masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

福祉とは何か〜言葉の意味から考えたこと

福祉という文字の、福も祉をその意味は「しあわせ」だそうである。

しかし、もっと深く意味を追求すると、「福」は主に『物とお金の豊かさ』を表し、「祉」は『心の豊かさ』を表す言葉らしい。

つまり物質的な豊かさと精神的な豊かさを併せ持っているという意味で、さらに物質的な豊かさが先に来ている、という言葉の組み合わせである。

ある意味で、これは当然で『物とお金の豊かさ』といってもそれは贅沢な欲求充足を意味しているのではなく、もともと福祉の対象は「貧困」であったことに由来しているということだろう。

貧困と一口に言っても、今の時代の概念からは考えられないほど、人の1次的欲求さえ満たすことが困難で、命を繋ぐ食さえ手に入れることが難しい人々がたくさんいた時代からの貧困との戦いである。

子供の福祉だって、もともとは食を確保する為、骨格が固まる前から強制的に劣悪環境で労働に従事させられていた子供たちを、そこから解放するために始まっている。

だからこの「福」が持つ「物とお金の豊かさ」とは重い意味を持つものなのである。

ところで、マズロー(米国:心理学者)は、人のニーズの階層を次の5階層に分けて考えた。

第1段階は飢えや渇きといった生命の充足を得たいという生理的ニーズである。
第2段階は安全を守ろうとする防衛的ニーズである。
第3段階は家庭や学校、職場等の集団への帰属ニーズである。
第4段階は人格を認められたいという自己尊重のニーズである。
第5段階は真理や正義、善や有意義性を求める自己実現のニーズである。

そして基本的には1段階から順に下層ニーズが満たされてはじめて次のニーズを実現する欲求が生ずるとして、社会福祉では、諸サービスを通して第4段階までの多様なニーズに対応していくことが必要であると唱えた。

だから基本的な生理的欲求を満たすための援助は必要不可欠であるし、その意味からもWelfareを日本語に約した先人は、幸せの中でも物質的豊かさを現す福という文字を頭文字に当てたのではないだろうか。

幸せなことに、今、我々は明日の食の心配をすることはないし、飢えや渇きの不安におびえることもない。マズローの言う4段階までのニーズが満たされているから、人の福祉に関わることができるんだろう。

極端な話「ひかりごけ事件」のような極限状況に置かれたときに、我々には、人を助けようという欲求や動機など生まれるわけがないのである。

だからこそ、我々は社会の隅々まで様々な制度や支援の光が届き、全ての人が他者を心に留め、いたわり、敬う環境が守られる社会を必要としている。

そうした意味では社会福祉政策は、資本主義社会で格差のついた社会の富の再分配施策であるはずで、一部の富裕層だけに集中する特徴を持つ社会的な財や富を、社会福祉サービスという形でそこから切り取って一部を、社会的弱者にも届けようとする意味があるのだ。

生産年齢に組み込まれていた時期における、現役時代において、資本主義の弱肉強食論理の中で負の遺産を背負った人々が、老年期にもその遺産を引き継いで、その階層独自のサービスしか受けられないというのは劣等処遇論理そのもので社会福祉ではない。

ところが今この国の向かう方向は、現役時代の負の遺産を引きずって、富めるものはよりよいサービスを受けることができるが、貧する者は、その自己責任で使えるサービスも限定される。

介護保険制度が社会福祉制度でない、と一部で言われているのは、そういう意味である。

我々が老年人口に組み入れられる頃には、年金は引き下げられ、税金や低所得者層の負担が増大し、ますます住みにくい社会になっていくだろう。そんな社会で豊かな福祉の心は育っていくのであろうか。

「美しい国」は富める一部の人々の間違った現実認識である。それは今現在、幻想でしかない。
国権の最高機関で政治家の金の使い方が最重要問題として審議され、社会の片隅で通院費用や介護費用の捻出に苦しんできる人々がいる社会が「美しい国」であるわけがない。

そんな言葉を軽々しく口にするな。その前に社会の片隅で、貧困や周囲の無理解、偏見や差別で十分な介護や社会的支援を受けられない人々の声を聞け。


格差社会をまず何とかしていかなければ、この国の未来は美しいどころか、おどろおどろしい社会になってしまう。

実地指導の真っ最中である!!

タイトルの通り、介護保険上の介護老人福祉施設の実地指導と、老人福祉法上の社会福祉法人と特養の運営指導監査が今朝10時から行なわれている。

今、昼休みで先ほどから食事タイムに入ったが、1時から再開なので、ブログなんて書いている場合ではないのである。

こんなときにブログを書いている施設長は、職員から白い目で見られるかもしれないのである。それでも、あえて日常を崩さない為に、短くなるかもしれないが書いているという意地っ張りな施設長が僕である。


実地指導、運営指導監査とはいっても、利用者には関係ないことなので、ホームの日常は変わりなく流れていくし、介護に携わる職員も普通に業務をしているのだ。

昼食は、指導担当者は施設で提供される食事を自己負担で摂る。食事内容の確認も重要な視点ということだろう。たまたま今日はパン食であった。フレンチトーストとスープと飲み物と副食といった組み合わせである。

実地指導で外部の指導担当者が来るのだから、普段一番多い和食メニューのほうが良いのでは、という意見もあるかもしれないが、一番大事ことは日常の継続で、特別な対応をしないほうが良いのだから、実地指導の日を中心に献立を考える必要はないので、あえて変える必要はない。普通の状態を見てもらえばよいのだ。

長年、指導を受けてきても、完璧に全てクリアしているわけではなく、いろいろ細かな点では指導事項が出てくる。書式上の表現のうっかりミスもある。

ただ普通に適切に運営しているんだから、なにも構える必要はないし、細かな指導事項は良い勉強になる、というふうに考えている。

午前中、今までの中では特に大きな問題はなかったが、例えば介護保険に切り替った年に、当施設では、老人福祉法で定められている管理規定をそっくり介護保険で規定されている運営規程に変えて、管理規定を廃止した。

しかしよく考えると老人福祉法はなくなったわけではないので、これは勇み足だ。管理規程に定めるべき内容がすべて運営規程に入っていれば良いのかも知れないが、内容上そうなっていない部分があり、管理規定をなくしては駄目だよ、という口頭指導を受けたところで、これは納得である。

それ以外は重要事項説明書の記載の数値の誤記だとか、細かな部分で特に問題はない。

リスクマネジメントに関しては委員会での検討事項で、単独事故と介護の事故をはっきり区分して検討するように助言を受けた。もっともである。ついでに夜間帯に人数が少ない際、マネジメントはしっかりできていて対応をしていても、複数のコールが重なって駆けつけられなかった場合の事故等の、今後の対応をどのようにすべきかも質問し、助言を受けた。

わからない点、不明な点、疑問点を直接聞くことができるのが実地指導の本当の意味である。

もう始まる。時間がない。後の時間に表の掲示板で情報提供しましょう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護とは何か〜原点に返って。

乙武 洋匡さんは、その著書「五体不満足」の中で『障害は不幸ではないけれど、不便である』と述べている。この言葉を噛み締めながら「介護」の意味について考えてみたい。

介護の「介」とは、心にかける、気にかける、仲立ちをする、等の意味がある。
そして「護」は、まもる、かばう、ふせぐ、たすける、という意味である。

障害は生活上の不便なんだ。

そこを我々は「心にかけて、護り助ける」つまり、身の回りの行為(セルフケア)に不便や不自由をきたした人の、支障のある部分を補い、支援するとき、相手の心の負担にならないように、そっと手を差し伸べて彼らの彼ららしい生活が獲得できる手助けを、彼らの尊厳やプライバシーを守りながら行うという意味だろう。

だからいくら技術が優れて、おむつ交換を手早くできても、その行為が相手の心の負担になるような支援行為なら「介護」にはなっていないということだ。

人間食器洗い機みたいなジェットバスに入って体がきれいにはなっても、湯船に浸かる気持ちよさを感じることができないような行為ならば、それは入浴介助ではない。

介護とは、ある時期自立の支援ということが重要な課題になる時期もあれば、それが全てではなく、ある時期は「安らかな生活、安楽な死への入り口での時期における支援」という場合もある。

そこで大事なのは、高齢であろうが障害があろうが、その人らしく、その人が望む普通の暮らしが出来るように支援することだ。特別な事ではなく「人として当たり前の生活」を支援する事だろう。

例えば、下着が便や尿で汚れたら、すぐ取り替えて綺麗にして気持ち悪い状態を続けないのが「当たり前の生活」で、時間がくるまで取りかえるのを待ってもらうのは「非常識」の世界であり、そのことを忘れないのが介護の本質であり、自立支援とは機能を良くすることだけを言うものではない。

そういう「当たり前の生活」をごく普通に様々な障害のある方に提供するお手伝いが介護なのだ。

特別な事を、これこれしているから私の施設や私の介護は素晴らしいぞ、と思っている専門家がいるとしたら、それは大きな間違いである。特別な時間より普通の時間のほうがずっと長いのである。

そして体の機能も、朝起きて、夜寝るまで、様々な日課活動を人との関係の中で自然に使うことによって維持している。つまり身体機能も「体」だけの問題ではなく「心」も含む問題で、どういう「生活」「暮らし」がそこにあるのか、ということが最も重視されるべきである。それも特別な生活ではなく、ごく当たり前の人間らしい「暮らし」である。

そういう当たり前の生活とは何か、それを考えるのが1番大事で、そんなものを考えるのに専門家は必要ないし、そもそもそんな専門家はいるはずがない。なぜなら本来、個人の生活とはもっとも個別的なもので、その専門家は当事者自身しかなり得ないからだ。

福祉や介護の専門家と呼ばれる人が、その人の価値観で作りあげる「形」が、全ての人の幸福とかニーズと結びつかないことは至極当たり前で、むしろそのことが、世間の常識が施設の非常識という状況を生む最大のネックとなるのである。

そういう意味で、介護とは、私がして欲しいことと、私が望むこと、そして私が嫌なこととは何なのか、それが他人の感情と違う部分があるのかをごく常識的に考えて「嫌なことをしない」ところから出発するのではないだろうか。

医療行為については、何度も主張しているが…。

最近の話であるが、とある施設(特養ではない)の管理者の方とお話した際「家族ができるインシュリン注射を介護職員ができないという理由で、入所できない人がいて、行き場のない人がいる。こんなことは問題で、私は看護師がすべてできなくても受け入れている」ということを聞かされてことがある。

僕はそれは少し違うし、問題があると思って、反対意見を述べた。インシュリン注射を介護職員ができないことでひき起こる問題を、いつまでも放置できないのはその通りと思うが、だから現状で、それを行ってよいという判断も違うと思うのだ。ただし問題解決に向け提言はしていかねばならないと思う。そういう意味で、少し長くなるが医療行為について、またここで意見を述べさせてもらう。

僕は施設での医行為について、コンプライアンスの視点が重要で、経管栄養の管の交換の問題も過去のブログ「介護職員が腹部カテーテル挿入〜その問題の本質。」の中で、問題と指摘された施設の管理者の「意識が低すぎる」とわきの甘さを指摘している。

しかしそれは、問題とされた行為自体を介護職員が行うのは将来的にも駄目である、という意味ではない。

現行のルールの中で、介護職員には出来ない行為に該当するとされる可能性が高いのに「誰でもできるだろう、完全に黒とされているんではないだろう」という意識で、その行為を日常化する状況は、正当な「介護職員が出来る行為を拡大してほしい」という主張にまで水を指す。と言っているに過ぎない。

むしろグレーゾーンが未だにあることも問題であるし、もっと介護職員ができる行為を広く認めて欲しいと思っている。

腹部カテーテル挿入問題について、それを行なっていた施設は「国は管の装着が医療行為に当たるか否かは明確にしているわけではない」と主張してたが、その後、「胃ろうや鼻腔チューブからの栄養・水分補給については、医行為に該当する。」とあらためて指導通知が出されたが、僕はこの通知で示された判断自体をも正しいと思っているわけではない。

これが現行法上は医行為に該当し介護職員に禁じられている行為である、という現実認識は正しい。しかしそれが妥当な判断で必要な法制上のルールであるとまでは思わない。

管の装着といっても、体に直接ついている部分は医療行為として医師や指示を受けた看護師しかできないということは納得するが、栄養剤と繋がっている部分の管まで、これと同じ取り扱いということには納得はできない。しかし今は認められていないのであるから「できるようにすべきである」という主張は別にするとして、守るべきことは守った上で提言をすべきではないかという意味である。

過去に僕は
「医療行為は有資格者以外がそれを生業として行うことは出来ない。しかし同時に医療行為そのものの具体的内容を明示したものが存在しないのも事実である。それゆえ介護の現場では介護職が行ってよい行為であるのか判断がつかず、混乱し、看護職と介護職の対立にまで発展するケースも少なくない。湿布や軟膏塗布、点眼はどうかから始まり、爪切りや耳掃除まで議論の俎上に上っているのが現実なのである。こんなことで本当の意味で介護職が適切なケアサービスを行えるのだろうか。」と主張した。

その一つの答としては「医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について(通知)」で爪切りや耳掃除、口腔ケアなどは医行為に該当しないと示されたところであるが、しかしこの通知で示された行為はあまりにも狭すぎる。

医師でもある坂口元厚生労働大臣は在任中に「血圧測定もその結果の評価は医行為であるが、測定自体は誰でもできる行為である」と言っていたが、この通知では自動血圧測定器での測定のみが掲載されており、それでは水銀血圧計は駄目なのか、というふうに理解せねばならないような部分もある。考え方を後退させてどうするのか?

