女のメールに嬉しい一言があった。

『ブログを読ませていただき、「そうそう!」と、楽しく?読ませていただきました。こういう考え方って、あの大学の影響って大きいのだろうかとも』

その通りなんだ。不真面目な学生が、のめりこんでしまう大切なものを僕は当時のあのキャンバスの中で見つけることができた。酒を飲んだ後、薄野から大谷地まで歩いたなんて無茶もしたけど、そのときも何だか、この国の社会福祉の現状はいかん、なんてしゃべりながら歩いた覚えがある。

当時の頭でっかちで、何もわかちゃいない青さが言わせた言葉であるが、あのキャンバスで学んだり、友達と議論したものが今の僕の考え方の根底になっていることは間違いないし、それに共感してくれる同級生がいるということは、まさに僕らの体の中に、先輩たちが築き上げてきた北星の歴史と遺伝子が組み込まれているという気がした。

なんだか学生の頃の、青くて、酸っぱいような気持ちを少しだけ思い出した。

1分間タイムスタディの目的外使用?

要介護認定の見直しの流れ等については「要介護認定の見直しの背後にある影」にも書いたが、今、特養や老健で新しい介護の基準時間を設定する為のデータ収集として「1分間タイムスタディ」が行なわれている。

このことについて全老施協主催の「女性フォーラム」のなかで中村会長が語っている内容が興味深い。

1分間タイムスタディは新しい介護認定の基礎データとなるだけではなく次の報酬設定の基礎データにもなるというのである。その内容を読んで、なるほどと思ったので、その発言要旨をまとめてみる。

(老施協会長発言要旨)
厚生労働省が「1分間タイムスタディ」を特養、老健で実施しているが、そのデータとして
1.多床室とユニットケア型の介護量の差
2.日中と夜間のケアに基づく介護量の差
3.要介護度別の介護量の差

以上にも注目して調査しているが、これに顕著な差が出れば、次期介護報酬単価にも大きく影響する。「私たちにとって死活問題のデータだ」とし、例えば、多床室がユニットケア型に比べ介護量が少ないとされた場合、両者には大きな報酬単価差が生じ、多床室は「生活支援型」ではないとされ、報酬が大幅に減額される可能性に言及している。

また障害者自立支援法と同様に「日中介護」と「夜間介護等」の分離の為のデータともなり得る恐れがあると指摘している。加えて、介護度別で介護量が大きく差がでれば介護量が少ない軽介護者は介護保険から外すという根拠データになりかねないと指摘している。
(要旨以上)

つまり次期介護報酬では一律報酬を下げるんではなく、有資格者の配置等の加算など、サービスの品質保持に関する評価を設け、メリハリをつけ報酬増となる場合もあり得る、という考えを社会援護局長が表明していることは「次期介護報酬改訂に関する社会援護局長の考え方から見えるもの」で書いている通りであるが、その前提に、既存施設の多床室単価の引下げがまずありき、という考え方があるという意味である。

なるほどと思った。しかも1分間タイムスタディ自体の積算介護時間というものには胡散臭さ、実態との乖離があり、データの読み方でどうにでも取れる部分が排除できない。まず多床室報酬減ありきでデータを読む、ロジックを作り上げる。そういう可能性だってあるわけである。

しかし多床室の介護の手間は、個室における手間よりかかる場合がある。例えば、個室で着替えや排泄の援助を行う場合は、入り口から室内が見えない状態にすればプライバシーを守って、羞恥心に配慮したケアが出来るが、多床室であれば、それに加えて、ベッドの周りを囲むプライベートカーテンを引いたり、衝立を立てたり、更には物音や臭いにも配慮が必要となり、声かけにも、同室者の方に迷惑をかけたり、遠慮をさせないよう、様々な手間と労力がより必要になる、ということについては以前にも指摘している。

つまり個室のほうが多床室よりアメニティは高いが、介護の手間が多床室に比べて大きくなるわけではない。

導線上の問題、それが広がるというのであれば、それは施設全体の問題で居室の中の介助の問題ではないだろう。ここをきちんとみることが可能なのか?なんとも怪しい限りである。

