masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

居室類型による報酬差は妥当か

10月改正で従来型の施設(特養、老健、療養型)は個室と多床室の報酬に違いが出た。

これは単純に介護報酬から居住費の自己負担分を差し引いた結果であり、当然、自己負担が高い個室のほうが報酬から差し引く額が大きい為、結果的に個室の報酬のほうが多床室より額が低い結果となる。

ところがこれを国は「多床室の方が個室より報酬が高いのはねじれ現象である」と盛んに宣伝している。

何が「ねじれ」であるものか。いいがかりにもほどがあるのだ。

ところがマスコミをはじめとして、今回の報酬設定額が自己負担分を差し引いた結果である点をなかなか理解しない者達が、この意見に乗る風潮がある。多床室の報酬が低くあるのが常識である、という意見である。

しかし、それを行えば、多床室利用者のサービス費用自体が個室利用者より低くなるという事になる。

つまり現行の施設収入は、サービスを提供する対価としてのもので、報酬+自己負担の総額は個室も、多床室も変わらないのであり、これは措置費の時代から一貫しているルールである。

ところが多床室の介護報酬を個室より低く設定すると、(自己負担分は多床室の方が低いのだから)報酬+自己負担の総額は多床室利用の方が、個室利用の場合より大きく下回る。両者のサービス対価(=施設の収入額)に差が生ずるという事である。

これは重大である。居住空間というアメニティの差を居住費の自己負担分で差をつけているにも関わらず、さらにサービス対価も多床室に薄くするということである。

両者のサービスの内容に質的差があるというのか?環境以外には決定的な差はないはずである。

国は4月改訂で、この差を「環境減算」という形で制度化したいようである。

居住環境を居住費で差をつけたにも関わらず、さらに環境減算で差をつけるのは筋がとおらないし、サービス対価の差は納得できるものでない。

しかし老施協は先の要望事項でも、この点に全く触れていない。従来型施設の多床室の報酬単価はどうでも良いという姿勢なのか疑わしくなる。

そういう情報を入手していないはずはないのだが・・・。

介護・福祉情報掲示板(表板

My Little Town 〜消えた故郷を探す日

今日は福祉や介護とは関係ないが僕自信のことを少し書いてみることをお許し願いたい。

僕には故郷がない。

精神的とか観念的な意味ではなく、故郷という土地自体がこの国の地図の中から消えてしまっているのだ。

僕の生まれ育った地は、北海道で唯一、銅を生産する鉱山として、三菱という大企業が「町」全体を作ったという特徴があった。商業に従事する人以外は、すべて同じ企業に勤める人間と、その家族で構成される町であった。公衆浴場などは職員厚生施設としてすべて無料で運営されていた。無料だから番台のある公衆浴場を知らなかった。住まう住宅もすべて社宅で、ほとんど無料に近い家賃だったと思う。物資はあふれていた。当時の状況を考えるとかなり裕福な町であり、何不自由なく生活していた。

そんな町が今はない。銅の国内価格の暴落等により、僕が高校を卒業する年だったと思うが、閉山された。炭鉱が閉山されても、町や人は残る。しかし僕の町は残らなかった。閉山と同時に、一つの企業しかない町からは人が消えた。会社がなくなるという事は、会社組織で作られていた町がなくなることを意味していた。

忘れられた町
これが今の故郷の無残な姿である。

同級生は皆、幼稚園から中学卒業まで2クラス、全員顔見知りというより、幼馴染で友達である。同性であればお互い一度も一緒に遊んだことがないということはない。

しかし街が消えたと同時に、多くの友人達が全国各地に散り、消息不明であった。特に高校を転校している僕などは、仲間の間でもっとも消息がわからない人間であったようである。

ところが昨年、かつての同級生から突然メールが来た。何と「下川鉱山」とかつての町の名で検索したところ、管理者masa のページに行きあたったという事である。たしかにそのページには私の出身地の名を記している。しかし数あるキーワードの中で、過去の僕の故郷がこのサイトに繋がっているとは思わなかった。

それが縁で、今日、札幌で30年ぶりにみなが集う同窓会に参加することになった。故郷がなくなっても、かつての友と逢うことは、僕の心の中の故郷がなくなっていないことを教えてくれるかもしれない。

ということで、これから札幌に向います。約2児間後には着くでしょう。今日は夜通しの会になるかもしれない。

それにしても、あの頃の少年少女達が、どんな、おじさん・おばさんになっているんだろう。

楽しみでもあり、少し怖くもある・・・・。

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要介護認定モデル事業の審査判定(2)

審査会を終えての感想を少し書く。

審査会の裁量範囲が狭すぎるのではないかと書いた昨日の印象は変わらなかった。

(参照)新しい審査判定の流れ−(認知症自立度評価ロジック樹形図含む)

2次判定で要介護1相当に該当するとした場合、特記事項や主治医意見書、新たな項目である「認知機能・廃用の程度の評価結果」などを見て審議を行なうが、最終的には今回新たに加わった、コンピュータの1次判定による予防給付相当か介護給付相当かのチェックを確認し、それが正しいものか否かを審議する。

しかし基本的に国が決めているルールは、予防給付相当とされているものを要介護1にするためには、状態の安定性がないか、認知などの状況が予防介護の理解に不適であるか、大きく分けるとこの2点しか変更理由を認めておらず、それ以外の理由による変更は認めていない。

しかも介護給付相当とされているものについては、廃用の程度を吟味して、予防給付が適当ではないかという可能性を審議しなければならない。

つまり要介護1のハードルは、要支援2と比べて極めて高いといわざるを得ないのだ。

だが人の生活や状態像は様々である。健康状態が安定しており認知がある程度保たれている高齢者でも、年齢や身体機能の状態で、予防より介護が必要だと想像できる状態もあるのだ。それらは、すべて端数処理のごとく無視しなければならない。

人が審議するデメリットだけをみた方法論である。血の通った人間、特に有識者とされている構成メンバーの審議の方法がこういう形で良いのだろうか。

おそらく、1次判定ソフトは国が当初目指した「要介護1の7〜8割を予防給付に」という目標が達せられるロジックで組まれているんだろう。

ところが要介護認定1次モデル事業において、要介護1のうち予防給付対象がコンピュータによる1次判定で78%であったのに、2次審査会の判断で24%が重度に変更された結果、最終的に予防給付の対象となる「要支援2」に認定された人は6割に下がった。

このことについて国は「2次審査会で客観的な判断ができるよう修正することで当初の目標の7から8割まで予防給付対象の割合は引き上げられる」としている。ここが2次モデル事業で試したいところなのだろう。

しかし実際に審査会に求められているのは「客観的な判断」ではなく「国が決めたルールから外れない」ことなのである。

状態が安定しており認知機能が保たれているけど、何とか頑張って身の回りのことを行っている後期高齢者。特に90代の在宅高齢者が、ちょっと家事や身の回りの世話を手伝ってもらって生活の質を保とうとしても、まず予防ありき、でマネジメントされてしまうとき、制度とのミスマッチが生ずる。そのことで様々な問題が起きてくるだろう。

