masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

「大根干し」から役割のことを考えてみた

昨日、午前中に緑風園の正面玄関前で、何人かが集まって、なにやら作業をしていた。よくみれば大根を洗って干している。時期は少し遅いが沢庵作りのための大根干し作業で、利用者が2名と、ケアワーカーの主任が作業している。

先週末、大根の寄付をいただいたということで、どうしたらよいかと考えたところ、沢庵作りをしたいという希望者がいるので、天気を見て作業を開始したとのことである。

お二人は時折帰宅欲求のある認知症の方であるが、生き生きと作業をしている。身体の障害はない方であるが、干し方も堂に入っている。おそらく認知症という病気を発症する以前は毎年、冬を迎える前には、こうして沢庵をはじめとした漬物作りを行っていた方であろう。その作業をいつからしなくなったのか、本人も覚えていないが、一旦始めると、昔とった杵柄である、様々な思いを語りながら作業を行っている。

当然、全てが完璧にできるわけではないが、ちょっと手伝うことで思い出してくれることが多い。これこそ生活習慣に即してできることを実現するという「生活支援型ケア」の方法論である。

100人の入居者の中の、たった二人しか参加しないのか、という考え方もあろうが、すべての行為を100人という集団で考える必要はないし、このお二人ができる行為として沢庵作りを行ってもらうということが実現できる日々、そういうアイディアが生まれる環境があることに目を向けたほうがポジティブである。

この大根干し作業が終われば、今度は実際の漬物作りには、また何人かの参加があるかもしれないし、それがなくとも実際に漬物ができて、食べるとき「これは○○さんと、○○さんが一緒に作った沢庵だよ」という話で盛り上がるだろう、そこから「私のうちでは漬物は、これこれ作っていたよ」というふうに話が広がれば、これはもう回想法の手法である。

と、わけのわからない理由をつけなくとも、過去の生活習慣が生かせて役割を持てる生活は否定されるものではない。認知症の方々がそこで示してくれる知識の中には若い我々(彼女達に比べてという意味でしかない)にはない知識もある。認知症だから何もかもが分からなくなるわけではないし、残されている能力が引き出されるときに、それらの方々の表情は生き生きと輝くのである。

だから女性の方が長く生活の中で担っていた家事という行為を長くしない時期があったとして、そのことを再びできるということは、そこから取り戻すことができるものがあるということなんだろう。もちろん強いられた行為は何にもならないが、再び過去の生活習慣上の行為をしたくなる、できる、という生活環境があるという意味は、その方がそこで役割をもって生活できるということであり、その背景には、その方が人として尊重され、常に何が必要かを見守る視点があってこそ始めて整う環境なんだろう。

それが大事だと思う。何が行われているかという前に、どのように考えられて、そういう行為に結びついているのかで、色々なものが変わってくる。

そういう意味で家事に参加するという形だけで物事を考えるとおかしなことも出てくる。家事=生活支援ではない。特に男性は仕事を失うと無趣味でやることがない人が多い、という点で、ここでは家事を強制しても「そんなことできるか男子厨房に入らずだ」という意味での拒否行動をとる人も多い。

だがこれは問題行動ではない。当たり前の主張である。家事や我々の想像範囲にある狭い趣味活動だけで、物事を考えると動機付けに繋がらないということが多々あり、それは我々の想像力と創造力の欠如に他ならない、ということである。

沢庵作りに喜びを見出せる人がいれば、誰かが作った沢庵を「あーでもない、こーでもない。」といいながら食べるだけの役割があったてよいということである。

手先を使う職人が惚けにくい、といわれるが、それは職人が手先を使う商売であるからではなく、定年がなく、役割を高齢期まで持つことができる職種であるという理由であろう。

また教師が惚けやすいといわれるが、それは定年を迎えると同時に、それまでの最大の役割であった「人にものを教える」という機会が急激に失われていくことに原因があるのかもしれない。

まとまらない話で終始しているが、役割を持つということがそれだけ大事であるという意味である。

さて今一番の心配は、干してある大根が、野生の鹿の被害にあわないかという点である。すぐ隣の牧場にねぐらを持っている鹿の群れが夜な夜な周辺をうろつくのである。

鹿だからシカタナイではすまないのである。

ちなみに緑風園から車で7分ぐらいのところにあるクッタラ湖で売られている「クッタラバーガー」とは鹿肉のハンバーグであるが、この辺の野生の鹿の肉を使っているものではないことを書き添えておく。
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寄り添うケアは抽象的過ぎる、という指摘。

認知症高齢者のケアの方法について「寄り添うケア」という言い方をすることが多くなった。

しかしその表現や方法に対して「そんな抽象的で具体性に欠ける表現で認知症ケアを語るな」という意見の持ち主がいる。

そういった主張をする方々が指摘する点は、認知症ケアは脳科学と精神医療、介護の3つが組み合わさってはじめて実効性がある支援となるもので、脳科学や精神医療を無視して介護の情緒的関わりだけで考えても問題解決にはならないということである。

そういう意味と指摘であればその通りであろうと思え理解できるのであるが、しかし一方的に講演などで壇上から「寄り添うケアなんていう抽象的な表現はやめましょう」と言われてしまえば、それでは我々が現場で実践してきた生活支援型ケア=寄り添うケア、なんていうのは認知症高齢者の介護に必要がないものという誤解を生むと思う。

毒舌だかなんだか知らないが、名のある人が勢いにまかせて無責任な発言をすることはいかがなものかと感じる。もう少し丁寧な説明が必要ではないだろうか。

認知症ケアの基盤を3層構造で考えるべきという指摘はその通りと思うが、認知症のワクチン開発が現実味を帯びてきているといっても、実際には今、認知症を予防したり治療したりする薬もワクチンも今現在はなく、中核症状に届く治療法はない。

アリセプトは進行を遅らせることのできると言う意味で、適応の方を早期に発見する為に専門医への早期受診は大切であるが、だからといって周辺症状に正しく適応する方法としての「寄り添うケア」を否定してもはじまらない。

不安を助長させず、生活習慣を大切にしながらできることを支援することによって症状を緩和する具体的な方法が抽象的だといわれる意味が分からない。

もちろん一部では、この寄り添ケアというものを理解しておらず、つきまとっているだけのサービスしかできていないところもあるし、具体的な方法を説明できない人もいる。

しかしサービスの質の高いケアを実践している関係者は、この寄り添うケアというものを、その方の生活習慣から問題の所在やできること、したいことを見出して、無理しないでできる部分を支援することで混乱を防ぎ、周辺症状を悪化、拡大することなく、むしろ精神的な安定を取り戻す成果を挙げている。まさに認知症の周辺症状に手が届くのはケアである、という実践であり、このことを単に経験と勘という表現をしてもらっても困る。

周辺症状のどの部分に手が届くかということを理解して、その届く部分の方法論を「生活支援型ケア」という具体的方法として作り上げたスタイルを「寄り添うケア」とわかりやすく表現しているだけであることを理解すべきである。

精神医療は、そうした介護の手が届く部分と、そうでない部分を明確に区分して、認知症高齢者の関わり方を専門的立場からカウンセリングの視点も含めて専門的立場から助言・指導されればベストであるが、現実にはそこまでうまく機能していないし、精神科医の認知症理解にも個人差が大きい。

生活のないところで認知症の方々の周辺症状は良くならないという理解も必要である。周辺症状を抑えることが行動抑制であってはならないという基本的な疑問から生活支援型ケアは出発していることも大事な視点であるのだ。

同時に情緒的なサービスは科学にならないという指摘もあるが、本来、人に対する介護サービスは情緒抜きでは考えられないものである。

情緒が入りこむ余地のないものが科学であり、それからしかエビデンスは生まれない、と考えるのであれば、人に関するサービスにはいつまでもエビデンスを作り出せないかもしれない。しかし、あの人が今混乱している原因は何、という部分をその方自身の生活暦と生活習慣と絡めて理解する過程で、情緒的に関わる作業は不可欠である。

寄り添うケアを観念論と考え、経験や勘の産物と考える人々は、同時に「その人らしいケア」というのも観念的で具体性に欠ける勘に頼った表現だという。

しかし介護サービスに関わる人々が、向かい合っている人々の「その人らしさ」を顧慮しないとしたら、対人援助とはなんと殺伐としたものになってしまうのだろう。「その人らしさ」を見つけ出す道具の一つとしてアセスメントを行っているんではないのだろうか。

「その人らしさ」を見つけ出す為に情緒的に関わる方法が駄目というなら、そういう現場に僕は長くは居たくないと思うであろう。

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masaのフォーク道7〜ゆうちゃん。

746b8c92.jpg中学校1年のときに父に初めて名寄の楽器店でフォークギターを買ってもらった。当時の値段で1万円。高いギターではない。初心者だからこんなもんだろう。

ギターのメーカーといえば、モーリスとかギブソンとかであるが、僕が買ってもらったギターも、モーリスと思っていたが、よく読むと「モラレス」・・・??違うメーカーであった。(笑)

当時、日曜の昼に、土居まさる司会の「TVジョッキー日曜大行進」という番組が流行っていて、その番組に「奇人変人」というコーナーがあり、そこに登場した人々には白いギター(後には青とか黄色になったが)がもらえて、それがうらやましかった。

チェリッシュの「白いギター」なんていう唄もあり、色つきギターにあこがれていたのか、僕はエンジ色のギターを買った。ピックガードを既製品からオリジナルのものに取り替えて、かなり目立つギターだったと思う。

それを高校2年生頃まで使っていたが、その後、誰かにやってしまったのか、今その所在は不明である。

さて、高校の時の同級生にユウジという友達がいて、おそらく岩見沢西高の当時の同級生の中では彼が歌唱力NO1であったろう。ギターテクはそこそこだが(僕よりははるかにうまいけど。)ともかく唄がうまい。まだ全然売れていない頃の松山千春をよく聴いていてコピーをしていたが、千春のオリジナルより、彼の唄の方が良く聞こえることもあった(いいすぎか!!)

《※この頃の千春がどれほど売れておらず無名だったかというエピソードとして僕の出身校の岩見沢西校の学園祭に河村通夫(現在北海道のラジオ番組のキャスターで活躍している)と5人衆というグループを呼んだことがあるが、隣町の栗山高校で松山 千春を呼んだが、当時は松山って誰よ?河村のほうが上だろうと思われていた。以上、余談です・・。》

彼は大学で放射線を学び、今、道東の大きな医療機関で放射線技師をしているはずだが、卒業後もOMR(オホーツクリズムマシーンの略らしい)というグループを作って活躍していた。

僕の結婚式では彼のオリジナルの唄を弾き語りで披露してもらったりした。(ちなみに彼の結婚式では僕は山口百恵の『秋桜・こすもす』を歌った。)

そんな彼は高校時代、僕の近所のクリーニング屋さんの娘で、僕らより1年先輩の同じ高校の家政科の彼女と付き合っていた。

そんな彼に対し、僕らのやっかみも含めて、うらやましい気持ちも込めながら彼をモデルに作った唄であり、ゆうちゃんとはハンカチ王子のゆうちゃんではなく、僕の同級生のユウジくんのことである。

ゆうちゃん

私の彼が言いました。
私にそっと言いました。
ヒトミちゃん 今度の土曜に
二人で 図書館に行こうって
君の苦手な数学 僕が教えてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 愛してる
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 好きなのよ
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

私の髪に口づけて
彼がそっと言いました
ヒトミちゃん、今度の日曜に
二人で サテンへ行こうって
君の哀しい話を 僕が聞いてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん みつめてよ
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん いつまでも
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

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学生時代の実習で学んだこと

僕の手元に日本シリーズ第6戦・明日・土曜の3塁側内野指定席のチケットが3枚、空しく残っている。

もう1試合息子達と札幌ドームで声を枯らして応援したかったが、仕方がない。残念だが、今週まで夢を与え続けてくれたファイターズに今年も感謝しながら、来年に期待をしよう。ドラゴンズとドラゴンズファンの皆さんには心からお祝いを言いたい。・・派手に勝ってくれました。強かった!!

