masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

ケアマネジメントとは何か

ケアマネジメントの起源が、アメリカで1970年代に始まったケースマネジメントに求められることは周知のことだろう。

当時のアメリカではノーマライゼーションの実現の方策として、精神障害者が地域で生活する方針を立て、そのために州立病院の半分を閉鎖することでその実現を図った。

そして地域に帰った障害者の方々が、地域で生活するために、医療・保健・福祉・住宅・就労等すべての問題を解決する窓口を「精神保健センター」に権限を集中させ一元化した。ここからケースマネジメントが始まったわけだ。

この考え方が介護保険制度のケアマネジメントの根源にある。

つまり高齢者は単一のニーズや問題点というよりも、潜在的なものを含めて複数の二ーズや問題点を持っており、そうした援助対象者と社会資源を窓口を一元化して結びつけるシステムがケースマネジメントであり、わが国では介護保険の制度の中心にケアマネジャーという専門資格を位置づけ、このケアマネジャーが窓口となり高齢者と介護保険サービスを中心にした社会資源を結びつけることをケアマネジメントとしているのである。

ただし、もともとのケースマネジメント自体の定義が確定しているわけでもなく、プログラムも様々で有効なモデルが確立されているわけではない。

だからケアマネジメントを語る場合、わが国における介護保険制度のケアマネジメントとして限定して考えないと、様々な誤解を生む。各国のケースマネジメントやケアマネジメントとシステムやモデルが違っているのだ。

さて、そうであるがゆえに、わが国の今問題となっているケアマネジメントは非常に歴史が浅いといわねばならず、介護保険のサービスに結びつける手法について、とやかく議論するのであれば、これはわずか5年しか展開されていないサービス手法であり、現場で質の差が出るのは、当然といえば当然の結果なのであり、給付費分科会でケアマネ不要論が議論される前に、この制度下のケアマネジメントの構造や手法を確立する手立てを議論すべきで、それがない状態の「質の差議論」や「ケアマネ不要論」は笑止千万、その前に制度設計者の責任を問うべきだろう。

さて、そうは言っても、このケアマネジメントが何ぞやという問いに答えられないケアマネがいるという事実。また介護保険制度におけるその展開構造を知らないケアマネが多いことも事実で、介護保険制度で求められているルールや非常に限定的な手法でさえこなせない、できないケアマネがいる、という現実は変えていかねばならない。皆で頑張ろうよ。

ケアマネジメントで一番重要な視点は、高齢者のニーズを単に身体的な機能障害(インペアメント)として捉えるのではないという点である。

実は従来の医学モデルは、例えば脳卒中による片麻痺を身体的欠損としてのインペアメントとして捉え、それによる歩行障害を能力障害(ディスアビリティイ)であるとしてニーズを捉え治療的方法(リハビリ等)をとる立場にあった。

しかしケアマネジメントの手法は生活モデルであり、高齢者のニーズを単なるインペアメントとADLに関わるニーズとして捉えるのではなく、利用者がもつ社会的不利(ハンデキャップ)という観点からも捉え、生活障害としてその問題を捉えることに特徴がある。

つまり要援助者が、どのような家族環境や地域環境の中で生活し障害が不利な状況になっていないかも視点として捉え、インペアメントやディスアビリティに改善がなくとも、家族や地域の環境を調整することでも生活課題が改善できるという視点を持つものである。

問題や障害は、あくまで生活障害であるのだ。

だからケアマネジメントには生活の全体性や継続性、個別性に目を向ける視点が必須なのだ。

このことを理解しているか、していないかでその質は大きく左右されてしまう。

少し長くなるので今日はこの辺にして明日に続こう。

ただ業務大多忙である。明日はブログをお休みするかもしれない。

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寄り添わないケアの大事さ

かつて「面接の技法」というブログの中で、介護職の教育課程で技法を教えることの難しさについて書いたことがある。

話を傾聴することより先に技法を前面に出してしまえば、たちまち面接は相談援助につながらず、ただの「説得技術」に陥ってしまい、結果的に生活課題や、利用者の悩みや不安への解決にはつながらないことを書いた。

相談援助者のみならず、介護の実践者に専門知識や技術はもちろん必要だが、それだけではだめだ。

その前に、本当に困っている目の前の人々が何に困っているのかを想像して共感することが大切だ。

この想像と共感という過程が「受容」、利用者の訴えや、現れている行動をあるがままに受け入れる、ということなんだと思う。そこからすべてが始まるのだ。

特に認知症の方々の行動には理解しがたいものがある。しかしそれにはすべて理由と意味があるのだ。その意味や理由の共感の過程が受容であり、認知症の方々のケアに受容が大切だといわれる所以であろう。

ただ実際の介護現場の職員にも、受容とは何ぞや、という部分がうまく理解できていないから、言葉はわかっていても行動や実践につながらずに、おかしな対応やケアに終始してしまうという状況が生まれるんだろう。

かつて僕は実習生に介護者に大切な資質は「天使のようなやさしい心」ではないと言っていた時期がある。ごく普通の人で結構。大切なのは想像力と創造性であると言っていた。

今目の前にいる方々を、そしてその行動の意味を一生懸命想像して、マニュアル化されない対応の仕方を、その方にあった方法で創造することが大事だという意味だ。

しかし、かく言う私自身も「敵わないなあ」と思う実践者に出会うことがある。

認知症高齢者のグループホームの関係者の中には、すごい実践者が多い。

我々よりはるかに人を見る視野が広いと思う人がいる。

そしてその想像力は非常に柔軟で、そこから生まれる方法論や創造性も柔軟で機知にとんでいる。

そういう実践者にとって、一見問題行動ととられがちな利用者の行動も、すべて意味ある行動となり、その意味を考えることで対処の仕方が見えてくるのだ。

やはり想像と創造はケアの現場で大切な要素だ。

それらの方々からは既存の認知症ケアの概念を超えて様々なケアの視点を得ることがある。今日のテーマもそれだ。

寄り添うケア、というのがグループホームのケアで大切だといわれているが、46時中寄り添われてはかなわない。

人は恋しくもあり、うっとおしくもある存在なのだ。

そのうっとおしさ、構わないでいてくれよ、ほおっておけよ、というサインや行動にもアンテナを張っておく必要がある。

時には寄り添わないで、遠くから、そっと感じるケア、というのも認知症の方々のケアに限らず大事だ。

寄り添うケアを付きまとうケアに勘違いしているホームも多いが、寄り添わないケアも今後は一方のスタンダードになってくるかもしれない。

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雨の物語

雨は唄になる。

僕の10代はフォークソング全盛時であったから、僕もいっぱしのフォークシンガー気取りで、吉田拓郎や井上陽水のコピーから始まりいつしか詞や曲をオリジナルで作るようになった。
(ちなみに陽水の本名は「陽水あきみ」であり医者の息子ということを知っている人は多いと思うが、彼がアンドレカンドレという名でデビューしたことを知る人は少ない。そんなことはどうでも良いが・・。)

僕の作る唄はなぜか雨をテーマにしたものが多かった。詞が書きやすかったのだろう。しかしどうしても雨がテーマだと明るい曲にはなりにくい。名曲「雨に唄えばSing in the rain」というわけにはいかないのだ。

暗い詞になりやすいので心が弾むような曲はつきにくい。やっぱり流行らないな。シンガーソングライターを目指さなくて良かった。

そういえば大学生の頃、当時札幌で超有名なディスコ「釈迦曼荼羅」で妙に生意気な口を利く長髪でカマキリのような男とテーブルが一緒だったことがある。髪のある時代の松山 千春である。別に知り合いではない、何かの関係でそれぞれの連れ同士が知り合いだっただけである。

話がそれた。雨の話に戻そう。

冬に雨は似合わない。

しかし3月のこの時期の雨は明るい春を連れてくる雨であり、一雨ごとに雪解けが進む。春の雨をテーマにすれば明るい雨の曲が出来るかもしれないな、と考えて雨を見ながらこのblogを書いている。

北海道には梅雨がないというが、実際には道南の太平洋側、函館から私の住む登別にかけての地域は6月から7月にかけては雨の多いじめじめした天候が続く。

この時期を「蝦夷梅雨」と呼び、その気候は毎年のように繰り返される。

だから短い夏の晴れ間は貴重だ。

私の施設でも、夏から秋にかけての季節は、利用者の皆さんにできるだけ外出機会を作っていろいろな場所に出かけるが、施設で行うイベントなども夏の間は外で行いたいと思い、開設5年目にログハウスの屋外ステージを建造した。

舞台裏には楽屋もついている立派なステージだ。このステージは今は施設の裏側の敷地に移設し毎年お祭りや盆踊りなど、地域の皆さんと触れ合う会場にもなっているが、以前は正面玄関前にあり、駐車場全体を会場にして様々なイベントやアトラクションに利用していた。

しかし屋外ステージがあっても雨では使えない。

せっかく祭りなどを企画していても、利用者を雨の中、傘をさして見物させるわけにもいかない。だから時として雨は「やっかい視」されることも多い。

そこで施設開設10年目で屋外ステージ建築から5年後のことであるが、雨でも暖かければ外でイベントが出来ないかと考え、駐車場全体をテントで覆う方法を考えた。

もちろん素人作業では出来ないから、テントの専門業者に依頼して、専用のポールを設置して施設の駐車場全体を覆って約200人が入れる屋根替わりの特注テントを作ったことがある。

これが雨以外に効果があり、外に出たいが日差しがきつすぎる場合にも重宝され2年ほど使っていた。そして3年目の「緑風園まつり」では待望?の雨が降り、この屋根テントの本来の目的に使用する機会となった。