その責任を全て負うのが新予防給付のマネジメントの担当者であってはたまらない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

要介護認定モデル事業の審査判定(1)

介護認定審査会の日である。

午後6時から認定審査委員として審査判定を行なうのであるが、今日はいつもと趣を異にする。

通常の判定ではなく、新判定基準によるモデル事業だからだ。

つまり2次判定で「要介護1相当」と判定したケースについては、引き続いて「要支援2」か「要介護1」か、という振り分け作業が加わるわけである。

新しい審査判定の流れ−(認知症自立度評価ロジック樹形図含む)
を参照してほしいが、今度の新しい一時判定ソフトにおいては「要介護1相当」に該当する場合は、予防給付か現行の介護給付か、という推定が示されることになる。
この推定については、介護審査会資料の中に「予防給付相当」か「介護給付相当」のどちらかにチェックが入ってくる。そして2次判定で「要介護1相当」とした場合、このソフトによる推定が正しいか、という議論を行なうわけである。

しかし、その判定ルールを見ると、審査会の裁量の及ぶ範囲は非常に少ない。

つまり「要介護1相当」を「要介護1」と判定するためには、次の2つの条件に該当することが確認されなければならない。

1.疾病や外傷等により心身の状態が安定していない状態。
(1)脳卒中や心疾患、外傷等の急性期や慢性疾患の急性増悪期で、心身の状態が不安定であり、医療系サービス等の利用を優先すべきもの。
(2)末期の悪性腫瘍や進行性疾患(神経難病等)により、急速に状態像の不可逆的な悪化が見込まれるもの 等

2.認知機能や思考・感情等の障害により十分な説明を行なってもなお、新予防給付の利用に係る適切な理解が困難である状態。
(1)「認知症高齢者の日常生活自立度」が概ね彊幣紊任△觴圓任△辰董一定の介護が必要な程度の認知症があるもの。
(2)その他の精神神経疾患の症状の程度や病態により、新介護予防給付の利用に適切な理解が困難であると認められるもの。

この条件に合うかどうかを、特記事項と主治医意見書から総合的に判定しなければならず、上記の条件に合致しなければ予防給付相当となり「要支援2」としなければならない。

従って、例えば個別の状況を介護審査会資料から読み取り、判定対象者が運動器の機能向上のためのサービスは適さない、ということを理由に「介護給付が適当」という判断ができないのだ。

このような判断について「手引き」では「個別のサービスの適否の判断及び具体的なサービス計画の作成は介護認定審査会で行なうものではなく、対象者の心身の状況等の周辺環境を踏まえ、対象者の希望に基づきケアマネジメントで実施する」とバッサリ切り捨てている。

これじゃあ認定審査委員は手も足も出せない。「対象者の希望に基づき」が本当に実現することを願うのみである。

明日また今晩の結果を踏まえて、感想を書いてみるつもりだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

「死」を告げる意味と責任

「父が亡くなったのですが、母には内緒にしておいてください。ショックを受けるのも可哀想ですし・・・。」

高齢者施設に勤めている方々なら誰しも、こういう「お願い」をされた経験が1度や2度はあるだろう。

皆さんは、こういう場合、どのように対応しているのだろうか。

確かに、利用者の中には、連れ合いの「死」の意味さえも理解ができない重度の認知症の方もいるだろうし、体調がすぐれず、精神的ショックが心配される状態の方もいるであろう。

しかし、私は、ほとんど全てのケースについて、「お気持ちはわかりますが、もう一度よく考えてください。きちんと事実を伝える方が良いと思います」という意味のことを言う。

長年、夫婦として連れ添ったパートナーを亡くすショックは計り知れないが、それにも増して、一番自分の身近で大切な人が亡くなられた、という重大な事実を知らされないショックの方が大きいと思うからだ。

そして、どのような状態の方でも、それを知ることは必要なことであり、誰にもそれを隠す権利はないと思っている。ご家族とともに悲しみを共有し、できればご一緒に故人をお見送りするということは大切なことではないだろうか。認知症の方でも、精神的に落ち込むことが多い方でも、重度の身体障害を抱える方でも、その権利はあるのだ。

一般社会では、どうだろう。おそらく連れ合いの「死」を知らせないということはあり得ない。なぜ入院されている方や施設入所者に限って、これを「あたりまえ」とする風潮があるのか不思議なところである。

落ち込みの激しいAさんは、確かに夫の死にショックを受けた。しかし、不自由な体で喪主を務めあげたことを非常に喜ばれていた。亡くなられた旦那様も、きっと喜んでくれたであろう。

葬儀が終わって数ケ月後に事実を知らされ息子を激しく罵ったBさん。葬儀に出れる状態ではなかったけど、知らされなかったことに憤ったんだよね。

「じゃあ、なにかあったら施設が責任をとってくれますか?」

これには参る。人間の感情の揺れや、起こる事態は予測がつかない。しかし、それでも僕は「その後の精神的なケアはできる限り行ないます。悲しまれることが悪い方向に繋がらないという保障はありませんが、でも人として、やはりお連れ合いの死を知ることは必要ではないでしょうか」と言うだろう。

正しくはないのかもしれない。しかしこれは「知らない方が良かった」という問題ではないと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護給付費分科会の議論にみえるもの

介護保険制度改正については介護給付費分科会で論議されているという。

しかし、この分科会の論議とは別なところで様々な(国の)方針なり、制度改正の方向性がリークされている。新聞報道が最新情報である場合も数多い。

それが正しい情報かどうかは別にして、ある意図を持って、誰かが報道機関にリークして、観測気球をあげて反応を見る、という状況が確かにあるように感じる。

つまり給付費分科会は制度改正の議論の場ではなく、議論していることを国民に示すパフォーマンスの場にしかなっていないのではないだろうか。そして、その議論をみても、委員から挙げられた意見に基づくものより、国の示した考え方についての議論が圧倒的に多いのが実情である。

そんななか、昨日示された同分科会の資料によれば、特養は「生活重視型の施設」と位置づけ「居住環境としてはユニット型が基本」としている。

これを取り違えて理解していけない。

つまり国は何も現行の特養すべてをユニット型に移行させようとしているのでない。それは不可能であることは百も承知である。

だが特養のスタンダードをユニット型と規定するこによって、現行報酬が従来型施設を基準にして、ユニット型施設に厚くする、という図式になっているが、これを転換し、ユニット型をスタンダードに報酬設定し、従来型の、特に多床室についてはスタンダードより劣るものとして大幅な報酬減で対応しようとしている、という意味があるのだ。

これが資料の冒頭に示されている「ユニット型個室と多床室の報酬設定のバランスについて、どう考えるか」の真意である。

こんなことは老施協の幹部も承知しているんだろう。しかし末端の現場職員に、その意味を知らせる動きは全く見られない。これで良いのだろうか?

