(昨日からの続き)
「白夜を旅する人々」(1985年大佛次郎賞。)の中に描かれている三浦の血族に背負わされている宿命とは、アルビノという病気である。
アルビノは遺伝子情報の欠損に関わるメラニン欠乏性遺伝子疾患で、先天性色素欠乏症、白子症と呼ばれ、その疾患を発症した固体は「白子(しらこ)」と呼ばれたりする。(これが差別用語とされているか否かは定かではないが、少なくとも人を対象にした言い方とすれば不適切な表現と思う)
症状としては、全身に色素がほとんどなくなり、髪の毛をはじめとした体毛も白くなることが多い。皮膚も乳白色となり、瞳孔も眼底部の血管が透けて見えるため目が淡紅色に見える。メラニンがないため紫外線に免疫がない。脈絡膜に色素がないため網膜上での光の受容が不十分で視覚が弱く斜視、近視、遠視になりやすく視力を失ってしまうケースも多い。
これらの特徴以外はアルビノでない人と何ら変わりはないが、髪の毛が生まれつき白いとなると一般社会では奇異、好奇の目にさらされざるを得ず、定期的に髪染めをしなければならないし、肌の色素異常は隠すことができない。現代医学でも治療法がなく、対症療法のみしか行なえない。
小説では舞台は東北青森としか書かれていないが、三浦の誕生地、八戸であることは間違いないだろう。
実際に、三浦は青森県八戸市三日町の呉服店『丸三』を生家として、宗助・いとの三男として生まれた。小説の一家は三浦家そのものである。三浦は末子であり上は二兄三姉である。
三浦の前半生は家族の哀しみに中にあったといってよく、6歳の誕生日に次姉が青函連絡船から津軽海峡に入水、同年夏・長兄が失踪、翌年秋・長姉が服毒自殺。長じて昭和24年に早稲田大学政経学部に進むが、翌年春・学費の援助をしてくれていた次兄が行方不明となり帰郷。大学中退を余儀なくされている(後に復学)。
小説は、三浦の壮絶な前半生の中の、彼の誕生の場面から長女の服毒自殺の時期までが舞台になっている。自らの一家が負った宿命について淡々とした筆で描かれている。時に幻想的でさえある文章が、この重たいテーマの負担を読者の心に感じさせない要素になっているような気がしてならない。
アルビノを発症していたのは長女と三女で、幼い頃から髪を定期的に母親が染めることが習慣となっており、視力も徐々に弱って将来のために三味線を習っている。世間からも隠れるようにひっそりと暮らす二人の姉妹の間に生まれた次女は、病気を発症することもなく、利発で活発な少女から大人へと成長していくが、いつも心の中に3姉妹の中で自分だけが健康な体であることにある種の罪悪感を持って過ごしている。
その次女が学校の授業で知った「隔世遺伝」という知識から彼女の新たな苦悩が始まる。そこに長兄の恋人の死や、家族の様々な思いが微妙に入り混じり、やがてこの一家に不幸な数々の死が訪れる。
しかしこのあたりの描写も、三浦の筆は実に淡々と透明感にあふれた文章として綴られている。肉親の死へのレクイエムのような哀しいけれど、優しささえ感じる表現が読むものに感動を与えているのではないだろうか。
小説のタイトルに使われている「白夜」とは単なる気象現象ではなく「暮れるでもなく暮れぬでもなく、眠れるでもなく眠れぬでもない、寝苦しくて醒めぎわの白々しい夜」という意味である。つまりそのような精神状態で人生という旅の路を運命に引きずられるように歩いている三浦家の人々の姿を現しているのだろう・・。
2つの若い痛ましい死、一家を精神的に支えている存在であったはずの長兄の挫折と失踪。心優しいゆえに自ら心に十字架を背負った若者たちの魂の叫びがさりげなく表現されている。文中のところどころに民俗説話の「座敷わらし」のエピソードを織り交ぜながら詩情あふれた文章とともに物語が展開されていく。
一点の光明は、この一家に新たに生まれた三浦自身。その小さな命の存在と成長であるように思えてならない。僕はその存在にかすかな希望を感じた読後感を持つのである。
まさに三浦文学の最高峰をなすものだろうと思う。
感動の物語を一度読んでみてはいかがだろうか。人によっては、人生観が変わるかもしれない。