これ以上、多床室の報酬が引き下げられたら、だれも多床室の施設を経営したくなくなるぞ。でもそのとき困るのは経済的負担に耐えられない層の高齢者自身ではないか。社会福祉のサービスは守られるのかという問題が一つある。

生活支援型というケアの品質は1分間タイムスタディで測れる問題ではないだろう。報酬にメリハリをつけて質を評価する、という次期報酬改定の自体とは、全体のパイを下げ、ユニット型施設に報酬を厚くした分を、既存の施設、特に多床室をターゲットに下げるというなら、非常に危うい改革といわねばなるまい。

経済的弱者には霞を食わせて生きろ、というのだろうか。

しかもである、会長の話によると老健局の考え方は「特養に入っていること自体が尊厳を支えるケアではない。生活支援機能施設はユニットケア型であり、ユニット型以外は施設でないと言っている」と発言している。

これでは既存施設でサービスの向上に努めている現場職員は浮かばれない。

せめて準ユニット加算でもとらなければ「駄目な施設」という烙印を押されているということなのか?ユニットケアが形だけで、ソフトが伴わないところだって数ある。既存施設でも加算算定はできていなくても個別ケアに取り組んで成果を上げている施設がある。そういうのは全部無視なのか?

形や建前より、利用者や家族の顔を見て、声を聞く、という血の通ったアウトカム評価が必要ではないか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

告知について〜死期を告げることの是非論

介護保険制度の改正で2号被保険者が介護保険の認定対象になる特定疾病に「末期がん」が加えられたことで、ターミナルケアの現場に介護支援専門員がより深く関わる場面が増えている。その中で末期がんであることの告知について、昨年「末期癌が特定疾病に追加されたことで生じる問題。」で現状と問題を指摘している。

また特養における看取り介護(ターミナルケア)においても「看取り介護計画」の同意を得る段階で、誰に計画を説明して同意を得るかについて、僕は、死期が近いという告知に繋がる「看取り介護計画の同意」を利用者本人から得ることのメリットは見出せず、家族に同意をいただいている現状を「看取り介護考〜死の告知。」の中で説明している。

これらの中で僕は、末期がんであることや看取り介護であること、つまり死期が近いという事実を本人に告げることは絶対に必要なことではなく、本人が知らずにいたほうが良いケースも多いことを主張した。

しかし僕は、末期がんであることの告知や、死期が近づいている事実としてターミナルケアを行うことを、何が何でも本人に告げるべきではない、という立場を取っているわけではない。むしろ自分自身に置き換えて考えれば、事実を伝えて欲しいと思う気持ちのほうが強いかもしれない。

しかし現実として、居宅サービスの現場で、介護保険サービスを導入したい40代の末期がんの方がいる状況で、家族が「介護保険のサービスを導入すれば本人が末期がんであることに気づいてしまう」という理由で、その導入をあきらめるケースが実際にあるし、そのお気持ちや、デメリットも十分理解できる。特養の看取り介護においては、その事実を本人に告げたケースはなかったし、それが正しい選択であったと思っている。

ところで、このことについて末期がんや看取り介護に関わらず、死期が近い、近い将来確実に死が訪れることを本人に告げるべきであるか、隠したほうがよいかという議論がされることは必要であると思う。しかしその議論の中身が問題である。

本当に「死」というもの、そこに向かっている人がその限られた時間を知ることの意味やショックを真剣に考えているのかと疑いたくなるような議論がある。現場の介護支援専門員でも「私が関わったケースから考えると、どちらかというと知らせないより知らせたほうが良かったケースが多いように思う。だから告知は必要」という意見がある。

あいまいな感想を根拠に、統計的な数値もなく、深刻な問題をあまりに主観に偏って議論を展開する見識を疑ってしまうことがある。

その介護支援専門員は何をもって「告知したほうが良かった」という事実があるのか。きちんと説明できるのだろうか。また告知しなかったケースは、告知したケースと比べて、どのようなデメリットがあったか明確に説明が可能な事実があるのか?主観や想像で論ずることが出来るような軽い問題ではない。