また同資料から読み取れるのは報酬設定の基本方向について「利用者の重度化傾向を踏まえた中重度者への重点化」という表現で、ますます軽介護者(1.2を想定か)に対する報酬の大幅削減を示唆している。

国としては介護施設の入所要件を3以上にしたいところであるが、制度利用の権利という観点から、介護度による制限が難しいと見て、現場の報酬で、現場自身が軽介護者を排除する方向に向かわせようとしているのだろう。

かくして、報酬減で人員削減を余儀なくされる施設現場には熟練職員が少なくなり、人手も減る。そのなかで重度介護者が増え、現場の労働条件はさらに悪化し、それはいずれこの国全体の介護サービスの質の低下に繋がっていく、という方向に向かっていないか懸念が広がるところである。

集団処遇と集団活動(グループワーク)の違い

「いまどき、集団の活動プログラムを行なっているんですか?」

当施設を見学していた、ある老健の某職員が、療育音楽を行なっている場面を見ての感想である。

某職員曰く、「施設も個別ケアが重視されてきていて、集団で何かを行なうというのは古いのではないですか。もっと個別ケアをとりいれなきゃあ」
当施設A「個別ケアの取り組みって具体的にどういうことでしょう」
某職員「日課のない生活ですよ。いまどき何曜日の何時にレクリーエーションでもないでしょう」
当施設A「某さんの施設の利用者は、それぞれ日中どんなことをして過ごしてるんですか」
某職員「いろいろですよ。それぞれお部屋で好きなことをしています」
当施設A「中には、することがわからなくて、何もしないでごろごろしてしまう方はいませんか」
某職員「うーん。まあそういう人もいますが、それぞれの生活ですから」

現実の会話である。
日課のない暮らしってあり得るのか?
個別ケアを、施設が何もしない、施設が選択できるプログラムも提供しない、と捉えてしまうから、こんなおかしな考えが生まれる。

求められている個別ケアとは、まさに個人の生活の課題や希望に沿ったケアサービスの提供を意味し、施設の日課や決め事、プログラムに、利用者を無理に合わせようとすることは間違っている。

しかし日課がない、というのは少し違って、施設の日課を利用者に強要しない、利用者の生活は施設の日課により規定されない、というのが正しい。なぜなら、生活を送る上で個人の日課が全くないという人はいないからだ。

朝何時に起、夜何時に寝る。というのは、ほとんどの人は生活習慣上ある程度決まっているはずだ。人によって、入浴は夕食後が良いという人もいれば、食前が良い人もいるし、朝風呂を習慣にしている人もいる。毎日気分で変わるというのは少数派で、人にはある程度、自分なりの生活習慣やスタイルがあるのだ。

個別処遇とはそういう過去や現在の生活習慣を、できるだけ実現してサービス提供ができることだ。

グループワークもそういう個人の生活の一部になれば、これは必要な生活習慣だし、それを行なうことのメリットも大きいと考えられる対象者もいる。そういう方法を選べないのは不幸だ。選択性のある活動を、それぞれの体調や好みで選べるのであれば集団活動=集団処遇にはならない。

今、我々のケアの現場は、ある活動に全員が参加するのではなく、ある人は入浴をし、ある人は外出をし、ある人は療育音楽で手足を動かし、声を出して楽しみながら機能活用をしている、という生活作りを目指している。

むしろ選べるメニューがたくさんあって、その中に自分の居場所を確保できることが、個別ケアの展開過程には重要だ。

何も日課がないから部屋で日がな1日TVを見て過ごすことが個別ケアではない。

老施協の今更の「嘆き」

10月改正における新型特養の報酬減について老施協は「ホテルコストの導入が果たせたので新型特養はお役御免?」と嘆いている。

何を今更言っているのだろう。

新型特養が制度化されたとき、表の掲示板で私が何度も繰返して、新型特養はホテルコストという名目の費用を給付費からはずして、利用者に自己負担化させるための1里塚だ。と警鐘を鳴らしてきたし、新型の厚い報酬体系が「居住費自己負担が規制事実化された後も続くのか」と指摘していたはずだ(掲示板を以前からお読みの皆様はご存知だろう)

老施協はその時、なんの疑問も持たなかったのか?そうであるならいかにも執行部は能天気な集団である。いまさら「あの時、全国老施協が主張した新型特養と従来型特養の選択が認められていたら」(老施協メールニュースより)といっても始まらない!!新型の報酬体系が思った以上に高レベルに設定されたことで腰が引けたんではないか。

だいたいメール通信にしても、JSウイークリーにしても、速やかな情報発信となっておらず、情報分析も甘すぎる。老施協はシンクタンクとして老施協総研をもっているのに、ほとんど機能していないことが、この一時をもって証明できるのではないか。

ところで、今、私が心配しているのは中村会長が「間違いなく揺り戻しが4月1日にある。しかし、手を抜いてはいけない。皆さんが世論を盛り上げてこそ揺り戻しが行なわれるということだ」といっている意味だ。

揺り戻しとは、老施協に対する順風を意味しているんだろうし、それは報酬の額のことを含んでいると思う。

しかし今回の改正で新型特養には別枠の補助金が認められたように、来年4月の報酬改訂で、再び新型特養の介護報酬が人質にとられる恐れはないのだろうか?

つまり国は給付費を抑制したいと思っており、上げるところがあっても全体の報酬は下げの方針が既成事実である。そして施設報酬については「下げる」といっており、その具体策として「個別ケア」の報酬上への反映=個室と多床室の報酬体系の見直しを挙げている。

10月から個室と多床室の介護報酬は、居住費自己負担が高い個室のほうが介護報酬は低くなっている。これを国は「ねじれ現象」と喧伝している。施設に入ってくる収入は、両者変わらないし、今までの報酬体系は居室種別でケアの費用が変わるものでなかったのだから、自己負担が多い方の報酬が少なくなるのは当たり前なのに、「ねじれ現象」などと、おかしな因縁をつけて世論操作しようとしている。

この真意は何か。

国は次回改訂で、部屋の種別により、施設に入る収入自体も差をつけようとしているのだ。具体的には多床室の単価を大幅に引き下げたうえで、そのベースからの新報酬の査定を行うという意味だ。

その時、新型特養は個別ケアに優れたユニット個室であるから、10月以前の報酬レベルまで引き上げましょう、そのかわり、従来型の施設(老健、療養型も含め)の多床室の報酬は大幅にカットして良いですね、という駆け引きに使われるという懸念だ。