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「白夜を旅する人々」(1985年大佛次郎賞。)の中に描かれている三浦の血族に背負わされている宿命とは、アルビノという病気である。
アルビノは遺伝子情報の欠損に関わるメラニン欠乏性遺伝子疾患で、先天性色素欠乏症、白子症と呼ばれ、その疾患を発症した固体は「白子(しらこ)」と呼ばれたりする。(これが差別用語とされているか否かは定かではないが、少なくとも人を対象にした言い方とすれば不適切な表現と思う)
症状としては、全身に色素がほとんどなくなり、髪の毛をはじめとした体毛も白くなることが多い。皮膚も乳白色となり、瞳孔も眼底部の血管が透けて見えるため目が淡紅色に見える。メラニンがないため紫外線に免疫がない。脈絡膜に色素がないため網膜上での光の受容が不十分で視覚が弱く斜視、近視、遠視になりやすく視力を失ってしまうケースも多い。
これらの特徴以外はアルビノでない人と何ら変わりはないが、髪の毛が生まれつき白いとなると一般社会では奇異、好奇の目にさらされざるを得ず、定期的に髪染めをしなければならないし、肌の色素異常は隠すことができない。現代医学でも治療法がなく、対症療法のみしか行なえない。
小説では舞台は東北青森としか書かれていないが、三浦の誕生地、八戸であることは間違いないだろう。
実際に、三浦は青森県八戸市三日町の呉服店『丸三』を生家として、宗助・いとの三男として生まれた。小説の一家は三浦家そのものである。三浦は末子であり上は二兄三姉である。
三浦の前半生は家族の哀しみに中にあったといってよく、6歳の誕生日に次姉が青函連絡船から津軽海峡に入水、同年夏・長兄が失踪、翌年秋・長姉が服毒自殺。長じて昭和24年に早稲田大学政経学部に進むが、翌年春・学費の援助をしてくれていた次兄が行方不明となり帰郷。大学中退を余儀なくされている(後に復学)。
小説は、三浦の壮絶な前半生の中の、彼の誕生の場面から長女の服毒自殺の時期までが舞台になっている。自らの一家が負った宿命について淡々とした筆で描かれている。時に幻想的でさえある文章が、この重たいテーマの負担を読者の心に感じさせない要素になっているような気がしてならない。
アルビノを発症していたのは長女と三女で、幼い頃から髪を定期的に母親が染めることが習慣となっており、視力も徐々に弱って将来のために三味線を習っている。世間からも隠れるようにひっそりと暮らす二人の姉妹の間に生まれた次女は、病気を発症することもなく、利発で活発な少女から大人へと成長していくが、いつも心の中に3姉妹の中で自分だけが健康な体であることにある種の罪悪感を持って過ごしている。
その次女が学校の授業で知った「隔世遺伝」という知識から彼女の新たな苦悩が始まる。そこに長兄の恋人の死や、家族の様々な思いが微妙に入り混じり、やがてこの一家に不幸な数々の死が訪れる。
しかしこのあたりの描写も、三浦の筆は実に淡々と透明感にあふれた文章として綴られている。肉親の死へのレクイエムのような哀しいけれど、優しささえ感じる表現が読むものに感動を与えているのではないだろうか。
小説のタイトルに使われている「白夜」とは単なる気象現象ではなく「暮れるでもなく暮れぬでもなく、眠れるでもなく眠れぬでもない、寝苦しくて醒めぎわの白々しい夜」という意味である。つまりそのような精神状態で人生という旅の路を運命に引きずられるように歩いている三浦家の人々の姿を現しているのだろう・・。
2つの若い痛ましい死、一家を精神的に支えている存在であったはずの長兄の挫折と失踪。心優しいゆえに自ら心に十字架を背負った若者たちの魂の叫びがさりげなく表現されている。文中のところどころに民俗説話の「座敷わらし」のエピソードを織り交ぜながら詩情あふれた文章とともに物語が展開されていく。
一点の光明は、この一家に新たに生まれた三浦自身。その小さな命の存在と成長であるように思えてならない。僕はその存在にかすかな希望を感じた読後感を持つのである。
まさに三浦文学の最高峰をなすものだろうと思う。
感動の物語を一度読んでみてはいかがだろうか。人によっては、人生観が変わるかもしれない。
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感動の完結編。