ところが、である。雨は防げるのだが、雨の音は防げなかった。雨のはじく音でステージからの音がしばしば聞こえなくなる。これには参った。

しかもおまけつきで、テントを支えるワイヤーも3年間の風雨でさびてしまい巻取りが出来なくなった。それやこれやの様々な理由が重なり、今、このテントは使われていない。

人の知恵は自然の前ではしばしば苦渋をなめる。考えれば高い買い物であったかもしれないが、それだけ北海道の人々は長い冬の日々、夏の暖かな太陽や外気に飢えているということを紹介するエピソードとして記憶していただきたい。

だけど、いざ夏の暑さにふれてみれば、その圧倒的な力に少し腰が引け、その気持ちを察するように時折日差しを影してくれる雨にロマンチズムを感じて詞が出来るのかもしれない。

だから雨は唄になる。

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腐ったみかんの法則

この時期は卒業シーズンだ。各地でいろいろな別れがある。

若い当事者たちは、その意味をまだ深く考えることもないと思う。

でも卒業式を期に、生涯2度とめぐり合うこともなくなってしまう関係もあるんだ。僕もその時には気付かなかったが、例え仲が良い友人であっても、中学、高校、大学と卒業を繰り返すたびに、生活場所も環境も変わってしまい、言葉を交わす機会もなくなってしまう友人もいる。

年をとると、それらの友人たちがやけに懐かしくなる。しかし消息不明になっている友人も多い。

だから卒業式は、逢いたい時にいつでも逢える「サヨナラ」ではなく、もっと重い意味の「さよなら〜So Long」のことなんだ。

そして卒業式の本当の意味や、そのやるせなさは、年をとってはじめて実感するものなんだ。

今そこにいる、君たちの友を、しっかり見つめなさい。それが僕の「贈る言葉」だ。

さて4月の新年度にはフレッシュな新人職員が数多く誕生する。僕の職場でも例外ではなく、今年は大卒のソーシャルワーカー1名と、専門学校卒のケアワーカー4名を新規採用している。

それらの新人諸氏には卒業式が終わって、4月までの間、都合のつく範囲で施設実習を行なってもらっている。昨日から4名のケアワーカーは実習に入っている。

新人にまず教えるべきことは、対人サービスであるから「接遇と言葉遣い」である。これは当施設の決まりごとである。

真っ白な新人たちは、それらの指導を念頭において現場に入る。そして決められたルールを守って、自分たちの言葉や知識や技術を獲得していく。

だが、慣れが生じてくるとき、水が低きに流れるように、利用者に向ける言葉遣いも乱れてくる場合がある。その主な原因は、先輩職員の態度や言葉に影響されることである。

上司や先輩が日常、利用者にどのような言葉遣いをしているかで、新人の言葉の使い方も変わってくるのだ。

おもしろいことに、これは施設内でも差ができる。

グループケアやユニットケアが盛んに行なわれるようになって、職員の担当グループも固定化、小規模化すると、各グループで言葉の使い方に差が出てくる。良い方向に流れればよいが、特定グループだけ言葉の乱れが生じ、それが全体に影響すれば修正には多大な時間と手間がかかってしまう。

是非、先輩職員には新人の手本になる適切な態度や言葉遣いで日頃の業務に当たってほしい。

箱の中のみかんは、たった一つの腐ったみかんにより、全てが腐ってしまうのだ。せっかく積み上げたもの、新しい力、どちらも生かされる職場でなければいけない。

そしてユニットケア、グループケアは、施設内で介護の品質アップの競争をするためにも利用して欲しい。お互い良い刺激をし合って利用者の暮らしをより良いものにしなきゃあ嘘である。

だからといって他ユニットや他グループのサービスの揚げ足を取ったり、協力連携に無関心であったりするような施設内民族主義に陥ってしまってはいけない。

皆、誰しもが腐ったどろどろの姿になるより、オレンジ色に光り輝いた蜜柑の姿を保っていたほうが良いはずだ。

しかし、腐った姿は自分自身では見ることができず、他者からしか見えない、だがそれが実態という恐ろしさがあることを忘れてはいけない。

要介護度決定過程の信頼性

介護認定審査の結果について個々のケースで見ると、本当に調査員の特記事項を読んで勘案して判定しているのだろうかと疑問に思えるケースがある。

僕は施設ではケアマネとして利用者の調査を行なうし(認定審査委員をしていない市外のケースのみ)、同時に審査委員として審査判定に加わっているが、特記の内容は、どちらの立場の場合も重要と思うから、調査員としては正確に記すことを心がけるし、審査委員としては、それを読み込んで、状態像を実態に近く把握したいと思っている。

特に一時判定ソフトは樹形図から要介護基準時間を導き出しているから、できるという項目が、できないになってしまうと逆に時間減になるなどの逆転現象もあるし、明らかに介護が必要としない方の規準時間が要介護1の時間を示し、それより手間のかかる方の基準時間が要支援の時間しか出ないということも多く、とても正確な要介護度を導き出すツールとはいえないのだ。

それにあまり信頼を寄せすぎては、介護現場の本当の手間は反映されない。

運動機能の衰えていない認知症の方の場合は特にそうだ。たしかにそれに対応するソフトに途中で変更したというが、それでも項目に乗らない生活上の問題行動というのは実際にはあるし、問題行動の内容によっては、1項目のみでも大変な手間がかかる場合がある。

例えば、ある認知症の方は、運動機能にまったく衰えがないものの、他者に対する不信感が強く、人間関係が拒否的で、居室に引きこもり傾向にある。そして介護をまったく受け付けず、特に着替えと入浴に対し強い拒否がある。拒食傾向もみられる。

この場合、いかに身体保清への援助ができるかという点と、適切な栄養摂取ができるかが非常に重要なポイントになり、入浴と着替えに結びつけるためのアプローチには多大な時間と労力が必要であるし、食事量のチェックや、適量摂取のための環境づくりと誘導にも気を使わねばならない。

というよりその方の状況の観察力や、安定への配慮といった目に見えない対応が大切なのだ。

そういうものは、ほとんど基準時間には反映されない。

問題行動の項目としては数が多くないから、運動機能の衰えていない認知症高齢者の1段階重度変更のチェックはつくが、2段階変更のチェックはつかない。

歩行や移動能力に問題はないし食事摂取機能や排泄も問題ないし、介護拒否で手がかけられないことが多くここも自立をチェックせざるを得ないから一時判定は要介護1にチェックがついた2になる。

しかしこういう方の介護の労力は要介護3ないし4に匹敵するというのが実感だ。そのことは、きちんと特記事項に書いている。なぜ排泄が自立にチェックがあるのか、食事摂取へのアプローチや着替え、入浴の誘導のために、その行為を行なっていない状況で、いかに手間と時間をかけているのか記述する。

しかし保険者によるのだが、そのことが勘案される確立が著しく低いと感じる保険者がある。

同時に保険者の職員が調査に入る場合、そのことを言葉で十分伝えているんだが、調査員がそのことを特記にきちんと落としているのか、はなはだ疑問な結果となってくることもある。これは生活実態を身近で知ることのない人間が調査を行なう場合の最大のデメリットだ。

実態に即した介護度を決定しないと、要介護度への信頼感は薄れてしまう。

特に改正制度下では、予防と介護では大きな違いがあるのだから、調査の信頼性、審査の信頼性は大きな問題だ。

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看取り指針を作りながら考えたこと

風吹けば桶屋が儲かる、ということわざを思い出したわけではないが、制度改正で間接的に利益を上げているのは事務用品メーカーではないかと考えてしまう。

情報はネットに出されるが、膨大な量の関連情報は紙にプリントアウトすることが不可欠だ。それも半端な量ではない。課長会議1回分の資料だけでも500枚以上ということが、しばしばある。しかも前回に示された考えが、詳細部分で変更されたり、訂正されたり、同じ内容部分も確認を怠れば、解釈を間違えてしまうおそれがある。

この制度改正で使った、紙やプリンターの消耗費用は一体いくらくらいになるんだろう。しかもそれはまだ序章であり、これから解釈通知やQ&Aが続々出されてくる。

今回の改正では読まないと解らない新たなルールが多いのだ。

しかし実際プリントアウトしても、繰り返しの資料も多く、これは損したな、という気持ちにもなるが、気を緩めると実際は、あらたな解釈が書かれていたりする。

僕の場合は、この膨大な資料の読み方は大雑把だ。ほとんど斜め読みで見逃している部分が多い。しかしそういう箇所は、表の掲示板で誰かが情報提供してくれ、その際にじっくり読んで考えてみる。本当に細かいところまで読み込んでいる方々が多くて感心してしまう。そういう方々のおかげで、僕も何とか遅れずについてゆける。感謝である。

ただ、実際、資料を読むだけでは意味がつかめないことも多いという点がやっかいだ。もう少しわかりやすい言葉で書いたって良いだろう。難しく書かなければ資料としてふさわしくないと思っているのか疑問となることがある。

ところが、こういう資料を読み込みすぎると、自分がいざ、何かの資料や文章を書くとき、その影響を受けて、妙な言い回しを使ったり、わざわざ難しい言葉で表現したりしてしまうことが良くある。これは気をつけなければならない。

だからブログを書くということは、平板な言葉に戻す効果もあるということで、できるだけ口語体でわかりやすく書く訓練にもなると思っている。カッコイイ文章より、わかりやすい文章が大切だ。僕らは作家ではないのだから。

ところで今回の制度改正で特養のターミナルケアが始めて報酬上の評価となって「看取り介護加算」が新設された。この算定条件の中には「看取り指針」の策定と計画、同意が条件としてあり、僕は早速独自の「看取り介護指針」をつくり、夜間緊急連絡体制などを含めた各書式と共に3月に入って早々に当サイトに掲載しネット配信している。

今回作った施設の「看取りの指針」もそうだが、何も施設内の指針だからといって、あまり行政用語や専門用語を使いすぎたり、文語的な表現になってはまずい。

なにより指針は職員に対するナビゲーターだから、職員が読んで、きちんと論旨が伝わり理解できなければならない。かつ家族もこれを読んで理解できるものでなければ説明には使えない。