もうすぐ、その答えが出るが、もし私の懸念が現実のものとなったら、この組織は我々を守る組織でないことがはっきりする。

そしてその時、特養にみならず介護保険3施設は「従来型個室の報酬の経過措置」をふくめて、大変険しい状況に陥る。

我が地域ケアマネ会の活動

のぼりべつケアマネ会は、ケアマネを目指す仲間が作った勉強会から発展的に結成された。

合格を目指した仲間たちの勉強会は、その後、試験に合格したものの、ケアマネの業務内容も闇の中だし、アセスメントツールを何にして良いかも解らないということで、とりあえずMDSの勉強会として12年2月に「のぼりべつケアマネ会」として組織化し、12年5月に組織としての会則等を整備した。

当初10数名の集まりであったが、現在会員数は94名である。

会の趣旨は、ケアマネとして事業所を超えてお互いを支えあい助け合う、横のつながりを重視する視点と、適切な情報提供、情報交換、勉強会が柱になっている。

数年前から道のケアマネ連絡協議会にも加盟しているが、正直言って、道の組織に加盟しているからといって、情報が早く伝わってくるわけでもない(むしろ私どもの組織に入る情報の方が早く正確な場合が多い)、会の運営をサポートしてくれるわけでもない。これといったメリットを感じていないのが実感である。
ましてや唐突に発足して会則も決まっておらず明確な目的も提示していない日本介護支援専門員協会など、いまのところ、箸にも棒にもかからない、というのが実感である。

我が会は、発足以来、勉強会は年10回のペースで行なわれている。発足2年目までは、執行部がテーマや方法を決めて勉強会を行なっていたが、その後、会員の自主性を尊重し、グループに分け、担当月を決めて各グループの決めたテーマで様々な形で研修に取り組んできた。

新事業所の紹介や、テーマを決めたパネルディスカッション、ロールプレーイング等のグループワーク、身近なテーマを中心に様々なスキルアップの取り組みを行なっている。

その活動のなかから、地域(登別市・室蘭市)統一の居宅介護支援事業所 → サービス提供事業所 連絡書式の作成、地元医師会との協議の場の構築、登別・室蘭・伊達・白老との3市1町合同研修の定例化などの成果も挙げてきている。

同時に全国的に著名な講師の講演なども企画して、新知識の習得にも努めている。

今日は午後6時から、室蘭蓬莱殿で、国立国際医療センターのリハビリテーション科医長である藤谷 順子先生をお招きして、「誤嚥性肺炎を防ぐ嚥下障害リハビリテーション」をテーマに講演会を主催する。

改正介護保険でも報酬上に経口摂取の取り組みが評価されているし、口腔摂取の取り組みは今後も重要なテーマになると思う。そういう意味ではタイムリーな企画ではないか。

今日はケアマネ会会員のみならず、近隣の諸機関から400名近くの関係者が集まる予定である。

お近くの皆さん、会場でお逢いしましょう。しかし、ただひとつの憂鬱の種は、主催者挨拶のことである・・・・・。こればかりは誰かと替わりたい。

保険者担当者の考える支援専門員の役割に異議あり

介護支援専門員の現任研修において、保険者担当者の「今後のケアマネジメントの課題」に関する講義を聴く。感想=本当にがっかりしてしまう。

将来の支援専門員の行く末にがっかりするのではなく、保険者担当者の見識にがっかりする。

なぜかというと、国が決めた方針なり、ルールなりが、ケアマネジメントの質の向上に直結するものとして、批判的精神がなく、国の考えのコピーをそのまま現場に押しつけようとするから現場の意識から乖離するし、現実の具体的解決方法を示すことにならないことに気付いていないのだ。

(その1)
「予防給付の創設は、適切なマネジメントが行われなかった結果による部分が大きい、当保険者で行った適正化事業の実施年では要介護度の改善率が著しかった」

おやおや、では適正化事業の中身は何ぞや、というと、ケアプランの内容から不適切として抽出したのは上位から挙げると1. 過剰サービス 2.過小サービス 3. 囲い込み 4.福祉用具購入 5.信頼関係 6.通院等乗降介助である

おかしいと思わないか?適正化事業でこれらの問題を抽出したとて、直接、要介護度の改善に繋がる理由がないではないか。過剰サービスを減らしたら、要介護度は改善するの?ここの考察が皆無では何のエビデンスにもならないぞ!!

(その2)
「今後は担当人数が減るが、ケアマネさんも忙しいだろうが、サービス担当者会議は適切なケアプランに重要であり是非、実施に努めてほしい。」

サービス担当者会議の実施率の低さを、ケアマネ自身の業務の多忙さや、怠慢に結び付けてしか考えない行政職員が多いから、この問題はいつまでもなくならないのだ。

そもそも所属事業所の異なる多職種の人間が平日の通常業務の時間内ですべて参集出来る機会というものが、そう簡単に取れると思っているのか?担当人数が仮に30人であっても、全てのケースで例えば半年毎に、担当者が一同に会して会議を行うというのは不可能だ。「困難ケース」に絞って一同に会す、という方法しか取れないのが現実であろう。

しかし幸いなことに、担当ケース全てが困難ケースということはあり得ないので、そうでないケースは、書面やその他の連絡方法で相互のコミュニケーションを取る方法で代替することは現実的にはやむを得ないのだし、必要な情報のやり取りの方法を電子的技術も取り入れて行えば適切な情報交換と課題の共有は可能であり、適切な計画は作成できるのだ、逆説的にいえば担当者会議を開いてもケアマネジメント技術に問題があれば適切なサービスはできない。

そろそろケアマネジメントの質が担当者会議の有無で左右されるという発想自体を転換させなければいつまでたっても問題の本質は見えない。

もちろん、首をかしげる内容の講義ばかりではないし、必要な知識や技術を得るきっかけになる内容のものも多い。ただ現任研修は今後はケアマネ資格の更新制と結びつく。質の確保により重要な要素になることを考えると、講義内容は一層の充実が急務である。

とりあえず時間を埋めるために近隣保険者の担当者からの情報提供の時間を入れる、という発想は止めたほうが良い。

自立支援のおかしな方向

「ケアマネはいつから法の番人になったんでしょうね」という話をしている方がいた。

聴けば、あれは介護保険の目的に照らして駄目だ、これは出来ない、自立支援に繋がらないケアプランは立てられない、ということを強調するケアマネのことを言っているらしい。

「でも、うちのじいちゃん、もう85なんです。ばあちゃんが亡くなったからといって、いきなり家事を出来るようになれと言うのは酷でしょう」という話である。

確かに自立支援は重要な視点だ。だがそれは、その方がいかに、その方なりの生き生きとした人生を送ることが出来るかという視点が根底にあらねばならないし、介護保険に限らず、介護サービスの、もう1つの(というより自立支援の視点と根幹は同一だが)視点は、生活支援、である。

後期高齢者などは要介護度が低くても、身の回りはなんとか自分で出来るが家事能力が衰えることが生活障害となって独居が難しくなる方がいる。このとき家事能力の衰えを停める思想でケアサービスを提供しなければ、間違っている、という価値観だけでは解決しない問題もあるのだ。