さらに9割の方が告知したほうが良いという事実があったとしても、では告知しなかったほうが良かったケースが1割しかないのだから、原則は告知が良い、ということにはならない。我々の軽率な言動の影響で、死の恐怖におびえながら終末期を過ごさねばならないようなことが、一人にでも生じさせてはならないのであり、告知すべきかは、確立や多数議論ではなく、常に個々のケースで様々な条件や環境を考慮に入れて考えるべきで、そうした現場に立ち会う医師や看護師や介護サービスの担当者が常に持つべき態度は「どちらが良いとは言えない」という態度を基本に「個々に考える」 とすべきだと思う。

実際の終末期医療や看取り介護に関わった経験がある方はわかる方も多いだろうが、告知を希望する人に対し、その希望通り告知したからといって、それがすべてよい結果に結びつくとは限らず、告知された数日後に自ら命を絶ってしまうケースもある。

また告知して、それを受け入れることができる方でも、家族しかいない場面で「死の恐怖」に懊悩する姿を見せる人もいる。世間一般、他者からは告知され、死期が近いことを従容と受け入れているように見えても、それ以外の顔を妻だけには見せ続けて亡くなられる方もいる。

こうした方々に本当に告知は必要であったのだろうか。

少なくとも告知することについては、そのことによってメリットもデメリットもあるし、告知しない場合も同じである、という理解が必要であろう。

以前、僕の施設の所属医師で、数多くの末期がんの方に関わっていた先生がいて、僕が告知は良いことか悪いことか質問したことがある。その時の答えは「告知しなかったことで起こる問題もあるし、したことで起こる問題もある。どっちが良かったかなんて自分が死ぬときでもわからんよ」 と言われたことがある。僕はこの言葉を常に噛み締めながらターミナルケアの場面に関わっていこうと思っている。

もちろん死期を知って、それに備えた様々な準備を行うことが必要な方もいる。それは理解できるし、告知が必要であれば、しかるべき方法で行ったほうがよいケースもあるだろう。

また告知してほしいという意思を明確にもって、それを表明している人に対し、そのことを否定して、その希望に反することはできないであろうと思ってはいるが、そのときでも告知による精神的ショックやそのことで生ずる障害は「あって当然」という認識を持つべきだし、それに対する支援準備を欠かせないと思う。

告知することと、しないことの「どっちがよいのか」という考え方を固定的に一つの答えとして持つ必要はないし、逆に、どちらかが良いと頑固に固執することは良くないと思う。

少なくとも、どちらが良いか判断がつかない場合は、あえて告げないほうがよいという立場を僕は取るだろう。

なぜならほとんどの人間は自分の限りある時間がいつ終わるか、あらかじめわからないところで、その瞬間を迎えるからであり、それが、神が与え賜うた人の「限りある命」というものの本質ではないかと考えるからである。

何が何でも全てを知っていないと幸福な人生とは言えない、ということではないのではないだろうか。

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のぼりべつケアマネ連絡協議会の定例会とその他の活動

今日は僕が代表を務める地域ケアマネ会の定例会の日である。

定例会は、勉強会+情報交換の場、として年間8回行なっている。そのうちの1回は他市町の地域ケアマネ会と合同で、3市1町合同研修会を開催している。合同研修は、それぞれの地域のケアマネ会が持ち回りで、テーマを決めた研修会(主に講演会)と親睦会がセットになっている。開催場所は担当地域の市町としている。

今年度(昨年10月)は白老町のケアマネ会の皆さんが頑張ってくれた。認知症をテーマにした講演の後、懇親会は有名な白老牛の焼肉パーティーだった。美味かった。来年度は当市が担当だが、白老牛に対抗しうる食材はないので少々困っている。室蘭は「室蘭やきとり」もあるのに登別は意外と食べ物の名物がない・・。話がそれた。

その他の例会は、年度計画の中で日時と担当グループを決めておき、それぞれの担当が企画して行なっている。形は様々でグループワークやパネルディスカッション等、テーマにあった形で進行する。先月は新年会も兼ね、オードブルと飲み物を囲んで「介護予防プランについての地域での問題」をテーマにグループ討議を行なった。