今年の最終ゲームが完全試合で負けるとは、守り勝ってきたファイターズの逆の一面として「打てない」という課題が最後まで克服できなかったことを示しているようだが、それも来期からの飛躍のスタートである。中田 翔という大型新人も入団するし、監督もかつてイテマエ打線を率いた梨田さんに代わる。チームも変わるが、明るくファンから慕われるファイラーズらしさを失わずに来期に向かってくれるだろう。昨日までの日本シリーズも来期からの肥やしである。

とにもかくにもファイターズに送る言葉は今期も「ありがとう!!」以外にない。

さて、肥やしといえば、我々にとって学生時代の実習がそれにあたるだろう。

僕の学生時代は主に児童福祉関連の勉強を中心にしていた。

単位取得に必要な介護実習先も児童相談所を選択して、4週間の実習を行った。そのとき経験した様々なことが、僕がこの道に入ったきっかけになったが、その時のことは「Think about my Daughter 」として4回に分けて書いている(参照2005年12月のarchive ;ここの12月15日から18日分をご覧ください。)

ところが就職先が特別養護老人ホームに決まったとき、あわてて授業とは別に特養の実習をしたり、大学では特養に勤務経験があった助教授に個人授業を受けたり、にわか仕込みの詰め込み勉強をした覚えがある。

個人教授をしてくれた助教授の知り合いの方がいるということで、空知管内のある特養で、4週間、学校の実習とは別個の特別な実習をさせていただいた。相談援助業務の実習であるが、そこでは夜勤の状況を知るために夜勤実習もプログラムに入れていただいた。ところが仮眠時間に寝過ごしてほとんど朝まで寝てしまった、という失敗談もある。

学校の授業の実習でもないからであろう、担当の寮母さんには(当時の介護職員はすべてそう呼ばれていた)「あんまり気持ちよく寝てるから起こせなかったわ!!」と言われた。参りました!!

どちらにしても寮母さんからすれば、介護の知識も技術もない、にわか勉強の相談員実習生が、ウロウロ付き纏うより寝ててくれた方がまし、という僕自身の存在レベルの問題であったろう。しかし我ながら緊張感がないぞ、と自分を叱らねばならない問題である。

ただ、就職先が決まっての実習ということで、自分なりには、特養の相談員(当時は生活指導員)業務を覚えなければならないと考えていたので、それなりに真剣で必死であった。が、なにしろ右も左も分からないから、実習先の指導者の皆さんには夜勤実習以外にも随分迷惑をかけたと思う。

しかし本当に親身になって、丁寧に教えてくれたなあ!!

業務終了後に鍋を囲んでお酒も飲ましていただいたり、酔いつぶれて担当者の方のご自宅に泊まらせていただいたりもした。今でも感謝に絶えない。ありがとうございます。そこでの経験が、今の僕の考え方の根幹になっている。

措置費の時代だから、事務的な書式の取り扱いも随分覚えることがあったが、僕が就職する施設は新設であったから、書式も何も整っていなかったので、全ての書式を、この実習先からいただいて当施設の様式にした。

使いやすいように変えても良い、といわれたが、どこをどう変えるのかさえも皆目見当がつかない状況であって、施設名だけを変えて、そのまま使用させていただいた。印刷が間に合わない書類は、今のようにワープロソフトで作れるという時代でもなく、タイプライターなんて使い方も分からず、結局、手書きで公文書を作って、各実施機関に送った。だから当時の「収容引き受け所」(特養への入所を収容と呼んでいた時代である)は、すべて手書き文書である。受け取った市町村の担当者も「なんだこれは」と思われたことだろう。

今では、その当時の書式で残っているものはないし、ほとんど必要な書式は施設のオリジナルで独自に作っているが、当時の実習先で、指定様式も条件さえ整っておれば、独自の使いやすいものに変えて使ってよい、という意識を自然と身につけさせていただいたことが、僕なりの柔軟な発想の源になっていると考えている。

指定書式からものを考えるのではなく、現場から考える記録の意味や書式のあり方、という発想が本来求められるべきものであろうと結論付けている。

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企業倫理って何よ?

当施設は平成11年に50床の特養単独施設から、通所介護を併せ持つ、100床の特養(+12床のショート事業所を併設)として増改築を行った。

その際、ナースコールについて、広くなった管内で場所によっては、本体の音がなっても聴こえなかったりするということが想像されたので、ハンディナースシステムというPHSでコールを受けるシステムを導入した。もちろんそのもう一つの意味としては、利用者の生活がナースコール音が本体からなり続けることでかき乱されないということも含んでのものである。

このシステムはナースコール本体の会社とは、別個の無線システムで、本体に対応する無線システムを持つ企業は複数社あって、その中から現在のハンディナースシステムを選んだわけである。企業規模としても大きな企業である。

ハンディシステムの子機は普通のPHS電話機である。無線システム自体のトラブルというのは今まで特にないが、携帯電話でコールを受けているのと同じだから、この電話機自体のトラブルは結構ある。

それは機器自体の性能という問題ではなく、介護職員が持ち運んで介護にあたっているのだから、時に落としたり、あるいは水周りの周辺で介助している際に濡らしてしまったり、そのための故障ということがある。

修理できるものもあるが、精密機械だから、落下や水没の場合は、ほとんど修理がきかない場合が多い。不注意というより、介護現場ではやむを得ない状況でのこともあるし、常に持ち運びながら介護しているのでPHSとしての耐用年数は短くなるのはやむを得ない。

だから毎年、ハンディコールシステムのメンテナンスにかかる費用=PHS電話機の買い替え費用は必要経費である。

ところがである。

当施設で使っているハンディコールシステムの企業が、もう一つの大手企業と合併して新会社としてスタートした。その際に、現在のハンディコールシステムサービスから撤退するというのである。よって今後はこのシステムに関わる保守、修理、機器の提供も行わないというのである。

つまり今後は、無線システムは使えるがPHSが壊れても修理も新規購入もできないので、1台ずつ使えなくなって子機が減ってしまうというわけである。もちろんPHS電話機であればなんでも使えるということではなく、他社の無線システムの子機をこのシステム上で使えるわけでもない。

となれば早晩、ハンディナースとしての機能を失ってしまうわけである。コール対応の問題だから「仕方ない」では済まされない。

こうした状況が突然のアナウンスで知らされたわけである。企業が合併して違う社名になって、新たなものになったから、サービスも変わるということで、当施設においては9年経っているシステムといっても、まったく異常も問題もないシステムの変更が迫られているわけである。

ということで他社の無線システムに変えるためにまた数百万円の費用がかかることになるが、命綱としてのナースコールであるから、これはやむを得ないだろう。

しかしこういう数百万円の費用がかかる設備を商品にしている大きな企業が、企業自体がなくなるわけでもないのに合併した途端にそのサービスから撤退して、経過期間も設けず、メンテナンス等も一切行わないというのは問題ないのだろうか。

法律には触れないといっても企業倫理としては最低だろう。

「日※※株式会社」から「N※Cインフロンティア株式会社」に変わったこの企業の対応については大いに憤りを持っている。(※は伏字)

今後この企業と付き合うつもりは一切ないが、同社がもともと、こういう対応を行ったということを関係者は知っておいた方がよい。

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2007年度介護支援専門員実務研修受講試験について

介護支援専門員の資格を得るために各都道府県ごとに実施される試験のことを「介護支援専門員実務研修受講試験」と呼ぶ。この試験に合格して実務研修を受けてはじめて介護支援専門員として登録できるから、このように長い名称になるんだろう。

ところで2007年度の試験が10/28(日)に行われた。

今年の試験問題は難しかったのか、難しくなかったのか、これはそれぞれで感じ方が違うかもしれない。

そこでネットで公開されている今年の試験問題を解いてみた。その感想を少し書いてみたい。

僕自身は現在、介護支援専門員の実務に携わっているわけではないが、地域ケアマネ会の代表でもあるし、職業はまさに介護保険制度の現場の施設長であり、居宅サービスの管理者でもあり、居宅介護支援事業所も併設しているという意味では、制度がどんどん新しくなっているからといって、その制度に自らの知識がついていけず「わからない」ではシャレにならないし、合格点を取れないのでは困ったものだと考えながら問題を解いてみた。

しかし期待に反して問題の難易度自体は余り高くないし、僕の知識がついていけていない部分は特にない。

正直言って、分からない問題はない。難問と思うものも特にない。ただし答えが簡単に見つけられるという問題でもないように思った。

どういう意味かというと、よく読んでじっくり考えれば満点かそれに近い得点は取れる内容であるが、どうも引っ掛け的な表現が多くて、正解を3点選べ、という問題の中には、ここの表現をこのように不自然にしているから正解ではなくなっている、という問題が多いのである。

文章の一部をこねくることによって5つの設問のうち、微妙に2つが正しくないという問題が多い。だから時間に追われながら受講する受験生は、正答を引き出す際に見事に引っかかって不正解になるという例も多いだろうなあ、と思いながら回答した。

しかしこれって本来の資格試験のあり方として正しいのだろうか。

正面から知識を問うものではなく、受験テクニックを問う試験問題になっているような気がしてならない。

もっと制度の大事なルールをしっかり把握しているかどうか、社会福祉援助技術に対するしっかりした基礎知識が備わっているか否かを問う問題であった方がよいように思う。

介護保険制度とその関連領域という狭い範囲からの出題であるから、問題が作りづらくなって、それが小手先の引っ掛け問題に繋がっているような気がしてならない。

では一体、国はどのような介護支援専門員を作り出したいと思っているのか。ソーシャルワーカーとしてきちんと社会福祉援助技術を持って、制度を理解し、コンプライアンスの重要性を理解しながら、ソーシャルアクションの視点も併せ持って、現場で利用者の生活力を高める支援を行えるような人材を必要としているんではないのか?

少なくともこの試験問題からは、介護支援専門員に求められている像は見えてこないといってよいだろう。

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認知症ワクチンは10年以内にできるか

アルツハイマー病のワクチン開発がヨーロッパ、アメリカ、日本で進んでいることは周知の事実である。

先々週、兵庫県篠山市の研修にお邪魔した際、空港まで出迎えてくれた篠山市のキミオーさんと車中でお話した中で、このワクチンの話題も出てきて、キミオーさんから「10年以内にワクチンができるという話がありますね」といわれた僕は「おそらくできないでしょう。実験段階では実用まで行くような成果は出ていないと思います」というような話をした。

その背景には、僕のトラウマとして昭和60年代のポパテという薬のことが頭に浮かんでしまう、ということが一因としてある。当時「痴呆(当時の言い方)の特効薬」として多くの医療機関で処方されたポパテの副作用により、多くの高齢者が亡くなり、その薬はすぐ、劇薬指定されて、今では使われない薬になっている。

そしてアルツハイマーワクチンも、その研究で先を走っていた米国では、人間に用いた段階で被験者が脳炎を起こして死亡し、暗礁に乗り上げたという経緯を知っていたので、日本でマウスの実験で成果を挙げたことを知っていても、どうも信用ならないという「観念」が先行してしまうのである。

しかし篠山の研修会で、僕の実践報告の後に基調講演を行った龍谷大学の池田教授は、この点にも触れ「10年以内にワクチンが開発されるので、現在の50代からその前の世代はアルツハイマーから解放される」というお話をされていたので、あらためてワクチン開発の現状を調べてみた。

なるほどこのワクチンの開発状況は、僕の認識よりかなり進んでいることがわかった。10年以内にワクチンができるかどうか、僕には疑念があるが、一応、ワクチン開発の現状だけはここで紹介しておこう。(各種文献から要点を書き出したものである。)

アルツハイマー病については、過去においては原因不明の脳萎縮により生ずる認知症といわれていたが、現在ではこの原因は「アミロイドベータ」というたんぱく質が脳内で分解されずに蓄積して神経細胞が死滅することで脳萎縮が起こることがわかってきた。

だから「アミロイドベータ」をうまい具合に分解できればアルツハイマー病は予防できるし、治療も可能となる、という仮説に立ってのワクチン開発である。

米国ではこの「アミロイドベータ」を臨床段階で攻撃、分解する過程で被験者が脳炎を発症して死亡してしまったわけであるが(その対策として米国では経口投与するワクチンに代わりパッチ(貼付)剤という形で研究が進んで成果が挙がっているらしい)、日本では「アミロイドベータ」を抑える物質について特定の酵素に着目した。つまり睡眠を促すホルモン「プロエスタグランジンD2」を作り出す酵素が十分働かなくなるとアルツハイマー病が発症する可能性が高まると予想するようになった。