また、量の適正化も重要だ。

指針だからといって、やたらに枚数の多いものを良く見かけるが、実際の介護にそれらは役立っているのか疑問に思うこともある。いつも気がついた時に読んで確認できる量であることも大事なのだ。細かな内容の説明は、指針ではなく、参照資料で作っておけば充分だ。

読まれない指針ほど無駄なものはない。

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新しい介護保険制度の現場から〜その課題と提言

今日掲げたタイトルは、このブログのタイトルではない。

実は日総研の「介護リーダー2006」に6回にわたり、このタイトルで連載記事を書くことになっている。

1回目の発行は本年5月下旬であり、その後2月ごと、来年3月下旬発行号までの連載となる。

ところが1回目の原稿の〆切が先週金曜であったのだが、冊子の発行日と現行の締切日とを勘違いしていた。つまり5月に書けば良いと思っていて、まったく手をつけていなかったのだ。そこに電話が・・・。こりゃあ大変だ、僕の一方的な確認ミスである。編集者に迷惑をかけるわけにはいかない。

ということで〆切を3日延ばしてもらって、土・日に一気に書き上げようと決心して臨んだ昨週末であった。

しかし書こうと思えば思うほど、良い論点や文章は浮かんでこない。かくして週末はPCの前に張り付いて、頭をかきむしりながら文章を搾り出していた。掲示板に書き込みながら、途中でブログを書きながら、気分転換をしながら、なんとか論文を書き上げた。

テーマは居住費自己負担の検証にした。これなら何の資料を見ずに、自分の頭の中の現時点での知識で書き上げることができるからだ。

しかしやはりこの時期、やらねばならないことが多すぎる中での執筆作業はきつい。出来栄えもいまいちだろう。

作家の司馬 遼太郎さんは、かつて「坂の上の雲」という作品のあとがきで「小説とは当人や読み手が気に入らないというものがあっても、できそこない、というものはあり得ない」と書いて小説というものの非定型性を示していたが、論文はそうもいかない。もしかして、この忙しい時期の合間を縫って書き上げる僕の連載記事は論文としては「できそこない」になるのではないかと恐れている。

それと制度改正の現場から見た課題となると、どうしてもその目は今回の改正への批判的見地に立ってしまいがちである。

自分の感情を抑えながら、いかに客観的に書けるかがポイントになるのか、はたまた威勢よく制度改正を切って、キッテ、切りまくるのが良いのか、それは僕にもわからない。何しろ4月改正のルールには、まだ謎が多すぎて解釈まで至らないものがたくさんあるのだ。

何はともあれ、今回の原稿に修正依頼が来ないことを祈るのみである。

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家族の面会を断る施設

昨日取り上げた話題の続きではないが、関連した話題を取り上げる。

指定取り消しを検討されているグループホームについては、どうやら日常的に家族の面会拒否が行われていたようである。

ホーム側の言い分は「会うと自宅に帰りたくなる」というものらしい。

中には昨年5月に入居して、ホーム側から面会を断られ続け、一度も会えないまま、やせ細って2月後の7月に入院したとの連絡を受けた、というケースもある。

昨日も指摘したとおり、報道されている内容の虐待があったかどうかは現時点で確実なことは言えない。

しかし家族の面会を拒否すること自体が大きな問題ではないか。

確かに、住み慣れた自宅から、新たな生活場所である施設に移った方で、特に認知症の方や、本人の意思で入居した方でない場合には帰宅願望が強く出ることがある。

だからといって家族の面会を拒む理由になるのか。僕は全面的にそれには反対だ。

里心がつくから、ということを理由に、最初は面会を控えてもらうように家族にお願いする施設があることは聞いている。しかし、それは違うと思う。

家族と離れて暮らす寂しさや、心細さは、家族が面会に来てくれないことで助長される。たまたま家族が面会に来た後、「帰りたい」と訴えるのは、訴える対象と機会が出来たからだ。

家族が面会に来なければ、その訴えを心の中に閉じ込めて暮らさなければならない。そのストレスは非常に大きい。

施設側からすれば、そういう訴えの対象や機会を出来るだけ作らなければ正面に出てくる帰宅願望という行動が現れないから安心というわけなのだろうが、それは、やがて欝や不安、心気症状など様々な別の問題となって表出してくる場合があり得るのだ。

同じグループホームでも、地域から信頼されているホームの、ある施設長さんに「家族の面会の後に帰りたいという人はいますか」と質問したことがある。

「そりゃあ、あるさ、だって淋しい気持ちはみんな持っているんだから、でも逢えないほうがもっとさびしいよ。家族にはむしろ、ホームにどんどん訪ねてほしいよ。家族が帰った後の寂しさのフォローは、僕らの責任だから」というような話を聞いたことがある。

まさしく、その通りと思う。

かく言う僕の施設でも以前、ケアワーカーが新規入所者の家族に「面会は毎日でもいいんですか」と聞かれて「最初は寂しがるから、慣れるまで面会は控えたほうが良い」という意味の話をしていることがあった。それは違う。施設が面会を規制したり、拒んだりすることはあってはいけないし、施設の環境に慣れることと、寂しさを我慢させることは違うんだということを話し聞かせたことがある。

今、年々あらたな職員が増えており、面会のことを、その都度こうだとは指導していないが、少なくとも「面会はいつでも自由ですよ」と職員は考えていると思う。

そういう雰囲気を作ることがまず大事だ。誰に対しても、誰かにあうことを拒む権利はないはずだ。

面会を制限している施設など、サービスの質は下の下だと思う。

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相談員には雑学も大事だよ

施設の相談援助業務というのは生活全般に関連してくるから、その及ぶ範囲は非常に多岐にわたる。

介護保険制度等の高齢者福祉制度を理解しているだけでは不十分だ。

例えば直接ケアに関しなくとも、利用者の住所変更やそれに伴う関連手続きなどの行政手続き代行の方法、健康保険の住所地特例適用とか、高齢者医療の主管はどこになるか、年金受給権、生活保護の銃に関する知識、遺言状の作成に関わる民法上の解釈等々、様々である。

ああ、それから葬儀の作法なんていうのも学生時代は、あまりわからなかったし、意識さえなかった。こういう作法や知識も自然に身につけてゆかねばならない。

ターミナルケアの現場では、例えば利用者が最後の瞬間を迎える際に、たまたまご家族が間に合わなかったという場合、残念ながら息を引き取った方を前に、家族が駆けつけるまでにかなり時間がある場合、お線香の一本でもあげておくほうが良いのか、どうかなど考えたこともなかった状況に遭遇して、ひとつずつ知識を積み重ねていく。

ちなみに、この場合は、家族が駆けつけてから、お線香やお供えを用意する。信仰や宗派や考えかたにより、死後の弔い方も様々で、こちらの好意がかえってあだとなることもあるからだ。

ただそういう知識というのは、業務について経験を積み重ねていく中で、自然に身についていくものであり、これから相談援助職に携わる予定の方は、そう深刻に考えなくて良い。

そのかわり、様々な事柄に興味を持って、必要ないと思える知識も貪欲に吸収しようという姿勢は大切だ。

なぜなら我々は高齢者という特定のカテゴリーに対して援助を行なっているのではなく、生活者としての人の支援に関わっているからだ。このことを間違えてはならない。

場合によっては、テレビのチャンネルあわせとか、車椅子の簡単な修理や、将棋の相手などもコミュニケーションの重要なツールになる場合がある。

ボキャブラリーや話題も豊富にあるに越したことはないのだ。

だから生活の中での趣味や特技の知識は大切なのだ。これは武器となる。

あるグループホームの経営者は、かつて飲食業で働いていたが、今、その知識や調理力(?)がグループホームにおける、レシピ作りや食事提供に非常に役立っていると言う。なるほど生活支援型ケアは、経営者や職員自身の「家事能力」も重要な支援力になってくるんだなあ。納得である。

この時期、そろそろ卒業式を控え、4月のあらたな就業に備えて心を躍らせたり、不安を持ったりしている学生たちも多いだろう。

これから就職する職場に関する専門知識も大事だが、この時期はおおいに遊び、趣味に興じて、様々な雑学を身につけることも重要だ。

今日のブログは、学生時代、遊びすぎた叔父さんの言い訳的アドバイスとしておこう。

地域ケア会議はどこへ行く?

4月から包括支援センターの設置が各地で進められる。

これに伴って在宅介護支援センターがなくなる地域がほとんどであろう。

法律上は、介護保険法で地域包括支援センターが位置づけられても、老人福祉法に在宅介護支援センターは残されており、それ自体なくなるものではないが、財政援助がどこからもない以上、独自財源などで運営するしかないため、事実上、在宅介護支援センターは歴史上の役割を閉じなければならないというのが実態ではないか。

もちろん頑張って残る在宅介護支援センターと、その職員の皆さんには是非、今までの在宅介護支援センターで培った、さまざまな関係や資源を生かして、地域を支える柱の一つとして活躍して欲しい。

ところでこの改正にともなって基幹型の在宅介護支援センターがなくなることによって、今まで基幹型が中心になって開催していた地域ケア会議というのはどうなってしまうのだろう。

もちろん包括支援センターにも地域の介護問題に介入する役割はあるのだが、地域ケア会議というチームアプローチの方法は具体的には示されていないように思う。

主任ケアマネには「支援困難事例などへの指導、助言」という機能があるし、社会福祉士も「多面的(制度横断的)支援展開」という役割があるものの、地域の他の機関を巻き込んで、全ての関係者の連携で地域において問題を抱える高齢者等を支援するシステムは具体化されていない。

特に基幹型という核がなくなり、地域の中で包括支援センターが複数あっても、それぞれ別法人で受託運営している場合は、その中心がどこになるのか、という形から考えねばならない。

さらに現状では、包括受託法人は、包括支援センターの立ち上げ準備と、新予防に移行するプランをどうするか、ということで大わらわで準備が進められており、地域の介護問題を総合的に考えるチーム作りまで手が回らないのが現状ではないだろうか。

しかし、これは問題である。

介護問題は待ってはくれない。今、現実に介護保険制度では救済できない支援困難ケースが出現したとして、その担当者なり、関係者は誰に相談して、誰と連携を組めばよいのだろう。

地域にはたくさんの資源があるよ、という人がいるが、現実の介護困難ケースに介入して、解決に結びつける支援というのは必ずしも多くはない。いやほとんどなく、地域ケア会議が唯一、具体的行動や支援に結びつく媒体であったという地域も多いはずである。

それがなくなる?