一方では在宅において医療器具を装着して生活しているたくさんの高齢者がおり、これらの方々の実際の生活を支えているのは家族の介護があってである。家族の行う医療行為は、生業とならないことで認められるのである。それらの方々が特養に入所した途端、家族が行っていた同じ行為が介護職には許されないのが現実なのである。

痰の吸引の例も然り。一定条件下において認められたヘルパー等介護職の痰の吸引も介護業務として認められたわけではない。つまり業務上の行為としては今もって認められておらず、業務とは別な行為として行える、という解釈に過ぎない。

さらにインシュリンの自己注射が出来ない方に対しては同居家族が代わって行えるが、介護職には認められていない、そのため看護師の配置体制によってはインシュリン注射が必要であるが自己注射が出来ないという理由だけでそれらの方を受け入れることが出来ない施設も存在する。これは果たして高齢社会の介護提供体制として正常な状態なのであろうか。

例えばALSの方の痰の吸引は、口腔内だけでなく人工呼吸器をつけた喉の部分も含み技術を要すため、介護職が行うといっても技術をきちんと持たないとできないし、そのための一定の教育やセーフティネットの構築が不可欠だが、そうした非常に技術がいる行為も条件付とはいえ業務ではない部分では有資格者でなくとも認めておいて、その他の比較的容易に行える行為を単に「医療行為」という枠だけで認めないことは介護の現場である施設等の医療ニーズの高い高齢者受入の障害になるであろうし国民全体の福祉を考えた時そのニーズに合致したものでないことは明白である。

この問題を積み残したままで「介護の社会化」という介護保険以後の国の福祉理念は達成できないし在宅と施設での介護者の出来る範囲が違っていては地域福祉の両輪である在宅ケアと施設ケアの整合性がとれず在宅でケアできた高齢者が医療行為がネックになり施設ケアに移行できない矛盾が解決できない。

介護療養型医療施設が廃止され、それらの施設が転換可能施設に移行したとき、転換施設の多くが夜勤に看護師がいなくても可能な施設であり、重度の医療ニーズにそれらの施設でも対応できないという問題がでてくる。

高齢化が進行し後期高齢者が増え、医療対応のニーズは拡大しつづける。それら増大するニーズに看護師のみで対応するのは不可能であり、国は医療行為の範囲を具体的に明示する努力を行うとともに、医療行為とて時代のニーズに合わせて考えを変えてよく、条件付で結構であるが介護職の出来る行為を広げ必要な高齢社会のニーズに応える必要がある。

これは特定の職種の職益を守るという視点を凌駕した医療ニーズを抱えて生活する人々が安心して生活できる社会システムを構築することであり、特養等の権益を拡大することではなく、高齢者介護の社会システムの一翼を特養等の施設が担える条件整備に不可欠な課題なのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護サービスの費用とは何ぞや〜居住費自己負担を別角度から検証する

一昨年の改正で自己負担化された居住費。
昨年4月に多床室の費用のみ引き下げられたロジックを含めてこの費用設定基準を考えたとき、介護サービスの費用とは何ぞや、という問題が含まれていることに気がつかないだろうか。

つまり、自己負担化された費用の考え方の背景には、介護給付費が介護サービスに対する対価であり、直接それに関連しない居住に関する費用や食費を自己負担させたというものである。

この際、食費は基本食事サービス費を廃止して、栄養管理分のみを別加算することによって、食材料費と食事提供に関わる一部費用を自己負担化した、ということで、その標準額はともかく、方法としてはある意味わかりやすい。

しかし従来型施設の居住費については、これが介護サービス費に含まれていたという考え方であり、居住費の標準額を算出し、標準の自己負担額を従来の介護サービス費から引き算して介護サービス費の減額を行うという方法をとったところである。

すると、それまでの施設サービス費は個室や多床室で違いがあったわけではなく、同額である。当然、居住費をここから単純に引けば、自己負担額の大きい個室のサービス費から引く数字の方が、単価の安い多床室のマイナス額より大きくなるわけで、結果として、サービス費の額は個室のほうが多床室より安く、多床室のほうが高いという状態になるのは当然である。

ところが国はこのことをいわゆる「ねじれ現象」と指摘した。そして、ねじれ現象の是正として4月の多床室単価引き下げ理由にもされたことは衆知の事実である。

しかし、これをねじれ現象であるとする考え方はおかしい。

なぜなら介護の対価としてみるのであれば、その費用は介護給付費としてのみの角度から見るのではなく、施設の収入=介護給付費+自己負担の合計額、と見るべきだからである。労働対価とは本来そういうものだろう。給付費だけにスポットを当てて多床室が高い、というのは間違いだ。

それを無視して昨年4月に多床室の介護報酬のみ下げられた事実は、施設への収入が個室利用者と多床室利用者で差ができたということであり、多床室の利用者の収入が低く見られている、という意味は多床室は介護サービスの単価が低く設定されて良い=多床室のほうが個室より介護の手間はかからない、という論理がまかり通った、という意味である。

そもそも介護サービス費が介護の手間や介護に必要なサービスの経費であると考えたとき、個室と多床室とで差があるのだろうか。(ないとする考えだから今までは収入としての報酬単価も差がなかったのである。)
差があるとすれば、その手間であろうが、これは実は個室よりも多床室のほうが、より手間がかかる。何故かといえば、多床室である場合、個室以上にプライバシーの配慮に対する手間が必要になってくるからである。

具体的に言えば、個室で着替えや排泄の援助を行う場合は、入り口から室内が見えない状態にすればプライバシーを守って、羞恥心に配慮したケアが出来るが、多床室であれば、それに加えて、ベッドの周りを囲むプライベートカーテンを引いたり、衝立を立てたり、更には物音や臭いにも配慮が必要となり、声かけにも、同室者の方に迷惑をかけたり、遠慮をさせないよう、様々な手間と労力がより必要になるのだ。そういう意味で介護の手間という視点で考えても多床室の単価を「個室より高いことはねじれだ」とするのは短絡的だし、そもそも前述したように自己負担分を引き算で割り出した単価だから、自己負担分が低い方が、サービス費が高くなるのは当たり前なのである。

新型特養の単価が従来型施設より厚く設定されている理由は、それはユニットケアというケアの方法に対して、基準以上の人員配置が必要であることに対する単価設定であり、居室体系での報酬ではなく、これもねじれ論の根拠にはならない。

つまりこの問題は、居住費の自己負担化を急ぐあまり、その方法が介護サービスに必要な単価を算定する視点ではなく、いくら給付費から自己負担分へ転嫁できるか、という方法からいかにも拙速に考えられたという方法の問題であったのだ。

個室であっても多床室であっても介護サービスの提供内容に質的差はあまりないし手間は多床室に多くかかり、個室のメリットである居住空間、アメニティの差は、これは自己負担額の違いで両者に差をつけているのであり、そういう意味からしても4月の報酬改正で多床室の単価のみを下げるという論拠はどこにも見出せないのが本当のところではないのか。

つまり多床室の単価が4月に下げられた理由は、単に報酬全体の枠を大きく出来なかったため、下げすぎた新型特養の単価を修正して上げるための調整費用として、まずどこからその手当てをするか、という部分から考えられたと穿った見方をされても仕方がないのである。

何より費用設定のロジックは、金額ありき、で後だしじゃんけんで決められているのに等しい状況で、適切な費用の使い方を問う国の姿勢との矛盾が、ますます大きなひずみとなっていくであろう。

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看取り介護の視点〜NO1よりOnly one。

我々の介護施設サービス、特に特養の場合のサービスの終了とは、ほとんどの場合、利用者の「死」によって完結する。考えてみれば、哀しく、ある種の空しさを伴うサービスであるといえるのかもしれない。

しかもほとんどの高齢者は最期の瞬間に何の意思も示してくれない。それらの方々に我々の支援は果たして適切なものだったのであろうか?声なき声に耳を澄ます必要がある。

成人の日を含めた3連休の2日目に、今年最初に施設でお別れした方がいる。

この方は昨年12月始めに状態が悪化し、高齢で手術や治療にも不適応で看取り介護(ターミナルケア)に移行していた方である。看取り介護加算の算定条件を超える30日以上の期間、看取り介護として対応してきたわけであるが、この間、ご家族も何日も施設に宿泊され、見守られていた。

看取り介護指針にも示しているが、こうした状況では家族に対するメンタルケアや適切な食事、整容、入浴の支援も必要な援助である。行き届かない面もあったであろうし、特に年末、年始の忙しい時期をはさんでの家族の方々の対応は大変であったろう。

しかし亡くなられたご本人は、家族が近くにいて心安らかであったのではないか。こうしたケアは、医療機関ではできない、我々施設の固有のケアサービスであるかもしれない。こうした部分を大事にして真摯に終末期のケアサービスのエビデンスを作り上げていく必要があると思った。

お亡くなりになった日は、僕は休みの日で、しかも早朝に死亡された為、最期の瞬間や施設からのお見送りにも間に合わなかったが、当日は事務処理等のため出勤し、翌日の成人の日(まあ僕にはもうあまり関係のない日ではある)はお通夜に列席してきた。

その席上、ご遺族の方から感謝の言葉を頂いたが、翌日葬儀に列席した職員にもわざわざ「職員の皆様には最期まで本当に親切で暖かく優しく接していただいて母も幸せだったろうと感謝しています。」という声をかけていただいたという報告があった。

亡くなられたご当人の声は聞くことができないが、ご遺族からそのような言葉を頂くのはやはり我々にとってひとつの励みになる。社交辞令とは違う形で、葬儀の中で我々のケアサービスに感謝を述べてくれる方は多いが、いつもそういう気持ちを利用者にも家族にも感じてもらえるような支援体制でなければならず、あの人のときは良かったし、大部分の人は満足しているけど、ごく一部の人は不満で、それは少数だから「仕方ないよね」ということにはならない。

なぜなら、限りある命は、それぞれ固有のものであり、尊いそれらの命は、それぞれの人にとって、それぞれの家族にとって、たった一つしかない「命」であるからだ。

我々がその部分に関わる場合、一つでも不満足なまま消えてしまう命があれば、それはもう取り返しのつかないことだからである。

限りある命が消える最期の瞬間まで、気配り目配りができる施設サービスを作りたいといつも思っている。何も日本一の看取り介護をしたいなんて思ったことはない。できる限り、ここで看取られる方々に真摯に対応し、その人にとって良い支援でありたいと願うのみである。

こうした支援にナンバーワンはいらない。オンリーワンのケアが必要だ。

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ユニットケアがおかしい。〜新型特養の奇妙な主張。

今日は1日お休みをもらっている。とはいっても休養ではなく、車で1時間少しかかる、とある市のグループホームの外部評価に出かけるためだ。夜には介護認定審査会もあり、それなりに忙しい日で、朝にこのブログを書いている。時間がないので論旨が不明瞭になったり表現上の拙劣さ、誤字などはご容赦願いたい。

グループホームといえばユニットケアの取組が思い浮かぶ。きょうはこのユニットケアに関連する問題を少し考えて見たい。グループホームではなく特養などの施設における取り組みについてである。

ユニットケアとは、大規模施設の集団的ケアの限界を認識することにより、そこで達成できなかった個々のニーズに即した支援スタイルを達成する為、少人数の利用者に対し、馴染みの関係が築けるスタッフを配置して、利用者の生活リズムや習慣に合わせた支援を行うという「生活支援型ケア」の実践スタイルである。

既存の大規模施設でも、施設内をいくつかの小規模グループに分けてケアサービスを行う「ソフトとしてのユニットケア」に取り組む施設が多くなった。しかし既存施設のハードは、もともと小単位のケアグループを意識した造りになっていない為、様々な導線上の問題や死角で、ユニットケアが機能しないことも多い。

例えば食事場所も、広いホールが施設内に1箇所しかなく、生活場所である居室との導線が長すぎたり別フロアになっていたり、という問題や、入浴や排泄の場所も、ユニットケアを行う際に個別対応が難しい場所になっている場合もある。

つまり実際のユニットケアはハードではなく、ソフトの問題であるとしても、現実的には「ハード面も仕事をしてくれる」造りが理想であり、目配り、気配りができる導線上の工夫や、設計が高品質サービスの一つの条件に繋がるのである。我々の日頃の悩みもここに起因した部分であることが多い。

もちろんそれ以前に職員配置の問題も大きい。支援単位を細かく分けて、それぞれに支援者を貼り付けるには、どうしても一定の職員数の確保が必要だからである。

そこで登場したのが新型特養で、ハード面もグループホームのスタイルを取り入れ、職員配置基準も厚く見て、報酬上の評価も一般特養より高く設定されている。

ところが、である。この新型特養におかしな現象が起こっている。ユニットケアのメリットより、デメリットの方が表面化している問題である。
いや、そもそもユニットケア自体のデメリットとはいえない部分で、おかしな現象が起こっているということは、新型特養の設計図がまずいということだろうか?