そしてそれはマウス実験で立証され、そこから人間が服用できるワクチン開発の可能性が高まっているのである。

ワクチンの仕組みは(素人の僕にはよく理解できない部分もあるが、書かれている内容をそのまま転記すると)病原性のないウイルスの殻にアミロイドというたんぱく質を作る遺伝子を入れ、これを口から飲むと腸の細胞がこの「偽ウイルス」に反応してリンパ球がアミロイドを攻撃する抗体を作る。この抗体が脳にたまったアミロイドにくっつき、ばらばらにして取り除く、と書かれている。

マウス実験では、ワクチンを飲んだマウスは全て3月後に記憶力などの認知力を示すテストでレベルが発症前に戻ったという。一方、ワクチンを飲まなかったマウスは認知力の大半を失ったというのである。脳内のアミロイドが消えることは数年前かわかっていたが、症状の改善も証明されたというわけである。

しかもこのワクチンは口から飲むだけのもので大量生産も容易であるとのこと。人間に実用できれば大変な発明である。

もちろん人とマウスの薬の効き方は同じではないし、人間の複雑な認知力が改善するのかも定かではない。さらに副作用として大きな障害が現われることも完全には否定できない。ここが人間に実用するまでの大きなネックになるものだろう。

しかし確実に認知症の予防と治療への歩みは進んでいるということだ。僕の予測に反して本当に10年以内にこのワクチンは開発、実用化されるかもしれないと感じた。

しかしワクチンができたとき、最初にそれを飲む立場にはなりたいと積極的に思う人はあまりいないかもしれない。

やはり、あのポパテや米国でのアルツハイマーワクチンの悪夢がよぎってしまうからである。

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介護用品開発者のセンスはズゴ〜ク時代遅れ。

様々な介護用品があるが、高齢者の方々が身につける食事用エプロンなどを見て、いつも思うことは、なぜあんなに派手なんだろうということである。逆に派手ではないものは一様に無味乾燥のものばかり。両極端である。

どちらにしても、高齢者が身につける「介護用品」となると奇抜な色や模様になるか、暗い味気のない無表情な見かけのもの、どちらかの選択肢しかないように感じている。

真っ赤がやけに目立つエプロンを食事のたびに身につけることを高齢者が喜んでいると思うのだろうか。模様にしても、いかにもセンスのない魚であったり、動物であったり、幼児と間違っているんではないかと疑うデザインであるものが多い。

そういうものを使いたくないと思って探しても、結果的にはどこのメーカーも似たり寄ったりで、ほぼ同じようなセンスのない色・デザインである。

派手な色、子供が見てしか可愛いと思えないような模様であったほうが明るいイメージになると思っているんだろうか。

これらのものを身につけるのが高齢者であって、我々の人生の先輩であるという意味を介護用品を開発したり、商品化する側の人間は分かっているんだろうか。

高齢者の皆さんが身につけるものとして求められているのは、そうした度派手な「ばか色」「ばか模様」ではなくて、もっとシックで優美さが表現できるものであるという考えはないのだろうか。

ということで食事用エプロンを真剣に考えれば、自施設で何か工夫をして独自に作るしかなくなってしまう。結婚式に出席したときに出されるナプキンなどを1枚失敬して、参考にして作るなんていうやばいことも時々行われる。

これらの身につけるものは、もっとハイセンスでオシャレで、高齢者がもっともっと自らの優美さを感じられるものに変えていかねばならない。

介護用品開発者は、そうした商品を自分の親が身につける姿を想像して、それが似合っているか、子から見て「美しい姿」になって喜ぶことができるかという面から考え直したほうが良い。

場合によっては、商品に採用した色や模様と同じ服装で街を歩いてみることである。とってもこの色と模様の服装では街は歩けないと思うものなら、それは高齢者もそんな色や模様のものを日常的に身に着けたくないということになる。

介護の現場が様々にサービスを進化させていくのに、この部分での商品開発者のセンスは極めて遅れている。機械化された商品の性能向上や技術的進歩は目覚しいのに、介護用品のファッションセンスは極めて前時代的というより、ローセンスである。

介護用品のメーカーが、この部分に有能な人材を貼り付けていない=この部分を軽視していることの現われであろう。

しかし、現場が求めている商品はすでに志向性自体が変わっているのであり、実はこの部分にいち早く対応したメーカーにこそビジネスチャンスはあるんではないだろうかと秘かに考えている。

オシャレでハイセンスな介護用品が、これからのキーワードだ。利用者の優美さが表現できる商品開発が企業利益に繋がっていくと考えるのは間違いではないだろう。

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ファイターズプア。

3ef5e799.jpg今年のプロ野球日本シリーズは明日、我がファイターズの聖地・札幌ドームで開幕する。
(画像はクライマックスシリーズ、対ロッテ第5戦勝利の瞬間;ライトスタンドの一部・黒い塊がロッテ応援団、それ以外はすべてファイターズファンであふれている:クリックすると拡大表示されます。)

ほんの数年前までプロ野球の日本シリーズと北海道は、まったく縁がないもので、この北の大地で、この時期に野球が行われること自体が考えられないことであった。

札幌ドームができたことで、シーズンを通して野球観戦できるようになったが、まさか北海道にプロ野球球団ができるとは思ってもみなかった。そこにファイターズがやってきた。

当初はジャイアンツファンばかりの土地にパリーグの人気のない球団が来て、盛り上がるわけがないという声が多かったが、それからの道民のファイターズへの傾斜は、ここに実際にいるものでも驚くほどである。野球をあまり知らなくてもファイターズは大好きという道民も増えている。

いまでは巨人戦でもスタンドの9割がファイターズファンで埋まる。子供達のほとんどはジャイアンツグッズなどゴミ扱いで(?)ファイターズグッズを手に声を枯らして歓声を挙げファイターズを応援している。

フリーエージェントで選手が移籍するのは選手自身の問題であるが、その反感は選手を獲得した球団そのものに向けられており、いまや巨人は憎っくき敵という感情を持っている道民が多い。巨人ファンは年毎に倍々ゲームのように減り続け、逆にファイターズファンがそれ以上に増加している。5年後にはこの差はさらに拡大するだろう。

しかも去年、今年と、ファイターズが道民に夢を与えてくれるように日本シリーズに進出した。今年も野球シーズンの最後まで道民はファイターズのおかげで夢を見ることができる。

だから札幌ドームで行われる日本シリーズのチケットはものすごい争奪戦で、発売日には電話も、ネットも、なかなか繋がらない。昨日の一般販売は開始わずか2時間でチケット完売し、電話もネットも一度も繋がらないまま、チケットを手にできなかった人も多い。中には昼まで数千回電話をかけ続けても繋がらずにチケットを手にできなかった、という人もいる。まさにプラチナチケットであり、応援団でさえも手に入れるのが難しい状況である。

今年の札幌ドームでの日本シリーズは開幕戦と2戦目、6戦目、7戦目で、すべて土日開催のナイターである。

クライマックスシリーズを一人で観戦した僕は、家族の非難の矛先をかわすためにも、息子二人を日本シリーズには是非連れて行かねばならない。そこで先行予約(ファイターズが日本シリーズ進出を決める前の発売券)から懸命にチケットを手に入れようとあらゆる伝(つて)と方法を使った。

幸いなことに10/27(土)の開幕戦と12/28(日)の2戦目、第6戦の11/3分の内野席をそれぞれ3席分ゲットした。(7戦目まではもつれ込まないだろうと見て最終戦は申しこまなかった。)

とここまでは良いのであるが、問題は財布の中身である。

6000円のチケットを9枚購入し、締めて54.000円の出費である。これだけではない。観戦当日の交通費、ドーム内での弁当代等々を考えると、結局、10万を超える出費を日本シリーズ観戦だけで余儀なくされる。しかしこれをカミサンにお願いしても家計から回してくれるはずもないので、結局僕のなけなしのヘソクリから出費することになるのである。

ということで、今時期の僕の財布は随分軽くなっている。しかも深刻なのは、それが回復する見込みが確実にあるわけでないということなのである。哀しいなあ。

世のお父さん連中は、そういう苦労をしながら、いい年をこいてドームで声をからして応援しているわけである。

ちなみにクライマックスシリーズ第3戦でレフトスタンドのファイターズ応援団のど真ん中にいた僕は、稲葉ジャンプをしているところをテレビでばっちり放映され、家族からは「いい年をして格好悪い」とののしられ、職場では「昨日見に行ってましたよね。」と含み笑いとともに指摘され、結構赤面状態なのである。

先々週と先週は土日が研修会等で休みがなかった。今週の土日は3週間ぶりの休みなので母の見舞いに実家の岩見沢に行く予定であるが、夜は日本シリーズの応援に札幌ドームに行かねばならない。これは道民の義務だから仕方ないのである。だから今週も土日はブログの更新はお休みさせていただく。

とにもかくにもファイターズのおかげで夢を見る代わりに、いま僕は見事に「ファイターズプア」と化しているのである。

独身のコバくん、昼飯おごって!!

ファイターズの優勝と、皆さんのお恵みをシンジテマ〜ス!!しかし・・・情けない・・。

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生活援助が要介護度を悪化させる根拠への疑問

1昨日、昨日に続く、龍谷大学・池田教授の主張に対する疑問である。

氏は日本の介護保険制度は諸外国に比べて国民所得に占める介護給付費の割合はトップ水準であると国際比較している。それゆえ介護保険は「贅沢」に作られている制度だという。しかしこれを制度の贅沢さとみるのはいかがなものだろう。

そもそも社会システムも制度体系も目的も違う各国の介護給付費は一様に比較できない部分が多い。民間サービスの位置づけも様々であり実質「官」の役割を担っている国もある。それゆえ制度の贅沢さとは、それによって実生活部分にその贅沢さが反映されている状態であって、はじめて使える言葉ではないのか。実生活の生活レベルの視点なしに社会保障制度を語れるのであろうか。

国民所得と生活水準は、例えば生活に不可欠な食にかかる費用などにも目を向けて考えねばならず、米国の食料の所得に比しての安価さは、介護サービスに個人の資産を活用し対応できる基盤となっており、社会保障の一翼を担っているといっても過言でない。

生活水準を健康で文化的な面から考えての必要な給付費と考えれば、諸外国との国民所得に占める介護給付費比率のみから判断して贅沢であるということにはならない。

さらに氏の主張によれば、介護保険の給付費が要介護度5で在宅35万8300円、特養なら27万5000円の給付を受けているに、スタッフの給与は一体いくらなのか、と問いかけ、少なくとも30万以上もらうのが当然ではないかと言う。

それはそうだろうと思うが、ここで氏の理論展開は、では現実には介護スタッフは20万しかもらっていないのであるから、支給限度額も施設の給付費も35万8300円、27万5000円から下げろという論理展開であり、それで使えない部分は自己負担で賄え、という意味を含ませている。

しかし介護スタッフの給与とは介護給付費で支えられているものではないか。

支給限度額や給付費が下がった分を、すべて自己負担で補えるほど格差社会の現状は甘くない。すると氏の主張する方向に向かえば、事業者の収入はさらに低下して、スタッフの給与にもそれは反映されざるを得ず、介護労働のワーキングプア化はより一層深刻化するだけではないか。

ここの部分はいかにも学者の理論で、現実に介護労働の場で、職員が労働対価として得る給与に心を痛める現場の経営者とは乖離しすぎているし、それは現場の従業者の声ともかけ離れたものである。氏の推進する方向に向かえば間違いなく、この国の介護労働は崩壊する。彼らの目指す「持続可能な制度」の中身がいかに空疎で貧弱なものであるかの証明であろう。

しかも一番の問題は、介護給付費を下げる為の理由としている、過剰サービスは要介護度を悪化させるという証明データを出しているが、それがひどく根拠に欠けるという点である。

もともと過剰サービスが要介護度を悪化させるという根拠データは日医総研が島根県で行った調査結果を元に給付費分科会で議論されたが、後にこれは平成16年度介護給付費実態調査で軽度者と中・重介護者の重度化率は同じと否定されたという経緯がある。