4月以降に、地域ケア会議の役割を持つ、新たなシステム作りにかかるとしても、このままではタイムラグの中で発生した介護問題、困難ケースの支援は、最悪、担当者であるケアマネージャーなどが、ひとりで抱え込まねばならなくなることも考えられる。

その際には、包括の社会福祉士や主任ケアマネに相談を持ちかけざるを得ないだろう。

しかしその時に適切な支援体制を示すことができる人材が、この包括支援センターにいるのか、という大変失礼な疑問が沸いてきてしまう。

主任ケアマネの経過資格も大幅に緩められてしまった。人材確保の観点は良いが、包括支援センターの担うべき大きな責任と役割を考えたとき、このことは本来もっと慎重に考えられなければならない問題であったろう。

人がいて、予防プランがこなせて、という機能が求められているのではなく、地域の問題を包括的に解決できる機能が求められているものであり、その責任は非常に重い。

どちらにしても、この地域ケア会議の機能を引き継ぐシステム作りが急務である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

通所サービスは運動器向上がメインサービスなのか

新介護予防についての考え方について、特に予防効果を廃用防止に対する筋力向上プログラムに注目して考えても失敗するであろう事は昨年来、このブログで示してきた。(昨年11月12月のArchivesをご覧いただきたい)

しかし4月からの新予防サービスにそなえて通所サービスの新たなサービスメニューを組み段階になって、通所事業所側の担当者の中から、選択サービスにおける専門メニュー、特に運動器向上プログラムが予防通所にとって最大の目的であるかのような意見が出されている。

もちろん、お気づきの通り今日の表の掲示板の議論である。

運動器向上プログラムにおける運動や訓練も大切であろうが、それは人の機能を維持、向上させる全てではない。

人には合う、合わない、がある。サービス利用の動機付けに運動器向上プログラムが結びつかない利用者も否定されるものではないのだ。

むしろ我々の福祉系サービスにおける通所介護ではアクティビティメニューとして様々な取り組みが効果を挙げてきたではないか。

それは通所サービス利用者が要介護度維持の確率が高いという数字でも表されていたはずだ。

だから事業戦略上、運動器向上プログラムを実施しないでアクティビティサービスを中心的に組み立てて、その中で介護予防効果を引き出すという考えがあっても良いのだ。

かつて風船バレーが、予防になるか、という議論があり、ややもすれば子供だましての集団的メニューの象徴として批判にさらされた経緯があるが、今、通所サービスで行われているアクティビティメニューの中には、本当に工夫され、大人が楽しみながら活動できるメニューや、認知症の方が無理なく実施できるメニューもたくさんある。

そういうサービスメニューの方法論を新予防の通所サービスに取り入れたって良い。

その結果として、運動器向上プログラムではない、特徴あるサービスメニューを中心に事業展開する事業所があれば、これも選択肢の一つであり、まったく否定されるべきものではないのだ。

少なくともそれに対し他事業所の職員が予防効果がないがごとくレッテルを貼って批判するのは大間違いである。

国の敷いたレールに乗らない考えが間違いだとでも言うのだろうか。というより国だって運動器向上プログラムが効果的でない利用者や、現行のデイサービスの効果に勘付いているからアクティビティを真っ向から否定できないのだ。

予防通所の最大目的は定額制と支給限度額の縮小による給付抑制策ではないか。

自らが、先輩たちが作り出した、サービスの効果の検証がもっとされなければ意味がない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

ケアマネジメントの中立性は評価されたか

介護保険制度のサービス提供方法は、事前のケアマネジメントによる計画に基づいて、利用者個々人にもっとも適したサービスを提供する、というところに特徴があり、ケアマネジメントはこの制度の根幹部分をなすものである。

そしてそのケアマネジメントの専門家として、介護支援専門員(ケアマネジャー)が位置づけられており、計画の立案から、各種サービスに関わる職員の連携・連絡、給付管理まで、介護サービス提供のすべての部分に中心的に関わることとなる。

であるから、利用者個々に提供されるサービスの質に直接結びついているのが、ケアマネの力量であると言えるのだ。

ところで、今回の制度改正論議において、このケアマネ及びケアマネジメントの質がどのように担保されるのか、という議論が盛んであり、その結果が、様々な加算、減算項目として基本報酬以外のところで評価されているところである。

このうち、制度施行当初から問題になっていた、いわゆる「囲い込み」。

つまり特定施設や団体等が、所属のケアマネを持つことにより、利用者に提供される介護サービスについて、サービスの特徴や質に関係なく自法人なり、自団体の介護サービスを使うことを優先的に計画し、ある特定のグループのサービスのみが利用者に提供されると言う問題であるが、これについての議論があったところである。

そして、議論の途中には、独立・中立的な居宅介護支援事業所を評価する方法が議論されたわけであるが、その結果であるところの特定事業所加算については、実質、独立中立性を評価する結果にはならず、大規模事業書だけがこれに該当し、ますます特定の事業規模を持つ団体の力が強まり、基盤のない独立型ケアマネ事業所がますます苦しむのではないか、という点は、先日の「各団体の制度改正への評価」で指摘しているところである。

ところで、囲い込みに対する減算として「特定事業所集中減算」というルールが新たに位置づけられたが、これも非常におかしなルールになっている。

なぜかというと、このルールは特定のサービス事業について、事業者ごとに介護支援専門員の計画したサービスが計画総数の9割以上である場合、全ての計画に関わる費用が減算されるルールである。

ところで問題は、この「特定のサービス事業」である。

なんとこれは訪問介護と通所介護、そして福祉用具貸与の福祉系サービス3事業しか該当しないのだ。

つまり同じ通所サービスでも、医療系の通所リハビリは、ある居宅介護支援事業所が全てひとつのサービス事業所のプランしか立てなくとも減算対象にはならないということである。

何故このような差があるのか。

おそらくこれは医療系サービスについては、ケアマネの判断という部分より、医師の指示、が優先される部分が大きいため、居宅介護支援事業所の減算には馴染まない、というのが大きな理由だろう。

しかしもともと「囲い込み」の問題は、特定の医療機関が患者を中心に利用者を囲い込むことが多いことから問題視されるようになった、という経緯があるはずで、福祉系3サービスのみにこのルールを適用しても、あまり意味がないし、本末転倒という状況が生まれる危険性を大いに含んだものだ。

しかも、そもそも介護サービスというものは、どこの誰が行なっても標準的なケアサービスが提供されるという状況にはなく、個々の事業所において質やサービスに差があるのであり、利用者にとっては、その方に合う、合わない、という状況が個々の事業所ごとに生じ、それはサービス利用の満足度および希望として現れるのだ。

このことは国としては、9割を超える正当な理由として「サービスの質が高いことによる利用者の希望を勘案する場合」として認めている、というのだろうが、その判断基準は都道府県任せで明確なものは何もない。

希望によるところが質の高さである、という判断をどうするのか。

ケアマネが質が高いと判断していても、都道府県がそれを「違う」といえる判断基準がどこにあるのか。

極めて矛盾と、問題を含んだ減算ルールであると言わざるを得ない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

恵庭市の認定調査書式に物申す

施設では要介護更新認定に関わる認定調査を代行して行なうことが多い。

本来、これは各保険者で行なうべきであると思う。

施設に代行調査を依頼する場合も、施設側が要介護度を重たい方に誘導する結果にならないかなどのチェックをきちんと行なわなければ問題があると考えている。

また業務負担として考えても代行調査を行なうことは決して歓迎していない。現場はそんなに暇ではないのである。

しかし利用者の状況をわずか数時間の調査で正確につかむのは大変だろうし、各地域に分散して入所しているすべての施設利用者の調査を保険者が自ら行なうのは無理だろう。その事情もわかるので協力することはやぶさかでない。

また保険者の担当者に調査協力する手間や時間を考えると自分で行なった方が手っ取り早い、ということもあり、本意ではないが毎年、多くの調査代行を行なっているのが現状だ。

しかし、その手間が業務上、余り大きくなっては問題なので、なるべく省力化を図りたいと考え、当然、調査票などはPCソフトなどで管理したり、データもデジタル管理している。

調査票も、状態変化があった項目のみ、入力しなおせば帳票はそれに応じてプリントアウトできるので、手作業とは大きな違いがある。

ところが、である。

いくつかの保険者では、この調査票の書式を自らのPCソフトに対応する帳票で指定してくる場合がある。

それも細かいマークシート書式を求めてくる保険者がある。これには困ってしまう。

施設の対応書式などお構いなしに、マークシートを記入してくれと言う。

本来それは違うのではないか?

共通書式が定められているのだから、それを提出して、保険者の判定ソフトにそれを入力する方法がマークシートであれば、マークシートの帳票に転記するのは保険者の職員の仕事だろう。

必要な調査はきちんと行なっているんだ。それ以上のものを求められる筋合いではないと思う。

特に北海道内でも、恵庭市の帳票などは最悪だ。

マークシートの調査票のほかに、同市独自の調査票の両方の提出が「必要である」と施設側に押し付けてくる。

我々がみなれた調査票ではなく、ご丁寧に前回調査結果を示し、その横に今回調査結果を記入するものだ。

概況調査票の必要事項は両者に同じ事を書き入れねばならない。実質、概況調査票と基本調査票が2枚である。

何のためにこのような負担となる書式にしているのか。

普通に考えれば、マークシートでない方の調査票のみを代行調査員に書いてもらって、マークシートの方は市の職員で記入するのが当たり前だろう。

だってこれって一時判定ソフトに入力するためのものではないか。市の職員の仕事まで調査代行者に押し付けるのが当たり前という感覚なんだろうか。

調査票だけで良いでしょう、と連絡しても「基本的には両方の記入をお願いします」だとさ。

何が基本なんだ!!