必要な生活援助である家事援助もあり得るのだ。

いかにポジティブに考えて、出来る能力に着目してサービスを結びつけようといっても、それが、出来ないことはだめなこと、という発想になっては困るのだ。生活課題はしっかり捉え、それに対するアセスメントをすることはネガティブではない。

出来ないものは出来なくて良い。出来ることをどのように生活の質に繋げていくかというのが自立支援ではないか。

ここは頑張るけど、ここは助けてもらいましょう、というのが人の生活ではないか。

24時間頑張れますか!!のケアプランでは長生きできん。

新介護予防は成功するか2〜成功報酬に物申す

新介護予防の議論の中で極めて滑稽な議論がある。成功報酬の議論である。

介護予防WTの議論を受け介護給付費分科会で現在検討されている方向は、通所サービスを対象に、一定期間利用期間がある方が、要介護度が改善したり、維持したりする場合に、当該利用者が利用している通所サービス事業所に成功報酬として給付費に加算をつけようとする議論である。

これがおかしことに気づかないような「専門家」によって予防給付が議論されているから新予防給付は必ず失敗するのである。

予防の対象は廃用症候群モデルである。

廃用とは、実際の加齢に伴う身体機能の衰えより以上に、実際の機能低下が進行する状態であり、想定される一般的身体機能低下と実際の低下の差が大きければ大きいほど廃用は進行していると言える。

この原因に的確に処方できれば廃用の進行を遅らせることができ、それが予防である。

そして国がこの処方として考えたのが、栄養障害の予防や口腔ケアの取り組みによる健康維持メニューと、一連の筋力トレーニングを含む運動器の機能向上メニューである。

問題は後者である。運動器の機能向上を筋トレを中心に行なうことが廃用を防ぐことになるのか。

これは我々の筋力がどのように保たれているかを考えれば一目瞭然である。普段の生活に使わない機能は、決して維持されたり向上されたりはしないのだ。辛いメニューや、面白くないメニューは一時的な効果しか表さず(モデル事業の効果など、これに尽きる)それは予防のエビデンスにはならない。

つまり、できることを増やしても、実際の生活で「やらなければ」予防にならないのだ。日常生活の中でできる機能を使う生活を考えることなく、単なる身体能力への対応プログラムに着目しても継続しないのは明白なのだ。生活に機能を生かすためには、その機能を使って過ごせるような「動機付け」が不可欠だ。そして、それは要介護度ではなく、生活の質で評価すべきものである。

ところが今回の成功報酬は、どこに支払われるか?事業所に対してだ。利用者は逆に加算算定されることで1割負担分が増えるかもしれない。

つまりこの介護報酬は事業所の動機付けにはなっても、利用者の動機付けにはならない。

事業者はこれにより、要介護度が維持、改善しない利用者をお荷物と考えるかもしれないし、頑張って通所サービスに通ったことでレベルダウンが最小限に防げたけど、要介護度は悪化した(利用していなかったらもっと悪化するようなケース)も評価されない。

いっそのこと成功報酬は利用者本人に、本人支給金として支払ったほうが、少しは「動機付け」効果により、結果が良いかもしれない。

言葉は心を超えない〜ケアプラン考

ラジオから流れてきた、チャゲ&飛鳥の懐かしい唄を聞いて、ふと感じたことを書いてみる。

居宅介護支援事業所のケアプランと施設やサービス事業所のケアプランの決定的違いは第2票に現れる。

前者がサービススケジュールとして、どのようなサービスを利用者と結びつけるかという内容になるのに対し、後者はその施設や事業所で行われるサービスの内容そのものとなる。

だから前者は文言から内容がかなり明確になる(例えば、身体介護1というプランは、まさに訪問介護において身体介護を何時間利用するという実態を表す)ということが言えるが、それに比べ、後者の内容は文言だけでは伝わらない部分が多い。

例えば心身活性化のため活動参加の声掛けと誘導を行う、という内容でも、利用者の状態や希望に沿ったり、動機付けになるような声掛けが行われなければならないが、これを完全に文章化することは不可能なのである。

そもそも人の心の動きや感情を正確に言葉に出して表したり、文章化すること自体が至難の技だ。

だから我々の施設のケアプランも、チームで連携して介護サービスにあたる基盤となる共通言語とはなっても、それで全ての問題が解決できたり、サービスの内容がそれで全て完結できたりするものにはなり得ない。

しかし我々はこのプランをツールにして、少しでも適切で高品質のサービスを提供しようとしている。完全には表せない心や思いを、文字に込めてプランニングしている。

とても伝えたがるけど、心に勝てない〜

この心の部分をチームとしてどう共有して行くのかが最大のテーマになる。そのために理念の浸透や、OJTやOFF-JTがどうしても重要になってくるんだろう。

その文字や文章、行間から適切なサービスを感じ取れる感性を持った介護者よ、もっとたくさん出て来い!!

介護サービス情報の公表は質の向上に繋がるか?

来春からは、すべての介護保健施設や介護サービス事業所にサービスの内容や運営状況に関する情報の公表が義務付けられる。これに伴って、一方で現在行なわれているグループホームの外部評価は廃止される。

両者の違いはなんだろう。

新たな義務としてのサービス内容等の公表は、当然、利用者側の選択に資する情報となり得るもので、サービス提供主体は、利用者から選ばれる施設や事業所になるために、公表すべき一定の条件をクリアするように努めることになる。そういう意味での底上げ効果は期待できるわけである。

一方、現在行なわれている、グループホームの外部評価というものは、運営基準等はクリアしていることを前提と考え、その中でサービスの質をより良いものとするために、評価委員の気づきの視点や、外部評価基準とあわせて考えて、より高品質なサービスを提供するための改善点や視点を示すものである。

つまり前者は一定の基準さえクリアしておれば良とするのに対し、後者は、適切にサービスを行なっており、一定基準をクリアしているものの、より良いサービスを提供するために、さらに具体的にどこを、どのようにすればよいか、ということを評価委員と施設職員の協働で考えるという意味がある。

言うなれば介護サービスの向上をエンドレスに考えるのが外部評価の目的である。しかしその廃止により、そういう努力を行なう機会をグループホームは失うかもしれない、という意味があり、公表項目さえクリアできれば、良い事業所、と一般に宣伝できるということは、書式や体裁を整えるだけの中身のない事業所が増えるという危険性をも孕んでいるのだ。

外部評価という方式には時間も人も必要だし、全部の事業所を対象として実施する手間は計り知れないとは考えられるが、モデル事業も含め、ここまで体系化してきた外部評価の手法を、国はなぜ簡単に捨ててしまうのだろう。