また年に1回は毎年、全国から著明な講師を招き、講演会を行なっており、この際は、ケアマネ会だけでなく、関連の諸機関に案内を出している。

その講演会の例会が今日、室蘭市の中島神社蓬莱殿という場所で行なわれる。

ただ金曜の午後6時から、という時間は、仕事を終え駆けつけても間になわない事業所も多いと思え、参加事業所も近くに限られるかなと考えていたこともあるが、3市1町合同研修に参加している地域ケアマネ会の事務局に協力していただき、それぞれの地域の関係機関に呼びかけてもらったところ、毎年思わぬ人数の参加を頂いている。今年も470人を越える参加申し込みがあり、最終的には500人近い人が参集すると思える。今日おいでになる方は駐車場も混むので少し早めにお越しいただきたい。

今年は「認知症のケアと診断」と題して、北海道医療大学心理科学部論証心理学科教授の中野 倫仁先生に講演をお願いしている。道内の講師の方にお願いするのは3年ぶりであるが、先生は全国的にも著明で講義も面白いと聞いているので期待している。

定例会は以上のように年8回だか、会の活動としては、他にも様々な地域との交流事業等も行っている。

来週2/23(金)の午後6時からは、医師会とケアマネ会(登別、室蘭合同)の定例懇談会(年1回開催)を予定している。地域で活動するケアマネの状況を医師の皆様にも知っていただく共に、保健、医療、福祉の連携のあり方を医師とケアマネが面と向かって議論できる貴重な場である。その内容については、再来週以降に紹介したい。

「在宅介護者の集い」など実際に居宅で介護をしている方々との交流の協力なども行なっている。

また当市では、地域福祉実践計画を市民中心で策定しているが、この策定作業にも会として参加協力し、昨年、登別市地域福祉実践計画『きずな』ができた。その計画のなかで「きずなを育て確かめる」ための市民向けの学習会が予定されているが、「市民のための福祉を学ぶ学習会」の支援を会に求められた。

具体的には3月と4月に1度ずつ、対象者20名程度の小集会で「在宅介護」や「介護保険」について市民にわかりやすく解説する、というもので、僕がテーマに沿って1時間程度のお話をして、その後、質疑等で1時間話し合う正味2時間程度の時間を持つ予定である。

一般市民の方で、介護の経験もなく、家族に要介護者もいない方も対象でどれだけ介護が身近な問題として感じていただけるように、わかりやすい話にできるか、がポイントであろう。面白くても中身がなければ意味がないし、中身があっても、わからない専門的過ぎる話でも意味がない。このさじ加減は少々難しいのである。

その他、各地のケアマネの皆さんの集まりにご招待頂き、お話をさせていただく機会も多い。遠くでは昨年、NA6さんのお招きで長崎市島原市の皆さんの前で講演をさせていただいた。一番先の予定では5/19に、道内空知地区のケアマネ会で講演をさせていただく予定がある。

ただそれは、のぼりべつケアマネ会代表というより、masaとしての立場で呼ばれている、という意味かもしれない。


介護・福祉情報掲示板(表板)

うどんと蕎麦。

昨日の昼食は、施設で出された「きつねうどん」を食べた。そのときふと考えたことを最近の出来事と絡めて書いてみることにした。

そば、うどんを比較すると、関東はそば、関西はうどんの文化だと聞く。

北海道は、どちらも好んで食べられており、うどん屋にも蕎麦はあるし、蕎麦屋にもうどんがあることが当たり前の感覚である。僕も子供の頃から両方を食べていたように思うし、施設でお祭り等の行事を行う際も、うどんとそばは、どちらも必ず提供メニューに入るが、人気はほぼ2分する。

もちろん普段の給食メニューの中でも、麺類といえば、ラーメン、うどん、蕎麦の出される割合は季節に関係なく多い。しかし、たまには外で評判の店でうどんや蕎麦を食べに出かけたいと思うのは、各家庭でも施設で暮らす高齢者でも同じであろう。

ところで近くに、うどんと蕎麦が評判の店がある。最近そこのご主人から電話を頂いた。聞けば、ここの施設を訪れ、お店で出しているうどん、蕎麦をつくってお年寄りに食べていただく機会を持てないかという相談である。もちろん費用はかかるが、儲けを目的としたものではない。

