昨日、午前中に緑風園の正面玄関前で、何人かが集まって、なにやら作業をしていた。よくみれば大根を洗って干している。時期は少し遅いが沢庵作りのための大根干し作業で、利用者が2名と、ケアワーカーの主任が作業している。
先週末、大根の寄付をいただいたということで、どうしたらよいかと考えたところ、沢庵作りをしたいという希望者がいるので、天気を見て作業を開始したとのことである。
お二人は時折帰宅欲求のある認知症の方であるが、生き生きと作業をしている。身体の障害はない方であるが、干し方も堂に入っている。おそらく認知症という病気を発症する以前は毎年、冬を迎える前には、こうして沢庵をはじめとした漬物作りを行っていた方であろう。その作業をいつからしなくなったのか、本人も覚えていないが、一旦始めると、昔とった杵柄である、様々な思いを語りながら作業を行っている。
当然、全てが完璧にできるわけではないが、ちょっと手伝うことで思い出してくれることが多い。これこそ生活習慣に即してできることを実現するという「生活支援型ケア」の方法論である。
100人の入居者の中の、たった二人しか参加しないのか、という考え方もあろうが、すべての行為を100人という集団で考える必要はないし、このお二人ができる行為として沢庵作りを行ってもらうということが実現できる日々、そういうアイディアが生まれる環境があることに目を向けたほうがポジティブである。
この大根干し作業が終われば、今度は実際の漬物作りには、また何人かの参加があるかもしれないし、それがなくとも実際に漬物ができて、食べるとき「これは○○さんと、○○さんが一緒に作った沢庵だよ」という話で盛り上がるだろう、そこから「私のうちでは漬物は、これこれ作っていたよ」というふうに話が広がれば、これはもう回想法の手法である。
と、わけのわからない理由をつけなくとも、過去の生活習慣が生かせて役割を持てる生活は否定されるものではない。認知症の方々がそこで示してくれる知識の中には若い我々(彼女達に比べてという意味でしかない)にはない知識もある。認知症だから何もかもが分からなくなるわけではないし、残されている能力が引き出されるときに、それらの方々の表情は生き生きと輝くのである。
だから女性の方が長く生活の中で担っていた家事という行為を長くしない時期があったとして、そのことを再びできるということは、そこから取り戻すことができるものがあるということなんだろう。もちろん強いられた行為は何にもならないが、再び過去の生活習慣上の行為をしたくなる、できる、という生活環境があるという意味は、その方がそこで役割をもって生活できるということであり、その背景には、その方が人として尊重され、常に何が必要かを見守る視点があってこそ始めて整う環境なんだろう。
それが大事だと思う。何が行われているかという前に、どのように考えられて、そういう行為に結びついているのかで、色々なものが変わってくる。
そういう意味で家事に参加するという形だけで物事を考えるとおかしなことも出てくる。家事=生活支援ではない。特に男性は仕事を失うと無趣味でやることがない人が多い、という点で、ここでは家事を強制しても「そんなことできるか男子厨房に入らずだ」という意味での拒否行動をとる人も多い。
だがこれは問題行動ではない。当たり前の主張である。家事や我々の想像範囲にある狭い趣味活動だけで、物事を考えると動機付けに繋がらないということが多々あり、それは我々の想像力と創造力の欠如に他ならない、ということである。
沢庵作りに喜びを見出せる人がいれば、誰かが作った沢庵を「あーでもない、こーでもない。」といいながら食べるだけの役割があったてよいということである。
手先を使う職人が惚けにくい、といわれるが、それは職人が手先を使う商売であるからではなく、定年がなく、役割を高齢期まで持つことができる職種であるという理由であろう。
また教師が惚けやすいといわれるが、それは定年を迎えると同時に、それまでの最大の役割であった「人にものを教える」という機会が急激に失われていくことに原因があるのかもしれない。
まとまらない話で終始しているが、役割を持つということがそれだけ大事であるという意味である。
さて今一番の心配は、干してある大根が、野生の鹿の被害にあわないかという点である。すぐ隣の牧場にねぐらを持っている鹿の群れが夜な夜な周辺をうろつくのである。
鹿だからシカタナイではすまないのである。
ちなみに緑風園から車で7分ぐらいのところにあるクッタラ湖で売られている「クッタラバーガー」とは鹿肉のハンバーグであるが、この辺の野生の鹿の肉を使っているものではないことを書き添えておく。