理由は簡単だ。

国は保険制度内のサービスについて、それほど質の良いサービスを望んでいないのだ。劣悪なサービスや、不正を働く事業所は排除したいけれど、ある程度の水準が維持されていれば良しとしているのだ。そういう意味での質の担保だ。

本当に良いサービスを求める人は自分のお金を使って探せば良いとでも思っているのだろう。お金のない人達は最低限のサービスしか受けられないのも「自己責任」という理論だ。

つまりは、本当の意味での質の向上には興味がないというのが本音なのではないだろうか。

劣等処遇とか夜警国家という言葉は死語に近いと思っていたが、どうもそうではないらしい。

実地指導の動向

10月改正後に行なわれている関連施設の実地指導は何が重点的に見られているんだろう。

北海道の近直の状況を見ると、必ずしも改正部分(居住費や食費の自己負担や減免等)を重点的にはみていないようである。

しかしこれは考えてみると当たり前かもしれない。なぜなら指導調書自体は来年4月の改正まで変えないで、今年度当初からのものを、そのまま使っているからだ。その内容を、すべてチェックした後に、改正部分にも多少は触れている、という現況のようだ。

むしろ国の重点項目は「虐待の有無」「身体拘束の状況」であり、北海道はそれに加えて指定取り消し事例の影響により、老健等の医師の名義貸しがないか、などが詳しく見られているようである。

栄養ケアマネジメント等の新加算項目は「始まったばかり」であり、その動向を見守っている段階で、本格的指導は来春以降になりそうである。

またショートの食費設定について「食毎の設定が望ましい」とされているものの、通知などで決められているものではないため、日単位での設定に対しては「担当者として食毎の設定が望ましい」という意見を述べることはできても、指導事項にはならない。という考えのようである。

この背景には、来春からは、すべての事業所に介護サービスの内容や運営状況に関する情報の公表が義務付けられ、これにより利用者に選択性が保障されるという考えもあるんだろう。

しかし同時にこの義務により、グループホームの外部評価事業が廃止されるという一面もある、このことは事業所の質の確保に、どのような影響を与えるのか、次回に考え方を述べてみたい。

施設ケアマネは専任化の方向に向うのか

制度開始当初の施設ケアマネといえば、相談員がそのまま資格をとって兼務していた例が多いと思う。私の施設では私も含め今でも2名のソーシャルワーカーがケアマネを兼務している。

しかし各施設では、相談員のほかに専任のケアマネを配置する施設が増えているようだ。これが大きな流れとなっていくのだろうか。

確かに、専任化することにより、施設のケアマネジメントの業務は専門化され、業務内容も確立されて行く方向に向うのであろう。そのことでサービスの質が上がるのであれば、これは良いことだ。

しかし、ソーシャルワーカーとしての相談員との業務分掌は非常に困難であろうし、ソーシャルワークの1援助技術としてのケアマネジメントを特化してみても、結局、援助過程においては、ソーシャルワーカーとその動きは必ずリンクしてくる。ここの整合性をどうとるのか。

私自身は自分の業務で、今はケアマネ、今はソーシャルワーカーと分けて考えることはほとんどない。これは良いことか、悪いことか。

一方、新型特養等でよく見られる例だが、相談員と介護職員を兼務している例、介護職員とケアマネを兼務している例などがみられてきている。
これはおそらくユニットケアなど小単位を小人数でケアする形態において、生活場面では一人の職員がマルチな関わりを求められているからなのだろう。
また、報酬が下がる中で人的配置にお金をかけられないという問題もあろう。

つまり一方で、福祉現場の中で、ユーティリティプレーヤーが求められてきているのではないだろうか。ケアマネ業務にも精通して、相談員または介護職員としてもマルチに働ける職員である。

野球で言えば、まるでショートでベストナイン、セカンドでゴールデングラブを受賞したロッテの西岡選手のようなものか?

今、施設のケアマネは、この2つの方向が流れとして同時にあり、どちらにも、それぞれメリットやデメリットがあるように思える。

支援経過の記録にしても、介護の記録とケアマネジメントの記録は、目的や視点が別だから、それぞれ別個にした方が良い、という立場と、支援経過は、出来るだけ統一書式で1本の方が良いという意見がある。

早急に、どちらが良いかという結論を出すのは難しいように思える。

このことは、もう少し考えをまとめてから意見を述べてみよう。今日は、研修でまな板に乗ってきたので、疲れました。頭に浮かんだ雑感のみ、とりとめなく書きこんで終わります。

まな板の上のmasa

介護支援専門員現任研修。別段必要性は感じなかったが、昨年参加していなかったので(ケアマネ資格の更新制の問題もあるし)今年は参加せねばならないと思い申し込んだ。

研修1週間前に支庁、保健福祉課から突然Telがきた。

施設の実務2年以上のケアプラン作成、モニタリングの演習について、実際の事例とケアプランを取り上げたいので、提案者になってほしいというものである。

つまり講師は別にいるが、私の立てたプランを資料に、アセスメント情報とあわせて、計画内容が適当か、モニタリングが適切な視点で行われているのか、家族や他職種との連携は適切に行われているのかを検証しようというのだ。まかり間違えば講師と参加者全員に「なんだこのプランの立て方は!!」とやり込められる恐れおおいにありだ。

提出書式は、フェイスシート、アセスメント表一式、ケアプラン1〜3表、モニタリング表、支援経過記録である。

あまり気は進まないので一応最後の抵抗。「しかし経過記録はモニタリングまでの分なら数十枚になってしまいますよ」
「構いませんよ!!受講者に配るのはフェイスシートとケアプランだけですから、あとは講師の方が資料として使います。マスキングはしっかりしてくださいね」

絶句。

しかし断る理由もない。しかし提出は数日後であり、今から読みやすく手を加えている暇はない。こちとら通常業務だけでも手一杯なのである。

かくして、私が立案した施設のプランは現場から、そのままの形で事務局に送られていくのであった。

そして、その演習は明日、10:00〜17:00まで1日行なわれる。明日の今頃は、私は各施設のベテランケアマネの皆さんから、突き上げられているかもしれない。まさにまな板の上〜の心境である。

明日、同演習に参加予定で、ここを読まれている方、是非、お手柔らかに。

認知症の方から教えられたもの

若かりし頃の失敗談である。

Hさんは、認知症があり廊下へ出ると自分の部屋がわからない。歩行も困難で車椅子を使っているが、うまく操作はできない。

しかし、Hさんは決してオムツに排泄しようとはしない(失敗して下着を汚すことはあるが)。日中はトイレに誘導されているが、夜間、臥床時はベッドサイドのポータブルを使っているからスクリーンで囲っている。

このスクリーンは布製であるため、少々汚れが目立ってきた。というより長年使っているため色あせして、なんだかみすぼらしい。ところでその時、施設では新たに和式の家具調ついたてを購入していた。