動機について尋ねてみると、去年、当施設の利用者が、お店にお邪魔したときに、一緒に来る予定だった人がたまたまその日体調を崩されて、行けなくなった、という話を聞いたが、その後もその方が来た様子がないので、体調が悪くて店に来られない方がいるんだと考えていて、そうした方にも是非食べていただく機会を作りたい思った、ということである。

夏から秋にかけて、外出を希望する方はいろいろなところに出かけている。昼食を外で摂る機会も作っている。その中で、そういうことがあったようである。ただこの冬の時期はどうしても外出する機会は少なくなるし、外食希望もほとんどないから、その日たまたま機会を逃した方が、行けないままになっていたのだろう。そういう話をお店で聞いたご主人が、今度はその方がいつ来るんだろうと気にかけていた、ということだろうと思う。

流行っていないお店ではないので、昼時に店主がわざわざ施設にやってきて、お店のメニューと同じものを作って提供するのは、そんなに簡単なことではないだろう。いくばくかの料金を支払うといっても、実費に近いもので商売としての問題ではないと思う。

施設でお店にあるものを食べる、ということは施設から出かけてお店で好きなものを選んで食べることとは少し意味が違うが、しかし特養に住まう人の中には、様々な事情で、どうしても外のお店に出かけるのは難しい方がおられる。そうした方にとっては、喜ばれる機会になるだろうと思って、栄養士に相談して、実現を図るべく計画している。

しかしこれはイベントではなく、普通の食事と考えている。こんなことまで非日常にしてはいけない。ごく自然に、そういうメニューの日もある、ということが重要だ。

その日は施設の中でも通常の食事は作り、希望者は、そのお店の(今回は単品、手延べの天ぷらうどん)提供メニューを選べる方法にした。食材料費は通常の費用の中で賄えるので選択した利用者も別料金を支払う必要はなく、施設で出すものと、うどんと好きなほうを選べるという形である。お店の方の支払いは、施設の給食費の中から支払うこととしてみた。

問題がでてきたら変えればよいので、今回はこの方法で行なう。「慣れてきたら複数のメニューから選択も可能ですが今回は単品で」というご主人の話もあるので、定例化することもあり得る。こういう地域との交流だってある。

いい事かどうかはわからないが、こうしたメリハリのあることもときには悪くはないだろう。地域の中に出かけていくということは、地域の人に、施設があり、そこに住まう人がいるということを知ってもらえるということで、それをきっかけに施設に足を運んでくれる人が増えることが、施設が「特別な場所」ではないことを知っていただく機会にもなる、というふうに考えもよいが、しかし現実には、そんな難しいことを考えないほうが良いと思う。

なぜなら、こういう話があるんですけど、あそこの店のうどんを食べてみたいですか、と聞いたときに「ウン」という声が多ければ、そのことが大いなる動機付けになり得るものだからである。

その結果が利用者の笑顔であれば言うことはない。

我々の介護サービスは、まず「個人が望む暮らし」 をどれだけ実現できるかが重要なのだから。

介護・福祉情報掲示板(表板)

在宅復帰支援施設(中間施設)に必要なもうひとつの視点

今日は老健の優れた療法士の皆さんに、怒られることは承知の上で、次のような問題提起をあえてしてみたい。

老人保健施設は老人保健法の中で、在宅復帰支援施設(中間施設)を理念として誕生した経緯がある。介護保険法の施行後、それは介護老人保健施設となったわけでが、中間施設の役割を放棄してよくなったわけではない。

ただ一部の老健では、介護保険制度誕生以降、特養と変わらないような長期入所施設に様変わりしてしまったという結果が見られ、15年のルール改正時は「老健の在宅復帰支援施設としての機能強化」という観点から、老健における訪問リハビリを認め、これを活用することが奨励された。報酬も本体報酬は減算されたが、リハビリ関連の加算報酬を作って、リハビリ機能を前面に押し出す誘導が行なわれた。

昨年の改正でも試行的退所の費用算定が新設されたことは、在宅復帰支援機能のさらなる強化という意味がある。リハビリテーションマネジメントや短期集中リハビリも、専門的リハビリの実施をより強く求めたものであろう。