と、今日も納得行かないまま、調査票を作っている。しかし提出の際には、今後、書式指定がある場合は代行調査を受託しません、という一文をつけようかなと考えている。

介護・福祉情報掲示板(表板)

連帯責任が人を造る教育になるのか?

毎日ブログを書くのは大変でしょう、と言われることがある。

それは一面ではあたっているが、一面ではそうでもない。

つまり毎日でも書くことは数限りなくあるし、それをブログに綴る作業もそう大変とは感じない。それに何も毎日書くことが強制されているわけではないので、書かないという選択も出来るのだ。

そういう意味では、ブログを書き続けること自体は、そう難しいものではない。

ただ昨年11月から開始した、このブログに限っては、少々難しい問題があるな、と最近感じることがある。

それは、このブログのタイトルとキャッチフレーズに由来しての問題だ。

「masaの介護・福祉情報裏板」と称して、表の掲示板とは違った切り口で、福祉や介護への思いを綴る、というコンセプトを掲げてしまったため、自ずとその話題は福祉とか介護とかに関連性のあるものにせざるを得ないというふうに限定的に考えてしまうからである。

それは誰からも強制されたものではないが 、最近のように毎日500を超えるアクセスがあり、貴重なコメントも寄せられると、きっと読者の皆さんの期待も、単に僕の身の回りの出来事だとか、趣味の範囲だとか、漠然とした日々の思いにというものに興味が向けられているんではなく、裏板として、何らかの形で、福祉介護の話題につながっていることを期待されているんだろうな、と思うからである。

時には通勤途中で鹿を轢きそうになって雄鹿に睨まれたと思ったら、その背後の林に、数頭の鹿が群れをなして僕を睨んでいた、という当地のいかにも自然あふれた田舎の話題を書こうかな、とも思うが、そんなものに興味を持つ人もいないんだろうな、とも考えてしまうわけである。

だから何とか福祉や介護の話題に結びつく内容を書くことに心がけている。

しかし今日までほとんど休みなく、3月以上書き続けていると、ネタもそう簡単にはあるわけでなく、福祉介護に結びつく話題を搾り出そうと苦労することもある。

そういう日のブログの出来は悪い。

文章の流れもお粗末だし、内容も自分で読んでも、面白くも、おかしくもない。

このブログは下書きして書いているわけではなく、原稿も何もないままに思いつくままに書いている。つまりキーボードに打ち付けた文字がそのままネット上に反映されるので、そのときの心境がそのまま文章になって現れてしまうのだ。

逆に、搾り出した話題でなく、書きたいと思っているときの文章は自然で我ながら軽妙と感ずることもある。

密かに自分自身の文章を見て「さすが文学部出身だけのことはある」と自画自賛することもあるのだ。エヘン・えへん!!

今日はどちらの日かというと、こういう話題を書いているのだから、ちょっと苦しい日である。というより福祉や介護の話題に触れるような心境にもならない憂鬱な日なのである。

昨日のブログでも触れたが、道民の期待の駒大苫小牧高校の春の選抜高校野球への出場辞退が心に重くのしかかっているからだ。

僕の長男も高校球児で、おまけに地区予選まで同高と同じブロックなので、彼らの試合は良く見ているし親しみもある。

それが卒業式を終え引退した3年生部員の飲酒と喫煙で、彼らとは今現在は何も関係ない日夜練習に打ち込んでいた1、2年生部員も責任を取らされた形だ。

人間教育に問題があったというのであれば、それは生徒ではなく教育者の問題だろう。

校長が辞め、部長も辞め、不世出の名監督といわれた同校監督も責任を取って辞めた。

責任の取り方としては、それで十分ではないか。なぜ下級生部員にも連帯責任を負わせなければならないのか。まったく納得できない。道民や我々の期待なんてどうでも良いが、泣き崩れる選手たちを静視できない。

これが高校教育のあり方か!!

日本高野連よ、連帯責任で何を教育しようとしているのだ。こんなことが人間教育になるのか。高野連よ答えてくれ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護サービス従事者が利用者をみる「目」

世の中の出来事というのは、まったく予想のつかないことが起こるものだ。

北海道で今日一番ショックな事件は、甲子園で2連覇して今年の春も優勝候補とされていた駒大苫小牧高校の野球部員による飲酒、補導事件である。

優勝を目指して練習に励んでいる選手にとって、卒業を控えた3年生元部員の不祥事で春の甲子園に出場できないということにでもなれば、何ともやりきれないだろう。道民はみなショックを受けている。

このニュースにかすんで、道内の老人保健施設が4年間で4億6千万円という道内過去最高額の不正請求を指摘され、ショートとデイケアの指定を取り消されたニュースは、片隅に追いやれられてしまっている印象だ。

常勤医師が週の数日、別の医療機関に勤務していたことで常勤規定違反による不正請求ということであるが、これも道内の地方を中心とした医師不足の問題が根底にある。

タイムカードなどを他の職員が替わって押していたなど、不正の認識は施設としてあったのであろうが、医師をどう確保するかという問題は、他の施設でも悩ましい問題として抱えているのではないだろうか。

しかし余りに巨額な不正請求は言い訳ができないだろうし、過去から現在まで様々な事業領域で刳り返される不正は制度の信頼自体を揺るがしかねない。困ったことだ。

加えて、今日驚かされたのは、愛知の通所リハビリ事業所の職員が、持ち出し不可の利用者情報を送迎中に落として住民に拾われて届けられた、というニュースである。

情報の管理という部分を考え直さねばならないだろうが、そのことのずさんさに驚いたのではなく、拾われた書類に書かれた内容に驚かされるのだ。

「エスケープ要注意」「他の利用者からあまり好かれていない」「ひやりハットNO1」などの表現・・・・。

何のためにこのような情報が必要か、と思ってしまうが、それよりも介護サービスに従事する職員の利用者に向ける目線のおかしさに憤りを感じる。

一体、サービス従事者は何様なんだ。

一人の人間として、人生の先輩として、生活課題を抱えた生活者として、利用者を見るという基本的な視点を持っていないサービス事業者とは何ものなんだろう。

こんなことだから、全体のサービスの質が問われてくるんだ。

福祉サービスだから、とか、顧客サービスだから、という以前に、人としての常識、当たり前の感覚に欠けているのではないか。

自分の親が「ひやりハットNO1」と烙印を押された形で職員に認識されているとしたら、どう考えるのか。

介護現場の常識が、世間の非常識であっては困るのだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴〜最終章・馴染みの物品

僕は自施設で回想法を行うことがある。

療法としてではなく、精神機能の活性化の活動メニューとしての位置づけにしか過ぎないが、利用者の方に、昔使い慣れた物品や習慣をビデオで紹介しながら思い出してもらい、昔はああだった、こうだったと雑談を交わしながら話題を盛り上げて、若かりし頃などを懐かしく思い出してもらう。

しかし、高齢者だから昔のもの・古いものが何もかも馴染みだろうと思ったら大間違いで、「そんなもの使ったことがない」ということになってしまう場合がある。

「わらじ」なんかもそうだ。高齢者だから、昔はわらじをはいて、それを編んで作ったことがあると考えたら、北海道の方は特に、そんなもの使ったこともないし、編んだこともないといわれ、それ以上話題が進まない、なんて事がある。

服装だって和服を普通に着ていた人も多いが、子供のころから洋服に馴染んでいた人もいるのだ。

一口に高齢者といっても、生きてきた時代は様々なのである。

掃除用具に掃除機を当たり前に使っていた世代の高齢者、洗濯機がない生活を考えられない高齢者だって増えてくるんだ。職員の思い込みで古い道具すべてが高齢者の馴染みの道具と思ってはいけない。

ところでグループホームの装飾にはレトロな家具が使われることが多いと思うし、実際にそういうホームを多く見ている。

日本古来の家具や装飾はそれなりに心が癒されるもので、それはそれで良いことだと思う。

ただその装飾の目的が、過去の暮らしを思い起こして、生活の継続・連続性を目的としている、という説明を受けると、どうも違和感を持つことが多々ある。

特に北海道という地域特性を考えたとき、囲炉裏などは、今の高齢者の暮らしの中に当たり前に家庭にあったものだろうか?東北地方はともかく、北海道の中では、まきストーブや石炭ストーブを家の中心においての暮らしであって、囲炉裏を囲んで、という生活スタイルはあまりなかったのではないか。

あくまでそれは、日本人の心に訴える癒しの空間作りという意味であり、過去の生活を再現する目的ではないだろうと思ってしまう。

ましてや暖炉なんて普通の家庭にはないよ。

それから滑稽なのは、何でも古いものが良いという発想からか、家庭に置かれるべきではない、外にあるべきものを共用空間に設置している例があることだ。

懐かしいとはいっても、丸く赤い郵便ポストが家庭内に置かれているのは違和感がないだろうか。笑ってしまう。

それと動かない時計。

あれは時間を見るためでなく、装飾だ、と主張する管理者がいるが、そもそも普通の家庭で居間の一番目立つ場所に、動かない時計を置いている家があるのだろうか。

確かにモダンな時計より、ねじ巻きの、大きな振り子がついた時計でないと、時間を確認する、ということができない認知症の方はいる。しかしそれも時計が動いての話ではないだろうか。

畳スペースが共用スペース部分に、不自然に作られ、デッドスペースになって、誰も使わない状態で物置になっている例も見られる。生活に根ざしていない装飾は逆に混乱要素となるのではないか。