そこで給付費分科会では、最終的に鹿児島県保健福祉部「居宅介護支援事業所の実態調査」というデータを出し、この中で要支援者中、ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合という主張をしている。そして今回の池田教授の講演でもこのデータを根拠資料と紹介している。

しかしこれはまったくひどいデータである。何しろ「ほぼ毎日(週29回)サービス利用した群における要介護度悪化が高割合」といっても何と、これは総サンプル数310人というわずかな数のもので、しかも毎日サービス利用はわずか2人しかいない。この2人の悪化をもってして高割合としているのだ。

そもそも、ほぼ毎日訪問介護を使っている軽介護者など認定審査会を5年以上行っている経験からもそういない。それなのにわずか310のサンプルに2人もそれが入っているのがおかしくないか?そういうサンプルをあらかじめ組み込んだ操作データではないかという疑いが強い。

毎日サービスを利用して要介護度が悪化するのではなく、おそらく要介護度にマッチした状態像ではなく、実際は要介護度がもっと重度な状況になっていたためにサービスを利用せざるをいえなくなった人が更新時に状態像に即した認定を受けたに過ぎないということも考えられるのであり、このデータを根拠にする限り、例の島根県データの際の状況を鑑みても、国の考え方に誘導すべく情報操作が都合よく行われている、としか思われないのである。

それよりむしろ東京都で行われた軽度者の重度化要因調査研究報告書(05・NPO法人地域保健研究会)の調査結果のほうが実態をより正確に現していると思う。

この中で、要介護度が2年間で悪化した100人の調査について、その要因は多い順から
1.疾病 44件
2.認知症 39件
3.加齢による脆弱化 23件
4.家族関係 15件
5.転倒 14件
となっており、ヘルパーによる家事代行など過剰介護は0となっている。

結論として言えるのは、介護予防という面から言えば、恐いのは過剰サービスより過少サービスで必要な支援が行われないことであるといわざるを得ないのが本当のところであり、池田氏の主張はまず給付抑制ありきの論理としか考えられないのである。

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介護保険は社会福祉ではないという主張について(その2)

(昨日からの続き)
介護保険は社会福祉の制度ではないのではないかという意見は2つの違った立場から主張されていることを現状として認識すべきである。

つまり一つの立場は、介護保険制度はあくまで措置制度から高齢者の介護サービスを切り離して保険料負担を新たに求めた制度設計にしたという意味で、社会福祉の制度であったものを国民負担の新たな体系を作るために「介護保険制度」というものに移したものであるから、当然、そのサービスには社会福祉という資本主義の市場原理とは別個な視点を残して、基本は社会福祉制度として考えるべきものなのに、現実の介護保険のサービス運用は、民間の営利企業の経営論理によってサービス提供され、社会福祉の視点が欠如してしまっているのは問題だという立場からの主張である。

一方、もう一つ別の視点からの主張は、国の主張とリンクするのだが、池田教授らが言うように、そもそも介護保険制度は社会保険になったんだから社会福祉制度ではないのは当然で、社会福祉の領域でカバーすべき低所得者対策などはこの制度で給付対象とすべきでないし、サービスとしての給付も、もっと保険事故に対する給付という原則に立って、必要ない給付を排除して給付費用を抑制すべきであるという主張である。

この両者の主張は似て非なるものであり、前者は介護保険を本来の社会福祉制度としてみるべきであるということで、後者のそれは、介護保険制度と社会福祉とは別個なものという理解をして守備範囲を明確に区分すべきであるというものである。

しかしおかしなことに国は本来後者の立場であるはずなのに、この社会保険という主張する制度の中に低所得者対策としての減免制度を取り入れている。

これは何故か?国や池田教授が主張する社会保険は社会福祉を必要とするサービスまで提供しないということを実際に行うなら、減免制度を導入せず、支払い能力のない人のその部分には生活保護を適用するということになぜならないのだろうか。

答えは簡単である。支払い能力のない部分を生活保護で保障しようとすれば公費負担が大きくなり、介護保険に減免制度を設けてこれで対応した方が国の負担は少なくて済むということではないだろうか。

つまり制度の維持継続という部分を、国費全体でみれば介護保険を社会福祉制度の一部として取り込んだほうが国の負担が少なくなるという意味になって、現実にそれが行われている。

社会保険制度だから社会福祉ではないという論理を都合の良いところだけで使って介護サービスの給付費抑制部分だけで主張するのはいかがなものか?

さらに多くの関係者が心配するところは、北欧では現実に衣食住の部分は自己負担で、負担できない人は介護サービスでみるのではなく生活保護でみているとはいっても、わが国の生活保護の実態が必要な人に必要な保障がされていないのではないかという疑念が先立つ点である。

生活保護を打ち切られた人が「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死している現実が生活保護の適正給付が行われていない現実を示している。

そんなことはレアケースで議論として持ち出すべきではないという意見は当然あろう。

しかしそのことを除いて考えても、昨日主張したように、高齢者の介護サービスは保険料負担を中心にした社会保険方式に切り替えた、という既成事実をもって社会福祉ではないという主張は、あまりにも国側の勝手な論理で、社会福祉でなくしたのなら、その過程ではっきりと介護保険の創設の意味は、介護保険で見る高齢者の介護サービスは社会福祉から外して保険事故に対する給付に限定します、そのために強制加入の掛け捨て保険という、新たな保険料負担義務を国民に課します、ということを制度導入時に国民に適切に情報提供して、そのことのコンセンサスを得る過程を踏むべきである。

それはまったく行われていないではないか。

介護保険という何か新しい福祉サービスができるという幻想を抱かせる為に、介護保険の制度創設の意味を国は「国民がサービスを受ける権利として給付と負担を明確にする」とか「利用者の選択性を保障する」とか「サービスの受け手の対場に立った制度体系」とかいう角度からしか国民に情報提供せず、個人ではなく社会全体で介護を支えると言っているのみではないか。

介護保険の提供サービスを社会福祉制度ではなくするとは一言も言わずして、社会保険料を中心に運営していることをもって社会保険で社会福祉制度ではないから、保険事故以外の給付は行う必要はないなんていうことにはならない。

税金だって半分投入されているのは、それまでの社会福祉制度の一部を社会保険という手法も取り入れた新たな制度に変革したという意味であり、介護保険は社会福祉ではない、ということを絶対根拠にする主張は通らないと思う。

そういう意味で池田教授の主張の根幹部分である「介護保険は社会福祉にあらず」という考え方は、国民に対する冒涜と欺瞞であると言わざるを得ない。

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介護保険は社会福祉ではないという主張について(その1)

先週土曜に、丹波篠山市で行われた「ひょうご地域包括ケア研究会」において講演を行う機会をいただいて、そこで様々な人々とお逢いできた。ネットを通じてお名前は知っていたが、初対面の人がほとんどであった。しかし皆フランクに打ち解けてくださり大変感謝している。

その研究会では介護給付費分科会の委員である龍谷大学の池田 省三教授の講演も行われ、その後、意見交換会では池田氏がコーディネーター、僕がオブザーバーという立場でご一緒させていただいたが、限られた時間で決まったテーマに対することで、氏の講演内容に対しては充分現場から意見発信する、あるいは氏の主張に対して反論を述べたり、疑問を呈したりすることはできなかった。

そこで今日から、池田教授が主張する現行介護保険制度の給付のあり方に対する指摘や、持続可能な制度を作るための給付費の抑制の必要性の理由付けに対する、いくつかの僕なりの個人的意見を述べさせていただきたいと思う。

介護給付費分科会の議事録を読まれている方はご存知であろうが、池田教授は給付費抑制論者であり、現行の介護保険給付は過剰給付であるという意見の持ち主だし、新予防給付の推進論者でもあり、その理由として介護保険の過剰給付(過剰なサービス)と要介護度の重度化がリンクするという意見の持ち主である。

さらにその原因はケアマネジメントの質の低さであるという意見も持っている方で、予防プランから介護支援専門員の関与をなくした制度改正後のケアマネジメントのあり方の推進論者でもある。

その主張は「持続可能な制度のための給付費の見直し(基本的には給付費抑制)」を推進する立場であり、国の主張に極めて近いところに位置する意見の持ち主であるとの印象をかねてから(僕自身は)持っていた。

今回ご一緒した研修会での講演でも、同様の主張をされて、これまでの制度下におけるケアマネジャーの不適切なケアマネジメントの責任、特に安易な家事支援(訪問介護の生活援助)の計画への批判を述べておられたし、介護保険制度のサービス給付水準は諸外国に比べては非常に高い水準であり、むしろその過剰サービスの提供が介護予防効果を阻害しており、適正な給付のための支給限度額の見直しや、サービス対象者の削減(具体的には要支援者は介護保険の対象としない)という施策が必要であることの理由を具体的にいくつか挙げられていた。

しかしその主張の根幹をなす部分は「介護保険は社会福祉制度ではない」ということであろうと僕自身は理解した。

池田教授は明確に「介護保険は社会保険であり、社会福祉ではない」と述べられておられる。

よって本来社会保険とは社会保険料を財源にした保険事故に対する給付なのだから、低所得者対策は別に社会福祉サービスが担うべきもので、この部分との役割分担をきちんと行うべきであるとしている。

それゆえに、衣食住は基本的に自己負担は当たり前なのであるから、これは介護保険で見るべきではない。負担困難者である低所得者、経済的弱者については社会保険であるところの介護保険制度で救済するのではなく、社会福祉で対応する(負担能力のない人に対しては生活保護制度がきちんとあるんだから、そちらで見るべき)のが本来であり、要介護者だから衣食住が保険で保障されるのは不合理だし、普遍的にこれを保障すれば保険財政は崩壊する、としている。

また社会保険である以上、保険事故に対する保障であり、家事援助(生活援助)の保険給付は単なる擬似家族サービスにしか過ぎないところであり、これは保険給付に馴染まない。具体的には男性が家事能力がないということは保険事故ではなく介護サービスの対象とするのは不合理、という主張である。

確かに介護保険制度は社会保険になってしまった。そのことは否定しようもない。しかしだから社会福祉としてのサービスはその部分に不要という意見は短絡的過ぎるし、何よりこの制度を強制加入の掛け捨て保険にした経緯を検証する視点がないところでの、その主張は国民に対する欺瞞である。

我々は介護保険制度の創設時に、高齢者の介護サービスを社会福祉から外されるということに対し充分情報提供されて、それに納得し、国民レベルでのコンセンサス形成がなされた上で、そのことが制度化されたとでもいうのだろうか?決してそうではない。

だまし討ちのように高齢者等の介護サービスを、国民の知らないところ、まったくコンセンサスを得る過程を踏まないところで、社会福祉の領域から外して、それを社会保険料を強制徴収する制度に位置づけたからといって、その既成事実だけで「介護保険は社会福祉制度ではなく社会保険だから、衣食住費を自己負担できない階層の人々の援助まで責任を持つ必要はない」という主張は乱暴である。

何より国がその社会保険制度に減免制度を取り入れていることと、その主張はどこか矛盾していないか、そのことを考えて見たい。(明日に続く)

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韓国の介護保険制度

今週25日に、韓国の方々が当施設を見学に訪れる。

とはいっても別に珍しいことではなく、韓国では来年の7月から韓国版の介護保険制度がスタートするということで、今、日本の様々な施設や事業所に、たくさんの韓国の福祉関係者が訪れて視察を行っていると思う。

今年度のはじめにも、当施設の協力病院が経営するグループホームに韓国の方々が視察に来ている。

韓国で新設される介護保険制度は確か法案成立までに名称変更があって「老人長期療養保険法」という名称が最終決定されたと記憶している(違っていたら申し訳ない)。かの国の高齢化率は現在9%台であろうと思うので、随分準備が良いと考える向きもある。

しかし高齢化率こそ、現在わが国の比ではないといっても、高齢化のスピードはわが国のそれをはるかに上回っていることが韓国が早期に介護保険制度を創設する最大の理由である。何しろ65歳以上の高齢者比率が7%から14%になるのに、わが国では24年かかったのに、韓国では17年しかかからないという数字が出されている。つまりは少子化もわが国より進行しているということであろう。