ユニットケアを導入したから、職員の目が届きにくくなって、事故が増える、と主張する新型特養の職員がいる。しかし本来、ソフトとハード面の工夫で、個人に行き届いた目配りができる、というのがこのケアスタイルのはずではないか。そのため既存施設より新型特養のほうが職員はずっと多い。

それなのに目が届かないで、ひどい施設になると、ユニットケアにするために拘束を推進している施設がある。まったく馬鹿げたことである。

先日も「ユニットであるが為に死角も多く定員以上に職員を配置いる。しかしリスクも多く転倒による骨折事故が絶えない。夜勤においては不眠・不休で対応しても予測できない事故が発生し、事故防止の為に現在様々な対策・検討を行い、事故発生時のご家族への報告も慎重に行っているが、実際『こんなはずではなかった』 と困惑されるご家族も少ない。今後ご家族の方に今以上に施設を理解して頂く為の一手段、入所時の同意書として、【施設として最善のサービス・ケアーの提供、安全の確保に努めますが、転倒・誤嚥等リスクがある事をご理解して頂きたい】その内容が含まれた書式があったら参考にさせて」という内容の連絡があった。

つまり人も厚く配置している新型特養であっても既存施設より利用者への目が届きにくくて対応も困難である、ということだ。既存施設でユニットケアに取り組んでいる施設のほうが建物の構造上の資格や導線の長さに苦しむはずなのに、それに対応した施設がこうした状況を引き起こしているのは何が原因なのだろう。

これって新型特養・ユニットケアの意味があるんだろうか。こういう実態なら何もお金のかかる(国民負担が増える)新型特養に参入しないで既存施設を運営したほうがよくないだろうか?そもそも理念に対応するソフト面のシステム構築ができていないという意味だろう。事故が頻発する原因を「新型特養・ユニットケア」に求めるのではなく、その組織のサービス提供のあり方、考え方そのものに求めていかないと、真の問題点は解決しないのではないだろうか。

また、どのように注意をしていても転倒などの事故は全てを防げるというものではないし、起こる事故の可能性を利用者や家族に事前に伝えておくことは大切なことであるが、しかしそれを重要事項説明書に記載しているからといって何か責任や注意義務が軽減されるという間違った理解があるのではないかと心配している。

説明していても注意義務は軽減されないし、重要事項説明書に「事故が起こっても施設の責任は問わない」ような文言を入れてもそれは有効な契約事項とはならない。説明は免責行為ではないのである。ここを勘違いしていては利用者と家族との信頼を築くことはできないであろう。

責任が問われないような方法を模索するのにエネルギーを使うのではなく、どうして自分たちの施設でユニットケアの利点が生かされないかという、システムについての問題を考察するほうが先だろう。

そういう視点のない管理者や職員が、形だけで考えるユニットケアは「生活支援型ケア」にはなりえない。ハードの問題でもソフトの問題でもなく、その施設のシステムの問題である。

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12年の月日が意味するもの〜終わらない震災

1昨年が69人、昨年66人・・・・。

この数字が何を意味するかお分かりだろうか?・・・実は阪神大震災で被害にあわれた方が暮らす復興支援住宅で「孤独死」された高齢者の数である。

1月17日、12年前のこの日にあの震災は起こった。あれから12年という時が刻まれているのに、いまだ復興支援住宅で暮らす多くの方々がいる。そしてその49%が65歳以上の高齢者であるという。その意味は、復興支援住宅の高齢化率は49%であるという意味と同じだ。

そして、その中で、毎年、誰にも看取られることもなく、場合によっては必要な医療や介護支援を受けることもできずに消えていったたくさんの生命(いのち)がある。

つまりそこに住まう人々は、あの震災で大切な土地や家屋や財産を失っただけではなく、それまでの地域社会における人間関係まで失ってしまったということだろう。中には家族を失って身寄りのなくなった高齢者の方もいるだろう。

命一つ助かっても、失ったものが大きいことには変わりない。あの仮設住宅の中で、一人寂しく死を迎えていった人々が最期に見ようとしたもの、感じた思いは何であろうか。

震災は、終わっていない。
僕にできることは、ただ安らかであれ、と祈ることのみである。

阪神大震災の被災者で、震災から2月後に縁あって当施設に入所された方は、昨年6月、87歳で亡くなられた。

震災により、住み慣れた地域から離れざるを得なかったその方は、結婚暦も無く、子供もおらず、兄弟姉妹も既になく、遠い親戚を頼って、この施設に住まれることになった。そして最期の時まで11年以上の月日を我々とともに、ここを終の棲家として過ごされたわけであるが、その選択に我々が応えることができたのであろうか。

その答は返ってこないが、少なくともその問いかけができる生活支援であらねばならない。

生前、震災の話はほとんど触れない方であったが、彼女が家を飛び出た数分後に、その住宅は全壊し、預金通帳も年金証書も、身の回りの品物もすべて瓦礫の下に埋もれてしまったという話を聞いたことがある。さぞや恐ろしい体験であったろう。それが証拠に震災が原因のPTDSの症状がある小中学生が500人以上いるそうである。

それらの人々の傷が少しでも癒される地域づくり、国づくりこそ「美しい国」といえるのではないだろうか。

「美しい国」という言葉を都合よく使って、社会的に弱者と呼ばれる人々の犠牲の上に成り立つ社会は恥であり、そういう社会構造を持つ国は先進国とはいえない。

我々は今、大切な地域の関係、人との結びつきを、時の経過とともにに失っているんだ。そのことを大人たちが意識して、子供たちにも伝えていかねばならない。社会福祉や介護の専門家としてではなく、今、この時代に生きる一人の人間として、ここでやらねばならないものがある。

受容とは何か〜許容ではない、という意味。

介護の現場では「受容する」という言葉がよく聞かれる。認知症の方の支援には受容的態度が必要だ、という形で使われることがしばしばある。しかし言葉として、これほど数多く使われているのに、実際に、その言葉の意味を自分の具体的行動と結びつけて語られることは非常に少ない。

時には「受容しろ」と言っている側の態度が受容的でない場合もある。言っているほうも、言われているほうも双方意味を理解せずに使っている場合も多い。

そもそも人の行動や行為を「あるがままに受け入れる」ということが社会福祉援助の専門家とはいえ、様々な価値観を持つ別な個人に可能なのであろうか。「受けとめる」「受容する」とはどういう意味であろうか。

おそらくバイスティックの7原則が示された後も、この概念は様々に議論されてきたことと思う。神ならざる我々にとっては完全なる定義を示すことができない領域であるかもしれない。

ただ、我々が利用者に対して、支援者として向かい合うときに、それをどう考えるか、という点に絞ると、ある基本姿勢が見えてくるのではないだろうか。そのことを少し考えてみたい。

認知症高齢者の周辺症状に、暴力や暴言など、反社会的行為が伴うものがある。我々はそのとき、その行動を認知症という状況が引き起こす行動であり、周辺症状は、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状と考え、暮らしのなかで、つまり、ケアによって必ず治る。よくなる。という理解のもと支援活動を行なっている。

これを彼らのパーソナリティとして考え「性格が悪いから仕方がない」と考えるのでは支援行為には結びつかない。我々はあくまで社会福祉援助者であり、評論家や裁判官ではないのである。

つまり、利用者の行動や態度を受容するとは、利用者を理解すること、把握すること、認識することで、援助ができる関係に結びつける行為であろう。そこには、どんな利用者であっても人間として敬意を払ったり、愛されたりすることが必要であるという意味が含まれる。

つまり不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを利用者の「一部分である」として捉え、あるいは利用者の持っている可能性を捉えることであろう。

援助者が「こうあってほしいと」と望んだり、こうあるべきと考えるのではなく、実際のあるがままの利用者の姿を理解する、ということだろう。しかしその前提には我々の自己覚知が必要で、自分の感情がどう揺れやすいか等を意識することが重要となることは言うまでもない(参照:「面接の技法2〜自己覚知について」)

ただし間違ってはいけないことは、受容と許容は別物であるという理解であろう。

利用者の逸脱した行動や態度、その主張や行動をあるがままに受け止めるという意味は、決してその逸脱に同調して、媚を売り、それを許容するということではないということである。

彼らの行動を真実ないし良いものとして許容するのではなく、彼らを受け止める際に、そのような行動を彼らの現実の一部として認識し、理解することで、その行動が何に基づいているかを理解することにつながり、変容可能性が見出せるというものだろう。

このとき利用者の行動を許容しないということと、見下して敬意を失う感情を同一視すると問題は複雑化する。誰もが持っている尊厳と価値を尊重するという基本がないと援助活動にはならない。この感情を的確にコントロールするのが自己覚知である。そういう意味で、受容と自己覚知は切り離して考えられないのだ。

利用者の否定的態度も彼らの問題を構成している1要素なのである。だから支援の過程ではそれらの態度も表明され、明確化され、整理される必要があるということだ。そして受け止めるものは現実であるということを忘れてはならず、援助者の勝手な想像で非現実を作り出してはならない。

ただこの受容を間違って理解すると利用者の不安をより強くする場合がある。「誰かが私を襲ってくる」という利用者に対する受容は「〜さんを誰かが襲ってくるんですね」という理解ではいけない。「〜さんは、誰かが襲ってくる、と感じるような不安な状況にずっと置かれているんですね」という理解的態度で臨まねばならないという意味ではないだろうか。

ケースワークの原則は使い物にならない古い理論だと主張する人がいるが、原理原則がどうあろうと、我々が介護の現場で、利用者と向かい合うとき、専門家として以上に、人として、支援を求める人に真摯に対応する過程で「受け止める」という理解の態度は普遍的に必要なことだろうと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護保険制度の向かう方向に関する1考察。

先日、ある研究会で講演後、質疑応答の中で「介護予防サービスが将来的に介護保険から切り離されて医療保険になるんでしょうか」という質問を受けた。

どうやら高齢者医療制度の創設と今回の介護予防給付のルールとを絡めての質問らしい。

壇上から無責任な想像による回答は不適切であろうと思って、答えは濁したが、真意を言えば、僕自身はその考えには否定的である。

まあそういう方向が100%あり得ないという断言はできないが、少なくとも老健局の長期ビジョンにおける主流的な考えはそうではない(特に現職の事務次官の影響力が強い状況が大幅に変わらない限り、その考えは変わらないであろう)と思う。

そもそも昨年3月末時点で要介護認定者の中に占める要支援者と要介護1の合計数の割合は5割近くになっている。すると新しい認定の予測では、要介護1の約7割程度が要支援2に移行する、としている。それを元に計算すると介護予防サービス利用者は、認定者全体の4割近くを占めることになる。

しかも介護保険制度というのは保険料を支払っている人がすべて要介護認定を受けているわけではなく、高齢者に占める要支援・要介護認定者の割合は昨年4月時点で全国平均15.7%である。つまり大多数の人は保険料を支払うだけでサービス利用をしていないということを意味している。

これらの人も将来的に、要支援・要介護状態になれば介護保険のサービスを受けることができるという「権利」があることで強制保険である介護保険料の支払い「義務」を課しているのに、さらに認定者のうち6割しか利用できない制度にするとしたら、これは保険料徴収の整合性が厳しく問われる国民的議論にならざるを得ず、むしろ次期制度改正の本丸は保険料徴収年齢の引下げであり、これにターゲットを絞る国の方向性とは合致しない。

介護保険のひとつの意味は国民の新たな負担制度であり、国から見れば介護保険料は貴重な財源の一つであり、いかに今後これを広く薄く徴収する形を継続するかが課題なので、負担あってサービスなし、という状況では国民負担を拡大することが難しくなるからだ。

むしろ負担年齢の拡大の旗印に、介護予防という(仮に実態が伴わなくとも)国民には耳あたりの良いサービスを介護保険内のサービスとすることで、負担年齢の拡大のコンセンサスが形成されやすい状況を作り出したかった。そしてその下地として対象年齢拡大ができなかった昨年の改正で介護予防サービスを被該当者を含めて介護保険サービスに取り込んだという意味がある。

今までは介護保険外であった、介護保険の被該当者への地域支援事業等も保険内サービスとしたという意味は、予防の守備範囲について、医療保険制度は病気にならないようにする公衆衛生による予防保健制度であり、介護保険制度は要介護状態にならないよう疾病に起因しない廃用予防を担う、という意味をより一層明確にした、という意味であろう。

だから介護予防が医療保険に包括されていくという考え方は、積み残した課題として被保険者の対象年齢拡大という問題がある現時点では「荒唐無稽」とは言わないまでも、「筋悪(すじわる)」であると思う。

むしろ『介護保険制度、次期改正への布石。〜この改正で見える二つの影』 で指摘したように、次期改正では対象年齢の拡大とともに、定額報酬サービスの範囲拡大(一部の介護給付にも拡大)と介護予防対象者の拡大=要介護2の一部も予防対象に、という議論になるのでは、と指摘してきた。