今、介護保険施設は23年末の療養型廃止に伴う再編論の中で、特養と老健の機能見直しが行なわれている最中であるが、老健の中間施設の機能が見直されるということはないと思う。

しかし老健が真に在宅復帰機能を発揮しているんだろうか。
もちろん老健の中には在宅復帰率の高い施設も実際にある。ただ、ここで考えて欲しいのは、単に結果として自宅に戻る高齢者の割合や、数が多いという意味だけではなく、どういう生活を在宅でできるのか、そのために施設入所期間中にどのようなサービスが行われているのか、という意味である。終生生活施設との差別化はどこで図っていくべきなのだろうか。

そこで在宅復帰支援施設としての老健が、あまりにも医学モデルの機能訓練、理学療法や作業療法に偏ってリハビリが考えられていることで見失ってしまっているものはないか、という点を考えてみたい。

勘違いして欲しくないのは、僕は療法士の行なう個別リハビリをすべて否定しているのではなく、それに加えて必要なものはないか、ということを言いたいのである。

まず僕は在宅復帰を支援する施設や事業所の過度な(?)バリアフリー化は必要ないと思う。玄関の自動ドアや段差解消が「当たり前」という感覚ではなく、自分で開けることができる玄関ドアや、上がり框をあえて作ることも必要ではないだろうか。居宅で暮らすために、必要な段差がある暮らしを施設の中に取り入れる視点があっても良いのだ。住宅改修ですべてクリアするのではなく、普通の住宅での暮らしを想定した小さな段差や、不便さを感じながら、そこで暮らすための機能活用を考える視点も必要だろうと思う。その上で、どうしてもクリアできない部分だけを住宅改修や福祉用具貸与で補うことのほうが必要な支援ではないだろうか。

それから施設サービスにおいてもっとも欠けているのは、家事能力に対する機能活用のプログラムではないか。施設サービスの中で、自分で煮炊きしたり、洗いものをする行為、あるいはそれらができなくても何らかの役割を持ってその一部に関わる機会は以外と少ない。

なぜそれが必要かと問われれば、それは居宅には療法士がいない、という意味からである。

在宅復帰できる状態に身体機能が改善しても、その機能を生活の中で使わなければ廃用は進行する。自宅で身体機能を維持する為には訓練を継続するのではなく、生活の中でいかに機能を活用維持できるかという視点も必要ではないだろうか。インフォーマルな支援があったとしても、その中で家庭で高齢者が生活の中で役割を持てる、という生活が必要で、一方的にケアを受けて生活する、ということだけではなく、また家庭でケアできる、という介護者の論理だけではない在宅復帰支援が必要ではないだろうか。

訓練室の中でしか使わない機能では意味がないのである。施設におけるリハビリの視点を、もっと居宅の生活に近い形と場面で機能活用する働きかけが必要だ。そうでなければ在宅復帰施設の機能訓練が、ともすれば本人の生活の為ではなく、介護者がいかに楽に介護できるか、という視点に偏ってしまう恐れが無きにしも非ず、である。なにより生活者としての利用者が居宅でどんな暮らしができるかが求められるべき視点と思う。

ユニット施設で行う高齢者自身の家事参加と、そこで展開する支援は何も認知症の方々のケアに特化して考えなくても良い。家事参加がメインサービスである老健ができたって良いと思う。新型老健はその方向に行くのだろうか。そうあって欲しい。

医療の専門家としての医師や看護師、療法士が配置されている施設に、非専門的な日常のケアへの視点がプラスされれば、これは大きな武器になるのではないか。

なにしろ僕は何度も言っているが人の生活はもっとも個別的で非専門的であるのだから。

介護・福祉情報掲示板(表板)

要介護認定の見直しの背後にある影

先週末、共同通信社から配信され、新聞各社などで報道されている「要介護認定の見直し」。
しかしそのこと自体は別に新しいニュースではなく、介護認定ソフトは、見直し・修正することが決まっていた。そして2002年のソフト改正では行われなかった基礎データである1分間タイムスタディの見直しも既方針である。