だからドイツ、日本についで3番目に介護保険制度を創設する必要があったのである。

僕は、わが国の介護保険制度創設時に、その考え方を分かりやすく説明するために講演会などでは人間の形を黒板に書いて、胴体をドイツ、頭を北欧(スゥエーデン・デンマーク)、手足をアメリカ、と書いて示し、制度の根幹部分はドイツの介護保険制度をモデルにして、一部北欧の介護サービスの方法を取り入れ、使いこなす手足となる手法はアメリカで生まれたケースマネジメントを取り入れている、と説明していたことがある。

韓国の場合は、日本の介護保険制度を充分に研究しているので、当然わが国と似た部分が多い。しかし根本的に違うのは、制度の建て方で、日本が独立した保険制度としているのに対して、韓国のそれはドイツ方式(完全に同じではないが)の医療保険活用型になっている点で、健康保険料に介護の部分を上乗せして財源にしている点である。

新たな独立保険ではなく、現行の健康保険料に介護保険部分を上乗せして徴収する仕組みは、ある意味で健康保険料の増加にしか感じられない国民意識が働きやすいという懸念からか、韓国の介護保険制度が当初対象にするのはわが国の要介護4または5にあたる重介護者のみで全高齢者の2%にも達していない。

外から見ると、これで果たして高齢者ニーズに即した介護サービスが十分に提供されるのだろうかという疑問が生ずるが、韓国の伝統的儒教文化においては親の世話は子がするのが当たり前で他人の手は借りない、借りたくない、という考え方が強いという意味があるんだろう。

そういえばグループホームの視察の際に案内した方が言っておられたが、ホームの方々の様子を見て、視察者の方々から「医療サービスが必要でなくなったのに、なぜ家庭につれて帰られないのだ」という疑問の声があったそうである。そのあたりの考えは逆に25日に、こちらから聞いてみようと思っている。

しかし1点。知っておいてほしいのは、日本の介護保険制度は、介護サービスを位置づけている社会保険制度に過ぎず、社会福祉制度にはなっていないかもしれない、という点である。

(福祉制度ではないと言い切る人がいるが、その言い切る方々の論理にも2つの違った立場がある点や、社会福祉制度ではないということの意味の捉え方にも国側の論理と国民の論理とでは違う、という点があることを明日以降「この制度とは何か」という面から詳しく述べたいので、そちらを是非読んでもらいたい。)

自己責任論により本当に困っている社会的・経済的弱者が救えず、お金のある人は良いサービスを受けられるが、お金のない人は、それなりのサービスしか受けられないという現状は、財の再分配という社会福祉の機能を果たしていないし、現役世代の負の遺産を背負って、高齢期も生きなければならないという弱肉強食の資本主義の論理がまかり通る社会になっている、という影を広げている。

そして介護サービスをコストのかからない民間企業の手により量を確保した方策によって人件費の抑圧が経営論理に置き換わり、財源論からしか考えられない介護報酬改訂により介護報酬が下がり続けた結果、人件費の更なる抑制が進行し、介護労働単価の大幅な低下という結果が、介護サービスへの恒常的人手不足を招いている、という深刻な問題がある。

介護保険制度が制度あってサービスなしという状況にならないために、広く民間参入を促した結果が、サービスあっても、それを提供する人手なし、という状況を生んでいるということもいえるのである。

こうした制度設計と運営の未熟さの上に、砂上の楼閣として成り立っているのがわが国の介護保険制度であるという一面も知る必要があるだろう。

日本の介護保険制度の「光と影」の両面をみつめてほしい。

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寂しい看取りは嫌だ!!

このところ認知症に関する講演を数多く行っており「看取り介護」についてお話しする機会が少なかった。

しかし明日、兵庫県篠山市の「地域包括ケア研究大会」の中で「看取り介護の視点」という基調講演を行うのに加え、11/29には日本サイコロジー学会でこのテーマでシンポジストとして報告したり、12/8には仙台市で行われるセミナーでも同様のテーマでお話をすることになっており、先週、それらに必要な講演ファイルをあらたにパワーポイントで作りなおした。

ただし僕の施設が看取り介護に先進的に取り組んでいると思っている人がいたら、それは間違いである。もちろん利用者にとって最も望まれるサービスを提供したいと思いながら、工夫を重ねているが、もっと良いケアを行っている施設もたくさんあると思う。

ただホームページ等を通じて、日々の取り組みの中で考えていることを随時公開しているという意味にしか過ぎず、必ずしもそのことと「先進的な看取り介護」はイコールではないということを自戒しながら質の向上に取り組む必要を感じている。試行錯誤を重ねることも多い。

看取り介護については様々なポイントがあり、昨年自ら「看取り介護指針」を作成しホームページで公開以来、様々な角度からこの問題を検証してきたが、基本となる考え方は同じでも、その時々で「思い」は違ったものになっている。

いま我が施設で看取り介護を行うときに最初に考えることは、看取り介護という時期に、利用者自身がいかに「寂しさ」を感じることなく、その時期を安楽に過ごすことができるか、そしてその部分に、いかに家族が参加して寄り添えるか、ということであり、家族が看取りの時期に、家族としての役割で参加できるのが施設における「看取り介護」の特徴ではないかと考えている。

看取り介護加算を算定できる条件の一つに「看取り介護が行える個室」を備えていることがある。

しかし、これは必ずしも個室で行う看取り介護ではないと加算算定ができない、という意味ではなく、選択肢として個室がある、という意味である。(参照:介護老人福祉施設及び地域密着型サービスに関するQ&A;本人や家族の希望により多床室での看取り介護を行った場合には、看取り介護加算の算定は可能であるが、多床室を望むのか、個室を望むのかは時期によって変わってくることもあるので、適宜本人や家族の意思を確認する必要がある。)

当然、多床室での看取りは、同室者の理解を得ないと、他者の精神的ショックも考えられ、慎重に行われるべきだが、長年、住み慣れた部屋で、親しい人々に見送られる最期があっても良いし、それが適した状況の対象者もおられる。この部分は個々のケースで慎重かつ、それぞれの事情と環境を充分考慮して判断されるべきである。

一方、個室で看取り介護を行う最大のメリットは、利用者と家族という他人が介在しない空間が常時用意され、気兼ねのない空間と時間が保障されるということではないだろうか。

しかし逆に考えれば、この最大のメリットも、周囲の理解がないと、単に「死に行くための寂しき場所」になってしまう。個室を孤独死の空間にしてはいけない。夜間、ドアが閉められたあと、暗い寂しい場所で、一人寂しく死を迎え、呼吸が止まって数時間後、それに気付く、という状況はあまりに哀しいと思う。

だから僕は看取り介護の時期に家族が施設に泊まることは積極的に勧めるべきと思うし、施設職員に気兼ねして宿泊を申し出られない状況だけは作ってはならないと思う。

僕が作った看取り介護指針の中に記してある家族のメンタルケアについても、講演では宿泊する家族の精神的ストレスにも配慮して、食事や入浴なども宿泊する家族がきちんとできるような支援も「看取り介護」の支援の一部であるという意味の話をしている。医療機関で迎える際の死の場面より、介護施設で死を迎える際に家族が持てる役割は多いし、そういう時期をともに過ごすことも意味があろうと思う。

もちろんそれぞれの事情により、家族がついておれない方も居られるし、宿泊を強要するという意味ではない。家族が最後の瞬間にそこに居られる状況であることがベストであることの意味を伝えるだけであり、家族がともに居れない場合は施設職員や他の利用者も家族の替わりに訪室を多くして、寂しい思いにきちんとケアできる体制作りが必要だろうと思っている。

最後の瞬間に「寂しい、誰か来て」という思いだけは抱かせない介護が必要だと思う。

さて、明日兵庫県篠山市の「地域包括ケア研究大会」において「看取り介護の視点」という講演(過去同じテーマで話していた内容に今の状況を含めて手を加えている)を行うために朝5時半頃のバスで千歳に向かう。篠山市には昼頃到着予定で講演開始時間は午後2時10分である。

その日は懇親会にも参加して、表の掲示板で文字だけの交流をしている幾人かの方々とお逢いする予定で、明後日日曜の午前中には兵庫を発ち、北海道に戻ってくる予定である。

お逢いできる皆様、よろしくお願いします。ブログや表の掲示板をみている方がいたら気軽に声をかけてください。そのため土日のブログは更新できませんので、ご了承ください。

ああっと、書き忘れたことがある。一言書き添えておきたいのであるが・・・・「ファイターズ万歳〜シンジテマシタ〜!!」・・・日本シリーズも「ジンジテマス〜!!」

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認知症サポーターの役割

16日夜、登別市で最初の認知症サポーター養成講座が、160名を超える市民の参加を得て開催された。

僕はキャラバンメイトとして前半の講座を担当して、皆さんの前でお話をさせていただいた。事前に参加者が150人を超えると知らされていたので、大画面で説明した方が分かりやすいのではないかという提案を受け、14日の日曜の夜に急遽「標準教材」の内容について僕の担当部分のパワーポイントファイルを作成した。

本来なら文字より図解の方が分かりやすいかなと思ったが、ケアマネの更新研修の真っ最中、宿泊しているホテルで1晩で仕上げたものなので、文字が中心のファイルが出来上がった。ただ、気をつけたことは標準教材の内容をできるだけ網羅しつつ、もっと一般市民の方に分かりやすい内容や言葉であることに配慮しようと思って仕上げた。

地域の中に専門家を増やすという意味より、地域の中で一般住民の方々に広く認知症のことを知っていただき、理解していただくことで、地域の中での認知症支援のネットワーク作りの基礎ができることが目的だから、サポーター養成講座が、そうした意味で興味を持たれるものでなければならないし、そのためにも内容が分かりやすいものでなければならないと思うからである。

サポーター養成講座は1回きりではなく、これから継続的に何度も開催され、そこにたくさんの市民参加を得て、地域で認知症の基礎知識を持った人が増えることで、地域の中で認知症による「不自由」を抱えている人々を支援できる地域社会が作られていく可能性が生まれるのであり、1回目の講座が「面白くもなんともなかった」「難しすぎてわけが分からない」ということであっては次回からの参加者が集まらないということにもなりかねないとプレッシャーを多少感じながらお話させていただいた。

結果はどうか分からないが、一部の受講者の方々からは「わかりやすくてよかったよ」という声をかけていただいたのでほっとしている。少なくとも専門家ではない一般市民の方々が「なるほど認知症とはこういう病気なのか。」という意味の理解のきっかけにはなったのではないかと思う。

個人的には後半部分を担当してくれた地域包括支援センターの方のお話も非常に分かりやすくて、僕の気付いていない部分のお話もあり、興味深く聞かせていただき、ためになった。僕にとっても貴重な機会であった。

サポーター養成のキャラバンメイトは市内でも増えてきているので、養成講座はこれから様々な方が担当することになろうが、たくさんの市民の皆様に今後も参加していただき、認知症の理解が地域の中で広がっていってほしいと思う。

ところでこの養成講座開催を企画した段階では、これを後援する会の会員の一部からサポーターの役割についての疑問が出された。

サポーターになったからといって特別な義務はなく、特別な役割もないことは意味がないのではないかという疑問である。せっかく講座を開いてサポーターを養成するのであれば、それらの方々を社会資源として活用する方法があって良い、という意見である。

しかしサポーターの意味はそうではないと思う。

結果的に認知症を理解して何かの活動に繋がってくれることは大変重要ではあるけれど、それ以前に認知症という病気や症状を理解して、地域の中で認知症の方々や家族に対して暖かな視線を向けることそのものに意味があり、そのことが地域を変えるものであるということの方が重要である。

サポーターは何か義務や役割を負う存在にするより、地域の中でまさに多角度から認知症の方々とその家族を支える応援者の意味である。実際の活動参加でサポーターとしての存在価値を求める前に、具体的な活動は特に行っていないけれど、認知症というものにある程度理解ができて、それらの方に対し暖かな眼差しをむけることができる人が一人でも多くいる、という地域社会を作ることのほうが求められる方向であろう。