掃除用具だって、認知症が現れる直前まで、一家の主婦として活躍していた方は掃除機を普通に使っていたはずだ。

認知症になった途端、すべての高齢者が箒とハタキでなければ掃除が出来なくなるというものでもないと思う。(箒やちりとり、はたきの効果は良くわかっていてもの話である)

認知症高齢者は古くて不便なものしか使えない、という思い込みから抜け出して考えて、それこそ個別にあうもの、あわないものを考える必要もあるのだ。

馴染みの物品がパソコンである、という認知症高齢者の部屋にPCを置いてケアする、という時代も大いにあり得るのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴3〜日課のないケアサービスの意味

既存の大規模施設の批判のひとつに、集団的ケアが挙げられる。

そのことからの脱却のためにハードがユニット型でない既存施設でも、グループケアや既存施設でのユニットケアという風に、施設内の利用者を小グループに分け、職員もなるべく固定的にケアサービスを行うという取り組みが行われている。

そしてその中では、脱集団処遇のありようとして「日課のないケア」の取り組みが奨められている。

まさにグループホームなどの小規模施設で行われるケアの方法論を取り入れたものだ。

ところが、この日課のないケアというものを誤解して捉えているリーダーによって提供されるサービスは、利用者の生活そのものに深刻な問題を与えることを忘れてはならない。

日課がないということは、個人が好きな時間に起きて、食事時間も不規則で、夜不眠の日が続いても、それに対応できればよく、着替えも整容も気が向いたときに行えばよい、という考えではない。

人には生活リズムというのが重要なのだ。

朝起きて、日中は活動的に過ごし、夜眠られる、という生活が体内時計のリズムを刻み、それが健康で幸福な生活の前提条件になるのだ。ある程度、生理パターンにあわせた生活作りは援助が必要で、個人ごとにそれは微調整されるものである。

日課のないサービス提供が出来る、という本来の意味は、ホーム側の決め事に利用者を合わせるのではなく、利用者自信の希望や状態に合わせてサービスを提供する、という意味であって、利用者個人々の習慣に基づく日課や生活リズムは大切にしなければならない。

食事時間や入浴時間や就寝時間が毎日、気分によって変わってしまうような生活が日課のない生活の意味ではない。

逆に、それが乱れている方には、一定の生活パターンを取り戻す援助を行わなければならない。

そしてその方法論が、過去の生活暦や習慣を取り入れ、出来ないことより、出来ることに目を向けて共に過ごす中でケアサービスを提供するという「生活支援型ケア」の基本である。

日課というよりペースというほうが、よリ適切かもしれない。

人間は生活者である以上、生活には個々人のペースやパターンがある。それゆえ、誰から決められたわけでもないけれど、食事や入浴時間というもはそれぞれの家庭や個人で一定のペースにより行われているのだ。

グループホームの重要なもう一つのコンセプトは家庭で暮らしていた頃の生活習慣を守って、混乱を防ぐ、とこともある。

毎日、食事前に入浴していた方の生活習慣、夕食後にゆっくり過ごして寝る前に入浴していた方の生活習慣、それらを継続される事を望んでいる利用者も多いという意味のみならず、それを思い出すことで自らの体に染み込んだ生活パターンを取り戻して安定した生活につながるという意味もあるのだ。

朝の連続テレビ小説を何十年も欠かさず見ていた方が、病気をきっかけにしてその生活習慣が崩れた。その後時間の認知が悪くなって見当識が悪化してしまった。こういう方に大好きだった朝の連続テレビ小説を見ることだできるよう、決まった時間に職員が誘導してテレビをいっしょに見ましょう、と誘導する。そしてそれによって時間の混乱が防げて、認知の改善に繋がる、なんていうサービスも立派なケアサービスだ。

このことを誤解して、勝手に解釈して、不健康で混乱がいっぱいの生活を作ってはならない。

グループホームに限らず、従来型施設でもユニットケアを取り入れる際、この日課のない生活を誤解して、何もしないで、日がな1日、居室で過ごしても、それが利用者の希望だから問題ない、としている施設もある。集団的な活動を全て否定する職員がいる。

馬鹿げている。

活動参加できるメニューは大切なのだ。要は、それに参加する、しないと言う選択ができるかという部分と、そのほかに選択性があるか、ということが重要なのだ。

参加をしないと、一時的判断で拒否する方の「心が動く」働きかけやサービスメニューは必要なのだ。

心が動く働きかけをしないで、何もしないことが希望や自由だというのは、「何にもできない不自由」を生活の中にはびこらせてしまうことに他ならない。(続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴2〜ユニットケアの理解はできているか

グループホームにおける少人数対応の「ユニットケア」の方法論や、過去の生活習慣を大切にしながら出来ないことより出来ることに目を向ける「生活支援型ケア」の方法論が優れていることは間違いない。

私共の施設のような従来型の大規模施設が、いくらその方法論をまねても、現在の人員配置やハードではクリアできない部分が多々出てきて、とてもグループホームのケアには叶わない、と思う。

ところが、である。

実際には、ここ数年のうちに何ケースか、グループホームで対応できないで退所を勧告された、という方が私の施設に移ってくる例がある。

費用の問題ではなく、グループホームが対応困難として放り出すケースだ。

実は今回のテーマを昨日から書くことにしたのは、実際に昨日(日曜にも関わらず)グループホームから別な施設を探してくれといわれた家族から相談を受けたことがきっかけだ。

そのケースは実は、昨年から当施設のショートスティを使いながら、多サービスを組み合わせ、在宅で生活していた方である。

家族の介護力の低下もあり、施設入所に移行する検討の段階で、たまたま近くにグループホームが新設開園されたため、そこに入所したケースである。

ご当人は、いわゆる運動機能の衰えていない認知症の方で、日常の要求も多く、人から見れば「わがまま」「自分勝手」と見える方かも知れない。

しかし、ご当人にとってみれば、それらはすべて理由のある要求であり、その理由を職員が一緒に探り当てて、応えれば、納得され、落ち着かれる方である。そして、その中でご当人の希望する生活を見出すことで、ショートスティ中は何の問題もなく過ごされていた。

その方が、GH入所後わずか2月でSOSを出してきた。

「状態に何か変化がありましたか」という私の問いに対し「いえ、家族から見れば変わりないんですが、本人がわがままで職員さんが対応できないみたいなんです」という家族の言葉にも納得できない思いが感じられた。

特養より、従来型施設のケアより優れているはずのグループホームのケア、認知症高齢者のケアの切り札であるはずのグループホームのケアが、我々の施設のケアサービスに負けてもらっては困るのだ。

しかし、このままにはしておけない。

そんなホームには見切りをつけよう。何より共に生活している職員から「対応困難」と見放されている、その方が心配だ。

ということで、そのグループホームから一旦退所して、ショートスティを使いながら、当施設への入所を視野に入れて、とりあえず在宅復帰に向けて受け入れ態勢を整えることとした。

こういう例でもわかるように、ケアのスタンダードモデルは優れているはずのグループホームも、数はたくさん増えているが、それに比例した形で質は向上しているとはいえない現実があるのだ。

良いグループホームはたくさんあるが、それ以上に、首を傾げたくなるグループホームも生まれているのである。

その一番の原因は、そのサービスを提供する人材そのものにあると思う。

ユニットケアの方法論を理解しているのか。そのことを、もう少し考えてみたい(続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴1〜馴染みの家具って??

グループホームをはじめとした地域密着型サービスは、小規模の施設であるがゆえに、現場で熱い思いを持ってケアサービスに取り組んでいる若い実践家も比較的経営に参加しやすいサービス事業であるといえる。

しかしそれは同時に、さまざまな資質の経営者を産出し、経営者の考え方ひとつでサービスの質に大きな差を生み出し、同じサービス事業のサービス内容にでこぼこがつくられることともつながっている。

それは大規模施設でも同じではないかという意見もあるが、しかし組織が大きくなれば、そこには様々な人材が貼りつくことになり、ひとりの経営者の思い込みが直接サービスの方法や生活の質につながる段階で、多段階にクッションが生まれ、どこかで思い込みを修正できるというフィルターの役目を持つ可能性が高くなるが、小規模の施設であればあるほど、このフィルター機能が発揮されないというデメリットがある。

このことは今まで、あまり論じられていないところであり、小規模施設のメリットだけが強調されがちであるが、非常に危険な「密室性」を生む危険性を孕んでおり、今日から数日、具体例を挙げながら少しこのことに触れてみたい。

これは小規模の施設のデメリットをあげつらって上げ足を取ろうという主旨ではなく、小規模施設の経営者には、自分の思い込みが、果たして実際に、人の生活の中で「幸福感」「満足感」に繋がっているのかということを日々、振り返って考えてもらいたいからだ。

グループホームの特長のひとつとして、個別の生活習慣や生活スタイルの継続性ということが挙げられる。

そのため、グループホーム内の装飾や雰囲気は家庭的な部分に重点を置いて考えられ、個人の居室も、それぞれの馴染みの家具などを持ち込んでいただき、施設ではない、家庭としての生活空間作りを行うことが大切であるといわれている。

その通りであろうし、それは重要な視点だ。

しかし、そのことを理由にして、ベッドを備品として準備しておらず、持ち込むことを入居の条件としているグループホームがある。

ベッドを持ち込みたいということを否定するものではないが、果たしてベッドが馴染みの物品として必要な家具なのか疑問に思うことがある。

そもそもベッド自体に、そういう思い込みを持つ方が多いのだろうか。清潔で寝やすいベッドであるなら混乱要素にはならないと思う。

僕など、今自分が使っているマットや寝具で覆われたベッドの形させ、はっきり覚えていない(これは単に僕がずぼらなだけか)

それに入居の際にベッドを持ち込む労力も大変だろうし、入居後、外泊する際のことはどう考えているんだろう、と疑問に思うからである。

しかも、おかしいことに、持ち込まれたベッドが明らかに、新しい買ったばかりのものであることが、ままある。つまりグループホームに入居するために購入したものだ。馴染みの家具でもなんでもない。

さらにひどいケースになると、病院でよく見かけるスチール製ベッドを持ち込んでいる例だ。なかには、わざわざギャジベッドを購入して持ち込んでいる例もある。

こんな物が家庭で使われていたのか?使われていたとしても、それはやむをえない必要性に迫られてのことだろうし、わざわざグループホームにまで持ち込んで、それが「あなたの生活スタイル」の継続です、とさせる必要はあるのか?