しかしここに来て、後者の介護予防を要介護2の一部まで拡大するのでは、ということついては、何も制度改正で議論した結果そうしなくても、現在行なわれている認定ソフトの改正で実施されてしまうのではないかと危惧している。

介護認定ソフトを改正しようという意味は、現行ソフトでは要介護1相当としか判定できない状況を変え、一次判定で要支援2と要介護1の区分も行おうとするものであるが、認定ソフト1999から2002に変わった平成14年4月には、判定ロジック自体が変更されたことで認定結果の46.4%が要介護1に判定される結果を生み出した。そのことを思い出すと、裏技がある、ということに注意しなければならない。

つまり平成14年4月以降、軽介護者が大幅に増加したという意味は、ソフトの判定結果により出現した問題で、要介護状態にまったく変化がなくても要支援と要介護1に認定されやすくなっているロジックに変更されているのである。

すると何も制度改正で要介護2の一部を予防に移行させて「サービス制限だ」と批判を受けなくとも、認定ソフトのロジックを、現行、要介護2と判定されている状態を、そのまま要支援2と認定できるようにすればよい、ということにならないだろうか。

考えすぎかな?どちらにしても新認定ソフトは結果だけでなく、樹形図を含めた中身のロジックの検証が必須である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

自己決定とは何か2〜ケアプランへの希望とニーズの温度差

居宅介護計画は自己作成もできるが、大多数の介護サービス利用者が居宅介護支援事業所の介護支援専門員に作成を依頼している。

この大きな理由は作成依頼しても利用者の自己負担がない点が要因の一つとして挙げられるが、最も大きな理由は専門知識を持つ専門家としての介護支援専門員に任せたほうが適切な支援体制を築いてくれるのではないかという期待があるからであろう。

しかし一方で、利用者やその家族には、介護サービスを受ける際にあらかじめ抱いているサービス利用に対するイメージや理想というものがあり、それに関連して希望するサービスとか、使いたくないサービスがあるわけである。使いたいと希望するサービスの中には、専門家からみれば必要のないサービス、過剰サービス、使うことによって利用者の機能低下が心配される可能性があるサービスさえもあり得るかもしれない。

そのとき、ケースワークの原則である「自己決定」と、本当に必要と思えるケアプランとの温度差の中で介護支援専門員は、どう対処すればよいのであろうか。ここでの自己決定はどう守られ、何を意味するものとなるのであろうか。

自己決定には利用者の能力から生じる制限はあるし、利用者の能力を超えて自己決定を強いるべきではないことは昨日述べた。しかし例えばアセスメントから導き出した課題と合致しない「生活援助としての家事支援」を求める方が「能力から生じる制限」の対象者であるとは言えない。そう都合よく自己決定は制限できないのである。

しかし利用者の希望と本当に必要なサービスが異なることが、介護支援専門員からみて明らかである場合に、それは過剰なサービスだけでなく、必要なサービスを利用者自身が自らの意思で「受け入れてくれず」、必要なサービス利用に繋がらずに、課題解決=適切な生活支援ができないというケースがある。

そのとき我々社会福祉援助の専門家がまず考えなければならないことは何か?
それは、利用者は誰しも問題解決の過程で介護支援専門員などの援助者のサポートを必要としていたとしても、問題解決の方向などを自分で決める自由は持ちたいと願っていることは「当然なのだ」という理解である。

そして、利用者が援助計画を押し付けられたものと感じた場合には、援助活動そのものが無駄に終わってしまう場合も多いという認識で、でき得ることならば、介護支援専門員は利用者との信頼関係を形成する過程の中で、利用者本人や家族にも必要な情報と知識を伝え、彼らとともにケースの進行に応じて成長発達する必要があるということである。

抽象的観念論になりすぎても困るので、具体的な問題に話を戻そう。

介護計画の決定に際しての利用者や家族の自己決定とは、単に利用者や家族の意向だけで物事を決定するということではない。

それは決定の主人公は利用者本人であるということを前提として、それを保障したうえで、介護保険の制度利用を例に挙げれば、専門知識のある介護支援専門員が利用者や家族に、地域に使える資源としての介護サービスとはどういうものが、どの程度あり、どのように使えるかという情報を制度上のルールを含めて明らかにし、そして利用者本人の課題や必要な支援を、アセスメントの結果などから充分説明して、そのことから、介護サービス利用の効果(成果)や、利用者の今後の状況変化の予測等の専門家としての判断を分かり易く情報提供した上で、最終的に決定するのが利用者であるということだ。

その過程で利用者の希望とニーズの相違から生ずる問題についても専門的見地からわかりやすく説明して、理解を求めていくことだろうと思う。

特に希望とニーズが合致しない大きな要因は、利用者や家族が持つ情報や知識は、介護支援専門員が持つそれと量も質も大きく異なり、偏った少ない情報の中から意思決定している例が少なくない、ということである。

その状況を変えていくことから出発する必要があるだろう。
情報を正確に伝えて、そこからサービス利用の効果や予後の予測を伝えることで利用者や家族は、サポートしてくれる介護支援専門員に信頼感を持っていくことになる。

特に介護サービスなど形のないサービスは「使ってみないとわからない」「実際に試すことができず、利用そのものにならざるを得ない」という特性を持っているのだから、正確な情報を噛み砕いて説明してくれて、分析の視点も示されることが利用者や家族にとって重要なのである。

そして同時にサービス利用に対するクレームもきちんと受け止め、嫌だ、という感情にも適切に理解的態度で臨める介護支援専門員に多くの利用者が信頼を寄せ、適切なサービス利用ができる計画へと繋がっていく可能性があることを忘れてはならない。

なお明らかに使うことができないサービスや必要のないサービスについての計画は機関の機能から生ずる制限が適応される場合もあるが、優先されるべきは制限の前に、理解を得る援助姿勢であろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない

社会福祉士の国家試験で過去に最も多く出されている問題が、ケースワークの原則(バイステックの7原則)に関する問題である。

社会福祉士であれば、この原則を諳んじられない人はまずいない、と言ってよいと思う。しかしその内容の理解には差があり、時に「そういう意味じゃあないだろう」と思う考え方をしている人に出会うときがある。しかし理解不足であれば、勉強しなおしてもらえばよいが、時として、勝手に都合よく解釈して、自己の行動の正当化に使う例がみられる。

数年前、表の掲示板で相談されたケースであるが(詳細は覚えていないが)たしか生活保護受給者で認知症が現われてきた独居高齢者宅に保護担当のケースワーカーが訪問した折、当該利用者が高熱を発し、起き上がれない状態で苦しまれていた。しかし保護担当者は状況を確認しているのに、何もせず、自らの調査を終えると役所に戻ってしまった。

あとで大家さんが状態に気づき、あわてて救急車を呼んで、担当のケアマネにも連絡した。

担当ケアマネはその日、保護担当のケースワーカーが利用者宅を訪ねたことを知って、状況の確認とともに、なぜ、そのとき必要な対応や担当ケアマネに連絡してくれなかったのか、ということを保護担当者に問い詰めたところ『救急車を呼ぼうとしたが、利用者本人が「病院には用はない。誰にも連絡せんでも大丈夫だ」と言ったため、それが自己決定である』として、そのまま役所に戻り何の対応もしなかったということであった。こんな対応が許せるでしょうか、という内容のスレッドであった。

実際にこんな対応を行う保護担当のケースワーカーがいることも驚きであるが、相談があったのは事実である(勘違いしないで欲しいが我々の知る周囲の保護担当の方々は、このようないい加減な人はほとんど見当たらない)。

しかしこのケースのような事実が実際にあったということであり、ここでの「自己決定であるからその意思を尊重して何もしなかった」という理屈は開いた口がふさがらない。我々専門職は、そんな理屈に対し、きちんとケースワークの原則の意味に即して反論できなければならない。皆さん、大丈夫だろうか?

「自己決定の原則」とは、ケースワーカーが被援助者の自ら選択して決定する自由と権利とニードを具体的に認識することである。そしてその権利を尊重しニードを認めるために被援助者が利用できる適切な社会資源を地域社会や被援助者自身の中に発見して活用するような支援を行なう責務を持つという意味である。

しかし人が何かを自ら選択し、決定する自由は全てが許されることとイコールではない。

個人の権利は社会における他者の権利によって制限される場合もある。
つまり個人の権利は他者の権利を尊重する義務を伴うものである。人の自由はそれ自体が目的ではなく、幸福な暮らしを手に入れる手段なのだ。

当然、人生における選択と決定を自ら行なう権利は道徳的な悪を選んで行為することを許しているわけではないし、コンプライアンスとしての制限も生じる。何より、被援助者自身の能力を超えてまで自己決定を強いるべきではないとされている。

つまり自己決定の原則は、その前提に、被援助者の積極的かつ建設的決定を行なう能力の程度によって、また市民法・道徳法によって、さらに援助機関の機能によって制限を加える必要が生ずるものであり、自らの命や他者の命を危険にするような自己決定は認められないし、あらゆる手立てを講じても自己決定ができない利用者については援助者が彼らに代わってニーズを表明し、方法を選択し意思決定を代弁することによって利用者の基本的人権を守ろうとすることが優先されるのである。

切迫した状況で命に危険がある状況で、被援助者本人の決定能力が低下している際において優先されるべきものは何か。本ケースの保護担当者の言い訳はいかにケースワークの原則に外れたものかが理解できると思う。

いやケースワークの原則に外れる前に、人の道に外れているというごくありきたりの常識である。

しかし得てして生半可な知識しか持たず「ケースワークの原則」論を振り回す輩には、それ以上の専門知識を「振り上げて」語らんとならん場面もある、ということである。本当はこんなことしたくないんだけど・・・。(続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

研修における行政報告に求められるもの。〜形式的な報告は必要なし。

昨今企画される研修は内容もかつてより硬直的ではなくバラエティに富むものもあり、実用に即した内容の研修も多くなったように感じている。

しかし一方、相変わらず「決まりごと」のように行政報告を頭に持ってくるのが恒例化している研修も多い。

かつてインターネットがない時代は、情報は国から都道府県、そして市町村を通じてやっと介護施設などの現場におりてきた。それによるタイムラグも結構大きくて、現場には、なかなか正確で新鮮な情報が下りてこないという場合もあったし、情報の分析も、その方法がわからずに「できない」という施設もあったから、その時代の行政報告は貴重であり、そういう報告を聞くために研修に参加した時代もあった。

しかし現在、現場の施設と、都道府県が得ることができる情報量や内容にどれほど差があるのだろう。

少なくとも公式の基準通知や事務連絡等は、都道府県でなくともタイムラグなく手に入れることができる。行政職員しか参加していない全国課長会議資料もワムネットで見ることができるし、ワムネットに載らない、非公式の情報であっても「その手の方法」で手に入れることは可能で、人の口に戸を立てることができないように、都道府県の職員だけが手に入れることができる情報は極めて少ないのではないだろうか。

(17年10月の先行改正時、当サイトでは、行政職員だけに出回った非公式のQ&Aを掲載したことがある。そのとき、僕の知人に道職員がいて、彼がニュースソースと疑われたそうである。しかし僕がそのファイルを手に入れたのは東海ルートと、九州ルートというまったく別ルートの、ある関係者から手に入れたもので:つまり複数の別ルートから同じ情報が手に入ったという意味:ソースの疑いについての話を聞いて笑止千万だなあと感じたことがある。)

共通の情報を様々な立場の人がリアルタイムに手に入れることができる状況において、行政報告にしても、かなりその内容に鋭く切り込む視点や、説明しないと理解できない点を報告として示してもらわねば意味がないということになる危険性を孕んでいる。

しかし時として別の研修でまったく同じ資料説明という場合がある。しかも数値の説明など見ればわかることで、意味があるのかと首を傾げることが、しばしばある。

どこかで見た資料と思い説明を聞くと「厚生労働省のHPからダウンロードした資料ですが・・・」という場合もある。まあ時には見ていない資料もあるが、単にDLしただけで数値説明されても、みりゃあわかるよ、だからどうだっていう分析がないのかよ、と言いたいときもあるのだ。そもそもHPで公開しているような資料は説明を必要としない見ればわかる資料である。(今どき壇上で、介護保険制度後、一番数が増えた居宅サービスはグループホームで・・という説明をしている人は恥ずかしいと思わないのであろうか?)

