元国鉄マン看護師の彼は、僕の高校時代の同級生である。親父さんが国鉄マンであった彼は、高校卒業と同時に当然のように国鉄の試験を受け国鉄マンの道を歩んだ。
ほとんどの同級生が進学であった僕らのクラスで、高校卒業と同時に給料取りとなった彼には学生時代、飲みに連れて行ってもらったり、ずいぶん世話になったものである。
彼は、仕事の傍ら、組合活動にも熱心で、国労の若き闘士として随分活躍したと聞く。しかしそれが、やがてあだとなる。
国鉄民営化の波は、彼の職場を飲み込んで、国労の組合員は民営化に非協力的であるとして、大変な差別的扱いを受けることとなる。結果的に新しいJRに彼は不採用となった。
国鉄が消滅して、1年間、彼は清算事業団という仕事のない職場で1年を過ごすこととなった。その間、彼は再就職の為、大型免許の資格を取得して、職を求めたが、国労上がりの手に職があるわけでもない男性に、おいそれと仕事は見つけられなかった。
しかし彼の人柄をみて、ある病院のオーナーが彼をバスの運転手として採用してくれた。清算事業団という仕事のない時期に暇に任せてとった免許が彼の救いとなった。
ここからがかれの新しい人生のスタートだった。そして彼の劇的な人生物語がここから始まるのである。しかしそのことに、当時の僕はもちろん気がついていなかったし、彼自身も気づいていなかっただろう。
医療機関の業務なんて経験したこともない元国鉄マンの彼にとって、医療の世界は何もかもが始めての経験であったはずだ。戸惑うことも多かったろう。しかし、そのことが彼の中にどのような影響を与えたのか僕には想像もつかないが、家庭持ちの中年にさしかかっていた彼は、ある日、看護師の資格を取ろうと思い立った。
大丈夫かなあ?僕にはそんな思いがあった。運転手として職を得ているんだから、そこまで無理するなよ!!そんな言葉がのどからでかかったこともあるが、彼の真剣な目は、僕らのそんな無責任な思いを完全に拒否するものであるように感じた。
それから数年、仕事の傍ら、勉強して、看護学校に合格。なんと正看護師の資格をとちゃた彼。その間に子供も生まれたし、大変だったろうと思う。運転手から看護師となって活躍する彼とは住む市は違うが、車で1時間の隣町ということもあり、たまに夜の町で飲み明かしたり、家族同士で付き合ったり、学生時代からの付き合いが数年続いた。
しかし、その後、お互い、子供が成長して、家庭も仕事も忙しくなるし、それぞれ住む街が違い、仕事が違い、逢う時間もなかなかとれず、年賀状と数年に一度の電話程度でコミュニケーションを交わす状態が十年以上続いた。
元国鉄マンが、看護師として医療の最前線にたって、患者さんと接する中で感じた思いはどのようなものであったろう。おそらく数年間は、先輩に教えられる業務を覚えることで精一杯であったと思う。仕事に慣れても日々の患者さんへの対応で忙しく過ごす彼にとって、その職場で行われる医療サービスについて何の疑問も浮かばないのは当然で、そこで行われるサービスを当たり前と思いながら過ごしてきたと思う。
それからいつの間にか、彼は職場の中で責任ある立場を担わされ、数年後、看護師のトップという立場になった。そのとき彼はふと気づいたんだろうと思う。
何か?それは医療の世界の常識は世間の非常識という面にである。当たり前の生活が「治療」という名の下に出来ない生活である。しかも彼が働く病棟は急性期病棟ではなく、長期入院者が多く、そこで一生を過ごす方も多い病棟であった。何かを変えなければ、彼の中でその思いが大きくなったときに僕の携帯電話がなった(続く)
介護・福祉情報掲示板(表板)
ほとんどの同級生が進学であった僕らのクラスで、高校卒業と同時に給料取りとなった彼には学生時代、飲みに連れて行ってもらったり、ずいぶん世話になったものである。
彼は、仕事の傍ら、組合活動にも熱心で、国労の若き闘士として随分活躍したと聞く。しかしそれが、やがてあだとなる。
国鉄民営化の波は、彼の職場を飲み込んで、国労の組合員は民営化に非協力的であるとして、大変な差別的扱いを受けることとなる。結果的に新しいJRに彼は不採用となった。
国鉄が消滅して、1年間、彼は清算事業団という仕事のない職場で1年を過ごすこととなった。その間、彼は再就職の為、大型免許の資格を取得して、職を求めたが、国労上がりの手に職があるわけでもない男性に、おいそれと仕事は見つけられなかった。
しかし彼の人柄をみて、ある病院のオーナーが彼をバスの運転手として採用してくれた。清算事業団という仕事のない時期に暇に任せてとった免許が彼の救いとなった。
ここからがかれの新しい人生のスタートだった。そして彼の劇的な人生物語がここから始まるのである。しかしそのことに、当時の僕はもちろん気がついていなかったし、彼自身も気づいていなかっただろう。
医療機関の業務なんて経験したこともない元国鉄マンの彼にとって、医療の世界は何もかもが始めての経験であったはずだ。戸惑うことも多かったろう。しかし、そのことが彼の中にどのような影響を与えたのか僕には想像もつかないが、家庭持ちの中年にさしかかっていた彼は、ある日、看護師の資格を取ろうと思い立った。
大丈夫かなあ?僕にはそんな思いがあった。運転手として職を得ているんだから、そこまで無理するなよ!!そんな言葉がのどからでかかったこともあるが、彼の真剣な目は、僕らのそんな無責任な思いを完全に拒否するものであるように感じた。
それから数年、仕事の傍ら、勉強して、看護学校に合格。なんと正看護師の資格をとちゃた彼。その間に子供も生まれたし、大変だったろうと思う。運転手から看護師となって活躍する彼とは住む市は違うが、車で1時間の隣町ということもあり、たまに夜の町で飲み明かしたり、家族同士で付き合ったり、学生時代からの付き合いが数年続いた。
しかし、その後、お互い、子供が成長して、家庭も仕事も忙しくなるし、それぞれ住む街が違い、仕事が違い、逢う時間もなかなかとれず、年賀状と数年に一度の電話程度でコミュニケーションを交わす状態が十年以上続いた。
元国鉄マンが、看護師として医療の最前線にたって、患者さんと接する中で感じた思いはどのようなものであったろう。おそらく数年間は、先輩に教えられる業務を覚えることで精一杯であったと思う。仕事に慣れても日々の患者さんへの対応で忙しく過ごす彼にとって、その職場で行われる医療サービスについて何の疑問も浮かばないのは当然で、そこで行われるサービスを当たり前と思いながら過ごしてきたと思う。
それからいつの間にか、彼は職場の中で責任ある立場を担わされ、数年後、看護師のトップという立場になった。そのとき彼はふと気づいたんだろうと思う。
何か?それは医療の世界の常識は世間の非常識という面にである。当たり前の生活が「治療」という名の下に出来ない生活である。しかも彼が働く病棟は急性期病棟ではなく、長期入院者が多く、そこで一生を過ごす方も多い病棟であった。何かを変えなければ、彼の中でその思いが大きくなったときに僕の携帯電話がなった(続く)
介護・福祉情報掲示板(表板)