むしろ、家庭の介護力の問題で、ギャジベッドを使わざるを得ない生活を送っていた方々に、ギャジベッドではない、寝具としてのベッドを使っていたころの生活を取り戻していただくようなケアサービスを目指すことが、本来のグループホームの目的ではないのか。

あのスチール製ベッドは生活空間に馴染まないと思う。

馴染みの物品の使用を施設側の都合の良い論理に使ってはならない。

形より、生活そのもの、これが大切なのだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

各団体の制度改正への評価 

2月20日発行の福祉新聞の3面が面白い。

今回の制度改正について、経営協・廣江委員長、老施協・中村会長、独立・中立ケアマネ協会のそれぞれの評価が載せられている。

経営協と老施協の意見にはかなり温度差がある。

経営協は、制度改正が全体的には大変厳しいものであるとしているのに対し、老施協は多床室単価下げを最小限に抑え、重度化対応加算と看取り看護加算を報酬上に位置づけたことで「よく頑張った」「加算をとれば大丈夫ではないか」としている。

ただこの違いは、前者が制度改正の方向と中身を純粋に論じているのに対し、後者は報酬決定における政治的手腕をアピールしている、という違いであるように感じてしまう。

中身に対する議論も、現場の職員から見て「おかしい」と思うことが多々ある。

経営協がユニット個室の報酬アップと多床室ダウンのセット改正を「逆転現象の解消」と評価していることは木を見て森を見ていない視点と思う。

参照:「老施協の多床室報酬に対する解せない姿勢。」 

  「居室類型による報酬差は妥当か」

社会福祉法人の評議委員会の廃止に対する両者の意見も正反対だ。

その中で、ひとり、独立・中立ケアマネ協会の意見がこの制度改正の本質部分をついているように思う。

「今回の改定では構造的な問題がなんら問題視されていない」静かだが鋭い意見と思う。

特定事業所加算にその態度が良く示されており、独立・中立ケアマネ協会の言うように「囲い込みをしてきた併設事業所のうち大規模なものがこれを満たす可能性がある」「従来の独立事業所にとって、ほとんど不可能な条件」という意見にはうなずかざるを得ない。

本当は、ケアマネジメントの独立性・中立性を評価して、その質を担保するのが制度改正のひとつの視点ではなかったのだろうか。

それがいつ変わったのか?

本記事の中で老施協、中村会長が「報酬には政策的誘導があることをよく知ってほしい」と語っている部分がある。

その通りであると思うのだが、であるなら、政治家は、この国の福祉の行く先に震える思いを持って取り組んで欲しい。

富める者しか良いサービスを受けることができないのでは福祉サービスではない。

必要な人に、必要なサービスが、必要なときに提供されるために何が必要か、そのことをケアマネジメントの質とあわせて考えたとき、地域で小規模で活動する独立・中立型のケアマネジャーの存在はもっと重視されても良い。

福祉新聞、2/20号を是非、ご一読ください。(同社から宣伝を依頼されていることは一切ありませんが)

介護・福祉情報掲示板(表板)

新介護予防〜生活モデルか医学モデルか 

社会福祉援助の領域で、個別援助技術(ソーシャルケースワーク)の機能をどうとられるかは、その理論的立場によって異なり、過去において「診断派」と呼ばれる人々が提唱した「医学モデル」が主流であったものが、現在では「機能派」による「生活モデル」への転換が図られ、これが主流となっている。

「医学モデル」とは、医学の診断、治療手順を土台として、利用者をパーソナリティに病理的問題を持つ治療の対象として捉えることに特徴をおいたもので、利用者の過去から現在に至る生活歴等を診断評価することによって、利用者の人格構造を明らかにし、現在の生活状況の中での自我の働きを解明することによって、自我の強化と人格の社会的適応を図ることが援助者に期待されていた。

こうした治療的側面のみを強調する「医学モデル」に対して「生活モデル」は個人そのものに焦点をあて、個人を取り巻く環境にも関心を強めるという必要性を提唱し、生態学的観点を援助技術に導入し、個人だけでなく集団に対する援助についても総合的に考えるという立場に立って、人と環境の交互作用についても着目することに特徴がある。

すこし難解な説明になってしまったが(この理論を簡単に説明するのは極めて困難だ)つまりは、心理療法に偏った「医学モデル」では個人の内面的問題に関心が置かれがちであったが、「生活モデル」では、人間だけに問題があるのではなく、人と環境が交互に影響を与え合う。即ち、いずれも問題の原因あるいは結果ではないと考え、個人や家族の環境への適応力を高めると共に、環境側に位置する(家族もこちらに含まれる)側に、不適切な対応を修正するように働きかけることが中心となってくる。

その特長は、
1. 疾病の心理学よりも成長の心理学
2. 治療よりも援助
3. 援助者中心より利用者中心
ということが挙げられるであろう。

アセスメントという言葉も、実は「医学モデル」で使っていた「診断」という言葉を「生活モデル」に置き換えたことから始まっている。

新予防マネジメントでは、ICFの概念を取り入れた予防プランの作成が提唱されており、それはまさに生活モデルの実践課程といえるが、ここがうまくいくのか。

というのも、新予防の中心的サービスであるところの通所サービスにおける運動器機能向上プログラムに必要とされる計画書や評価のモデル書式は、まさに診断そのものとなっているからであり、そこには環境と人の交互作用に焦点を当てるような視点は含まれていないからだ。

おそらく予防アセスメントの過程と、実際のサービスにおけるアセスメントやモニタリングの過程は、別な専門家グループが個々に作成したもので、両者の摺り合わせは行なわれていないのではないかと想像できる。

となると、予防サービスの展開過程では、このそれぞれのツールが合致して評価することに様々な問題が出てくるだろう。というより、そもそも担当の保健師なり受託ケアマネが、これを使いこなして、定期的評価がある程度の水準を目安に可能なのか、という問題に置き換わる。

生活目標に根ざしたプランを作成したとき、体力測定の結果と、生活力が結びつかない原因を導き出すことができる保健師が何人いるだろうか。

今日は変わった始点から、新予防サービスに対する、取り越し苦労をしてみた。

どちらにしてもこのことを考えてもわかるように、地域支援事業と新予防事業の何百にわたるケースのサービス評価を一人で担う包括支援センターの保健師とは、よほどのスーパーマンを配置するか、あるいは適当に業務をこなすしかない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

翼あるもの

以前ここに書いたことがあるが、僕の大学時代の専攻は高齢者介護に関するものではなく児童福祉である。

それが関連しているわけではないが、子供をめぐる諸問題には関心があるし、何より自分の周りに子供がいる環境が好きだ。純粋に守らねばならない対象として子供たちを愛おしく思う。

しかし近年の少子化の進行は深刻で、昔話の決まり文句の「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というフレーズが、いずれは「昔々、あるところに、男の子と女の子がいました」に替わってしまうのではと心配するほど、「あるところ」にしか子供たちが見かけられなくなりつつある。

今後のわが国の社会保障制度の最大の課題は少子化問題で、出生率を大幅に上げることに成功する政治家が現れたら、それがこの国の救世主になるんではないかとさえ思ってしまう。

しかし、そのことは別として、昨今、この国の事件事故が報道されるたびに本当にやるせない気持ちになることが多い。数多くの子供たちが悲惨な事件や事故に巻き込まれていることだ。

社会というのは本来、弱きものを守るシステムを本能として持っているはずである。

特にわが国の伝統社会は、貧しくあった時代であっても「向こう三軒両隣」の関係を中心にして、もっとも子供が育つのに適した地域社会を形成してきた、という歴史があるはずだ。

しかし、今、その地域社会が音を立てて崩れてしまっている。子供にとって地域は安全なカテゴリーでは既になく、監視していないと危険な場所になってしまっているのなら、これは何という荒廃社会なのだろうか。

子供の環境は、実は大人の都合により考えられてきた側面が否めない。

子供は子供を取り巻く環境に適応しながら大人になっていく。

そうであるがゆえに子供の幸福や不幸は環境によって左右されてしまうのだ。子供の砦としての家庭環境も家族を取り巻く社会全体の変化と無縁ではない。

子供を傷つけ、虐待し、殺してしまうまでにいたる大人もかつては子供であったのだ。彼らはどこで、何を間違えてしまったのだろう。

生命の大切さを、人の愛おしさとはかなさを、大人たちはどう伝えなければならないのか。

監視カメラは犯罪の抑止力にはならない。犯罪者がいる限り、それは社会の様々な死角において繰り返される行為だからだ。

犯罪をまったく消滅させることは不可能であることは人類の歴史が証明しているが、犯罪者が生まれぬにくい土壌を築き上げることは可能なはずだ。

犯罪だけでなく、非行の低年齢化、いじめ、登校拒否や閉じこもり、性道徳の低下、孤独な高齢者の急増、障がい者の権利侵害など様々な問題の多くは地域社会の解体や家族システムの変動と関連がある。

しかしその大本は、この国の社会全体にはびこる価値観の変化と関係があるように思えてならない。

大事なものは何か、口で言うだけでなく国のリーダーたちはそのことにもっと真摯に取り組まないと大変なことになるのではないか。

子供を安心して守り育てる社会が作られないと出生率も上がらないだろう。そしてそれは、人を大切に思う、何よりも命の尊さに目を向ける価値観だ。

勝ち組と負け組みの論理、費用対効果の論理、弱肉強食の論理だけで国が持つのか?