壇上に立って、それらの数値説明をしている報告者の方々は、どういう意味でそれを伝えるのか、明確な意図をお持ちなのであろうか?我々が参加している研修=それなりの専門家が受講している、という意味をしっかり捉えてくれているんだろうか。

数値資料を示して分析として自分の言葉で現状や今後の動向の見込みなどを示してくれるのであればまだ良いのだが(それにしてもわかりきったことであれば問題だが)、資料の数字を意味もなく復唱して時間を費やす報告はやめていただきたい。

是非、このあたりの視点を研修企画者は講師、報告者等にしっかり伝えていただきたい。企画者が気を使うべきは、本来、講師や報告者ではなく、お金を使って、時間を使って受講している参加者に対してであろう。

この厳しい情勢下、研修を観光のついでに考えている施設はないはずである(あるとしたら、今後、生き残っていけないと思う)。身のある内容にしていただきたいと切に願うものである。

どうか、意味のない・あるいは読めばわかる数字の説明だけで終わる行政報告は見直していただきたい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

筆を置くPART2

昨年10月、北海道医療新聞社の連載コラムが終了したとき今日と同じく「筆を置く」というタイトルをつけてブログに書いたことがある。

今日は昨年から連載していた隔月発行(年6回)の日総研「介護リーダー2006」の最後の原稿を仕上げて同社に送ったので同様のタイトルで、この1年間を振り返ってみたい。

同誌には過去にも小論文を依頼されて執筆したことが何度かあったが、制度改正に関する現場からの提言を1年間に渡って連載して欲しいと依頼されたのは昨年初頭頃であったろうか。

既に2006年4月の制度改正に先駆けて、2005年10月に施設の居住費・食費の利用者自己負担化という大改革が行われていたので、そのことも含めて現場の声を知っていただくことは大事だろうと思ってお受けした。そして毎回400字詰めの原稿用紙にして12枚〜15枚程度の小論文を書き続けてきた。

連載論文は2006年5/30号からの冊子に掲載され、本年3/30号で終了するが、実際に執筆原稿を最初にあげたのは昨年3月で、最終原稿が今日というわけであり、今月号に11月に送った原稿分が掲載され、今日送った分は3月に掲載される。つまり実際には2回分の小論文がまだ世に出ていない。

最終稿も、これからゲラが出来て最終校正して完全な原稿となるわけであるが、執筆としては終了し、僕の中の実感としては昨晩がまさに「筆を置く」という、この連載に関わる仕事を仕上げたという実感がある。あとは読者の方に読まれるのを待つだけで、それはもう僕の手を離れたものである。

この1年の連載を振り返ると、初回の原稿は〆切日を勘違いして、土日で慌てて仕上げるというミスもあったし、〆切日の目前に父が急逝し、〆切を延ばしていただいたということもあった。その際には編集者の方をはじめ、日総研出版社の方々には大変ご迷惑をかけて申し訳なかったが、嫌な顔一つせず、快く待っていただき、時には適切な校正をしていただいた。感謝している。既に出版されている4回の原稿とこれから出される2回分のタイトルと、そのテーマについて簡単に振り返ってみたい。

すべてメインタイトルは「新しい介護保険制度の現場から〜その課題と提言」とされ、各回にサブタイトルをつけている。

第1回(18年5月30日発行分)
食費・居住費の自己負担化
とにかく大改革である。ここを1里塚にして利用者自己負担の流れは医療施設の一般病棟にも将来的には広がっていくのであろうから、この考え方(何の費用をいくらとして自己負担させるのか)が正当な評価であるのか検証すると共に、昨年4月の報酬改定で多床室の報酬を下げる理由とされた介護報酬が多床室より個室のほうが低いということに対する、いわゆる「ねじれ論」がいかにまやかしの論理であるかということを問題提起すると共に、被保護者が個室利用できないという問題を「劣等処遇」ではないかと批判し、同時に低所得者対策の検証が不十分であることを問題提起した。

第2回(18年7月30日発行分)
問われるケアマネジメントの質
介護給付費分科会で問われたケアマネの質の問題、特に新予防給付創設の理由にされた島根県における調査による軽介護者の介護度悪化データがいかに、まやかしのでたらめデータであるかを指摘し、介護支援専門員不要論に異議を唱えた。また居宅介護支援費については、特定事業所加算や特定事業所集中減算のルールがケアマネジメントの質を担保するルールになっていないことを批判的に論証した。同時に居宅介護支援費の介護度別報酬の復活は介護現場の実態に逆行しているとし、この報酬単価の決定はアウトカム評価のシステムを作り上げない限り財政論で左右されることを述べた。

第3回(18年9月30日発行分)
看取り介護の視点〜高齢者が安心して暮らせる施設
特養における終末ケアのあり方に関して、僕のつくった指針に盛り込んだ考え方を中心に、現状と課題について論じた。僕のサイトの「看取り介護の実践とその考察」も参照して比較して読んで見て欲しい。

第4回(18年11月30日発行分)
介護難民の発生は確認できないという報道が意味するものとは
地域包括支援センターの役割を中心に、今後予想される地域の介護問題に対しての必要な支援の視点を検証した。同時に療養型医療施設の廃止と縮小の問題も取り上げ、その問題点も含めて検証した。同時に新予防給付がこの新制度に位置づけられた(介護予防効果は期待されておらずアリバイ作りとして利用されているという)本当の意味を論じてみた。

第5回(19年1月30日発行予定)
栄養ケアマネジメントの現状と課題
介護保険施設における栄養ケア加算の創設の意味を検証すると共に、管理栄養士の役割やそれをフォローする施設のシステムについて考察し課題についても提言した。今月発行なのであとは是非冊子を読んでいただきたい。

第6回(19年3月30日発行予定)
介護保険施設における介護支援専門員の業務と位置づけに関する1考察
ケアマネジメントとは何か、という問題を中心にいまだ不明瞭は施設の介護支援専門員の業務内容や役割と位置づけ、相談援助職員(特に相談員)との関係や業務分掌について考察した。これも3月発行冊子を是非読んでいただきたい。

以上全6回を振り返ると、それぞれその時の思いはそれなりに書けたのではないかと思っている。ただし後から読み直すと論拠に甘さが目立ったり、表現上の稚拙さも目に付く。まだまだ勉強しなければならないとあらためて感じている。

とにもかくにも〆切というものが日常生活に全く無くなったのは久しぶりである。嬉しくもあり、寂しくもあり・・・複雑な心境である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

嫌いな言葉〜「日本一の施設にする。日本一のサービス事業所にする」。

新年最初の出勤日である。年末年始に施設を守ってくれた職員の皆様にまず感謝したい。

年末には「1年を振り返ってどうでしたか」という質問を受けることがあるが、福祉や介護の世界で対人援助サービスに関わっている私たちにとって、後ろを振り返っている余裕はあまりなく、時期を問わず、つねに今や明日のこと、将来のことに考えが及んでしまう。休みの間も、これからの我が施設の行く先、介護サービスの方向、やらねばならんこと、やりたいこと、様々に考えてしまう毎日である。

だからといって新年早々「今年の抱負は」と言われても困る。

常に我々の目標や目的は「我々に関わる利用者の生活支援」の視点であり、より良い暮らしの実現のために、介護サービスの品質をいかに管理して向上させるか、ということしかないわけであり、毎年、何か具体的な言葉で表現できる目標など作れない。

だけど絶対これだけは言わないだろうなという大嫌いな言葉がある。それは、この施設を「日本一の施設にする」という言葉だ。まあ自分にはそんな大それたことはできないだろうなという気持ちもあるが、そういう意味とは少し違う。

そもそも自分の施設の介護サービスの質だけが向上したってしょうがない。僕らの目の前の高齢者だけが良いサービスを受ければよいという問題ではない。それぞれの施設で様々な工夫をして介護サービスのいろいろなエビデンスを作り上げて、それが皆の共通のツールになっていけばよい。

どこか特別な場所に、一つの素晴らしい施設があることより、みんなが一定以上のレベルで質の高いサービスを提供できる施設となって、どこにも変な施設や介護サービスがなくなるほうがよっぽど大事だ。

日本一のサービスができる施設になって、俺の後姿を見て、お前たちもついてこい式の「職人技サービス」など必要なく、全ての施設に情報提供されて皆がサービス向上できるためのツールが手にはいり、実現できる方向性が示されなければ意味がない。その過程で、どこが一番になったって良いだろう。このことは施設サービス、居宅サービス、どちらにも言えることである。

不幸せな形で、あるいは低レベルのサービスで困る人が一人でも少なくなるのが大切なことではないか。

そういう意味で僕らは、素晴らしいサービスをする以前に、我々自身の存在が、不適切な存在、迷惑な存在、いないで欲しい人にならないように気をつけることのほうが重要なことだと思う。

サービス提供側の自己満足のための介護サービスの質議論など必要ないのだ。

そして大事なことは質を管理する、ということだ。ある一定の時期、特別な費用や人手をかけた時期だけサービスが向上したってしょうがない。人の幸せとか不幸とかいうものは、ある時期に達成感があれば、ある時期は不幸や不幸せに耐えられるという問題ではない。

特別な施設や居宅サービス事業所だけが手に入れることができる方法論ではなく、そのことが日本中、いや世界中のケアサービスのエビデンスになり得る方法であって欲しい。

そしてサービスの質の管理とは、今以上のケアサービスのあり方を常に模索する姿勢から、いまあるサービスの方法を振り返りながら、我々と向かい合う様々な人々の「生活の質」を、我々の「当たり前の生活」と比べながら、そのことの実現を毎日求め続ける研究心と実践課程だろう。

何も特別な暮らしを作るのが目的ではない。人として当たり前の生活が送れる社会を皆で作ることである。

何度でも言う、どこか特別な場所に、特別な施設が、特別すばらしいサービスができているけど、一般的なサービスレベルは「当たり前の人の暮らし」にまったく届いていない社会は貧困だ。

すばらしい施設があるなら、そのサービスをスタンダードにする情報提供や教育課程を皆が手に入れる社会システムこそ重要である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

ネットで広がる輪〜出会う縁のすばらしさ

昨年、僕は父を亡くしたので新年のご挨拶や年賀状は遠慮させていただいている。しかしこのブログは施設のサイトの一部になっており施設の管理者として、サイトの管理人として皆様に新年のご挨拶を申し上げます。

もっとも近しい存在である親を失うことで、逆に今、僕の身の回りのある様々な縁や人の繋がり、ネットワークが愛おしく思えている。大事にしなければならない。そういう人の縁がインターネットを通じて作られるのも現在の社会の有難さである。

僕のサイトは2001年5月に開設した。北海道の片田舎の1社会福祉法人のサイトであるから当初の訪問者数は職員を除けば数人であった。しかし掲示板の盛り上がりともにアクセス数が激増して行った。掲示板は当初レンタル掲示板を使っていたが、書き込みが1週間以上なくて自然消滅し、2代目で消滅しないタイプの掲示板を使った。(現在は5代目である)

ネット関連で最初にお会いしたのは「ケアプランの広場」の松本さんである。ふとしたきっかけで相互リンクを結んだが、松本さんは特養などでは全国的に使われている包括的自立支援方式(3団体版)というアセスメント方式を作った人で、全国の保険者担当者や介護支援専門員に対する研修講師として日本中を飛び回っている。そんな忙しい合間をぬって、わざわざ僕に会いにやってきてくれた。吹雪で千歳空港が閉鎖になっていた日で、帯広空港から汽車で大変だったろうと思う。ついでだから、地域のケアマネ会に呼びかけて1時間の講演をしてもらった。その節はお世話になりました。

施設サービスの限らず居宅サービスやその他の福祉分野に広く回答でき、正確で迅速な情報が多くて深く議論できる掲示板として関係者の間で話題になっていったのは半年後くらいからであろうか。長崎のMr.Mさんは当時からの参加者であったと思う。若いのに鋭い考えを持っていると共に、彼の施設を知ることで実践家としても、在宅介護支援も含めてすごい人だなあと思った。

今でも適切なアドバイスや情報をいただいている。

今年、長崎の島原市のケアマネ会に僕を講師として招いてくれたNA6さんも古くからの掲示板参加者である。いつも掲示板ではしっかりした意見を書いてくれるが、今年お会いしたときなかなかのイケメンで、若いのに少々驚いた。この業界の人材も豊富なんだ。

全ての分野で優れた実践をしている兼任CMさんも当初からの参加者である。毎回、適切なレスポンスを書いてくれるが、それ以外にも彼の人柄と社会福祉援助者としての人となりを表すものとして過去ログに掲載している「対人恐怖症の学生の介護実習について」 の報告は是非皆さんに読んでいただきたい。すごい人だと思う。

時に辛口のコメントが鋭い小型指導員さんは、ユニークな理事長さんの迷走を見事に軌道修正して施設を正しい方向に導く達人であると共に、4コマ漫画を書かせれば業界NO1という裏技師である。

僕のサイトのアクセス数が急激に増えるきっかけになったのが15年のルール改正、支給限度額1本化議論である。これらの掲示板の歴史は「掲示板に歴史あり」で書いた内容と重複するので、詳しくはそちらで見てもらいたい。

その時、僕の掲示板で激論を交わした相手が尊敬すべき実践家としてのBOBさんであり、今でも適切にアドバイスをいただいている。実際にお会いしたことはないのであるが、携帯メールではやり取りが続いて、もう古くからの知人と同じ感覚で、どこかでお会いしても違和感はないだろう。彼の高齢者に対する温かい目と、認知症ケアに関しての見識の高さは真似ができない。

当時の議論の進行を注目していた方々の中にコンピューターソフト関連の皆様も多かった。新しい請求ソフトを作るのに情報が錯綜して、いち早く正確なルールを示した僕の掲示板にずいぶん感謝をいただいて恐縮した。