もちろんその中からは、結果的にもっと具体的な活動に繋げていく人々が現われるであろう。しかしそうした活動をする人と、しない人に、意味や価値の差があるわけではない、という認識も重要である。

認知症サポーターの間口は、より低く、より広く、という視点が一番大事であろう。

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看取り介護の現場で求められる職員の意識

11月に岐阜で行われる全国老施協主催の研究会議の案内をみていた。

僕にとっては「介護刷新」という大テーマ自体も、その意味と現状の方向性を鑑みると、あまりピンとこないのであるが、基調講演などの内容は、それなりに興味深いと思った。

前三重県知事の北川 正恭氏の組織改革などの講演は僕も機会があったら聞いて見たいと思う。老施協の幹部の皆さんが「組織改革」というテーマをどのように感じるかも興味深いところである。是非実践してもらいたい。

残念ながら今回は参加できないけれど・・。そう思いながら各分科会のテーマなどを見ていると「重度化対応の課題と実践」という分科会では看取り介護をテーマにしていることがわかった。

ただその内容を見ると、そのテーマに違和感を覚えざるを得ない。細かいことであるが「看取り介護における本人・家族への啓蒙」「看取り介護の心得と作法」となっている。

ぼくはこの啓蒙と作法という言葉にどうも納得がいかない。

家族に何を啓蒙せよというのであろうか?そもそも啓蒙とは「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。」という意味である。我々の実践の意味を正しく伝えることは必要だが、看取り介護の現場で家族に対し「教え導く」ことが必要なんだろうか。そのことができるんだろうか。

看取り介護の現場においては、我々が本人や家族を教え導くよりも、本人や家族から「教え導かれる」事柄の方が多いように感じる。啓蒙というような上から見下ろすような態度で、看取り介護の場に関わるのは大いに違和感を持つのである。

看取り介護をテーマにした講演を行うことがあるが、その際に僕は、霞ヶ関南病院長・斉藤 正身先生の言葉を借りて、看取り介護の場では利用者や家族に対して「説明と同意」で終わらず「相談と協働」が必要であることを強調している。

施設の職員が、対象者やその家族とともに、その場で本当に個人に必要な援助をともに考え、協働で悔いのないサービス提供に努めることが必要だと思うのであり、そこでは一方的な指示、命令の関係ではなく、双方向から伝え合って最も必要な支援体制を整えていくことが求められているんだと考えている。

それはまさに介護に関わるものの真摯な態度であって、作法ではない。作法という言葉を「礼儀」という意味で使っているんなら、そもそも「礼儀」という言葉そのものを用いればよいし、作法といえば本来は「きまり。しきたり。」という意味である。

これは言葉遊びでもなく、言葉狩りでもない。意識の問題である。

そのことをしっかり認識しないと、大事な看取り介護の場で利用者不在の、算定ルールだけが重視されるおかしな介護が横行してしまう。それが恐いのである。

看取り介護を行うという意味は、施設の収入とか利益などを超越したところで、利用者の望まれるサービスを完結する結果として、その方々が望まれる支援を最期まで、施設ができる範囲でやり遂げると言う意味があり、施設の理念に基づくサービス提供ではあっても、それは施設側が考える価値観を家族に押し付けることではないし、そこでは利用者や家族と介護支援者がともに考え、ともにスクラムを組む態度と意識が必要だ。

形としての作法ではなく、意識としての協働を構築する職員のコンセンサスと真摯な態度を育む看取り介護の理解が求められるだろう。

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介護支援専門員資格更新検証総括

介護保険制度改正で規定されている介護支援専門員の資格更新に関わる更新研修を今週月曜にすべて受講し終えた。

資格更新はまさに現場の介護支援専門員がその知識と技術を問い直されたという意味があり、都道府県の資格試験を合格しているだけでは不十分と断罪され、新制度ルール等の理解力が足りなかったり、ケアマネジメント技術が足りない介護支援専門員が実際いるということが問題視された。そこで有資格者のスキルアップを定期的に図る機会を作ったものといえる。

しかし、その研修内容はお粗末である。

もちろん制度改正後、このカリキュラムも設計途上であって完成されていないという面もあるんだろうが、講師の力量も様々で、意味のない内容も多い。演習もやりゃあ良いという問題ではないだろう。

今回受講した講義の中には、ほとんど講義の形を呈していない資料の朗読というものも見られた。書いてあることをただ読むだけなら、講師の下手な朗読を聞くより、受講者に資料を読ませてリポートでも提出させた方がましだろう。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

演習でも、その討議の意味を講師がうまく伝えられていなし、というより講師がその演習の内容を深く理解していないから、演習を行うグループのメンバーが想像して「体裁を整える」という意味のない演習になることがしばしばある。

例えば演習課題で「ここの事例を通して学んだことから一般化を試みる」というテーマで「こんな状態像の高齢者にはこんな課題があることを挙げて」→「そこから必要なアセスメントを考える」となっているものがある。

えっ?ケアマネジメントがケースマネジメントと言われていた時代から、これを研究している我々は、制度がひとくくりにしているのは高齢者一般とか障害者一般とかいうカテゴリーであるが、個々の高齢者や障害者は決して同じではなく、一般化する制度の中で個人に光を当てる為に、社会福祉援助技術を用いてサービスを展開するのがケースマネジメントの意味であると考えてきた。それをあえて個々のケースから一般化するという意味は何よ?

(講師の説明では例えば認知症の高齢者も個々により違いがあるという考えを一般化するという意味だとの苦しい弁明。そんな常識と、このテキストで示されている一般化は意味が違うとしか読めない)

しかも本来課題というものは個別のアセスメントの結果から抽出されるものであり、逆に高齢者の状態像から一般的に考えられる課題を取り出し、そこから考えられる必要なアセスメントを引き出してしまえば、例えば認知症の高齢者や身体障害が主訴である高齢者などのカテゴリーわけを助長して、そこから金太郎飴のような同じプランが大量生産される恐れが強いことを、この講師はきちんと自覚していない。きちんとした説明がないから誤解する受講生もいるだろう。

グループとしてそこは説明を求めたが、グループ内でもわからない説明(というより言い訳)をするのみで、全体会でもそのことには一言も触れない。せめてそういう指摘があったが誤解であるくらいは考え方として示してよいだろう。

演習にしても事務局からは盛り上がって見えるのかも知れないが、そこで語られていることは職場の情報交換に過ぎない事柄がほとんどで「気付き」という点では極めてお寒い現状である、という一面も見逃せない。井戸端会議がスキルアップに繋がるなんていうことはないだろう。

演習をあれだけ時間を割いて行うにしてはお粗末で、ただ時間をそれに割いているに過ぎない場面が多い。演習さえしておれば、新しい研修の形態、スキルアップに繋がる参加型研修ということにはならない。考え直さなくては。

それにしてもパワーポイントの資料ファイルを読み上げるだけの人がいるが、プレゼーションファイルの使い方を間違えていないか?非常に疑問である。

ただ主催側からすれば、内容はどうあれ、定期的にケアマネから受講料を徴収できる義務研修だから、毎年受講者を集める努力をしなくとも済む。きわめて売り手市場的なものになりつつある。

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10月12日の介護給付費分科会の議論から見えるもの。

先週金曜日に行われた「登別・室蘭・伊達・白老、3市1町合同研修会」は盛況のうちに終えることができた。高齢者の排尿障害と、地域における介護サービスの現状というまったく異なる2つのテーマが、うまく融合できたのではないかと感じている。

北海道医療新聞社の熊谷記者の道内の介護サービスの現状という講演は、現行の介護保険制度の問題も含めて、様々な角度から地域展開されているサービスの現状と課題をピックアップされていて大変参考になった。

また氏からは前日の12日に取材した「介護給付費分科会」のホットな議論の情報提供もあって、大変興味深かった。

今日は、氏の講演の中の、その部分に触れた内容について、一部情報提供を行いたい。

すでに10月12日の介護給付費分科会の議論内容については資料等が公開されているのでご存知かもしれないが、議論の中心になったのは療養型から転換する介護老人保健施設(以下、老健と略す)の問題である。

前回の分科会では、この転換型老健については「医療機能強化型老健」という名称は、現行の療養型よりも医療機能が強化されているという誤解を与える、実際は療養型医療施設よりも医療機能は低下しており、既存の老健よりはそれが強化されているに過ぎないのに、その名称では施設の利用者も家族も誤解するだろうということで、名称の変更を強く求められ、結果、国もそれを受け入れ、「医療機能強化型老健」という名称は12日の分科会を最後に以後使用せず、正式名称が決まるまでは「療養型医療施設から転換する老健」(本稿では以後、転換型老健とする)と呼ぶらしい。

ところで今回の給付費分科会で議論の中心にななったのがこの転換型老健の介護報酬である。当然これは介護療養型医療施設が廃止になることに伴ってできるもので、対象者も現行の老健より医療依存度の高い利用者が想定され、介護報酬も既存の老健とは別に「高く」設定される、と考えられていた。

しかし今回国側が示した案では、転換型老健の新報酬は設定されず、加算でみる、ということである。報酬を新たに設定すれば法律を変えねばならない等の煩瑣な手続きが生じることがその理由らしい。

そしてこの加算は転換型老健のみに適用されるということであるが、委員からは「加算ならば既存老健にも適用すべきである」という意見が出されたようである。

方向としては転換型老健は現行の老健の報酬に加算で対応して、現行の老健より医療機能を強化して、療養型廃止で行き場を失う比較的医療依存度が低い利用者の受け入れをできるようにするというものだ。国側からすれば、この範囲を既存老健にも広げてしまえば在宅復帰機能が吹っ飛んでしまうという危惧があるから加算なのに転換型老健にしかその算定を認めたくないというものだろう。

給付費抑制策の結果であるところの療養型を廃止して、他施設に転換するという無理のひずみがここにも表れているということだ。

また「介護施設等の在り方に関する委員会」の意見書に関連した介護職員の待遇改善問題を受けての議論であるが、このことにより一部関係者には次期介護報酬のアップという期待があるようだが、基本的に報酬をアップする財源は全体の介護サービスのパイのやりくりする、つまり上げる部分は、どこか下げる部分から持ってくるという考えが基本となっているようである。

そのことは国側が「給付費が適切に介護職員に分配されているのかという点をまず検証してから介護報酬を考える。そのために経営実態調査の結果が出てから具体的な検証作業に入る」としている点が重要になる。

つまり施設サービスは収益率が下がっているとは言っても、いまだに10%に近い、あるいはそれを超える収益を上げている施設が多いということになれば当然次も報酬は下げるという論理である。特にターゲットは、これ以上整備を促進しない「多床室」の報酬であることは間違いなく、この報酬は下がることはあっても、上がることはない、というのが現状の国側の考え方である。

過剰な繰越金を毎年計上している施設の経営者は、そのことが自らの首を絞めることになることをきちんと自覚して、適切な人的配置と高品質なサービスに努めねばならないことを自覚してほしい。

それに加え、国側に言いたいのは経営自体調査を行うのなら、その際には会計をきちんと統一した上で、その結果を評価すべきであり指導指針、会計基準、その他の会計が混在した状況での評価では正確な診断はできない。

同時に収益率のアップの実態が実は介護職員の募集に対する応募がなく、必要な人員配置が配置できない結果として、やむを得ず少ない人員配置でサービスを回している結果ではないかという検証もあってしかるべきで、短絡的な評価で報酬を下げてしまっては、この国の将来には、介護を職業にしようとする若者はいなくなるだろう。

こういう厳しい状況下の議論の中で、医療系団体の代表委員ばかりが議論の中心になって、老施協代表員の発言が極端に少ないように思う。これは議論の中心が転換型老健である今回や前回に限らない。国に相手にされていないのか?