それは、昨年の制度改正で新たに要介護者と要支援者の区分が変更になったのに、判定ソフトのロジック自体は変更がなく、審査会で要介護1相当となった対象ケースを要支援2と要介護1に振り分ける作業を行っているわけであるが、この要介護1相当も1次判定から要支援2と要介護1という判定ロジックに組み替えることは出来ないか、という考えが始まりであった。

その中で、82項目の基本調査の結果、介護に要する時間を割り出している基礎データ(1分間タイムスタディ)も古いデータとされ、実態と乖離が見られることで見直しが求められることになった。

ただ、今回の報道により見えてくる部分は、この見直しの中心が、予防と介護の区分の明確化ではなく、実はその軸足は障害者福祉制度が介護保険に組み入れられることを想定して、若年者の要介護状態をも表せるロジックを組み込もうとするものだ、ということである。

洗濯や掃除、炊事がどの程度できるか、を問う「家や地域での日常活動」や、一人で外出可能か、時候のあった服を選択できるか、を判断する「日中の過ごし方」という調査項目に追加し、100項目を超える調査内容となっている。障害者と高齢者の介護サービスの統合の既成事実化が様々な場面で行われていくということであろう。

介護認定について言えば、手続きの簡素化を行うといっても、調査自体は項目が増えた分だけ時間もかかり、内容によっては正確を問うには本人以外への聞き取りも必要になってくる。

しかも肝心な点は、項目がいくら増えても実際の状態象に近い判定結果に結びつくとは限らないということだ。むしろ調査項目が増えるということは、それに対して介護の手間を導き出す樹形図の枝が増え、複雑化する、という意味であり、そこには当然逆転現象(あきらかに介護の手間がかかる項目を選択すると基準時間が減る;あるいはその全く逆)の出現率も高くなるということだ。

現在のソフトでも、下肢の筋力低下が「ある」にチェックされているものの「筋力低下」のチェックをはずすだけで1次判定が1ランク上がるケース等がある。新ソフトでも 、時候のあった服を選択できる人のほうが、出来ない人より1次判定が重度に出るなんていうケースがあり得るわけだ。

1分間タイムスタディの結果を、あの複雑な樹形図に落として介護の手間時間を出し、その積算時間を判定基準時間としている限り、枝の分れ方により逆転現象が起こってくることを完全になくすことは不可能に近いからである。

だから過去に使われた要介護認定ソフト1999も、今の2002も逆転現象が解消されていない正確性に欠くオンボロソフトである、と言われているのである。

「実態と乖離が見られる」という現象は、基礎データの集積を新たに行って改善できる問題ではないと思う。

そもそも居宅で介護しているケースの介護の手間の時間も、施設や医療機関で基礎データ集積が行われている。実態と乖離するのは当たり前だろう。こうした状況を見ると、新たな認定ソフトも正確性や介護の現状に即した判定を導き出せるものにはならないだろう、という結論を導き出さざるをえない。

そういう意味での期待は持てないのである。

それよりも心配なのは、過去の介護認定ソフト改訂でもみられた「操作」が行われないかという危惧である。

要介護認定ソフト1999から2002への変更理由については「運動能力の衰えていない認知症」 の対象者の判定をより正確に出来るように、ということでルールが一部変更されたが、それよりもその際の変更では、1999で要介護2と判定していた層も要介護1に取り込む判定ソフトとなっている。

そうすると「介護保険制度の向かう方向に関する1考察。」でも指摘しているところであるが、介護予防サービスの範囲を要介護2の一部まで広げたいという国の意向は、ルールを変えなくても新判定ソフトで、現在の要介護2の認知症でない層まで要支援2に取り込むロジックにすれば目的が達せられ、眼に見えないところで批判を受けない形でそういう方向にしてしまう可能性が排除できないのだ。

しかし我々は、出来あがったソフトのロジックをいくら検証して、問題点を指摘しても、何も変えられない。一方的に与えられる側である。作る側の見識に頼るしかないか・・。

どちらにしても新ソフトで「オンボロ」が修正される、という期待はしてはいけないということである

介護・福祉情報掲示板(表板)
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