今、福祉関連の業界関係者で知らない人のほうが少ない「介護保険情報BANK」のJTさんもその議論の際、ROMしていただいた方の一人で、やがて彼から「全国課長会議で取り上げられた自治体サイトですごいのがある」とご紹介いただいたのが「篠山ホットステーション」であり、当時そのネット管理者であるキミオーさんとお付き合いするきっかけになった。正直、行政担当者でこれほど福祉・介護サービスに熱意を持って実践している人がいることは驚きであった。今では毎年キミオーさんから僕の施設に「丹波黒豆」を送っていただいて利用者も楽しみにしている。今後も、いろいろな場面で情報をいただきながらお付き合いが続くと思う。

それらの人たちの周りの人々とも輪が広がって、今では昔からの知り合いのつもりで、ネットが縁でであったことさえも忘れている人もいる(ごめん)

越後の熱血PT・大渕さん(NHK教育テレビでご覧になって知っている方もいるでしょう)もMr.Mさん絡みで、僕の掲示板で知り合った。その大渕さんから紹介を受けて数年前に日総研の冊子「介護リーダ」に小論文を書いたことがある。その後、その同社の編集者の方ともメールでやり取りするようになり、何回か原稿依頼を受け、昨年4月からは隔月で連載もしている。

ブログは1昨年、平成17年の10月から書き始めた。当初は皆がやっているからという軽い気持ちで日常の思いを綴っていて数人の読者から始まり、やがて100人を超え、500人近くになり、あれよあれよで、今では平日は700人近い人が読んでくれている。

そのブログに前述の連載について紹介したところ北海道医療新聞社から出している介護新聞の編集者の方から、同誌にもコラムを書いて欲しいという依頼があった。冊子連載を抱えている身で、しかも昨年4月は施設長に就任した時期でもあり、公私共に慌しく、週1回の連載は無理と思ったが、編集者の方からブログに書いてあるようなテーマでよいから、ということと、各テーマも具体的に示していただいたので、やってみようと思い、結局、なんだかんだで半年以上24回の連載を続けた。

北海道では介護新聞を定期購読している施設や事業所が多くて、いろいろな場所で「介護新聞見ています」という有難い声をいただいた。メールを送ってくださる方も多く、知り合いが増えた。

掲示板以外にもサイトでは様々な情報発信をしている。医師への情報提供依頼の地域統一書式や各事業所への情報提供等の書式も開発して公開している。今年4月の制度改正では、おそらく全国1早く「看取り介護指針」を作って掲載した。この指針については、特養だけでなく、グループホーム関係者が「医療連携加算」に必要な指針として参考にしたいとか、使わせてもらってます、というメールを数多くいただいた。

全国の施設や事業所で使っている「看取り介護指針」が僕の作ったものがベースになっている場合も多いのであろう。この指針の公開をきっかけとして「看取り介護の実践」についての講師として招かれる機会も多くなった。道外では岩手県の講演から始まり数箇所を訪れ、道内でも施設だけでなく今年早々には札幌で行われるホスピスの全国大会にもシンポジストとして参加する予定である。

掲示板を通じて僕の古くからの友人と、ネットで知り合った友人が知り合うこともある。道内の福祉の実践家としては屈指の存在で、僕も尊敬する友人のBooちゃんは、今年、札幌で行われた老施協全国大会の分科会で司会を務めたが、そこで発表した一人が越後の達人PT大渕さんだ。

大会中にも挨拶はしたんだろうが、大会後、掲示板であらためてお互いを紹介しあってたよね。こういう輪が貴重である。

それ以外にも様々な出会いが数多くあり、それらの方々に支えられサイト運営管理を続けている。
ネットをきっかけに、直接あるいは間接的に知り合った人々との輪が広がり続けており、さらに僕の掲示板を通じて参加者の方々がそれぞれ知り合い、交流を結び横のつながりができている。そうした縁が広がり続けている。そして、そのことが僕の人生を豊かにしている。有難いことだ。

長くなりすぎた。まだまだ書きたい人が沢山いるがご紹介しきれない。それらの方はまた別の日に書かせていただく。

ともかく、今年もどんな新たな出会いがあるか楽しみである。皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。

介護・福祉情報掲示板(表板)

付録:masaとは誰か

今年最後の仕事は「施設ケアマネジメント検証」で終了か?

昨日から今朝にかけて連載原稿の1月〆切分を仕上げた。

掲載されるのは3月であるが(1月発刊分は栄養ケアマネジメントについて書いている)、今回は施設のケアマネジメントについて書いた。

現在、一般的に認識されているわが国のケアマネジメントの概念が居宅介護支援事業所のサービス提供の方法論とイコールになって考える視点に偏りすぎているために、施設のケアマネジメントの全体像や、施設における介護支援専門員の位置づけや役割が不明瞭になっているのではないかという観点から、両者の共通点と相違点を明らかにしたうえで、施設ケアマネジメントに必要な視点や、介護支援専門員の役割から具体的な業務内容を導き出す論理展開を行ってみた。

筆が進むとよく言うが、今回の場合、どうも「筆がすべる」状態で、前へ前へ先走りする傾向になり、予定原稿枚数より、かなり枚数が多くなってしまった。こんなことはめったになく、僕の場合、頭の中で何枚くらいと考えた枚数でほぼ論旨展開を組むのが得意で、大きく枚数が少なくなったり、多くなったりすることはないのに、今回は異例であった。

その原因は、この年末に慌しく仕上げてしまおうとする「あせり」も一因だろうが、それより、施設のケアマネジメントはこの介護保険制度が始まる以前から、僕自身が施設のソーシャルワーカーとして施設内で展開してきた援助技術の一つであり、介護保険制度が始まる以前から「個別処遇計画」という名称のケアプランを使っていた専門職として、介護保険制度において施設の介護支援専門員の配置義務が課せられた際に、そこに居宅介護支援事業所のケアプラン作成に関わる作業的な視点をそのまま施設に当てはめて考えるような関係者、特にわけのわかっていない当時の施設長連中に大きく違和感を持っていたという思いがあることが原因だろう。

しかし、得てしてこういうときの原稿は出来が良くない。

筆がすべる状態は、論旨も上滑りなのだ。だから一度書いた原稿をすべて捨てて、書き直すという作業を行って、肉厚だった部分の贅肉のそぎ落としを行った。それでも少し枚数は多くなったが、1年間の連載の最終稿であるし、内容もそこそこになったので、ある程度完成に近いと考え一旦筆をおいた。

ここ2〜3日、この原稿から離れて、少し冷却期間を置いて数日後に推敲に入る。そこではまた、そぎ落としや文章の手直しが出てくる。完璧と思った文章でも時間を置くと自分自身、あらが見えてくるのはいつもの事である。

やがて完成原稿を送りゲラができ、それを校正して冊子に掲載されるが、掲載文を読んだ際にも「ここを手直しすべきだった」とか「この表現は回りくどくてわかりづらい」という部分が見えてくる。

そこは執筆者から読者の視点になるからだろうか。どうも執筆中、校正中にはそういう視点になりにくいのが僕の欠点であるように思えてきた。今回は注意してみよう。

とにもかくにも予定していた作業も終え、今日昼からは実家に帰省する。今のところ外も吹雪いておらず、良い天気だ。施設から緊急連絡がなければ予定通り出発できるが、この時間では不確定か?

とにかく今年1年、僕のサイト(このブログも含む)をご愛顧くださり、ありがとうございました。表の掲示板もリニューアルしたのに関わらず、相変わらず沢山の皆さんに利用していただいており、ほぼ1日4.000件平均のアクセスがあります。

明日は元日ですが、その感謝をこめて、ネットで繋がった様々な「縁」について、このブログでご挨拶と共に紹介したいと思います。

介護・福祉情報掲示板(表板)

仕事納め〜利用者忘年会が終わるまで。

今年は暦の都合でいつもより1日早い29日の今日が仕事納めである。

この年末年始は日直にも当たっていないので3日まで休みである。しかし僕には明日、明後日を頑張って年内で仕上げてしまいたいもう一つの仕事がある。それは原稿書きの仕事である。

この4月から隔月で連載している冊子の次(最終稿になる)の〆切が1/10であり、早めに仕上ておきたかったのだが、この年末のあわただしさと、夜出かける機会の多さ(もちろん飲み会である)のため、プライベートの時間でもほとんど作業ができず、手付かずの状態のままであった。

今週に入ってやっと夜に作業を少しずつ進めていたが、完成に至らない。正月を〆切の心配をせずに過ごすには、今日の夜からスパートをかけて大晦日までに仕上げてしまいたいと思っている。

さて、今日の業務のことであるが、毎年我々の仕事納めの日の業務終了時間は夜8時近くである。というのもその日の夜に毎年「年取りの宴」と称して、利用者の皆さんの忘年会を行うからだ。大晦日には自宅に帰省する方もおられるので、全員で集まることはできないので、事務関係が休暇に入る前の日に恒例で行い、この日ばかりは、各ユニットに分かれずに、皆が一同に介して夕食を楽しむ機会にしている。

ケアワーカーだけでなく、事務職員もすべて日勤者は残業で対応し、夕食の場所に全員が集い、お酒をついだり、食事介助を手伝ったりして、1年間の感謝を表す。

ちなみに、今年のメニューである。

・松茸ご飯(炊き込みご飯)
・清まし汁
・空也蒸し
・鰤の照り付け焼き
・豚の角煮
・ズワイガニの天ぷら
・エビの大葉巻き揚げ
・帆立貝の黄身焼き
・煮物
・黒豆
・手作りザンギ
・蒸しうに入り卵焼き
・みぞれ酢和え
・フルーツ(苺・メロン)
・花びらゆりね
・柚子の蜜煮  以上

好みに応じた飲み物も出される。お酒やビール、ジュース各種である。もちろん職員はその間、お腹をすかせていても飲み物も食べ物もあたらないのであるが・・・。

とにもかくにも今年一年、このブログの読者の皆さんにもお世話になりました。

明日、明後日のブログはどうするか?休むかもしれないし、書くかもわかりません。新年も4日からは間違いなくいつもどおり書きますが、元旦から3日までは気分と、酒の抜け具合で判断します。時間がある方は、覗いてみてください!!

ともかく皆さんどうか良いお年を迎えてください。

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ノロウイルスの話題再度〜ふと芽生える僕自身のおかしな感覚。

この冬、今までも何度かノロウイルスの話題を取り上げてきた。

また今後、何度もこの話題を取り上げることになるのかもしれないが、僕がブログでこの話題を取り上げる意味は、ノロウイルスの感染を広げないという視点の大事さはもちろんあるにしても、ノロウイルスの感染拡大を防ぐことを理由にして、利用者の人権や人格が無視されたり、おざなりにされたりする傾向がないのか、という警鐘の意味が大きい。

ところが・・・である。常にそのことに注意をしているはずの僕自身の気持ちの片隅にも、時々おかしな感情が芽生えてしまうことがあって「これではいけない」 と反省する場面がつい最近もあった。

僕の住む地域でも医療機関や介護保険施設等でノロウイルスの集団感染が広がっており連日のように報道されている。幸いのところ僕の施設では感染者はまだ出ていない。しかし完全に防ぐ手段は「ない」といってよく、いつ感染者が出るかわからないという心配が常にある。

できることを100%行なって予防に努めるだけである。家族へも2次感染予防のため体調の悪い方の面会の自粛と、面会時の手洗いの励行を家族通信はじめ、あらゆる手段でアナウンスしている。

ところで、ある朝、前日夜から嘔吐がみられる人の報告があって、朝も苦しそうに吐いていた。まずご本人の体調が大事だから、すぐ嘱託医師に連絡して診察をしていただくと同時に、この嘔吐がノロウイルスによる場合は、感染拡大を防がねばならないと考え、日頃から決められている感染拡大対応を行って嘔吐物や衣類の処理と環境の消毒をした。僕が言わなくても職員は適切に処理手順を踏んでくれており、ここまでは特に問題ない。

しかし嘔吐がかなり激しいので、精査も必要で医療機関受診ということになり結果的に入院した。そしてその後、嘔吐の原因が別の疾患からであることが判明した。

そのとき、僕は心の中で単純に「ノロウイルスではなくて良かった」と思ってしまった。

しかし実際には、利用者本人にとってはノロウイルスではなくとも、それ以上に深刻な病状である。そのことに最初に思いが及ばなかった自分自身の「感覚」はどこかで麻痺していると思った。

こうした感覚を自分自身の中に放置してしまえば、様々な場面で人を人として見ない感覚が広がってしまうんではないかと恐れている。反省しなければならない。

この冬のノロウイルスの流行は、食品から直接感染する一次感染より、人から人に広がる2次感染が多いといわれ、この管内でも数百人にのぼる感染者のうち、食品から直接感染した事例として確認されたのは、わずか2例である。その他はルート不明が多いが、2次感染と考えられている。だから施設の食事サービスをいくら注意しても、職員の家庭での感染があれば無意味であるということになり、先日のブログ「ノロウイルス対策への疑問〜今年だけではないという視点。」で書いたとおり、僕の施設では衛生面に充分注意しながら、年末や年始にふさわしい、食材は出そうと思っているし、他の施設でそれに制限を加えようとしていることに対しては、その施設の判断でものを言う立場にないが、少なくとも食材の制限を行なう施設は、利用者にだけでなく、職員も家庭での注意義務として同じように施設で出さない食材を口にしないという覚悟をしなければ嘘であると思う。