老施協については何かと会員から不協和音が聞こえる昨今であり、政治に偏る姿勢を批判する向きもあるが、こうした厳しい状況では政治力も必要であることは間違いないと思う。しかし現実にはその総合力は十分機能していないのが現状で、それはイエスマンで固めた側近政治の限界としての結果ではないかと危惧する。

組織の強化にはもっと視野を広げて、適材適所の人材登用が不可欠なのだが・・・。

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masaのラーメン道・番外編〜羅妃焚(ラピタ)岩見沢総本店・味噌ラーメン

140ae7a7.png母が倒れて1月が過ぎている。先週の金曜日に2度目の手術を行ったが、いまだに意識が回復しない。先週はその手術のため、木曜の夕方から金曜にかけて有給休暇を取り祝日の今週月曜まで岩見沢の実家で過ごした。

そのほか、ここ1月の間は、金曜の仕事を終えたあと実家に帰り、日曜の午後に登別に帰るという生活を続けている。ただ今週と来週は週末も予定が詰まって帰ることはできない。

実家といっても一人暮らしの母が倒れて入院中だから、誰もいない場所だ。僕の家族も子どもの学校や部活があるので一緒に行くわけではない。

ということで週末は僕自身が一人暮らしのようなものだ。そうなると食事が問題であるが、まるっきり料理ができないわけではないが、どうも面倒くさい。そこでほぼ毎回、夜の8時過ぎ(面会時間が8時までなので面会から帰る足で)スーパーに行くと、弁当類が半額になっている。

そこで半額の弁当と翌朝分のサンドイッチなどを買って、夕食と朝食としている。1食300円程度の食費である。ただし昼は豪華(?)に外食が常である。

とはいっても僕の場合、ほぼ毎回ラーメンを食べている。

学生時代にうまいラーメン屋にはよく通ったが、当時の店がなくなっていたり、店主が変わって味が変わっていることも多くて、新たなうまい店を捜し歩いていた。

結果、現在ほぼ毎日ここ羅妃焚(ラピタ)岩見沢総本店の味噌ラーメン(画像)を食べている。間違いなく今現在、味噌ラーメンでは岩見沢NO1である。濃厚なスープの深い味、トロトロの3枚肉のチャシューが普通のラーメンに3枚も入って680円は超お得である。

固めの麺もよい感じだ。これほどの味噌ラーメンは残念ながら登別・室蘭圏内にはない。

注目したいのは、もやしが入っていない点だ。味噌ラーメンには「もやし」というイメージがあるが、ここの味噌ラーメンを食すと、もやしの味が味噌の味を損なっていたかがよくわかる。白髪長ネギだけのシンプルな野菜具材もスープの自信の表れだろう。

具はそのほか、メンマ、なると、味玉子(半分)。

サイドメニューも豊富で、小丼(とはいっても量は結構多いので気をつけたほうがよい)がおすすめ。長沼のかねひろジンギスカンを使ったジンギスカン丼も絶品である。普段400円のドンブリがタイムサービスや曜日サービスで150円から200円で食べられる曜日と時間があるので(土日祝祭日除く)これもうれしい。

場所は札幌から旭川に向かう国道12号線沿いで、36号線との交差点から3分ほど(大きな交差点を2箇所過ぎる)旭川方面に進むと右手にある。不思議なことにほぼ大きさの同じラーメン店と軒を並べており駐車場もほぼ同じスペースであるのだが、隣のラーメン店の駐車場ががら空きで、羅妃焚だけが満車であることは珍しくない。

お昼時はほぼ行列ができると考えて間違いない。僕は昼を少しずらしていくことが多い。

岩見沢で味噌ラーメンを食べるのなら、ここで間違いないだろう。

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野球と学校の勉強、どっちが大事だ!!

明日、地域ケアマネ会の3市1町合同研修会が開催される。2講目の講師をお願いしている介護新聞の熊谷氏は、取材で今日開催されている介護給付費分科会も傍聴されているとのことで、その内容も聞くことができるだろうから期待して良いと思う。

今週はじめ、当日の配布資料作りを行ったが、A4版20ページの量を製本したので結構な手間になった。その資料は、原本を担当事務局(今年は私の所属組織)が作り、各ケアマネ会に送付して、それぞれの参加会員の分を、それぞれの地域会が製本し、当日の受付も地域会ごとに行う。会員は参加無料であるが、非会員の参加についても統一した取り決めではなく、各会の判断で、年会費を納めてもらって参加していただいたり、参加費を別途徴収したり、会員と同様の無料参加を認めたり、各会の裁量で自由である。

のぼりべつケアマネ連絡会の場合は、製本等の費用に会費が使われている事情を鑑み、基本的に会費をいただき会員として登録してもらった上で参加してもらうことにしている。ただ年会費といっても月100円、年間1.200円であるから、この額を支払えば、今回の合同研修会だけではなく、その他の定例会や研修会にも無料参加する権利が得られので、かなりお得と考えている。

今のところ参加予定者は、研修会が120名強、懇親会は40名弱である。

ということで明日、午後からこの研修と終了後は懇親会である。そして先週も書いたが、翼日曜からは2日間の(あまり勉強にならない)介護支援専門員更新研修の後期日程受講である。この研修で使うテキストは「居宅サービス計画作成の手引き」であるが、当然のことし書かれていない手引きで何か勉強になる研修となるんだろうか、大いに疑問と不満を抱えての受講となる。

機嫌と気分によっては、講師に意地悪な質問でもしちゃおうかな、と考えているところだ。しかし研修終了日には、そのまま札幌ドームにクライマックスシリーズ第3戦の応援に行けるので、程々にしておこう。

ところで先日、夕食のとき、月曜の研修後、ドームに行くからその日の夕食もいらないことを話していると、高2の次男が怒った。「ずるい」というのである。

この次男とはよく野球観戦に一緒に行く(もちろん日ハムファンである)。去年も日本シリーズ優勝の瞬間は彼と一緒に観戦していた。(ヤクルトファンの長男はその時は、修学旅行から帰ってくる日でいけなかった)

今年は開幕直後の西武戦1試合だけ、長男と次男と3人で観戦しているだけで、それ以外はドームに連れて行っていない。その理由は、長男が受験生で忙しいし、次男も部活で行く暇がなかったということで、ケチっていたわけではない。

僕が行くクライマックスシリーズ第3戦は月曜のナイターで、さすがに平日は学校だし(去年は学校を休ませてつれて行ったが)、受験生の長男は勉強を放り出して行くとは言わないだろうし、油断していた。次男は是が非でも行きたかったらしい。

:「だけど平日だし、ナイターでも午後から休まなきゃアいけないしょ!!」
次男:「休めばいいっしょ。」
:「バカモン、学校と野球とどっちが大事だ。」
次男:「野球に決まってるしょ。学校は毎日あるけど、クライマックスシリーズは今だけだよ。しかも来年も出られるって保障ないっしょ!!これを逃したらクライマックスシリーズと日本シリーズはドームで応援できるのは何年先か分からないんだよ。」

普通の父親なら屁理屈言うな、とでも怒るのが正しい選択と思う・・・。しかし、こういわれると納得してしまう馬鹿親父である。

学校の勉強で得られないものが、球場の中にあるのも真実である。

ということで、学校を休ませてドームに一緒に連れて行けるように息子の分もチケットを購入しておけばよかったと大後悔している。しかしこのプラチナチケットは今からでは、とてもとれない。

ということで「すまん。日本シリーズに出られたら、必ず連れて行くから。」と約束して今回はあきらめさせた。

やはり我が家の結論は、学校の勉強よりも、野球観戦が大事だという結論になった。

ウン間違いない。勉強などいつでもできるんだ。人生にはそれ以上に大切なものは星の数ほどある。

ということでまだ出場チームも決まっていない今年の日本シリーズの先行予約が昨日から始まったが、昨晩PCの前で必死に受け付け予約を行う僕であった。抽選に当たると良いのだが・・・それ以前に、ファイターズがクライマックスシリーズを勝ち上がってくれないと困るが・・。

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施設見学の必要性と意味

職員研修の一環として、他の施設や介護サービス事業所を見学するということがある。

措置費の時代は、こうした施設見学を毎年のように研修計画に入れて、全国の施設を巡ることを、職員旅行を兼ねて行っていた施設もあるようだ。

僕の施設も、温泉地にあるということ、ホームページで割合知られているということもあって、結構見学者は多い。ただし、こちらも忙しい身であるから僕が全てに対応はできない。

それと漠然と見学と言われても何をどのように案内して説明すれば良いのか戸惑うこともある。

テーマを絞らない見学では、せいぜい1時間や2時間で、その施設のケアの中身など見られるはずもないし、実態は分からないと思う。せいぜいハードを自施設と見比べるくらいだろうが、そういう意味では新型特養でもなく、特別立派な設備を持っているわけでもない当施設は、あまり見て勉強になるようなこともないと思う。

その中で行われているケアサービスに関することになれば、これは他と比べてよい点、悪い点、様々だろうが、わずかな時間では評価は難しいだろう。

看取り介護の方法だって、設備を見て分かるものではない。システムとして理解してはじめて実践の方法やケアの視点が理解できるものであり、これは見学で終わるより、僕のレクチャーをどこかで聞いた方が良いかもしれない。

だから僕の施設では、ある時期から、特に目的が定まらない他施設見学はやめている。

相手にも迷惑がかかると思うからだ。しかしテーマがあって、どうしても他施設の状況を肌で感じたいという場合は、旅費を惜しむことなく複数チームを様々な施設に派遣することもある。

ソフト面でのユニットケアを取り入れようと模索していた頃は、数チームが道内の様々な施設に、既存施設のユニットケアの方法を研究するという目的だけで、多くの職員を派遣した。そのことが今の実践の基礎になっている。(なかなか素晴らしい施設のケアには追いつけないが・・。)

明確な目的やテーマを持った見学なら受け入れ側も対応に迷うことはないだろう。単に旅行の途中で、公費支出の理由付けで寄り道ルートの一つであるだけの施設見学ほど、受け入れ側にとって迷惑なものはない。

そういう意味で、施設見学の依頼がある際には、僕は、当施設がさほど先進的なハードを持つ施設ではないし、むしろ古い器で、ハード面ではユニットケアの視点に欠けたしつらえであること、そのため特に勉強になることはないと思いますよ、という返答をすることが多い。

だからといって断わるわけではないし、実際の見学に際しては、担当職員等も真摯に対応するように努めるが、時間つぶしの見学依頼だけはやめていただきたいと思う。観光のついでで施設見学をして簡単な復命書を出せば公費で旅行ができる、という意味での見学なら受け入れ側の職員に無駄な時間を消費させているだけの結果になることも考慮していただきたい。

ただしテーマが明確であったり、どうしても、この施設に来て見てみたいという考えがある方々は歓迎である。

行っていることについては何も化粧することなく、あるがままを見ていただくことはできるだろう。その結果、サービス内容が見学者の期待に添えないと感じる場合もあるだろうが、それはそれでまた評価の一つであるから、特に問題とは思わない。

見学者の気づきが、我々のサービス向上の手助けになる場合もあるし、それは大歓迎である。

そういう意味では受けいれ側も緊張感を持って、聞く耳を持って見学者に対応すべきであろうと思う。

それからもう一つ大事な点は、見学に訪れる施設というのは、一方では利用者の皆さんにとって家庭に変わる生活の場であるということである。本来家庭に見ず知らずの人々が大勢で見学に訪れるということはあり得ないし、利用者は来訪者の無遠慮な視線を我慢すべき存在でもない。

この点は、見学を行う側も、受け入れる側も最大の配慮があってしかるべきだし、少なくとも10人、20人という大人数の施設見学というのは避けるべきだと思っている。

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民間経営がもたらしたもの、もたらすもの。

介護保険制度がそれまでの措置制度と大きく違う点は、居宅サービスの部分には民間の営利企業が経営主体として参入できるようになった点である。

居宅サービスとはいっても、実際には生活の本拠であるグループホームは生活形態は施設サービスと変わらず、ここにも民間参入ができるようになっており、これがグループホームの爆発的な数の増加に繋がっている。

この流れが特区での施設サービスへの株式会社参入を認める方向へと進み、いずれ施設サービスへも積極的な営利企業の参入への流れとなっていくことは容易に予想される。

民間営利企業の介護サービスへの参入の一つのメリットは、それによりサービスの供給主体が増えることによって、サービスの総量を確保することに繋がるというもので、事実、訪問介護サービスやグループホームなどでは、結果としてたくさんのサービス供給主体が新たに生まれて「制度あってサービスなし」という懸念はごく一部の地域、一部のサービス種類の問題としては残っても、全体としてはサービス供給は充分な量が確保されたといってよい。