これHさん、気にいっていただけるのではないか。そう思った僕は、早速、Hさんのお部屋を訪ねて、「どうですか、このついたて素敵でしょう。新しいし、今のと替えて、こちらを使いませんか」。日頃、僕がお気に入りのHさんは、ニコニコしながら「ありがたいことだねえ」とうなづいている。僕としても「気に入ってくれた」と得意顔で新しいついたてを立てて、担当ケアワーカーに引き継いだ。このとき僕は、担当ケアワーカーの少し心配そうな表情を見逃していたようだ。

事件は、その夜に起こった。

Hさんが興奮して寝てくれないのだ。ここは自分の部屋でないという。

何のことはない、新しいついたてがHさんの混乱要素になってしまっているのだ。幸い、夜勤のケアワーカーの機転で、ステーションでしばらく過ごしている間に、もとのスクリーンに替えることで、落ち着きを取り戻した。

幸い大事には至らなかったが、Hさんの生活環境やスタイルに介入する際の僕の配慮が足りなかったことで、Hさんに生活障害をもたらしてしまった。これが原因で生ずる問題は「問題行動」ではなく僕自身の「問題対応」なのである。

Hさんが本当に望んでいることは何か、Hさんの立場で考えることなく、自分の価値観をHさんに押し付けてしまった失敗である。

翌日からあんなに慕ってくれていたHさんの僕に向ける眼差しには厳しいものがあった。短期記憶も衰えているはずなのに、「何か自分にとって嫌なことをした奴」と認識して覚えているんだろう。

かくしてHさんと元の関係を取り戻すために、毎日、大変な努力にその後数か月を費やすことになるのであった。蒼かったなあ。

関係を作るのは難しいが、壊すのは一瞬だ。

認知症の方に対しても、何を望んでいるのか、その方の生活に即して考えていかねばならない。それが寄り添うケアの基本なんだろう。決して認知症の方に46時中、付きまとっているのが寄り添うケアではない。

新介護予防は成功するか〜要介護リスクの最大危険因子は?

高齢者が要介護状態となるリスクは、加齢と疾病が最大要因で、原因疾患は1番目が脳血管障害、2番目が高齢による衰弱、3番目が骨折である。

しかしそれとは別の視点で生活の中の危険因子を見つめてみると「引きこもり」が重要な要素になってくる。

引きこもりといっても、家から1歩も出ない状態に限らず、外出が億劫になり週1回程度しか外出しない、という状態も含んでよいと思う。

外出しなければ、人と逢わないから、身だしなみに気を使わなくなる。口臭や体臭も気にせず、歯磨きをしなくなり、入浴回数が減る。

外部の生活と自分の生活をマッチングする必要はないから、朝寝や夜更かしが生活障害にならなくなり、昼夜逆転や夜間不眠が繰り返される。人によっては不眠をアルコールで解消しようとする。

外出しないで家でごろごろしているからお腹が減らない。お腹が減らないから食べるものも不規則になるし、好きなものしか食べなくなる。

このように高齢者は、引きこもりによって、健康を害したり、見当識を悪化させたりしていくことが多いのだ。特に男性の単身者にとっては良くあるパターンである。

また機能面でも、家の中だけの生活だから、できることをしなくなる。やりたいことしかしないから身体機能は生活の中で使われない。

できることと、やることは、本来違うのだ。

生活の中でやれることを、することに結びつけるのが本来の廃用予防で、筋力アップして、できることが増えても、やらなければ廃用は改善しない。

だから「引きこもり」に対する具体策がなく、むしろ通って受けるサービスに利用者にとって「望まないもの」をメニューに義務付け、廃用を、生活障害として捉えず、筋力低下として捉える新介護予防は不成功に終わるであろう。

何とかしてくれ!!パワーポイントを使う講師達

人の講演を聴くということは、それなりに学びが多い。

自分が精通しているつもりの講義内容でも、様々な見方や分析の方向に気づかされることがある。違った見解に対する反論を頭の中で構築しながら聴く講義もまた楽しい。

しかし、最近特に気になるのは、講師のパワーポイントの使い方だ。

レジメにも、まったく同じ内容を掲載しながら、会場を真っ暗にして画面で説明する講師が多い。画像やグラフ、図の説明なら、まだ許せる。

が、それも、ものによりけりである。

画面を使って講演を行うのであれば、事前に聴衆の数、会場の大きさ、画面の広さ、プロジェクターの性能など、良く確かめておくべきだ。よほど立派な会場で特大画面が使えない限り、100人を超える聴衆の最後列から文字を判別するのは難しい。タイトル文字なら何とか可能でも、それ以下なら不可能である。

そもそも文字を画面で全て読まなくとも、画像と図を説明する中で、言葉で説明すればわかることを、無理して画面上の文字で説明しようとするから生きた言葉が出てこない。

ネタが一つしかなくて、それだけで複数箇所をもたせているんではないかと思えてしまうこともある。パワーポイントの資料さえあれば安心感があるのだろうか。

少なくとも100人を超える聴衆の前でパワーポイントで説明するのであれば、講師は演壇の横に立つのではなく、会場最後列に立って、聴衆の目線から画面説明をするべきだろう。

どうせ誰も、あなたの顔を見て説明されたいとは思っていないんだから。

ケアマネ現任研修を企画するスタッフも、このあたりも頭にいれて講師の選定をしてもらいたい。

ケアマネと医師の連携の模索

昨晩、登別と室蘭両市のケアマネ会と地元医師会の協議会が行われた。

今年の協議会は全ての会員を対象にして多人数を集めて行うものでなく(昨年はその方式で行った)、それぞれの代表委員を双方から20名出して、医師とケアマネの連携のあり方を協議するものであった。

予定時間の2時間をオーバーして、熱心な意見交換が出来たと思っている。

医師の意見書に必要な情報から始まり、情報提供書の必要性や、医療系サービスを計画に位置付ける際の、医師との連絡方法、連携協力の方法など、多岐にわたって活発な意見交換が出来たと思う。

ケアマネ側にも様々な意見や不満がある。
例えば医師によってはコンタクトを拒否したり、連絡をするだけで迷惑がられるようなケース、総合病院の医師との連絡のとり難さ等が挙げられたが、医師会側らは、どれも前向きに取り組んでいただける姿勢が示された。少なくとも「それは無理だ」というネガティブな姿勢がないことがありがたい。

ただ、この協議会に参加している医師の方々は、それなりに制度やケアマネに対する知識や理解がある方が多い。しかし地域の中でケアマネの存在に無関心な医師も多いし、むしろそちらが多数派なのかもしれない。この状況で我々ケアマネが出来ることは何か。

そんな中で、医師からは、自分が意見書を書いた利用者に、誰がどのようにサービス計画を立てて、実際、どのようなサービスが提供されているのかという介護の実態がほとんどわからない、是非誰が担当者というだけでも連絡が欲しい、という指摘があった。