施設利用者だけに口にするものを制限する施設長や栄養士を僕は決して見識ある専門家とは認められない。

昨日の全体会議で示した注意事項を下記に記す。

(ノロウイルスの対応について)
管内の医療機関、老人福祉施設、老人保健施設で多数の感染者が出ていますが、現在のところ室蘭保健所管内で、食品による一次感染と確定された方は2名のみです。その他の方は医療機関や施設の職員・外来者からの2次感染と考えられています。
当施設ではまだ感染者は出ていませんが、取り組みとして次のように対応してください。

1.職員は自らの健康管理に最大限の注意を行なう。家庭での食事にも注意する。その上で、業務につく際、最中、退勤時など、手洗いとうがいを励行する。

2.施設内の手すりや、ドアノブなどは次亜塩素酸ナトリウムで消毒を徹底する。

3.外来者は面会前、正面玄関を入ったら即、食堂(ホール)の洗面所に誘導して手洗い(流水20秒以上を徹底)を必ず行なうようお願いしてください。特に、年末・年始の日直職員は事務所から外来者に必ず声をかけて手を洗うようにお願いしてください。手洗いの場所がわからない人も多いので、誘導をお願いします。その他の職員も外来者への手洗いをうながしてください。
洗面所のハンドソープやペーパータオルを切らさないように注意して下さい。

4.利用者にも手洗いを励行してもらいましょう。特に排泄後は要介護者の手も十分に洗浄してください。

5.嘔吐者や下痢がある方は基本的にノロウイルスを疑って対応しましょう。嘔吐物や便に直接触れず、即、密閉状態にするように注意し、その後、次亜塩素酸ナトリウムで完全に消毒しましょう。衣類などは塩素系消毒液を用いて消毒しましょう。

6.症状のでた方(嘔吐、下痢等)は、速やかに看護師に報告し対応検査します。この際は感染している可能性があることを前提に他の利用者と導線を分けてウイルスが広がらないようにします。原則、食堂等への移動禁止で食事も部屋で介助します。できるだけ個室対応しましょう。多床室の方は、現場判断で空き部屋の個室に移動して構いません。これらのことは利用者に懇切丁寧に説明して十分理解していただき協力をお願いし実行します。

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ぷわり、ぷわりPUWARI・PUWARI

「2年北海道に住んでみて、雪のすごさはよくわかった。でも降っている雪は美しいし、雪の夜もきれいだ。雪があるからその後の春の緑はいっそう新鮮だし、秋の寂しさも格別というわけだろう。」
「お前はまだ本当に北国に住むやり切れなさをわかってはいない。お前はまだ雪については傍観者なのだ。言ってみりゃ観光客と同じ旅人さ。」
「俺も富山だから雪のやり切れなさはわかるよ。」
「でも札幌と富山の雪は違うように、この土地への感じ方も違うはずだ。お前は富山の雪に対しては生活者だろうが、札幌の雪に対しては、いつか去っていける旅人さ。」
「でもやがて俺もここに根付くかもしれない。」
「それでもやっぱり俺とは違う。お前の子供が生まれて20年ここで育ったら、その子の感覚がはじめて俺と同じになるだけだ。」

上のセリフは、渡辺淳一がその自伝的小説「白夜」の中で、主人公の伸夫と友人に語らせているセリフである。

僕の記憶におぼろげにある幼児期・少年期の冬でさえ、今より厳しい寒さであった。
マイナス20度はざらで、マイナス25度になると全山放送で学校が1時間遅く始まった。家も今より機密性がないし、暖房も石油ストーブなどなく、タイマーがかけられない石炭ストーブの時代だったから朝は辛かった。冷蔵庫は親父のビールを凍らせない為にあった頃で、冷凍したい物は、台所にただ置いておけばよかった。1階が雪に埋まってしまうことも珍しくなかった。

しかし渡辺の青年期、この小説の舞台になっている時期は、僕がまだ生まれていない頃である。さらに厳しい冬だったのだと容易に想像がつく。

しかし、渡辺が、主人公に語らせている冬の厳しさに対する言葉は「やりきれなさ」という言葉で表現しているが、その裏に、北海道の冬は特別なんだぞ、というなにかしら自慢めいた意味が含まれているように思う。

そんな厳しい冬に俺たちは耐えて、北海道で様々な文化を作ってきたんだ、という自負の意味合いである。

そんなことをふと考えながら何気なく過ぎてゆく毎日の中でお年寄りと接している。

そしてその中にいろいろな表情の人がいる。この厳しい土地で物を作り育て、この地域や土地にしがみついて自然と共生する段階で戦ってきた、そしてここを離れなかった、そうした自負を、その皴に刻み込んだ、多くの高齢者の方々と向かい合って暮らしている。

毎日、昔の寒さや冬の厳しさを僕に話してきかけて飽きることのないお年寄りがいる。対照的に、何も苦労を語ろうとせず、柔和な瞳の中に「青春」をすべて包み込んで表に出すことのない高齢者もいる。人生は様々だ。

僕らの尊敬すべき先輩で「御大」と読んでいるT氏(本人は巨鯉の生まれ変わりであると言っている)に、かつて僕は「雪が降るときは、どんな音がするかわかる?」と聞かれたことがある。

雪の音?「さらさら」「しんしん」「ふわふわ」 こんなところかと思った。

しかしT氏の言うには「雪は、ぷわり、ぷわり、と降るんだ。」

聞けば、彼がかつて新卒で就職した道東の養護老人ホームに暮らすお年寄りから教えられた言葉だと言う。

なんとすばらしい表現だろうと、心に常に留めている言葉なんだろう。僕もそう思う。

この厳しい冬の大地に降る雪を、その人はいつも「ぷわり、ぷわり」と優しく降り積もる雪として眺めながら人生を過ごしてきたんだろう。

降り積もる雪を寒々しい心で眺めないで、ぷわりぷわりとした心で眺めながら、この年を越して行きたいものだ。

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それぞれの年の瀬。〜縁を結ぶ支援

介護保険制度改正論議の中で、施設サービスは「本人が望んで入所する例は少ない」として槍玉に挙がることがある。

それはその通りであり、誰も住みなれた家や地域を離れて「施設」で暮らしたいと思っている人はいないであろう。しかし、その議論の延長線上に「よって高齢者の生活場所は居宅が良くて、施設は駄目だ」「介護保険の理念は居宅サービスだ」ということになると少し違うと思ってしまう。

確かに住み慣れた家で最後まで生活できることは素晴らしいことだ。それは否定しない。しかし今、我々や高齢者が迎えている「時代」はかつてなかった超高齢社会で、様々な人々が暮らす社会である。後期高齢者の数も大幅に増えている。全ての人が健康で自立して生活できるならともかく、健康上の理由や様々な事情で人の手を借りる必要や機会が年毎に増えてくる。

また医療の発達は、一つには、延命効果をもたらしたが、同時に医療器具が日常生活に不可欠な人々も増やしている。これらの方々がかつての価値観だけで、居宅だけがその人らしい生活が実現できる場所という認識ではいられないのではないだろうか。施設とか居宅とか言う以前に、多様化する施設を生活場所の一つと考えて、多様なニーズに最適に応える生活場所を高齢者が選択できる時代と捉えたほうが良いのではないだろうか。

もちろん、その前提は、介護保険施設をはじめとする様々なサービス提供主体が、利用者のニーズに合致した高品質な支援を提供できるということである。

だからこの時代に問われなければならないのは「本人が望んで施設に入所しているのか」ということのほかに「施設入所後にそこでの生活継続を望んでいるのか、やはり家が良いのか」ということである。

あんなに施設入所を拒んだのに、入ってみたら大満足、というケースは多いはずだ。そこが施設サービスの評価には重要なのではないか。

在宅継続をしたいという高齢者の意思は良く理解できても、実際に必要な支援ができず、劣悪な環境で生活している高齢者も多い。それらの方が施設入所するだけで、劇的な環境改善となり、満足感や幸福感も得られる例をも数多く見てきている。

社会の価値観も多様化しないと、高齢期に本当に適切な「住まう場所」を探せないのではないだろうか。

少なくとも僕は、僕の施設で暮らす方が、ここで適切な支援を受けて満足できる生活が実現できることを望んで、そのために頭を使い体を動かし、人を育てている。完全形ではないが、すこしでも利用者の満足度が日々向上していただくケアを目指している。

年末になると、正月帰省という形で、家族の住む家に戻る方々がいる。今年も100人の利用者の中で9人の方が家に帰られる予定である。

その中には毎年、この時期だけ自宅に戻り家族と正月を迎えるのを楽しみにしている方もおられるが、自宅に戻らない人が、すべて「戻れない」人ではない。

毎年思うことであるが、入所の年に正月に帰省する人は多いのだが、入所から2年目、3年目になると、それらの人々が「今年は帰らない」と言うようになる傾向がある。北海道特有の理由ではあるが、家より施設のほうが暖かいから、という方が多いのだが、それだけ施設での生活に満足感を得られている、施設の正月も悪くない、という評価ではないかと思いたい。

そういう人たちが本当に心から満足でき、年末やお正月の生活を楽しむことのできるライフスタイルを緑風園という器の中で実現したい。園は縁をあらわしたもので、この縁が続く限り、利用者はすべて家族であるのだから。

介護・福祉情報掲示板(表板)

ノロウイルス対策への疑問〜今年だけではないという視点。

昨日のイブにクリスマスパーティーを行なった家庭も多いだろうが、僕の施設では今日、パーティーや演芸会などのクリスマスの催しが行なわれる。昼にはオードブルを囲んでの食事が行なわれた。

日本人にとってクリスマスはもう宗教上のイベントではなく、暦の上で季節を感じる風物・慣習としての意味のほうが強い。難しい意味より、年末は餅つきを行なって正月に備えるとともに、クリスマスにご馳走を食べ、大掃除をして、大晦日にむけて年の瀬の雰囲気を味わって、来るべき新年を迎える気持ちを盛り上げる、という一連の慣習として考えたほうが良いと思う。

そうした一連の催しには毎年食べてきた馴染みの料理が主役になる。北海道のこの地方でも、年代によって様々だろうが、やはりクリスマスには鶏肉料理やケーキは共通して欠かせない料理だし、年末の年越しそばや、正月のおせち料理や雑煮といった料理もその時期に食べることが、何とはなしに安心感や季節感を肌で感じることができるという意味でも大事なことである。

年末や正月には、お寿司やお刺身も欠かせない料理の一つと思う。年末や正月3が日に寿司や刺身をまったく口にしない日本人は何割くらいだろうか?

ところが今年の年末から来年の正月にかけて、高齢者の施設では食卓に寿司や刺身がまったくのらない所が多くなるのではないかと危惧している。ノロウイルスに対しての対策上の問題である。

実は昨週、この地域の保健所主催のノロウイルス対応緊急研修会が行われ、僕の施設でも栄養士と主任ケアワーカーを派遣した。研修内容は復命を受けたが、予防対策についての確認と言う意味で、今、対策している内容が間違っていないことは確認できた。

しかしその中で、僕の施設の栄養士がある施設の管理栄養士と話をした際に、施設の食事提供について、ノロウイルス対策として寿司や刺身など生ものを食卓に出さないよう、過熱処理した食材を提供するように忠告されたと言う報告を受け、年末年始の献立について栄養士に相談された。

食事から中毒発生やウイルス感染を出さないように衛生管理を充分に行い、食材によって加熱処理を十分に行なうことは必要だし、理解できる。しかし、この時期に、おせち料理をはじめ、寿司や刺身まで食卓から排除することが本当に必要な対策なのだろうか。

業者にも充分注意をお願いし、食材に注意して、厨房の衛生環境を整え、必要な手洗いやうがいと言った日頃の対策をとっておれば充分に食材からの感染を防げるのではないか。もちろん「100%防げますか?」と問われれば、それは「できない」と言わざるを得ないが、それは食事に限らず、全ての生活に感染リスクはあるわけで、完全などあり得ないことは他の面でも同じだろう。

特にこの冬のノロウイルスの流行は食材からの感染ではなく、人や物を介しての2次感染が主である。しかももっと考えなければならない視点は、この流行のピークは毎年1月〜2月にかけてであり、それも毎冬流行する傾向にある。

つまり、食事サービスに過剰対応する対策は、この冬に限らない、毎年の対策となるという意味である。そうなると今後、ノロウイルス対策として、施設では年末や正月には一切、生ものは出せないと言うことになる。こうした高齢者施設に入った入居者は、冬に寿司や刺身をはじめとした生ものを一切口にできないし、年末や正月にかけて加熱していない食材も口にできないということになる。

しかしそうした対応を推進する栄養士は、自らの家庭で年末・年始におせち料理や寿司や刺身を一切、口にしないのだろうか。このウイルス感染は食材から直接感染する場合もあるが、厨房感染者からの2次感染も多いわけであり、利用者だけ対策をとっても、調理に携わる職員が未対策では意味があまりないと思う。

自分たちは「大丈夫だろう」ということで好きな食材を、制限なく口にして、施設で生活する高齢者から食の楽しみを奪うことを「当然」と考える栄養士など必要なのだろうか。そのまえに、どうすればお寿司や、刺身や、おせち料理を安心して食べられるか、という視点こそが栄養士に求められる視点ではないのか?