しかしもう一つのメリットとして考えられた費用対効果の面から言えば、民間の方がより安いコストで質の高いサービスを提供できる、という面については、結果的に介護労働の低コスト化による介護職員の低賃金化と、大手経営者だけが太り、現場職員は低賃金で悲鳴を上げるという構図に繋がっており、同時に経営側の過度な利益追求に関連した不正請求が膨大な額に膨らむという負の結果をも生み出したといえる。

また民間の経営理論が介護保険サービスと決定的に違う点は、良いサービスの結果が収入(介護報酬)の増加には必ずしも結びつかないという点にあることを、もっと国民に周知すべきである。

例えば、公的機関が経営に行き詰まった「公共の宿」の経営を立て直すために、民間企業に譲渡して経営主体を変えたとする。新たに経営を行うことになった民間営利企業は当然のことながら無駄なコストを省いた経営を目指し、従業員も能力がある必要最低限の人員で経営を行い、かつ新たなアイディアやパフォーマンスで集客を増やして収入を上げる、という2つの面から経営を立て直すことになる。

ところが介護施設を例にとれば、同じ状況が起こったとしても、経営の建て直しは前者の運営コストの削減だけで見なければならず、後者の収入増加は期待できない、というよりあり得ないという点がまったく民間営利産業とは異なる点である。

つまりは収入である介護給付費は、どのような高品質サービスを提供しても、国民受けのするパフォーマンスを行っても増えないし、施設サービスのように利用人数に対する報酬という構造から言えば、出来高が増えるというものでもなく、一定の収入の中で経営を行い、さらに報酬改定で単価が下がれば経営努力に関係なく収入は減るという構図になる。

だから経営コストの削減でしか、収支バランスがとれなくなり、結果的に人件費支出を抑えることが経営手腕になるという、おかしな状況が生まれる。

そうすると、そういう職場に有能な人材は貼り付くわけがないし、他産業に有能な人材は流れ、さらに職員の定着率も低下せざるを得ない。

介護サービスというのは、ある程度、人手が最低限必要で、それがないと、いくら理念や理想が高くてもサービスの質は保たれないという特徴があるのだ。そんな中で、一番大切な人的資源の適切な配置ができないことでサービスの質はどんどん下がることになる。

しかしサービスの質が低下して、劣悪なケアの体質になったとしても、それだけでは報酬が下がるという構図でもない。

ということは、現行の制度体系やルールの中では、職員配置を最低限にして、技術や知識が低下しても安いコストで雇える人材を登用し、ルールに外れないぎりぎりの最低限のサービスをしている施設のほうが、有能な人材を配置し、高品質なサービスを保つ為に人数の確保に努めてケアサービスに努めている施設よりも収益が上がる構図と言えなくもない。

質の悪いサービスの収益が、質の高いサービスを上回るという逆転現象を生み出し仕組みになっているのが介護報酬の体系であるといえる。

しかも質の高いサービスを提供している施設では、利用者の要介護度も維持、改善される確立が高くなり、要介護5で入所された利用者が、半年後には要介護3になるというケースも多い。するとこの方の介護報酬単価は下がるわけで、サービスの結果、利用者の介護度の軽度変更は収益源に繋がる結果とイコールになる。

何もしないで利用者を寝たきりにして、軽度介護者を半年後に、寝たきりにして要介護5にした方が経営的にはよいという矛盾をも内包している。この1点をとって考えても、施設サービスに安易な民間企業の参入を図るべきではなく、一定の質と使命をもった経営主体に限定される必要性はあるのだ。

しかしそのためには社会福祉法人自体が、自らの使命を充分自覚して、サービス展開する責任を社会全体に示す実践が欠かせないであろう。

それを忘れたら、社会福祉法人不要論は世論となる。

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帰宅願望は「いつものこと」だから対応は後回し?

先日、父の1周忌法要を実家で行った。母が急病で倒れたため、長男である僕が主催する形となったが、法要に参加するのは、弟夫妻以外は、父の兄弟姉妹が中心である。

亡父は10人兄弟の長男であり80歳で亡くなったが、その弟や妹達も、当然のことながら随分年をとったと感じた。まず法要の後の供養膳の際に、飲むお酒の量が、むかし祖父や祖母の法要のときとは違って随分減っている。また畳に膝を折って座れないため、椅子が必要な人も複数いる。

話題も年金や病気、孫のことで盛り上がる。年月の流れを、こんなところで感じていた。

さて、そういう状況のように親戚や知人が高齢化しているということは、それらの人たちが医療機関に入院したり、施設に入所したりすることもあって、個人的なお見舞いや面会のために、僕自身が医療機関や施設を訪ねる時がたまにある、という状況が増えている。

そういう時は、福祉関係者としての意識を捨てて、なるべく家族や知人として振舞おうと思うのだが、なかなかそうもいかない。あの看護師の言葉遣いは問題あるな、とか、あの介護職員の対応は違うだろうとか、窓口の職員もチームに介護チームの一員であるという意識の薄い施設だなとか、いろいろな見方をしてしまう。

しかし、いくら専門知識を持っているからといって、他の施設の運営上の問題に直接口を出すなんていうことはないし、介護サービスの方法に意見するということもない。ただ感じている、思っている、というだけで、福祉関係の職業に就いている、ということも気取られないように注意はしている。しかし、時には少しは物を言いたくなることもある。

先日、ある施設に親戚が入所したということで、たまたま仕事で近くまで行ったので、挨拶に寄ってみた。僕一人ではなく、その方の家族とご一緒して、施設内で取り留めのない話をして帰ったのだが、その最中、ホールで、ある一人の女性利用者の方が手に荷物を持って「帰りたいのでバスの停留所の場所を教えて」と話しかけられた。

当然、一目見て、入所利用者の方で、認知症があって帰宅願望から発言していることは充分理解できた。しかし、僕が勝手に対応しても施設の方々に悪いだろうと思って「バス停ですか、僕遠くから来ている者で、この辺の地理に詳しくないものですから、分かる方を連れてきますね。」といって、近くにいる介護職員に対応を求めるべく声をかけにいった。

ところがである。そこの職員の言うことによれば「あの人は、いつものことだから放っておいて下さって構いません。問題ありませんから。」「でも少し話を聞いてあげた方が良いのではないですか」「大丈夫です。それに今、それより優先的にしなければならないことがありますから、あの人に関わってられないんです。」

介護の現場の職員が常に忙しいことくらい承知している。しかし今目の前で起こっていることは介護職員にとって日常茶飯事で特別なことではないと言っても、当該利用者の立場から見れば、常にバスに乗って帰りたい気持ちを訴え続けているのに、誰も真剣に耳を傾けてくれない、心を寄り添わせてくれないということではないのか。

こうした帰宅願望を訴える人の心に寄り添う対応が、対応の優先順位が低いことだという意識がある職場だから、その施設では、いつも帰宅願望を訴え続けるような混乱と不安を持っている人がいる、いうことではないのか。

帰宅願望が訴えだけで、実際に外に出ようとしたり、危険行動がないから問題ないと考えるのは間違いである。

そうした不安を抱え続ける方の心の中身をしっかり把握して、不安を解消する為にきちんと介護者の耳と心を傾けることが必要な支援であり、それが「寄り添うケア」の原点である。

このような状況を「いつものことだし問題ない」と考えるような麻痺した感覚が、普通の高齢者を混乱の世界に引き込み認知症を作り出してしまうし、混乱している認知症高齢者により添えないから、周辺症状が改善しない人たちが誰も聞いてくれない魂の叫びからパニックが生まれるのだ。

優先順位のつけ方が間違ってはいないか、もっとケアの原点を見つめなおしてほしい。

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masaのフォーク道6〜ああ早稲田

今日紹介するのは、僕にとってはただ1曲だけ、同級生と協同作詞で作った唄である。

高校1年生の夏に、名寄高校から岩見沢西高校に転校した。そのときクラスメートになった一人に長沼町から通っているウチヤマくんがいた。

ところで僕らは共通1次試験の第1期生である。僕が現役として大学受験した年に、共通1次試験が導入された。

名寄高校は今でも進学校として名高いだろうし、自分で言うのもなんだが、僕も名寄高校時代は成績も上位であったし、国立大学の合格を目指す組に入っていた。

しかし(言い訳になるが)岩見沢西高校に転校したとき、使われている数学の教科書が違っており、名寄高校では2次関数の前にベクトルを習うのだが、岩見沢西高ではベクトルが先で、関数が後になっている教科書が使われており、僕が転校したときには2次関数の授業は終わってしまっていて、独学で学習するしかなく、これが数学の躓きの始まりとなった。

ベクトルは達人と言われるほど難問も解けたが、関数がさっぱり分からなかったのである。

まあ田舎から、それなりに8万人口がある市にやってきて、遊ぶところがたくさんあって、勉強に身を入れなかったということが最大の原因だが、関数に躓いて数学が分からなくなるのは自分のせいではなく転校と教科書のせいにして、文系も理数系もすべて網羅しなければならない共通1次をあきらめ、文科系の私大でもいいか、と思い始めていた時期に、かのウチヤマくんが、早稲田を目指していると知った。

自分の行く道はまだ分からなかったけど、明確に志望校があるウチヤマくんに頑張れよという気持ちがあった。

そんな話題で盛り上がったとき、何かの拍子にウチヤマくんから、自分の応援歌を作ろう、という話になって、詞は自分が書くから、曲を作ってくれということになった。

そのときウチヤマくんが作ってきたのが、この唄の1番である。

ただ曲にするには1番では格好がつかないと思って、2番は僕が歌詞を考えた。だからこの曲は作詞がウチヤマ君(1番の歌詞)と僕(2番の歌詞)の協同で、作曲が僕である。

応援歌というより、すこしファニーな調子で書いた記憶がある。それは1番のウチヤマくんが書いた「慶応の馬鹿ども やじる夢」というフレーズからの影響だと思う。慶応出身者が見たら激怒されるだろう。

もちろん曲は応援歌風に仕上げている。高校2年の終わりころに作った唄である。

ああ早稲田

昨日見た夢 何の夢
大隈講堂(おおくまこうどう)仰ぎ見て
一人涙を流す夢
熱気あふれる神宮で
慶応の馬鹿ども やじる夢
ああ遠のく 早稲田の森よ
君に捧げた あの誓い
今では 過去のものなのか

やると決めても 次の日は
必ず意思は くだけてる
人の性(さが)の 空しさよ
今日は鉢巻 締めてても
明日は挫折が 待っている
ああ遠のく 早稲田の森よ
僕は必ず やってくる
そのとき 待っていてくれよ

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情報伝達の難しさ

先月初めに倒れた母の意識が回復しないまま、2度目の手術が行われた。

意識レベルの回復がないのは水頭症のためで、脳ずい液を排出するシャントを埋め込むためである。そのため今日は有給休暇をとってずっと病院で待機していた。

母が倒れた直接の原因はくも膜下出血で、その手術の際には、レベル2の出血で9割方、後遺症が残らず回復するだろうと言われたが、その後様々な経緯で脳梗塞を発症して現在の状況になっている。

不幸にも、母は確率的には「1割の人しかならない」悪い状況になってしまったということである。今後もリハビリができるような状態まで意識レベルが回復するのか、このままリハビリも適応でないほど意識レベルは低いままになるのか、後は神のみぞ知る。

確率ほど、悪いほうに転がった立場のものからは不確実で、恨みがましいものはないということだ。

今回の経緯については、担当医師から随時、丁寧な説明を受けて僕なりには理解しているが、これをさらに、僕の口を介して親戚に伝えるときには、なかなか本意が伝わらず、医師の処置に疑問を投げかける親族がいたり、医療ミスを疑う感想をもつ親族もいたりして、情報の伝え方とはいかに難しいかを実感している。

ある程度、医療的な知識を持った僕でも、うまく伝えられないのである。もちろん伝達媒体が電話であるということも理由だろうが、それほど言葉で伝えるということは難しいものだということだろう。

介護や医療の現場でも、伝えることの難しさを知るものが、言葉だけではなく様々なコミュニケーションの方法を工夫することの大事さを知っている。

このことを再認識しながら伝えることを職業としている身であることを全身で感じている。

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