これは重要な視点を含んでいると思う。

ケアマネとすれば、計画に医療系サービスを組み込んでいない場合、主治医師に全くコンタクトを取らないで、意見書だけ参考にしているケースも多いと思う。しかし介護保険制度やケアマネを深く知らない医師であっても数多くの意見書を書いているのだ。

仮に全てのケアマネが、初回だけでもプランを立てることになった利用者の医師意見書の記載者たる主治医に何らかの形で連絡をとったとしたら、医師とケアマネの接点はかなり増えてくる。別にプランの説明でなく挨拶程度で良いのだ。このあたりは医師会側からもむしろ好ましいという意見をいただいた。

例え一方通行の連絡であったり、時には迷惑がられても、ケアマネに無関心の医師が、その存在を意識してくれるきっかけになるのではないだろうか。そこが連携の第1歩ではないか。

このあたりを、ケアマネ会に持ちかえって、会員の皆さんに具体的方法論を探していただきたいと思う。

今は針であけた小さな穴が目の前に広がっているのみであるかもしれない。しかし、こういう機会(医師とケアマネの協議の場)を持つ地域はそう多くない。

この針の穴を広げた先に、新たなケアマネの可能性が見えてくるかもしれない。しかし広げることが出来るのは私個人でなく、現場のケアマネさん一人一人の活動だと思う。
そして、そのさらに向こうに見えるものは、利用者の笑顔であり、全ての方が幸せに生活できる、この国の将来であって欲しい。

ケアマネージャーに対する医師の認識

医師会とケアマネ会の懇談会が今晩予定されている。
こうした機会を定期的(年1回〜3年目)に設けている地域はおそらく、ごくわずかであろう。

その報告は明日にでも行なうとして、その前に、事前アンケート資料の中から医師の方々の意識を考えてみた。

対象者数が少ないせいもあるが、アンケートに回答してくれたのは、ケアマネ会員が77%に対し、医師はわずか33%である。サンプル数としても少ない。

介護保険に理解があり、ケアマネージャーに関心をもってくれる医師もおられるが、実情としては、ケアマネは何をしているの?という意識や介護保険制度やケアマネの活動に全く無関心な医師の方々も多いのであろう。

医師からの意見の中には
「日頃ほとんど話し合う機会もなく、医師の意見書も一方的で、ケアマネを含めた介護の実態が医師側にほとんど伝わってこない」
「もっと積極的に相談してほしい」
「主治医意見書にリハビリを重視してほしい内容の記載をしてもケアプランに反映されない」
「ケアマネの活動拠点がわからず、連絡方法がわからない」
「利用状況の定期的連絡があっても良い」etc

耳の痛い意見でも、見当違いの意見でも、意見を述べてくれる医師は、それなりにこの制度上のケアマネに関心をもってくれているということであり、関心をもってくれるというのは連携の第1歩である。これは大事にしなければならない。

しかし少なくとも現在の状況は、医師にとって、医療機関から退院した方や、外来で医療機関に通っている要介護者や要支援者が、地域においてはケアマネに任せておけば安心だ、という意識は醸成されていないのが現実である。

医師会とケアマネ会の協議の場から両者の風通しを良くすることのみならず、ケアマネ自身がもっと地域になくてはならない存在感を示す必要があるのかもしれない。

そういう中から医師も頼るケアマネという存在が地域で数多く現出されることにより、両者の連携は自然ととられていくのかもしれない。

ただ新予防給付の方法論で見られるように介護保険の方向が生活モデルから医学モデルへと流れる中、我々の前途はまだまだ荒波に視界が閉ざされている。その向こうにあるものの正体は、いまだ見えてこない。

介護支援専門員協会と地域ケアマネ会の関係

11/3、職能団体として日本介護支援専門員協会が設立された。しかし、我々地域のケアマネ会は現行、北海道ケアマネ連絡協議会に加入しているものの、この会はそのまま日本介護支援専門員協会の地域支部に移行するわけではない。

当面は道連協は継続され、協会の支部組織も新たに設立され、並存して運営する、ということだ。

なぜこんな状態になったかというと、簡単に言えば会費の問題と絡んでいる。今、地域のケアマネ会は、様々な方法で運営されているが、それは会員の会費で支えられている。その中から道連協に加入している組織は、道への会費も納めている。今度、日本介護支援専門員協会の下部組織となれば、傘下の会員は道だけでなく、全国組織にも会費を納めることになる。

しかしそれだけの負担をして全国協会の会員になるメリットや魅力を地域会員が感じていない点が大きい。確かに職能団体として発言力を高めていこうという意図自体は理解できる。

しかし、全国協会の幹部たちは、地域のケアマネ会が、都道府県連協の下部組織として設立されたわけでなく、各地域で必要に迫られたケアマネたちが、相互に助け合って、制度開始の混乱を切り抜けようと自然発生的に作られたものであることに無関心すぎると感じている。

地域ケアマネ会は、まさに地域で困っている個人個人のケアマネの相談の場であったり、情報交換の場であったり、勉強会の場であったりということを、あまりに置き去りにしていないだろうか。

私自身は地域ケアマネ会の代表を務めているが、このことは決して忘れてはならないと思っている。

ほとんど下部組織への説明の機会がない状態で、果たして個人会員としても、幾人の人がこの協会に加入するのか?また地域会としての対応を求められたとき、選択肢の一つとして、道の組織とも離れて、独自の道を選択する、という対応も今後、視野に入れざるを得ないだろうと考えている。

裏板風にブルグを作ってみました

初雪が降った。朝の施設周辺道路は、うっすらと雪が積もっている。また「雪かき」がルーチンワークの一部になる季節がやってくる。

冬の到来は、介護の現場だけでなく、高齢者の生活に様々な影響を与える。

雪かきができないため、冬だけ老健に入所するという方もいる。雪のために必要な買い物に支障をきたして訪問介護を利用する高齢者がいる。外出機会や手段を確保するために介護サービスが必要になる方もいる。火の管理だけが心配で独居が難しい高齢者がいる。雪が降らない日でも寒さは時として高齢者の命にも関わってくる。

生活というのは千差万別なのだ。

冬と夏でも違うし、今日と明日でも違うのが生活だ。

そして、その生活の状況をできるだけ良いものにするため我々介護支援専門員やソーシャルーワーカーは、福祉の専門家として関わっている。だが生活の専門家なんているわけがなく、いるとすればそれは、その生活の主体である、その方自身でしかないのだろう。このあたりの生活の機微がわからないと、人の幸福に関連した援助はできない。だからこの仕事は難しいし、面白いのである。

今日、流行りのブログを立ち上げてはみたが、ここがどのような場所になるのか、私自身にも予想はつかない。さしたる目的があるわけでもない。

ただ明日は専門研修があるし、明後日の夜には、医師会とケアマネ会の協議会がある。とりあえず日記風に報告を書く分には事欠かないだろう。
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