表の掲示板でこのことについて僕は「ノロウイルスは今年だけの問題ではないですよ。そういう施設では、今後一生刺身や寿司や生野菜は冬に出せないと言うことです。日本人の慣習である伝統的な「おせち料理」も出さないと言うことでしょう。そうであればそれらの管理に当たる施設の管理職員や栄養士は、この職業についている間は、絶対に刺身や寿司やおせち料理を食べてはいけません。利用者にだけ我慢させ、自分たちが我慢できないことを強いるのは虐待と紙一重です。」という強い言葉を書いてしまったが、できる限り、正月の雰囲気を味わえるように刺身も出しましょう、という僕の姿勢は甘いのだろうか?

介護・福祉情報掲示板(表板)

指導監査は1月に。

実地指導監査が行なわれている際に「今、指導担当者が施設を回っています」「今〜の書類を調査中です」「さっき〜を指摘されました」とかインターネットで「実況中継」と題してリアルタイムで情報を流しているのは、BOBさんとこと、うちの施設くらいだろう。

ところで指導監査という言葉を使うと、監査は実地指導の結果、問題がある施設に入るもので言い方が間違っている、と指摘する輩がいるが、とんでもない間違いだ。介護保険事業なら実地指導が正しいだろうが、当施設のように介護保険事業の他、社会福祉法上の法人監査や、老人福祉法の監査も同時に行われる場合は、介護保険制度上の表現とは違うのだ。そもそも名称は都道府県で違うし、変わる場合もある。北海道では今は検査と言うらしい。

つまり正式な名称などどうでもよいということを言いたい。定期的に行なわれる指導監査が1月に行なわれるということについて今日は書いてみるという意味だ。

特養の指導監査は上記のように介護保険法と老人福祉法の両面から行なわれる。また社会福祉法人運営の監査も同時に行なわれるのが常である。加えて、昨年までなら、併設事業所の短期入所と通所介護と居宅介護支援事業の3つの居宅サービスも同時に行なわれることが常であった。

しかし今年度はそうではない。その理由は、この4月から当市保険者が居宅サービスに限って道から権限委譲を受けているので、当市に限って言えば地域密着型サービスでなくとも居宅サービスはすべて市が実地指導を行うことになっているのだ。施設サービスは道の管轄に変わりないため、両者は別々に行なわれることになる。

さてその実地指導監査、どうも監査に入る、というアナウンスがあると必要以上に「構える」施設や事業所が多い。なぜだろうか?僕はそれはおかしな現象だと思っている。

指導担当者は鬼でもなければ、あら捜しにやってくるわけではない。その目的は指定基準水準を適切に確保するのが目的で、基準省令や解釈通知に沿った適切な運営がなされているかをチェックするものである。

その過程で、当然のことながら法令順守していない場合や、不正請求を行なっておれば厳しい指導がなされるが、通常の運営をしている施設や事業所が、ことさら実地指導監査を恐れる必要はないはずである。むしろ日頃気付かずに間違って運営していた方向性を修正してもらったり、疑問に感じている点を、直接議論したりできる貴重な機会である。

考え方をめぐって激論になることもあるが、直接向かい合って議論することで分かり合えることも多いのである。過去においては施設側の主張が通る場面もしばしばあり、重要な機会だ。

書類の一部が未整備であった場合、それだけで指定取り消しになるわけでもなく、どこのどの部分が整備不良だったのかを確認して、修正すればよい。結果、サービスの質に繋がれば申し分ない(そうではない無意味に近い書類が大量に求められる場合も少なくないが)

介護保険以前から長年指導を受けているが、報酬返還とか罰則に繋がる重大な運営上の瑕疵は指摘されたことがないし、文書指導はほとんどなく過去に唯一の文書指導は、措置費時代に繰越金を残しすぎた年があり、民改費をカットされたことだけである。しかし何も指摘事項がないという年もないから、やはり定期チェックは必要な機能だ。

口頭指導された例では、最近では介護保険制度施行後、平成14年の実地指導が制度改正に関るルールの理解上の問題等で一番多く指摘されたが、内容は軽微なものである。(それでも4点か)例えば施設内研修未実施が挙げられる。OJTは行なわれていたし、外部研修への派遣は行なわれていたものの、制度改正後のあわただしさの中で、施設内で行なう定期職員研修がおざなりになって、行なっていなかった、という事実はあった。大いに反省して、現在では非常に充実した内容で行なっていると自負している。

近直の実地指導は平成16年9月30日であるが、この際の口頭指導では

1.役員名簿を一覧表にして作成すること
2.会計書類の月次試算表に予算執行状況が記入漏れ
3.旅費の概算支給に対して清算行為が行われておらず経理規程に基づく清算確認を行うこと
4.給食材料の納品時に発注者と納品検収を行なう者が同一人物であることの改善

以前4点であった。このことは改善されているが、今年度は何を指摘されるか、新ルールに関する誤解はないか等は気にかかりはするが、さほど心配はない。

それにしてもサイトトップページに今回の指導監査で使われる新指導調書を掲載しているが、新制度基準になっていないのはどういうことだい。制度改正が急で間に合わないという意味だろうが、運営側はきちんとそれにあわせてサービスを行っているんだ。指導調書くらい新制度に対応したものを作って実地指導にあたって欲しいものだ。

実況中継はどうするかって?それは当日の気分しだいでしょう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護報酬はどうなるか。

来年の話をすると鬼が笑うと言うが、我々の業界の最近の動向は一瞬先が闇であり、来年どころか報酬改定や制度改正の時期に新たな基準やルールが示され、それを咀嚼し終えた瞬間から、次期改正を視野に入れて戦略を考えることが求められている。

今回の報酬改訂についてその影響はマイナス4%と言われているが、施設サービスを例に挙げれば実際には10月改正での食費、居住費の自己負担化は、施設収入にも影響しており、それだけでもマイナス4.7%が先行して実施されているのだから深刻である。これを重度化対応加算などの新加算ルールで補うことができるとしていた業界団体の考え方は大甘で、実際には加算ルールにマッチしない為、加算算定できない施設が数多くある。

しかもそれが「施設の努力が足りない」ことに起因した問題なら致し方ないが、重度化対応加算などに必要とされる正看護師の確保が困難だ。特に、医療制度改革で医療機関が診療報酬の厚くなる患者対看護師の配置7:1を促進している現状で看護師を大量雇用している。道内主要都市の某大学病院では来春の新卒看護師のみの雇用状況でも例年より5倍の人数を確保している。

そういう状況で地域によっては看護師募集しても応募がなく採用がままならない特養も多い。経過措置が切れる来年4月からは、重度化対応加算を算定できない施設もでてくるから、報酬減は今だけの問題ではない。

加算を算定するには有資格者が必要だが、有資格者を確保する為に、この業界もマネーゲームに参加せざるを得ない状況だとして、この介護報酬で、どこまで耐えられるのか、という問題が出てくる。

小室豊允氏などは、介護施設の人件費率について「1流ホテルの倒産ラインは40%なのに、介護保険施設は人件費が高コスト体質だ」と批判するが、そもそも人員配置基準が決められ、有資格者の配置も必要で、要介護度の高い高齢者に生活支援を24時間行う業務と、アメニティの高い滞在空間を提供することが主目的で、接遇を整えれば高品質なサービスに結びつく業種との比較検討はミスマッチであると思う。

人件費率を人事考課の導入と絡めて考えていくことは重要であるが、介護サービスの適正値は違う部分で算出すべきだろう。

介護保険導入時点の報酬は老施協会長でさえ「介護バブル」と評したことがあるが、それから6年、報酬は下がり続けているのであり、その幅も大きい。しかも報酬を下げる根拠である施設の収益率の数字を見ても、規準となる会計自体がバラバラのもので、統一されていない。この数字にどれだけ信頼性があるのか?特養ひとつとっても会計基準と指導指針で分かれている。会計基準を指導指針に変えるだけで大幅な収益減という結果になるのは、実態を現していない証拠ではないか。

特に今後の少子高齢社会の労働力不足は深刻であり、労働力をどう確保するか、と言う部分での適報酬議論が求められる。これについて厚生労働省内部でも社会・援護局は「次期改正では介護報酬引上げの方向で」と声を挙げているが、老健局は「改正の主軸は報酬減で推移するものと考えている」と正反対の意見を述べている。

現社会・援護局局長は事務次官に近しい豪腕を謳われた人物であるが、つい最近まで老施協とは対立軸であった局長の部署が応援側についているのだろうか。シチィウエーションとしては面白い、裏を見たい、という状況か?

どちらにしても力が圧倒的にある財務省の意向は言わずと知れて老健局と同じだろうから前途は明るくない。

人件費の高コスト化を防ぐ人事考課といっても、その実態を見ると、年収350万程度の正規職員が10年後もほとんど年収が変わらないモデルを基本にしている。これで有能な人材が貼りつくのだろうか?しかもこのモデルを支える非正規職員の確保となると、北海道でいえば郡部でなくとも地方都市でさえ難しくなりつつある状況があり、募集に人が集まらない。

報酬が低いから人件費を圧縮した対応で基準配置せよ、といっても採用に応じることが困難な人件費率では意味がない。それゆえに、人事考課についてそれが必要ないとはいわないが、救世主であるという考えには僕は全面的には納得できないのである。

今日のこの業界をめぐる状況や「有識者」と言われる人々の主張を聞くと、その主たるイデオロギーは「市場原理主義」であり「民間サービス優位主義」であるが、その行き着くところは日本の社会福祉の荒涼たる「焼け野原」であるように思えてならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

今年度のケアマネ会と医師会の定期懇談会

僕が代表を務めている当市の介護支援専門員の地域会(のぼりべつケアマネ連絡会)と室蘭市の地域会は合同で年1回医師会との定期懇談会を行っている。そのことはこのブログでも何度か紹介している。

具体的な連携の構築模索、という取組が主であるが「パイプがある」ということが重要である。

定期懇談会の場で都度のテーマを話し合うが、それが即、現場のケアマネの動きに役立たなくても、医師の認識の中に、地域における重要は社会資源としてケアマネの存在が意識されることが大事である。

今年度は来年2月頃に懇談会を実施すべく準備を進めているが、先日、医師会から話し合うテーマの提案を頂いた。それは以下の通りである。

1.介護保険改定後の状況
2.地域包括支援センターの現状
3.居宅介護と在宅医療の現状と課題
4.施設介護の今後の見通し(療養型病床削減への対応)
5.ターミナルケアの対応(病診連携、医療―介護連携)
6.障害者自立支援法とのかかわり

内容を見てわかるとおり、医師会側はこの制度改正で地域の介護の現場状況がどのようになっているのか具体的な情報を求めているということであると思う。

このことについて当市のケアマネ会幹事会で今週末協議して、来週早々に室蘭市のケアマネ会と最終打ち合わせをして医師会担当者と最終協議し懇談会に至る流れである。

懇談会自体は90分ほどの時間であるから上記のテーマをすべて話し合うことはできないし、ケアマネ側からも、例えば居宅療養管理指導を行っている医師や担当者会議における医師とのかかわり・連携方法等を中心に討論したいという希望もあって、テーマは絞られていくと思う。

特に6については専門外と感じているケアマネも多い為、今回のテーマからは外される可能性が高い。

しかし、それ以外のテーマについては、医師会側から是非情報が欲しいといわれたときに応えられるケアマネ会であり、ケアマネ個人でないと、現場の貴重な社会資源として医師から認識を得ることは難しいと思う。

特に居宅介護支援事業所に所属する介護支援専門員の中には、施設サービスは門外漢でルールやシステムに疎いことを理由に「難しいテーマだ」と考えてしまうこともあるようだが、それは違うと言いたい。

居宅サービスと施設サービスは別物ではなく、地域福祉の両輪である。その基本システムを知ることなしに適切な居宅支援など困難になる時代がすぐそこに来ている。特に地域密着サービスとの関連や、その中の小規模多機能居宅介護などは、居宅サービス利用者の状況に応じて随時、支援システムの中に組み込んでいく状況が考えられるし、療養型医療施設の見直し論の影響は、いざというとき施設サービスに適時移行する必要性の高い重介護者が地域に増えるという意味であり、地域支援を施設・居宅として分けて考えている時代ではなくなる。

地域包括支援センター ならば、特にそうだろう。その役割は予防プランセンターではなく、地域の介護問題の最終的なセーフティネットという役割が重要なのだから、地域の施設サービスや、そこで行われるケアサービスの実態を知っていないと、本来の適切な役割など担えない。

そういう意味でも、懇談会に参加する介護支援専門員は、トータルにこの制度の中身を勉強してきて欲しいと思う。施設サービスにしても、居宅サービスにしても、疑問点は僕が助け舟を出すから、忌憚のいない意見を述べてもらいたい。

介護保険制度に関しては、あのケアマネに聞けば「間違いない」と思われることも介護支援専門員の認知度が上がって医師との横のつながりをはじめとした地域連携が容易になる要素である。

こういう機会がある地域でケアマネ業務に携わっていることは非常に幸運と僕自身は感謝している。

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