福祉はとかく対症療法的にならざるを得ないが、我々は微力であるが、身近な生活の不満を含めた生活障害から、社会全体の機能障害に目を向け、我々自身の心の中に培われた価値にも焦点をあてて考えなければならないところにきている。

この国は今、先進国なのだろうか。豊かな社会なのだろうか。

Ride on Time 〜 良いケアしか残らない〜

2月も後半に入ると、北海道も、ぼちぼち暖かい日が目立ってきている。

暖かいという概念に対して、他の地域の方と僕との認識との違いはわからないが、この時期、朝起きて僕が「暖かい」と感じるのは氷点下でない気温の日であることが多い。雪解けも間近である。

しかし2月という月は本当にあわただしい。

28日しかないことは解っているのに、月末に業務が集中してしまうのはいつも同じである。

それに加えて先週から今週にかけては、制度改正の説明会や研修会で通常業務に就けない日が多かった。来月のケアワーカーの勤務表も遅れに遅れ、昨日、業務時間終了後に何とか作成した始末である。

3月の勤務表の中には、その月に退職する職員の最後の勤務割を作るという意味もあり、感慨深い。

今までご苦労様という思いをこめて作っているのだが、おそらくそういう思いは伝わらないんだろうな、とも思いながら作業にあたる自分がいる。

この4月にはどの地域でも移動や新たに転職する関係者が多いのだろう。

ひとつには制度改正により、包括支援センターなど、新予防サービス関連の事業に就く方、それに関連する移動がまず考えられる。

それから制度改正に位置づけられた新規事業に関連して、現在の職場を退職して、自ら事業経営に参入する仲間も少なからずいる。

彼らには是非、成功を祈ると共に、新しい事業経営の風が、この国の福祉サービスの質の向上に向かう風であって欲しいことを願って止まない。

そうした視点を持つフロンティアには、福祉現場に携わる専門職として、仲間として、先輩として、できる限りの協力をしたいと思う。

福祉や介護のベンチャーは、利益至上主義のベンチャーではなく、志をより高いところにおいて欲しい。

しかし、いずれそのことが顧客の信頼となり、地域になくてはならない存在としての認識に繋がり、安定経営にも繋がっていくものと確信している。

合言葉は「良いケアしか残らない」だ。

一方、地域密着型サービスの導入でグループホームの乱立に歯止めがかけられるが、その前に駆け込み的に建設ラッシュが続いている。また都市部を中心に、有料老人ホームの建設も目立っている。

後者の理由は、おそらく介護保健施設の居住費と食費が自己負担化されたことにより、費用負担の差が縮まり、アメニティの高い施設への需要が確実に増えているという予測に基づいているんだろう。

高齢者が住まう場所の選択肢が増えることは良いことであるが、経済的負担に耐えられない高齢者の対策上の救貧政策が多床室であっては困る。

本来、福祉の原点は必要な人に、必要なサービスを提供することであり、社会的地位や資本主義市場の論理の上に立つ経済力で老後の生活まで差がつくというのは(程度こそあれ)問題視されなければならないはずだ。

それにしても通所サービスなどの介護サービスを含め、沢山の施設、事業所が、需要バランスを考えることなく参入している現実は、介護の世界にも競争原理が働かざるを得ない状況を否応なく生み出す。しかし、それが全て良い方向に向かうとは限らない。

一時的、短期的には価格競争を中心にサービス競争として利用者の利益に結びつくだろうが、強い企業なり競争力のある主体が勝ち組を独占すれば、その後の市場は寡占市場となり、介護の現場では、その結果として、勝ち組の論理で利用者の生活そのもののあり方や質が左右される危険性を持っていることを忘れてはならない。

競争が「介護サービス戦争」になる意味は、介護サービスの現場を荒野と化す、という危険性を常に内包しているのだ。

戦争は不幸しか生み出さない。

介護予防通所サービスの成功報酬は奇妙なり

今回の介護保険制度改正の中で、介護予防通所サービスには事業所評価加算というものが位置づけられている。

これはいわゆる成功報酬である。

1月から12月までの期間で、利用者数が10名以上の当該事業所の介護予防通所サービスを3月以上継続している方のうち、運動機能向上と栄養改善、口腔機能向上の3つのサービスのどれかを選択している利用者について、認定更新がされた更新後の要支援、要介護の認定結果から、維持を1点、1段階改善を5点、2段階改善を10点と計算し、その合計を利用者数で割った数字が2を超えたときに、翌年の報酬を100単位機械的に加算する、というルールである。

そもそも人の生活の改善を要介護度という尺度でしか見ず、生活状況を無視するような数値を持ち出すこと自体が「わかっていない」連中の空論だと思えるし、加齢という自然現象の中で生ずる健康状態の変化や、身体能力の衰えに対しては維持だけでなく、悪化の度合いをどの程度防いでいるか、ということも大切だという重要な視点がまったく欠落したルールとなっている。

何より、そのサービス事業所に通う「動機付け」や通うことので「生きがい」を感じられるという、本来持っている通所サービスの特徴に対する評価は介護度で表すことは不可能だ。

人の満足感やサービスの質を介護度という尺度で測れるはずがない。数値で示されないのが人の「暮らしの満足度」なのだ。

しかも成功報酬を得て加算算定することによって、利用者は翌年から、まったく同じサービス内容に対し、毎月100単位分の自己負担分を負わなければならないという、奇妙なルールだ。

加えて、このルールは事業所にとっても歓迎すべきものではない実態が見て取れる。

どういうことかというと、実際に10人のグループでシュミレーション(とはいっても足し算、割り算という算数の問題だが)してみればわかる。

10人のうち8人が維持で、2人が1段階改善でも1.8という数字にしかならない。つまり1段階アップでは10人のうち7人が維持で、3人が改善でないと加算条件に当てはまらないのだ。悪化が2人おれば3人が1段階改善でもちょうど2.0だから「2を超える」条件には足りず該当しない。

つまりハードルが高い、という点がひとつにある。

しかしそれよりもっと大きな点は、このサービスの対象利用者は要支援1か要支援2の方のどちらかであるが、仮に10人のうち7人が維持で、3人が改善した場合、改善の3人が要支援1であれば、それはもう通所サービス自体を利用できない、という意味である。

改善が要支援2の方であれば、要支援1に下がり、支給限度額も下がり、当該事業所に入る定額報酬も下がり、利用者も場合によっては通いの回数が減らされる、という可能性が高いわけである。

つまり身体機能の改善自体は喜ばれても、結果としての要支援認定結果の改善は利用者にとっても望まない結果、となってしまう可能性がある。

事業所も実際に利用者減につながる結果を歓迎することになるのだろうか。

「ちょっと待ってください、そんなに頑張ると次回認定以降サービスが使えなくなりますよ。もっと適当にやりましょう」

そんな声があちこちから聞こえなければ良いが・・・。

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2006年3月問題の勃発

コンピューターの世界での2000年問題というのは記憶に新しいところである。

しかしここに来て、どうやら我々介護の世界には2006年3月問題が勃発する雰囲気になってきている。

それは新予防サービスに関連しての問題である。

説明するまでも無いが、この4月から新予防サービスを実施する市町村では要支援・要介護認定者のうち3月末までの認定期間の方々が予防給付なのか、介護給付なのか、ということが重要になる。

しかも、予防給付に移行した方々が4/1からスムースに新予防サービスを受けるためには、3月中に予防プランを立てねばならない。

さらに悪いことに、本来、予防プランを立てる責任主体であるところの地域包括支援センターは3月時点では存在しないのだ。

ということで国では2006年3月限定の特別ルールとして、一定の要件を満たす既存の居宅介護支援事業所において、利用者との個別の契約により予防プランの作成を行い、4月に包括が立ち上がった時点で、委託を受け作成した取り扱いをする、という規程を設けた。

当市においては、新規認定者以外で4/1より新予防に移行する方のプランについては、現在担当している居宅介護支援事業所の担当ケアマネが3月に予防プランを作成する、ということになっている。

ここで問題となるのは、そうであるなら3月末の認定期間となっている方々については、1日でも早く認定結果を知らせてもらって、予防プランを立てるのか、介護プランを立てるのか明確にして準備しないと間に合わないということである。

そのために更新申請を60日前にはきちんと提出し、調査や医師意見書の作成も急いでいただき、2月中にも審査判定をしてもらって、早い段階で認定結果を知らせてもらって、その結果を利用者に説明し3月プラン作成にかかろうと考えていたケアマネが多いはずであり、市もそのことを充分承知して、審査判定の準備を進めていた。

ところがここに来て、国から、政省令が出されるまで認定結果通知を出すことは出来ない、という連絡が各市町村に入っている。

事実上、新予防対象に移行可能性がある方々の審査判定が行えないということである。(行っても良いが通知できないのであれば結果は同じである)

ところでこの政省令なるものが、いつ出されるのか?閣議決定を経なければならないだろうから、3月3日か15日か?そのことさえもわからない。

だから市町村としては3月最初の週で認定審査を行い、その結果を政省令が出されるタイミングをみて出来るだけ速やかに通知する、というのが精一杯だろう。

となると利用者本人や担当のケアマネに結果が知らされるのは3月半ばか、それ以降・・・。

こんなことで、スムースに予防プランの契約を結び、実際にプランニングが可能なのだろうか?非常に厳しい状況である。

かくして現利用者の中に3月末までの認定期間の方を複数持つケアマネは、3月はそれらの方のプランについては、予防と介護を両方考えながら準備しなければならない。非常に大変な状況である。

現場がこのような混乱とストレスを抱えていることなんか国は全く関知していないんだろうな。

そしてその不利益が利用者に及ぶ恐れがることも「想定外」なんだろうか?

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