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先週末、大根の寄付をいただいたということで、どうしたらよいかと考えたところ、沢庵作りをしたいという希望者がいるので、天気を見て作業を開始したとのことである。
お二人は時折帰宅欲求のある認知症の方であるが、生き生きと作業をしている。身体の障害はない方であるが、干し方も堂に入っている。おそらく認知症という病気を発症する以前は毎年、冬を迎える前には、こうして沢庵をはじめとした漬物作りを行っていた方であろう。その作業をいつからしなくなったのか、本人も覚えていないが、一旦始めると、昔とった杵柄である、様々な思いを語りながら作業を行っている。
当然、全てが完璧にできるわけではないが、ちょっと手伝うことで思い出してくれることが多い。これこそ生活習慣に即してできることを実現するという「生活支援型ケア」の方法論である。
100人の入居者の中の、たった二人しか参加しないのか、という考え方もあろうが、すべての行為を100人という集団で考える必要はないし、このお二人ができる行為として沢庵作りを行ってもらうということが実現できる日々、そういうアイディアが生まれる環境があることに目を向けたほうがポジティブである。
この大根干し作業が終われば、今度は実際の漬物作りには、また何人かの参加があるかもしれないし、それがなくとも実際に漬物ができて、食べるとき「これは○○さんと、○○さんが一緒に作った沢庵だよ」という話で盛り上がるだろう、そこから「私のうちでは漬物は、これこれ作っていたよ」というふうに話が広がれば、これはもう回想法の手法である。
と、わけのわからない理由をつけなくとも、過去の生活習慣が生かせて役割を持てる生活は否定されるものではない。認知症の方々がそこで示してくれる知識の中には若い我々(彼女達に比べてという意味でしかない)にはない知識もある。認知症だから何もかもが分からなくなるわけではないし、残されている能力が引き出されるときに、それらの方々の表情は生き生きと輝くのである。
だから女性の方が長く生活の中で担っていた家事という行為を長くしない時期があったとして、そのことを再びできるということは、そこから取り戻すことができるものがあるということなんだろう。もちろん強いられた行為は何にもならないが、再び過去の生活習慣上の行為をしたくなる、できる、という生活環境があるという意味は、その方がそこで役割をもって生活できるということであり、その背景には、その方が人として尊重され、常に何が必要かを見守る視点があってこそ始めて整う環境なんだろう。
それが大事だと思う。何が行われているかという前に、どのように考えられて、そういう行為に結びついているのかで、色々なものが変わってくる。
そういう意味で家事に参加するという形だけで物事を考えるとおかしなことも出てくる。家事=生活支援ではない。特に男性は仕事を失うと無趣味でやることがない人が多い、という点で、ここでは家事を強制しても「そんなことできるか男子厨房に入らずだ」という意味での拒否行動をとる人も多い。
だがこれは問題行動ではない。当たり前の主張である。家事や我々の想像範囲にある狭い趣味活動だけで、物事を考えると動機付けに繋がらないということが多々あり、それは我々の想像力と創造力の欠如に他ならない、ということである。
沢庵作りに喜びを見出せる人がいれば、誰かが作った沢庵を「あーでもない、こーでもない。」といいながら食べるだけの役割があったてよいということである。
手先を使う職人が惚けにくい、といわれるが、それは職人が手先を使う商売であるからではなく、定年がなく、役割を高齢期まで持つことができる職種であるという理由であろう。
また教師が惚けやすいといわれるが、それは定年を迎えると同時に、それまでの最大の役割であった「人にものを教える」という機会が急激に失われていくことに原因があるのかもしれない。
まとまらない話で終始しているが、役割を持つということがそれだけ大事であるという意味である。
さて今一番の心配は、干してある大根が、野生の鹿の被害にあわないかという点である。すぐ隣の牧場にねぐらを持っている鹿の群れが夜な夜な周辺をうろつくのである。
鹿だからシカタナイではすまないのである。
ちなみに緑風園から車で7分ぐらいのところにあるクッタラ湖で売られている「クッタラバーガー」とは鹿肉のハンバーグであるが、この辺の野生の鹿の肉を使っているものではないことを書き添えておく。
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感動の完結編。
